2016年01月31日

瞑想と脳の科学C 慈悲の瞑想・上

亡命者たちの出会い

26Francisco Varela.jpg チリ出身の生物学者、フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela Garcia, 1946〜2001年)博士は、1970年代にウンベルト・マトゥラーナ(Humberto Maturana, 1928年〜)とともに、システム理論を掘り下げて、「オートポイエーシス」の概念を提示する(2p68)。けれども、ヴァレラ博士は、1973年に祖国チリで起きたピノチェトの軍事クーデターによって米国への亡命を余儀なくされる(2p69)

 この亡命先で、ヴァレラ博士は、チベット仏教の導師、チュギャム・トゥルンパ(Chögyam Trungpa, 1939〜1987年)と出会い、仏教の修行をはじめる。その理由をヴァレラ博士は「苦しかったからだ」と答えている。祖国を追われ、残した家族や友人の安否を気づかう不安と苦しみの日々がヴァレラ博士を瞑想へと向かわせた。

 トゥルンパも1959年の中国人民解放軍のチベット侵攻によって祖国を追われ米国に亡命し(2p70)、西洋の科学と東洋の伝統とが出会う「ナローパ研究所」を開いていた(2p71)

 さらに、ヴァレラ博士は1983年の国際会議において、もうひとりの亡命者、ダライ・ラマ14世と出会う(2p71)。この出会いが契機となり、最初の「精神と生命」会議がインドのダラム・サラで開催さるのである(2p71)。科学者との対話は1985年以降、継続されることになる(1p240)

 ヴァレラ博士は「認知科学と仏教の瞑想者が共同研究に従事することが今後向かうべき進路である。そうすることは、人間の心に対する理解を深めるだけでなく、実際の科学的実験によって無限の可能性を汲み取ることができるだろう」と述べている。博士は米国の実業家アダム・エングルと共に、「心と命の研究所(Mind and Life Institute)」を設立し、一流の科学者とダライ・ラマ14世との対話を実現させた(1p16)。そして、ヴァレラ博士は2001年の死の間際まですべての会議のコーディネーターを努めていた(2p71)

 そして、この会議には、マサチューセッツ大学医学大学院教授で同大マインドフルネスセンターの創設所長となるジョン・ガバット・ジン(Jon Kabat-Zinn,1944年〜)博士やアイオワ大学医学部精神科医のアントニオ・ダマシオ(Antonio Damasio,1944年〜)博士が参加していく(2p72)。すべては亡命から始まっていたのだ。

ヴァレラ博士によって否定されたダーウィニズムの「最適適応」

 ダーウィニズムは以下の三つの原理に基づく。

 @ 世代毎に生物が変化することによって進化は起こる

 A 遺伝物質は突然変異等によって多様化する

 B 変化した個体は自然選択にさらされ、環境に適応するものが生き延びていく(2p236)

 この進化によって最適な適応がもたらされるというダーウィニズムの概念は、ネオリベラリズムのベースにもなっているが、ヴァレラ博士は、これを明確に否定してみせた(2p77,2p235,2p236)。例えば、遺伝子は連鎖していて、ある遺伝子は複数の効果や役割を持つ。ある遺伝子の発現が適応度を高めるとはいえない(2p237)

 例えば、人間の視覚は、網膜にある青、緑、赤という三種類の色に反応する錐体細胞によって認識されている(2p75)。けれども、どの動物の視覚も「三色型」なわけではない。リスやウサギは「二色型」だし、金魚や淡水に棲むカメは「四色型」、ハトは「五色型」である。すなわち、昆虫、魚、鳥、霊長類は異なる視覚世界の中で行きている(2p78)。さらに、それは個体が生き延び、成長して、種として再生産されるという条件を満たすのであれば、どのような構造でもかまわない。常に「最適」である必要はなく「生存可能」であれさえすればいい(2p79)

ヴァレェラ博士の神経理論は仏教の世界観に近い

 1991年に出版されたヴァレラ博士の『身体化された心』は、「オートポイエーシス」理論をさらに神経学的に深め、知覚や認知を身体的な行為の一部であるとみなす「エネクティブ・アプローチ」を提起する(2p74)

 もちろん、ヴァレラ博士のベースとなっているのは、生物学や神経科学であり、仏教の意識論ではない(2p73)。けれども、このようにそれぞれの生命が知覚し、体験する世界は、それぞれの個体に「内蔵」されていることになる。このような体験世界を仏教では「顕現(けんげん)」と呼ぶ。つまり、ヴァレラの「エネクティブ・アプローチ」の認識論は、仏教の認識論ととても深い共通性を持つ(2p80)

自己とは様々なレベルからなり中心がない幻想である

20160131.jpg また、1980年代にニコル・マーサ・ルドワラン(Nicole Marthe Le Douarin,1930年〜)博士は、ニワトリの胚にウズラの脳胞を移植させてキメラを作るという実験を行った。身体はニワトリで声もニワトリだが、鳴き方だけはウズラのように鳴く。とはいえ、このキメラは一週間ほどで死んでしまう。免疫系が脳を「非自己」だと認識してそれを破壊するからである。多田富雄東大名誉教授(1934〜2010年)によれば、身体にとっての「自己」を決めているのは、免疫だからである。したがって、免疫系にとっての「自己」と脳にとっての「自己」が異なっていることになる(2p240)。すなわち、「自己」とは脳、免疫系、DNA等様々なレベルで働く自己創出システムが織りなす「連関体」でしかない(2p241)

31Damasio.jpg ダマシオ博士も物質から意識を解き明かすアプローチを取っているが(2p73)、博士によれば、神経活動も一瞬毎に変化しており、意識も一瞬毎に変化しており、「自己」が持続しているという感覚を支えているのは、相対的に安定した生命の内部環境にすぎない。すなわち、「自己」とは身体のうえに作り出された幻想にすぎない(2p240)。そこには、ひとつの中心的な「自己」があるわけではない。こうした実体としての「自己」が存在することは幻想であるとして仏教では「我執(がしゅう)」と呼んで来た(2p241)

幅広く神経細胞が共鳴することで意識は生まれる

 2001年の死の直前にヴァレラ博士は、「ラディカルな身体」という論文でさらに2点を強調する。

@ 複雑系における「創発」の一般特性の帰結から、神経活動と意識との間には相互的な関係性が存在する。すなわち、混雑した駅での歩き方が個人の自由や好みにはならず集団の流れのパターンに縛られるように、意識も特定の神経細胞群からなる回路のレベルだけでなく、脳全体の神経活動の影響も受けている。

A 意識が成立するためには脳にしばられた神経活動だけでなく、脳・身体・世界がかかわってくる(2p84)。すなわち、意識は幅広い領域での神経細胞の同期現象(共鳴)が関係してくる(2p85)

 20世紀末から21世紀の初めにかけて脳科学は大きく変わる。そのひとつが、神経科学における神経可塑性の発見とヴァレラ博士のエナクティヴなアプローチ、すなわち、創発とトップダウン因果性の概念を理論化し、自己組織化するシステムとして脳が理解されるようになったことである(2p88,2p118, 2p168)

チベット僧の脳ではガンマ波が異常発生していた

29Richard Davidson.jpg 2004年、ウィスコンシン・マディソン大学でリチャード・デビッドソン(Richard J. Davidson, 1951年〜)教授の画期的なリポート「長期的瞑想の実践が脳に及ぼす影響の研究」は、長期間にわたって瞑想修行を行うとガンマ波の同期が自己誘導され、他者への共感を含めて人間の情動と関わる脳活動が大きく変化することを明らかにしてみせる(1p240,2p118)

 このことが可能となったのは、ダライ・ラマの全面的な協力のもと8人の熟達したチベット仏教の瞑想修行者を被験者とできたことがある(1p241,2p118, 3p173)

 研究対象となった8人の修行僧たちは、平均年齢49歳。15〜40年の修行体験を持っていた(2p119)。隔離された環境で最低でも1万時間、4〜5万時間も瞑想をしていた(2p119,4p119)

 チベットでは伝統的な隠棲修行を3年3カ月行う。午前3時前に起き、夜10時に就寝するまで一日12時間は瞑想し、それ以外の時間も食事以外は、読経や勤行にあけくれる。1万時間とは、この3年3カ月の修行1回分にあたる(2p119)

29meditation.jpg 256ものセンサーを取り付け、電子的にEEGで脳波の変化を正確に記録し、機能的磁気共鳴画像診断装置(fMRI)によって脳の各領域での血流の状態を画像化した(1p243,4p119)

 行われた瞑想は、心を落ち着かせて、鼻の下で出入りする呼吸に意識を集中する。あるいは、慈悲を表す観世音菩薩としての自分に意識を集中するシャマタ瞑想(止瞑想)、日本の坐禅のように、特定の対象に焦点をおかない無所縁、オープン・プレゼンスな非二次元的な瞑想(4p119)、そして、慈悲心を伴いつつ、オープン・プレゼンスな対象がない慈悲の瞑想を行った場合に、どのような神経変化が起きるのかが彼らのテーマだった(2p119,4p119)。ちなみに、無所縁の慈悲の瞑想とは、心の本質である慈悲が光輝く瞑想で、熟練した瞑想者では自然に菩提心が流れ込むような感覚を受けるという(4p119)

 その結果、慈悲の瞑想を行うと前頭葉前皮質の幸せな状態と関連する左側と右側部分の活動が非常に活発となった(3p173,4p119)

 また、左右の脳でガンマ波で位相同期が起こり、かつて一度も報告されたことがないレベルでの高周波のガンマ波の劇増が見られた(1p243,3p173,4p119)

 ガンマ波は、直感的な理解やヒラメキが生じる「アハ体験」の時に見られる脳波だが、通常では、2〜3秒しか続かない。ヒラメキの場合はわずか0.1秒にすぎない(p129)。ところが、チベット僧の場合、純粋な慈悲の瞑想に入ると、ガンマー波の同期活動が観測されはじめ、ガンマ波の同期活動が5〜10分と(2p127)その3000〜6000倍も長時間にわたって続いていた(2p131)。さらに、修行した時間が長いほどガンマー波活動は大きく(2p127)、瞑想修行者たちは瞑想をしていないときでもガンマ波活動がかなり高い一方、瞑想の初心者は心の動きをコントロールできなかった(1p244)

 これまで脳内でのコミュニケーションは1cm以内の近い部位でしか起こらないと考えられて来た(4p120)。けれども、この研究から大脳皮質の多くの離れた部位が相互にコミュニケーションできることが明らかとなった。脳全体でシンクロニシティが同時多発している。すなわち、相互対話している状態が出現していたのである(4p121)

 このことは、数多くの細胞群が共鳴していることを意味する(2p129)。このことは、高次の意識が局所的な細胞群にとどまらず、広範なネットワークがかかわり、かつ、そうした大きなネットワーク活動が下位にある細胞群の活動をトップダウン的に制御することで、同期による創発を起こしているというヴァレラ理論が正しいことも意味している(2p129, 3p169)。すなわち、人間の高次な精神構造は広範な脳のネットワークと対応していることがわかってきたのである(3p214)

この21世紀の脳科学は、研究と瞑想の修行の結合から生まれた。ヴァレラ博士も瞑想の修行者であれば、博士からその研究のインスピレーションを受けたウィスコンシン・マディソン大学でリチャード・デビッドソン(Richard J. Davidson, 1951年〜)教授も(2p67)、インドで慈悲の瞑想の仕方を最初に教わって以来、それが非常に効果があったことから、50年近く瞑想をしている修行者だったのである(3p172)

ヴァレラ博士の画像はこのサイトから
ルドワラン博士の画像はこのサイトから
ダマシオ教授の画像はこのサイトから
デビッドソン教授の画像はこのサイトから
瞑想実験の画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) マチウ・リーカル『Happiness 幸福の探求』(2008)評言社
(2) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(3) 永沢哲「マインドフルネスと脳科学の可能性」『マインドフルネス最前線』(2015)サンガ新書
(4) バリー・カーズィン『慈悲と智慧の科学』(2016)瞑想を語る、サンガジャパン

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2016年01月28日

瞑想と脳の科学B ヴィパッサナ瞑想では脳構造そのものが変化する

テーラワーダもチベット、禅にも共通する四つの気づきのメソッド

 ヴィパッサナという言葉は「洞察」を意味する。自分の身体、感覚、心、そして、心の内容と四つに「気づく」こと、「四念処(しねんじょ)」することが、ヴィパッサナ瞑想である。そもそも、ここで言う「気づき」とは、パーリ語の「サティ」、サンスクリット語の「スムリティ」に相当する。すなわち、物事を執着することなく観察することだと言えるだろう(p146)

 四つの気づきは、悟りに至るための37の方法(菩提三十七分法)のひとつであり、テーラワーダ仏教においても、大乗仏教においても共通して実践されている。チベットでは、仏教修行の基本である戒律、禅定、智慧の三学を学ぶときに四つの気づきが実践されるし、中国や日本の禅の修行にも、四つの気づきと共通する内容が含まれている(p147)

テーラワーダ仏教で発展したヴィパッサナ瞑想では波動が感じられる

20160127Goenkaji.jpg とはいえ、このヴィパッサナの瞑想体系は東南アジアにおいて大きく深く発展した(p149)。例えば、その中には、心身を整えるための戒律、集中する禅定、直感的洞察の三本柱からなるゴエンカの10日コースがある。瞑想時間は一日10時間にも及ぶが、ただ執着せずに観察していくと、退屈や怒りや恐怖の感情が起こり、過去の記憶も思い出されていく。内なる感覚への気づきはどんどんと深まり全身に微細な感覚が表れる(p148)。そして、猛烈なスピードで生まれては消えていくすべての物質を構成している微粒子の無常さをまざまざと体験するという。血液、骨、筋肉とどこを見ても波動の集まりだけを感じるようになっていく(p149)

僧院からメソッドは解き放たれた

 20160127Sayadaw.jpgそもそも、ミャンマーの上座部仏教僧侶、レディ・サヤドー(Ledi Sayadaw, 1846〜1923年)を祖とするこのヴィパッサナ瞑想法の伝統は、その孫弟子にあたるミュンマーの経済大臣であったサヤジ・ウ・バ・キン(Sayagyi U Ba Khin、1899〜1971年)へと伝えられていた。そして、ミャンマーでインド人の家系に生まれ育ったサティア・ナラヤン・ゴエンカ(Satya Narayan Goenka, 1924〜2013年)は、サヤジ・ウ・バ・キンからこのメソッドを14年指導を受ける。そして、インドで1969年から、瞑想の指導を始めたのである(p147)20160127Ba khin.jpgサヤジ・ウ・バ・キンがもたらした革命的な変化は、僧院外に瞑想法を持ち出し、社会の中で生きる人々に教えたことであった(p149)

刑務所の受刑囚たちの心を幸せにする

 ヴィパッサナ瞑想は1975年に刑務所において初めて行われる。ラジャースターン州のジャイプールの刑務所で当時の州政府の内務大臣で自ら瞑想を実践するラム・シンが、ゴエンカ氏を招いてコースを設けたのである(p150)。刑務所における瞑想の効果は画期的なもので犯罪者たちは自分の罪を反省し始める(p151)。瞑想は米国の刑務所においても行われ、犯罪者たちの自己や人生に対する肯定感が高まり、幸せ度が大きくなる成果をあげていく(p154)

2005年、瞑想で脳の物理構造が変化することが明らかになる

 20160127SaraLazar.jpgこうした社会変化を背景に、2005年、マサチューセッツ総合病院のサラ・ラザー(Sara Whitney Lazar)博士は、ヴィパッサナ瞑想の実践者の脳構造をMRIで調べ、その物理構造そのものが変化することを明らかにし、米国に衝撃を与えた(p146,p156)。平均9年、毎日40分瞑想を実践してきた20名の修行者(p156)たちの脳は、右の前島皮質と右の前頭皮質のうち、ブロードマンの9番と10番が明らかに厚かった(p157)。ラザー博士は精神科医であったが、学生時代に交通事故にあったことから、瞑想やハタ・ヨーガを実践していた(p156)

瞑想によって、ホメオスタシスと関係する右の島皮質が発達する

 島皮質は、内臓や身体感覚と深く関係する部位で、様々な情動や感情ネットワークの一部をなしている。例えば、悲しみや怒りを感じると左右両方の島皮質の後ろ部分が活性化するし、恐怖を覚えると右の島皮質が活性化する(p157)

20160127Craig.jpg クレイグ(A.D. Bud Craig)博士によれば、ホメオスタシスに関わる自律神経のうち、交換神経と副交感神経の走行や機能は左右で非対称であり、より高度な脳の部位にでもこの非対称性はそのままである。例えば、抹消神経からの情報は、脊髄神経を通じて視床、さらに、島皮質に伝えられる。けれども、副交感神経からの情報が主に脳幹に入る一方で、交換神経からの情報は、脊髄神経の第一層であるラミナ1につながっている。そして、ラミナ1は右側に多く、右の島皮質も交換神経との関係がより密接なのである(p160)。ラミナ1は霊長類と人類にだけ見出され、かつ、人間が圧倒的に多い神経である(p161)。また、ブロードマンの9番と10番は、注意や衝動の抑制、情動と認知の統合と密接に関わるエリアである(p158)

 また、島皮質は年齢が高くなるにつれて縮小していく。けれども、ラザーの研究から、瞑想者では体積減少が止まり、かつ、島皮質の体積が増大していることがわかった(p158)

 要するに、ヴィパッサナ瞑想を行うことで、ホメオスタシスや認知と情動の統合を行う前頭前野の部分のネットワークが一体的に働くと、右前島皮質が発達・分化すると考えられるのである(p161)

長期記憶は新たなシナプス形成によって作られている

20160127Eric Kandel.jpg さて、アメフラシはエラ呼吸をしているが、水管に触れるとエラを引っ込める。アメフラシの中枢神経系は約2万のニューロンからなっているが、この反射に関わるニューロンは400程度でしかない(p108)。そこで、コロンビア大学のエリック・リチャード・カンデル(Eric Richard Kandel, 1929年〜)博士は、アメフラシのニューロンに関係する研究を行い、長期記憶の形成、すなわち、神経回路の長期的な増強が、新たなシナプス形成と関わっていることを明らかにした。さらに、そのために必要なたんぱく質を合成するための遺伝子にスイッチが入るための分子的なカスケードも明らかにする(p112)。カンデル博士は、この神経系の情報伝達に関する発見の功績で2000年にノーベル生理学・医学賞を受賞している(p113)

瞑想は無意識領域に押し込められた過去の記憶を呼び起こし神経回路を作り変える

 実は、人間が学習した内容を作り変え、それから自由になる「脱学習」においても同じ化学的なプロセスが働いている。意図的に注意を注ぐことがトップダウン的な分子カスケードの引き金を起こす(p163)

 犯罪者の大半は、虐待や暴力、剥奪といった苛烈な経験をしている。それは強い情動とともに記憶されているが、最も強烈な体験は無意識領域に追いやられている。けれども、瞑想は、この「忘れていた記憶」を呼び覚ます。同時に、記憶に供給されている情動エネルギーが変化する。すなわち、記憶の解放と書き換えによって人格が変化する(p162)

 ジークムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856〜1939年)は、自由連想のプロセスを通じて無意識に押し込められていた記憶に気づくことで、思考の連鎖パターンを組み替えることが精神分析療法だと考えたが、このプロセスは、無意識に押し込められていた記憶が解放される精神分析と同じである(p163)

10日のリトリートに4回参加すると脳は変化する

 監獄での実践事例では、10日間のリトリートを4回繰り返すと、出獄後も後戻りしないですむようになるという。これは、ラミナ1に象徴される神経構造をベースに元からあった回路が強化されたり、新たな回路が産み出されるためではあるまいか(p161)

 すなわち、東南アジアの僧院であれ、インドであれ、米国の刑務所内の受刑者たちであれ、瞑想に専念する人々は、微細なやり方で脳内のタンパク質合成遺伝子にスイッチを入れ、脳内の化学を変え、シナプスの接続回路を物理的に変えることで、記憶の書き換えと過去の記憶からの解放という同じ作業をしていたのである(p163)

ゴエンカ氏の画像はこのサイトから
サヤドー氏の画像はこのサイトから
ウ・バ・キン氏の画像はこのサイトから
サラ・ラザー博士の画像はこのサイトから
クレイグ博士の画像はこのサイトから
カンデル博士の画像はこのサイトから

【引用文献】
永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ

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2016年01月26日

瞑想と脳の科学A 頭頂葉活動の低下で生じる超越体験

神経現象学〜人類に共通する変性意識には神経学的なベースがある

 20160126Mario Beauregard.jpgペンシルバニア大学のユージーン・ダギリ(Eugene G. d'Aquili,1940年〜)博士やアンドリュー・ニューバーグ(Andrew B. Newberg , 1966年〜)博士、モントリオール大学の神経心理学者マリオ・ボールガール(Mario Beauregard, 1962年〜)博士は、宗教体験や霊性を脳の特定部位や遺伝子に還元する思考を批判する(p36)。例えば、fMRIと脳波計測を用いた研究によって、ボールガール博士は、愛や至福の感情体験に関わる脳のネットワークとキリスト教の神秘体験に関連する脳のネットワークが違うことを明らかにしている。すなわち、宗教体験や神秘体験は、ディーン ハマー(Dean Hamer, 1951年〜)博士が考えたように感情体験と単純に同一視することはできない(p34)

 20160126William Laughlin.jpgその一方で、ダギリ博士らは、人類学者ウィリアム・ラフリン(William S. Laughlin, 1919〜2001年)博士とともに、変性意識や儀式を生物学的に理解するため「神経現象学」を提唱してきた(p36)。儀礼によって生じる変性意識は、精霊を体験する等、まったく異なる文化的な背景であっても共通している。すなわち、その根底には普遍的な神経学的なベースがあると考えたのである(p37)

チベットの修行僧の禅定時の脳活動の変化を調べる

 瞑想をしていくと意識が静まり「内なる自己」が表れてくる。この内なる自己は、以下のような特性を持つ。

 @ 変わることがない唯一の真実である
 A 孤立しておらず万物と分かちがたく結びつき、自分が万物の一部になっている
 B 時間を超越している
 C その素晴らしさは言葉での表現を超えている(p37)

 ダギリ博士らは、8人のチベット仏教の修行僧たちの協力を得て、禅定時に彼らの脳状態がどのようになっているのかを単光子放出断層撮影法(SPECT)を用いて画像化することに成功する(p37)

上頭頂葉後部の活動が低下することで自己と他者の区別が失われる

 その結果、以下の特徴があることがわかった。

 @ 前頭前野の活動が増大
 A 情動と関連する視床・帯状回の活性化
 B 上頭頂葉の後部(頭頂連合野)の活動が低下し、
 C 前頭前野左部の活動増加と頭頂葉左部の活動低下とには強い相関関係がある

20160126Eugene Daquili.jpg 前頭前野と視床の間では神経が連絡している。このため、@とAはよく理解できるものであった。けれども、ダギリ博士らが頭をひねったのはBとCであった。

 頭頂葉の左部分は自己と他者との区別や身体境界、頭頂葉の右部分は空間内での自分の位置にかかわる(p30)。一点に集中するという瞑想のメソッドによって前頭前野の活動が増大し、頭頂葉への情報が入らなくなる(p39)。そして、頭頂葉の活動が低下すれば、自他の区別が消滅し、無限なものとの絶対的な一体感が経験されることになる。すなわち、古代から神秘家たちが語ってきた体験を脳活動と結びつけて理解する鍵が得られたのである(p38)

キリストに祈りを捧げる修道女の脳は右脳頭頂葉が活発

 ダギリ博士とニューバーグ博士は、フランシスコ修道院の修道女を対象とした実験で、キリスト教の神秘体験においても同様の現象が起きていることを見出した(p39)。けれども、チベット仏教の瞑想の場合は自他の区別が完全に消え無限と一体となる一方で、キリスト教の神秘体験では、人格神(キリスト)のイメージが残されたままである(p39)。このためダギリ博士らは、能動的瞑想と受動的瞑想との二つのメカニズムがあると考えた(p40)

20160126Andrew-Newberg.jpg キリスト教の祈りのように特定の対象や思想に心を集中させる。そのことで、左脳の頭頂葉に向かう情報が遮断され、自己の感覚が曖昧化する。ただし、右脳の頭頂葉はいっそう強いイメージに集中する。イメージ以外の情報がない中で、右脳は空間内で自己を位置づけようとするため、その瞑想イメージ(イエス)がリアリティのすべてだと感じる。こうして、超越的な存在との「神秘的合一」体験が生じるのである(p41)

頭頂葉への情報入力が完全に失われると「無」の体験が産まれる

 けれども、疲労することでイメージに集中する努力が弱まると右脳の頭頂葉に唯一入力されていたイメージも失われる(p42)。その結果、頭頂葉への入力が完全に失われる。すると、これまでの「神秘的合一」体験は「絶対的一者」への体験へと変化する(p43)。また、チベットの瞑想のように、思考と感情を取り除こうと試みる受動的瞑想によっては、頭頂葉への情報が完全に遮断される(p40)

 すなわち、ダギリ博士らの仮説によれば、神経回路の遮断がまだ不十分であると「万物との完全な合一」や「無」だけが経験されることはなく、「神秘的な合一」のレベルにとどまっていることになる。この経験から、自然界の強力な精霊や一神教における「人格神」の観念は産まれた。けれども、この体験は超越されて「絶対的一者」にシフトするはずである。それが、一神教の伝統においても、アヴィラの聖テレサ(Teresa de Cepeda y Ahumada,1515〜1582年)やイスラム神秘主義者のスーフィーたちの伝統でも語り継がれてきた「自己の内部に神はまします」という異端の概念が産まれたのではないか(p43)

 すなわち、超越体験の神と神秘体験との比較は、様々な宗教の間のための生物的な枠組みを与える大きな可能性が秘められているのである(p44)

ボールガール博士の画像はこのサイトから
ラフリン博士の画像はこのサイトから
ダギリ博士の画像はこのサイトから
ニューバーグ博士の画像はこのサイトから

【引用文献】
永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
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2016年01月25日

瞑想と脳の科学@ 人の心は神経伝達物質に還元できるのか?

人の心はドーパミンとセロトニンで理解できる?

 フロイトらの精神分析から、無意識や性的欲動といった用語によって人間が理解できるのではないかと考えられた時代がある。これと同じように、20世紀後半には、脳科学の急発展によって、ドーパミンやセロトニンといった神経伝達物質から人間の心を解釈する新たな人間観が急速に広まった。1990年代から広まったこのパラダイムをイギリスの社会学者、ロンドン大学キングスカレッジのニコラス・ローズ(Nikolas Rose, 1947年〜)教授は「神経化学的自己」と呼ぶ(p14)

米国のプラグマティズムは霊性を脳から理解しようと試みた

 霊性が脳と関係するのではないかと脳に初めて着目したのは、米国のプラグマティズムの哲学者、ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842〜1910年)だった。1901〜02年にかけエディンバラ大学でなされた講義内容は、その後『宗教的経験の諸相』として出版されている(p14)

 ジェームズが脳に関心を向けたのにはわけがある。生理学の研究から心理学に向かったことと(p16)、自分自身が青年期に精神病を患ったため、薬物(亜酸化窒素)を用いた経験があり、薬物によって精神が変容することを知っていたためだ(p17)

 このジェームズの発想は時代をはるかに先駆けるラディカルなものだった(p14)。また、ジェームズが精密な「内観」に基づく心理学理論を産み出していったのとほぼ時を同じくして、フランスにおいては、アンリ・ベルグソン(Henri-Louis Bergson, 1859~ 1941年)が「アラン・ヴィタール(elan vital)」を進化のキーワードとする生命哲学を提唱していた(p15)

 二人の哲学者の発想は、臨済禅の見性(けんしょう)の体験を哲学的に表現しようと試みていた西田幾多郎(1870〜1945年)にも影響する(p15)。西田の「純粋経験」の概念はエックハルトのようなヨーロッパの神秘主義者とともに、ジェームズとベルグソンから直接影響を受けている(p16)

未来を考えられる知性の発達が死の恐怖を生んだ

 宗教的な意識を脳の特定の部位や神経伝達物質に還元しようとした生物学的還元論の皮切りとなったのが、M・アルパー(Matthew Alper)の『脳の内なる神の部位』(1996年)である(p18)。旧石器時代以降、人類は地域や文化の差異を超えて、不滅の魂や超越的な力への信仰といった共通する宗教観念を抱いてきたが、アルパーによれば、それは遺伝子にコード化され、脳の特定の部位から生れるものである。蜂が六角形の巣を作り、猫がニャーと鳴くのと同じく人間の脳に先天的に配線されている(p20)

 アルパーによれば不安があれば捕食状況を避けられることから生存率を高まるため、不安には進化上の利点がある。けれども、不安が知性と結びつくと、いつ訪れるかわからない死への恐怖が人間特有の恐怖や混乱を産むことになる(p20)

死の恐怖を克服するため不滅の魂や神の概念が作られた

 前頭葉が発達することによって、人間は衝動を抑制すると同時に未来を予測する能力を手に入れた(p22)。けれども未来を予測する能力は人間に自己の死を自覚させる(p22,p24)。そのため、個人としての消滅の恐怖に拮抗し、バランスを回復させてくれるものが必要である(p24)。 結果として、高度に発達した知性を犠牲にすることなく、死の不安を克服できる認知回路を形成したグループが進化的に有利となり生き延びることができた。永続する不滅の魂や時間を超えて守ってくれる霊的な守護者、神の観念を産み出し、その神に祈ることでストレスを解消できる。髪は外にあるのではなく脳の特定の部位から産み出される。これが「生物・神学」の基本想定なのである(p21)

神の体験は側頭葉の電気活動なのではないか

 Ramachandran.jpg神との合一といった霊的なビジョン、至福感といった神秘体験の要素は、癲癇患者、なかでも側頭葉転換患者(ゲシュヴィント症候)に見られることが多い(p21)。神経内科医ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(Vilayanur S. Ramachandran, 1951年〜)は宗教性を側頭葉癲癇と結びつけた(p22)

 前頭葉が発達するとともに、海馬や情動・気分を制御する扁桃核は側頭脳の奥深くに移動する。海馬の細胞は、他の脳の部分よりも電気的に不安定である。刺激がなくなっても長時間にわたって反復して発火する。海馬と扁桃核はシーター波(4~7Hz)で同期する脳波を出しやすい。こうした脳派は祈りやマントラを繰り返しているときにも生じている。マイケル・パーシンジャー(Michael A. Persinger, 1945年〜)によれば、この側頭頭深部での異常な電気活動に由来するのが「神の体験」なのである(p23)

 至福を体験している瞑想者の側頭葉からは特異な脳波が発生している。このことから、側頭葉が宗教性や霊性に関わる脳内の部位だと想定し、臨床心理学者パーシンジャーは「神のヘルメット」を発明する(p22)。

Michael Persinger.jpg パーシンジャーの「神のヘルメット」は約1000人が体験し、その80%が意識の変容を経験したという。パーシンジャーのアイデアは、利己的遺伝子で知られるリチャード・ドーキンス、臨死体験を脳科学的に解釈し、ドーキンスの文化的遺伝子(ミーム)理論を発展させたスーザン・ブラックモア(Susan Blackmore, 1951年〜)らも着目した(p25)

 ワシントン大学の精神医学者、クラウド・クロニンジャー(Claude Robert Cloninger, 1944年〜)教授は「自己超越性」という概念を提唱している。

@ 仕事やスポーツに熱中して自分を忘れ、ゾーンに入ってしまういわゆるフロー体験

A 自分は世界の一部で世界を良くするためには自分の生命をかけてもよいとする自然との一体感

B 合理的唯物論の反対で奇跡や第六感、神秘体験を好む精神的な受容性(p30)

 米国国立癌研究所の神経遺伝学者、ディーン ハマー(Dean Hamer, 1951年〜)博士は、この自己超越性がVMAT2と呼ばれる遺伝子の変異に関係すると考える。VMAT2は、神経伝達物質のうち、カテコール(ドーパミン、アドレナリン、ノルアドレナリン)やインドールアミン(セロトニン)を含めたタンパク質の生産に関わる遺伝子である。モノアミン(カテコールとインドールアミン)は細胞で生産された後、膜で包まれて小胞に運ばれるのだが、VMAT2遺伝子が変異して、膜が作られなくなると酵素によって急速に劣化する。このため、VMAT2遺伝子を欠いたマウスは、無気力で短命な上、ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンの量が通常の1000分の1以下と極端に乏しい(p31〜32)

 神秘体験、ロマンティックな恋愛、美的体験の背景には、辺縁系(視床下部、偏桃体、海馬)と脳幹ループが深く関わっている。例えば、辺縁系が刺激されることで視覚連合野へのアウトプットが減少すると幻覚が生じる。神秘体験はここから生じると推測できる(p33)。すなわち、VMAT2遺伝子によって自己超越性が高くなり、それが、人の霊性を決めている。ハマー博士が提唱する『神の遺伝子』(2004年)は生物学的還元主義の極致とも言えるだろう(p29)

チャンドランの画像はこのサイトから
パーシンジャーの画像はこのサイトから

【引用文献】
永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ

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2016年01月22日

佐保田鶴治のヨーガ禅 サットサンガとカルマヨーガE

サット・サンガ=僧はもともと集団であった

 仏教ではマントラのことを「陀羅尼」と言う(4p152)

「ナモー タッサ バガヴァトー、アラハトー サンマーサンブダッタ」(阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に敬礼し奉る)は、南方の仏教徒が礼拝時に唱える文句で、もともと人間ではあったが、その人間性を極限にまで発展させたブッダを手本として賛美するものである(2p137)

 南方仏教で、仏、法、僧の三宝に帰依する丁寧な礼拝の仕方を三宝礼という(3p37)

 ブッダン サラナン ガチャーミーはその仏が説かれた教えに帰依することで(2p137,3p37)、ダンマン サラナン ガチャーミーは法に、そして、サンガハ サラナン ガチャーミーは僧に帰依することである。

 一人一人の僧のことをパーリー語で「比丘」と言うのに対して、ここで言う「サンガハ」とは僧侶の集団のことである。「サンガハ:は漢字では「僧伽」と書く。「僧」という言葉は、ここから「伽」を取ったもので、本来の僧は、ひとり一人の坊さんではなく、坊さんの団体を意味していたのである(3p37)

自分の心を清めることを誓った人々の集まり

 人々の中には「神性」があるが(3p36)、この内なる魂が汚されてしまっている。そこで、自分の内なる魂をできる限り浄めてから死のう。そのように考える人、覚悟を持った立派な人を善人、中国では君子、ヨーガでは「サット」と呼ぶ(3p14)

 ヨーガは本来、一人で瞑想するもので、この形は禅に残されている(3p35)。けれども、そういう人の集まりを「サット・サンガ」(3p14,3p37)、仏教ではサンガハと呼ぶ(3p37)

集団でお祈りすると波動効果がある

 華厳哲学は最も深い哲学だが、そこでは一人一人が「相入する」という「一切即一」や「一多相入」が重視されている。一人の力は微弱だが、50人が集まれば50倍になる(3p39)。ひとり一人からでる良いバイブレーションが混じり合う(3p41)。そして、観世音菩薩を拝むと、そこに宇宙の良い念力が集まり、それが私どもにも波動を及ぼす。その大きなバイブレーションの海の中でヨーガをやることが大切なのである(3p42)

 キリストの十字架も木造の仏像も、そのものには力はない。しかし、お参りしてお祈りする心が、十字架や仏像に力を与える。すなわち、自分の力を一度外側にプロジェクトし、そこから再びその力を戻してもらう手段が仏像といえる。この自分の力を念力と呼ぶがそれは神秘的なものではない(3p121)

慈悲的な生き方をしよう〜カルマ・ヨーガ

 根本の覚悟ができている人は、金や名誉や権力があっても邪魔にはならない。けれども、多くの人にとっては、それによって人間が駄目になり悲惨な死に方をする(3p12)

 小乗仏教では修行者は「比丘」と言われる。これに対して、大乗仏教では戒律も少なく、出家も不必要で、基本的には在家集団である。その俗人集団で最も大切とされるものは「布施」である。布施は物質的なものに限らず、精神的なものもある。したがって、人に喜びを与える「慈悲」も重要である(3p38)

 本物のヨーガはラージャ・ヨーガである(3p79)。この道を徹底して修行するには社会から離れなければならない(2p95)、「サンニャーシー」といって(2p96)、家を捨ててしまわなければならない。100建のビルを作るようなものである(3p79)。多くの人はそこまではやれないし(2p95)、日本人では誰もできない(3p79)。そこで、社会の中で行動することがそのままヨーガの修行になるやり方をカルマ・ヨーガと言う(2p95)。自分がやる仕事に対して自分の私利私欲を念頭におかず(2p97,3p80)、自分はこういう仕事をするべき使命・運命があると考え、結果に期待せずに行なう(2p97)。仕事の結果、いくら儲かるとか、ただ与えられた仕事を一生懸命やっていく。すると、人間存在の最も奥の価値ある、実質が表面に出てくる(2p97)。マハトマ・ガンディーがその模範的実例であろう(3p82)

 ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda, 1863〜1902年)によれば、世界一のカルマ・ヨーガの修行者は、釈迦である(2p99)。カルマ・ヨーガ型ではないと結局は生活に破綻を来たす(1p103)。自分に与えられた仕事を一生懸命行い、そこに生きがいを感じ、その仕事そのものに歓びが感じられるカルマ・ヨーガ的な生き方ができれば、その人は幸せだといえる(2p104)

インドで仏教が滅びたのはヒンドゥ教と違いがなくなったから

 インドにおいてなぜ仏教が滅びたのかに関しては、仏教がインドの階級思想「カースト制度」を否定したためだという見解が多い。けれども、佐保田博士は、大乗仏教はカースト制度を寛大に認めていたことから、そうだとは考えない。佐保田博士は、仏教が滅びたのは、ヒンドゥ教が大乗仏教とあまりにも似てしまい、見分けがつかなくなり、インド人には在来のヒンドゥ教の方が仏教よりも親しめるために、消え失せたのだと解釈する(3p164)

ヨーガと仏教とは一体のもの

 龍樹(りゅうじゅ, ナーガールジュナNāgārjuna,150〜250年頃)の「中論」は、論理学的な思想でけっして心理学的とはいえない。それが、なぜ世親(せしん, ヴァスバンドゥvasubandhu,300〜400年頃)の超心理学的な思想である「唯識論」へと発展していくのか。仏教史だけから見ていると、その理由がわからない。けれども、ヒンドゥ教の側からこの問題を見てみると、ヨーガの独自の心理学思想が仏教に影響を及ぼしていることがわかる。ヨーガは瞑想の修行法だが、心理学的な分析を行なう。すなわち、このヒンドゥ教の影響を考えなければ説明が付かない。そして、逆に、バラモン系のヒンドゥー教も仏教、とりわけ、大乗仏教によって影響を受けた。

 すなわち、インドにおいては、ヒンドゥ教と大乗仏教は互に影響しあいながら発展し、最終的には仏教は密教的な「真言宗」となり、ヒンドゥ教も密教的な傾向を持つようになったのである(3p162〜163)

 もとからして、仏教はヨーガの一派である。釈迦はヨーガを修行していたし、それまでのバラモン・ヨーガの欠点を直したのが仏教だからである(1p116)

【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院
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2016年01月21日

佐保田鶴治のヨーガ禅 マントラとお祈りの効用D

日本では仏教は滅んだ―念仏には意味がないと考えるのは近代仏教学の罪

 昔の日本の本当に信心深い仏教徒は輪廻転生を信じていたが、今ではお寺はあっても仏教の心はなくなってしまった(2p200)。佐保田博士は、ある真宗の若い僧侶が信者から「位牌の前でお経を読んで下さったが、人間死んでから先はあるのですか」と聞かれ「そんなものはない。来世がないのにお経を読むのも、親鸞上人が念仏を唱えよといったのも教訓のためだ」と答えたことに驚き「こんな僧侶がいるのは近代仏教学の罪である」と述べている(2p181)

 佐保田博士は、田舎の小さなお寺で偉いお坊さんが仏教を守り続けているかもしれないが、全体としては仏教は滅んだ、と語る(2p201)。ただ現代人の宗教に対する要求が消えたわけではない。お寺にしても教会にしても、人々の要求に応えられないために人が集まらなくなったにすぎない(2p118)。佐保田博士によれば、心の病気が救えなければ身体の病気も治らず、結果として患者を救えない。本当に病気を治そうと思ったら、宗教と医療が結びつかなければならないのである(2p185)

チベットのマントラは内なる魂、女神への呼びかけ

 インドでは瞑想は基本的に一人で行なうが、多数が集まって瞑想をするときには、マントラを20分位唱えて、瞑想は10分位しかしない。それほど、マントラを大切にしている(4p149)。それでは、マントラにはいったいどのような意味があるのであろうか。

 チベット仏教、密教で最高のマントラ、「オーム・マニー・パドメー・フム」を考えてみよう(4p148)。最初の「オーム」と最後の「フム」は聖なる言葉である(2p75,4p149)。「マニー」は中国語では「摩尼」と書き、打出の小槌のようにどのようなものも出す力を持つ宝、宝珠のことを言う。「パドメー」は「蓮華であるパドマの中にある」という意味である(2p75,4p149)。仏教では、昔から心臓を八葉の蓮華だと考えている(2p75)。したがって、これは、蓮華の中にある宝物、すなわち、「アストラル体や幽体の心臓の中にある魂よ」と呼びかけているのである(2p75,4p150)

 インドでは女神は非常に偉く、女神信仰は、密教の根本でタントリズムとも呼ばれる(4p151)。したがって、このマントラは真言のマントラなのである(4p152)。女神はサンスクリット語では「シャクティ」と言うが、これと同じく「マニー」も女神を表す(4p151)。また、「パドメー」も蓮華を表す女性名詞「パドマ」の呼びかけ言葉で、女神を表している。すなわち、「マニー・パドメー」は「蓮華であるところのシャクティ女神よ」という呼びかけにもなっている。内なる心臓と同時に女神への呼びかけという二つの意味を持っているのである(4p152)

神とつながる祈り=バクティ・ヨーガ

 神霊教では、観音様他多くの神仏をお祭りしてある(2p72)。宇宙最高の自在神(イーシュヴァラ)を信仰して、自分自身の生涯を捧げるつもりで生きていく。これをバクティ・ヨーガと言う。キリスト教や真宗はまさにバクティ・ヨーガである(3p82)。アーメンやオームと同様に般若心経も非常にいい優れたマントラで、宗教的なモノを出すには非常に便利な方法といえる(2p120)

 また、「オン・アロリキヤ・ソワカ」と観音様の名前を唱えることも(2p73,4p162)、宇宙の神々に呼びかけていることであって(2p73)、その意味を何も考えなくても良い(4p162)

観音菩薩マントラによって実際に人は幸せになれる

 さて、ヨーガの道徳律は、殺傷をしない、人のものは取らない、道ならぬ恋をしない、嘘をつかない、モノをむやみと欲しがらない(不貪)という5つの禁戒と以下の5つの勧戒からなっている(2p189,2p191)。さらに、身も心もきれいにする。雑念を持たないようにする「清浄」(2p192)、もがかないで現在与えられた境遇に満足し、ベストを尽くす「知足」(2p193)、「苦行」、「読誦」、「自在神祈念」と続く(2p193)。『ヨーガ・スートラ』によれば、不貪の戒律を守ると自分の転生を知ることができ(2p191)、「苦行」をすれば超能力が得られ、マントラや般若心経を唱えれば観音様に会え、天地の一番高い神様に祈ると三昧に達するとされている(2p193)

 仏には法身・報身・応身の三体がある。「報身」とは、長い間の苦労が功労として報いられることで、宇宙いっぱいにまで広がった身体である。阿弥陀如来がそれにあたる(4p147)。阿弥陀如来は修行して知恵を磨くことによって仏(如来)になっており、菩薩よりも格としては上である(3p17)。けれども、観世音菩薩は慈悲に重きをおく。自分が仏になってしまうと衆生に対して慈悲を施すことができない。そこで、自分は菩薩のままでよいと留まっている(3p17)。すなわち、観世音菩薩も、もともとは「報身」を持った仏なのだが、衆生を救うため相手に応じて便宜的に一段下の姿、「応身」を現したものなのである(2p157, 4p147)

 けれども、マントラや般若心経を唱えると観音様に会うことができ(2p193)、佐保田博士によれば、マントラを唱えたり、聞いたりするだけで、現実に不幸であった人がだんだん幸せになっていくことがあるという。マントラが深層心理や潜在意識に影響することは知られているが、なぜ、そのようなことが可能なのであろうか。佐保田博士は、その理由を潜在意識の世界がマントラによって変わることによって、外的環境も変わるためだからだと考える(4p156,4p161)

人間は自分で運命を作っている

 人間は作られた環境を受身で受け入れるしかないという考え方と環境はわれわれ自身が作っているという考え方とがある(3p189)。ヨーロッパ思想では宇宙を支配するのは、絶対的な人格神である。したがって、人格を持つ自分と神とが対立する。このため、神が我々を審判するという考え方につながっていく。一方、インド思想では自分の意志によって世界が作られていると考える。これは、逆に言えば、運命は自分の自由意志によって変えられるということでもある(3p191)

 2016011803ルイス.jpgバラ十次会日本支部が翻訳したスペンサー・ルイス(Harvey Spencer Lewis, 1883〜1939年)の『ライフ・マップ』によれば、宇宙にはリズムがあり、そのリズムをよく理解し、それに乗っていけば人間の運命も自分で支配できるという(3p188)。すなわち、環境は人間が作るのであって、運命も自分で作っているという考え方がルイスの宇宙バイオリズム思想である(3p189)。人間はキリスト教で言う人格的な神によって運命を決められているのではなく、自由意志で自分の行為を決めている。したがって、この自分の選択に対する責任を非人格的な宇宙の法則によって負わされているとルイスは述べる。これはインドの考え方とまったく同じである(3p190)

自分で自分の環境を決めている=自業自得

 自業自得と言う言葉は、不幸な人に対する冷淡で無常な批評として受け取られがちである。けれども、それは誤解である(3p190,4p64)。自分がやった行いの結果は必ず自分が受け取る。すなわち、どのような環境が自分にもたらされるのかは自分の自由意志によって決定したというのが、自業自得の本当の意味である(3p190)。すなわち、環境は自分が作っており、心の中にネガティブな傾向が強ければ、周囲もネガティブになってしまう(2p83)

前世を含め過去の経験はチッタに格納される

 瞑想の修行が盛んであったインドでは、心の内側が信じられないほど詳細に観察されてきた。その結果、産み出された「行(ぎょう)」と「業(ごう)」の観念にはとりわけ、驚かされる、と佐保田博士は述べている(4p57)

 近代心理学でも一度経験された印象はすべて潜在意識に残され消えずに機会ある毎に記憶として心の表面に浮かんでくることが知られている。インドでも同じことが考えられていた(4p57)

 ヨーガの心理学では、前世の記憶を含めて、すべての経験の残存印象が貯蔵されている記憶の貯蔵場所を「チッタ」と呼ぶ。チッタは神経細胞ではなく、今日で言うエーテル体やアストラル体のように、眼に見えない精妙な物質からできているとされる(4p58)。すなわち、過去に経験された心の印象は「チッタ」と呼ばれる心の土の中にいわば種子として保存されている(4p159)。この集積された膨大な経験のトータルな残存印象のことを「行(サンスカーラ)」あるいは「薫習(くんじゅう)」と言う(4p59, 4p160)

 普段の日常での心の働き、想念も、このチッタから「発現」している。『ヨーガ・スートラ』では、この発現を「転変」と表現する(4p58)

過去の印象、業が現在の外部環境を作っている

 けれども、過去の経験からの残存物は、過去からの記憶「チッタ」だけではない(4p59)。個人が過去において行なった善や悪の行為の残存印象である(4p61)「業(ごう)」や「煩悩」もある(4p59)

 記憶の残存印象である「行」の中には外部環境を作らない記憶もあるが、外部環境を作り上げる種子もある。これを「業」と呼ぶ(4p60,4p159)。「業」はチッタに貯蔵されている「行」の一種だが、心理的な内容に「転変」せず、外界を「転変」する原因となってしまう(4p60)。ただし、「業」は自然世界の設計図のようなもので、そのまま世界を創り出すわけではない。この設計図にしたがって、宇宙を作る根源的な力である、天地のエネルギー源、自性(プラクリティ)が流れ込むことによって、世界が作られていく。要するに、過去に行なった無数の残存印象が種子として植え付けられることで、世界を作る神的な力によって畑が作られていくのである(4p61)。そして、記憶に外界の力を作る力があるのは、無意識の世界が環境を作っているからである(4p161)。外界、すなわち、自分の周囲の環境世界は、個々の瞬間毎に各個人の心によって「発現」されているものだと考えれば、心の操作によって、外界も変わっていくことになる(4p61,4p64)

 よく、ヨーガを正しく習得した人から「このごろ不思議にツキが良くなった」ということを耳にする。これは、守護神の恩加護のためだと考えることも間違ってはいないが、このように考えれば、その理由も理解できるし、ヨーガの神秘性を強調する必要もなくなる(4p64)

運命とは自分が過去に行った行為の結果である

 要するに、インドでは、この世に生まれる前、何千年前、何万年前に考えたり行動した記憶すらも心の奥底に残っており、その記憶が心の動きや運命すらも決定すると考える(1p142)。すなわち、自分が過去に行ったことの結果がカルマ、すなわち「運命」であると解釈する(3p89)。不幸な人、幸せな人、金持ちの人、貧乏の人。こうした現在の外部環境は、前世で行なった行為の結果が自分によって作られている(4p159)。人生には不幸もあれば幸福もあるが、それはすべて過去の蓄積だと考える。これを仏教では因果という(2p199)。ひどい境遇に陥ったりひどく不幸になる人がいるが、それは、前世から持ち越した借金の支払いをしているのである(3p13)。このように考えれば、この世に生まれてくることそのものが運命であって、すべてが自分の責任、自業自得である(3p92,3p108)

煩悩に流されなければ今のカルマを逃れられる

 したがって、仏教流にいえば、人はカルマによって生きている。そして、この借金を返すことが、この世での一番の使命なのである(3p13)。また、こうしたカルマから逃れることが一番立派なことだといえる(3p92)。例えば、つまり、自分の中から湧き起こる激情や怒りや憎しみや欲望等によって悪い意志決定をしてしまうのも運命である。そして、この意志決定に対して、自分が作った運命が実現するように自然の力が働く。そこで、自分で支配できるようにならなければ、外から来る力に操られてしまい、運命の支配を超えることができない(3p85,3p86)

カルマを逃れば功徳が積める

 さらに、肉体が死んでも心が残るとすれば、自殺したからといってすべてから逃れられるわけではない。未来も生まれ変わると考えれば軽率に自殺等はできない。また、自殺をするとその心に悪いものが付くために再び生まれたときには不幸な運命を送ることになる(2p199,2p200)。例えば、エマーヌエル・スヴェーデンボルグ(Emanuel Swedenborg, 1688〜1772年)の『天国と地獄』には、あたかも自分で進んで地獄にいく霊が登場する。神様が悪いことをした霊を地獄に投げ込むことはなく、霊そのものが地獄が好きなために落ちていくのである(3p90)

目に見えない守護霊の世界とつながる

 人間は社会的な動物であって、精神的にも人から恵みをもらい、人に恵むという関係性がなければ生きてはいけず気が狂ってしまう(3p21)。社会的本能から人との交際がなければ生きて生けない(2p145)。けれども、ヒマラヤの山中で仙人が孤独でいられるのは、なぜなのだろうか。佐保田博士は、周囲の植物や岩石とも精神的に交流ができているからだと主張する(3p21)

 最近の心霊科学では、誰にもその人に好意を持つ神様、守護霊が必ずいると考えている。けれども、本人がその神様とうまくコンタクトができないと神様は支援することができない。そこで、神様と連絡をつけるためには「祈る」ことが必要となってくるという(2p135)。眼に見えないものを信じない合理主義者は、左の前頭葉が発達していても右の前頭葉が発達していないが、神仏を拝むと右脳が発達していく(2p136)

 そして、ヨーガをやっていると、自分の死んだ祖先の霊を含めて神様がいつも自分を保護しているとの感じがしてくる。このため、偉い人は狭いところに閉じ込められ外界との交渉を絶たれても孤独のために病気になることはない(2p146)

 要するに、インドでは死んでからも残るものがあり、それを「ダルマ」、「功徳」と考えている(3p106)。良いことをすればこの世でいい結果を受け取り、たとえこの世で受け取れなくてもあの世でいい結果を受け取る(3p107)。すると、来世の運命も保証されてくる。それがヨーガの最高の理想なのである(3p94)

【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院

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2016年01月20日

佐保田鶴治のヨーガ禅 瞑想C

瞑想=自分がいなくなること

 2016011702.jpg佐保田博士が三高時代に師事した岡田虎二郎(1872〜1920年)氏は、自分の奥底の根底にある「ゼロ人称」をつかむのが最高の目的であると言っていた(2p113)。すなわち、瞑想の目的は、「ゼロ人称」を掴むことにある。普通、瞑想をするときには、瞑想している自分は一人称で「私」という観念があり「私の考え」もそこにある(2p114)。けれども、こうしたものは時間的存在で、時とともに絶えず変化していく。インドでは、それをマーヤ(迷い)と捉える(2p115)。そして、これは幻の世界であり、それとは別に時間を越えたゼロ人称の自分があると考える(2p116)

すべてがマーヤだと考えると苦しみは消える

 ブッダは、その根本において人生は苦しみであると考えた。なぜ、人生が苦に満ちているのかというと、この世のあらゆるものには実体があって、それが動かすことができないものだと信じ込むからである。けれども、あらゆるものが実体がないものだとわかれば悩みはことごとく消えてしまう。このようにブッダは考えた(2p123)

 ブッダが悟りを開いたときには、「生まれてきて良かった」、そして同時に「死んでもいい」という大変な満足感が生まれたという。この境地を仏教では「般若」の「智」と呼ぶ。ブッダが悟ったときの喜びは、感情に近いものではなく、智慧であったからである。そして、その内容を仏教では「空」と呼んでいる(4p77)。そして、『ヨーガ・スートラ』も、この境地にまでゆけば、人生をすべて解決でき、恐れることも悲しむこともなく、天地とひとつになれる状態が続くとしている(4p79)

瞑想でシンキング・マインドをなくすと対象がリアルに感じられる

 『ヨーガ・スートラ』には八部門あるが、道徳や戒律から始まり、座法や呼吸法が続き、最後が凝念、瞑想、三昧となっている(2p162,4p81)。そして、この『ヨーガ・スートラ』に書かれているように、たえず動き回る心の動きを止め、雑念をなくしていくことが瞑想の目的である(2p161,4p75,4p141,4p143)

 たいていの人の背骨は曲がってまっすぐになっていないが、禅の僧侶で長年熱心に修業された人は背骨がまっすぐである。すなわち、瞑想で大切なことは背骨をまっすぐにすることである(2p170)。とはいえ、コロコロと動く心の動きをいきなりなくすことは難しい(4p144)。雑念を払うためには、心を一定の方向に向けていく必要がある。仏教ではこれを「心一境性」と呼ぶ。「境」とは対象のことである(2p169)。そこで、ひとつのことをずっと思い続ける(4p144)。すると考える想念が消える(4p145)

 あるいは、数を数える「数息観」や結論がでない公案を念じる「公案禅」を行なっていく。このようにしても、いつのまにか想念は消えてしまう(4p146)

抽象的概念もリアルに掴む=リアリゼーション

2016011801.jpg ボンベイにサンタクルス(Santacruz)に世界的に有名な道場がある。ここを開いたスリ・ヨーゲンドラ(Sri Yogendra, 1897〜1989年)は、ヨーガの目的はリアリゼーションとトランスフォーメーションであると述べている(2p148)

 画家はたとえ目の前に花がなくても、実際に花を見ているかのように心に花のイメージを描くことができる。こうした能力をさらに磨いていくと、平和や愛といった抽象的な概念も花を見るように実感として捉えるようになれる。すなわち、普通の人にとっての抽象的な思想が生き生きと実感できるようになる。これがリアリゼーションである(2p149)

 そして、次の瞑想(ディアーナ)とは、花や抽象的な愛や平和について考え抜くことである。考えに考え抜くと、もう考えられなくなってしまい、考えていた自分が突如としていなくなってしまい、考えていたことが目の前にあらわれてくる(2p162,4p81)。すなわち、抽象的な概念にすぎないものが花のように具体性をもってあらわれてくる(2p163)。自分が消えて、自分が考える対象が具体的に感じられる(2p164)。桜であれば、自分がなくなり、桜の花だけが存在している。これが三昧であると『ヨーガ・スートラ』は説明している(4p82)。これは、意識を失った状態になるのではなく、非常に充実した状態になる。これが「三昧」である(4p145)。「定(じょう)」とも言う(4p76)

田毎の月

 けれども、さらに、先がある。本当の瞑想の対象は自分である。そこで、三昧に入ると本当の自分があられてくる(4p82)。江戸中期の禅僧、白隠慧鶴(はくいん えかく、1686〜1769年)は「衆生本来仏なり」と語ったが、これは、人間はもともと仏であり、一人ひとりの内側には神様がいるということに他ならない(4p146)。これが観念ではなく、事実としてあらわれてくる(4p146)

 私たち一人ひとりの心を田圃のようなものだと考えてみよう。風が吹いて波が立てば、そこに写っている月も揺れる。けれども、田圃の表面が静まってくると天の月と同じように美しい月が映し出される(2p169)

 瞑想によって妄念をなくしていくと真我に近い美しい自我として、自分の生活の中に自我があらわれてくる(2p169)

 そして、この段階がさらに深まると田圃の水がひあがったように自我の影も消えてしまい、空に月が浮かんでいるかのように真我そのものだけがあらわれる(2p169)

道元禅師の境地=三昧

 仏教も同じで、考えて考えて考え抜くことを道元禅師は「仏法を習うは自己を習うなり」と表現している(3p208)。その結果、道元禅師(1200〜1253年)は「仏法を習ふといふは、我を忘るるなり」。すなわち、エゴをなくすことが修行だと述べている(2p164)。さらに、道元は「我を忘るるといふは万法に証せらるるなり」と述べている。この意味は難しいが、インドでは「証」のことをサークシャートカーラ、本当に自分の目でまじまじと見るように感じることを言う(2p164,3p209)。したがって、普通の知性はモノを間接的にしか見ることができないが、「証」とは直接、対象をつかむことであり(2p165)、ヨーガ・スートラが言う三昧の状況と一致する(2p164)。対象と自分とが区別されず、この世界にあるすべてのものがまじまじと自分を見ている、ということになろう(2p165,2p166)

シンキング・マインドをなくすと出てくる般若の智慧は高次元の思想

2016011802疎石.jpg つまり、考える働き、シンキング・マインドがまったくなくなったときに、道元禅師や夢窓疎石(1275〜1351年)が言ったように、新たな力、「般若(プラジュニャ)」の「智慧」が出てくる(3p170)。普通の心は、概念や言葉を媒介として働いている。けれども、三昧の状態になると言葉がなくなってしまうため、これを言葉で表現することは難しい(4p76)。したがって、仏教の真理を客観主義の立場で理解することはできない(3p168)。道元禅師の言葉も、夢窓疎石の『夢中問答』(1344年)も、高次元のものである(3p167)。高次元の思想から仏教を見なければ、仏教はわからない(3p167)

アーサナを通じて私をなくすことがハタ・ヨーガの目的

 知性が働くためには「私」と対象とが対立し、エゴがなければならないが、アーサナをやっているうちに、「私」の意識が薄まり、「対象」だけが浮かんでくる(1p153)。そこで、まず、身体をリアライズしてはっきりとつかみ、さらに人間の一番奥にある聖なる性質とも一体化することがヨーガの目的である(2p151)。そして、自分の身体と心と魂とが統合されると本当の魂が生かされるようになる。さらに、層が統一されていくにつれて、その人はトランスフォーメーションしていく。これがヨーガの目的なのである(2p152)

【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院

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2016年01月19日

佐保田鶴治のヨーガ禅 本当の自分とつながるためにエゴを手放すB

現代人は小学校の優等生

2016011901WILSON.jpg 秀才でも頭が悪い人はたくさんいる。学問ができることと智慧があることは別だからである(3p130)。現代人は知識があっても知恵がない(2p11)。それが、知能だけが発達していて、感情と身体が備わっていないからである(2p10)。知能が優れていても、感情生活の豊かさと身体の完全に健康な状態にはない。小学校の優等生にすぎない(2p8)。コリン・ウィルソン(Colin Wilson, 1931〜2013年) によれば知恵は感情と身体の双方が備わらないと出てこない(2p9)

 自分の中で様々な欲望、怒り、嫉妬といった汚い感情が取りまいていると透明な智慧は出てこない(3p157)。そこで、ヨーガをやっていると物事の善悪や良し悪しがはっきりと判断できるようになる。このため、将来の難を逃れ失敗することがなくなる(3p130,3p157,4p198)

ヨーロッパ哲学は見かけは立派でも本当の哲学はない

 ウィルソンによれば、17世紀以降のヨーロッパの哲学者は、非常に深い哲学を説いているように見えても、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724〜1804年)も含め、半人前、小学生の優等生にすぎないと言う(2p10)

 佐保田博士によれば、現代ヨーロッパの哲学は、みかけは立派だが内実はつまらなく、あまりたいしたものではないと考えている(2p196)。唯物論は哲学ではないし、米国の新論理学も哲学ではない(3p167)。かろうじて哲学らしいものは実存哲学だが(3p115,3p167)、キルケゴールにしても、サルトルにしても、主体性の面がはっきりしていない(3p168)。コリン・ウィルソンは『アウトサイダーを越えて』で、その実存哲学を批判して乗り越えようとしたが、結局は、自分が目指す哲学を生み出すことができなかった(3p115,166)

キリスト教によってヨーロッパの哲学は発展しなかった

 佐保田博士によれば、西洋哲学が駄目になったのは、キリスト教神学が哲学を抑えてしまったからである(2p197)。キリスト教は瞑想中心の宗教ではなく(1p116,2p160)、ギリシア文化がキリスト教に圧倒されてから、ヨーロッパには瞑想の伝統がなくなってしまった(2p160)。すなわち、ヨーロッパには瞑想の伝統がなく、それがヨーロッパ文明の弱みとなっている(2p160)

 ヨーロッパでは宗教はキリスト教、哲学はギリシア・ローマ系思想として区別されている。けれども、これは、ヨーロッパだけの特殊事情である(3p165)。高次元の宗教は哲学であり、宗教ではない哲学は本物ではない(3p165)。ヨーロッパでは紀元前7世紀から始まったギリシア・ローマの哲学が一度途絶えて今日まで伝わっていない(3p116)。したがって、ヨーロッパには本当の哲学はいまだにできていない(3p165)

客観主義のヨーロッパ思想は虚しくニヒリズムにつながる

 西洋思想の根底には客観主義がある。すべての対象を「客体」として外から捉える(4p68)。どれだけ精密に発展しても、科学思想も客観性から離れることはない(3p167)。したがって、心理学も人間を外から研究対象としている(4p68)

 とはいえ、客観的にみれば、一個の人間は、大宇宙に較べて、比較にならないほど哀れである。こうした世界観では悲観主義にゆきつき、人生の喜びは得られない(4p79)。また、ウィルソンは「現在のヨーロッパでもてはやされている合理的な思想は、20年もすれば通用しなくなる」と述べている。現代思想がゆきずまっている以上、より高い次元に飛躍しなければならない(3p167)

ヨーロッパはようやくはるか昔のインド哲学にたどり着いた

 一方、東洋では3000年前からの哲学や世界観が伝わっている(3p116)。哲学と宗教とが対立することなく、哲学が宗教そのものとして進歩していった(2p197)。例えば、インドは紀元前5〜6世紀も昔から心の内部を探求してきた(4p56)。釈迦よりも200年前、紀元前700年にはすでに完成していたヴェーダンダは、人間を内側から捉えようと考えた(4p69)

 ヨーロッパで人間を内側から見ることの重要性が認められたのはようやく200年前からにすぎない(4p70)。したがって、心の探求の面ではヨーロッパよりもインドの方がはるかに進んでいる(4p56,4p71)。最近になってようやくインドが大昔に到達していた地点に近づいているような状況である(4p56)。そのひとつが実存主義だが、マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889〜1976年)やカール・ヤスパース(Karl Jaspers, 1883〜1969年)は東洋哲学、とりわけ、禅をよく学び(2p198)、ヤスパースは瞑想に興味を持ち、毎日座禅をしていた(4p70)

自分の外に神を求める神霊教と自分の内側に神を求める神秘教

 宗教は大きくわけて、自分の外にいる神を信仰する「神霊教」と自分の内側にいる神を信仰する「神秘教」、ミスティズムとにわかれる(1p64)。神霊教は外側に神がいる。このため、その神に対する信仰、お祈りや儀式が伴う(2p66)。神霊教には一神教と多神教があるが(2p64)、日本の神道は多神教の神霊教に相当し(2p66)、キリスト教は一神教の神霊教といえる(1p64)

 一方、神秘教は自分の中には本当の立派な神がいると考える。ただし、一般に我々が「自分」だと思っているものは、エゴであって、神様でもなんでもなく、影にすぎない。しかし、その「自我」の奥には「ほんとうの自分」がいる。すなわち、我々の中にいる魂は私の魂ではあるが、同時にそれは宇宙の魂の分身でもある(2p65)。この神秘教は神を自分の内側に求めるため、儀式がない代わりに瞑想を伴う(2p66)。瞑想して、自分の中に深く入り、自分の中に神を見る宗教である(1p117)

 道徳は他律的なものだと考えるとやりたくなくなる。ヨーガでは自分の奥に神がある。このため、神の命令といっても、自分が自分の命令に従うことになり他律的ではなくなる。一方、クリスチャンは偽善者が多いと言われるが、それは道徳を神の命令だとして受け取るからではないだろうか(2p189)。最も西洋でもスピリチュアル・サイエンスは魂の根本は神様であると考えている(4p16)

主観主義のインド思想は幸せにつながる

 インドでは本当の自分、真我のことをアパラ・アートマンと言う。一方、宇宙最高の魂のことをパラマ・アートマン、ブラフマン、梵と言う(2p70)。では、本当の自分はどうすればわかるのであろうか。インドの聖者が考え出したひとつは「これは本当の自分ではない」「これも本当の自分ではない」とひとつひとつ自分を否定していく修行である(4p138)。すると、最終的には、本当の自分と出会え(4p139)、それは宇宙の広さにまで広がり、宇宙と自分とが同一になる。これをヴェーダンタの思想では「ブラフマ・アートマ・アイキヤム(brahma-atoma-aikyam)」「梵我一如」と言う(2p70,4p84,4p139)。この最初の哲学書ウパニシャッドの考え方は、インド哲学の主流、ヴェーダンタ哲学として続いている(4p139)

 すなわち、客観的に見ていくと自分は哀れな存在でしかない。けれども、主観的に見ていて三昧の境地に達すると自分は哀れな存在ではなくなる(4p83)。そのときの喜びは無限の歓びであり、たとえ、三昧から目覚めた後でもその余韻が続く。瞑想をする価値はそこにある。おそらく、釈迦はそうした人生を送られたのであろう(4p84)

 仏教では禅はとりわけ内向的だが、外面的な要素もある。また、キリスト教は外面的な面が強いが瞑想の要素もある(2p66)。パウロも「もはや我、生きるにあらず。キリスト、我によって生きるのである」と延べ、自分がなくなっていて、私の中ではキリストが生きていると述べている(4p139)。すなわち、自分は神と独立した存在ではなく、神の容器、あるいは神のお宮なのだと考えている(4p140)

エゴのやりたいようにやらせることが自由ではない

 戦後日本は三つの悪の原理がはびこっている。第一は、すべてを物質で割り切る唯物思想である。第二は、欲望の肥大である(3p9)。第三は個人主義エゴイズムである(3p10)

 現代人は、自分がこうやりたいと思えることができれば、それが自由だと考える。けれども、それは外部的な自由にすぎない(3p87)。わがままにやれる。自分がやりたいように自由にやれるということは、エゴが自分の主人公になっているにすぎない(3p193)。本来は、自分の自由意志で行為をしているはずなのだが、その自由意志の選択は、自分の中にある迷い、すなわち、煩悩、エゴに支配されているからである(3p192)。そして、我とつきつめると、我と我との間の対立、矛盾が強くなる。だから、現代人は孤独なのである(3p22)

 けれども、自分だけの力で自分が生きていると考える人は無智な人間である(3p19)。人はたくさんの他人のおかげ、さらに、自然の様々なもののおかげで生かされている存在である(3p20)。仏教では、私は我という考えで厳然と立つのではなく、他人のお陰で我があると考える。これを「四衆の恩」という(3p23)。したがって、「我」が独立して存在するという、ヨーロッパで発達した近代人の考え方はあまりたいしたものではないことがわかる(3p22)

 けれども、ヨーロッパにはエゴの思想しかない(3p133)。ルネ・デカルト(René Descartes, 1596〜1650年)以降、エゴ(自我)は絶対に消すことができない最も大切なものだと考えられている。そして、現代の日本人はヨーロッパ流の考え方をするようになっている(4p131)。だから、現代人は、エゴの観念をだんだんと弱めていくと、生きがいもなくなり、頼りない人間になるのではないかと考える(4p140)

 けれども、実際には逆で、瞑想をすることでエゴの観念がだんだん減っていくと(2p168)、本当の自分がだんだんとはっきりして、生きることに対して非常に力強い信念が出てくる(4p141)。心の悩みはエゴの概念と密接に結びついているため、心の悩みも減っていく(2p168)。我をなくして無我になったときには、天地自然の真理、「法」がでてくる。その真理に依存していると絶対に強い(3p23)

本当の自由は欲望を抑えることにある

 何かをやろうとするのは欲望である。そして、やろうとする欲望を抑えられるところに人間の自由はある(3p86)。イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724〜1804年)は「汝の格率が一般の法則になるように行為せよ」と述べたが、これも同じことである(3p87)

 インドでは、エゴがあるために人間は苦しむのであり、エゴを消すことに人間の理想を求めてきた(4p132)。エゴの観念が強ければ、欲望、怒り、悲しみと自分を中心とした感情がはびこり、一番苦しむのは自分となるからである(3p133)。エゴは本当の自分ではなく、嘘の自我である(3p133,4p136)。それに捉われている限り、われわれは不自由で不幸なのある(4p136)

 インド的に考えれば、この世の人間は自由がなく牢獄につながれた罪人のような存在である。けれども、縛られていて不自由だからこそ生きていられるともいえる(4p132)。とはいえ、こうした不自由な世界から逃れたいという要求も持っている(4p134)。そして、この不自由な世界から逃れるためにはエゴの観念は邪魔である(4p135)。エゴを離れて本当の自分に帰るときに自由になれる(4p136)

東洋哲学のもうひとつの柱は輪廻転生

 東洋哲学には二つの柱がある。ひとつは、一人ひとりの存在の真髄は神であるという考え方である。仏教ではこれを「仏性」があるという。もうひとつは、人間が生まれ変わり、輪廻転生するという思想である(2p198)

インドでは輪廻転生が信じられているが、佐保田も理論上、そう考えざるをえないと思っている。わずか50年、100年程度の短い人生ではなにもできない。この世でやり残したことは次の世でやると考えないと生きていく勇気や本当の意味での生きがいは感じられない(2p180)

 この世に本当に生まれた目的を知るためには、自分が何かを理解しなければならない(4p80)。輪廻転生をひとつの礎として、その上で人生を考えると、人生観が非常に深くなる。同時に自分の人生を慎むようになる(2p199)

 ヨーロッパのキリスト教は生まれ変わりを否定したが、ドイツの詩人ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729〜1781年)は来世があることを信じていた。自分の仕事はこの一生だけでは完成せず、生まれ変わりがなければ仕事が完成しないことから、仕事を完成したい強い希望がある以上は生まれ変わりを信じないわけにはゆかないと考えたのである。同じことをヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749〜1832年)も考えていたという(2p181)。いま、ヨーロッパでは輪廻転生が次第に認められるようになってきた。そう考えなければ理解できない現象が数多くあるからである(2p201)

【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院
コリン・ウィルソンの画像はこのサイトより

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2016年01月18日

佐保田鶴治のヨーガ禅 フロー・ライフ「預流果」A

現代人は心が健康でないから人に愛を与えられない

2016011701.jpg 明治時代に活躍した僧侶、伊藤証信(1876〜1963年)は仏教の愛は菩薩の「慈悲」「無我の愛」であるとの教えを説き(3p16)、川上肇(1879〜1946年)を感動させている(3p18)。仏教の慈悲は無我の愛でなければならない。これを「無想三昧に住して慈悲を行う」と言う(3p17)。エゴが強い愛は本当の愛ではなく、仏教では「愛欲」と言う(3p18)

 すなわち、本当の愛は与えるものであって求めるものではない。けれども、現代人は誰もが愛を求めるばかりで与えようとはしない。一人一人が他人に愛されたいとは思っていても、愛がない。そのために誰も愛を得られずに絶望していく。では、なぜこのようになってしまったのかというと、それは現代人のほとんどが本当に健康ではないからである。本当に健康であれば、人は人に愛を与えることを喜びとする存在だからである(3p66)。けれども、この状況を変えるには頭から入るだけでは難しい(3p67)

身体から心が健康になると病気にもかからない

 ヨーガは体操ではなくライフスタイルである(4p189)。そして、心と呼吸と身体とが結びついたヨーガ体操を行なっていると性格が自然に変わってくる(1p163,3p68)。自律神経が調和すれば、自律神経の中枢が大脳皮質にまで影響し、心がまさに変わってくる(1p152)。例えば、気に入らないことをされても腹が立たなくなり、憎むことがなくなっていく(1p123)。感情が豊かで穏やかで静かになれば、どれだけ忙しい職場にいたり、嫌な上司がいてもストレスがたまらない(4p203)。そして、心が変われば、世の中の不幸や幸いも当人にはいままでのように痛切に感じられなくなる(1p164)

 お釈迦さまが語っているように心身が非常に安定している。これを寂静(じゃくじょう)という(2p37)。そして、心が非常に安定し、感情の起伏が少なくなって安定し、心の動きが穏やかな波を描くようになると、病気になることも減っていく(1p125)。この人間の心の成長は年齢に制約されない。年を重ねるほど進歩する(1p129)

聖書が読めるようになる

 人を憎んだり、イライラしている人が読むのと、心が安定して宗教性が表れてきた場合とでは、聖典を読んでもそのわかり方が違ってくる(1p125)。こうして昔の偉人が言ったことや書かれたことが自分の細胞のはしはしにまで染み込むようになってくると、先人が言った立派なことが身体に備わってくる(1p126)

歓びが出てくるから明るくなる

 涅槃とは空漠たる状態ではなく、心が非常に澄んでいて安定し、かつ、歓びに満ちている状態を言う。世俗的な財産、名誉、権力からではなく、別の歓びが溢れている状態を言う(2p37)

 ヨーガを長く続けていくと心が安定し、朗らかになるだけでなく、心の中に説明ができない歓びが出てくる。いつも明るく、非常に透き通って、歓びの心が心の中に満ちてくる(1p127,3p156, 3p64,4p29,4p198)。毎日が楽しくいい日である。禅宗で言う「日々是好々」の気持ちがあらわれてくる(1p127)

 さらに、ヨーガでは瞑想が入ってくる(3p63)。瞑想が入るとますます楽しくなり、気分が明るく愉快になっていく(3p68)。たとえ、ハタ・ヨーガであっても、瞑想と同じ効果が次第に出てくる。逆に言えば、心の中に歓びが湧かなければその瞑想をやった甲斐はない(4p199)。禅の修業も本当に成功すれば、心の中に無限の歓びが湧いてくるはずである。歓びが湧かず、しょっちゅ癇癪を起こしているようであれば、ニセモノであろう。本当の禅僧ならば周囲に雰囲気も非常に明るくなる(2p184)

慈悲の心が出てくる

 初めはかすかであっても、自分の心の中に嬉しさがあれば人に不親切はできない(3p68)。こうなれば、人を恨んだり、妬んだり、癇癪を起こすといった悪い部分が希薄になっていく(3p64,3p73)。敵と味方の区別も減って相手に同情心を持つようになってくる(3p73)

 すなわち、自分に喜びが湧くだけではなく、あらゆる人、あらゆる生き物にも優しい心が出てくる(4p201)。心が変わりその人の心に慈悲が芽生える。慈悲とは人と歓びを共にし、悲しみを共にすることである(1p167)。つまり、何も言わなくても周囲に向かって愛の光を出している(4p201)。どんな人に対しても、その人が幸せになることを望み、その人が幸せになるためにできるだけ何かをしてあげたいという気持ちが出てくる(3p156)。あらゆる動物に対して愛情が出てくる(4p89)。傲慢にならず、慢心も起こらず、他人に好意が持て、スズメやアリ等の虫にも温かい心がもてるようになる(4p90)。大乗仏教の修行者である菩薩の根本の動機は慈悲である。それを動機としないものは仏教徒ではない(3p157)

一隅を照らす

 見たところは相変わらずくだらない人間であってもだんだんその人の実質が変わっていく(2p61)。その人、独特の雰囲気が生まれてくる(3p45)。自分の内なる歓びが皮膚を通じて外にあふれ出す(1p127)。つまり、ヨーギをしていると、その心境がだんだん表れ、そういう人はその周囲に明るい光を撒き散らしていく(2p37)。そういう人がいるところは必ず明るく愉快になる(3p15)

 これを伝教大師(767〜822年)は「道心ある人は一隅を照らす」と語った(2p37,2p184)。そうすると、周囲の人もそれを感じる。そして、周囲が変われば自分も影響され、よいフィードバックが始まりだす(1p127,2p61)。ヨーガが習慣となると、他人に不愉快な感じを与えない(1p162)。自分にとって好ましいだけではなく、他人からもいい人だを思われる人間になることがヨーガの最終目的である(1p144)。こういう人があちらこちらにでてくると、社会全体が明るくなる(2p184)。そして、ヨーガを毎日する人が何十万にもなれば日本社会は変わる(1p144)。その結果、社会も幸せになるのである(4p91)。エゴイズムがなくなり、他人のことも考えなければならないと思えば、孤独で寂しい生活をしていた人も変わる(3p10)。個人が救われれば社会も救われる(3p11)

岡田虎二郎先生は愛が出ていた

 2016011702.jpg病弱であった佐保田博士は、中学生のときから『静坐法』によって丈夫になりたいと考えていた(2p106)。そして、第三高等学校の学生のときに『静坐法』を開発した憧れの岡田虎二郎(1872〜1920年)氏に会えたが、今でも思想の中心に枠組みを作っている(2p108)

 明治時代の文豪、高山樗牛(たかやま ちょぎゅう, 1871〜1902年)は30代で日本最高のジャーナリストとなり、京大の教授にもなるはずの天才だった(2p183)。東大の学生のときに雑誌『太陽』に次々と論文を出していた(2p107)。けれども、肺病で早く死ぬ(2p107,2p183)。その娘が今日で言う鬱病にかかった。これを治したのが、岡田虎二郎であった。岡田はただ座っているだけで治した。ただ静座しているだけで身体からやわらかい愛のような香りがいつも漂っていた(2p183)

 佐保田博士は、先生からは宗教的な愛を感じたという(4p102)。そして、それまで聖書を退屈な書物だと考えていたが、岡田氏に会ってから宗教的なことに興味を持つようになり、聖書が面白く読めるようになってきた(2p110)。聖書の後で『論語』も読んでみたが、これも非常に面白い(2p111)

 偉大な宗教家は、その人と接するだけで、あるいは、その人と一緒に座るだけで人格の一番深いものが引き出されてくる。その人自身の存在が心の根底から振動を与える。岡田寅二郎はそうした人物であった(2p110)。こうした宗教的な愛がある人が一人いれば、周りの人は皆、幸せになる(4p103)

ヨーガは宇宙意識に近づくこと

2016011703bucke.jpg 米国の心理学者リチャード・モーリス・バック(Richard Maurice Bucke, 1837〜1902年)によれば、宇宙意識(Cosmic Consciousness)に近づくと次のような変化が見られるという。

 @ 光のイメージが目をつぶっていても見えてくる

 A 無理に腹を立てなくするのは偽善者だが、自然に腹が立たなくなり、道徳的に不道徳なことができなくなる

 B 智慧が表れてくる

 C 生の不滅を感じ、死への恐怖がなくなる(1p165)

 D 罪悪感が消える

 E 霊的に目覚め回心が得られる(1p166)

 F 他人から見てもその人が変化している(1p167)

自分の内なる宗教性を目覚めさせることがヨーガの目的

 人間の心の働きの中で一番深いところにあるのは、宗教的な働きである(2p155)。人間にとって最後の力になりうるものは宗教である。宗教がなければ人は最後の力を失ってしまう(2p143)。本当の宗教を持った人は自分の一番に底にある力を発揮できる(2p144)

2016011704池見.jpg したがって、人間が持つ可能性のうち、最も貴重なものは宗教性である。宗教的な素質まで開発できた人は、この世に生まれた最高の目的を達成した人と言える(1p120)。九州大学の池見酉次郎(1915〜1999年)博士によれば、人間の内側には非常に立派な価値あるものがある。それが表面にでてくることを自我実現、セルフ・リアリゼーションと呼ぶが、それが人生で最も大きな目的なのである(2p98)。すなわち、自分の内側にある神様を表面化することが本当の宗教の特徴である(2p146)。

 ヨーガの目的も、この自分の内側にある神様をだんだんと浄めていくことにある(3p11)。そこで、そして、ヨーガをしていると人間の心の中に宗教性が出て宗教的になってくる(1p125,4p98)。ここでいう宗教とは、念仏を唱えたりすることではなく、自分の心の一番深いところにある神様を呼び覚まし目覚めさせることにある(2p155)

 すべての生物の中心には神があり、それをリアライズする。その思想がインドでは紀元前7〜8世紀にはできていた(3p165)。けれども、これは瞑想以外にはできない(2p155)。そして、ハタ・ヨーガはそのひとつの手段である。すなわち、体操の中に瞑想が入っていると言える(2p156)

どのような宗教も、立派な宗教であれば、最終的にはキリスト教で言うような愛が湧いてくる(4p205)。それを目的としないものは、宗教という名前がついていても偽物である(3p12)。したがって、自分だけがよくなるためにヨーガをやるのは、ヨーガの精神に反する。ヨーガは人のため、人を幸せにするために行なうのである(3p132)

ヨーガが充実するとフローライフ「預流果」が誕生する

 さらに、ヨーガを4、5年やっていると、自分の感情や欲望に支配されず、自分がやるべきことがはっきりと見え、それをやっていくようになっていく(3p93)。幸せ感が出て、人間が生まれてくる意味がわかってくる(4p29)

そして、心と身体が健康なだけでなく、それ以上のものが出てくる。例えば、色々なことをするのに向こうから条件が整ってくるツキが出てくる。人生がだんだんと楽になってくる(3p46)

 船やイカダでガンジス河の中ほどの川の流れに乗るところまでいくと、後はほっておいても自然に流れていく。ヨーガを続けていくとこうした状態になる(2p186)。川の真ん中の流れのように人生をおくれる。これを原始仏教では「預流果」といった(2p186,3p74)。なぜ、そうなのか。これは、科学では説明できないが、それは、科学がまだ不十分だからである(3p45)

【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院

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2016年01月17日

佐保田鶴治のヨーガ禅 ハタ・ヨーガ@

はじめに

 佐保田01.jpg佐保田鶴治(1899〜1986年)の著作のまとめを紹介する。1988年といまから28年も前に購入した著作だが、改めて読み直してみるとヨーガと仏教の理解に非常に役立つことがわかったからだ。日本に始めて正統的なヨーガを導入したことで知られ、日本ヨーガ禅道友会の創設者として、没後16年を経た現在でも多くの教え子たちの手によって継承されているという(5)。「ヨーガ禅」を提唱し、ヨーガが健康体操ではなく宗教であり、かつ、仏教の禅とも重なるという点でも興味深い。反省も込めて、佐保田博士の著作をまとめておく。

インド人からヨーガを教わることで健康になる

 佐保田博士は、1899年に福井に生まれ、第三高等学校を経て、1922年に京都帝国大学文学部哲学科卒業。その後、立命館大学、大阪大学で30数年間教授生活を送るが、若い頃から虚弱体質で、第三高等学校時代には結核にもなった(4p6,4p96)。その後も、あらゆる健康法を試してみたが効果がなく満足な健康感を味わったことがなかった(1p161,4p7,4p96)

 佐保田博士は61歳の時に京大図書館で英語で書かれたヨーガのテキスト見つけ、それを元に独習する。頭で立てるようにもなったが効果がなかった(4p7,4p97)。しかし、大学を退官する前年、62歳の夏にクリヤンという素人のインドからの留学生にヨーガのやり方の手ほどきを受け、試みてみると効果があった(1p161,3p164,4p7,4p97)。それまでは、70歳までしか生きられないと思っていたのに、65歳の時にはいままでにはない爽快感を覚え、70歳になると50歳に若返るような気がしてきた。そこで、健康になった佐保田に周囲が関心を持ち(4p8)、それ以降、88歳で世を去るまでヨーガを広めることになるのである(5)

 1967年69歳ではインドに4ヶ月ほど滞在してヨーガ道場を訪ねたり、いろんな人の意見を聞いた。1973年75歳ではにはヨーガ道場を作り宗教法人にした(4p11)。1974年の正月にはインド南部のポンディチェリーにあるシュリ・オーロビンド・ゴーシュ(Sri Aurobindo Ghose , 1872〜1950年)のアシュラムで瞑想をした。その後継者であったマザーこと、ミラ・アルファサ(Mirra Alfassa,1878〜1973年)の墓の前で瞑想をして気持ちよかったと語る(3p7)。その後も80歳をすぎてからNHKのヨーガ番組に出演し、80歳すぎでレギュラーとなったのは初めてだといわれたりしている(3p126)。佐保田博士は、神様の命令によってヨーガを広めているのだと語っている(4p9)

自律神経を整えるためのハタ・ヨーガの四原則

 我流のヨーガには、効果がなかったのに、インド人から教わったヨーガにはなぜ効果があったのだろうか。佐保田博士は、形は同じでもやり方が違っていた。四つの原則を踏まえたところ、効果があったという(4p97)

 @ できるだけゆっくりやる。

 A 呼吸と動作を結びつける。

 B 意識と動作を結びつける

 C 緊張よりも弛緩の方を重視する

 この4条件が守られなければ何年やっても期待する効果は得られない(1p146,1p149,3p159,4p176,4p191)。例えば、シャバ・アーサナは13分以上続けないと役に立たないという人もいるほどである(1p146)。また、ひとつのポーズを20秒から1分、呼吸をしながら持続することは普通の体操にはない(4p177)。インドにも普通の体操はあり、「ヴィヤーヤーマ」といわれている(4p176)

 けれども、普通の体操とヨーガの目的は正反対である(4p95)。普通の体操は筋肉を鍛錬するため緊張の方が主だが、ヨーガは身体を緩めるために緊張するのである(4p95,4p191)。例えば、インドの本にはコブラのポーズで反ったときには「背の緊張が首から尾骶骨にまで伝わることを考えながら行なう」と書かれている。運動神経だけでなく、身体を動かすことで起きた興奮、「気持ちよい」とか「痛い」とかが頭に戻る知覚神経の興奮をじっくりと味わうのがアーサナなのである(4p181)

瞑想のための準備として誕生したハタ・ヨーガ

 ヨーガは歴史的には紀元前5〜6世紀にはひとつの行法として成立しているが、最初のヨーガはディヤーナ、瞑想を中心としたラージャ・ヨーガであった(1p115,1p149)

 その後、10世紀に呼吸とアーサナを中心としたハタ・ヨーガが成立する(1p149)。人里離れた山奥で一日何十時間も座ったままで瞑想するためには健康でなければならない(1p150)。日本の禅宗の僧侶も若いときから猛烈に修行したひとはたいがい結核にかかって若死にしてしまう(1p118,1p150)。このため、ハタ・ヨーガが作られた(1p118,1p150)。すなわち、ハタ・ヨーガはラージャ・ヨーガの準備とされていて(1p124,1p150,1p154,4p99)、本来の教育を受ける準備として幼稚園にはいったようなものである(4p99)

 けれども、瞑想だけで解脱するにはかなりの才能が必要でたいがい失敗する(1p150)。一般に心を変えるため、言葉を使って知性に訴え、納得させることで生活を変えようとしてもほとんどの場合成功しない(1p162)。人からいい話を聞いたり、聖書を読んだりするだけでスパッと変われる人は千人に一人もいない(3p68,4p99)。坐るだけで瞑想ができる人は本当に偉い人で凡人にはできにくい。初心者は身体を動かしながら瞑想をした方がよい(4p178)。頭から入ったものはすぐに抜けていくが身体から入ったものは身体が覚えてしまうために抜けない(3p75)。そこで、ハタ・ヨーガを発明したゴーラクシャ・ナータ(Gorakshanath)は、ヴェーダーンタにも精通していたが(4p86)、普通の人でもやれることを考えた(4p87)

ハタ・ヨーガは宗教であって健康体操ではない

 日本人は、ヨーガを単なる美容体操や健康体操と考えるが、ヨーガは宗教である(1p114)。健康になるとか、美人になるとかだけをモットーとしているヨーガ教室はいかがわしい(3p69)。ハタ・ヨーガのアーサナは、体操ではなく、実は座禅なのである(4p176)

 ハタ・ヨーガもヴェーダーンタの思想を基礎としているため、三昧の境地に達することを目的としている(4p85)。そして、ハタ・ヨーガだけでも悟りに近いところに行けると書いてある(4p100)。体操だけで宗教的な悟りにまでいけるのかと佐保田博士は非常に驚いた(4p100)。世界の宗教の中で体操を取り入れているのはヨーガだけであろう(2p39)。すなわち、ハタ・ヨーガが身体の重要性に気づいたことは大変に偉大な仕事といえる(2p40)。肉体を使うことで宗教性を開発できると気づいたことが重要なのである(1p120)。ハタ・ヨーガは健康になったり美容のためではなく、宇宙に偏在する神と自分の身体を通じて心を通じさせることなのである(4p142)

身体を重視するのはヨーガだけ

 キリスト教は身体と心のうち、心を重んじて身体を軽蔑する。つまり、身体に対する認識が足りない(2p39)。儒教では「知行合一」とし、仏教では「行学ニ道」と述べて来た(2p12)。仏教は身体を軽蔑したりはせず、両方を同等に見ている。とはいえ、とくに身体に注意することはない(2p40)

 例えば、禅の修業では、調身、調息、調心の三つがあげられているが、実際には調心と瞑想だけが行なわれ、調身と調息の方法は放置されている。ヨーガでは調身にあたる体操、調息にあたる呼吸法が瞑想とともに三位一体で溶け合っている(3p154,4p95)。したがって、肉体と感情と頭をよくするのにはヨーガが最も優れている(2p13)

 ハタ・ヨーガはまず、身体を整え、呼吸によって神経を整え、さらに、心を整える(1p140)。すなわち、精神面ではなく生理面から心を整えていく(1p151)。このため、自律神経を調和させることがポイントとなる(1p151,4p96)

道元禅師も身体の重要性を指摘している

 道元禅師(1200〜1253年)が語った言葉を弟子の孤雲懐奘(こうんえじょう, 1198〜1280年)が記録した『正法眼蔵隋聞記』では、道元は「人間は心で悟るのではなく身体で悟るのだ」と述べている。言葉や心を使って悟ったのではなく、身体を使って悟ったと道元も言っているのである(1p120)。けれども、いま、禅宗の僧侶に身体の使い方を聞いてもわからない。そこで、佐保田博士は禅からこの伝統がなくなったのだと考えている(1p121)

小食が大切だが、ヨーガは断食を勧めていない

 意外なことだが断食はヨーガでは禁止事項になっている(2p52)。断食はうまくすれば非常に良い効果がある。けれども、ヨーガとは無関係なのである(2p53)。ヨーガが重視するのは節食である(2p52,2p53)

 取り入れたものを全部消化できれば健康になるが、あまった栄養は身体を害するからである(2p53)。たくさん栄養を取ったからといってスタミナが出てくるわけではない(2p56)。動物性のものは植物性のものの半分以下にし(4p196)、空腹感があってから食べる。そして、腹がいっぱいにならない、満腹感が起こらないうちに腹八分目で止める。これが健康を維持するための秘訣である(2p54,2p57,4p196)。玄米を食べ、野菜を食べていると便の太さも変わってくる(4p185)。そして、栄養を消化するためには酸素も必要である(2p56)。そして、ヨーガの体操は酸素の心身代謝を非常に高める(2p57)

ハタ・ヨーガをやれば健康になり癌にもかからない

 ヨーガを続けると、身体が非常に軽快になって病気をせず、風邪もひかず(4p197)、姿勢がよくなり血色もよく、脂肪が減って動作がなめらかになる(1p162,4p197)。20歳からヨーガを始めれば、50歳になっても普通の人の35歳、60歳になっても40歳くらいである(2p184)。65〜70歳で恍惚の人になってしまうのは病気であって、ヨーガをやっていれば、90歳までは持つ。それもさほど人様に迷惑をかけることはない(1p129)。お釈迦様も病で死んだため、人間は死ぬ。けれども、癌は悲惨な死に方である。けれども、インドのヨーガの文献を読むと癌が治ったという実例もたくさんある(3p123)。ハタ・ヨーガがうまくできれば癌なにかにはかからない(4p96)。ヨーガの真髄を極めれば癌になっても直ることができると佐保田博士は考えている(4p176)

 そもそも、健康とはなにか。人間は絶えず外界から病気の原因に脅かされている(3p195)。瞬間、瞬間、外からもたらされる死の原因を打ち伏せている。これが、健康な状態といえる。すなわち、内外から押し寄せる死に対抗してそれを打ち伏せる力が絶え間なく働いている。そして、この力が弱まると死の原因となる力が相対的に強くなり病に伏せることになる(3p196)


 そして、ヨーガも太極拳と同じで「気」が大切である(3p63)。ハタ・ヨーガはみかけは体操だが、身体のプラーナを養う方法ある(3p110)。そして、ハタ・ヨーガで心と身体とが調和した状態となると、生命エネルギーである「生気(プラーナ)」が入りやすい状態となる(4p181)

本当の健康とは心も健康であること

  WHOによれば、健康とは病気でないだけでなく、何事にも前向きの姿勢で取り組む意欲の状態だとしている。引っ込み事案で社会的な適応性がない人は本当に健康とはいえない(2p153)。けれども、精神科医が医薬品を用い、精神分析等のカウンセリングを行なったとしても、80%しか健康は回復しない(2p154)

 健康とはもりもりとした健康感があり、社会的に活躍し、家庭でも機嫌が良く家族に対して優しく、生きがいを感じるところまでいかないと本当に健康とはいえない(1p123,2p154)。そこで、残りの20%の最後の部分はヨーガしかないと多くの精神科医が認めている(2p154)

ハタ・ヨーガは幸せな人生を作る

 精神と肉体とのバランスが取れ、食事もバランスが取れ、生活全体で調和した状態が持続する(3p44)。そして、毎日ヨーガを続けていると、ヨーガ的なライフ・スタイルができてくる(3p49)。ヨーガをやる以上は、ライフ・スタイルが変わるところまでやらなければいけない(3p44)。すなわち、身体を健康とし、精神を安定させ(1p104,1p154)、それによって幸せな人生を作るものである(1p154)

【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院
佐保田博士の画像はこのサイトから


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