2015年07月28日

第30講 ネガティブ感情と免疫系

感情と病気にはつながりがある

いつも怒っている人は病気で死にやすい

30Redford Williams.jpg 平静、楽観、自信、歓び、思いやりといったポジティブな感情もあるがある一方で、怒り、憎しみ、憂鬱、悲しみ、自己憐憫、罪悪感、絶望といったネガティブな感情がある(2p49)。この、ネガティブな感情が健康に悪影響を及ぼすことはかなりよく知られている(2p61)

 例えば、ノースカロライナ大学のジョン・ベアフット(John Barefoot)博士が心臓病の兆候がある人を対象に調べたところ、始終怒っている人は重度の動脈閉塞となりがちで、怒らない人ほど閉塞が少ないことがわかった(1p261,2p50)

 デューク大学のレッドフォード・ウィリアムズ(Redford Williams)教授が25年前に憎しみのレベルを調べた2000人の工場労働者を追跡調査してみたところ、怒りのレベルが低い人の死亡率は20%以下だったが、高いグループでは30%が癌や心臓病他の病気で死んでいた(2p51)。ウィリアムズ博士が1950年代に調べた医学生のグループでも憎しみのレベルが高い医学生が55歳時点での死亡率が7倍も高かった(1p261,2p51)。怒りは攻撃的な男性ホルモン、テストステロンが関係するのだが(2p52)、こうした事実は、いつも怒っている人は死ぬ確率が高まることを意味している(2p51)

ネガティブな感情は病気を起こす

 1940年代にはじまった研究で、ハーバード大学の学生に人生の出来事を書かせ、それをもとにポジティブとネガティブにわける研究をおこなったところ、約30年後にはネガティブなグループの方が健康問題を多く抱えていた(2p57)。乳癌手術を受けた患者36人を調べたところ、7年後には24人が癌が再発して死亡していたが、人生に喜びを見出している人は再発していなかった事例もある(2p61)

 30howard Friedman.jpg感情と健康の関係を調べた100以上の研究データをカリフォルニア大学アーヴィン校のハワード・フリードマン(Howard S. Friedman)特別教授が調べたところ、怒りっぽく、悲観的で心配性の人は、慢性頭痛、喘息、胃潰瘍、心臓病、関節炎等の病気にかかるリスクが倍以上あることがわかっている(2p55)

友達が多い人ほど健康である

 また、カリフォルニア大学の研究グループが友人の数を調べ、地域社会との参加のつながりを調べ、9年後に再確認したところ、友人が少ない人の死亡率は多い人の倍であった。このように、社会的なつながりが死亡率と関係していることはそれ以外の数多くの研究でも立証されている(2p59)

免疫と心のつながり

「抗体」は非自己と反応すると考えられてきた

30Paul Ehrlich.jpg さて、免疫学の創始者であるドイツの細菌学者・生化学者、パウル・エールリッヒ(Paul Ehrlich, 1854〜1915年)は、自己に対して反応する抗体を作ることは生命にとっては恐怖であり避けなければならないとして「自己中毒の恐怖」という名言を残した(2p74)。すなわち、古典的な免疫学では「抗体」は非自己である異物と反応するため、抗体が自分の身体と反応するとは考えてこなかった(2p73)

免疫系には身体を認知する能力もある

 30Niels Jerne.jpgけれども、1970年代の初期にデンマークの免疫学者、ニールス・イェルネ(Niels Jerne, 1911〜1994年)博士は、身体のすべての分子に結合できるT細胞が存在するという新たな免疫学ネットワーク説を提唱する(2p73)。免疫系細胞のリンパ球の大半は、骨髄(Bone Marrow)で作られることからB細胞と呼ばれる。一方、数は少ないがB細胞を統率する細胞もある。これは、胸線(Thymus)で作られるためT細胞と呼ばれている(2p67)

 パストゥール研究所のアントニオ・コウティーニュらのグループは、危険な抗原にさらされる危険性がまったくない環境でマウスを飼育した。もし、防衛反応を行うためだけに免疫系が存在するのであれば、そのマウスには防衛システムがないはずである。もし、免疫系に身体の認知能力(自己意識)としての働きもあると考えれば、抗原にさらされないマウスにも通常の免疫系があるはずである。実験結果は、一目瞭然で、抗原にさらされないマウスもふつうのマウスも免疫系には違いが認められなかった(2p73)

第二の脳である免疫系があらゆる分子と結合することで身体の統一性は保たれている

 アメーバのような単細胞動物にさえ原始的な認知能力があり、神経系のある動物はなんらかの認知能力を兼ね備えている(2p264)。そして、このB細胞やT細胞にも低レベルの認知力がある(2p264)。現実の身体では、すべての分子と結合する抗体が存在し、この相互作用を通じて全体的な秩序が保たれている(2p74)。すなわち、B細胞やT細胞がたえず動き回り、あらゆる分子と結合や離合を繰り返していることから、細胞や組織は自己の身体のアイデンティティを持てている(2p72)。神経系が、記憶や思考、性格等の自己意識を産み出すのと、まったく同じように、免疫系も身体の自己意識を産み出している(2p70,2p78)

26Francisco Varela.jpg このため、免疫系が破壊されると自己の全体性を認識できないために、エリテマトーデス病(免疫系が自己の一部を攻撃する自己免疫疾患)のように身体は統一性を失って自己崩壊を始めてしまう(2p84, 2p87)。このことから、フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela Garcia, 1946〜2001年)博士は免疫系は第二の脳ともいえると主張する(2p67)

神経系と免疫系のつながり=神経系と免疫系には類似性がある

 神経系と免疫系とのかかわりを研究する「精神神経免疫学」の歴史はまだ浅いとはいえ(2p66)、両者が深く関わっていることはわかりつつある(1p255)

 第一は、神経系に抹消神経や中枢神経系があるように、免疫系にも抹消免疫系と中枢免疫系があることである(2p75)。正常な免疫系では、同じ抗体を持つB細胞が20〜30個でグループを作り、約1億ものグループが循環している。しかし、B細胞の平均寿命は1〜2日でしかなく、1〜2週間でリンパ球はすべて入れ替わっている。また、B細胞のふだんの抗体の生産数は数十だが、成熟すると突然に性質が変わり、一時間に約2000個もの抗体を生産する工場になる(2p69)。すなわち、抹消免疫系のリンパ球は未熟でレセプターが少ないが、中枢免疫系を構成するリンパ球は表面に多くのレセプターを持つ成熟細胞なのである(2p75)

神経系と免疫系のつながり=神経系の発達不全が「失読症」・免疫系の発達不全が「自己免疫疾患」

 「自己免疫疾患」とは、自分の身体の一部を誤って異物と見なして、それに対して免疫反応を引き起こしてしまうという病気である。例えば、重症筋無力症では、免疫系が筋肉と神経とのシナプスを攻撃して、筋肉を収縮させる化学物質に対して反応する筋肉細胞のレセプターを破壊するために運動障害を引き起こす。そして、この自己免疫疾患は、「失読症」の子どももあわせ持つ(2p76)。このことから、胎児が発生する過程で性腺刺激ホルモンのコルチコステロイドのわずかなアンバランスによって、神経系の形成が不完全になると失読症となり、免疫系を形成不全にすると自己免疫疾患になるとされている(2p76,2p81)

神経系は免疫系にも影響を及ぼす

30Robert Ader.jpg 脳や中枢神経系と免疫システムとはまったく別々のものであって互いに影響しあうことはない。以前には誰もがそう考えていた(1p256)。この常識を覆したのが、ロチェスター大学医科歯科学部の心理学者、ロバート・エイダー(Robert Ader, 1932〜2011年)教授である。教授は、1974年に脳と同じように免疫系にも学習能力があることを発見する(1p255)。教授はパブロフの犬の条件づけの実験を免疫学にも適用し(2p75)、ラットに砂糖水を与えると同時に、免疫反応を抑える化学物質を注射することを繰り返してみた。すると、薬を注射しなくても砂糖水だけでラットは免疫反応を抑制したのである。これは、砂糖水をラットが味わうという認知的な知覚が免疫系にも影響を及ぼしていることに他ならない(2p76)

免疫系と神経系の対話力を高めることで自己免疫疾患が直る

 前述した「自己免疫疾患」とは、あるグループが社会とコミュニケーションできないよそ者になってしまようなものである。前述した古典的な免疫学に基づく医学では自己免疫疾患に対処できない。しかし、コミュニケーションが問題の原因であるならば、反社会集団との新たな対話を始めるやり方を考え、社会復帰させてやればよい。実際、重症の筋無力症のマウスで、免疫系と筋肉細胞のレセプターの連携を強めるB細胞と抗体を投与したところ、マウスの90%が回復したのである(2p85)

神経系から免疫系への対話がなくなると細菌に対する免疫力が失われる

 30David Fpic felten.jpgさらに、エイダー博士の同僚、デイヴィッド・フェルトン(David L. Felten)博士は電子顕微鏡を用いて、自律神経系の末端が免疫系の細胞、リンパ球やマクロファージと直接接触する結合部分から神経伝達物質が放出されていることを見出す。これまで、免疫細胞から神経系に対して働きかけがなされているなどは誰も考えていなかった。さらに、神経系の末端を切除すると、ウイルスやバクテリアの侵入に対して免疫系が適切に反応できなくなることがわかった(1p257)

 自律神経系は、骨髄もコントロールし、T細胞の種類や数を制御し免疫系に変化をもたらし、その変化が脳に変化を起こす伝達物質を起こすことがわかってきた。また、あるリンパ球は脳が作る鎮痛剤であるベータ・エンドルフィンと呼ばれるホルモンを生産していることもわかってきた(2p77)

ポジティブ感情は免疫系を活性化させる

30David McClelland.jpg リラックスしているときには、皮膚の毛細血管が拡張し身体全体の皮膚に血液が送られる(2p120)。ハーバード大学の研究グループが喜劇映画を観ている人々を測定したところ、ストレスや恐怖に反応して分泌され、免疫系を弱めるホルモン、コルチゾールの量が減り、ナチュラルキラー細胞数が増えていた(2p60)。すなわち、笑いは健康に影響を与える(2p61)。また、ハーバード大学のデービッド・マクレランド(David Clarence McClelland, 1917〜1998年)博士は、マザー・テレサの映画とドイツのナチスの映画を別グループに見せる実験を行ったところ、マザー・テレサの映画を観たグループのT細胞数は増えていた。さらに、これまでに出会った親切な人を思い浮かべる瞑想を行うとさらにT細胞は増えていた。思いやりの感情が免疫系を強化する一つの示唆となろう(2p61)

 また、孤独感が強い学生はナチュラルキラー細胞が少なく、乳癌の患者の実験では社交的な患者はナチュラルキラー細胞が30%多いことが判明している(2p59)

ストレスとは闘争・逃走メカニズムを引き起こす反応で免疫機構を低下させる

 病気は、遺伝的な生物的な要因とストレスに起因する要因から引き起こされる(2p118)。ストレス反応とは、危機的な刺激に対して、ホルモンを大量に分泌させ、闘争・逃走のメカニズムを緊急的に発動させる精神・身体的な反応である(2p116)。恐怖の警報が鳴り響くと、必要なホルモンの分泌が命じられ、心臓血管系や消化管、筋肉の動きが活発化する(1p39)。自律神経系の働きによって、筋肉は緊張し、心拍数が増え、皮膚血管は収縮し、筋肉と脳には血液が送り込まれ、いつでも行動できる警戒態勢に入る。このように自立神経系は、血管の太さもコントロールしている(2p120)

 ストレスで身体が興奮するとカテコールアミン(アドレナリンとノルアドレナリン=ノルエピネフリン)、コルチゾール、プロラクチン、ベータ・エンドルフィンエンケファリン等が分泌される(1p257)。ノルアドレナリンの分泌によって脳も興奮状態となる(1p39,1p44)。脳はストレスを感じると、グルココルチコイド等のホルモンを分泌するが、そのホルモンが血流やリンパ系に放出されると、リンパ球の表面にあるレセプターと結合し、リンパ球の活動を抑制・活性化する。同時に、変化した免疫系ではリンパ球がホルモン他の免疫伝達物質を生産し、それが大脳辺縁系のニューロンを刺激するように両者は相互関係にあるのである(2p77)。そして、免疫細胞に大きく影響を与え、免疫機能を疎外する(1p257)。このため、緊張した状態を続けると筋肉の緊張、高血圧症、不安、憂鬱、そして、免疫機能が低下するのである(2p116)。このため、憂鬱な感情は病気の回復を妨げる。感情と免疫機能の関係を調べたところ、20〜30%免疫力が低下することがわかっている(2p50)

ストレスが持続するのはなぜか

 ふつう、ストレスは親しい人の死や人間関係の破綻等、大きな生活の変化によって生じる(2p122)。ところが、ストレスそのものは単なる出来事にすぎない。客観的に見ればストレスが多い状況でもほとんど反応を示さない人もいれば、ストレスを感じるとは思えない状況でも自律神経が活性化してしまう人もいる(2p123)。例えば、拷問を受けても、そんな残酷なことができる相手の無知に対して慈悲心抱き続けたチベットの難民や僧侶にはこの症状がほとんど見られない(2p117,2p128,2p132)。これはなぜなのであろうか。

【引用文献】
(1) ダニエル・コールマン『EQこころの知能指数』(1996)講談社
(2) ダニエル・コールマン『心ひとつで人生は変えられる』(2000)徳間書店

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2015年07月20日

第29講チベット仏教の幸せ論(2)

ネガティブ感情をなくすにはネガティブさを観察する

 メンタル・イメージは苦痛を変えるのに有効だが、仏教にもイメージを使って苦痛を消去する手法が古来から伝わっている。光り輝く聖なる命の水が痛みの中心部に染み込んでいって身体全体に浸透し、痛みが消滅し、次第に幸福感に変わっていくことを思いに描くイメージ法である(p96)

 第二は、ネガティブな感情が湧きあがってきたら、苦痛をもたらす出来事をくよくよと考えず、その感情そのものを熟視することである。するとその感情は太陽光線にあたって溶ける雪のように次第に溶け始める。感情のエネルギーが弱まれば、悲劇的に見えていた苦しみの原因がさして悲惨なものではないことが見え始め、ネガティブな思考の悪循環から抜け出せる(p130)

利他の心を持つとネガティブな感情が消えていく

 第二は、他者に対する思いやりを深めるアプローチである(p97)。自分が苦しいときに他人の苦しみに思いをはせることなどありえないし、自分の苦痛が増えるだけだと思われるかもしれない。けれども、自分のことに夢中になってまわりのことに無関心な状態になっていると、心は傷つきやすく、無力感や不安、混乱などの感情に捉われやすくなっている。逆に他人の苦しみに対して深く共感できれば、無力感が有機に、憂鬱は愛に、独りよがりは周囲への心の開放へと変わっていく(p98)

 これには理由がある。心を内観しているとネガティブな感情が一時的な束の間の心の出来事にすぎないことがわかる。そして、それと背中合わせに存在するポジティブな感情によって抹消できることがわかる(p157)。すなわち、愛と憎しみの二つの心の状態は交互には生じても同時に共存できない。そこで、憎しみを抑制するのではなく、正反対の思いやりや愛に心を向けていると最終的には憎しみの感情が消えていく (p159)。利他の愛が心の中で習慣化されると憎悪の感情は次第に弱まり(p158)、究極的にはポジティブな感情となり、自分の苦痛はそれほど過酷なものとは感じなくなり、なぜ、こうしたひどい目に遭うのだろうかと苦々しい問いを繰り返すこともなくなるのである(p98)

ネガティブ感情をなくすだけでなくポジティブ感情を高めることも必要

04barbara fredrickson.jpg 1969年に心理学者、ノーマン・ブラッドバーン(Norman Bradburn)は、快と不快の感情が異なったメカニズムから発生しており、個別に研究する必要があると提案した。悲しみと憂鬱を取り去るだけで、自動的に歓びや幸せが保障されるわけではない。また、苦痛の抑圧は必ずしも快楽にはつながらない。すなわち、ネガティブな感情を除去するだけではだめで、ポジティブな感情を促進することも重要なのである。ノースカロライナ大学のバーバラ・フレドリクソン(Barbara Lee Fredrickson, 1964年〜)教授も、ポジティブな感情が重要だと指摘する(p148)

 さらに、一連の研究から利他主義と幸せとの間には相関があることが明らかになってきている。最も利他的な人間は、最高に幸せだと感じてもいる(p259)

 例えば、マーティン・セリグマン教授の研究から私欲がない親切によって生じる喜びが深い満足感を与えることが実証されている。友人と映画を見たりアイスクリーム・デザートを食べるといった満足感よりも、社会奉仕活動から得られる満足感のほうが高い(p260)

 人は幸せなときには他者に向けて心が開かれる。アンドリュー・ソロモンは『真昼の悪魔:うつの解剖学』で鬱病とは愛の欠陥であると指摘する。このことは、利己主義が苦しみの原因であり、利他的な愛が本当の幸せの主成分であるとの仏教的な視点と合致する(p259)。すなわち、他者に害を加えることを自制するだけでは不十分で、他者を助けようとする利他主義の実践でさらに強化されなければならないのである(p148)

慈悲の瞑想では脳のガンマ波が激増する

 深刻な精神病が脳の病的な状態に関係していることやある脳の部位を刺激すると強烈な快楽が生じることは判明していた。けれども、幸せと脳機能との関係についてはずっと謎に包まれていた。

 また、20年前までは神経科学者たちのほとんどがニューロンの新生はありえず老化とともにゆっくりと衰えるだけだと考えてきた(p238)

 けれども、研究の進展によって脳には可塑性があることが判明してきた。例えば、カリフォルニア州のソーク研究所でフレッド・ゲージ教授らは、刺激がない箱に入れられていたラットを回し車や探検用のトンネル、遊び仲間がいる広い檻に移すという実験を行なってみた。するとたった45日間で大脳側頭葉の海馬のニューロン新生率が15%も高まった。海乳とは珍しい経験を処理する脳の領域だが、高齢のラットの脳でも新生していることが明らかになった。また、スウェーデンのピーター・エリクソン博士らはラットと同じく人間の脳でも海馬でニューロンの新生が起こっていることを発見した。すなわち、脳の神経細胞は死ぬまで変化し続けるのである(p239)

26Francisco Varela.jpg フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela Garcia, 1946〜2001年)博士は「認知科学と仏教の瞑想者が共同研究に従事することが今後向かうべき進路である。そうすることは、人間の心に対する理解を深めるだけでなく、実際の科学的実験によって無限の可能性を汲み取ることができるだろう」と述べている。博士は米国の実業家アダム・エングルと共に、「心と命の研究所(Mind and Life Institute)」を設立し、一流の科学者とダライ・ラマ14世との対話を実現させた(p16)

 ダライ・ラマ14世は、1985年以降、継続されてきたと科学者との対話を行なっている。この対話シリーズの10回目として、2000年の秋に、フランシスコ・ヴァレラ、ポール・エクマン、リチャード・デビッドソンらとダライ・ラマ14世との討議がもたれた。この対話が契機となり20年以上も修行してきた人々を対象とした研究プロジェクトがたちあがる。

 そして、2004年に画期的なリポート「長期的瞑想の実践が脳に及ぼす影響の研究」が報告される。長年チベット仏教の瞑想を実践してきた12名がウィスコンシン・マディソン大学でリチャード・デビッドソン(Richard J. Davidson, 1951年)教授らの実験台となったのである(p240〜241)

 29meditation.jpg256ものセンサーを取り付け、脳波の変化を正確に記録し、機能的磁気共鳴画像診断装置(fMRI)によって脳の各領域での血流の状態を画像化する。その結果、熟練の瞑想者たちが「利他と愛の思いやり」の瞑想を行なったところ、かつて一度も報告されたことがないレベルでのガンマ波の劇増が見られた(p243)。さらに、瞑想修行者たちは瞑想をしていないときでもガンマ活動がかなり高い一方、瞑想の初心者は心の動きをコントロールできなかった(p244)

感情は独立した神経回路ではない

 怒りや嫉妬等の強い感情は、特定の認識や概念がなくても生じるとフロイトは考えた(p141)。けれども、感情とは脳内のいくつかの部位の機能が相互作用した結果現れる複雑な現象である。したがって、「幸せ」や「不幸」の場所を見出そうとすることは意味がない(p245)。感情系の神経回路は認知系の回路と完全に織り合わさっている。すなわち、感情は行為や思考と関連して生じるのであり、他と切り離しては存在しない(p141)

 仏教には様々な精神事象を表現する用語が豊富に存在する。けれども、感情そのものを表現する言葉はひとつもない。仏教では感情と思考を区別しない(p140)。すなわち、認知科学の脳と感情についての学説や見解は仏教の見方と一致する(p140,P141)

左脳=ポジティブ脳、右脳=ネガティブ脳

 感情という言葉はラテン語の「動く」を意味する言葉「emovera」が語源となっており、ポジティブでもネガティブでもない。とはいえ、仏教では、どのタイプの精神活動が自分や他者の健全性につながり、どのタイプが有害であるかに関心を向ける。そして、愛や憎悪等の感情性が高い状態は、破壊的な思考と一緒に結びついていると考える。心の平安を強化し、他者のためになることを求める感情をポジティブ、心の静穏を乱し、他者に害を加える意図があれば、それをネガティブな感情と言えよう(p141)

29Daniel Goleman.jpg さらに、リチャード・デビッドソン教授らの20年もの研究から、歓び、興味、熱意、エネルギー、利他の心といったポジティブな感情を持つ人は、大脳皮質の左前頭葉の活動が活発である一方、憂鬱、不安、悲観、引き篭もりといったネガティブな感情を持つ人は、右前頭葉の活動が大きいことがわかってきた。事故や病気で左前頭葉にダメージを受けた人が鬱病になりがちなのも、右前頭葉との活動バランスが崩れるからであろう(p245)。ダニエル・ゴールマン(Daniel Jay Goleman, 1946年)は、愉しい映画や心温まる映画の場面を見たり、過去の愉快な出来事を思い出すと一時的にも左前頭葉の活動が盛んとなり気分が高揚すると指摘する(p246)

 脳の活動は性格にも現れる。2歳半児400人を対象とした研究から、不安げに母親にまとわり続ける幼児は右側の活動が活発である一方、のびのびと安心して遊ぶ幼児は左側の活動が活発であることがわかっている(p246)

利他的な思いやりを持つと幸せになれる

29Richard Davidson.jpg それでは、ポジティブ脳と瞑想とはどのように関係するのだろうか。リチャード・デビッドソン教授は、思いやりの瞑想を毎日数時間も続けてきた老チベット僧の前頭葉の左右の違いを調べたところ、左側の活動が圧倒的に活発であることがわかった(p246)。さらに、思いやりの瞑想を始めると直ちに、左前頭葉の活動が活発化し、ネガティブな感情や不安の部位である右側の活動を押さえ込んでしまった。これは、利他的な人ほど人生で最も幸せ感を味わうという心理学的な研究が裏付けられたことを意味している(p247)

瞑想者は心の平安を保ち、利他的行動を行なえる

 驚きは最も原始的な人間の反射行動である。恐れ、怒り、悲しみ、嫌悪といったネガティブな感情が心を支配していると「驚愕反射」が大きい。ネガティブ感情が高い人ほど、たじろいたり、ひるんだりする(p250)

 驚愕反射は最も原始的な脳の部位、脳幹がコントロールしており、意識的・自律的には脳幹の活動はコントロールできないとされている(p250)

28Paul Ekman.jpg カリフォルニア大学サンフランシスコ校のポール・エクマン博士は、一人の瞑想者に対して耳元で爆裂音を聞かせるという実験を行なってみた。警察の選り抜きの狙撃の名手を含め、これまで100名の誰も驚愕反射を制御できなかった。けれども、瞑想者はできた。「驚愕反射を押さえ込める人体がこの世に存在するなど考えたこともなかった」とエクマン教授は言う(p251)

 瞑想者は@一点意識集中法とA心の全開法という2種類の瞑想を行い、いずれもマディソン研究所で調査したところ、心の全開法のほうが効果が高かった。

 瞑想者は「心が散漫であれば爆裂音によって突然に現在に引き戻されるために驚く。けれども、心が全開放状態に入ってしまえば、いまこの瞬間に完全にリラックスしているため、どのような轟音も鳥が空を横ビル程度のほんのわずかの妨げにしかならない。驚愕を積極的に制御しようという努力は必要ない」と語っている。

 瞑想者も、脈拍、発汗、血圧等の生理的なパラメーターは、驚愕反射に伴い標準的なレベルに上昇した。つまり、爆発音のショックに身体は反応した。けれども、感情には一切のインパクトを与えていない。2000年以上も前から瞑想修行の成果として記述されている「平静さ」とはこのことなのである(p252)

 行動学の研究でも、感情が高い人は他者の苦しみよりも、自分が感じる心の痛みや恐れ、不安の方により関心が高く、他人の苦しみに直面しても、それを和らげるためにはどうすればよいのかの関心が低いことがわかっている。一方、感情を抑圧せず、うまくコントロールしてバランスが取れる人は、他人の苦しみを目にして、無私の心を示せることが証明されている(p155,Pp265)

ポジティブ感情は生物の進化にも有利

 進化の角度から感情を研究する心理学者たちは、生殖や子孫保護、競争者との関係でそれが有利に機能するかどうかで感情が進化してきたと考えてきた(p143)。短期的に見れば、敵意、貪欲さ、恨み等のネガティブな感情も自分が欲したり惹かれたりするものを手に入れる助けになるため効果はある。怒りや嫉妬も種族保全の観点から利点がある。けれども、長期的にみれば、自分や他者の成長や発展が妨げられてしまう(p151)

 29Elliot Sober.jpg例えば、無私無欲な人間集団が利用される一方ですぐに消え去るのは、利己的で暴力的な人間集団とだけ接触する場合だけである。利己的な人間は仲間同士が互いに闘争しゆっくりと消えていく運命にある。一方、利他的な人間集団は相互協力すれば利己的な集団よりも進化論的に有利である。米国ウィスコンシン大学の科学哲学者のエリオット・ソーバー(Elliott Sober, 1948年〜)教授はこう説明する(p262)

利他主義には本物と偽者とがある

 利他主義という言葉は1830年に社会学者オーギュスト・コント(Auguste Comte, 1798〜1857年)によってエゴイズムの反対語として新造された(p265)。とはいえ、利他主義にはいくつかのタイプがある。社会心理学者ダニエル・バットソン(Daniel Batson, 1943年〜)カンザス大学名誉教授は、「偽の利他主義」と「本物の利他主義」を区別する。他者の苦しさを見て自分が感じる苦痛に耐えられない。あるいは、自分自身の感情的な緊張を和らげたいとして他者を助けるタイプは「偽の利他主義」である(p263)。例えば、17世紀のイギリスの哲学者、トマス・ボッブス(Thomas Hobbes, 1588〜1679年)は「人間は基本的に利己的な生き物である。人間の行為の中に純粋な無私は存在しないし、利他主義は気分爽快の仮の姿にすぎない」と述べた。そして、ある日、乞食に施しをしている姿を見られると「乞食の苦痛は私を苦しめる。乞食の苦痛を和らげれば自分の苦痛も和らぐ」と答えたという。キリスト教文明の原罪の考え方は、こうした哲学思想と一致する(p261)。偽の利他主義者は、苦しむ人の姿を見なくてもすむ、あるいは、自分が非難される危険性がなくこっそりと立ち去れる状況であれば、利己主義者と変わらぬ頻度で、関わり合いを避けたがる(p263)

 29Daniel Batson.jpg本物の利他主義者とただ自尊心を満足させるために親切を装う人とを見分けるにはどうすればいいのだろうか。自分がしようとしていた親切な行為を誰か他の人が行なってしまったのを見ても、まったく同じように喜びを感じられるかどうかを見極めればいい。本物の利他主義者にとって価値あるのは結果であって、他者を助ける行為による個人的な満足は重要ではないからだ。そして、西欧では本物の利他主義者は全体の15%程度にすぎず、その利他主義は人格の延長と関係していることが明らかになってきた(p263)

長年の修行によって利他心を育むことが出来る

 西洋の心理学の研究の大半は、仏教でのマインドフルネスの教えに相当するものが欠落していた(p169)。けれども、瞑想者の研究から、利他的な愛や慈悲心は歳月をかげて磨かれるテクニックであることが実証されている(p265)。すなわち、苦痛を伴うネガティブな感情が人間の精神的な健康にとって有害であり、憎しみの解毒剤が愛情豊かな親切心であることを理解するレベルは第一ステップである。次には、憎しみがない状態が習慣化されることが最終段階である。チベット語の「Gom」は瞑想と訳されるが「習熟」であり、サンスクリット語のバーヴァナーも瞑想と訳されるが「修養」とか繰り返して身に付けることを意味する(p157)

 仏教では人間は完全ではないし、完全に幸せでもないと理解する。それは、自己憐憫や自信欠如、悲観論とは異なり、極めて健全な事実の容認である。そのうえで、何を優先すべきかの順位をはっきりさせることを仏教では、「出離」と呼ぶ。出離は禁欲主義や厳格な戒律でイメージされることが多いが、喜びや幸せがもたらす事物を自分で取り上げることでも、快適がすべて悪だと考えるマゾヒストとも異なる。これでもかこれでもかと押し寄せる苦の原因を取り除き、苦しみの根本的な原因を知らずに隷属してきた態度を勇気をもって改めることなのである(p205)

利他心が育まれた状態が究極の幸せである

 愛とは他者の幸せを願うことであり、憎しみとは他者の不幸を望むことに他ならない。愛する人が幸せになってほしいと願うのが真の愛である(p160)。人間は本来、他人の幸せを望むはずなのに、なぜ、他人の幸せに動揺するのであろうか(p198)。他人が幸せになったとしても自分から何かが奪われることはない。自分が落ち込んでいるときに聞こえてくる他人の喜びの声や自分が病気のときに他人が健康であることが許せず我慢できないのはエゴなのである(p199)。他人の幸せが自分の幸せとなり、他人が経験するどのような喜びに対してももろ手をあげて歓喜することが「羨望」と「嫉妬」の反対なのである(p198)。すなわち、本物の愛には自己愛が含まれない(p182)。セックスも利他の心が中心にある場合にのみ純粋な幸せが感じられる(p55)。この永続的な幸せは内なる本質と完全に調和しているときには持続する(p56)。そして、自由な状態で快楽が経験されれば、幸せに影を投げかけることもなく、かえって幸せを引き立てる(p57)。安らかで心地よいこうした幸せ感をサンスクリット語で安楽(スカ)と呼ぶ(p32)

利他心を他人や他の生命にまで広げることが仏教の理想

 そして、現実の世界では純粋な利他主義の事例は少なくない。例えば、多くの母親は子どものために真心で命を投げ出す容易がある。仏教では、こうした母親の利他心をさらに延長し、生きとし生けるものすべてに対して心配することが真の利他主義であると教えている(p264)

 マンチェスター大学の中庭で実験をしてみた。一人の若者が横に倒れていても助けようと立ち止まる人は15%にすぎない。けれども、フットボールクラブのジャージを着ているとファンの85%が仲間を助けようと立ち止まる。このことは、帰属意識と利他的行為との間にかなり相関があることを示す。人は見知らぬ人よりは友人等共通点を持つ人を助けようとするのである。こうした帰属意識を拡大し、最終的にはすべての生物を帰属させるというのが仏教のアプローチである(p258)。ダライ・ラマが口にする「普遍的な責任」という考え方である(p259)。まず、自分自身の幸せへの願望を認識することからはじめ、次にその願望を自分の愛する人に向け、最終的には友人、赤の他人、そして、敵を含めた全人類に向けるというステップをたどるのが仏教古来のトレーニングの方法なのある(p159)

感情よりも理性に基づく道徳が大事だと考えるカントの倫理学

 29kant.jpg倫理観は大きく2グループにわけられる。抽象的な原理を基礎にするものと、仏教に代表される実体験に裏打ちされた実践的な倫理観である(p316)。西洋の一神教では神から下される戒律を倫理の基盤におく。そのひとつが、善、悪、責任、義務等の普遍的かつ絶対的な概念を思想の規定におくものである。第二は「最大多数の最高幸福」を基本原理とする功利主義的思想である(p308)

 イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724〜1804年)は、あらゆる道徳問題を支配するものは義務感であって、共感や思いやりの利他主義に突き動かされて他者のために行動する考え方を否定した。倫理は普遍的で公平な道徳に基づきべきであり、思いやりというあやしげな感情は信頼性に欠けると考えたからである。カントは言う。

「人間があらゆる幸せの権利を求めることを断念すべきだと純粋理性は命じているのではない。義務が問題とされる瞬間には幸せを考慮に入れるべきではないと言っているのである」(p316〜317)

 例えば、人々は二者択一のジレンマに直面しなければならなくなるケースに置かれる。例えば、1000人を救出するために一人の無罪な人間の命を見捨てなければならないという選択の板ばさみにおかれたらどうするだろうか。カントは「正義が消滅すれば人間はこの世における存在価値を失う」として、これを否定する(p313)

 一方で、ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham, 1748〜1832年)は「最大多数の最高の幸福は、道徳や法律の基礎をなす」と述べた(p318)。この功利主義を最も手厳しく批判した一人が、米国哲学を代表するジョン・ロールズ(John Rawls, 1921〜2002年)である。ロールズは、最大多数の幸福説を否定し、それに代わるものとして、個人の権利を神聖なものとし、自由・平等・公正の原則を提唱した(p320)。正義は効率性や幸せよりも価値が高い。たとえ、最大多数の幸福のためであっても正義がそのために犠牲にされてはならないからである(p314)

 とはいえ、人間は頭の中で考えたドグマ的な非現実的な抽象観念や感傷的な考え方の餌食になりやすい。例えば、罪のない子どもの命を犠牲にするという無残な状況はありありとイメージできる。その一方で、犠牲にされる1000人は具体性が乏しく抽象的な存在イメージとしてしかイメージできない。すると罪のない1000人を何もしないまま殺してしまう可能性が高い。「一人の子どもの命を救うために、罪なき1000人を犠牲にできるか」と問題を再設定すれば、より多くの人の命を救えた可能性をカントは拒絶してしまったことになる(p314〜315)

善と悪の二分法は正しいか

 カントの絶対善は、宇宙を超越した存在としてそれ自身で存在するものであろう(p317)。そして、「善」と「悪」とを明確に区別できるというユートピア的理想主義とそのドグマによって、人類は、不寛容や宗教的迫害、全体主義を経験してきた。理想主義では多様なバリエーションが考え出されてきたが、その根底には常に「絶対善の名において、我々は誰しもを幸せな人間にするであろう。それを拒否するものは排除されなければならない」という原則がある(p324)

28Hans de Wit.jpg ハン・デ・ウィット博士は言う。

「この完全なる失敗の結果、道徳的な敗北主義が近代西洋文化の中核をなしはじめている」。

 神の命令からも遠ざかり、無数の哲学者や道徳家の相矛盾する倫理観に封じ込められ、現代人は完全に路頭に迷っているのである(p324)

 憎しみは、心の猛毒である。あらゆる暴力や殺戮、人間の尊厳に対する攻撃力の駆動力となる。エゴが脅かされ、傷つけられ、無視されたときに感じる恨みの感情は、憎しみほど暴力的ではないが、要注意である。ネガティブな怒りは憎しみへと芽生える前兆となっている(p186)

 危害を受けたら怒りと暴力で報復することが英雄的だと考えられがちだが、復讐は暴力の火種に油を注ぐだけで、決して幸せをもたらさない(p193)。復讐願望は、攻撃者が攻撃するときと同じ感情に由来する(p186)

 すなわち、憎しみは、不幸の主因であることから、思考から憎しみの感情を排除することが幸せへの決定的な第一歩となる。なればこそ、釈迦は「憎しみに対して憎しみをもって報いる限り、憎しみは消えることはない」と教えた(p186)。不正を目撃した人の中には、犠牲者を助けるよりも、不正者を攻撃し暴力的に対応することに関心を持つ人がいるが、それは利他主義ではなく単なる激情である(p266)。憎しみや怒りといったネガティブな感情に捉われた人は、敵としてよりも病人として哀れむべきであろう(p189)。心の内側での武装が解除されなければ世界の武装解除も起こらない(p196)

カントの倫理学は理性に基づくと言いながら実は原始的な感情に基づく

 29Joshua Greene.jpgそして、哲学者で神経科学者でもあるジョシュア・グリーン(Joshua Greene)ハーバード大学教授の研究から、倫理的ジレンマがある状況で意志決定をするときに、論理的な思考をする認知領域が活発に活動することがわかってきた。さらに、この領域は、感情的に反応する領域と優位性を競いあう。

 教授によれば、感情的な反応とは霊長類の祖先から受け継いで進化してきた領域である。それが、カントのような独善的でドグマ的な考え方の中核をなしていると推測する。一方、遅まきに進化してきた前頭葉には高度な認知制御機能ある。その構造のおかげで利他的な評価が可能となったという。

 グリーン教授は言う。

「この説が正しければ、カント派の道徳哲学の根底をなす『合理主義者』のアプローチは、心理学的には、純粋な実践の原則ではなく、一連の感情的反応を根拠としており、それが最終的に合理化されたという実に皮肉で風刺的なことになる」と述べている(p323)

最大多数の最高幸福は快楽と幸せを区別できない

 カントよりもより人間的なベンサムのアプローチの方が仏教により近い(p318)。とはいえ、最大多数の最高幸福は、幸せを評価するための適正な尺度がないため(p319)浅薄な快楽と深遠な幸福を同一視し混同している。そのため、幸せを快楽に降格させてしまうリスクがある(p318)。社会学者も、現世における人生をどれだけポジティブに評価できるかで幸せを定義する。けれども、この定義では人生に深く満足している状態と単なる外的条件を評価している状態との違いを区別できない(p23)

 最大化の原則が闇雲に採用されれば、ある社会の構成員が犠牲になりかねない。アリストテレスは「奴隷がいなければ、知識層はつまらない作業に従事することとなり、高尚で品格ある活動を断念しなければならない」として奴隷制度を容認していた。アリストテレスの考え方は、功利主義という言葉が発明される以前ものものだが、その変形とも言える。仏教では、こうしたまことしやかでもっともらしい理屈は想像もつかない(p319)

仏教では結果よりも心の状態を重視する

 そして、仏教では善は人間から独立した究極的絶対的な原理ではなく、すべては人間の内側に生じるものだと考える(p317)。ダライ・ラマは「苦しみと幸せの個人的経験と切り離された倫理体型には重要な意味があるとは考えられない」と述べている。ダライラマの観点からすれば、抽象的概念に基盤をおく倫理はほとんど役立たないことになる(p308)

 どのように行為の結果がどうなるのかをどれほど予想しようにも、外部から降りかかる出来事をコントロールする力は人間には備わってはいない。一方で、利他的な動機やポジティブな結果を生み出そうとする努力を選択することはできる(p310)。仏教では人を幸せにすることを意図する行為は倫理的で、他者を苦しませることを目的とした行為は反倫理的であると考える。他者を苦しめれば自分自身に苦しみが戻ってくる一方で、他者に幸せをもたらす行為は自分の幸せを保証する。仏教ではこれをカルマ(因果応報)と呼ぶ。すなわち、倫理観と精神的な健全性は直結している(p308)

 さらに、フランシスコ・ヴァレラ博士は「真に高潔な人は倫理観に基づいて行動するのではない。賢者は倫理的であり、特定の状況にはいつも自分がそうする傾向に沿って自然に行動する」と述べている(p309〜310)

 さらにこうも言う。

「伝統的な社会では、常人よりも専門性が高い人として選り抜かれた倫理の専門知識を備えた模範、賢人が存在していた。近代社会では、倫理に関する模範を探し出すことが難しい。これが近代倫理思考がニヒリズムの趣きを漂わせている原因のひとつである」(p321)

エゴを捨ててフローで生きる

 幸せの探求においては、最も貴重な財産は時間である。人生は長くはない。需要な物事を先延ばししてしまう人は多くを失う。もちろん、何を黄金の時間と受け止めるのかは人様々である。活発な人にとっては、創造や達成や他者の幸せに自分を捧げる時間となるであろうし、瞑想者にとっては、自分の内側を見つめる時間となる。その間は活動していないように見えても、今の瞬間の価値をはっきりと認識し、他者を助けられる自分へと内側の質を向上させている時間は黄金以外のなにものでもない(p292)

 06mihaly.jpg米国の哲学者、ウィリアム・ジェームズ(1842〜1921年)は、「経験とは自分が没頭することに同意することだ」と書いた。すなわち、生きた経験に対してどれだけ多くの「注意」を傾けられるかが決定的である(p301)。クレアモント大学院心理学部のミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi, 1934年〜)教授はこれをフローと呼ぶ(p300)。フローとはー精神が集中されているのに緊張がないという状態である。そして、ここではエゴの概念がほとんど完全といえるほど消滅している。フロー状態を経験することで、宇宙の相互依存性を大きな視点で捉えることができ、常に静寂で、生命観に溢れ、利他的なフロー状態にとどまれるのである(p304〜305)

【引用文献】

マチウ・リーカル『Happiness 幸福の探求』(2008)評言社

フレドリクソン教授の画像はこのサイトより
ヴァレラ博士の画像はこのサイトから
瞑想実験の画像はこのサイトから
ダニエル氏の画像はこのサイトから
デビッドソン教授の画像はこのサイトから
エクマン教授の画像はこのサイトから
ソーバー教授の画像はこのサイトから
ダットソン名誉教授の画像はこのサイトから
カントの画像はこのサイトから
ウィット博士の画像はこのサイトから
ミハイ教授の画像はこのサイトから
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2015年07月19日

第28講チベット仏教の幸せ論(1)

幸せになるための修行がなおざりにされている

 2007年にユニセフが発表した先進国の子どもたちの「幸福度」調査によれば、「孤独を感じる」と答えた日本の15歳の割合は29.8%とOECD加盟25カ国中ずば抜けて高く、2位のアイスランド10.3%、フランス6.4%、イギリス5.4%をはるかに引き離す。加えて、2006年の調査では自殺者数は9年連続で3万人を超えている。これは旧ソ連圏を除いて世界最悪の水準である。これは、日本人の倫理観の中に「他人に迷惑をかけない生き方」が重視されているからではないだろうか(p365)

 高校を出てからも大学や専門学校で学び、健康を維持するためにジムに通い、社会的地位や富を獲得するために膨大なエネルギーと時間を費やす(p45)。その一方で、人生の質を高めるための心の内側の状態を改善する修行はおざなりにされがちである(p45)

欲望のままに生きることが自由ではない

 現代人は孤独を心配するあまり、予定が入っていない休みは一切考えないようにしている。強迫観念に取り付かれたかのように年中猛烈に動き回り、毎日をおかしく過ごそうとしている(p59)。西洋では自分がやりたいことをして、衝動の赴くままに行動することが自由であると解釈されている。そして、無秩序な自由の目標は、欲望を達成することであろう。けれども、それは果たして幸せをもたらすのであろうか。心の中で渇望、嫉妬、驕慢、恨みといった狂犬を荒れ狂うままにさせておけば、心はいずれその狂犬に占拠さてしまうであろう(p202)

 そして、物的な欲望が満たされても、幸せにはなれない。例えば、宝くじで大当たりしたことによる喜びには長期的な効果がなく、1年後には普段の満足度に戻ってしまうとの研究結果がある(p60)

 ある24歳のイギリス女性が100万ポンドもの宝くじに当選したが、仕事も辞めて以前の友人たちとの縁を切った。そして、高級住宅地に家を買い、免許もないのに高級車を買い、洋服を買いまくり、フィッシュ・アンド・チップスが大好物なのに高級レストランで食事をするという生活をしたところ、1年もたたずに鬱病になってしまったという(p61)

快楽と幸せとの取り違え

 このことは、最も起こしやすい間違い、快楽と幸せとを取り違えたためだ。ヒンドゥー教には「快楽とは幸せの影に過ぎない」という教えがある(p54)。フランスの作家バルベー・ドールヴィイは「幸福は聖人の喜びだが、快楽とは狂人の幸せである」と書いている(p55)

 確かに、快楽は親身に応じてくれる上に、常に変わらずもてなし上手である。そこで、快楽への渇望が心に埋め込まれやすいが、快楽が永続的な幸せをもたらしてくれると期待するのはまったく非現実的である(p176)

 快楽は、本来不安定なものだ。五感が刺激を受けた結果の産物だが、快適な対処と接したときには生じてもそれがなくなれば消滅する(p56)。そのうえ、繰り返されるうちに退屈が頭をもたげ、ゆきすぎれば嫌悪感にすら変わる(p54)。 

 各種の研究から人間が何かを「欲する」ときと「好む」ときとでは、脳の神経回路や機能部位が異なることが判明してきている。特定の欲求を感じるのに慣れていると、それに依存しはじめる。そして、それを感じるときに喜びがなくなった後でも、要求を満足させる必要性を感じてしまう。すなわち、好ましくないのに欲するというレベルに達してしまう。例えば、ラットの脳に特定部位に刺激を受けると快感を生み出す電極を植え付け、ラットがレバーを押すと自分で刺激できる仕掛けを作って実験を行なうと、ラットは食事や性行動を含めた他のすべての活動を病め疲労困憊して死ぬまでレバーを押し続けた。これもあくなき快感の追求が抑制が効かない要求と化すことを明らかにしている(p181)

 快楽は、個人的で自己中心的なものであるため他者の幸せと矛盾することがある。残酷、暴力、傲慢、欲望ほかの信条と結びつくことがある。とりわけ、官能的な快楽は執着と結びつく(p55)。すなわち、快楽は幸せとは無関係である(p56)。もちろん、快楽そのものが問題であるわけではない。ただ、その所有に執着すると貪欲さや依存症が頭をもたげ、幸せが妨害されてしまうのである(p57)

西洋哲学は原罪思想の影響を受けて人間は幸せになれないと考えてきた

 ドイツの哲学者で悲観論者であるアルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788〜1860年)は「いかなる満足にも永続性はない。いたるところで、もがき苦しみ、苦悩に帰するのを目にする」と述べている。この指摘は正しい。けれども、完全ではなく、人間が欲望やそれが永続させる苦しみから絶対の逃れられないと想定している(p177)

Martin Seligman.jpg このように、幸せの可能性を否定する考え方は、この世界や人類が基本的に悪だと決めつける考え方、キリスト教的な原罪思想に由来し、それに影響されている。米ペンシルバニア大学心理学部のマーティン・セリグマン(Martin Seligman, 1942年〜)教授は言う。

「すべての文明は、幼稚な性衝動や攻撃性の基本的葛藤を巧みに防御するものにすぎないとの定義に基づき、20世紀の心理学に原罪を引っ張り込んだのはフロイトである。このため、多くの現代知識人は、寛大さや親切な行為は負の衝動から生じるという愚にもつかない結論に達してしまう」(p70)

苦難と不幸との取り違え

 例えば、四肢が麻痺した障害者は、その直後には大半が自殺を考える。自分がこの世からいなくなったほうがよいと信じることが自殺に共通する動機であり(p62)、サンスクリット語では、厭世観、生きることが無意味だと感じる苦しみを「ドゥッカ」と表現する(p61)。けれども、この障害者たちも1年後にも人生が惨めだと考え続ける人は10%しかおらず、残りは生きることがすばらしいと考えている(p62)。すなわち、外から被る苦難が不幸につながるわけではない。不幸は自らが作り出す(p61)。また、一時的にしか続かない一過性の不快感を不安感という。そして、外的条件が好ましくても心の底に恒常的に不満が潜む状態が「不幸」と呼べるであろう(p87)

 したがって、苦しみが避けられず、幸せが手に入らないというニヒリズム的な西洋哲学とは一線を画し、仏教では不幸の原因は確認でき、それを取り除く方法も確実に存在すると考える(p84)。快楽が幸せとは違うように、苦難と不幸も区別する必要がある。不幸の主な原因は、無知と心の毒にある(p70)。チベット密教の高僧、チュギャム・トゥルンパ(Chögyam Trungpa, 1939〜1987年)は、無知についてこう説明する。

「ある意味で非常に知性が高い。ただその知性があるがままの現実の姿を単純に捉えずに、専ら自分の固定観念に反応する方向に向いているとき、それは無知と呼ばれる」(p35)

幸せは心の持ちようで決まる

 20世紀初頭の心理学や精神病医学の関心のほとんどは、心理学的な障害や精神病の治療に向けられていた。精神的に健全でエネルギーに満ち溢れた状態の可能性についての研究はほとんど関心がもたれなかった(p216)。セリグマン教授は「精神分析がどれほど頑張っても、せいぜいマイナス10からゼロにまで引き上げるのが関の山だ」と語っている(p170)

 けれども、認知科学とポジティブ心理学の発展によってこの状況は変わりつつある(p216)。膨大な研究結果から明らかになったのは以下の三点である。

@富、社会的地位、教育といった外的要因が幸せにもたらす影響は付随的で10〜15%以下にすぎない(p217)

 28Richard Layard.jpg米国では1949年以降、実質所得が倍以上になっているにもかかわらず、幸福と答える人は増加していないどころか減っている。ロンドン大学LSE校のリチャード・レイヤード(Richard Layard, 1934年〜)教授は、その理由が誰かと比較することにあると指摘する。誰かが新車を手に入れれば、現在の車に飽き足らなくなり、新車を手に入れなければ満足できないし、周囲の誰かが最新車を乗り回している場合は余計そうなる。東ドイツでもドイツ統一以降、生活水準が飛躍的に向上したが、旧ソ連圏の国々とではなく西ドイツの人たちと比較することで不幸を感じてしまっている(p220〜221)

 また、感覚的な刺激、騒音や熱狂に伴う官能的な娯楽による興奮や快楽は、神経疲労や慢性的不満を引き起こすだけで終わる。外的活動へのあくなき専心こそが問題で人々を不幸にしている(p225)

 一方、ストレスに苛まれた富裕層が羨むような陽気で苦労知らずの「ハッピー・プア」と呼ばれる人々がいる。カルカッタのスラムの路上貧困層の多くを調べた結果、友情、食事、生活、喜びと幸せ感が、米国の大学生とほとんど変わらないことが判明したのである。い法で、サンフランシスコの路上生活者や保護施設生活者の大半は「非常に不幸だ」と答えている。この違いは、サンフランシスコの路上生活者が社会的・感情的な愛着をほとんど断ち切っているのに対して、カルカッタの貧困層は社会的・経済的な立場が向上する希望をまったく放棄している結果、ささやかな物資を手に入れることで簡単に満足している。同時に、非常に生活が苦しいものの、仲間とともに大笑いし、歌を歌う。その善良性と無頓着さが彼らを幸せにしているのである(p222)

A幸せになるか不幸になるかの25%は遺伝的な素因が関係するが、遺伝子は青写真のようなもので状況に応じて無視できる(p217)

28Michael Meaney.jpg 一卵性双生児の研究から、幸せの45%が遺伝性で、人格の50%が遺伝子で決まると力説されているが、話はそう簡単ではない。カナダのマニトバ大学のダグラス病院研究センターのマイケル・ミーニィ(Michael J. Meaney, 1951年〜)教授らは、ラットで興味深い研究を行なっている。遺伝子操作によって極端に不安に感じるようにしたラットを生後10日間、過保護な母親に育てさせる。母親はグルーミングとなめまわしよるスキンシップを繰り返す。すると、ラットのストレス反応に関与する遺伝子は、DNAメチル化による制御機構によって機能を停止、そのラットが死ぬまで発現しない。反対に、放任的な母親の子は高ストレスを示した。このことは、母親の育て方が違うと、成長した後のストレス抵抗性だけでなく、脳や認知力の発達まで大きく修正されるのである。このことは、幼児期における愛情や優しさが人間の人生観を大きく左右し、幼児は規則正しい愛情を必要とするという仏教の考え方と一致する(p226〜227)

B状況に対してどのように認識し反応するかが幸せや不幸に多大な影響を及ぼす(p217)

 20世紀初頭に生まれた178人のカトリック修道女の長寿の研究によれば、幸せなグループの90%は85歳で生存中であったが、幸せではないグループの生存者は34%にとどまった(p230)。また、65歳以上のメキシコ人2000人を対象になされた研究では、ネガティブな人々のグループの死亡率はポジティブなグループの2倍であった(p231)。1960年に米国の入院患者900名を対象に楽観主義のアンケート実験がなされたが、40年後、楽観論者のほうが平均して19%も長寿であることがわかった。セリグマン教授によれば、物事がうまくいかなくなった場合に、悲観論者は、憂鬱になる傾向が楽観論者の8倍も高く、学力、スポーツ、職場での成績も実力を下回る(p278)

28Ed Diener.jpg イリノイ大学の心理学部のエド・ディーナー(Ed Diener,1946年〜)名誉教授は「客観的な状況よりも本人の世界観のほうが幸せになるためには重要な要素だ」と述べている(p231)。

 この例をチベット人は極端な形で実証してみせる。ダライ・ラマの主治医テンジン・チョドラク(Tenzin Choedrak, 1922〜2001年)博士は1959年の中国政府の侵略後、100人の同胞とともにチベット北東部の強制労働収容所に送られた。20年後に生きて出られたのはわずか5人だけだったが、同医師を診察した外傷後ストレス症外専門の精神科医は驚愕した。恨みや怒りが微塵も感じられず、不安や悪夢といった心的外傷患者の問題がまったく示されなかった。

28ani pachen.jpg チベットの尼僧、反乱軍の戦士という激しい人生を生きたアニ・パチェン(Ani Pachen, 1933〜2002年)も21年の投獄生活を終えた後、また9ヵ月も独房に閉じ込められた。鳥のさえずりだけが昼夜を告げる暗黒の世界であった。それでも、パチェンは瞑想の習慣を忘れず、心が病むことがなかった(p99)

ネガティブ感情は病気である

 怒り、嫉妬、貪欲さ等の感情は人間にとってあたりまえのものだという議論がある。けれども、病気も自然現象である。その病気を望ましい人生の要素として歓迎する人はいない。苦痛の原因となる感情に対して何かの手を打つことは病気を治療するのと同じく筋道が通ったことではないか(p154)

 とはいえ、ネガティブ感情は本当に病気なのだろうか。病気とネガティブ感情を同一視するのは極端すぎるという人もいるであろう。けれども、よくよく考えてみれば、健全な心は、ポジティブな感情の結果生じてくる一方で、精神的な混乱や苦悩は免疫機能を弱めて障害を引き起こす(p154)

 感情の赴くままにさせておけば封じ込まれていた緊張が緩和されるという考え方は、心理学的な研究結果とは食い違っている。怒りを放置し、それが生じる度に爆発させていると心理的に不安定となり癇癪の症状が徐々に悪化する(p155)。すなわち、悲観論者は、常に災難を予想し、慢性的な不安症にかかっており、何をしても裏目に出て、生まれつき幸せとは縁がないと思い込んでいる(p279)。そして、困難に直面すれば、逃げ出すか、あきらめるか、何の解決にもならない一時的な気晴らしに陥り、必要な行動を常に後回しにして重要性の低い雑事ばかりに忙殺されてしまう(p283)

ネガティブでは客観的な判断が出来ない

 心の内側に目を向けると、もう存在しない過去やいまだに存在していない未来に「私」を存在させ、意識の流れを凍結させてしまっていることがわかる。また、事象や状況の特定の側面だけを取り出して、それに「良い」「悪い」のレッテルを貼りつけて本来の姿をみえなくさせている。すなわち、現実を正しく見ることができず、幸せを見つけ出し、苦しみを避けるためにはどう行動すればよいのかが判断できない。これは精神が錯乱状態に陥っているといえる(p104)

 心の平安を乱すネガティブな感情は、現実を歪めて理解させようとする。このため、あるがままの性質を知覚することを妨げる。愛着は対象を理想化し、憎悪は対象を悪魔にしてしまう。人間の判断力が曇らされると誤って行動することになる。一方、感情がポジティブであれば、現実をより正確に理解できるため論理的な考え方ができる(p149)。楽観主義者よりも悲観論者のほうが客観的で冷静で用心深く判断が適切なのではないかという以前の見解は各種の見解から否定されている(p277)

最悪の精神錯乱はアイデンティティというエゴの引きこもり

 こうした精神的な混乱の中でも最も破壊的なものが「個人的アイデンティティ」、すなわち、エゴへの執着である。どの瞬間でも身体は絶え間なく変化している(p106)。私とは刻一刻と変化する想念の流れの内容以上のなにものでもない(p118)。アイデンティティとはそれほど重要なものなのだろうか。そもそも個性(Personality)という言葉は、役者の仮面を意味するら言語のペルソナ(Persona)を語源としている(p122)。にもかかわらず、エゴ(自己)は、自立性、恒久性が備わっていると頑なに考えようとする(p106)

 そして、知的優秀さ、肉体的強さ、権力、成功、美といった自分や周囲が見る「自分のアイデンティティ」や自分のイメージといった実体がない属性の上に架空に築いた自信に立脚している(p112)。エゴは非常にもろいものだ。そのために、エゴを心地よくさせ喜ばせる対象には親密感を覚えるが、保護して満足させられずゴにとって脅威となる対象には嫌悪という相反する感情が働き始める(p106)。そして、物事がエゴの要求を満たせないと、どれもが脅威や障害となる(p128)。現実とエゴとのギャップが広まるとエゴは苛立ちを著目、自信を喪失し、欲求不満や苦しみだけを残す(p112)

28Hans de Wit.jpg さらに、エゴは死への不安、対人関係への不安、世の中に対する恐怖心から、エゴに閉じこもることで自分が守られると仮想する。このエゴに対する執着と強い自尊心が苦しみを引き寄せる最も強力な磁石なのである。仏教哲学者ハン・デ・ウィット(Han F. De Wit,1944年〜)博士はこう書く。

「エゴは経験に対する快感、不快感の感情的反応の場、不安を原因とする心の引きこもりの場である」(p107)

 すなわち、自分の思考をコントロールできないことが苦しみの主因なのである(p128)

自己中心的な人=精神病患者

 西欧世界では、エゴ(セルフ)こそが人格形成の基本だと考えるため、自己中心性をどうしたら弱められるのかという問題にまともに取り組んでいる心理学治療法はほとんどない(p110)。「エゴを排除したら個人として存在できなくなる」「エゴなしに個を保てるだろうか」「総合失調症に陥る危険性があるのではないか」という疑問は、この馴染みのない考え方に対する西欧人の防衛反応といえる(p111)

28Sant Kirpal Singh.jpg 謙遜という概念も、自分の能力に対する自信の欠如、無力感、劣等感、無価値観等と関連づけて考えられがちである(p270)。けれども、インドのキルパル・シン(Kirpal Singh,1894〜1974年)は『聖なる光と音の瞑想法』で「本当の謙遜は、エゴからの完全な解放によって獲得される」と述べている(p271)

 さらに、強力なエゴがなければ何も感動せず、人生が無味乾燥になるのではないかという考えもある(p112)。けれども、長年、卓越したヒューマン・クオリティの研究に携わってきたポール・エクマン(Paul Ekman,1934年〜)教授によれば事実は違う。エゴが極端に強い人の傍らにいると苛立ちを感じる。芝居がかったわざとらしい手法を使うこともある。他者に苦しみを負わせて悔やむことがなく、誰とも気持ちを共感できないのは、エゴ至上主義者の特徴であると同時に精神病の症状でもある。精神病患者は、極端に自己中心的な利己主義者で、他者よりも自分が優れていると感じ、とりわけ、自分には生まれつき備わった権利や特権があり、それが他者の権利に優先すると信じ込んでいる。一方、ヒューマン・クオリティが高い人には、カリスマ的なはったりがまったく見られない。親切でエゴがない状態を最大の特徴とし、自分の地位や名声などをまったく意に介さない。エクマン教授はこういう。

28Paul Ekman.jpg「こうした自己中心性の不在は心理学的には不可解としか言いようがない。周囲は本能的にこうした人たちとの交流を希望する。一緒にいると心が豊かになるからだ」

 すなわち、エゴへの執着と目標を達成しようとする高い志とはまったく別物なのである(p113〜114)

エゴをなくしてこそ本当の自信が産まれる

 ある意味では、エゴ(セルフ)の確立が文明の特徴となっている。けれども、そうだとしても、より強く、レジリアンスがあり、順応性のある人格や個性を育て上げるべきではないだろうか。問題は、エゴと自信とを混同していることにある(p111)。そのため、世の中で成功するためには強力なエゴが必要だと勘違いされているのである(p114)

 エゴは、不安、嫉妬、貪欲、拒絶など精神性を果てしなく脅かすネガティブ感情からターゲットにされる。そのため、エゴの重要性が低いほど精神力も強くなる(p114)。真に勇敢な人は自己陶酔への引きこもり、不安な感情を持続させる恐怖に満ちた反応の対極にある(p107)。

 仏教では、欲望、憎悪、妄想(現実を歪めた見方)を三毒とし、これに自惚れと羨望も加え、これらが60余のネガティブな心の状態に結びついていると考え(p151)、煩悩(サンスクリット語のクレシャ)と呼ぶ(p149)。そして、仏教では、逆説的に純粋に自信がある状態はエゴがない状態だと考える。錯覚から生まれた安定感ほど脆いものはないからだ。エゴをなくして初めて自信は産まれる。仏教ではこれを人間であれば誰もが備わっている「仏性」と呼ぶ(p112)。仏教ではエゴを完全に消滅させるところまで修行を極めた人のことを賢者と呼ぶ(p110)。それでは、エゴとネガティブ感情をなくすためにはどうしたらいいのであろうか。

【引用文献】
マチウ・リーカル『Happiness 幸福の探求』(2008)評言社

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2015年07月10日

第27講 出現する未来から学ぶ(2)〜伝統的叡智の復興

はじめに

『ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた』というブログの中で、谷藤友彦氏はこう書いている。

「ピーター・センゲは『最強組織の法則』で有名になった人物である。それだけに、『出現する未来』(2006)講談社BIZを書店で初めて見た時に「何と胡散臭いタイトルの本だろう。どこで歯車が狂ったのか」と思ったものだが、狂っていたのは私の思考の方だった」(2)。

 幸せ探偵は、中土井僚氏の『人と組織の問題を劇的に解決する U理論入門』(2014) PHP研究所を読み、『U理論』がよく理解できなかったのだが、センゲの『出現する未来から学ぶ』を読むことで、ブライアン・アーサー博士の複雑系の理論やディヴィッド・ボームの「内在する秩序」、マインドフルネス瞑想、さらには、伝統的な先住民の叡智とのつながりが見えてまことに得心がいった。センゲらは、ミハイの「フロー理論」に直接、言及はしてはいない。けれども、「深い目的のソースとつながったとき、驚くほどのシンクロニシティが起きて楽に生きられる」というのは、まさにフローな生き方そのものではないか。今回は、「出現する未来」の後半を紹介する。

人は偏見によって創造力を失っている

27Gardner.jpg ハーバード大学教授のハワード・ガードナー(Howard Gardner, 1943年〜)博士は、プロジェクト・ゼロで、赤ん坊の知能の発達と年長者の知能水準を調べてみた。すると空間能力、運動感覚能力、音楽能力、対人能力、論理数学能力、内省的能力等で4歳までの子どもはほぼ天才的な水準にあった。けれども20歳ではその割合は10%、20歳以上では2%にまで低下した(1p45)

 才能はなぜ低下するのか。スタンフォード大学ビジネス・スクールのマイケル・レイ(Michael Ray)博士は「才能が失われたのではなく、分別の声に隠されているのだ」と言う。「できるわけがない。そんな馬鹿な考え方をという分別を保留する能力を高めることで、日常で創造性を高めることができる」とレイは言う。レイのビジネスにおける個人の創造力の開発講座は、次の三つを前提としている。

 @創造性は健康や幸せやビジネス等、人生のあらゆる分野での成功に欠かせない

 A創造性は誰にもある

 B創造性は誰にもあるが分別の声に隠されている(1p45)。

 27michael Ray.jpg恐怖や不安を感じるとき、人は習慣的な行動に戻る。集団も例外ではない(1p24)。分別の声は、個人と同じく集団の創造性の芽を摘む(1p46)。生命体には異物への偏見がある。既存システムは「他者」や「部外者」「異邦人」を敵視する。そのため、組織でも免疫システムが働くと、新しいことを取り入れるのはさほど重要ではないと自分に言い聞かせてあきらめる。そして、イノベータ―は敵視され、レッテルを張られ、酷い扱いを受ける(1p51)

 ブライアン・アーサー(Brian Arthur, 1945年〜)博士はプリゴジーンに触発された2年後の1982年にこの考え方をまとめたが、論文が掲載されるまで6年がかかった。さらに、スタンフォード大学の教授の地位を追われることになった(1p52〜53)。これも偏見のためであろう。

第1ステップ〜保留 見るためには思考を止める必要がある

 偏見を捨てて、新鮮な目でモノを見るためには、習慣的な考え方やモノの見方を止めなければならない(1p44)。多くの改革プロセスでは、状況について自分の想定を裏付ける情報だけを集めている。すなわち、過去の経験と記憶を反映して、あらかじめ、見ているつもりのものだけを見ている(1p111)

07bohm.jpg 物理学者のデイヴィッド・ボーム(David Bohm, 1917〜1992年)は「ふつうは人間は思考を支配しているのではなく、思考が人間を支配している」と語る。そして、この既存のメンタルモデルを破壊することはできない。そこで、ボームは、現実についての無意識の想定を目の前に掲げてみることが必要だと指摘する。それによって自分の心がどのように動いているのか、自分のメンタルモデルに気づくようになる。自分の思考を意識できれば、自分の思考によって見るものを左右されることも少なくなる。すなわち「見ることがどういうことかがわかる」ようになるのである(1p44)

 認知科学者フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela Garcia, 1946〜2001年)によれば、この能力を開発するには習慣的な思考の流れから自分自身を切り離す―保留―を学ばなければならない(1p44,218)

 人は自分の考え方にしがみついている。しがみついているのを止めたとき、自分の考え方に気づく。思考はすぐになくなるわけではないが、しがみついていた時ほどのエネルギーはなくなる。これが保留なのである。ヴァレラはこの「保留」こそが意識を高める第一の基本動作だと言う(1p44)

思考の流れを止めなければ適切な判断ができない

27老師.jpg 香港で非常に著名な学者、南懐瑾(ナン・カイキン,1818〜2012年)は、現代最高の禅僧であるとともに、道教の師でもあり、最高の儒学者でもあった(1p214)。南老子によれば従来の『大学』の解釈は間違っている。リーダーになるためには、意識、停止、平静、静寂、静寂、安穏、熟考、到達の7ステップを経なければならないとされているが、これは伝統的な瞑想の7段階と類似すると指摘する(1p216)。すなわち、停止は「思考の流れを止める」ことを意味する。思考停止がリーダーに重要なのは、欲望や怒りや恐れや不安といった感情に邪魔されて「的確な判断」ができないからである(1p217)

 仏教でも、素早く動く思考を滝のようなものだと考える。けれども、意識して思考を止めることができれば、思考は水滴と同じようなものであるとわかる。普通の人には思考の隙間が見えないが、修練すれば思考が瞬間、瞬間に変ることに気づく(1p218)

偏見を捨ててモノを見るためには瞑想が役立つ

 27mindfulness.jpgマサチューセッツ大学医学大学院教授で同大マインドフルネスセンターの創設所長として、瞑想と苦しみの軽減の関係を研究するジョン・ガバット・ジン(Jon Kabat-Zinn,1944年〜)博士は、瞑想を二つのレベルに分けて説明するが、その第一段階が集中である。集中しはじめると、心そのものがひとつの生き物であり、どこにでもいくことがわかる(1p69)。不安、判断、心のおしゃべりが途端に現れる。これをマイケル・レイ博士は「分別の声」と呼ぶ(1p44)。けれども、注意力を研ぎ澄ますことによって、過敏に反応したり苛立ったりすることがなくなっていく(1p69)。この集中は「保留」にあたる(1p70)

第2ステップ〜転換 背景にある生成プロセスを理解する

関心が対象から本源に移すことで生成パターンが浮かび上がる

 習慣的なモノの見方の「保留」が最初の基本動作であるとすれば、二番目の基本動作は「転換」である。ヴァレラはこの「転換」について「対象ではなく根源に向けることだ」と説明する(1p61)。ヴァレラは言う。

「保留してもたいしたことが起きないと言う人が多い。けれども、最初に何も起きないのには理由がある。保留した後に何も起こらない状態に耐えることが重要だからだ。保留によって、生成する出来事やコンテンツ、パターンが浮かび上がる。その時になって、初めて関心をそれらに向け直すことができる。そこが新しいことがある場所なのだ」(1p61)

27henri.jpg 物理学者、哲学者ヘンリー・ボルトフト(Henri Bortoft, 1938〜2012年)博士は、デイヴィッド・ボームの弟子で共同研究者だが(1p239)、博士によれば、人間の関心は本来、個別で具体的なものに向かう傾向がある。大きなシステムを見ようとするときには、各部分が他の部分とどのように関係しているのかを見て、大きなパターンを類推しようとする。けれども、大きなシステムはなかなか見えない。そこで、全体を見るのをあきらめて部分に戻る(1p65)。大きなシステムを頭でわかろうとしても、せいぜい概念を理解できるにすぎない。これをボルトフトは「偽りの全体」と呼ぶ(1p66)

 けれども、部分を見ることによって全体を理解する方法があるとして、博士は、ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749〜1832年)の『植物観察法』を例にあげる。一枚の葉を見てそのイメージを頭の中で正確に再現する。この作業を何枚も重ねていくと、当然一枚の葉だけでなく、全体のダイナミックな動きが見えてくる。葉を作り出している植物の生きている場が見えてくる。

 ふつうは葉(客体)が前面にあって、その葉を生み出している形成の場、ダイナミックな生成プロセスは背景にあって目に見えにくい。それが入れ替わり、背景が突然に前面に出てくると、真の全体に出会い「全体が見える」ようになる(1p65〜66)

「保留」から「転換」へのシフトに必要なことについて、ボルトフト博士は「あらゆるものの中には全体がある。自然は部分が全体を具現化する場なのだ」と述べる(1p20)

二元論が解体すると受け身の観察者から積極的な創造の参加者に変る

 主体と客体の二元論が解体すると、観察者として超然と「外から世界を見る」のではなく、見られている対象を「内側から見る」ようになる。意識を「源」に転換すれば、共感が起きるだけではなく、「見る側」と「見られる側」との境界が消滅する。境界が消滅したとき、深い一体感が得られるだけでなく、変化の感覚が研ぎ澄まされる。固定されていたものがずっとダイナミックなものだと思え、自分自身がその創生に関わっているとの自覚が産まれる(1p61)。頭でわかろうとしていては決してなしえないが、受け身の観察者から積極的な参加者に変るのである(1p67)

二元論を超えて全体からモノを見るためには瞑想が役立つ

 すなわち、既存の見方を保留する次には、見えるものの背後にある生成プロセスへと意識を転換する能力を磨くことにある。これが全体から見る鍵となる(1p60)。そして、「転換」することによって全体から見る能力を開発するには、主体と客体という二元論を超える能力を磨くことが必要である。この精神的なトレーニングを目的としているのも「瞑想」である。

 不快であってもそれに囚われて追い出そうとするのではなく、判断をせずに、ただ瞬間、瞬間に意識を向けていると、客体と主体をわける限定的な意識の表面の奥にあるものを見通せる意識を開発でき、それ以前にみえなかった「つながり」が見えてくる。つながりは、見ようと思って見えるわけではない。ただ、静寂の中から自ずから生れる」。この第二のレベルの『気づき(マインドフルネス)』が「転換」にあたる(1p70)

転換が訪れ静寂の境地に至ると真のコミュニケーションが可能となる

 南懐瑾によれば、思考を止めると、心が穏やかとなり、静寂に至る。次には心に平和が訪れ、真の思考が訪れる。すると人生をあるがままに見られるようになる。これも「転換」にあたる(1p219)

27Martin Buber.jpg オーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者、社会学者のマルティン・ブーバー(Martin Buber, 1878〜1965年)は、これを「我とそれ」の関係から「我と汝」への関係の転換と呼ぶ。「我とそれ」の関係では目に見えるすべては「それ」であって、自分から切り離された外部の対象である(1p59)。それに対して、「我と汝」の関係では、意識にのぼるすべては自分と密接な関係のある全体なのである(1p70)

 ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895〜1986年)は「静寂のあるところでのみ真のコミュニケーションが成立し、真のコミュニケーションがないのは静寂がないからだ」と語っている。静寂が訪れたとき、誰もが起ころうとしているのに普段は気づかない何かが聞こえ、眼に見え、理解できるのである(1p101)

第3ステップ 出現する未来を感じてフローで生きる

 ヴァレラは、保留と転換に続く三番目の基本動作を「執着を手放す」ことだと指摘する(1p120)。転換によって主体と客体の二元論的思考を乗り越えることで意識の新たなレベルが開かれたとしても、人はこの新たなレベルにこだわりやすい。それに執着すると、いま、この瞬間から切り離される。そのため、常に執着を手放さなければならない(1p121)

 仏教では、「ヴィタルカ」と「ヴィチャーラ」という二つの言葉で微妙な心の執着状態を表現する。ヴィタルカとは自分が実現しようとしていることを求めている執着である。ヴィチャーラとは自分が何かを実現していることを「見ている」状態である。けれども、ヴィチャーラも望む結果に執着しているという点では、執着している。このため、これを克服することが必要なのである1(p121)。己を手放すことで、さらに大きな気づきの道が開かれ、いま出現しつつあることを感じられるようになる(1p122)

出現する未来とつながると意志決定は不要となる

 一般の改革では、カリスマ性のあるリーダーがビジョンへのコミットメントを一方的に求める(1p112)。多くの改革プロジェクトは「計画」に固執する(1p115)。問題はあくまでも外にあり、ビジョンも問題に対応するための変革戦略にすぎない(1p160)。リーダーや企業幹部は組織と自分が切り離されたものであるとし、組織を「改革」しようとする。「変革イニシアチブを推進する」という言葉そのものが、現実を外部にあるものと想定している。そして、変革に抵抗されると苛立つ(1p116)。経営幹部が策定するビジョンの多くが表面的なものにとどまるのは一人や二人の考えを全体に押し付けたものだからだ(1p161)

26w-brian-arthur.jpg けれども、ブライアン・アーサー博士によれば、「出現する未来」とつながり、「内なる知」とつながったときには、意思決定は必要はない。何をすべきかは自ずから明らかになり、何を達成できるかも自分が何者かによって決まるからである(1p112)。リアライジングでは、行動は理性ではなく、より深いソースから起きている。行動している自分を眺めるように没頭しながら同時に離れている(1p115)。自分たちが何を産み出したいのかは、出現する未来に対する責任に気づくことから自ずから生れる(1p160)。何をすべきかは考えるまでもなく明白になる。何が正しいのかがわかれば決断する必要もない。ただ、それをやればいいのである(1p167)

エゴをなくして、出現する未来とつながると人生の目的も見えてくる

27rosch.jpg カリフォルニア大学バークレー校の認知心理学のエノレア・ロッシュ(Eleanor Rosch,1938年〜)教授は、これを「行動は全体から自然に生まれる」と表現する(1p167,173)。2500年前に老子は「無為にして為さざるなし」と表現していた(1p173)。

 マルティン・ブーバーは『我と汝』でこう語っている。

「自由な人間とはエゴなくして意志を持つひとである。運命を信じ、運命が自分が必要としていることを信じている。運命がどこで待ち受けているかはわからない。物事は思い通りにならないかもしれない。けれども、来るべきものは来る」(1p174)

 ささいなことで悩んだり、自分が勝ち組か負け組かと考えているのは、間違っている声に耳を傾けているからである(1p171)。自分の仕事が何なのかを大いなる意思が教えてくれるとき、自分が誰なのかというアイデンティティと何のために生きているのかという人生の目的が仕事と重なりあう(1p170)。そして、自分の意志を通そうとしないときに、自分の意志だけでは喚起できない大きな力が働く(1p115)。深い目的のソースとつながったとき、驚くほどのシンクロニシティが起きてくる(1p191)

U理論の世界観の背後には新たな世界観がある

27Otto Scharmer.jpg マサチューセッツ工科大学上級講師、C・オットー・シャーマー(Claus Otto Scharmer, 1961年〜)博士は「今の経営学でもリーダー論でもほとんど手が付けられていない分野がある。盲点になっているのは、自分が何者か。行動を産み出す心のソースは何かなのだ」と言う(1p18)

 グローバル経済によって競争が激化する環境で生き抜くための戦略を探るべく、マッキンゼー&カンパニーから、世界でもトップクラスのリーダーにインタビューを行うプロジェクトをオットー博士は依頼された。依頼を受けたオットー博士は、学者、企業家、ビジネスマン、発明家、科学者、教育者、芸術家等、多岐に渡る領域において革新的な業績を残している150人のリーダーにインタビューを行う。

 そして、多くのリーダーの口から、創造の重要性として「内面の状況」の重要性が繰り返し語られたのである。 このため、オットー博士はイノベーションが起きる時のリーダーの「内面の状況」がどのようなものなのかに興味を抱く。そこから産まれたのが「U理論」なのである(3)。そして、この「U理論」の世界観も、20世紀初頭の相対性理論や量子理論以来、生物学、医学、認知心理学といった現代科学の発展によって起きている世界観の革命とは切り離すことができない(1p225)

エゴが消え、境界がなくなったとき、自ずから慈愛が生じる

 ボームによれば、現代社会が直面する社会、政治、そして、環境危機の隠れた原因は、物事を分離して見る「断片化」にある(1p227)。なればこそ、ボームは「意識を高め、全体の一部となること、世界との一体性を感じることが重要だ」と語り(1p242)、「ベルの定理は『分離なき分離』が人間の自然な状態であることを示している。今後、最も重要なことは、人と人との垣根を取り払い、ひとつの知性として機能できるようにすることである」と述べている(1p226)

 26Humberto Maturana.jpgヴァレラとともに、先駆的な認知理論、サンティアゴ認識理論を提唱した、ウンベルト・マトゥラーナ(Humperto Maturana,1928年〜)博士も「愛は人と人とを結びつける。他者を認める愛こそが、知性を磨く唯一の感情である」と述べている(1p235,287)。不安は人と人とを離れさせるだけだからだ(1p287)

 エノレア・ロッシュ教授も『心の奥底の源』にユニークな知があると語る(1p74)。ロッシュによれば、仏教では独立した自己という概念はない。そして、根源知は孤立した部分ではなく密接に関連した全体から生起し、こうした意識から産まれる行為は自然に生まれるもので、意思によって決められたものではない(1p123)。そして、自己よりも大きな全体に基づいているため慈悲がある(1p124)

 ヴァレラも、自己が主体であると感覚が脆くなるほど共感性が増し、他者を受け入れ築かう余裕が生まれ、他者が近くなり、連帯感、共感、慈しみ、愛、共にいるあらゆる感情が自己が周辺に退いたときに現れるという。この瞬間が宇宙からの大切な贈り物だと感じられ、本来の姿になれるという」(1p127)

最先端の科学は伝統科学の世界観に追いついてきた

27RosevonThater-Braan.jpg 伝統文化が、自然と人間が一体であると認識してきたことに着目し、伝統的な叡智や科学を研究する総合学習センターを設立した、ローズ・フォン・タータブラン(Rose von Thater-Braan)は言う。

「伝統科学と西洋科学との違いは目的にある。西洋科学はおしなべて自然支配を目的とし、自然を商品化するために理解しようとする。これに対して伝統科学の基本的な目的はより人間らしくなり、自然と人、人と人とが調和の中で暮らす方法を学ぶことにある。伝統科学でも生活を楽にするための技術を発明することがあるが、それは常に人間としての成長よりも重要性が低い」(1p242)

 もともと古代の先住民たちは、自分たちを宇宙の一部だと考え会てきた。古代アナサジ族が、宇宙内部のバランスを保つためにダンスと儀式を行わなければならないと考えていたのもそのためだったのである(1p285)

【引用文献】
(1) ピーター・センゲ他『出現する未来』(2006)講談社

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2015年07月08日

第26講 出現する未来から学ぶ(1) 

デカルト・ニュートンモデルは崩壊している

 07bohm.jpg1950年代半ばに物理学者デヴィッド・ボーム(David Jose1ph Bohm, 1917〜1992年)は、量子理論の新たなアイデアをロンドンのユニバーシティ・カレッジで講演する。ボームは素粒子が二つに分裂したとき、片方のスピンを変えれば、たとえどれほど距離が離れていても、もう片方のスピンも即座に変ると予想した。この講演に魅了された若き物理学者ジョン・スチュワート・ベル(John Stewart Bell, 1928〜1990年)は、それを証明する実験方法を精緻化する。そして、この実験の結果、20世紀最大の衝撃のひとつとされる「非局所性」が示される(1p232)。ベルによって明らかにされた非局所性は、ニュートン的世界観の基礎となる原因と結果という一般通年に反するし(1p232)、ボームが提唱する分割できない「全体性」は3世紀以上も以前にデカルトが打ち出した西洋科学の基礎に意義を唱える(1p234)

生命には自己組織化する力がある

 バックミンスター・フラー(Buckminster Fuller, 1895〜1983年)は、人に手を見せて「これはなんですか」と良く問いかけた。当然ながら相手は「手」だと答える。けれども、手は絶えず変化し手の細胞は1年足らずで完全に入れ替わる。フラーは言う。

26Buckminster Fuller.jpg 「見ているのは手ではない。宇宙が手をつくる能力『パターン統合』である」(1p19)

 このように生命体には自己組織化する力がある。生物学者のルパート・シェルドレイク(Rupert Sheldrake,1942年〜)博士は、この組織化のパターンを『形態形成場』と呼んだ(1p19)。細胞は同じ遺伝子情報を持っているが、成長するにしたがって、眼や心臓、肝臓の細胞へと分化していく。これが可能なのは、各細胞が周囲の状況にしたがってある種の社会的なアイデンティティを確立するからである。この社会的アイデンティティを失えば、細胞は、有機体の生命を脅かしかねない。事実、これが癌細胞なのである(1p20)

  さらに、シェルドレイク博士は、形態形成場そのものが進化すると考え、これを「形態共鳴」と呼んだ。どの形態システムも過去のシステムと共鳴する。キリンの胎児ならば、それ以前に成長したキリンに共鳴し、このプロセスでキリンはキリンという種の集団的記憶を呼び起こし、記憶の形成に貢献していく。これは、カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875〜1961年)のいう集団的無意識に似ている(1p238)

複雑系の理論は自己組織化・創発・認識を明らかにした

 20世紀の物理学の基本的な考え方を一言でいえば、物質よりも関係性の方が本質だということだ。フルシチョフ・カプラ(Fritjof Capra, 1939年〜)によれば、細胞内の代謝ネットワークから、生態系の食物連鎖、人間社会のコミュニケーションに至るまで、生命体の構成要素もネットワークの形でつながっている(1p232)

26Francisco Varela.jpg そして、複雑系理論は、イリア・プリゴジン(Ilya Prigogine, 1917〜2003年)による化学反応の自己組織化、チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナ(Humberto Maturana, 1928年〜)とフランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela Garcia, 1946〜2001年)による自己創発や認知の研究がベースとなり、生命が持つ以下の三つの基本的な特徴を明らかにしてきた。

 自己組織化(オートポイエーシス)

 創発 過去から予想できない方法で新たなパターンを産み出す

 認知 環境と相互作用をうまく進めていく意味での意識を持つ(1p237)

 こうした新たな世界観の際立った特徴は「一体性」にある。外に顕れる現象と内なる世界の経験の一体性、人と人、そして、人と世界との一体性である。それは、従来のニュートン力学の世界観とは根本的に異なっている。

 とはいえ、ガリレオやニュートン以来、科学パラダイムが西洋科学の柱となるのには2世紀以上の歳月がかかり、その基本的な概念が技術や公教育を通じて社会に浸透し、リーダー論や経営に科学的な手法として取り入られるまでには1世紀以上がかかっている。したがって、こうした新たな世界観がいまだにコンセンサスを得られていないのも無理がない(1p225〜226)

経済学は複雑系理論を理解できていない

26prigogine.jpg 経済学者ブライアン・アーサー(Brian Arthur, 1945年〜)博士の収益逓増理論の概念は、イリア・プリゴジンのポジティブ・フィードバックの論文に触発されて誕生した。アーサーはこう語る。

「プリゴジーンはシロアリの巣のつくり方から、言語が優勢になる現象まであらゆる自己組織化の構造について語っている。世界中で英語を話す人が増えれば増えるほど英語を習得することは有利になる。つまり、成功したものはさらに成功する傾向がある。この考え方は経済でも重要であることに気づいた」

 アーサー博士は、小さな出来事の積み重ねで経済構造が固定化されると考えるようになった。すなわち、市場は万能ではないし、経済は完全ではない。資本主義であれ、他の形態であれ、経済は小さな出来事が積み重なることによって、最善ではない構造にもたどり着いてしまう(1p52〜53)

 アーサー博士は経済を自己組織化システムと見るようになったのと同じく中国の導師について道教を学ぶようになる(1p54)。博士本人はこの道教の師との出会いを『人生最大の出来事』と語っている(1p56)

未来から学ばなければ経営も成り立たない時代

 米国の思想家、ジョン・デューイ(John Dewey, 1859〜1952年)が提唱したのは、「観察」「発見」「新たな行動の発明」「新たな行動の創出」という4プロセスだった。そして、組織の改革モデルもいまだにプラン、ドゥー、シーである(1p109)。こうした変革のプロセスの大半は表面的なものにとどまっている(1p110)

 けれども、技術開発のペースが加速化する中、ジョセフ・シュンペーターの言う「創造的破壊」のペースも加速化している(1p106)。グローバル経済が発展することで競争が激化し、付加価値はすぐに模倣され、ますます差別化しにくくなっている(2)。昔の製造業とは異なり、企業ももはや同じ製品を作り続ける場ではなくなっている(1p106)。こうした経営環境で生き抜くために必要な真の競争優位の源泉は何なのだろうか(2)

 「過去からの学習」は、因果関係が比較的シンプルで、ある程度未来が予測可能な状況で効果を発揮する。現在のようにニーズが多様化せず、効率性が競争の優位の鍵であった大量消費大量生産の時代には非常に効果的である。けれども、いま私たちが直面しているのは、「環境の持続可能性」「少子高齢化」「新興国の台頭」等、過去に経験したこともなく、問題の全貌すら明らかになっていない「複雑な問題」である。

 かつて、アインシュタインは「問題を作り出したのと同じレベルの思考では、その問題を解決することができない」と語った。このような複雑な問題を「過去からの学習」だけで解決していくのには限界がある(2)

「過去の経験に基づいて意思決定を行うことは最適でも賢明でもない。『出現する未来』を感知できなければ経営課題に対処できない」とブライアン・アーサー博士は言う(1p106)

イノベーションは予測の中では生まれない?


 2015年06月20日の「第14講 死を意識して今日を大切に生きる」では、スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs, 1955〜2011年)の発言を紹介した。

 米アップル社の創業者で、2011年10月5日に惜しまれながら逝去した故スティーブ・ジョブズが2005年6月12日にスタンフォード大学で行った卒業祝賀スピーチでは、波乱万丈の人生の中で培った興味深い洞察が紹介されている。

「先を予測して、点と点をつなげることはできない。あとで振り返って点のつながりに気付けるだけだ。だからこそその点が、将来何らかのかたちで必ずつながっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ……何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつにつながっていく、そう信じることで他の人と違う道を歩いていたとしても、君たちは自信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。それが人生に違いをもたらすことになる」

 ビジョナリーな人、イノベーションを起こせる人ほど、未来が見通せて、そこに向かって一直線に猪突猛進しているように見える。けれども、まるで未来を見通していたかのように数々の偉業を成し遂げてきたスティーブ・ジョブズが、先を予測して点と点をつなげることができないと言及しているのだ。

14jobs.jpg けれども、ジョブズはこのスピーチの中で、次のようにも語っている。

「他の人の意見という雑音に自分自身の内なる声をかき消されないようにしよう。そして最も重要なことは、自分の心と直感に従う勇気を持つことだ。心と直感は本当になりたい自分をどういうわけか既に知っている。その他のことはすべて二の次だ」

 点と点が必ずどこかでつながっていくと信じ、心と直感に従って生きる。そして、その結果としてイノベーションが生まれていく(2)

 ブライアン・アーサー博士によれば、科学者も同じである。ほとんどの科学者は既存のパラダイムを状況にあてはめるだけだが、超一流の科学者は違う。型通りの理解とは別に深いレベルの『知』がある。

 アーサー博士によれば、このプロセスは三つにわかれる。

分類ブライアン博士U理論
@ひたすら観察することで世界と一体となる段階センシング
A後ろに引いて内省することで内なる知が浮かびあたる段階プレゼンシング
B流れにそって素早く動く段階リアライジング

(1p110)

 「過去からの学習」と「出現する未来からの学習」スティーブ・ジョブズが、あの演説で語ろうとしたことは正にこの「出現する未来からの学習」のことであった(2)。スティーブ・ジョブズが成功したのも、型どおりの反応を避けるやり方を知っていたからである(1p106〜107)

内なる心にしたがうことで思い通りの人生を生きられる

 もちろん、誰もがジョブズのようになれわけではない。けれども、ジョブズのように自らの心の声に従いながら変化や創造を起こしていく生き方に挑戦していこうとする人にとっては、その旅路を歩む上での心強いコンパスとして「出現する未来からの学び」は役立つ(2)

 26w-brian-arthur.jpg何をすべきかは「感じ取らなければならない」。そして、論理的に考えて行動はせず、感じるままに動きその場と一体となる(1p110)。武術で何をすべきか考えていては命はない。とアーサー博士は言う(1p107,115)

 アーサー博士は、イノベーションに伴う「内側からの知」について「内なる知」はここから来ると言い、心臓を指す(1p74,108)。アーサー博士のように内側から全体が見られるようになったことを心臓のイメージを説明する人が多い(1p74)

 人間には主要な神経ネットワークが、脳の他に、心臓と腸にある。「賦に落ちない」とか「心でわかる」というのは生理学的な裏付けがある。世界中のどの文化も、心臓を深い知と結びついているとしてきた。象形文字である漢字の『心』も「心臓の形」に由来するのである(1p75)

【引用文献】
(1) ピーター・センゲ他『出現する未来』(2006)講談社

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2015年07月06日

第25講 過去の思い出にふけることは悪いのか

改正2015年7月7日

はじめに

 ニュー・アース・シリーズでは、エックハルト・トール(Eckhhart Tolle, 1948年〜)の「いま」を生きる重要性を紹介してきた。

心は過去によって条件づけられている。罪悪感、後悔、怒り、不満、悲しみ、恨み等の許せない心は、「いま」が欠落し、過去の記憶から産まれている。内側の小さな自己」という幻想も時間概念から生まれている。ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895〜1986年)は「この内なる小さな人間はすべて記憶によって構成されている」と語った。

 けれども、今を忘れ、過去の思い出にふけることはすべて悪いことなのだろうか。

25アルカディア.jpg 『ビッグコミックオリジナル』1976年5月5日号に掲載された漫画家、松本零士氏の『戦場まんがシリーズ〜わが青春のアルカディア』には、ファントム・F・ハーロックII世と日本人技術者の台場元(トチローの祖先)が運命的な出会いが描かれている。

 ドイツ・ハイリゲンシュタット。自宅の庭で一人の失明した老人が雨に打たれながら、暗黒の世界の中で昔の青春の頃を思い出している。老人は、若き日には、ナチス・ドイツ空軍の不敗のエースパイロット、ファントム・F・ハーロック II であった。そこへ、日本から来た一人の青年が彼の前に父の形見を手渡す。それは、昔かけがえのない友人と共に遠い国へ行った筈の彼自身の照準器、REVIC/12Dであった。。。ここには、若き日の思い出にふける幸せな老人の姿が登場している。

 松本零士の父親、松本強少佐は、終戦の日までキ84 四式戦闘機「疾風」に搭乗していた陸軍航空部隊の古参のパイロットだった。戦後、多くの元軍人パイロットが自衛隊入りしたが、「敵の戦闘機には乗れない」と断固拒否し、炭焼きや野菜の行商をしながらバラックに住み自ら進んで赤貧の生活を送っていた。この「本当のサムライとしての父のイメージ」が、ハーロックのモデルとなっている(7)

知は記憶から始まった

 情報の秩序化、「知」はモノに名前を付けることから始まった。その後に数や観念が生じた(1p157)。そして、オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガ(Johan Huizinga, 1872〜1945年)によれば、最も古くからある知の先駆けは、謎かけ遊びだった(1p152)。だから、ケルト時代のアイルランドの吟唱詩人は、詩と吟唱となぞなぞ、歌を毎日一つずつ覚えなければならなかった(2p149)

 古代ギリシア人は、「記憶」を司る女神ムネモシュネとして、記憶を擬人化していた。ゼウスの妻で、芸術と学問を司る9人の女神、ミューズの母親である。ギリシア人たちは、記憶がすべての芸術と科学を産み出すと信じていた。これは正しい。文字という「表記システム」が発達する以前には、すべての情報は記憶を通じて伝承しなければならなかったからだ(1p151)。記憶の重要性が低下したのは、書かれた記録が効果ではなくなり手に入りやすくなった19世紀からのことでしかない(1p154)

驚嘆すべき記憶術

 あらゆる時代、あらゆる文化には驚くべき記憶力を持つ人々がいる。イギリスの思想史家で『記憶術』の著者、フランシス・イェイツ(Frances Yates, 1899〜1981年)は、古代ギリシア、ヨーロッパ中世、ルネッサンス時代の記憶力の偉業を集めた(2p149)

 彼女が取り上げた達人の一人にローマ時代の哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca,紀元前1年頃〜65年)がいる。セネカは2000人の名前を教えられた順でそのまま繰り返すことができた。こうした偉業は、意欲と鍛錬によって人間の記憶能力が高められることを意味している(2p149)

25ravenna.jpg かっては、世界中には、人間の能力を高めるトレーニングに関する莫大な実用的な知識があり(6)、身体やマインドの訓練がなされてきた(7)。そのひとつに、古代ギリシャで最初に考案され、古代ローマや中世、ルネッサンスにまで継承されてきた「記憶術(art of memory)」がある。必要な資料をコード化しビジュアルなイメージの形で即時に想い出せるように記憶する技だ。この術を身に付けた大家は、今では想像できないほどの暗記力を備えていた。例えば、14世紀当時、最も広く読まれた「記憶術(Fenix),1497年」の著者、ラヴェンナのピーター(Peter of Ravenna, 1448〜1508年)は、中世の教会法のすべてを記憶していることで有名だった(5)

 ラヴェンナはイタリア出身の法学者で、1472年に博士となった後、1497年にドイツに移住し、1506年にケルン大学で教会法と大陸法(canon and civil law)の教授となった人物である。著作「フェニックス」は「Phoenix seu artificiosa memoria」の題名で1491年にヴェニスでラテン語で出版されたが、増刷や翻訳を重ね、2世紀以上も影響力を持った。ラヴェンナの著作が人気があった理由のひとつは、著者自身が10歳で民法すべてを記憶できていたことがある(7)

歓びをもたらす暗記

06mihaly.jpg 古代ギリシアでは詩人だけでなく、学校の子どもたちまでもホメロスの『イーリアス』や「オデュッセイア』の長い章句を暗記するのが普通だった(2p149)。20世紀の教育では、機械的な暗記学習は情報を効率的に獲得する効果がないものとして記憶の役割が軽視されている。けれども、創造性と機械的学習は両立するし、記憶すべきものがない人の人生は貧しい(1p155)。ミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi, 1934年〜)は言う。

「私の祖父は、高校時代にギリシア語で3000行にも及ぶ『イーリアス』をギリシア語で暗記させられたが、70歳のときもまだ覚えていて、喜々としてその韻律を繰り返しては若き日々に戻るのであった」(1p154)

 そもそも、祖先の記憶をもとに情報を体系化することは、最も古代から、部族としてのアイデンティティを与えるものであった(1p151)。

人は歳を取るほど幸せになる

Sonja Lyubomirsky.jpg「人生の最良のときはもう過ぎてしまった。もはや幸せにはなれない」

 朝、目覚めたときにふとそんな想いにかられることがある(4p296)。けれども、人生の後半に対するこの思い込みは、@人生の最良の時がいつであるかを判断できる、A若い時ほど人は幸せである、という二点で誤っている(4p297)

 カリフォルニア大学リバーサイド校で心理学を研究するソニア・リュボミアスキー(Sonja Lyubomirsky)教授は、ポジティブ感情が経験されるピークが、64歳、65歳、79歳にあることが最近の三つの研究から明らかにされたと指摘する。意外なことに、青春時代は人生の最も明るい時期ではなく、最もネガティブな時期なのである(4p308)

25carstensen laura.jpg それでは、歳を取るほど幸せになるのはなぜなのだろうか。スタンフォード大学高齢化センター(Stanford Center on Longevity)を設立したローラ・カーステンセン(Laura Carstensen)博士によれば「残りの時間が限られていることに気づきはじめると人生に対する見方を抜本的に変え、限られた時間を本当に人生で大切なことに注ぐようになるからだ」と指摘する(4p309)。確かに、残された人生の時間が少ないとの意識が高まれば、社会的なスキルの向上とあいまって、感情をもっとコントロールし、幸せになろうという気持ちになるであろう(4p310)

人は過去をバラ色とする

 人生を振り返ってみればわかるが、人間には、過去の出来事や時代を実際にあったことよりも楽しくポジティブなものとして偏って思い出す傾向がある。この現象を「バラ色の記憶」と呼ぶ(4p298)

 例えば、ある旅行を体験を「する以前」、「している間」、「した後」の三点から分析した研究によると、実際に旅の間に憂鬱な体験をしていても、旅から帰った後には、そうした経験をすばらしいものとして想起することがわかった。同じように、多くの人は、恋愛や昇進時にかなりのストレスや失望感を味わっていたとしても、過去の想い出をバラ色のものとして思い出すのである(4p299)

 ギリシア神話のムネモシュネの長女、クレイオは歴史を司り過去の出来事を秩序立てて説明する責を負う女神であった。ミハイは「過去を思い出すことは非常に楽しい過程だし、歳を取ってから重要になる」と語っている(1p166)

ネガティブな過去にこだわることが問題

 過去の体験を思い出すことで不幸になることもあることも事実である。米国の大学生とイスラエルの成人を対象にして過去をどう思うかを調べたソニア教授の研究によれば、ネガティブな過去の体験を思い出す人ほど自分を不幸だと考えることがわかったという。

 ソニア教授はこれを「預かり効果」と「対比効果」によって分析する。 例えば、1年間のすばらしい海外生活をしたとしよう。経験という「預金口座」には貯金がたまり生活が豊かになる。これを「預かり効果」と呼ぼう。一方、帰国後の経験がその海外での暮らしに比べて満足できないとしよう。すると海外と比べて不満がまる。そこで、これを「比較効果」と呼ぼう(4p300)

分類預かり効果対比効果
いま幸せと感じる過去の幸せな経験を思い出す過去のネガティブな経験から今の人生がいいと考える
いま不幸だと感じる過去の不幸な経験を思い出す過去のポジティブな経験から今の人生が悪いと考える

 25Pennebaker.JPGテキサス大学の心理学者、ジェームズ・ペネベーカー(James W. Pennebaker,1950年〜)教授は、人生で最も悲惨であった、あるいは、つらかった経験を書き記させるという実験をやってみた。その結果、トラウマとなっている過去の出来事について心の奥底にある感情を書けば心も体も健康になることを見出した。これは『筆記療法』として知られている。その秘密は、押さえ込まれていた感情がカタルシスを感じ、解放されるからではない。書くことそのものにある。言語とは非常に構造化されたものである。頭の中に入り込んでくるとりとめないイメージや想念が書き記すことによって体系化されてまとまり、理路整然としたひとつの物語になるのである。そうすれば、苦痛を伴う強烈な混沌としたイメージや感情もはるかに対処しコントロールしやすいものとなる。こうしてトラウマを理解し受け入れられるようになるからだ(3p189〜190,4p207〜208)。つまり、過去の最も不幸だった時は、それを体系的に分析し理解すればもっとも幸せになれる(4p304)

思い出にふけるほど幸せになれる

 一方、ソニア教授らの実験によれば、結婚式や試合で優勝したといった過去の幸せな時は、それを分析せずに、録画したビデオを再上映するように味わい、再現することで古きよき時代から「預かり効果」を得られる(4p304)。ソニア教授らは、幸せな思い出や思い出の品々(写真やお土産等)のリストを作り、週に2回、ポジティブな思い出にふけるという実験をしてみた。すると、定期的に思い出にふけった参加者たちの幸せ度は著しく高まった。さらに、引き出される記憶が鮮明であればあるほどいっそう幸せ感を味わったのである。さらに、最近の研究からは、ポジティブな思い出にふけった後には、29%の人が新たな視点を手にして、現在の問題について自分なりの考察ができるようになったと報告し、19%がポジティブな影響があったとし、18%は「現在から逃れることができた」と報告している。影響がなかったと述べたのはわずか2%だけであった。しかも、回答者の多くが「過去の幸せであった出来事やイメージを思い出せばだすほど現在の生活を楽しめるようになった」と報告している(3p228)

 実際、老人は思い出にふけることに時間を費やせば費やすほど、よりポジティブとなり、より道徳的となることが知られている(3p227)。すなわち、古き良き時代は、比較分析するのではなく、思い出すときに最も幸せになれるのである(4p304)

人は思い出があれ生きていける

 ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の最後の場面で主人公にこう語らせている。

 「たったひとつでもいい。心から大切だと思える思い出があれば、自分の人生を深いところで肯定できるはずだ」。

 オーストリアの心理学者、ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl, 1905〜1997年)も、こう言っている。

「未来は来るかこないかわからない不確かなものである。現在は、またたくまに過ぎ去るはかないものである。けれども、心を込めて生きられた過去は何よりも確かなものである。それははかなく消えゆくものではなく時間の座標軸に永遠に刻み込まれ続けるものなのである」(8p143)

 13viktor.jpg思い出にふけることは、絶望的ないまの瞬間から逃れることも可能にする。ヴィトール・フランクルは、著作『意味の探究』において、アウシュヴィッツの強制収容所で、どのように人々を助けたのかについても書いている。

 作家や芸術家には、まだ完成していない本や作品を心の中で完成させるようアドバイスをした。そして、人々の心の中で愛する人々のイメージを生き生きと保つように努力させた(1p149)。懐かしい思い出は、美化され、新たな物語になっていく。細かい出来事、それも、さして重要ではない小さな出来事を思い出して、その思い出に泣き崩れる人もいた。過去に逃げ込むことは、収容者たちが虚無感と悲しみから逃げ場を作ることに役立っていたのである(2p150)

【引用文献】
(1) ミハイ・チクセントミハイ『フロー体験喜びの現象学』(1996)世界思想社
(2) ジェームズ・レッドフィールド他『進化する魂』(2004)角川書店
(3) ソニア・リュボミアスキー『幸せがずっと続く12の行動習慣』(2012)
(4) ソニア・リュボミアスキー『人生を幸せに変える10の科学的な方法』(2014)日本実業出版社
(5) John Michael Greer, The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age, New Society Publishers, 2008.
(6) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(7) ウィキペディア
(8) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書

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2015年07月05日

第24講 ニュー・アース(5) 大いなる存在に近づく方法

はじめに

 フロイトはユングを唯一の後継者として認めていたが、十年も経たずにユングはフロイトと袂を分かつことになる。それは、フロイトがエゴ、ペルソナ、シャドウに研究を限定していたのに対して、ユングはトランスパーソナルな領域まで問題を広げ探求した最初の心理学者だったからだ(1p211〜212)

 ユングはまず世界の神話の研究に膨大な時間を費やした。そして、原始的な神話のイメージが現代ヨーロッパ文明人の夢や空想の中にも現れる事実に驚愕した。ユングはこの魂の深層を「集合的無意識」と命名した(1p213)。けれども、正統派心理学は、人間の真の自己をエゴと定義したため、統一意識を意識の異常、変性意識としてしか描けなくなってしまった(1p128)

 第22講 ニュー・アース(3) 死の恐怖が作り出した未来と過去では「境界による二元論を克服しない限りは「進歩=幸せ」という幻想が続く」と述べた。

 『かもめのジョナサン』を発表した米国の作家リチャード・バック(Richard Bach,1936年〜)はこう書いている。

24richard bach.jpg「ぞくぞくするような歓喜の感覚がやってきた。その直後に言葉に言い表せないほどの知的な悟りがやってきた。宇宙は生命のない物質からできているのではなく、生命ある存在からなっていることがわかった。自分自身の内にある永遠の生命にも気づいた。私はすべての人々が不死であることを知った。宇宙の秩序にはいかなる偶然もなく、すべてのものが互いのため、すべてのために一緒に働いている動きなのだということもわかったのだった」

 バックはこうした意識状態を「宇宙意識」と名づけた(1p10〜12)

 世界中のあらゆる神秘的な伝統では、こうした対立の幻想を看破した人が「解脱した人」とされてきた。ヒンドゥ教の聖典『バガヴァッド・ギーター』は解脱とはネガティブからの解放ではなく、ネガティブとポジティブという双方からの解放だと説いた。

 仏教の経典のひとつ『楞伽経(りょうがきょう=ランカーヴァターラ・スートラ)』もこう述べている。

「光と影、長と短、黒と白などが別個のもので区別されなければならないというのは偽りである。それらは互いに独立してはいない。同じものの異なった側面であり、関係性を語る言葉なのだ。本質において物事は二つではなくひとつなのだ」

 キリスト教でも天国はネガティブがなく完全にポジティブな状態だと安易に理解されているが、『トマス福音書』ではヒンドゥー教の「アドヴァイタ(非二元)」や大乗仏教と同じく対立がない状態のことを指している。

「イエスは彼らにいわれた。あなたがたが二つのものをひとつにするとき、内部を外部、外部を内部、上を下とするとき、男と女をひとつにするとき、あなたがたは天国に入るだろう」(1p55〜56)

 すなわち、二元性が克服されてこそ、進歩が幸せを産むという幻想を抱かなくなることができる(1p58)

宇宙意識に到達する方法

Sonja Lyubomirsky.jpg「幸せを探してはいけない。探したら見つからない。探すというのは、幸せのアンチテーゼだ」(2p110)。エックハルト・トール(Eckhhart Tolle, 1948年〜)が提案するエゴから抜け出す方法には、まさに「幸せ探偵」というこのブログの題名そのものを否定する。けれども、その初歩的なスキルのいくつかは、ソニア・リュボミアスキー教授が提唱する『幸せになるための科学的方法』と共通するものがある。その一つが感謝と小さなことに喜びを見出すことである。

人に親切にする

 自分は尊敬されないし、関心も持たれず、認められず、評価もされていない(4p207)。そう思っている人は、自分が与えてくれないと思っていること―賛辞、感謝、援助、愛情をこめた気遣い等―を自分から相手に与えてみてほしい。出力が入力を決める。イエスはこれを「与えなさい。そうすれば自分も与えられます」(ルカの福音書6章38節)と述べた。そうすれば、豊かさは向こうからやって来る。イエスはこのことを「持っている人はさらに与えられ、もたない人は持っているモノすら取り上げられる」(マルコの福音書4章25節)と述べた(4p208〜209)

内なる身体を感じて小さな幸せを大切にする

 歴史を通じて賢者や詩人は、本当の幸せが一見ささやかなものにあることを見抜いていた。フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844〜1900年)は『ツァラトゥストラはかく語りき』で「幸せになるためには、ほんのささやかなことで十分なのだ。小さなものが幸せをもたらす。静かであれ」と書いている。けれども、小さなものに気づくためには、自分の内側が静かでなければならない(4p254〜255)

「目に見えない世界」と「目に見える世界」の中間に位置して、物質とつなぐパイプ役を果たしているのが、生命エネルギー、「気」である(2p176)。内なる身体は、物質と形のないものとの懸け橋の生命エネルギーである。それを確認するには、両手のかすかなチリチリ感を感じることから始めると良い(4p62)

 太極拳、気功、ヨガ等の実践は身体とスピリットを分離させない。だから、ペイン・ボディを弱めるのに役立つ(4p173)。また、多くの人の呼吸は浅い。けれども、ドイツ語の呼吸という言葉、「atmen」は、古代インドのサンスクリット語のアートマンに由来する。呼吸はささいな現象だが、これも、ニーチェが言う幸せをもたらす、小さなものなのである(4p264)

 このあたりまでは、まさにケン・ウィルバーの言う「ケンタウロス(心身一如)意識」にあたると言える。けれども、トールはさらに「究極の統一意識」へのレベルを目指す。トールが提案するエゴから抜け出す方法は、自分の思考と自分の同一化を止めることである。それには、自分が思考していることを「観察」すること。そして、今の瞬間を意識することの二つがある。

無意識の思考や感情に溺れることを抜け出るひとつが客観的に観察すること


「なぜ人生はかくもむごたらしいのか」というネガティブな感情にひたっているときに、人は「無意識状態」に陥っている。「見張り人」が不在の状態で、ある種の感情や思考そのものと一体となってしまっている(2p61)。そして、この感情を退治しようとしても心に葛藤が生じて、さらに痛みを産むだけで終わる(2p60)。この感情に踊らされないためには、感情そのものになるのではなく、感情をあるがままに放置して、感情を観察することが必要である(2p43)。いま、この瞬間に自分がネガティブな状態でないか。うんざりした気分等、低レベルの不幸がないかどうかを観察してみる(4p130)。悲嘆、自己憐憫、憤慨等の感情の「愚痴こぼし」になっていないかどうかをチェックしてみる(2p162)。すなわち、どれだけ感情を意識の表層部にあげることができるかがカギになる(2p161)。そして、自分にネガティブな状態があることに気づくことは失敗ではなく、成功である(4p130)。なぜならば、「気づき」とエゴは共存できず、気づきはいまの瞬間に秘められた力だからである(4p90)

 そして、ジル・ボルト・テイラー博士も、脳生理学から、感情を観察することの重要性を指摘する。

 人間には、感覚系を通じて入ってくる刺激に反応する能力がある。大脳辺縁系のプログラムのひとつが誘発され化学物質が体内に満ちわたる。血流からその物質がなくなるまで90秒ほどかかる。例えば、怒りという感情が引き起こされると、怒りの化学成分は最初の誘発から90秒でなくなる(5p237)。それでも、なお怒り続けているとすれば、それはその回路が機能するように無意識に選択をしたからである(5p238)。したがって、この生理的なループがやってきたときには、それがもたらす感情にまかせる。90秒、その回路にやりたいようにやらせればいい(5p254)

 個人的な懸念や関心を手放し始め、その感覚に対して嫌悪感が生じてもただそれを目撃していく。いかなる苦悩もそれに執着している限り、それを操作しようとする動きが存在してしまう。苦悩から逃れようとすると苦悩を永続化させてしまう。苦悩そのものではなく、苦悩に対して執着し、苦悩と同一化してしまうことが問題なのだ。

 ウィルバーも観察の重要性を指摘し、次の荘子の言葉をあげている。

「完璧な人は自らの心をひとつの鏡とする。それはなにものもつかまず、何も拒絶せず、受け止めはするが保とうとはしない」〔荘子内篇第七応帝王篇〕 (1p224〜225)

 すなわち、思考の「声」に耳を傾け、思考を「見張る」り、思考を客観的に眺めれば、この思考の束縛から解放され、その行為をしている「ほんものの自分」に気づき、意識は新たなレベルに達する(2p33)。思考を客観的にながめることができれば、高次の意識が活動を始める(2p31)

今という瞬間に集中する

「無心状態」に達するもうひとつの方法は、意識を100%、「いま」という瞬間に集中させ、思考活動を遮断することである(2p34)。エゴは常に、いまというこの瞬間に抵抗している(2p53)。エゴは決して瞬間と仲良くはできない(4p219)。したがって、「いま」という習慣を友人にする決意をすることは、エゴの終わりを意味する(4p219)

「いま」という瞬間に背を向けてしまうのは、他の何かの方が重要だと思っているからだ(4p287)。けれども、今に心を込めれば、本のページをめくる作業も部屋を横切ることにも「質」が伴ってくる(4p286)。例えば、階段の上り下り等、日常活動で「手段」として行っている動作に全意識を集中させてみよう。すると「手段」が「目的」となる(2p35)。したがって、時間から解放されれば、アイデンティティを求めて過去にしがみつくことを止める(2p101)。時間から解放されれば、目標達成を求めて未来にしがみつくことは終わる(2p101)。そして、時間概念が取り払われると、思考活動はぴたりと止む(2p72)

「無意識的な思考活動」を終わらせれば、意識は「無心状態」に達する。この無心状態はほんの数秒しか続かない。けれども、心がけ次第でだんだんと長く続くようになっていく(2p33)。絶え間なく流れている「思考」に「すきま」を作るたびに「意識の光」が輝き始める(2p35)。そして、いまという瞬間に集中していれば、普段は思考の雑談によってかき消されている「大いなる存在」との一体感が味わえる(2p26,p33)

アイデンティティが崩壊するとエゴが消える

 自分がスピリット(霊)であるという信念は、ひとつの思考にすぎず、スピリチュアルな目覚めではない(2p90)。スピリチュアルな考えは良くも悪くも方向を指示するだけでしかない。エゴを解体する力はほとんど持っていない(4p204)。思考は真理を指し示すことができるが、真理そのものではない(4p90)。そこで、仏教では「月を指す指は月ではない」と述べた(4p82)

 自分が体験し、考え、感じている対象はつきつめれば自分ではない。常に移ろう事物の中に自分自身を発見することはできない。このことをはっきりと見ぬくことが目覚めであり、これを最初に見抜いたのはゴータマ・シッタルダ(Gautama Siddhartha)であった。ブッタの教えの核心のひとつが「アナッター(無我)」であるのはそのためである(4p90)

「佛」という文字のつくりの左側は「人間」で右側は「非ず」、すなわち、否定を意味している(4p239)。禅でも「真理を求めるな。ただ思念を捨てよ」という。これは、心との同一化を捨てよということなのである(4p135)

 古代ギリシア人たちは、自分の運命を知りたく、予言を聞きにデルフォイのアポロ神殿を訪れたその入口には「汝自身を知れ」という言葉が掲げられていた(2p203)

 イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイの福音書5章3節)と語った。ここでイエスの言う「心の貧しい者」とは、心に何も持たず、何もモノとアイデンティファイ、同一化していない状態にいる人のことを指す。そして、「天の御国」とは「大いなる存在」の歓びのことを指している(4p53)。イエスが「あなた自身を捨てなさい」と言ったのも自己(エゴ)という幻想を解体せよという意味であった(4p90)

 そして、アイデンティティを思考から切り離すことができれば、自分が正しいかどうかはどうでもよくなる。負けたからといって、アイデンティティが揺らぐことはなくなるからである(1p66)。自分を同一化していた形が崩壊するとエゴは崩壊する。何かの対象に同一化する意識ではなく、意識そのものとしての自分のアイデンティに気づく(4p66)。思考は意識と同じではない。意識がなければ思考は産まれないが、思考は意識活動の一側面にすぎず、思考がなくても意識は存在できる(2p38)。この絶対的な心理を、キリスト教では「内なるキリスト」と呼び、仏教では仏性、ヒンドゥー教ではアートマン(真我)と呼ぶ(4p83)

抵抗せず、あるがままを受け入れる

 「思考」は良いと悪い、好き嫌い、愛と憎しみを作らずにはいられない。アダムとイブが「善悪の知恵を授ける木の実」を食べたために天国に住めなくなったという創世記の記述は、まさに思考の決めつけのことを言っている(4p237)

 すなわち、物事は「思考」によってのみ規定され、思考は、状況や出来事をバラバラの存在としてひとつひとつ抜き出して善悪を判断する。このため現実は断片化していく。このことを、コリント人の手紙1、3章19節は「この世の知恵は神の前では愚である」と表現した(4p214)

 エゴは現実を恨むことを好む(4p129)。つまり、不幸の第一の原因は状況にはなく、その状況についてあなたがどのように考えるのかの思考にある(4p109)。いわゆる悪は自分で作り出している(2p240)。シェークスピアの言葉を借りれば「ものごと自体には良いも悪いもない。良いか悪いかは考え方ひとつ」なのである(4p124)

24Krishnamurti.jpg ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895〜1986年)は、人生も後半にさしかかたったある時、「私の秘密を知りたいと思いますか」と問いかけ聴衆を驚かせた。人々は「ついに師は教えを理解する鍵を与えてくれるのか」と期待した。そして、クリシュナムルティはこう語った。

「これが、私の秘密です。私は何が起ころうと気にしない」。

シンプルではあるが、これは、外側で起きた出来事と自分の内面とが調和していることを意味している(2p216)。欲望は、自分たちがバラバラで、すべての創造の源である力と切り離されているというエゴの妄想から生じている。したがって、抵抗せずにいれば安らぎが得られる(4p319)。ただ、難しいのは、努力をすると「かまえない自然な私」という役割を演じてしまうからだ。ここでも役割を演じるよりも今にいることが大事になってくる(4p122〜123)

 いまの瞬間をあるがままに受け入れることは「許し」もある(2p240)。エゴを乗り越えるには、他者のエゴに反応しないことである。反応しないことは相手を許すということである。それは、一見弱さに思えるが実は強さである。自分自身のエゴが乗り越えられるだけでなく、人間集団のエゴを解体するために最も有効な手段のひとつである(4p74)。許さなければ憤りなどのネガティブ性は雪だるま式に大きくなってしまう(2p238)が、すべてをあるがままに受け入れると物事をポジティブな極とネガティブな極に分類しなくなる。つまり、許しは不可欠な要素なのある(4p238)

執着を捨てれば今を楽しめる

 モノに対する執着を手放すためには、まず、モノに執着し、モノに自分を同一化していることに気づくことだ。そうすれば、モノへの執着は自然に消えていく(4p55)

 執着しないことは、この世からもたらされる良いモノを楽しめなくなることではなく、さらに楽しむことができる。すべてが無常で変化が避けられないことを受け入れることができれば、未来には楽しいことが失われるのではないかと恐れることなく、楽しいことが続いている間はそれを楽しめるからだ(4p244〜245)。いま、楽しまなければ楽しめる明日などは決してやってきはしない(4p320)

 ただ雨や風の音を楽しみ、空を流れる雲を美しいと眺め、一人でも寂しくなく、娯楽という精神的な刺激物も必要としなければ、古代インドの聖賢が「アナンダ」と呼んだいまあることへの歓喜が味わえよう(4p253)

活動と行動は目的ではなく愛を原動力とした手段そのものになっていく

 ゴータマ・シッタルダ(Gautama Siddhartha)は、あるがままの人生を「タタータ」と呼んだ(4p129)。あるがままでいることは、活動をしないことではない。活動の動機がエゴイスティックな欲望や恐怖からではなく、より深いレベルに移ることだ(4p296)。受け入れるとは、たったいまのこの瞬間に、それが自分がしなければならないことだからしようと思うことだ。その安らぎは微妙な振動のエネルギーとして行動に流れ込む。受入れは表面的には、受け身に見えるが、実際には、新たな何かをもたらす積極的で創造的な状態なのである(4p318)

 いまにある意識でいるとき、どのようなささいな行動も、高潔さ、思いやり、愛が原動力となる。そして、行動の結果にこだわらず、行動そのものに意識を集中することだ。そうすれば、結果として、成果は自ずからついてくる。バガヴァッド・ギーターは、行動の結果に執着しないことをカルマ・ヨガと名付け、神に捧げる行動と表現した(4p96)

 行動とその行動を楽しむ状態との関係は、目的の手段として行動するのではなく、いま瞬間に全身全霊を込めて行動することなのである(4p320)

宇宙の創造力と共鳴したときに楽しく情熱が産まれる

 米国の思想家、ラフル・ワルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson, 1803〜1882年)は「情熱なしに偉業が成し遂げられたことはない」と語った。情熱(Enthusiasm)という言葉は、ギリシア語の「en」と「theos」から発している。「theos」は神で、派生語の「Enthousiazein」は「神に憑かれた」という意味である。すなわち、情熱が燃えているときに、人は自分だけで行動しているのではないと感じる。ただ波に乗っていけばいい(4p324)

 宇宙から切り離されていると感じるとき、孤独を感じ、何かを相手に苦闘したり、あれこれを成し遂げようと必死になる(4p287)。宇宙の創造的な力から切り離されると、エゴの力とストレスしかない(4p323)。エゴは欲望をもって常に奪おうとする(4p324)。だから、がんばって働かなければならない(4p323)。エゴは自分が他者を包み込めば包み込むほど物事が円滑に流れ、仕事がやりやすくなることを認めない(4p137)。そこで、利益や権力に関心が集中して、仕事は目的のための手段となっている(4p136)。けれども、行動とその行動を楽しむ状態との関係は、目的の手段として行動するのではなく、いま瞬間に全身全霊を込めて行動することである(4p320)。創造的な人は、その行動によって何かを達成しようとか、何かになろうとかではなく、それが楽しいからやっている(4p322)

 情熱は惜しみなく与える。情熱による活動には勝者も敗者もない。情熱は、基本的に排他的ではなく他者を包み込む(4p324)。そして、ストレスとは違い、情熱はエネルギー振動数が高いため、宇宙の創造力と共鳴する(4p323)。情熱を通じて宇宙の創造原理と調和しているが、その創造と自分を同一化するエゴがない。つまり、自分の行動を楽しみ、それが目指す目標やビジョンとうまく組み合わされれば情熱が産まれるということだ(4p325)

宇宙の創造力〜大きな力とつながる

 「偉大だ」とか「立派だ」とかは精神的に抽象的な概念で、エゴが好む幻想だが、いまこの瞬間を自分自身と調和させるときに、逆に大きな力にアクセスできる(4p287)

 ひとかどの人間になろうとか、目立とうと思わなければ、宇宙の力と自分を調和させることができる。老子は「天下の深い谷間であれ」「すべてに満たされるだろう」と述べる(4p234)

 イエスも「誰も自分を高くするものは低くされ、自分を低くされる者は高くされる」(ルカの福音書14章11節)と述べた(4p235)

 その力にふれたことがない人は、その成果を脅威と賛嘆の目で見るであろう。けれども、その力は、ただあなたにアクセスし、あなたを通じて世界にアクセスしている(4p324)。並みはずれたパワーは、あなたを通じてこの世界に流れ込む(4p322)。イエスが「私は自分では何もできない」(ヨハネの福音書5章30節、14章10節)といったのはそういう意味であった(4p287, 4p324)

 14世紀のペルシアの詩人、スーフィー教の賢者ハフィズは『贈り物』でこう述べた。

 「私はキリストの息が通るフルートの穴だ。さあ、この音楽を聞いておくれ」(4p322)

エゴ的な頭の活動を止めると創造性が高まる

 アインシュタインをはじめ、多くの偉大な科学者は、思考が止まった瞬間にアイデアが閃いたと語っている。多くの人が創造的でないのは、「頭の使い方を知らない」からではなく、「頭の活動の止め方を知らない」からなのである(2p39〜40)

エゴがなくフローで生きればシンクロニシティが起きる

 私は、教師、芸術家、看護師、医師、科学者、ウェイター、セールスマン等、自分探しをせず、その瞬間瞬間に求められることに十分にこたえ、賞賛すべき仕事を成し遂げている人に会ってきた(4p135)。こうした人たちの影響は、その仕事を超えてさらに遠くまで広がっていく。彼らと出会う人たちのエゴも軽減されるからである。こうした人々と関わると、重いエゴを抱えた人たちでさえも緊張を解いていく。つまり、エゴに邪魔されず、自分がしていることに一つになれる人は、成功を治めることができる(4p136)

 知能、技能、才能等、各人の持つ知識や肉体的な能力、エネルギーレベルは人によってさまざまである(4p104)。形の上ではあなたはだれかよりも劣っているし、誰かよりは優れている。けれども、あなたの本質は誰よりも劣っていないし、優れてもいない。そのことを認識したときに、真の自尊心とつつしみ深さが産まれる(4p123)

 どの状況でも役割に自分を同一化せず、しなければならないことをやっていく。これが、この世に産まれた私たちが学ぶべき基本的な人生の教訓である(4p120)。役割を演じないとは、行動にエゴがでしゃばならないということだ。自分を守ろうとか強化しようという下心がない。完全に状況に焦点を合わせている。このとき、完璧に自分自身である時、かまえない自然な私であるときに非常に力強い(4p122)。自分を実際異常に見せようとせず、ただ自分らしくある人は、際立った光彩を放ち、こういう人たちだけがこの世界を本当に変えることができる(4p121)

 世界は、大いなる存在によって形として現れたものと、現れないもの、この世界と神から成り立っている。全体と調和することとは、この世界に意識を出現させるための一部になる。するとどこからか助けがあらわれ、まさかの出会いや偶然があり、シンクロニシティと言われる不思議な一致が頻繁に起きる(4p297)

 人生も世界も、一見混沌としたわけのわからない出来事の奥にはより高い秩序や目的が隠されている。より高い秩序は普遍的な知性から生じている。禅ではこれを「好雪片々として別所に落ちず(舞い落ちる雪のひとひらは落ちるべきところに落ちている)」と表現した(4p212)

 ここが生と死が発生する場でもある。意識を外に向けると思考と世界が現れ、過去、未来、そして、身体のアイデンティティを身にまとう。意識を内に向けると目に見えない世界へと帰っていく(2p177)

大いなる存在とつながると本当の平安、愛と憐れみが得られる

 こうして、思考活動が停止し、心が「空」の状態となれば、常に、愛、歓び、そして、心の平安を体験できる(2p33,1245, 4p66)。「いまある」ことによって、初めて深い安らぎと恐怖から完璧に逃れることができる。聖パウロはこれを「人のすべての考えに勝る神の平安」(ピリピ人への手紙4章7節)と表現した(4p65)。所有という概念も死が近づけば、まったく無意味であることが暴露される(4p53)。すべてのモノが不安定だと気づき、それを受け入れれば、安らかな気持ちが沸き起こる。これをイエスは「永遠の生命」と呼んだ(2p93)

 感情で経験される「喜びのようなもの」は、永遠に移り変わる「痛み=快楽」のサイクルのつかぬまの「快楽」であることがほとんどである。それは、感情が「思考」の仲間であり、両極性の法則に左右されるからである(2p46)。すなわち、「快楽」は外側からもたらされ、感情は二項対立の領域にある。けれども、歓びは自分の内側からもたらされる。愛、歓び、平和は、大いなる存在とつながっているため、対極に位置する反対のものはない(2p46, 4p152)

 すなわち、愛、歓び、平和は、感情よりもさらに奥深いところから産まれる。逆に言えば、自分の感情を完全に自覚できなければ、愛、歓び、平和も感じることができないことを意味している(2p45)。すべての成功と幸せの秘訣は「生命」とひとつになることなのである(4p129)

左脳活動が弱まると宇宙と一体になる

 トールは、愛は、すべてがひとつだとの気づきの結果として表れる(4p182)。そして、万物と自分との間のつながりに気づくことが憐れみであると指摘する(4p261)

 13Ken Wilber.jpgケン・ウィルバーは、神秘家が強調してやまない普遍的な慈悲がトランスパーソナルな直感から生じる理由をこう説明する。「環境と身体との境界が取り払われた超越的な自己となると、環境のなかの全対象を自分自身として扱い始める。すなわち、超個体レベルでわれわれが他を愛するのは、相手が自分を愛したり安心させてくれるからではなく、相手が自分自身だからである。自分の腕や足を世話するように周囲を思いやるようになるのは、世界とは自分の身体であり、また身体として扱わなければならないからなのである。キリストの第一の教えは、『自分自身を愛するように隣人を愛せ』ではなく『隣人を自分自身として愛せ』と言う意味なのである(p228)

 ジル・ボルト・テイラー博士は、脳の働きから、なぜ宇宙意識が体験できるかを書いている。

 右脳と左脳はそれぞれ特徴を持つ。常に分析し批判的である左脳状態か、上の空の状態の右脳状態で過ごしている。左脳は実際に何かのデータに空白があると埋めてしまう能力を持ち、明確にモノの間に線を引き認識する能力が高い(5p223)。このため、間違った。あるいは悪い判断をした他人や自分を見下し非難することに多くの時間とエネルギーが費やされている(5p224)


 一方、右脳は生理機能に耳を傾けるよう生物的に設計されている(5p232)。右脳の意識の中核には、静かで豊かな感覚と直接つながる性質が存在している。右脳は世界に対して平和、愛、歓びを表現し続けている(5p216)。右脳は、いまの瞬間に豊かさを感じる。人生や自分に関係するあらゆる人々に対する感謝の気持ちで満たされ、情け深く、歯止めなく熱狂し、フレンドリーである(5p225〜226)。右脳ではあらゆるものは相対的なつながりの中にあり、ありのままをそのまま受け取る。ある人が背が高い、金持ちだと観察してもその結果を判断はしない(5p226)。世界は安全に感じられ、常にその時を生きていて時間を失っている(5p227)。さらに、右脳には、新たなことにもトライしようとする意欲があり、創造的でもある。カオスさえも創造的なプロセスとして評価する(5p228)。右脳は自分の身体だけでなく、社会の健康、母なる地球との関係すらも気にする。境界についての知覚がないため、すべてが一部で世界がより平和で暖かい場所にすることを手伝っていると感じる(5p229)。生けとし生けるものがひとつに調和することを思い描いている(5p230)

21Taylor.jpg さて、体内に注入した放射性同位体から出るガンマ線を用いて脳の輪切り映像を撮影するSPECT(単一光子放射断層撮影法)という技術がある。アンドリュー・ニューバーグ博士とユージーン・ダキリ博士は、2001年からこの技術を利用して、スピリチュアルな神秘体験をもたらす神経構造を探究してきた。チベットの僧侶が瞑想しフランシスコ会の修道女が祈るとまず左脳の言語中枢活動が減少した。次に、肉体の境界を判別する左脳後部頭頂回の方向定位連合野の活動が減少した。この結果、意識は個人から離れて宇宙と一体となるニルヴァーナ体験をするのである(5p220)

 西洋社会は、左脳の「する」機能を右脳の「ある機能」よりも高く評価してきた(5p260)。けれども、人間は、思考を選ぶことができる。現在の瞬間に引き戻し、右脳の愛と平和のマインドに戻せば束縛から解放される(5p239)

 テイラー博士によれば、宇宙意識とはゆきすぎた左脳の働きを抑え本来ある右脳の働きを蘇らせることだったのである。

【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) エック・ハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(2002)徳間書店
(3) ジェームズ・レッドフィールド他『進化する魂』(2004)角川書店
(4) エックハルト・トール『ニュー・アース』(2008)サンマーク出版
(5) ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(2009)新潮文庫

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2015年07月04日

第23講 ニュー・アース(4) エゴの人間関係

意識のスペクトル

13Ken Wilber.jpg ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は若干24歳で書き上げた『意識のスペクトル』で、人間の意識を「ペルソナ意識」、「エゴ(自我)意識」、「ケンタウロス(心身一如)意識」、「究極の統一意識」という4レベルからなる階層構造として捉えて見せた(4p108)

 さらに、意識を階層構造化することによって、心理カウンセリングから霊的宗教的な諸伝統が、各意識のレベルに応じて互いに相補的な関係にあることを整理してみせた。ウィルバーによれば、シャドウを意識化することで、ペルソナとシャドウに分裂した意識を健全なエゴ(自我)意識へと統合するのがカウンセリングである。エゴと身体に分裂したエゴ意識を身体も含めた人間として全体性の回復を目指すのがゲシュタルトセラピーやフォーカシング等の人間性心理学である。心身一如意識が達成されると、意識はトランスパーソナルな領域に入っていく。そして、究極の統一意識、宇宙との一体感の回復を目指すものがヴェーダンタや大乗仏教、道教、秘教的な回教、秘教的なユダヤ教、そして、秘教的なキリスト教ということになる(4p109〜110)

 禅では「悟りとは赤ん坊のようになることだ」といわれ、聖書でも「幼子のようにならなければ天国に入ることはできない」と書かれている。個としての「自分(エゴ)」が確立される以前の「プレパーソナル」な段階、自他が未分化な幼児的意識へ退行することと、個が確立されたうえで、さらにそれを超えていく「トランスパーソナル」な段階、悟りの状態とを同一視してよいのであろうか。『アートマン・プロジェクト』(1980年)の執筆中に、この問題に直面したウィルバーは、「プレとトランスの混同」という概念を提起する。確かに、赤ん坊の未分化な意識状態も、成長の極限である「無境界」の意識状態も、「非エゴ的体験」である点では変わらない。けれども、トランスパーソナルな意識状態は、エゴや理性を保持したまま「超合理」の段階を目指すものである。ただ「頭を捨てなさい」と理性的な判断を放棄させ、個人の成長を妨げる「似非スピリチュアリティ」とは区別しなければならないと警告する(4p114〜116)。このウィルバーの分析を踏まえたうえで、ニュー・アースの4回目は、エックハルト・トール(Eckhhart Tolle, 1948年〜)のエゴの人間関係観をまとめてみた。

エゴ的な人間は未来と過去の時間概念に捉われ「いま」を生きられていない

 エゴイスティックな人間は、周囲の世界や他者だけでなく、自分自身からも疎外されている。疎外とは自分自身に対してさえ、気持ちを楽にできない状態を言う。関心がすべて思考に吸い取られ、過去や未来に関心が集中していまを生きていない(2p146)。恐怖、不安、期待、後悔、罪悪感、怒り等は、意識が時間に縛られて機能不全に陥っていることを示す(2p220)

エゴ的な人間は健全な人間関係を育むことができない

 あなたには、あなた自身が考える観念的なイメージであなたという人物が、あなたが考える相手という人物とつきあっている。つまり、二人の人間のエゴが向き合う関係では4つの観念的なアイデンティティが絡み合っていることになる。そこには真実の関係はない(2p107)。このような思考を「ほんものの自分」だとみなしていると、レッテル、決めつけ等の曇りガラスを通じて世界を眺めることになる。するとすべてが歪んで見えるため、万物との真の関係が築けなくなってしまう(1p29)

人間関係が破綻するのはエゴの愛が執着だからである

 エゴが自分の不安をごまかそうとしてすがるのが親密な人間関係。すなわち、「私を幸せにしてくれる」男性あるいは女性である(2p267)。恋愛関係も互いに夢中になっているバラ色のときには何もかもがパーフェクトに思える(1p199)。恋愛関係も最初のうちは心が満たされる(1p202)。けれども、一般に「愛」と呼ばれているものも、ほとんどが中毒症状に似た相手に対するしがみつきである(1p46)。すなわち、恋に落ちるのも、エゴイスティックな欲求と必要性の強化であることが多い(2p102)。実際、恋に落ちたつもりが、補完的なペインボディに惹かれあっているカップルもいる(2p164)

 エゴが愛と呼ぶものには独占欲や執着心が含まれている(2p152)。従来の愛に対して最も正直なのはスペイン語である。「テ・キエロ」は「あなたを愛しています」と「あなたが欲しい」という二つの意味があり、もうひとつの愛の表現「テ・アモ」はあまり使われることがない。真の愛がめったに存在しないからであろう(2p102)

 このため、エゴの期待はほとんどの場合に、簡単にその反対の落胆や失望に変わる(2p152,2p267)。相手があなたのもとを去るのではないかという不安が頭をよぎっただけで、嫉妬、独占欲がわき上がり、脅迫、非難等の手段で相手を操ろうという想いに駆り立てられる。これも、相手を失うことへの恐れに起因する(1p202)。すなわち、エゴの不安が再び甦ると、人はたいていパートナーを責める(2p267)

 要するに、相手に対する依存性が非常に高いため、最初の頃の幸せな期間をすぎれば、スイッチひとつで逆の状況に一転し(1p46)、ほとんどのカップルは数カ月から数年のあいだに、「愛=憎しみ」と「優しさ=攻撃」のはざまを振り子のようにいったりきたりすることになる(1p46, 1p200)。中には、この快楽と痛みのサイクルを相手を変えて延々と繰り返している人もいる(1p210)

毒親は自分のエゴを満たすために子どもを支配しようとする

 子どもは親に対して、親という役割を演じるよりも人間であって欲しいと願っている。けれども、子どもに関心を持っていても、それが「形」に基づく場合には「宿題はやったの。さっさと食べなさい。部屋を片付けなさい。歯を磨きなさい」と常に行動や評価と関係してしまう(2p117)

20EckhartTolle.jpg 子どもが40歳をすぎてもまだ子どもを支配したがる親がいる。子どもの生き方を批判したり、否定したりして、子どもに罪悪感を抱かせようとする。これもすべて、親としての役割を維持しよう、アイデンティティを確保しようとする無意識の試みである(2p111)

 こうした親は、自分の役割、アイデンティティを維持したいために、子どもをコントロールしようとする親の無意識を言葉にすればこうなるであろう。どれほど、とんでもない要求をしているのかがわかるだろう。

「あなたは私が実現できなかったことを実現してもらいたい。世間の注目を浴びる立派な人になってもらいたい。そうすれば、私もあなたを通じてひとかどの人物になれる。私を失望させないでほしい。私はあなたのためにたくさんの犠牲を払った。あなたの行動を否定するのは、あなたのためではなく、あなたを罪悪感で落ち着かない気持ちにさせ、私が望むとおりに動かしたいからだ。何があなたのためになるのかは私が一番良く知っている。あなたが私の言うとおりにすべきことをするならば、これからも愛してあげる」(2p112)

ネガティブ性は伝染性があり世の中を不幸にしていく

 こうしたネガティブな感情をひっくるめて言い表せばそれは「不幸」だ。そして、ネガティブ感情は、その感情を抱いている当人だけでなく、その人と出会う人の潜在的なネガティブ性も刺激する。そのため、高い意識レベルで生きていて免疫ができている人を除いて、不幸は連鎖反応を通じて無数の人々に影響し、病気のように簡単に伝染していく(1P109, 2p151)。不幸はエゴが創り出した精神的な病であり、それは、伝染病になっている(2p124)

統一意識とつながった真の愛がないエゴの人間関係は破綻する

 ポジティブな感情は身体に良い効果を及ぼす。免疫システムを活性化し、身体を癒して元気にする。けれども、エゴが生み出すポジティブな感情と「大いなる存在」とつながった本来の状態から生じるもっと深い感情とは区別しなければならない(4p151)。エゴは、親密な人間関係や新たな所有物、あれこれの勝利で、せいぜいこの不安を一時的に紛らわすことしかできない(2p92)

 すなわち、どのような人間関係であれ、とりわけ、親密な人間関係である場合には、「大いなる存在」につながっていない場合には、亀裂が生じて機能不全に陥ってしまう(1p199)。これは、健全な愛ではない。愛することとは、ただ相手を見つめ、ふれあい、話を聞き、その瞬間以外、何も望まず、相手を認めることである。そして、誰かがあなたを認めてくれた時に、認め認められた二人を通じて「大いなる存在」の次元が豊かに導きいれられることになる。これは、どの人間関係にも当てはまる(2p118〜120)

 けれども、軽いペイン・ボディを持った子どもが重い子どもよりもスピリチュアルに進歩した大人になるとは限らない。むしろ、重いペインボディを持った人のほうが、スピリチュアルな目覚めに達する可能性が大きい(2p158)。挫折、喪失、病気等は、偽の自分や薄っぺらなエゴの欲望を手放させ、人間としての深み、謙虚さ、思いやりを教えてくれる(1p236)。一見、ネガティブと称される出来事にも深遠なレッスンが含まれている。より、高い視点から見れば出来事はみなポジティブなのである(1p237)

【引用文献】
(1) エック・ハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(2002)徳間書店
(2) エックハルト・トール『ニュー・アース』(2008)サンマーク出版
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川Oneテーマ21

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2015年07月03日

第22講 ニュー・アース(3) 死の恐怖が作り出した未来と過去

境界による二元論を克服しない限りは「進歩=幸せ」という幻想が続く

 生と死、善と悪、愛と憎悪、自己と他者。私たちは境界の世界に住んでいる。そのために争いと対立の世界に住んでいる。我々が抱えている問題の大半は、境界とそれが生み出す対立の問題だからだ(1p42)

 生物物理学者ルードウィヒ・フォン・ベルタランフィ(Ludwig von Bertalanffy, 1901〜1972年)は「リアリティとは、クサのニコラスが対立の一致と呼んだものである。究極のリアリティとは対立の統一なのだ」と述べた。哲学者アルフレッド・ホワイトヘッド(Alfred Whitehead,1861〜1947年)は「究極の要素は本質的に振動である」と述べた。原因と結果、過去と未来、主体と客体のように不可分なものは、実際には波の峰と谷のように単一の振動なのである。

 対立の内なる統一は、ゲシュタルトの知覚理論でよりはっきりする。ゲシュタルト心理学によれば、私たちは対照をなす背景との関係性なくして、モノや出来事を知覚できない。例えば、夜空に星が見えるのも、個別の星が見えているからではなく、暗い背景に明るい光が認識されるからである。一方の闇なくして他方の光を知覚することは絶対にできない。同じく、快楽も苦痛なくして自覚できない。快楽と苦痛が交互にやってくるように思えるのもそのためだ。互いのコントラストと交代をとおしてしか、互いの存在を確認できないからだ。ホワイトヘッドならば、快楽と苦痛とは単一の波の不可分な峰と谷だというであろう(1p47〜49)

 進歩も、ネガティブなものから離れ、ポジティブなものに向かって進んでいくことだ。すなわち、進歩の背景には「現在」に対する「不満」がある。となれば、進歩は不幸の同一のコインの裏表であろう。進歩を求めれば求めるほど不満がつのることになる(1p43〜44)

最初の境界、環境と身体の分離が死の恐怖を産んだ

 自然界にも生死はある。けれども、年老いたネコは来るべき死の恐怖にさいなまれているわけではない。静かに木の根元にうずくまり死んでいく。瀕死の駒鳥も柳の木にやすらかにとまり日没を見つめ、もはや光がみえなくなったとき目を閉じて静かに地面に落ちる。人間の死に際となんと違うことか(1p36)

 『創世記』によれば、アダムがしたことは、モノに名前を付ける、すなわち、あるグループとグループの間に境界線を引くことであった(1p38)

人間がつくりあげたあらゆる境界の中でも、最も基本となるのは、自己と非自己の境界である。それは、最初に引かれた境界であり、我々が最も明け渡したがらないもので、最後に消え去るのもこの境界である。すなわち、自己と非自己との境界は最初に引かれた原初の境界である(1p83〜84)

 この原初の境界が発生すると、人は自分の身体と環境にアイデンティティをもたなくなり、自分が知覚する世界と一体ではなくなる。皮膚を境界に身体は自己であっても、環境は非自己となり、環境と対立した自分の身体だけにアイデンティティを持つようになる。すなわち、自分が孤立した有機体として生きているとイメージするようになり、身体と環境との対立が作り出される(1p132)

 この原初の境界の発生によって、「統一意識」は孤立した自己の「個人の意識」となる。すると死の恐怖があらわれる(1p133)。死に直面するのは部分だけであって全体ではない。けれども、「真の自己」が特定の身体の中にだけに閉じ込められているとイメージすると、その有機体の死の不安が頭から離れなくなる。このため、自己を環境から切り離す瞬間に死の恐怖が意識の中に生じてくるのである(1p135)

死の恐怖が身体と心(エゴ)の分離を生んだ

 半身半馬の伝説的な動物、ケンタウロスは、自ら馬を監督する騎手ではなく馬と一体化した騎手である。心と身体が完全に統合され調和している「心身一如」の状態を表すものとして「ケンタウロス」の状態と言おう(1p140)。けれども、人が自分の身体が死ぬことを知っている。そこで、死を思わせる身体を取り払い、自分自身の観念を中心にアイデンティティを確立し、エゴとしてだけ生きのびようとする。こうして、身体と心に境界が発生し、こうして、身体は間抜けな獣、騎手にコントロール、管理される馬の役割に格下げされる。ケンタウロスの状態は崩壊し、エゴとしての騎手の自己イメージ、心理的な人格へとアイデンティティは狭められていく(1p140〜142)

 肉体が罪と同義語になるのはそのためだ。確かに、身体は苦痛の源である。けれども、同時に快楽の源でもある(1p185)。病による衰弱、癌の苦しみを感じるのは身体だが、同時に、エロティックなエクスタシーから、美食の味、日没の美しさを感じるのも身体の諸感覚である(1p20)。だから、エゴは苦痛もないかわりに喜びもないという大きな代償を支払っていることになる(1p185)

エゴは自分が認めない心を分離させペルソナだけを演じていく

 情緒不安定でカウンセリングを必要とする人の訴えで最も多いのが、誰も自分を好んでくれない。誰も気にしてくれないと感じる拒絶感である(1p168)

 心には、怒り、自己衝動、性的衝動等がある。エゴは次に自分が持つこうした好ましくない傾向を除外しようとして自ら境界を狭める(1p155)。すなわち、あるペルソナを作り出し、受け入れがたいすべてを自分ではない非自己の側においていく(1p145)。こうして、疎外された傾向はシャドウとして投影され、本人は狭められ痩せ細った不正確な自己のイメージであるペルソナだけと同一化する(1p155)

 要するに、境界が構築される度に、自己の感覚は制限、制約、矮小化され、アイデンティティは、宇宙、有機体、エゴ、ペルソナの順に移行し、自己はますます小さくなり、一方で非自己がますます大きくなっていく(1p153)

シャドウに向き合うことがエゴを健全なアイデンティティへと広げる

 投影していたシャドウに向き合い、それを再び所有しなおせば、貧困なペルソナから健全なエゴへとアイデンティティを広げることができる。ペルソナとシャドウとの分裂が癒され、境界が消え失せれば、より大きく安定したアイデンティティの感覚を味わえる。閉塞したアパートから心地よい家に移るようなものだ。そして、心地よい家からさらに広々とした邸宅に移るためには、身体を再び所有しなおせばよい(1p180)

身体の感覚を取り戻す

 前述したように、多くの人も身体と心との間に無意識の深く境界線を引いていて、身体を喪失している。誰もが「頭」が私であって、私は「身体」を所有しているを思っている。つまり、身体は「私のモノ」であって、「私」ではなくなっている(1p181)。頭の中の自己のイメージとそれに関連した知的・感情的なプロセスにアイデンティティを抱いている(1p21)。ペルソナからシャドウが投影されるように、「有機体」の中に境界が引かれ、身体は「非自己」として投影されてしまっている。米国の精神科医アレクサンダー・ローエン(Alexander Lowen, 1910〜2008年)は、この状態を霊的領域と身体とをブロック(封鎖)していると表現する(1p182)

 エゴは自分がコントロール可能な随意行動だけに自分を同一化させ、それ以外の自発的な不随意な行動は非自己的なものとしている。例えば、「わたしは腕を動かす」とは言う。けれども「わたしは心臓を脈打たせている」「わたしは血液を循環させている」「わたしは食べ物を消化させている」「わたしは髪の毛を伸ばしている」とは言わない。つまり、身体が、無意識に行なっている消化、代謝、成長・発達等の不付随な活動を自分とは認めない(1p184)

 そこで、まず、絨毯やマットの上に仰向けに寝て、深く呼吸をしながら身体感覚を探り始めてみよう。どれだけ、自分の意識が身体にとどまることが難しいかがわかるだろう(1p190)。そして、どれだけ、身体に緊張のブロックがあるかどうかをチェックしていく。例えば、首や肩の凝りは、抑圧された怒りや敵意を表す(1p193)。そして、身体のブロックのあちらこちらがコントロールできないことに気づくであろう。この気づきが重要だ。不随意があることを受け入れることは、髪を伸びを速めたり、血液を逆流させたり、身体を自分でコントロールできるようになることではない(1p201)

 エゴは現状が幸せではないと感じて、モノやおもちゃで自分を取り囲むことで喜びを生み出さなければならないと勘違いしている。これは、外から喜びと幸せを呼び寄せられるという幻想を強めるだけだ。けれども、高慢なるエゴが意識的に対応できることはせいぜい二つか三つにすぎない。これに対して、身体はエゴの助けも借りずに、消化作用、神経伝達等、何百万ものプロセスをいまこの瞬間にも調整している。ケンタウロスのレベルに立ち返ることは、すでに身体そもののから喜びが湧き出ていることに気づくことにある(1p202)

心身一如を取り戻すことは、いまをフローで生きることにつながる

 ケンタウロスのレベルを復活させることは、アブラハム・マズローの自己実現、あるいは、米国の心理学者ロロ・メイ(Rollo May, 1909〜1994年)の言う『人生の意味』が関わってくる(1p204)。エゴだけの狭いアイデンティティを手放し、ケンタウロスのレベル、エゴと身体を同一化し、心身が統一されたアイデンティティを確立することは、実存的自己の発見を意味する(1p186,206)。 

 確かに、人生にエゴ的な意味を見出すことは、ある時点までは適切なことである。けれども、例えば、健全なエゴを発達させ、車や家を手に入れ、仕事で認められ、モノを買い集めた後にはどうなるのだろうか。外に物質的な欲望を追求することに魅力がなくなったとき、待っているものがただ死だけであることが明らかになったとき、どうすればよいのであろうか。人生の真の意味を見出すことは生命の死を受け入れることであろう。米国の詩人、画家、随筆家、E・E・カミングス(Edward Estlin Cummings, 1894〜1962年)は、エゴを超えたところには、「すること」が減り、「ただ在ること」が増えるといった意味を超えたものがあると指摘する。

 そして、意味はモノを所有することではなく、友人や社会との関係性、自分自身の存在という光輝く内なるフローに見出される(1p205〜206)。そして、この喜びは今の瞬間に内側から生じるものだ。エゴが時間の中に住み、利益を求めて首を未来へと伸ばし、過去の損失を嘆いているのに対して、ケンタウロスはつねにいまのフローの中に住んでいる。未来に要求することも、過去にしがみつくこともなく、永遠のいまの贈り物に充足感を見出しているのである(1p203)

現実には瞬間のいまが存在するだけで未来も過去も存在しない

 私たちは一般に「永遠」という言葉を何億、何百億年と果てしなく続いていく非情に長い時間だと誤解している。けれども、神秘主義者によれば、永遠とは果てることのない時間ではなく、時間がないという自覚が永遠なのである。永遠の瞬間とは、過去も未来もなく、時のない瞬間瞬間で生きることが統一意識の中で生きることなのである(1p109)。一遍(1239〜1289年)は「あらゆる瞬間は最後の瞬間であり、あらゆる瞬間は再生である」と語る(1p136)

 現在こそが唯一のリアリティであり、他に何かがあるわけではない。そして、現在の瞬間には始まりはない。同じ理由で、現在の瞬間に終わりもない。すなわち、現在の瞬間には、過去もなければ未来もない。時がないのである。そして、時がないものは永遠であろう。果てしなく続く時間という概念の方がある種の奇形なのである(1p111)

 古来より数多くの宗教指導者は、「いま」の重要性を指摘してきた。聖書は「明日のことを悩んではならない。明日のことは明日になればどうにかなる」と述べて来た(2p76)

 13世紀のドイツの神秘主義者、マイスター・エックハルト(Meister Eckhart, 1260年頃〜1328年頃)は「我々から光を遮るのは時間である。神の道(統一意識)を歩むうえで時間ほど神を妨げるものはない」と述べている(1p109,2p77)。過去や未来に縛られる必要はなく(1p124)、キリスト教神秘主義者は、これを「いまの姿勢(ヌンク・スタンス)」と呼ぶ(1p123)

 イスラム神秘主義スーフィズムの指導者、ジャラール・ウッディーン・ルーミー(Jalāl ad-Dīn Muḥammad Balkhī-e-Rūmī; 1207〜1273年)も「過去と未来は、神を覆い隠して私たちの目をくらます。過去と未来を炎で焼き尽くせ」(2p77) 、「スーフィーはこの瞬間の息子である」と呼びかけた(1p112)。スーフィズムでも「いま」が根幹をなす要素なのである(2p77)

エゴは未来と過去という時間概念によって生きている

 にもかかわらず、いまだけの瞬間に完全に生きている人はほんとうに少ない。現在の瞬間をおそらく1〜2秒しか続かない過ぎゆく過去、痩せ細った現在として感じている(1p113,121)。これをキリスト教の神秘主義者は「いまの流れ(ヌンク・フルーエンス)」「過ぎゆく現在」と呼ぶ(1p121)。そして、欠如しているものを未来がもたらしてくれることを期待して生きている(1p113)

 米国の思想家、ラフル・ワルド・エマーソン(Ral1ph Waldo Emerson, 1803〜1882年)は、こう指摘する。

「人間は未来をあてにしたり、思い出したりする。人は現在を生きてはおらず、振り向いては過去を嘆き悲しみ、周囲の豊かさには無頓着で、背伸びして未来を予見する。時間を越えた現在のなかで、自然と共に生きるまでは、人は幸せにもなれなければ強くもなれない」(1p115)

 悩みとは常に未来や過去に関係している。すなわち、未来の結果を恐れ過去の行いを嘆くことから生まれている(1p113)。例えば、私が幸せになるためには、これから、あることが起きる必要がある。それが起きていないから不満だ。そして、不満に思っていれば、そのうちそれが起きるかもしれない。あるいは、過去に起こってはならないことが起こった。それを私は恨んでいる。あれが起こらなければ私はいま安らかな気持ちでいられたのに、というわけである(4p127〜128)

 これは、エゴが時間の中で生きているためだ(4p220)。エゴにとっては、未来と過去とがすべてであり、いま、この瞬間は存在しない(2p37)。未来と過去、いう時間概念なくしてはエゴは機能できない(2p53)。すなわち、エゴの思考とひとつになることは、時間の罠にはまることでもある(2p72)。自己実現は未来に依存し、自分がどのような人間は過去から規定する(4p220)。したがって、ほぼ自動的に、未来への期待と不安と過去の記憶とだけを糧に人生を送るようになる(2P72)

死の恐怖が未来という時間概念を作り出し、未来に期待することからストレスが産まれる

 あらゆるユートピアのビジョンには、すべてがうまくいき、すべてが守られ、平和と調和が実現し、すべての問題が解決する未来が描かれている。その核心には、構造的な機能不全の古い意識が横たわっている。救済を未来に求めているのである(4p329)

 現在という瞬間に対してエゴは、未来が重要だと考える(4p220)。エゴは「いつの日にか○○が実現したら、その時、はじめて私は幸せになる」と未来をいつも気にかけている(2p38)。けれども、その未来は頭の中の思考としてしか存在していない。そして、「現在」という瞬間は、あるべき未来のための克服すべき障害となっていく。このため、苛立ちや欲求不満、ストレスが生じていく(4p220)。不安、緊張、ストレスは、いずれも恐れの一種だが「いま」が欠落し、未来に関係している(2p86)。すなわち、ストレスは、「現在」にいながら、「未来」にいたいと思うことから産まれる(2p116)。人生は問題だらけとなり、問題を解決しなければ幸せになれず、本当に生きられないと思い込む(4p220)

 それでは、なぜ、未来の概念が作り出されたのであろうか。それは、死の恐怖が強烈な時間感覚を生み、未来を探求し、未来に向かって進む原因となっているからだ(1p136)。スーフィーの神秘主義者、ハズラット・イナヤット=カーン(Hazrat Inayat Khan, 1882〜1927年)は「死などというものは幻想以外存在しない。人が生涯の間、恐怖としていだき続けるのはその幻想の印象である」と語っている(1p136)。けれども、人は死の幻想を追い払うために、時間と言う幻想を用いる。死を拒絶することが、未来を持たずに生きることを拒絶することとなり、時間が最も貴重な持ち物となり、未来が唯一の目標となるのである(1p137)

過去は記憶にすぎないが、未来を求めることが過去の物語を作り上げている

 そして、前方に本物の未来を要求するために、後方には本物の過去を見たがる。こうして、記憶に執着し、無条件に過去と同一化する(1p139)。けれども、過去は実は存在していない。私たちが過去だと思っているものは、頭に記憶として保存された、かつての「いま」の断片にすぎない(2p74)。すなわち、過去とは「記憶」である。そして、記憶そのものは問題ではない(1p126,4p155)。それどころか、記憶のおかげで私たちは過去の過ちから学ぶことが出来る(4p155)

 けれども、問題なのは、記憶を実際の過去の経験と思ってしまい(1p126)、思考が「過去」に支配され、それが重荷になるからである(4p155)。エゴは「現在」に注目しているように思えても、実は「過去」というフィルターを通じて「現在」を眺めているのである(2p38)。すなわち、時間概念の境界が「内側の小さな自己」という幻想を生んでいる。ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895〜1986年)は「この内なる小さな人間はすべて記憶によって構成されている」と語った(1p125)

 すなわち、心は過去によって条件づけられている。だから、過去に反応し続けるしかない。東洋ではこれをカルマと呼ぶ(4p145)。すなわち、罪悪感、後悔、怒り、不満、悲しみ、恨み等の許せない心は、「いま」が欠落し、過去の記憶から産まれているのである(2p86)

 要するに、未来も過去も現在に境界の線を引かれた幻想の産物にすぎない(1p116)。まず、現在の瞬間に境界を設けて、過去から「過ぎゆく現在」をとおって未来へと流れる動きと捉えるとどうなるであろうか。過ぎゆく現在は、自分の後ろにある現実的な実体を持った「過去」と、過去よりは少々不確かではあるがやはり実態のある「未来」によってはさまれるように思えてくる。この過去と未来とがあまりにも現実に思えるために、サンドイッチの中身である現在の瞬間は、薄いスライスにされ、我々のリアリティは中身のない両側のパンだけになってしまうのである(1p122〜123)

時空間の境界がなくなるときエゴの死は消滅する

 ほとんどの人たちは恐怖のために死から顔を背けようとしている(3p183)。とりわけ、西洋文化では、死を忌むべきものとする風潮が寝ずよく、老いさらばえた人の大半は養老院に閉じ込められ、死体は人目に付かないところに隠される。けれども、死を否定するとき、生命の奥深さや神秘は失われてしまう。古い文明を伝える場所ではすべて死体は開放されている。仏教の宗派によっては、死体安置所での瞑想を習慣にしている(3p184,4p306〜307)

 我々は誰もが「物事の終わり」に不快感を抱く傾向がある。仲間同士の集いでも、子どもの巣立ちでも、ある経験が終わりを迎えるときには、それはある程度は死を意味するからだ。多くの言語が「さようなら」の挨拶に「また会いましょう」の言葉をあてているのもこのためだ(3p185)

 私と命が別物であることから、大切な宝物である命が失うことがありえ、死が現実の恐怖となる。けれども、私の命という言い方ことが分離という妄想でのエゴの源泉といえる(4p141)。生命の対極に位置するものは死ではなく、誕生である(3p181)。死はこの世の中で最も自然な現象で誕生と切り離すことができない(1p194)。分離した自己は幻想であるから、分離した自己の死も幻想なのである(1p136)

 普通の人は、ペルソナ、エゴ、ケンタウロスのレベルで存在している。このため、個別な自己が永遠にいき続けることを心から願う。けれども、心もエゴも身体も不死ではなく、死ぬ運命にある。一方、トランスパーソナルな体験には不死の直感が伴うが、輪廻転生するのは自分のエゴではない。シャンカラ(Shankara,700年頃〜750年頃)が言うように、唯一転生するのは超越した自己なのである(1p230)

【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) エック・ハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(2002)徳間書店
(3) エックハルト・トール『世界でいちばん古く大切なスピリチュアルの教え』(2006)徳間書店
(4) エックハルト・トール『ニュー・アース』(2008)サンマーク出版
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2015年07月02日

第21講 ニュー・アース(2) エゴの構造

はじめに

 エックハルト・トール(Eckhhart Tolle, 1948年〜)の分析によれば、諸悪の問題は「エゴ」にある。エゴ(思考と感情)は、ペインボディ(潜在意識下のカルマ)から生じるが、トールは、エゴがなぜ生じ、かつ、ネガティブになってしまうのかを分析する。

20EckhartTolle.jpg エゴは、自分がネガティブ思考に陥っていることを自覚する場合には、自分を悲劇の主人公にしたてあげるが、ネガティブ思考に陥っていることに無自覚な場合には、モノや身体、思考等と自分とを同一視することで、その虚しさを埋め合わせようとする。それは、エゴがアイデンティティを求めるからなのである。第20講では「エゴがモノを求め続けるのは、『大いなる存在』との一体感を感じられない欠乏感をモノで代用しようとしているからだ」(2p60)と書いた。トールによれば、エゴこそが消費社会を成立させている。したがって、脱消費社会・脱経済成長社会を実現するには、エゴとは何かを理解しなければならないであろう。今回は、『奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき』(新潮文庫)の著者、ジル・ボルト・テイラー(Jill Bolte Taylor,1959年〜)博士とトールの分析から、このエゴの構造をさらに掘り下げてみよう。

エゴはなぜ生じ、ネガティブに陥ってしまうのか

エゴの発見

 ルネ・デカルトは、常に自分が考えているという事実は疑いないとした。そして、「われ思う。ゆえにわれ在り」と述べた。けれども、デカルトは、「存在」と「思考」を同一化した。究極の真実を発見するかわりにエゴの根源を発見した。けれども、それに自分で気づいていなかった。

 デカルトが誤っていると気づかれるまでには300年がかかった。ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre, 1905〜1980年)は「われ思う、ゆえにわれ在り」という言葉を吟味し、「『われ在り』と言う意識が考えている意識とは別だ」ということに気づいた。その洞察は深かった。けれども、サルトルも依然として自分を思考と同一化していたために、自分が発見した意味を理解できなかった(2p64〜65)

感情とは恐怖に対する身体からの反応である

 生命は脅威や挑戦にさらされると、「知性」が働くことによって反応する。例えば、ある危機に直面して、その生命体の生存が脅かされれば、戦うか逃げるかの選択を迫られ、呼吸も速くなる。これが原初的な「恐怖」である。また、追い詰められれば大きなエネルギーが突然に湧き上がる。これが現象的な「怒り」である。こうした外的状況に対して、身体は直接的に反応する。これを「本能」と呼ぶ。同時に、外的状況に対して身体から神経系に対してもフィードバック反応がなされる。これが「感情」である(2p148)。すなわち、「感情」とは、身体と思考との接点から産まれる(1p41)

 不安や恐怖は「私はいま危険だ」という感情による情報である(2p149)。ネガティブな「痛み」の感情には、それ以外にも怒り、悪意、嫌悪、憎悪、自己憐憫、悲しみ、罪悪感、憂鬱、嫉妬、羨望等がある(1p48, 2p151)。こうした感情は比較的たやすく認識できる。その一方で、なんとなく落ち着かない、気が重い、胸が締め付けられるといった簡単に捉えられない感情もある。これらは、身体的な感覚と感情との中間に位置するものである(1p161)。いずれにせよ、こうしたネガティブな感情は、身体を流れるエネルギーを撹乱する。心臓や免疫システム、消化やホルモン生成を妨げ、身体に害を及ぼす(2p151)

左脳での思考がネガティブな物語を産み出している

 さて、たいていの人の、頭の中では、「感情」だけでなく、絶え間なく「思考」の流れが続いている(2p71)。トールによれば、情報の収集、分析を得意とし、評価を下し、比較し、文句を言うといった活動を休みなく行っているこの思考力は、人間がサバイバルするために産み出されたツールである(1p32,1p39)。けれども、トールは、これが、状況に適しているかというと必ずしもそうではなく、むしろ、思考は、たいがいは「何か良からぬことが起きるのではないか」という悲観的な見方をし、これが不安を産み出しているという(1p32)

21Taylor.jpg ジル・ボルト・テイラー博士によれば、過去に学んだことに基づき、良い悪い、正しい間違っているというこの決断を下しているのは左脳である(3p226)。さらに、左脳の言語中枢が「物語」を機能させるため、ネガティブ思考が作られるという(3p246)。そして、ほとんどの人の思考活動の80〜90%は堂々めぐりである。それは無駄なだけでなく、ネガティブな性質のためにむしろ有害で、生命エネルギーを流出させている(1p36)

 すなわち、私たちは普通の状態の思考や感情をほんとうの自分だと思い込んでいる。けれども、この状態では、不安、不満、退屈、心配といった低レベルの意識、思考にコントロールされている(1p102)。思考活動を「ほんとうの自分」とみなしているほど、エネルギーの消費量は大きくなる(1p41)

 さらに、身体は実際の状況と「思考」とを区別できない。そこで、すべての思考に対してそれが事実であるかのように反応してしまう。そこで、たとえ、温かく快適なベットに寝ていても、不安や恐れが産まれれば身体は反応し、筋肉が緊張し、呼吸が速くなる(2p149)。例えば、攻撃的な思考は、怒りのエネルギーを身体に蓄積させる(1p41)

 テイラー博士は、左脳は、真実だと信じ込んだ「物語」を繰り返し心にこだまさせ、思考パターンのループを作り、知らず知らずのうちに最悪の事態を考えるようにしていくと指摘する(3p234)。心は探しているものに集中するようにできているため、特定の神経ネットワークの回路に意識を払えば払うほど、特定の思考に多くの時間を費やすほど、そうした回路や思考パターンはわずかの刺激で容易動くようになるからだ(3p225)。すなわち、身体は頭の中の声が語る「物語」を信じて反応し、「感情」を生み出す。そして、この感情を生み出した思考に、また感情がフィードバックでエネルギーを供給していく(2p150)

ネガティブな感情がネガティブな思考と物語を創り出す

 そして、ほとんどの人々は、過去の感情的な苦痛を抱えている。このエネルギー場を「ペイン・ボディ」と呼ぼう(2p155)。さて、思考には思考内容毎の周波数帯があり、ポジティブな思考は高い周波数で振動しているが、ネガティブな思考は低い周波数で振動している(2p161)。そして、ペイン・ボディは、それと同種のエネルギー、すなわち、同じ低い周波数で振動しているネガティブなエネルギーだけを糧として消化する(2p159)。前述したように、普通のパターンでは思考によって感情が産み出されているが、ペイン・ボディの場合では、ペイン・ボディから発した感情が思考を乗っ取り、思考がネガティブとなって物語を作り出していく。あとの残されたのはへとへとになって弱って病気にあっかりやすくなった身体だ(2p162)。そして、物語の感情がネガティブな内容であればあるほど、その物語は重く強固になっていく(2p189)

エゴはネガティブ思考のエネルギーの塊

 要するに、たいていの人は、頭の中で絶え間なく続く「思考」の流れとそれに付随する「感情」、しつこく反復される精神・感情のパターンの塊と自分とを完全に同一化している(2p63,71)。この肉体や物質よりもさらに精妙で密度も薄いが、意識の場から常に生起する思考の形をエゴと呼ぼう(2p63)。思考と不可分なエゴの次元が感情であり(2p148)、特定の状況に対するエゴ思考の産物が感情といえる。例えば、誰かの車が盗まれたと聞いてもふつう何の感情もわかない。けれども、それが自分の車であるとわかった時点で、とてもあわてるし苛立つ。これひとつとっても「私の〜」というエゴの観念がどれだけ大きな感情を産むのかがわかる(2p149)。前述のペイン・ボディとエゴは密接に関係して、両者は互いに必要としているし(2p188)、エゴは病気すら引き起こす(2p60)

ネガティブに無自覚なエゴは何かと同一化することでアイデンティティを維持する

 それでは、なぜ、そのような不健康な思考活動に絶えず人が溺れているのかというと、この思考によって自分のアイデンティティが確立されているからである(1p37)。アイデンティティという言葉は、ラテン語の「同じ」という意味の「idem」と「作る」という意味の「facere」が語源となっている。すなわち、「それを私と同じだとする」ことが、アイデンティティなのである(2p44)

エゴは心の隙間を埋めるためマネーや肩書きを求める

 エゴは、私たちが他の存在とは切り離されて存在し、敵だらけの世界の中で孤立した「かけら」だと考えている(1p241)。このため、エゴ思考には「私は不十分である」という根強い気持ちが常に伴う。この感覚が自覚されていない場合は、何かに対する渇望という間接的な形を取り、心にぽっかりと空いた隙間を埋めるために、金、成功、権力、賞賛等、あくなき欲望にのめり込む(1p67)。エゴが自己証明として利用する典型的なものには、所有物、肩書き、職業、知識、学歴、ルックス、家柄、信念体系、人からの評価等である(1p68)。すなわち、エゴは承認、賞賛、賛美等を外部に求める(2p99)

 すなわち、エゴは外的なモノと自分とを同一化することでアイデンティティを確立しようとする。けれども、エゴは他人との比較で生きている。このため、誰もが豪邸に住んでいれば、豪邸も富も自分のアイデンティティを高めることには役立たない。そこで、あえて粗末な小屋に住み、富を放棄してみせることで、自分は他人よりもスピリチュアルな存在なのだと思うことでアイデンティティを取り戻そうとすることすらある(2p54)

エゴは心の隙間を埋めるため職業的な役割を求める

 部族文化が古代文明へと発展するにつれ、人々には支配者、聖職者、戦士、農民、承認、職人、労働者等の役割機能が割り当てられるようになった(2p102)。生まれつき決められた仕事がそのアイデンティティとなり、他者の眼に映る自分が自分が何者かを決定した(2p103)。軍隊や教会、役所や大企業等の階級組織の機能は、役割としてのアイデンティティとなる。中流社会の主婦、誘惑する女性、タフなマッチョ、反体制的な芸術家、知識をひけらかす文化人等の普遍的な役割もある(2p105)。けれども、現代社会は昔ほど社会構造が硬直的ではない。このため、自分がどこにおさまればいいのか。生きる意味がなになんか、自分が何者なのか、混乱が増すばかりとなっている。こうしたカーストや社会階級の無意味さを見抜いていたのは、ブッダやイエス等極稀な人物だけであった(2p103)

エゴは心の隙間を埋めるため身体と自分とを同一化する

 さらに、エゴは身体と私とを同一化することによってアイデンティティを得ている。伝統社会では男性も性的能力の欠陥、女性も未婚や不妊が低く評価される。欧米では、他人と比較した強弱や美醜が自尊心に大きく影響する。けれども、肉体的な力や美しい容貌、能力等と自分を同一化している人は、そうした資質が衰えていけば苦しみを味わうことになる(2p59)

エゴは心の隙間を埋めるため国家や集団と自分とを同一化する

 満足しない自己から逃れる方法のひとつとして、エゴは、国家、政党、徒党等に自分を同一化することによって強く、大きくなったつもりになることもある。集団の大きな目的のために生涯を捧げ、個人的なエゴが完全に溶解しているように思える。けれども、それが本当にエゴから解放されたのか。エゴが個人から集団にシフトしただけなのかが問題である(2p139)

不安に駆られたエゴの望みは永久に満たされない

 けれども、欲しかったモノを手に入れ、欲望が満たされた直後というほんの短い瞬間を除いて、満足感は失われていく(1p67, 2p226)。すなわち、エゴ的な思考が人生をコントロールしている限り、真の心の平安を手にすることはできない(1p67)。エゴに支配されている限り、望みがかなわないという不幸と望みがかなうと言う不幸が襲う(2p226)。この不安感を除くため、多くの人は、テレビ、ショッピング、仕事、セックス、ドラッグ、酒等を麻薬代わりに使っている(1p103)

ネガティブを自覚したエゴは悲劇の主人公を演じることで心の隙間を満たそうとする

 エゴ的思考には「わたしは不十分である」という根強い気持ちが伴う。この感情を自覚している場合には「私は価値がない」という不安な感情が常に表面化する(1p67)。すなわち、エゴには、自分はダメな人間であるというネガティブな自意識が常に伴う(2p99)。このネガティブ思考の根源は、子ども時代に条件付けられることが多い。例えば、親や兄弟との信頼関係が築けなかった人は、無意識に人を信用できないと想定する。そして、「誰も私を評価してくれない。感謝もしてくれない。闘わなければ生きのびられない。私は豊かになる価値がない。愛されなくてもあたりまえだ」と想定(2p150)し、不幸な自分というイメージを抱くことで独特の満足感を得ている(1p63)。すなわち、思考は暴走し、不安や苦しみを産み出す「偽の自分」エゴをでっちあげる(1p28)

ネガティブな状態にいればエゴは欲しいものが手に入ると信じ込んでいる

 奇妙なことだが、エゴはネガティブな状態に喜びを感じ、ネガティブな状態を作り出せば、現実がコントロールでき、それによって欲しいものが手に入ると信じ込んでいる(1p251, 2p125)

 そこで、同情や憐みという形で他人の関心を求める被害者役は、非常にありふれたエゴが演じる役割のひとつである。セラピストの誰もが知っているように「問題」が、アイデンティティの一部になっているために、エゴは問題の終結を望まない。私の悲しい物語を何度も自分に語り聞かせて憐憫にふけることで、他人や運命や神によって不公平な目にあわされている自分というアイデンティティを守れるからである(2p101)

ネガティブなエゴは、他人から関心をもたれたいという自尊心を内心で求めている

 パーソナリティが分裂しているという面から見れば、エゴは「統合失調症」である(2p141)。精神病の多くは誰にでもあるエゴが極端になったものである。嘘を付くのは自分を特別に大きく見せようとするための虚構の構築物である(2p132)

 妄想型総合失調症は、常につきまとう不安を理屈づけるため、心が虚構の物語をつくりあげる。その一つが、自分を誰かが陥れたり、殺そうとしているという物語である。国家や組織にもこうした妄想症的な信念体系があることがある。また、自分が迫害されている、監視されている、脅かされているという妄想もある。自分が迫害されていると思えば思うほど、これほど多くの人から関心の対象となるだけ自分が特別な存在なのだと感じることができる(2p133)。エゴの妄想的な物語の中では、自分は被害者であると同時に、悪の軍隊を打ち負かし、世界を救済する力を秘めた英雄なのである(2p134)

ネガティブなエゴは、自分は正しいと主張し敵を求める

 目立ちたい、特別でありたい、支配したい、力が欲しい、関心をもってもらいたいとエゴに隠された動機(2p91)、「自分が特別だ」という感覚を得るためには、「他者」の存在が必要である。そして、その他者は、私が「敵」とみなしたときに最も確かな存在となる(2p72,73,92)。このため、エゴは心の中で相手に否定的なラベルを張り付け、悪口雑言を言う習慣が産まれる(2p72,73)

 すなわち、自分が正しく他者が間違っているという考えは、エゴの心のパターンのひとつである(2p53)。自分が正しいという思いほどエゴを強化するものはいない(2p78)。これが、個人間の暴力や国家間の戦争になっていく(2p72)。すなわち、それは、自分の痛みの感情を相手を攻撃するやり方で投影している(1p205)。そして、他者を批判したり非難していると自分が大きく優れていると感じられる(2p72)

 これまで、自分こそが正しいという主張をめぐって幾多の闘争が起こり、数知れない人間関係が破綻してきた背景には、絶対に自分が正しくなければ、アイデンティティが保てないという感情的暴力があるのである(1p66)

エゴは怒りと恨みと不満を抱き続けていることを求める

 他人に対する不満は無意識であるため気づけないことが多いが(2p73)、不満も自分だけが正しく、不満の対象である人や状況が間違っているとと暗黙のうちに想定している(2p78)。真実だと知っていることを淡々と述べるだけであればエゴは介入しないが、どうして私を信じないのかと言えばエゴが既に介入している(2p79)

 他者との分離意識を強め、「正義」という難攻不落の砦のような精神状態を産み出すことから、怒りや恨みには(2p125)、一時的だが、強烈にエゴを拡大する効果がある(2p125,2p233)。そして、これが、エゴのエネルギーになっていく。このため、エゴは他人だけでなく状況に対しても不満や恨みを持つことを好む(2p75)。エゴは常に自分が小さくなるのではないかと警戒している(2p232)。このため、エゴはこの状況が変化することも好まない。それは、不満を言い続けることができるからである(2p75)

ネガティブなエゴは、他人を攻撃することで優越感を感じるが、その根には不安がある

 要するに、エゴ的な関係で最も多い三つの状況は、@欲望、A欲望の挫折(恨み、怒り、非難、不満)、B無関心である(2p96)

 このネガティブな自意識の背後には必ず、エゴ他者よりも優れて偉大でありたいという願望が隠されている。そして、優越感を感じたいというエゴのさらに奥には、自分が劣っているのではないかという無意識の恐れが存在する(2p100)。何かを失うことへの恐れ、何かを失敗することへの恐れ、傷つくことへの恐れ。これらは、すべて、つきつめるとエゴの恐れに帰着する(1p65)。エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である(2p92)。すなわち、エゴは他者の関心を求めながら、同時に、深いところで他者を憎み、恐れているという矛盾したジレンマを抱えている(2p99,133)

【引用文献】
(1) エック・ハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(2002)徳間書店
(2) エックハルト・トール『ニュー・アース』(2008)サンマーク出版
(3) ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(2009)新潮文庫

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posted by la semilla de la fortuna at 22:50| Comment(0) | 宇宙と生命 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする