2015年10月12日

第50講 スピリチュアル・エコロジー入門(1)〜アイゼンシュタインの開発論 第50講 スピリチュアル・エコロジー入門(1)〜アイゼンシュタインの開発論

はじめに
50 Charles-Eisenstein.jpg 『人類の進歩(The Ascent of Humanity, 2007)』、聖なる経済(Sacred Economics,2011)』、『さらに美しき世は可能だ(The More Beautiful World Our Hearts Know is Possible, 2013)』等の著作で知られるチャールズ・アイゼンシュタイン(Charles Eisenstein,1967年〜)は、かなりラジカルな主張で知られる。生物学と贈与経済から展開されるその論理は、スピリチュアルな世界へと踏み込んでいく。アイゼンシュタインのブログの要旨をいくつか紹介してみよう。

開発には限界があるのに、開発が本質的に問われないのはなぜか

 先進国/開発途上国の区別で暗黙とされているのは、先進国によって例証された社会経済的な発展のコースが正常で、必然的であり、概して望ましいという想定である。もし、私が先進国にいて、あなたが途上国にいるのであれば、それは、あなたの運命が私のようになることであることを意味している。

 けれども、今日、この開発の物語の決定的な欠陥がいくつか明らかになりつつある。なかでも最悪なのは、資源使用とエコロジカル・フットプリントの問題であろう。誰もが北米や西ヨーロッパ人のように暮らせるだけの資源は地球上にはないし、空気、森林、海洋も大量の汚染に耐えられない。そして、数多くの社会的な病は、社会エンジニアリングによって修復できる一時的なものではなく、開発と切り離せない仲間のように思える。

開発は文明を定義する神話的イデオロギーとなっている

 にもかかわらず、開発はノーマルな概念として、そのあり方が本質的には問われずにいる。そして、そのかわりに『グリーンな開発』や『持続可能な開発』が語られている。開発のあり方を問うことが難しいのは、それが奥が深いイデオロギー的構築物だからだ。もし、開発を根本から批判したらどうなるか。「教育の恩恵」あるいは「近代医療の恩恵」あるいは「貧困を緩和し、飢えた人を養うためになされてきた進歩」すらを考慮せず、批判するというラディカルな領域に踏み込んでしまう。つまり、開発は、人間の性質やリアリティの性質、存在そのものの性質についても関わる深い想定と結びつき、私たちの文明の定義する神話の不可欠な部分となっている。

 けれども、いま、文明は、その最も深い物語の基礎を容赦なく蝕む大きな危機に直面している。とりわけ、美しい地球に対して人間が行ったことによるエコロジー的な危機から、自然を支配して進歩していくという物語が疑われ始めている。確かに、開発の物語はいまだに強力で圧倒的ではある。けれども、そのコアでは空洞化が進行している。未来のオルタナティブなビジョンから根本的なレベルで開発を問いかける時が来ている。

開発はマネー化されていない資源をマネー化することである

 アイゼンシュタインによれば「開発」とは、支配者たちに都合がよいように、従来の暮らし方には価値がないものだと信じ込ませる「植民地主義の物語」である。この植民地主義の経済利益を反映して開発政策も進められてきた。開発途上国が農業社会から産業化社会へと転換することに対して、先進国からは、補助金や資金が融資されてきたが、それは、地元の石油、鉱物、土地、木材、労働力等をグローバルな資本が利用できるようにするためであった。実際、開発援助によって実施された巨大プロジェクトの利益はグローバル企業やごく小数の地元エリートや手に落ち、事業を実施した国家には返済不能なほどの莫大な借金しか残されなかった。そして、この借金を返済するために天然資源や労働力を安く入手できる。

 開発に伴うテクノ進歩的な光沢を取り除けば、開発が意味することが、マネー化であることがわかる。市場開発とは、土地を商品化し、森林を木材料資源に転換し、非貨幣的な交換・わかちあい・相互援助を市場サービスに転換することなのである。そして、今日、世界の金融システムはこの『開発』を継続することに依存している。

 一日2ドル以下で生活しているインドのある僻村の村人をイメージしてみよう。その収入を自分の暮らしと比較すれば、飢えた悲惨な生活しか見えてこない。けれども、この村人たちが100人以上もの拡大家族の中で、ほとんどの食料を自給していたとしよう。悲惨なイメージはガラリと変わる。食料を購入するためのマネーが必要ではなくなるからだ。同じく、村の誰もが無料の素材で家の建て方を知っていれば、住宅のためのマネーもいらない。拡大家族によって土地が共有されていれば、借地代もいらない。この拡大家族の中では、食事代もクリーニング代も子どもの養育費もまったくいらない。そして、村にはハーブや民間療法の豊かな伝統がある。娯楽や遊びも村の機能としてマネーを必要とはしない。人々が互いにケアしあえば、保険の必要性もまったくない。そして、インフォーマルなプレッシャーが社会的ノルマを強制するため、警察もいらない。

 けれども、泥れんがの家をコンクリート製の住宅に取り替え、拡大家族の絆をバラバラの核家族に取り替え、相互援助システムを保険に取り替え、共有された土地を資産に取り替え、料理の知識をファーストフード・レストランに取り替え、ローカルな物語や関係性を、ブランドから引き出されたアイデンティティに取り替え、歩くことを自動車に取り替え、伝統的な歌をエンターテインメント製品に取り替え、持続可能な自給農業を輸出商品作物に取り替え、土地に根ざした経験的な学びを学校のカリキュラムに取り替え、村のヒーラーを医療クリニックに取り替え、すべての若者たちを都会へと送ればどうなるか。これが開発と呼ばれるものなのだ。

利子付きでマネーが創造されるシステムでは贈与関係の不断の破壊とマネー化が必要である

 もちろん、医療クリニックよりも村のヒーラーの方が絶対的に優れていると言っているわけではない。ただマネー化とともに開発イデオロギーがゆきつく先をおみせしたかっただけだ。見るがいい。上述したどの変化も、投資の機会になっているではないか。すなわち、かつて人々が贈与経済の中で実施してきた機能にマネーを使うようになれば、金融システムの生き残りに欠かせないGDPは上昇するのだ。

 マネーが利付きの借金として創造されるシステムの中においては、資本の融資の機会はなくなり、失業が増え、成長なくしては破綻する。したがって、先進国とは、経済成長のためのさらなるチャンスがほとんど残されていない国と定義できる。そして、このシステムが生きのびるためには、新たな成長市場を開発しなければならない。

 このように見れば、「開発」がマネーシステムが必要とするイデオロギーであることがわかる。それは、本当に必要なものではない。けれども、借金をベースした金融システムは、成長に依存するため、これが必須条件となる。となれば、『グリーンな開発』といった賞賛されるようなアイデアをどれだけ打ち出したところで、このシステムそのものが変わるまでは、天然資源を商品化し、社会的関係性をサービスへと変換するプレッシャーは弱まることはないし、そこから逃れることはできない。

 その良い事例が、バイオ燃料という妄想である。バイオ燃料は、化石燃料の増加に対するカーボン・ニュートラルなオルタナティブとして提案されたが、ブラジル他の国において大規模な土地が強奪され、先住民や小規模農家を追い立てて森林伐採が行なう機会を生みだした。土地、森林、自給自足農民、光合成能力がマネー化されたことになる。

 開発では部外者が「我々は皆さん方よりもよくわかっている」と語り、その信念を経済力や軍事力によって強制していく。この植民地主義的な性質の本質は帝国主義である。

「いやいや、こうした人々は開発を望んでいる。自動車やテレビ、高層建築とiPhoneを望んでいる。彼等がそれらを持つべきではないとは言えないではないか」という意見もあろう。人々がこうしたモノを望んでいることは確かだ。けれども、この欲求のバックにある文脈を見てみよう。

 マネー化を必要とする金融システムが、伝統的な暮らし方は原始的であるとマスメディアを介して近代化の魅力的なイメージを植えつけ、伝統的な知識体系は迷信的であると教育制度を介して信じさせることで、人々はこうしたものを望むようになっているのではあるまいか。

人類進歩のイデオロギー

 要するに、開発のイデオロギーとは、ただ経済学のためのものである。とはいえ、それは、現代文明を規定するさらに深い「物語」に由来する。この物語をアイゼンシュタインは『人類の進歩(ascent of humanity)』と呼ぶ。

 かつての裸の人類は、無力で生き延びるために日々苦闘していた。科学の代わりに迷信が信じられ、テクノロジーの代わりに儀式が行なわれていた。けれども、幸いなことに、人類は大きな脳を持っていた。このおかげで、人類は『開発』を始めた。自然の力をマスターし、火をコントロールし、植物を栽培し、動物を家畜化し、都市を築き、技術を発明し、採集狩猟社会から農業、産業社会へと進歩してきた。生物に依存した農業社会は、機械に依存した工業社会、そして、いまバーチャルな情報化時代へと発展しつつある。

 遺伝子工学とナノテクノロジーによって病気は克服され、宇宙は征服され、ボディパーツが設計され、食料は合成され、コンピュータを組み込むことで、精神は広げられていく。貧困、犯罪、精神的な苦しみを終わらせるため、社会には科学が適用される。400年前にルネ・デカルトは、テクノロジーが我々を『自然の君主と所有者にするだろう』と予言した。これこそが我々の前に広がる輝かしい運命なのである。

 文明社会よりもオリジナルの原始社会の方が良かったのではないかという議論は、ホッブズとルソー以来、ずっとなされてきた。ホッブズは人生は『孤独で、貧しく、汚く、粗野、短い』と述べた。

 確かに、ホッブズ説の信奉者たちが指摘するように、今の私たちは日々、生き残びるために苦闘していないし、棍棒で殴りかかられることに悩む必要もない。人間性は進歩している。とはいえ、ホッブズ説の信奉者たちが、新自由主義の民主主義を支持し、全世界に『西洋的な価値観』が広がることを支持しがちなことは偶然ではない。すなわち、産業化によって、私たちの暮らしが快適にならなければ、その基本想定そのものが揺らいでしまうからだ。

 マスメディアや一般の見解も、この進歩の物語を支持する。例えば、ナポレオン・シャグノン(Napoleon Chagnon)も文明によって暴力が減り、礼儀正しさが増えたと述べる。スティーブン・ピンカー(Stephen Pinker)も著作『The Better Angels of our Nature』は、文明と民主主義的な価値観の高まりのおかげで、暴力が減りつつある人類は、原始的な状態から進歩してきた。ただし、イスラムはいまだに西洋の民主主義的な価値観を受け入れず、そのため暴力的であると主張する。なお、エドワード・ハーマン(Edward Herman)とデイビッド・ピーターソン(David Peterson)は、この本の論点を批判している(International Socialist Review, Issue 86.)。

 こうしたホッブズ説に立脚すれば、開発の論理を否定できない。進歩の軌道に沿って、農業社会、工業社会、バーチャル社会へと進んでいく。「遅れているのは自己責任だ」という保守派も「遅れている彼らが追いつくことを助けてあげなければ」というリベラル派も、いずれも進歩という基本的な物語に合意している。

定量化の科学は自然を支配するマネーと表裏一体のシステムである

 そして、この進歩の物語を支えているのは、科学だ。科学は近代の世界観を規定するだけでなく、近代生活を走らせるテクノロジーの基礎でもある。

 利己的な遺伝子プログラムで生物進化を説明する進化生物学も、ホッブズの自然の状態の見解を本質的に支持する。アイゼンシュタインは、これを「切り離しの物語(story of Separation)」とも呼ぶ。この世界観によれば、宇宙には死んだ存在でそこには目的はない。私たちは、この客観的な宇宙の中にバラバラに存在する個人である。

 この世界観によれば、各個人は常に他者と戦い、競争しあうことになる。経済学も、この厳しい社会生物学の見解を反映する。人間は、金銭的な利己主義を最大化することに努める存在である。

 そして、金融システムが経済成長を必要とすることから、人間が自然の『所有者』となって自然を資産化することが推進される。

 自然を征服するためには、自然を人間側の実用的な価値からすべてのモノを評価することが必要となる。さらに、多様な質的価値をマネーと呼ばれる単独の価値に変換することが求められる。これは、科学の定量化を反映したものでもある。

人類は利他的存在で原始社会の方が豊かだった?

 その一方で、人類学者マーシャル・サーリンズ(Marshall Sahlins)、リカルド・リー(Richard Lee)は「、狩猟採集民たちは豊かな余暇時間を享受し、サバイバルに対する懸念もほとんど抱いていなかったと示唆する。デイビッド・グラエバー(David Graeber)、フランス・デ・ワール(Frans de Waal)、ヘレナ・ノーバーグ-ホッジ(Helena Norberg-Hodge)らは、『原始的な人々』はロマンチックなエデンの園ではないとしても、現代社会のほとんどの人々よりも、協力や社会的絆やセキュリティがあり、レジャーも享受してきたと語る。
 
 そして、共生、協力、相互依存の新たなパラダイムが現れ、上述した遺伝子や進化生物学のこのパラダイムは、いま急速に崩壊しつつある。競争は考えられてきたよりも小さい役割しか果たしていない。例えば、フランス・デ・ワール(Frans de Waal)の著作、『共感の時代:より親切な社会のための自然のレッスン(The Age of Empathy: Nature’s Lessons for a Kinder Society)』Crown, 2009をみれば、人間も例外ではなく、共感や利他的な性質を持つ存在であることがわかる。

 けれども、いまだに進歩の想定が、開発の物語を支え続けている。アイゼンシュタインがこうした人類学の見解を、さる経営学の教授にしたところ、その教授は「どの雑誌がそうしたばかげたものを出版するのか」と疑ったという。

エコロジーの意識では聖なる宇宙観にはたどり着かない

 いま、植民地化された社会において、多くの人たちは、文明のエコロジー的な基礎の急速な悪化に直面している。そこで、エコロジストたちは、水の民営化や産業目的のための地下水の乱開発や河川・湖沼の汚染に反対し、伝統的な村人たちの持続可能な水利用に着目し始めている。これまで遅れてきたと見なしてきた伝統農業、知のあり方、モノの見方を評価しつつある。

 けれども、水を浪費し汚染すれば問題があるからといって、水の儀式まで復活させるだろうか。「私たちは、こうしたことをしなければならない。なぜなら、水は生きており、敬意を払わなければならない聖なるものだからだ」とさえ口にするだろうか。

 大地は何を望んでいるのだろうか。川は何を望んでいるのだろうか。地球は何を望んでいるのだろうか。大地、水、地球にある種類の意識があるとしない限りは、これらは無意味な問いかけだ。科学は、これを擬人的な投影(anthropomorphic projection)とみなす。中枢神経系がない中で、これらのいずれも何かを望めるはずがない。私たちは、宇宙固有の創造的なエネルギー、神聖さ、目的を否定する。そして、外部世界に、知能、目的、意識、神聖さがなければ、死んだ自然を罪の意識なく開発することができる。進歩はエスカレートした自然の支配と結びつく。

伝統文化を再評価する
 
 科学は近代以前の文化を否定する。これまで、人類は進歩と切り離しの物語を進んできた。ギルガメシュでさえ、自然の征服という栄光を手にしていた。けれども、伝統的な世界観が、過去の遺物の迷信ではなく、この地球上での生き方の決定的な情報だとしたら、どうなるであろうか。

 それは、生きた世界だった。「自我」は、人間を越えて、動物だけでなく、植物、さらには、山、岩石、雲、水にさえも広がっていた。こうした世界観からすれば、自然に対して畏敬の念を抱くことは当然のことであった。こうした社会においても開発−社会・技術的な発展−は存在できた。けれども、それは、自然の上に対して人間の意志を科すことではなかった。自然に耳を傾け、人々とそれ以外の創造物との関係性で生まれたいと願っているものを理解すること、「何が私たちの贈り物か。それはどのようにして全体に尽くすのか」を問いかけることを伴っていた。

伝統文化の儀式は生きた世界と対話する方法だった

 私たちが原始的だと称する文化では、数多くの儀式が実施されていたのは、彼らが、生きたものとして世界を見て、意識して、耳を傾けるからであった。火を灯すための儀式、灌漑用水を引くための開会の儀式、種子を撒くための儀式、人と食事をするための儀式、部屋に入るための儀式さえあった。暮らしとは、生きた世界とのコンスタントな会話であった。

 近代的な世界観からすれば、教育は、開発がもたらすメリットのひとつとして評価されている。けれども、学校教育は、儀式的な世界観を蝕む。

 第一に、大地や生命のプロセスから、物理的に子どもたちをひき離す。教室内の宇宙は死んでいる。

 第二に、生きた世界の儀式の代用として、新たな儀式、試験、時計、チャイムが設けられる。

 第三に、その授業カリキュラムでは科学が教えられ、聖なる世界観が否定される。

 第四に、学校は、金を稼ぐために都市で働く近代的なライフデザインを提供する。

 第五に、ローカルな知の体系だけでなく、知るためのローカルな方法も台無しにする。

 結果として、私たちは、聖なるインテリジェントな存在として、自然の声をどのように聴き、どのように対話するのかを忘れてしまっている。となれば、伝統社会から学ばなければならないのは、むしろ私たちの方ではないか。

進歩の物語のゆきづまりで新たな物語が求められている

 すでに、進歩の物語、切り離しの物語、その物語に立脚したあらゆるシステムは危機的状態にある。中でも経済危機が最も深刻であろう。そして、この危機が高まれば、現在支配的な文化も、新たな物語を必要としていく。そして、私たちは新たな物語を発見するであろう。けれども、実は、これらは本当はまったく新しくない。開発という植民地化の影響を免れた世界の片隅にある。植民地化に抵抗した人々は、私たちの脱植民地化を手助けできる。最も重要なことは、こうした場にある人々が、私たちの未来のための物語を守っていることなのだ。そして、学ばなければならないのは、進歩や切り離しという死んだ物語に閉じ込められた私たちの方なのだ。

 世界の古代の物語とフィットする太陽光発電、太陽熱オーブン等のテクノロジーやある種の農法は発見されるであろう。また、ローカルで大地に根ざしたエコロジカルな暮らし方を、蝕むのではなく、むしろ強化するエレクトロニクスやインターネットの使い方も見つけ出せると私は信じている。

 今ではマイノリティとなってしまったこうした社会の世界観を、数十億人の人々の文脈へと翻訳すること。自然を支配対象や資源の供給源としてではなく、知性を持つ、生きた聖なる母として見ること。それが、私たちの前にある挑戦なのである。

Charles Eisenstein, Development in the Ecological Age, Living Earth , 2014.

アイゼンシュタインの画像はこのサイトから

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2015年10月11日

第49講 霊としての人間

はじめに

 古代インドでは「科学的知識」「世俗の知識」を「ヴィジュナーナ」と呼んでいた。したがって、科学も超心理学もすべて「ヴィジュナーナ」に入る。古代インドの聖賢は瞑想によってヴィジュナーナの限界を既に見極めていた。このため、ウパニシャッドなどの聖典は「霊的知恵」である「ジュナーナ」でなければ理解できないと言い切っていた(5)

「スピリチュアル・精神世界」分野に興味をもつ人ならば「超心理学」を一度は耳にする。この9月に世を去ったが、本山博(1925〜2015年)は、この超心理学研究の先駆的人物の一人であった(5)。経絡や気の流れなどの微弱な電流をとらえる事で、それぞれの人の魂の質や状態を明らかにする研究をおこなっていた(6)

 本山は、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、ヒンドゥー、仏教、密教、禅、神道、科学にも深い洞察を持つ研究者で(2)、科学者として国際的に知られている人物である(6)。同時に、霊的能力も有する宗教家という肩書も持つ(5,6)。このため、世界的に著名な超心理学者J.B.ラインからも認められていた(5)

本山は霊能力者である

10motoyama.jpg 本山博は、幼少期から霊的能力を持つ養母から厳しい修行を受けてきた(1p29)。隠れてはいるが、日本には、神道の霊能巫女・霊媒巫女がかなりいる。古くは教派神道大本(おほもと)の出口なお師がそうであったが、本山博の御母堂、本山キヌエ師も木村藤子さんと同じような神道系の霊能巫女・霊媒巫女であった(3)

 このため、幼い頃からアストラル次元の霊も見えた(1p30)。24歳のときからはヨーガ、チャクラへの精神集中をはじめ、幽体離脱やクンダリーニの覚醒経験もした(1p31)。ただ、本山博は『スピリチュアリティの真実』(PHP研究所)で「チャクラ」とかはあまり意識しない方が良いと付け加えている。ダスカロスも東洋的なクンダリニー系のヨガは危険なので薦めていなかったが、本山も初心者がチャクラを意識し始めてヨガを行うとバランス崩すと述べている(2)

 とはいえ、それ以降は、光輝く神の姿が見え、信者が困っていることも聴かなくてもわかるようになった。信者の祖先の姿や前世で冒した罪や善行も映画をみるように一瞬でわかるようになった(1p33)。三昧に入って超意識で何百例も人々の前世を見てきた(1p23)。本山はチャムという可愛い利口なネコを飼っていたが、玉光神社から1kmほど離れた井の頭公園の池の橋の上から「お宮の門のところまで迎えにおいで」と念じてネコとつながることができた(1p25)

48玉光.jpg また、病気もレントゲンを見るようにわかるようになり、アジナチャクラから力を送ってその病気を治せた(1p32)。超心理学の国際学会がメキシコシティで開催された折には、神の助けを受けて心霊治療で癌の手術も成功させている(1p34)。これは、ヨーガでいうカラーナの次元へと霊的に成長を遂げたためである(1p33,1p74)。本山も、ダスカロスと同じく、鍼を使ったり、遠隔ヒーリングをしていたヒーラーでもあった(6)

 スピリチュアル・ラボのTeru Sun氏は、本山を稀有な霊能者でヒーラーとして生きていたダスカロス(4,6)や葉室宮司、ダライラマ、シュリ・ラマナ・マハリシ、ヨガナンダと同じ域に達しているのではないかと評価する(4)。Teru Sun氏は、本山博の『愛と超作―神様の真似をして生きる』はスピリチュアル・ビギナーにもベテランにも納得できる「人生を無駄にしないための有益なスピリチュアル」がよくまとめられているし、『祈りと救い』もおそらく現代の日本では唯一の、祈り方の技術書である。また、『神秘体験の種々相―自己実現の道』も類い稀なる名著であると評価する(4)。そして、本山は講演では「魂は在る」という考えを淡々と述べるが、同時に独特の言葉遣いで聴衆をドッと笑わせたりしていたという(6)

 以下は、1999年の著作『宗教とは何か』のまとめである。

宗教の本質とは聖なるものとの出会いである

 宗教学者、ギュンター・ランツコフスキーは著書『宗教現象学入門』で「宗教の本質を規定するものは聖なるものである」と語っている(1p17)。宗教史学者として有名なミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade,1907〜1986年)は著書『宗教の歴史と意味』で「宗教とは聖なるものと人間との出会いである」と語っている(1p3)

完全な人間は人間が身体・心・魂からなることを自覚している

 この聖なるものとの出会いは普遍的なものである。とはいえ、聖なるものとの出会いは、霊的存在の次元で行なわれる(1p5)。エリアーデは「完全な人間は聖なるものの経験をその意識構造の一部として持つ」とも述べている。すなわち、多くの人間は現在は忘れてしまっているが、人間は、身体・心・霊からなるホリィスティックな存在であり、霊的次元の存在を自覚していることが、エリアーデに言わせれば完全な人間なのである(1p18)。採集狩猟時代の人々は、身体・心・魂をもった一体的な存在として自然とともに生きており、現代人のように物欲に心を奪われることはなかったであろう(1p26)

聖なるものを経験した人=聖人

 聖なるものを経験した人間は、宇宙・自然・人間についての知恵を啓示される。この宇宙観・自然観・人間観を教え、人々を助けるために使うのが聖者の役目である。一方、内なる霊にまだ目覚めず、聖なるものとの出会いを経験していない人々は、聖者の教えにしたがって、眼に見えない聖なるものを信仰し、自分の個性を確立し、人々と共存する社会性を身に付けることが人間として成長していくために重要である(1p19)

アストラル次元

 魂(霊界)の最下位に存在するのは、アストラルの霊界である(1p70)。アストラル次元の霊もカルマの法則下にあり、存在するためには肉体を必要とする(1p67)。ただし、霊界の身体は物理法則の制約を受けず(1p69)、そのイメージ力で霊界の物質を創造・変化させることができる(1p69,1p71)。このため、霊の心がある想念に捉われて沈んだ状態になると、その周囲は黒い雲、ベールがかかったようになり、他の霊との交渉ができず自閉状態となる。これは何百年も続くこともある。これが地獄である(1p71)

 アストラル次元の霊は、空間の物理的制約を受けず超心理学の対象であるESPで知覚しあう。そして、心が開かれ他の霊と共存・協調できるようになると、想像力が協働して大きな創造力となり、想念どおりのモノを創造したり破壊できるようになる。この想念の力がこの世の霊能者の能力と協働すると、物質化現象が生じる(1p71)

 アストラル次元の霊界では、心は感情と想念(想像力)として働いているが(1p70,1p73,1p130)、物質に強く支配され、独善的で物への執着も強く(1p73)、理性、良心、愛は従属的である(1p130)。アストラル次元の霊に支配された霊能者が利己的で良心に乏しく、人格的に歪みがある人が多いのはこのためである(1p73)。この数千年は人類は、この世の時間でいえば200から300年の周期で死と再生を繰り返している(1p70)

カラーナ次元

 アストラル界でも上界になると、理性や良心が働き、個別的な感情と社会的理性とが両立する(1p130)。さらに、カラーナ界へと霊的に成長すると、いまだにカルマの法則を脱してはいないとはいえ、霊の心の内容はESPに頼らず直感できるようになる(1p72)。また、アストラル次元での例のように感情に左右されて利己的になることもなく、他の霊、人間への愛の働きが中心となる。こうして、魂は個別的な感情と理性による判断と行動とで社会性を両立させることができる(1p73,1p130,1p131)

プルシャ次元

 宗教者が断食や瞑想を通じた自己否定、神へ自己の存在のすべてを託すという全託を続け、自己への執着を離れると、神の次元から宗教者の存在次元へと流入が起こり、カラーナ次元から純粋精神(プルシャ)の次元へと霊的に成長することができる。純粋精神は無条件の愛と彼岸の智恵を持ち、単なる霊能者や超能力者を越え、聖者になることができる(1p75)

 聖なるものとの出会いは、修行者の霊的次元にまで降りてきたものであって、相対的なものである。霊的修行が繰り返されると最終的には神、絶対との出会いが生じるが(1p6)、人間よりも大きな存在である神への絶対的な帰依と神の力の流入、それに伴う人間存在の空化が生じなければ、想念のイメージからは抜け出ることができない(1p112)

唯物論と世俗化への反動でスピリチュアル運動は生じた

 人間は、身体・心・霊からなる存在である(1p132)。しかし、共産主義は人間をモノとして扱い、肉体と社会面だけでしか評価しなかった(1p105,1p132)。一方、資本主義は個人主義的な傾向が強く、心よりもモノに偏り、社会性を忘れている(1p133)

 こうした唯物化と宗教の世俗化の傾向に対して、19世紀前半からイギリスを中心に起こったのが、魂、聖なるものを求めるスピリチュアル運動、心霊研究であった(1p106)。日本では、1800年代前半から1920年代にかけ、天理教、大本教、人の道教団等が出現した(1p106,1p109)

 けれども、1970年代以降は、超能力を前面に掲げた閉鎖性、独善性、反社会的、商業主義のオカルト宗教集団が多く生じるようになる。資本主義社会の競争に敗れた人々がこうした新主教に引かれていった(1p108)。例えば、米国ではカリフォルニア州サンディエゴにあるマーシャル・アップルホワイト(Marshall Applewhite,1931〜1997年)を教祖とする、ヘヴンズ・ゲート(Heaven's Gate)教団の教祖と信徒38人が1997年3月に集団自殺した。能力主義や競争社会についていけない下層階級の人々が、汚れた世界を極度に嫌悪し、肉体は魂の容器にすぎず、性欲と物欲を捨て、神の聖なる国へと帰るのが人類の目的であるとの教えに従ったのであった(1p110)。日本でも瞑想法の技術をビデオとして販売している教団があるが、観想法は禅で魔境と呼ぶアストラルのイメージ世界から抜け出ることが難しい(1p111)

 神経生理学の研究によって、脳部位での細胞の電気活動や血流量の変化、脳伝達物質の動きもわかってきたが、霊的次元の心や魂の働きは、物理的な次元の脳からはわからない。したがって、科学は、身体・心・霊からなる人間存在に対して、どのように生きるべきかの指針を与えることはできない(1p123,1p124)。人間を身体・心・霊からなる存在として、かつ、個人の存在と社会性とを両立させるためには、科学ではなく、独善的・閉鎖的・物質化した宗教でもなく、真の宗教が必要である(1p133)

【引用文献】
(1) 本山博『宗教とは何か』(1999)宗教心理出版

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