2016年09月26日

love2.0〜アップデートする愛〜慈悲ガイド@

愛とはつながりである

愛を定義しなおす

 従来、耳にされる「愛」とは、恋人を望むように欲望が中心である。そして、愛は、責務や誓約ともみなされがちである(p13)。実際、数多くの映画や歌は、愛をハッピーエンドな物語、陶酔、性欲、責任と見なしている(p15)。けれども、愛は性欲でもなければ、責任でもない(p14)。こうした先入観を捨てて、愛の定義を「2.0」へと「アップ・グレード」する必要がある(p13)

愛の対象はかなり幅広く、同時に愛の時間は短い

 愛は独占的で排他的なつながりだとの概念が持たれている(p15)。けれども、現実の愛は配偶者や親しい仲間や親族のような者たちだけに限定されるものではなく、普通にイメージされるよりもはるかに幅広い(p15,p28)

 また、愛は無条件に永続的なものだとも考えられているが、その時間尺度は普通に考えられているよりもはるかに短い(p15)。例えば、感情は永続するようにはできていない。どれほどよい感情を持ったとしても、せいぜい数分続くのが関の山で、何カ月も何年も続くことはない。そして、愛も感情である。したがって、天候のように絶えず変化する(p27)。愛はある前提条件に従い、かつ、その時々の状況に敏感なのである(p15)

 愛を生物学的に捉える

生物学的なつながりが愛に発展したわけ

 恐怖、怒り、嫌悪といったネガティブ感情は進化によって発展してきた。けれども、同時に生殖を成功させるためには、絆を作ることが必要である(p41)。そこで、他の生物とつながったときに、良い感情が生じるという生化学反応も生まれた(p42)。このようにして、長年の進化による自然淘汰によって「つながりの感情」が作られて来た(p32)

オキシトシンは絆を深める

 社会的な絆において、オキシトシンが重要な役割を果たしていることは、プレーリー・ハタネズミの実験から明らかになった(p64)。異性の前で一匹のハタネズミの脳にオキシトシンを注入すると、長期的に一緒にいたいという気分が生じて、互いに寄り添うのである(p65)

 人間においては、合成型のオキシトシンを鼻用スプレーとして研究用に用いることがヨーロッパで認められたことから、2005年にチューリッヒで128人を被験者に「信託ゲーム」の実験がなされた。あるグループをランダムに「投資者」と「受託者」にわけ、投資をさせると、オキシトシンを投与することで両者の信頼関係が高まることが見出されたのである(p66)

オキシトシンは扁桃体による恐怖を抑える

31Ledou.jpg ニューヨーク大学の神経科学センターのジョゼフ・ルドゥー(Joseph E. LeDoux, 1949年〜)教授が、『情動の脳科学』で明らかにしているように、生物は自然淘汰によって、脅威に対して反応するようにできている。そして、この脅威検出システムは無意識に働く(p31)。けれども、オキシトシンによって、扁桃体による恐怖感情が抑えられ(p67)、ストレス・ホルモン、コルチゾルも減ることがわかっている(p68)。その理由は、ネズミから明らかになっている。母親からグルーミングをされたり舐められたりすると、その子ネズミの扁桃体におけるオキシトシン・レセプターが増え、オキシトシンに対する感受性が増す。すなわち、愛情を受けて育った子ネズミは、物おじすることなく好奇心が旺盛でよりおとなしい物腰のネズミへと育つ(p71)

オキシトシンは敵か味方かを見抜く勘を鋭くする

  すなわち、オキシトシンは「闘争・逃走反応」の反対の作用をもたらし、哺乳類における「つながり反応」の主役とされている。けれども、オキシトシンは、つながるスキルを鋭くするわけではないし、ただ盲目的に見知らぬ人を避けようとする恐怖心を鎮めるわけでもない28Paul Ekman.jpg

 カリフォルニア大学サンフランシスコ校、人間相互関係研究所のポール・エクマン(Paul Ekman,1934年〜)所長によれば、人間は通常50種類もの異なるタイプの微笑みを用いているという。研究者たちは「スローモーションビデオ」の力を借りて、この微妙な微笑みの違いを突き止めているが、すべての人は微笑みの真の意味を勘で判断しているという(p33)。また、アイ・コンタクトによって本当に相手が誠実かどうかを判断しているという。愛は決して盲目ではないのである(p34)

 そして、オキシトシンによって、人は相手の目により注意を払うようになり、アイ・コンタクトやとりわけ、微妙な微笑みに対する注意力を高め、相手の感情をよく判断できるようになることがわかっている(p67)。すなわち、オキシトシンは、誰が信頼すべきで誰が信頼すべきではないかの「勘」を高める(p68)

 あらゆる人々は、生き延びるために、社会的なつながりを必要としている。オキシトシンは、他人の示す善意の暗示を察知して、その人に対しては自分も善意をもってアプローチをするように導くのである(p69)

迷走神経が活発な人はオキシトシンが多くポジティブである

 心拍数は恐怖を感じたり侮辱されると高まる(p71)。いわゆる「闘争・逃走」反応である。そして、高まった心拍数は静めるのは、迷走神経の働きである(p72)。すなわち、迷走神経が最も重要なのは、脳と心臓をつないでいることにある(p71)

 人間の心拍は、息を吸うときに少しスピードアップし、息を吐く時にはスローダウンする。そして、迷走神経の活力が高まると、健全な「心不整脈」のパターンが生じる(p73)

 迷走神経はアイ・コンタクトを良くしたり、表情を他の人とシンクロさせたり、中耳の小さな筋肉を調整することで、バックグラウンドのノイズから彼女の声を良く聞こえるようにもする(p72)。すなわち、迷走神経の活力が高いと、精神的には注意力が鋭敏となり、変化し続ける環境にも無意識レベルでよく適応できる(p73)

 感情・行動の調節能力が高まり(p73)、周囲の人と同調ができ(p76)、社会的には他者とポジティブなつながりが作れるようになっていく(p74,p76)

 迷走神経の活力が高い人ほど、ポジティブな共鳴を多く体験する。したがって、迷走神経は、愛の潜在力と言える(p74)。さらに、ポジティブな共鳴はオキシトシンのレベルも上げる(p77)。そして、ポジティブな感情と迷走神経の活性化は互いに高め合う(p235)。愛が愛を呼ぶのである(p76)

ポジティブに共鳴するとき脳はシンクロしている

Uri-Hasson.jpg ポジティヴィティな共鳴を感じ、本当に他者とつながると、その時に、脳は他人の脳とシンクロを始めている(p56)。従来の脳の研究は一人の脳だけを研究してきたが、2010年、プリンストン大学のウリ・ハッソン(Uri Hasson)准教授は、物語をヘッドホンで聞かせ脳がどれだけ同調するのかをfMRIを用いて調べてみた(p58)。そして、コミュニケーションが成功するときには、ほとんどの脳領域で聞き手の脳が語り手の脳を1〜3秒後にシンクロしていることがわかった(p60)。さらに、大脳皮質のいくつかの領域は数秒前に相手の脳活動を予期していた。ハッソン准教授によれば、脳のリンクロが互いを理解する手段なのである。そして、良いコミュニケーションの状態では、二人はひとつの共有する「感情」を感じている(p61)。そして、ポジティブな共鳴は、脳領域を構造的に変化させ、脳の可塑性も関係してくる(p77)

 すなわち、愛は、他者とポジティブな感情を共有し、他者と生化学・行動で同時性が起こり、互いの幸せのために投資をしようという動機が起きたときに生じる(p28)。この三つを「ポジティヴィティ共鳴」と呼ぼう(p29)。それは、生化学的に同期する変化と、互いの配慮のための言語的・非言語的表現によって増幅されていく(p30)

 そして、このポジティブな共鳴は生化学的変化を起こす(p227)。このため、身体的には炎症が抑えられる(p73)。フレドリクソン教授は、ソーシャル遺伝子センターのスティーブ・コール所長との共同研究で、炎症、遺伝子発現のパターン、迷走神経とが関係していることを見出す(p109, p235)。すなわち、細胞内の特定の遺伝子の発現が強化されたり弱まったりする(p235)。

 真の脅威はそれほど多くはない。けれども、不安、憂鬱、孤独、そして、自尊心の低さに悩む人は、はるかに多くの脅威を知覚する(p31)。このため、孤独で他人と切り離されたように感じていると、ストレス・ホルモン、コルチゾールが増え、炎症反応がより長期的となり(p78)、免疫系の白血球に影響を及ぼすため(p109)、免疫系が弱まり、慢性病にかかりやすくなる(p78)。これは、逆に言えば、ポジティブな人は風邪を引きにくく、心臓病、脳卒中、糖尿病、アルツハイマー、癌にかかりにくいことを意味している(p109)

 愛が身体を生化学的に変化させたり、DNAが細胞内で発現する形態すらも変えることが新たな科学によってわかってきたのである(p12)

ポジティブだと知覚の扉が開いて発想が豊かになる

 イギリスの詩人、ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757〜1827年)は、1790年の『天と地の結婚』で「もしも、知覚の扉が清められていれば、すべてのものは人間にあるがままに見える」と書いた。

 オルダス・ハクスリー(Aldous Huxley, 1894〜1963年)は、1954年の著作『知覚の扉』で、サイケデリック・ドラッグを用いた最初の体験を記している。ハクスリーは、ブレイクの隠喩になぞられ、人間の脳を減圧弁に例え(p83)、一時的にそれを広く開くことができるとの仮説を提唱していた(p84)

 このハクスリーの仮説は、現在、機能的磁気共鳴影像法(fMRI)を用いた研究によって事実であることが確認されている(p84)

 人間の脳には顔に反応する脳領域(FFA)と場所に反応する脳領域(PPA)とがあるが、ネガテイブ感情によって「知覚の扉」が閉じられていると、顔を認識する脳領域だけしか活性化しない。すなわち、ネガティブ感情は人の知覚を狭め(p85)、認識力も狭める(p105)。 

 一方、可愛い子犬やおいしそうなデザート等、ポジティブ感情を引き起こすイメージを見ておくと、場所に反応する脳領域(PPA)の血流も増加する。すなわち、ポジティブ感情は人の知覚を広げる(p85)。フレドリクソン教授によれば、ポジティブ感情によって、いつも「自分」に焦点をあわせている知覚は拡張していく(p62)。これは、気分が良いときには、ホリスティックな見方が可能となり、「点を結んで全体像」を創りあげたり、一見矛盾した見方を統合して「大きな絵を見る」ことができるようになることを意味している(p105)

 それだけではない。ポジティブ感情によって「知覚の扉」が開けば、他者とつながる準備ができる(p86)。さらに、他の人とつながりポジティブな共鳴が産みだされると、互いを統一された全体の一部とみなすようになる。これは、慈悲によって心は同心円状に広がり、多くの範囲の他者にまで含むようになるのである(p87)

愛とはつながりの感覚、大洋の感覚

 バーバラ・フレドリクソン教授は、2010年に、ボストン大学のダニエルセン研究所に招かれ、感情の科学が霊性の発達や宗教的な安寧とどのように関連するのかの講義を行った(p222)

 宗教学者、心理学者、哲学者は、いずれも、自分の境界が消滅して、自分がはるかに大きなものの一部であると感じる「つながりの瞬間」のことを指摘してきた。ジークムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856〜1939年)は、この感覚を母親と一体化していた頃の幼児退行だと一蹴したが(p222)、ウィリアム・ジェイムズ(William James, 1842〜1910年)は、霊的体験の基盤として、これを支持し、1902年の著作『宗教体験の諸相』において「感情は宗教の深い源泉であり、哲学的及び神学的的定式は二次的な産物にすぎない」とまで述べている(p223)。実はこの「大洋の感覚」は、愛の特徴の一部である(p222)。愛とは他の生物との、真にポジティヴィティのある一瞬の暖かさ、つながりである(p12,p19)。愛とは、自分が何か大きなものの一部であると感じさせる「超越性」である(p27)

【画像】
ジョセフ・ルドゥー教授の画像はこのサイトより

ポール・エクマン所長の画像はこのサイトより
ウリ・ハッソン准教授の画像はこのサイトより

【引用文献】
バーバラ・フレドリクソン『LOVE2.0』(2014)青土社
posted by la semilla de la fortuna at 23:03| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月01日

姉妹サイトのお知らせ

おしらせ

 拙ブログ、「フローライフ」、ご訪問ありがとうございます。さて、本サイトは、脳神経科学や心理学、スピ系の情報を知るために、自習用に作成した趣味のサイトですが、次第に情報量が増えすぎて自分でもだんだん何を書いたのかわからなくなってきています(笑)。

 ブログは日付という時系列で管理するのには便利ですが、カテゴリー別に整理するには、通常のウェブサイトの方が格段に優れています。

 「そういえば、前にも似たようなことを書いたよな」とか「前にも聞いたような人物についてどこかで聞いたか読んだりしたよな」と思っても、時系列だといつのことだかわからなくなります。幸い、Seasaaブログにはサイト内検索という機能が付いているため、キーワードを入れれば、類似した情報を見つけ出すことはたやすいのですが、類似情報はやはりコンテンツ毎にウェブという形でまとめておいた方が見やすいし、日付毎でなければ、一度作ったページの更新もたやすいと言えます。

 とはいえ、あらたにまた別のウェブサイトをわざわざ立ち上げるのも大変です。以前は「ホームページビルダー」でウェブサイトも作っていたこともあったのですが、あいにくMac用のソフトはありません。そして、Mac用の簡易ウェブサイト作成ソフト「iweb」は開発が中止されてしまっています。もちろん、jimdoのように簡単にウェブサイトが作れるページもあるのですが、意外に使いづらいし、Mac用のサイト作成ソフトをわざわざ購入して使い方を新たにマスターするのもしんどい。


 そう躊躇していたところ、このブログを作っているseasaaブログそのものをホームページ風に改良する方法があることを知ったのです。これは便利。ということで、スローライフで書き貯めて来たコンテンツをベースに疑似ウェブサイト風ブログ「ケアエコノミー慈悲の経済」というサイトを立ち上げてみました。

 こちらは、日付では整理していません。そして、本を読んで情報が更新されれば以前に書いた記事をどんどんアップデートしてゆくことにします。そして、大きくは「幸せ(慈悲的生き方)の心理学」「幸せ(慈悲的生き方)のベースにある脳神経科学」「脳神経科学(近代科学)では説明がつかない少し危ない世界」「幸せ(慈悲的生き方)をベースとした経済社会」という四つのカテゴリーで整理していくつもりです。

 それでは、なぜこうしたサイトをそもそも作る気になったのかというと、このままでは、いまの社会そのものが、エコロジー的にも経済的にももはや立ち行かず破局することがわかっているからです。そして、それを救う唯一の望みがあるとすればそれは「慈悲」だからです。ということで、慈悲をベースとした新たな経済社会がどのようなものかを探りたいということで、「慈悲」をコアに情報を提供していきたいと思っています。

 実は、環境だけでなく、食と医療と教育は以前から私が追求してきたテーマでもあります。そして、食、医療、教育はすべて慈悲と重なってきます。その意味で、「生命とは何か」「資本主義経済とは何か」という以前から持っていた関心を追求する「没落屋」のテーマとも重なります。慈悲をキーワードに、これまで私が学んで来た食・医療・教育を再整理しておくことが、残り少なくなって来たこの人生の最後のミッションなのかなとも思ってもいます。

 「慈悲」についてはおわかりいただけたでしょうか。では、なぜ「科学としての慈悲」なのでしょうか。これにも訳があります。このサイトのネタ本ともなる本を読む中で、ほとほと認識したのが、いわゆるスピ系の「危なさ」です。

 結論から言えば、私は科学や脳神経科学ですべてが説明できるとは思ってはいません。けれども、通常の人はまず「宗教」という形容詞が付いただけで、まず否定的に捉えます。そして、「科学」という形容詞が付いただけで、肯定的に受け入れてくれます。

 そこで、宗教色を抜いた「心理学」と「脳神経科学」をベースに徹底的に慈悲を追求し、その基礎知識を共有したうえで、にもかかわらず「脳神経科学(近代心理学)では説明がつかない少し危ない世界」を語る必要があると思うのです。このテーマについては、引き続き、フローライフで重視していきたいと思います。

posted by la semilla de la fortuna at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月10日

トランスパーソナル心理学入門D〜日常を生きる

スピリチュアル・レボリューションとトランスパーソナル心理学

 20160710David N. Elkins.jpgいま米国では何百万もの若者たちが伝統的な宗教から離れつつある。たとえ、教会に通わなくても自ら魂を養えることに人々が目覚めつつあるためである。『宗教を超えて』の著者、ディヴィッド・エルキンス(David N. Elkins)博士によれば、宗教とスピリチュアリティの乖離は現代の主な社会現象である。そして、エルキンス博士はこのスピリチュアル・レボリューションは、大きく三つの波で進められたと分析する(2p82)

20160710Thomas Moore.jpg 第一は、1960年代のヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントである。第二は、1980年代のチャネリング、前世療法等の流行である(2p83)。そして、第三の波は、1990年代のジェイムズ・ヒルマン(James Hillman, 1926〜2011年)博士の『魂のコード』やトーマス・ムーア(Thomas Moore, 1940年〜)博士の『魂のケア』の流行である(2p84)

 けれども、ニューエイジ運動には、チャネリング等怪しげなものが含まれている(2p84)。そこで、ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は、ニューエイジはナルシスティックな自己中心主義に陥っていると批判する(2p85)。こうした中、最も良質で信頼できるアカデミックな部分を支えてきたのがトランスパーソナル心理学と言える(2p84)

 ただし、トランスパーソナル心理学は最初から確固たる学問領域を確立するというよりも、従来の心理学を超えた様々な「超常体験」への人々の探究心があり、それに答えて産まれたという面がある(2p70)

 例えば、トランスパーソナル心理学の誕生には、カリフォルニアのエサレン研究所を中心に展開されたヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントの影響も大きい(2p69)。また、既成のキリスト教に反発した多くの米国の若者たちは東洋宗教にオルタナティブを求め、禅、ヨーガ、チベット仏教、テーラワーダ仏教、イスラム神秘主義がファッションのように流行していた。同時にメキシコのヤキ族のシャーマン、ドン・ファンの教えを紹介したカルロス・カスタネダの著作が圧倒的な人気を得て、先住民のシャーマニズムへの関心も高まっていた(2p71)

魂を心理学位置づけ自己進化のビジョンを描く

 「何のために私はこの世に生まれて来たのか」

 こうした問いかけは、心理学ではなく、哲学や宗教の問いかけであるとされてきた。けれども、この人生の究極の問いかけに正面から初めて向き合ったのがトランスパーソナル心理学である(2p11)。従来の心理学とトランスパーソナル心理学の最大の違いは、心理学の枠内に明確にスピリチュアリティ(魂)と呼べる次元を中心に据えたことにある(2p78)。そして、いま、WHOも健康にスピリチュアルを含めている(2p81)

水平にも垂直にもつながる壮大なビジョン

 トランスパーソナル心理学はつながりを重視する。ただし、「トランス」には垂直次元を超越するという意味と、水平次元での横切るという二つの意味がある。トランスパーソナル心理学の「個を超えて」は、とかく、自己の深層無意識を突き抜けて真実の自己につながるという垂直次元に超えていくイメージがあるが、これは誤解である。大自然とのつながりなど水平次元のつながりも関わる(2p46〜47)


 2016020701.jpgケン・ウィルバーは自己進化の途上で運み出された心・魂・スピリッツを含む真の意味での全宇宙を大文字のKで始まる「コスモス(Kosmos)」と呼ぶ(2p87)。そして、この世に生れてきた意味、生死の意味は、この真の全宇宙であるコスモスの働きの一部であることを自覚し、コスモスの中で自分がどういう役割を果たすべきなのか、その「天命」を知り尽くしていく中で実現されると考える(2p87)。このウィルバーの思想は奇抜なものではなく、フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela Garcia, 1946〜2001年)博士のオートポイエーシス理論やヴァレラ博士の理論を社会学に当てはめ、個人の心と社会は「共進化」するというビーレフェルト大学のニコラス・ルーマン(Niklas Luhmann,1927〜1998年)教授の主張や複雑系の科学等、現代科学の新たな方向性とも一致する(2p88〜89)

心身一如を取り戻すことは、いまをフローで生きることにつながる

 エゴが時間の中に住み、利益を求めて未来へと首を伸ばし、過去の損失を嘆いているのに対して、ケンタウロスは常にいまのフローの中に住んでいる。未来に要求することも、過去にしがみつくこともなく、永遠のいまの贈り物に充足感を見出している(1p203)

エゴが消滅するとき、死の恐怖は消滅する

 真理を探究していくプロセスでは、どこまでも登っていくことから「上昇の道」と言われる。また、他の一切を否定し、ひたすら真理を求めていくことから、『臨済録』では「仏に会ったらその仏を殺せ」と説かれ『否定道』とも言われる(2p121)。そして、この自己探求における決定的な体験は、同時に死生観をもひっくり返す(2p112)

13Ken Wilber.jpg
 ウィルバーによれば、普通の人は、ペルソナ、エゴ、ケンタウロスのレベルで存在している。このため、個としての自己が永遠に生き続けることを心から願う。けれども、残念ながらその身体は不死ではなく、死ぬ運命にある(1p230)

 「私が生きている」「私が命を持っている」と考えるならば、「私」とは、結局のところは、いつかは死んでしまう存在でしかない(2p112)

 けれども、「いのちの働き」がまずあって、そのいのちが「私という形をとっている」と考えれば、「私という形」は肉体の死とともに消え去るにしても、私を私たらしめているものは、まさに不生不滅であり、いつまでもあることになる(2p113)

 事実、ウィルバーによれば、分離した自己は幻想である。したがって、分離した自己の死も幻想なのである。となると、分離した自己がなくなれば、死の恐怖もなくなることになる(1p136)。この肉体に包まれた私は、いつか死んで消えゆくとしても、いのちの輝きそのものは永遠に存在し続ける。本当の自分は死なず、ただ本来の姿、空に還っていくだけである(2p112)。最も、輪廻転生していくのはエゴではなく、シャンカラ(Shankara,700年頃〜750年頃)が言うように、唯一転生するのは超越した自己なのだが、トランスパーソナルな「体験」には不死という直感が伴う(1p230)。つまり、観念的にではなく「体験」としてそれに目覚めれば、この世に生まれてきた意味、私たちの死生観をひっくり返すことになる(2p112)

 20160710井筒.jpg宗教哲学者、慶応大学の井筒俊彦(1914〜1993年)名誉教授は、瞑想修行に伴い、表層意識が深層意識へと深まり、そのよく極限の地点を「意識のゼロ・ポイント」と呼んだ。その段階では自我意識が消滅し、言語による存在の分節化からの解放された「無分節態」であると解いた(2p93,2p114)。諸富祥彦教授は、井筒名誉教授の『意識の本質』は、ウィルバー顔負けで日本生まれのトランスパーソナル心理学たりうる、と評価する(2p93)

命は四つの存在で輪廻転生する

 プラユキ・ナラテボー氏によれば、タイの葬式には、日本のような深刻さがない。それは、「死」を今生における終着地点ではあるとはいえ、同時に来世に向けての新たな出発地点だと考えるからである(7p172)

 仏教思想では、誕生から死、輪廻転生までのプロセスを同じひとつの「いのち」がとる四つの存在のあり方として捉える。母体から誕生するのが「生有」、この世の人生が「本有」、その後の死が「死有」で、肉体から離れたいのちが次に別の肉体の形をとって生れ変わるまでが「中有(バルド)」である。この考え方を京都大学大学院の西平直(1957年〜)教授は「円環的ライフサイクル」と呼ぶ(1p104)

再び日常生活に戻る

 ブッダの教説をまとめた初期仏教の論蔵(アビダルマ)では、未訓練の凡夫の心を「遍在するする心の作用」として「思、作意、触、受、想」の五要素からなる「遍行」と呼ぶ。そして、ある程度のトレーニングを経て、この要素が変化した心の作用は「求、勝解、念、定、慧」の五要素からなる「別境」と呼ぶ(7p221)。自己中心的な心は、学びを得ようとする敬虔で純粋な想い「求」へと育てることができ、外の世界や心の世界と触れ合う「触」もあるがままの気づき「念」へと変化する(7p225)。すると、快や不快という感情に無自覚に反応することなく、懐深くあるがままに受け入れられるようになる(7p226)

20160706ブッダ.jpg 土台部に戒律があり、そのうえに禅定、さらにそのうえに智慧がある。つまり、戒律を守って行動を整え(7p232)、あるがままに現象を子細に観察して智慧を得る。この智慧を得ることによって、解脱が起こり、苦しみが滅し尽くされていく(7p233)。その結果、「ピティ(喜)」や「スッカ(楽)」が生じてくる(7p230)

 とはいえ、世界の一切が空であるという真理を頭でわかるだけでなく、身を持って体感したとしても、日常世界に戻らなければならない(2p121)。けれども、これはトランスパーソナルからパーソナルへの退行を意味してはいない。これは、ヒルマンやミンデルが重視する段階である(2p122)。そして、ウィルバーも、上昇だけでなく、下降のプロセスもかなり詳しく論じている(1p102)

 禅の悟りへの道を示した「十牛図」がある。ここでも、第八図の「人牛倶忘」で人も牛も消え去った完全なる「空」があり、絶対無を体験した後、第九図では、川の流れとその岸辺に花咲く木が描かれ、平凡な街への往還のプロセスが示されている(2p114)

悟りで育んだ心を慈悲として外に拡充していく

 プラユキ・ナラテボー氏は、こうして育てられた心は、さらに外側に拡充していくべきだと主張する。例えば、「慈悲」は、衆生慈しみ、幸せを与えようとする心、「メッター(慈)」と衆生の悩みや苦しみを取り除きたいという心、「カルナー(非)」からなるが(7p227)、こうした慈悲心の本当の出所は「智慧」にある。ナランボー氏は、サマタ瞑想の一種である「慈悲の瞑想」よりも「智慧」の方が、効果があり、逆に慈悲心が自ずから湧いてこない「智慧」は本物ではないと考える(7p228)

 一時期、流行した自己啓発セミナーは、心理学に基づく強力な方法を用いて参加者を一時的に興奮・感動した状態に導く。そのため、その場では大きく自分が変化したように感じる。けれども、現実には変化していない。セミナーでの感動体験が大きかっただけに現実生活でのギャップに苦しむ(7p184)。そこで再び実感を求めてセミナーへということでビジネスが成り立つことになる(7p185)。セミナーで条件付けられた場でしか自己実現が図れなければ、セミナーや道場でしか自分らしく生きられないという本末転倒的な状況になっていく(7p210)

 けれども、井筒俊彦名誉教授によれば、この段階の日常意識はかっての日常意識と同じではなく、分節と無分節とが同時に成立する(2p114)。いったん究極の真理を体験すれば、日々の何気ない出来事ひとつひとつにも魂を砕き、心を込めて生きられるようになる(1p122)。このため、この段階は「肯定道」と呼ばれる(2p121)。地に足がついたごく普通の日常生活をしながらも、自分を超えた「向こう」からの呼び声を聴きながら生きることができるようになるのである(2p122)

ディヴィッド・エルキンス博士の画像はこのサイトから
ムーア博士の画像はこのサイトから
ヴァレラ博士の画像はこのサイトから
ウィルバーの画像はこのサイトから
井筒名誉教授の画像はこのサイトから
ブッダの画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ
posted by la semilla de la fortuna at 07:00| Comment(0) | 魂の人生論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月09日

トランスパーソナル心理学入門C〜いま、ここを生きると死の恐怖は消える

死を意識して生きる

魂が喜ぶ時間をどれだけ持てるかが大切

 人生で何が取り返しがつかないものかを考えてみよう。マネーはたとえ失ったとしてもまた働けば増やせる。仕事で失敗して評価を落としたとしても、また努力すればそれは回復できる。けれども、人生で取り返しがつかないものがある。それは、時間である。マネーは人生の時間を豊かなものにするための手段にすぎない(5p178)

 本当の幸せを考えれば、限られた時間をどれだけ「魂が喜ぶ時間」にできるかが最も大切なことになる(5p178)。いま、どれだけマネーを儲けたかよりも、どれだけ多くの人たちを幸せにできたかに人生の価値があるというまっとうな価値観を持つ若者が増えているのは喜ばしい(5p188)

死ぬときに何を残したいのかを考えながら生きる

 末期癌のホリスティック医療に取り組む帯津良一(1936年〜)博士は、やすらかに死んでいく人と後悔しながら死んでいく人との違いについてこう述べている。

「自分の人生でやりべきこと、やりたいと思うことをやりきったと思える人は、とてもいい顔をしてやすらかに死を迎える」

20160709ross.jpg そして、エリザベス・キューブラー=ロス(Elisabeth Kübler-Ross, 1926〜2004年)博士も人が死の際に語る言葉は「ああっあれをしておけばよかった」という呟きだという(4p97〜98,8p143)

 こうしたことを踏まえ、諸富祥彦教授は「やりたいと思ったことをすぐ始めるひとは慎重さにかけると思われがちだ。けれども、いつかしたいという想いを先のばししているうちに、本当にしたいことをほとんどやらずじまいで終わってしまうことの方がよっぽど愚かな生き方であるとはいえないだろうか」(6p129)。「そのうちにやってみたいことがあれば前倒しでどんどんするしかない。また、伝えたい思いがあれば、いますぐ伝えるしかない。そして、一人の時間をつくり、自分が本当にしたいことはなにか。これをせずには死ねないと思うことは何かを考えることだ」とアドバイスする(4p202〜204)

 メキシコには骸骨の仮面を被って踊る「死者の日」という祭りがある(4p96)。この祭りに込められているのは「メメント・モリ(死を忘れるな)」(4p96, 7p170)「カルペ・ディエム(その日をつかめ、いまを楽しめ)」という意味である(4p96)

 上座仏教では、死の瞑想(モラナサティ)がある。代表的なものは、「九墓地観」で、死んだばかりの遺体が、変色、腐敗し、蛆が湧いて、骨や土になっていくまでの様子を9段階にわけて順々に観想していくものである。タイには、多数のエイズ患者を受け入れている「エイズ寺」があるが、そこでは、エイズで亡くなった人のホルマリン漬けの遺体が展示されている(7p173)

 死を自覚することには、人間精神を本質に立ち返らせる大きな力がある(7p171)。マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger,1889〜1976年)は「気づくために死を自覚せよ」と述べており、アップルのスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs, 1955〜2011年)も死を日々意識していた(7p170)。米国の宗教哲学者、ハーバード大学のパウル・ティリッヒ(Paul Johannes Tillich, 1886〜1965年)教授は、こう語っていた。

「明日、死す者のようにして生きよ」(4p98)

今一瞬を心を込めて生きる

 幸せになれる選択対象を手にできる人がごく少数に限られ、極度に予測不可能性が高いこのような時代に実現可能な希望に躍らせてはならない。こうした時代に長期的な人生展望を持つことは無益なばかりか危険ですらある。このような時代の中で、死の間際に「私は幸せだった」と心の底から思える人生を生きるには、本当の意味でクレバーでなければならない(4p38)

 そもそも、「真面目に頑張っていれば、人生はいつかいいことがあるはずだ」という思い込みは、人生はいつ想定外のことが突然起こるかわからないというリアルな事実を直視していないから成り立つ。

「こうなればよかった」と過去に思い描いた願望に逃避しても、「いつか、きっとこうなる」と未来に思い描く空想に逃げるのも止めるしかない。となれば、できることは、ただこの瞬間を心を込めて生きるしかない(4p196)

 キューブラー=ロス博士が死にゆく人を見つめてきたその経験から学んだ最大のことは「いま、この瞬間」に心を込めて本当に生きることだった。例えば、愛する人と一緒にいても、心を込めてその一瞬一瞬をすごしていなければ、本当に一緒にいたことにはならない。

 すなわち、無力な私たち人間にできることは、「今日一日が人生最後の日になるかもしれない」とそんな思いを胸に刻んで一瞬一瞬心を込めて生きることしかない(4p95,8p142)。とりあえず、あと1年、さしあたりあと1年と一年単位で生きのびていくしかない(4p40)

エゴが誕生し環境との切り離されると死の恐怖が湧いてくる

瞬間の「いま」が存在するだけで未来も過去も存在しない

13Ken Wilber.jpg 「永遠」という言葉は一般的には何億、何百億年と果てしなく続いていく非情に長い時間だとされている(1p109)。けれども、ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は、一遍(1239〜1289年)が「あらゆる瞬間は最後の瞬間であり、あらゆる瞬間は再生である」と語っているとして(p136)、永遠とは果てることのない時間ではなく、時間がないという自覚が永遠であると述べる(1p111)。確かに、仏教によれば「無常」とは瞬間瞬間の生滅で、ある意味では誕生と死である(7p172)

 現在の瞬間には始まりはない。同じ理由で、現在の瞬間に終わりもない。すなわち、現在の瞬間には、過去もなければ未来もない。時がないのである。そして、時がないものは永遠であろう。ウィルバーによれば、現在こそが唯一のリアリティであって、果てしなく続く時間という概念の方がある種の奇形なのである(1p111)

環境と自己が切り離されることで死の恐怖が生れる

 それでは、なぜ、「時間」という奇妙な概念は作り出されたのであろうか。ウィルバーによれば、強烈な時間感覚は、環境と身体とが切り離されたことによって生じた死の恐怖が創り出したものである(1p136)

 動物にも死はある。けれども、年老いたネコは来るべき死の恐怖にさいなまれているわけではない。静かに木の根元にうずくまり死んでいく。瀕死の駒鳥も柳の木にやすらかにとまり日没を見つめ、もはや光がみえなくなったとき目を閉じて静かに地面に落ちる。人間の死に際となんと違うことか(1p36)

articles_009_image1.jpg ウィルバーによれば、エゴが作り上げるあらゆる境界で、最も基本となるのは、自己と非自己との境界である。すなわち、自己と非自己との境界は最初に引かれた原初の境界で、エゴが最も明け渡したがらず、最後まで消え去さらないのは、この境界である(1p83〜84)

 そして、この原初の境界が発生すると、人は自分の身体と環境にアイデンティティをもたなくなり、自分が知覚する世界と一体ではなくなる。皮膚を境にして身体は自己であっても、環境は非自己となり、環境と対立した自分の身体だけにアイデンティティを持つようになる。すなわち、自分が孤立した有機体として生きているとイメージするようになり、身体と環境との対立が作り出される(1p132)

 そして、この原初の境界の発生によって、「統一意識」は孤立した自己の「個人の意識」となる。そして、「真の自己」が特定の身体の中にだけに閉じ込められているとイメージすると、その有機体の死の不安が頭から離れなくなる。死に直面するのは部分だけであって全体ではないのだが、自己が環境から切り離される瞬間に死の恐怖が意識の中に生じてくるのである(1p132〜135)
死の恐怖によってまず未来という時間が作り出された

 それでは、過去と未来とではどちらが先に生じたのであろうか。ウィルバーによれば、それは、未来である(1p137)。死とは「未来」がなくなる状況である(7p175)。死を受け入れるということとは、未来を持たなくなることを受け入れることに他ならない。逆に言えば、死を拒絶することとは、未来を持たずに生きることを拒絶することに他ならない。こうして、時間が最も貴重な持ち物となり、かつ、未来が唯一の目標となるのである(1p137)。けれども、未来とは思考が作り出すイメージにすぎない(7p175)
いま、ここを生きられれば死の恐怖は消える

 過去も現実には存在していないし、過去とは「記憶」にすぎない。けれども、前方に未来を求めれば、それとセットで後方には過去が登場することになる(1p139)。要するに、未来も過去も現在に境界の線を引かれた幻想の産物にすぎない(1p116)。すなわち、未来への心配も、過去への後悔も、思考の物語によって、「いまここ」で構築されつつある概念にすぎない(7p142)。そこで、ただ「いま、ここを生きる」ことに安住できれば(7p175)、死は問題ではなくなり、過去や未来の考えにとらわれることも少なくなり、良寛(1758〜1831年)の「死ぬときは死ぬがよろしき候」という境地になれる(7p176)

エゴが消滅し環境との統合されると慈悲のエネルギーが湧いてくる

空を体験する

「心身一如」の意識が達成されると、意識はさらにトランスパーソナルな領域へと入ってゆく。そして、究極の統一意識、宇宙との一体感の回復を目指すものがヴェーダンタや大乗仏教、道教、秘教的な回教、秘教的なユダヤ教、そして、秘教的なキリスト教ということになる(3p109〜110)
 ウィルバーは、トランスパーソナルなレベルの内部で、以下の三つのサブレベルを設定している。

 @マインド(心霊の段階)
 Aソウル(魂の段階、微細な段階)
 Bスピリット(コーサルの段階) (2p107)
20160707shunryu suzuki.jpg ウィルバーは『初心善心』で知られる鈴木俊隆(1905〜1971年)老師の下でかなり熱心に座禅を学んだ(2p91)。このこともあって、神秘体験や超常現象(体外離脱体験、ESP、透視、念力、テレパシー、過去生体験等)は一番下のレベルに位置づけられている(2p107)

 ウィルバーの関心はそれを突き抜けた東西の宗教の伝統で、空、無、ブラフマン、神等と呼ばれてきた絶対者との合一体験、さらに、それさえも消え去る「無境界」の状態、西田哲学でいう「絶対矛盾の自己同一」、般若心経で言う「色即是空」「空即是色」の世界にある(2p108)

エゴの構築のためのエネルギーが不必要になればそのエネルギーを慈悲にまわせる
 動物は身体的な痛みを恐れるが、人間はそれ以上に、心が傷つくことや自我の死を恐れている(7p177)。自我が苦しみのもとになるのは、認知され構築された自我イメージが執着の対象となり、その維持のために膨大なエネルギーが浪費されるからである(7p167〜168)。けれども、ヴィパッサナーでの洞察を深めていくと、「私」や「自我」と称されるものが、様々な感覚や認識作用から構成された概念にすぎないとの理解が深まる(7p140)。消耗的な心のアクションが次第に減り、過去の習慣パターンの奴隷にならずにすむようになっていく(7p134)。そして、自我への執着が緩んでくると、自我の消滅に脅えていた感情エネルギーや自我を維持するために投入されてきた行動エネルギーが浪費されなくなる。そして、生きのびるために必死でいる人間存在を慈しむ思いがわいてくる(7p140)

 ウィルバーは、神秘家たちが強調してやまない普遍的な慈悲は、トランスパーソナルな直感から生じるとして、その理由をこう説明する。
「環境と身体との境界が取り払われた超越的な自己となると、環境のなかの全対象を自分自身として扱い始める。すなわち、超個体レベルでわれわれが他を愛するのは、相手が自分を愛したり安心させてくれるからではなく、相手が自分自身だからである。自分の腕や足を世話するように周囲を思いやるようになるのは、世界とは自分の身体であり、また身体として扱わなければならないからなのである。キリストの第一の教えは、『自分自身を愛するように隣人を愛せ』ではなく『隣人を自分自身として愛せ』と言う意味なのである」(1p228)

観音菩薩はエゴから解放されたパーソナリティのシンボルである

 求めるものが得られない苦しみを仏教では「求不得苦(ぐふとっく)」という。この苦がはっきりと観ることができたとき、ある種の畏怖感とともに深い洞察智が生じる(7p219)。これを「サンヴェーガ(samvega)」と呼ぶ。そして、人間存在のかかえる根源的な切なさが得心でき、深い慈悲が生まれるとしている(7p219)

 2016010901.jpg自分の心の傷をごまかすことなくしっかりと見つめていると、他者の心の傷にも優しい気持ちになれる。そして、宮沢賢治のように世界全体が幸せにならない限りは私の幸せもありえないという心境になってくる(2p226)。こうして自我から解放され、理想のパフォーマンスを行うパーソナリティを象徴しているのが観音菩薩なのである(7p141)

ロス博士の画像はこのサイトから
ウィルバーの画像はこのサイトから
鈴木老師の画像はこのサイトから
意識のスペクトルの画像はこのサイトから
観音像の画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ
posted by la semilla de la fortuna at 11:36| Comment(0) | 魂の人生論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年07月08日

トランスパーソナル心理学入門B〜人生のミッションを知るプロセス・ワーク

基本的な欲求が満たされなくても人は自己実現を目指す

13viktor.jpg マズローの理論からすれば、「自己実現」という上位の欲求は、生理的・安全的欲求が満たされたうえでのみ満たされるはずである。けれども、オーストリアの心理学者、ビクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905〜1997年)博士が、目にしたのは、悲惨な状況の中でも耐え抜いた人がいたことだった。フランクル博士は、「基本的な欲求が満たされなくても人は崇高に生きられるのではないか」と考え、それをマズローに問いかけてみた。マズローの答えはイエスだった(4)

すべて人は未来からの可能性の呼びかけに応えるために存在している

 「私の人生は何をやってもうまくいかない。ただの一度もいい思いをしたことがない。誰にも必要とされていないこんな人生は、生きるに値しないのではないか」

 こう思い悩む人は、こうした思考法を止め、自分のことを待っている誰か、自分のことを必要としている何かに目を向けてみるといい。とかく、人は人生の意味を問いかける。けれども、フランクル博士は、「人生」の方が人間に問いを発していることから、人生の意味を問いかける必要はないと考えた。これは、人生の意味についての立ち位置を180度転換するものである(5)

 フランクル博士によれば、この世には、かならずあなたを必要としている「何か」や「誰か」が存在している。そのつながりの中で人は生きている(5)。すなわち、どの人にも絶えず実現されることを待っている「可能性」が存在している。その可能性は、絶えず、今に先行して、未来から「可能性」を呼びかけている。この未来からの可能性からの呼びかけに応えるために、私たちは存在しているとも言えるし(3)、誰しもが、この人生からの呼びかけに応える責任を持っているとも言える。フランクル博士によれば、答えなければならないのは、人生からの問いなのである(5)

 そこで、空虚感におそわれる人に対して、フランクル博士は「未来にあなたを待っているものに目を向けよ」と示唆する。あなたに見出されるものを待っている「何か」を探せと外に目を開くことを促す(5)

実存的不安はトランスパーソナルへの発展の悩み

「どんなにあなたが絶望していても人生の方であなたに絶望することはない」

 フランクル博士のメッセージは数多くの絶望する人の魂を救ってきた(5)

 プレパーソナルなレベルでは、自分を殺してしまい自分の人生が無内容であると空虚感をいだくと述べた。けれども、健全な自我が確立されていたとしても、自分はあっても、あるべき「つながり」から切り離されてしまっているがために抱く空虚感もある。これは、自己発展の途上にある人がさらに成長していくための空虚感である(2p173)。パーソナルな自己実現の段階から、トランスパーソナルな高次の段階へと進むための苦しみといえる(2p175)。フランクル博士によれば、人生の意味を疑うことは、最も人間的な表現なのである(2p176)。そこで博士はこれを「実存的空虚感」と呼んだ(2p173)

 それでは、この実存的空虚さを乗り越えるにはどうしたらよいのだろうか。諸富祥彦教授によれば、方法は二つある。ひとつは、フリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844〜1900年)のように人生の無意味さを直視することである。世界には何の目的も終わりもなく、一切はただ永遠に意味もなく「永劫回帰」しているというニヒリズムを徹底することである。すると、哲学者、京都大学の西谷啓治(1900〜1990年)名誉教授の言う、すべてを肯定する地平が逆に開けてくる(2p176)

 もうひとつは、ひたすらこの世に生れてきた意味を求めていくことである。すると、エゴの働きが次第に弱まり、消え失せ、それと同時に自分ではない何かが自分の内側にあることに気づく(2p177)。古い自分であるエゴは死に、これまで自分であると思っていた自分が、「内なるいのちの働き」によって生かされている自分のほんの一部でしかないことに気づく。エゴが死んで無我になり、真の自己に目覚める。この「死と再生」ともいうべき深い自己変容体験の中から、本当の自分とは何かという答えを「向こう」から告げられるのである(2p178)

人生の出来事には意味がある〜ヒルマン博士の「魂のコード」

20160707James Hillman.jpg『魂のコード』の著者、米国の心理学者、ジェイムズ・ヒルマン(James Hillman, 1926〜2011年)博士は、子ども時代の心の傷によって人生が決定づけられると考える「トラウマ理論」を厳しく批判する(2p185)。トラウマ理論では、人生そのものが、安っぽい心理学的な物語に矮小化されてしまうからである。その代わりに、人生には理屈では説明できない「何か」があり、その運命の守護霊(ダイモーン)によって、自分がやらなければならないある道に呼び込まれて行くのだと運命の感覚の復権を説く(2p186)。ヒルマン博士は、日々の出来事には意味があるとして、人生の使命、摂理といった古い観念を蘇えらす(2p187)。そして、フランクル博士と同じように、毎日のささいな出来事に「向こうからの呼び声」を聴くことの大切さを強調する(2p183)

 どのような仕事であれ、たまたま与えられた仕事だとみなしていては心を込めてすることはできない。逆に、どんなささいな仕事であっても、そこに眼に見えない「ご縁」を感じることができれば、ひとつひとつの仕事に慈しみを感じて、丁寧に取り組むことができる(2p189)。自分の仕事を「天職」として受け取る感覚が育まれる(2p188)

 仕事と同じように人間関係や出会いも、自分の意図を超えた運命、ご縁の力が働いていると感じれば、様々な出会いがすべてかけがえなき慈しむべきものに思えてくる。

「たまたま適性があったからこの仕事に就いたのだ」とか「たまたま適齢期で条件があったから結婚したのだ」と割り切って生きていくと、心を込めて人生を生きて行くために必要なとても大切な何かを失ってしまう(2p190)

 ヒルマン博士の『魂の心理学』は単なる運命論ではない。人生には意図を超えた運命の力が働いているが、ほとんどの人はそれに気づかず、人生を粗末に扱う習慣が身に付いてしまっている。そこで、人生に働いている運命の力を思い出して、自覚的に生きよ、と説く(2p191)

シンクロニシティが続くとフローの人生を生きられる

06mihaly.jpg 自分の意図や努力を超えて働いている力を自覚することは、ハンガリー出身の米国の心理学者、クレアモント大学院大学のミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi, 1934年〜)教授の言う「フロー」の概念とも合致する(2p191)

 テレビをつけた瞬間に自分に重要なニュースが流れてくる。バス停に着いた途端にバスが到着する。コーヒーを飲みながら気になる人を思い浮かべていたら、自分の目の前にその人がいた。こうした偶然をシンクロニシティと呼ぶ(6p89)

 不思議なことだが、「人生」からの呼びかけに無心になって生きるとき、人生全体の隠れたミッションが顕在化していく。この流れに乗って生きていくとき、ミッションの実現に必要なものはすべて自ずから与えられはじめる。起こるべくしておきた偶然は、もはや偶然ではなく、「シンクロニシティ」であると言える。そして、人生の決定的な場面では、シンクロニシティが顔を出すことが多い。シンクロニシティが頻繁に生じ始めると、自分を超えた大きな流れが人生で働き始める。チクセントミハイは、教授はこの流れを「フロー」と名付けた(3)

フローの人生を生きていると人生への疑問も解消される

 自分の意志を超えた大きなフローが生じ始め、こうしたフローの中で生きているとき、適切な場所で適切なときに、適切なことをしているという感覚を抱く。マネーであれ、仕事のチャンスであれ、人生の流れを前進させるのに必要なものがちょうどよいタイミングで与えられる不可思議な出来事が頻発していく。また、心はウキウキしているが平静であり、自分自身を超えた偉大な何かとのつながりを感じ、人生は意味と目的に満たされ、生きる意味や目的への疑問はおのずから解消される(3)

 いま自分はこの人生を生きていて、共にいるべき人と共にいて、この人生で自分が行うべきことを行っているという感覚が持てるとき、私のことを必要としている誰かがいて、私のことを必要としている何かがあって、私はその何かや誰かとつながることができているという感覚を持てるとき、どれほど貧しく、どれほど孤独で、どれほどさみしく、どれほど健康を害していても、心の深いところで生きる意味を実感しつつ生きていける。すなわち、魂のミッション、生きる意味、精神の気高さという心の一番深いところで、生きる意味と使命感が満たされた生き方を得ることが大切なのである(4)。そうすれば、どのような挫折や失敗があっても幸せといえるギリギリの幸せが得られる(3)

 何やら新手の宗教のように思える(4)。けれども、心の深いところで満たされた人生を生きている人は、「私はなすべきことをなしている」という実感を抱いて、人生を意味あるものとして感じ生きていることが多い(2p192,4)。実際、諸富祥彦教授は、カウンセリングを通じて、そうした気づきに多く立ち会ってきた(5)

二つの選択肢〜すべての出来事には意味がある

 人間は驕慢な生き物である。何事もなく平穏な日々を過ごしているとますます驕慢となり、自己中心的になっていく。つらく苦しい悩ましいできごとを経験しなければ、自分を深く見つめて人生を変えていくことはできない(5)

13Mindell.jpg そこで、思い出すことすら辛い出来事や、慢性の病、障害や死といった否定的なことも含めて、「人生のすべての出来事には意味がある」、「ある種の必然性をもって、起こるべくして起こっている」とアーノルド・ミンデル(Arnold Mindell, 1940年〜)博士は考える(2p162,5)。それとしっかりとかかわることで私たちの魂は耕され人生は豊かになっていく(2p219)。なぜならば、すべてのできごとは、気づきと学び、自己成長の機会であって、「それに対してどう答えるのか」を迫ってきているからである(5)

 ここで、二つの選択枝がある。ひとつは人生からの「問いかけ」に耳を貸さず、心を閉ざし続け、これまでと同じパターン化された日々を繰り返していくことだ。結果として、何を学ぶこともなく人生に大きな変化も生じない(5)

 もうひとつは、人生で起きた辛く苦しい体験に正面に向き合い、「できごと」が自分に何を学ばせようとしているのかを丁寧に振り返り、自分を深く見つめることだ(5)

 もちろん、この未来の可能性に対して、どのように応えるべきかは本人の自由である。けれども、この呼びかけを満たせる「最善の答え」はひとつしかない。その意味で、人生は半分は自由であり、半分は決まっているとも言える(3)

人間は目的を持って生まれてくる

 人は偶然としか思えない出来事を通じて「運命の人」と出会ったり、自分の「天職」とも言える仕事に出会ったりする。そして、偶然の出会いを通じて知らず知らずのうちに「運命の道」へと誘われていく(2p164,6p164)

 実は、すべての人間は、この世で果たすべき「使命と課題」をもって産まれてきている(5)。この人生で果たすべき暗黙の「使命(ミッション)」を刻印されて、一人ひとりの「魂」はこの世に産まれてきている(バースディ・プロミス) (3,4,5)。逆に言えば、そのミッションを生きて、現実化し、使命を果たすために、人はこの世に産まれてきたのである(4)。そして、この自分の魂に刻み込まれたミッションを発見したとき、「ああ、これこそが、私が生きることになっていた人生だ」「このことをなすために、私はこの世に生まれて来たのだ」という感慨を覚えることが多い(2p165,3,5, 6p93)。自分の人生に課された使命を「暗黙の予感」として発見でき、これまで歩んできた道が運命の道であったことに気づく(5)

ミンデル博士のプロセスワーク

 この人生における大切なメッセージに気づくうえで最も優れた方法が、ミンデル博士の確立した『プロセス志向の心理学』である(2p193,3)。ミンデル博士によれば、人は誰も自分がどう生きればよいのかの深い心の知恵を持っている(6p118)。それが、ささやきの声、静かな沈黙の呼びかけ、サイレント・コーリングである(6p170)。そこで、博士も「センシェント」と呼ばれる繊細な感覚を重視する。この感覚があれば、何が本当に必要で、何が不必要かが見分けることができるようになっていく(3)

13Ken Wilber.jpg この宇宙のすべてはつながっている。一見するとバラバラに思えるものも、すべては究極的な一の顕れである(3)。ミンデル博士は、人生の流れや人生の方向性を作り出している源の力を人知を超えた「プロセス・マインド」だと考える(3,6p119)。ミンデル博士のものの見方には、老荘思想のタオや量子力学、アニミズム的な気配が漂う。そして、これをケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は「スピリット」と呼ぶ(3)

 普段目にしている現実の次元とは別に、それは、スピリットや内なるタオイストの賢人、仏性、慈悲、システムマインド等と多くの哲学や宗教で呼ばれてきたより深い次元、エッセンスの次元がある(3,6p119〜120,6p180)。それは、時空間に束縛されず、すべてを知っている深い知恵である(6p180)。米国の先住民やオーストラリアのアボリジニたち、とりわけ、シャーマンは、ミンデル博士が「プロセス・ワーク」で使う「心の魔法」を身に付けていたと言える(6p182)

魂が喜ぶ人生を生きることが幸せにつながる

 フランクル博士は、幸福は決して目標ではなく、結果にすぎないと述べているが(6p156)、本当の幸せを手に入れるためには、幸せを求めるのではなく、何か自分が大切にしたいものを大事にしたり、自分の人生で成し遂げるべき「使命」に取り組んだり、愛する人のために尽くしたりすることなのである。そして、我を忘れて何か夢中になっているときに、幸せだと感じられる状態がやってくる(2p158)

 自己を超えた生命の流れがある。この偶然のつながりから、様々なシンクロニシティが産まれてくる。人生で劇的に大きな流れを創りだし、成功や幸せを手にできる人は、このシンクロニシティに対して開かれた心の姿勢を持っている人が少なくない。大切なことは、人との出会い、つながり、ご縁を大切にすることなのである。幸せになれる人は、自分にあまり関心を注がない。逆説的だが、この世界を信じて愛することが、巡り巡って真の幸福を与えることにつながる(3)

 日々魂が喜ぶ毎日、悔いのない人生を生きるためには、収入よりも、ただそれをしているだけで魂が喜ぶ仕事をする。あるいは、勤務時間が一定で残業等がなく、残りの時間でできるだけ魂が喜ぶことのために時間を使うしかない(2p150)。もちろん、魂が喜ぶ仕事は人によって違う。とはいえ、魂が喜ぶ仕事に就くことは、間違いなく、多くのお金を稼いだり、高い社会的地位に就くよりも大切なことなのである(2p151)

フランクル博士の画像はこのサイトから
ヒルマン博士の画像はこのサイトから
ミハイ教授の画像はこのサイトから
ミンデル博士の画像はこのサイトから
ウィルバーの画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ
posted by la semilla de la fortuna at 00:00| Comment(0) | 魂の人生論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする