2016年02月23日

慈悲の瞑想をすれば10%は幸せになれる

グーグルは慈悲の瞑想を行っている

 「グーグルのマインドフルネス革命」(2015)サンガによれば、グーグル社内には31カ所もの瞑想スペースが設けられ、グーグル社員5万人の10〜15%が「マインドフルネスストレス低減法」を行っているという。

 グーグルが社員に瞑想を奨めているのは、もちろん、自己認識力やセルフコントロール力を高めるためだ。ハードルを下げるために宗教性も排除され、仏教関係の言葉は一切出てこない。けれども、グーグル社員が実践している最先端の瞑想プラクティス、「慈悲のプラクティス」は「慈悲の瞑想」と同じものなのである(2)

慈悲の瞑想にはやはり効果がある

 suzuki yu氏は「慈悲の瞑想」をまったくやってこなかった。理由は三つある。

 なんだか恥ずかしい

 見も知らぬ他人の幸せを願うことは偽善者ぽい

 思ってもいないことを心のなかでくり返すのはスピリチュアルぽくて嫌だ

 とはいえ、「慈悲の瞑想」には以下のような効果があり、それを実証データも豊富にあるという。

 @ ポジティブな感情が増え鬱病の症状が軽減される

 A 迷走神経の働きがよくなりストレスが減る

 B 慢性痛や頭痛を減らす効果がある

  C 脳の灰白質が厚くなる

 さらに、その瞑想も1日10〜15分続ければよい(3)

 そこで、suzuki yu氏は、慈悲の瞑想を試みてみた。すると、定番のリラクゼーション法である「自律訓練法」でもおなじみのズシーンと全身が地中にめり込んでいく体感があった。また、同氏は「Muse」という脳波計で日々の瞑想内容を記録しているのだが、そのデータに明確な変化が出た。数値が100%に近いほどアルファ波の発生量が多く、メンタル的に落ち着いていることを示すが、それが増えたのである。慈悲の瞑想を取り入れると、明らかに数値が安定している。

「ここまで変化が出ると、その効果を認めざるを得ない。やはり、2000年以上の歴史を持つテクニックには、ちゃんとした効力があるものだ」と同氏は感想を述べている(3)

パニック障害を克服したニュースキャスター

 suzuki yu氏は、「慈悲の瞑想」にうさん臭さを感じている懐疑論者でも、試してみるとその効果を認めざるを得ないとして(3)、ABCニュースの有名キャスター、ダン・ハリス(Dan Harris,1971年〜)氏の著作『10% Happier』を紹介している(1)

 20160223dan harris.jpg同氏は、番組の途中でパニック障害を発症し、その瞬間が、全世界に放送されてしまう。このパニック障害を克服するため、ハリス氏は、エックハルト・トールやディーパック・チョプラといったスピリチュアル界の大御所たちとコンタクトを取るが、インタビューをしたうえで、彼らをバッサリ切り捨てていく。

 結果として、ハリス氏は、パニック障害を克服するのだが、「瞑想前よりも10%だけ幸せになった」と控えめに効果を評価する。瞑想をしてからといってイライラが消えるわけではない。ただ、ネガティブな感情と少しだけ距離が取れるようになるという(1)

 ハリス氏はスピ系が嫌いである。それだけに同氏著述はバランスがとれている。同著の内容を紹介してみよう。

トールの過去と未来論に魅せられる

 エックハルト・トール(Eckhart Tolle, 1948年〜)という人物の名を耳にしたハリス氏は『ニュー・アース―意識が変わる世界が変わる』(2008)サンマーク出版を手に入れる(4p93)

 トールによれば、人間は生れてから死ぬまで、ひっきりなしに何かを考えている頭の中の声に支配されている。そのほとんどはネガティブな思考であり、かつ、同じことの繰り返しである(4p94)。ハリス氏は、トールがあげたエゴに捉われた人にありがちな行動リストを読み、まるで自分のことを言われているかのように夢中になった(4p95)

 トールによれば、エゴは決して満足しない。どれだけ買い物をしても、どれだけ美味しいものを食べても、エゴの欲はとどまることをしらない。また、エゴはいつも自分の外見、豊かさ、社会的地位等を周囲と比べることで自分の価値を測ろうとする。そして、エゴは昔の恨みや不満をいつまでも抱えていて何度も頭の中で再生する。

 さらに、過去の出来事を何度も再現し、未来の出来事を予想してはまだ起きてもいないことに想いを巡らせている。トールによれば、人間は過去の記憶と未来の期待の中だけで生きている。過去と未来にばかり執着するために現在が犠牲になっている。けれども、いまあるのは、「今とここ」だけなのである(4p96)

 トールの人生の転機はケンブリッジの大学院生であったときに訪れた。いきなり至福を感じ、それから2年も強烈で完全な幸せに包まれながら公園のベンチに座って過ごすことになった。その後、トールはカナダに移住し、『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(2002)徳間書店を執筆する。この書物はセレブの間で話題となり、ジム・キャリーとジェニー・マッカーシーは協働でこの書物を推薦する動画を作った(4p99)

浮世離れし、今を生きるための具体的なアドバイスがないことが問題

20EckhartTolle.jpg 「今、ここ」にとどまることの大切さはわかる。心配はムダな作業だし恐怖を未来に投影しているだけだとのトールの主張も正しい(4p105)。けれども、トールのどの著作を読んでも、具体的にどんなことをすればよいのかがまったく書かれていないのである(4p104,4p106)。ハリスはトールと会ってみることにした(4p106)

「ネガティブな感情はないのですか」

 このハリス氏からの質問に対して、トールは「ない」と答える(4p111)。トールは完全に陶酔したような雰囲気を持っていた(4p123)。ハリス氏はトールをインチキだとは思わない。悪人のようなオーラをまったく出していないからである(4p115)

 エセ科学のトンデモ理論や眉唾物の体験談はともかく、人間心理について驚くほどの洞察力を発揮している。そうハリス氏は、トールを評価する。けれども、トールの書物に対する最大の不満と弱点として、エゴと戦うための具体的なアドバイスや行動プランが一切ないのである(4p104)

俗物そのもののチョプラ

 トールとのインタビューの6週間後に、ハリス氏はディーパック・チョプラ(Deepak Chopra,1947年〜)とテレビ番組で出会う(4p117)。チョプラの年収は2200万ドル(4p130)。レディー・ガガからも最も人生で影響を受けた人物とまで評価されている人物である(4p133)

20160223Deepak.jpg もともとマサチューセッツの郊外で研修医をしていたときにはチョプラもボロボロに疲れ切っていて、一日にニ箱もタバコを吸い、酒も多飲していた。その後、病院を止め、マハリシ・マヘーシュ・ヨギ(Maharishi Mahesh Yogi,1918〜2008年)に弟子入りし、マハリシの右腕になるまで出世する。けれども、チョプラは「あまりにもカルト化している」とマハリシを批判し、マハリシも野心的すぎるチョプラを嫌った。マハリシから袂を分かった(4p132)。チョプラは、5000ドルを出して本を自費出版する。これがヒットし、マイケル・ジャクソンと知り合うことが契機で有名となるのである(4p133)

 「トールと出会った」と語るハリス氏に対して、チョプラは、「トールはそれほどいい書き手ではない」と開口一番切り捨てた(4p120)。そして、チョプラもトール氏と同じように、過去や未来をいっさい考えず、未来への期待も不安もなく、ただ現代だけを生きている(4p121)。フローと無理のない自然発生的な状態で生きていると主張する(4p131)

 けれども、現実のチョプラは自著のプロモーション活動に熱心で、カメラマンには「太って見えないように撮ってくれよ」と指示するように矛盾に満ちているのである(4p131)。ハリス氏は、浮世離れしたトールと異なり、チョプラのぎらぎらした野心の方がまだ好感が持てる、という(4p134)

トールの主張の原点は仏教だった?

 こうしたプロセスを経て、最終的にハリス氏がたどりついた解決策が瞑想であった。当初は「ヒッピーのお遊びだろう」と疑っていたが、ハーバード大学出身の医学博士、「ブッダのサイコセラピー」の著者であるマーク・エプスタイン(Mark Epstein,1953年〜)教授から瞑想の科学的な根拠を知らされ考えを改める(1)

 20160223Mark Epstein.jpgエプスタイン博士によれば最高の自己啓発プログラムは今から2500年前に生れたという(4p136)。博士の著作を読む中で、ハリス氏は、トールの著作の最もよい部分はすべて仏教からの引用であったことに気づく(4p138)。最初こそ『ニュー・アース』のオリジナル性に満ちた教えに衝撃を受けたが、実はそれは、仏教の教えを黙って拝借して、そこに独自の味付けを加えて大げさな表現にしただけなのである。例えば、いまここにとどまれず、同じことを繰り返し考えているということは、エプスタイン博士の著作にもちゃんと書かれていた(4p138)

 ネガティブに物事を考える傾向も仏教では、何も役に立たない思考であるとして、これを「戯論(けろん)」と名付けている。また、他人と比較する心は「慢」、欲しがる心は「欲」としている(4p145)

 けれども、欲を否定するのは向上心を否定することにつながるのではないだろうか。執着はよくないというが愛する人に執着するのもいけないのだろうか。手放すという概念は受け身的な生き方につながるのではないだろうか。また、幸せになることを目指しながら、一切皆苦という言葉があるのはおかしい(4p146)。ハリス氏は、エプスタイン博士と会ってみた(4p149)

精神分析と異なりブッダのメソッドでは実際に苦を取り除ける

 エプスタイン博士によれば、ブッダは世界最初の精神分析医とも呼べるという。しかも、セラピーでは問題の原因はわかっても救済はできない。フロイトでさえもセラピーで達成できるのは、激烈な悲痛を一般的な不幸にすることでしかないことを認めている(4p140)。けれども仏教は違うのである。

 自分も愛する人たちもいつか必ず死ぬ。名声もいつか失われ美も衰える。普通なら見過ごしされがちなひとつの真理にブッダは注目した。このすべてが移り変わる世界の中で、永遠には続かないものに執着することが苦しみの原因となっている(4p143)

 誰も頭ではすべてが無常であることをわかっていても、それを感情のレベルでは受け入れられない(4p143)。すべてが自分の力でコントロールできると勘違いしている。そこで、ブッダによれば、真の幸せの道は、無常の概念を腹の底から理解することから始まる。不安は避けられないことを知る知恵。これが不安の智慧なのである(4p144)

 ハリス氏は、トールやチョプラとは違って具体的な実際に役立つ行動プランが仏教にきちんと存在することを知った(4p154)。例えば、瞑想をするとぼんやりするのではないかと思える。けれども、エプスタイン博士によれば、瞑想はむしろ精神を鋭敏にして洞察力を高める。これは、自己啓発の世界で猛威をふるっている100%のポジティブ・シンキングとは正反対のものである(4p176)。そして、初心者が仏教を知るため、カリフォルニアのスピリットロック(4p189)で開催されるジョセフ・ゴールドスタイン(Joseph Goldstein, 1944年〜)の「7月の瞑想合宿」という10日間で約1000ドルの合宿に参加することにする(4p186)

接心での慈悲の瞑想でムディターを体験する

20160223joseph goldstein1979.jpg ゴールドスタインはコロンビア大学で建築家か弁護士になることを目指していたが、なぜか哲学を専攻する。その後、カルマの働きでタイにでかけ仏教と出会う(4p243)。瞑想を発見して興奮し、その後、インドで7年も本格的に瞑想を修行してきた人物である(4p244)

 ハリス氏が参加した10日の合宿の食事はベジタリアンで(4p189)、歩くときも、食べるときもいつも意識的にゆっくりと行動し、自分の心に細心の注意を払うものであった(4p193)。また、早朝5時に起床し、1時間の瞑想を行い、それを延々と夜22時まで続ける。毎日約10時間も瞑想するのである(4p193)。また、パーリー語で書かれた仏陀への帰依と戒律を唱えるのであった(4p195)

 ハリス氏は2日目の段階ではウォーキング・メディテーションの意味もわからず(4p197)、ただ「瞑想が早く終わってくれ」とだけ考えていた(4p198)。3日目からは慈悲の瞑想が始まるが、ただただ退屈でうんざりしていた(4p208)。5日目には絶望的な気分となる(4p209)。そして、肩の力を抜いて瞑想をしてみようと考えた。すると、ついに何かを感じた(4p212)。眼の中では光が見える(4p213)。その後は、いま、ここに存在している感覚が感じられ、一瞬で現れる小さな思考にも気づけるようになった(4p215)。「無常」という概念がたんなる概念ではなく感じられるようになったのである(4p216)。そして、慈悲の瞑想を唱えると限りなく涙が溢れてきた(4p218)。そして、ドラッグの1000倍は気持ちが良い幸せの波が次々と押し寄せてきた(4p219)。ハリス氏はブッダの像に自然にお辞儀をしていた(4p223)。6日目には、五感が研ぎ澄まされて、恐ろしいほど精神が鋭敏になっていた(4p223)。部屋の向こうで食事をしている男性に対して、他人の幸せをともに喜ぶ、仏教で言う「喜(ムディター)」の感覚が急激に沸き上がっていた。あまりに強い感情で泣きたくなってしまう(4p224)

 しかし、その日の午後にはまったく何も感じられなくなってしまう(4p225)。8日目にハリス氏はゴールドスタインと面接して、瞑想に浮き沈みがあるのはあたりまえのことであることを知る(4p227)

幸せを追い求めるとむしろ不幸になる

 ゴールドスタインは、人間は一生自分を騙し続けるという。食事をすれば、パーティにいけば、休暇が来れば、セックスをすれば、昇進をすればと(4p255)、私たちは人生の大部分において「○○さえあれば」という思考に突き動かされている。そして、満たされない感覚は絶対に消えない。すなわち、幸せを追求することがかえって不幸の源になっているのである(4p256)

瞑想が深まると1分当たりの気づきの量が増えていく

 夜の7時の法話ではゴールドスタインはこうも語った。

「在家で修行をしている人が執着や欲を捨てることが不可能だと感じて当然です。たいていの人は聖アウグスティヌスの言葉の方に共感を覚えるはずです。『神よ、私に慎み深さをお与えください、しかし、今はまだいいです』」

 笑いが起こる。悟りへの道はゴールドスタインによれば、まず瞑想中に集中力が極限にまで高まることから始まる(4p228)

「瞑想を続ければ1分間で気づく数NPMの数値が上昇するでしょう」(4p226)

 NPM数が爆発的に増加すると、映画のように滑らかに流れていた世界が1秒が24コマに分解され、宇宙は原因と条件の広大な海という姿を表す。すべての物事がめまぐるしく変化し、すべてが無常であることを理解する。そこからは、恐怖の瞬間、落とし穴、罠という回り道がある。そして、最期に瞑想が真に目指す地点にたどり着く。人生の屋台骨であると思っていた自己が実は幻想にすぎないことを理解するのである(4p229)

エゴが幻想であることを知ればネガティブ感情もなくなる

 瞑想とはエゴをコントロールすることではなく、エゴそのものに実体がないことを理解することなのである。仏教によれば、自己という幻想があらゆるネガティブ感情の源泉となっている。一方、ありのままの姿では、人間はエゴよりもはるかに大きな存在で全体とつながっている(4p229)。そこで、自己が幻想であることが理解できれば、ネガティブな感情が精神から引き抜かれ、完全な瞑想が達成でき、猿の心はガゼルの心になるのである(4p230)

悟りに向けた四段階

 ゴールドスタインによれば、悟りには4段階がある。第一段階が預流果である。第二段階が、一度戻った人で「一来果(いちらいか)」、第三段階が戻らない人で「不還果(ふげんか)」、第四段階の完全に悟りを開いた人が「阿羅漢(あらかん)」である。そして、各段階がさらに16段階ずつに別れている(4p246)

「状況に対する感じ方は変わらない。けれども、その感情に執着することはなくなる。必要以上に大げさにすることもなくなる。ただ感情がわきあがりとおりすぎていく」

「死ぬのは怖くないですか」

「その瞬間になるまでは誰にもわからない。けれども言う間の段階では怖くない」

 実際にゴールドスタインを見ていると普通の人よりも幸せそうであった(4p247)。けれども、 何十年も修行を積んでいるエプスタイン博士でも、ゴールドスタインとは違って悟りの第一段階にまでまだ達していないという(4p254)

効率性をあげるため大企業が座禅を取り入れ始めた

20160223Janice Marturano.jpg 米国の巨大食品メーカー、ゼネラル・ミルズの本社では、顧問弁護士、ジャニス・マルトゥラーノ(Janice Marturano)の指導によって専用の瞑想ルームが設けられ、ヨガマットや坐布まで完備されている(4p262)

 瞑想が企業で受け入れられたのは、スピリチュアルな面には一切ふれず、集中力が高まり、創造性や革新性が広がるという実務面が強調されたからだ。マルトゥラーノによれば、脳科学の研究から人間の脳は一度にひとつのことしかできないことが判明したという。これは同時に多くのことをしているのはバリバリ仕事をしているように見えて実際には生産性を下げていることを意味している(4p263)。メールをチェックするのはその時だけにし、会議のときは会議だけを行い、電話の時には電話だけをし、一定時間毎に頭を休める小休止をしたほうが、集中力や思考力が向上し、創造的にもなることがわかってきたのだという(4p264)

いま、ここに集中する

 ブッダによれば、人間は三つの方法で物事に対応する。望ましいと思うか。拒絶するか。ぼんやりしているかである。ただ、これとは別に四番目の選択がある。自分が考えたことに判断を下さず、ただ客観的に眺めるというやり方である(4p165)。仏教のたとえでは、自分の心を滝だとすると、落ちる水が「思考」と「感情」であり、滝の後ろにある空間が「身アンドフルネス」なのである(4p168)

 瞑想のおかげで退屈もしなくなった。時間があれば自分の呼吸に意識を集中するか、ただ周りの状況をありのままに眺めるようになった(4p163)

 ほとんどいつも、あちこちに飛ぶ思考のカーテンを通じて世界を見ていたことに気づいたのである。普段の生活でも「いま、ここ」に集中することを心がけたおかげで、静謐(静謐)とい地下水脈に碇をおろしたような感覚を覚えるようになった(4p164)

瞑想は脳を変化させる

 ハリス氏は、ヒッピーやニューエイジに対して嫌悪感を抱いていた(4p155)。そこで、瞑想が科学的にも研究されていることを耳にして、ハリス氏は衝撃を受ける。カウンターカルチャーであったはずの瞑想が、いまや科学界の主流になっていたのだ(4p257)

 例えば、ハーバード大学がMRIを用いて行なった大規模な研究により、マインドフルネス・ストレス軽減法(MBSR=Mindfu lness-based stress reduction)を8週間行なうと、自己認識や思いやりを司る前頭前皮質の部位が大きくなる一方、ストレスと関係する最も古い部位の脳幹が小さくなることがわかった。

 また、脳のデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)は、過去を思い出したり未来を予想したりと思考に没頭すると活発になるが、イエール大学の研究では、瞑想を習慣化させると、瞑想をしている時だけでなく、日常時にもDMNが不活発になることがわかった(4p259)

 すなわち、脳内での無意味なおしゃべりが沈黙し、周囲で起きていることをただ気づき、現在を味わう気持ちを大切にすると言う心境変化が脳科学的に説明できるのである(4p260)。瞑想は暴走する思考を制御するための地道な脳の反復練習だったのである(4p161)

地に付いたダライ・ラマ〜慈悲の瞑想は自分のため

「科学的な発見が仏教の教えと矛盾したらどうするのか。信じていることが否定されたらどうするのか」というハリス氏の質問に対して、ダライ・ラマは「ただその事実を受け入れ信仰を変えます」と答える。

「こころがいつも平静ですか」という問いかけには「いえ、そんなことはありません。たまには癇癪をおこすこともありますよ」と答える(4p270)

 エックハルトやチョプラよりもはるかにまともなのである(4p271)

 また、ダライ・ラマは、慈悲の心を持つことと自己愛も両立できることを示唆する。

「仏教は慈愛が大事とか言うがそれは偽善ではないか」との問いかけに「他者の幸せを願う気持ちを育てれば、それはそのまま自分にとっても大きな利益になるからです」(4p271)。「慈悲の心を実践すると最終的には自分の利益になります。ですから、人間は自分勝手だが、愚かな自分勝手ではなく、賢い自分勝手になりなさい、と言っているのです」とダライ・ラマは答える(4p272)。ダライ・ラマは地に足が着いている(1)

慈悲の瞑想には脳科学的根拠がある

 自己愛があるからいい人にもなれるというダライラマの主張には科学的な根拠もある。慈悲の瞑想を行なうとストレスホルモン、コルチゾールの分泌量が大幅に減少する。これは、慈悲の瞑想を行なえば、ストレスに効果的に対応できるように身体が変化することを意味している(4p273)。また、義務感ではなくボランティアで他人に親切にすると、それが快楽として脳に認識される「ぬくもり効果」があることもわかってきた(4p274)

 慈悲の瞑想をしていると、より同情心に溢れ、孤独であるよりも他人と過ごす時間が長くなり、よく笑い、「私」という単語を使う回数が少なくなることが、ウィスコンシン大学マディソン校の「健康な精神研究センター」のリチャード・デヴィッドソン(Richard J. Davidson, 1951年〜)の研究によってわかった(4p274)

 人間は利己的な存在で、道徳心は卑劣さという底なし沼の表面に張り付いているだけにすぎない、というダーウィニズムの適者生存の考え方は間違っており、他者のために自分を犠牲にする部族は他の部族よりもむしろ繁栄することがわかってきた。そして、これは、個人にも適用できそうなのである(4p275)

慈悲の瞑想によっていい人になれる

 ハリス氏は実験として慈悲の瞑想を取り入れてみる。ブッダによれば、夜が良く眠れ、顔つきが晴れやかとなり、人間や動物から好かれ、天界の存在から守られ、生まれ変わってからも幸せになれるという(4p276)。それはともかく、誰もが切り離されたエゴで争いあっている。そこで、週に2回慈悲の瞑想を取り入れてみた(4p277)

 何カ月かたつと様々な変化が訪れた。とはいえ、いきなり聖人君子になったおか、ありがたい後光がさすようになったとかではない。ただ、いい人でいることが日々の生活での優先事項として意識されるようになったのである。

 マインドフルになっていると怒りの感情はより鋭敏に感じられる。けれども、ネガティブモードから解放されると、被害妄想のレベルが下がり、判断力が高まり、さらに幸せになるという循環が生まれる。いい人でいた方がよい(4p278)。もちろん、野心を持って頑張ることはよいことだが、結果を自分で思い通りにはできないことを自覚しておけばよい(4p303)

幸せはスキルである〜いまよりも10%幸せになるというキャッチフレーズ

 以前には人間の脳は成人になると変化しないと考えたれてきた。けれども、神経には可塑性があり、瞑想によって脳の構造を作り変えることが可能なことがわかってきた。もともと幸せ「happy」の「hap」は「運」を意味するが、このことは、「幸せ」が偶然に左右される運ではなく、スキルであることを意味している(4p261)。 

 10日目の瞑想を終えたハリス氏は、変人だと思われずに自分の瞑想について話す方法を考えていた。にわかに瞑想の達人とされてしまったからである(4p238)。また、合宿中の至福を体験したことから自分が学んだことを是非他の人にも伝えたいと思っていた(4p240)

 けれども、瞑想のことを聞かれれば、気まずそうに黙ってしまうか、ムキになってマインドフルネスの素晴らしさを論じるかの両極端しかなかった。そそいて、いずれも相手の目にはかすかな恐怖の色がうつる(4p239)。そこで、とっさに思い付いたフレーズが「瞑想すると今よりも10%幸せになれる」ということだった(4p240)

 自己啓発によるある大言壮語よりも信頼でき、かつ、投資した分のリターンはきちんと満たされている決めゼリフではないか(4p241)。自分の精神をきちんと見つめないと人生を知ることもできない。けれども、10%にとどまることはなく、100%の幸せ、すなわち、悟りも可能なのである(4p245)

ハリス氏の画像はこのサイトから
トール氏の画像はこのサイトから
チョプラ博士の画像はこのサイトから
エプスタイン博士の画像はこのサイトから
ゴールドスタインの画像はこのサイトから
ジャニスの画像はこのサイトから
【引用文献】

(1) 2014年6月21日suzuki yu「瞑想は人生を10%だけ幸せにする
(4) ダン・ハリス『10%HAPPIER』(2015)大和書房

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2016年02月22日

番場一雄のヨーガB 実践

道元の非思量は誰もが体験できるわけではない

 道元禅師は、座禅中に考えることを止めること。すなわち、「非思量」を力説していた(1p172)。普通の催眠状態におかれると人間の批判力が低下して被暗示性が強まってしまう。けれども、坐禅においては雑念がない明晰な意識状態が表れてくる。意識を失わずに意識が空白である状態が「非思量」なのである(1p121)

20160208内山.jpg 佐保田博士によれば、ヨーガの本命は瞑想である。瞑想は、動き回る心の動きを止めることであり、それが内側に潜在している仏性、真我(プルシャ)を目覚めさせる唯一の方法である(1p62)。そして、佐保田博士は「ヨーガ禅」と述べ、ヨーガが禅と密接に関係があるとしていた(1p64)。そこで、番場一雄氏はほぼ2年にわたって、ヨーガをやりながら、吉田山の麓にある換骨堂という曹洞宗の寺で、内山興正(1912〜1998年)老師の下、参禅をした(1p65)

 内山老師の弟子である、弟子丸泰仙(1914〜1982年)老師は「全存在の生成枯衰に人間の思量が介入できる余地は一切ない。坐禅によってエゴのかわりに仏教でいわれる『仏性』そのものに自然になりきる。それは他の異なる振動が、私たちの汚れで重苦しい振動と入れ替って、それらを粉砕し、一掃し、すべてのエゴの悪いものを変容させるといってもよい」と述べている。すなわち、万物と我とが一体という直感智、すなわち、「般若の智慧」が表れてくると述べている(1p73)

 さらに、こうした「非思量」の意識状態を偶然に体験してしまう人もいる。例えば、ジャン・ジャック・ルソー(Jacques Rousseau, 1712〜1778年)は『孤独な散歩者の夢想』の中で、サンピエール島で美しい湖に対面したときに、自然と自己とが融合し、永遠のいまという感覚を味わったことを書いている(1p79)

 そこで、番場一雄氏は、眉間に意識を集中してみた。けれども、次々と想念が浮かんで集中できなかった(1p62)。ヨーガを始めて数年を経てみても「無心」や「見性を得る」ことはできなかった(1p70)

内山老師の下で瞑想を試みる

 内山興正老師は道元禅師の「非思量」を「思いの手放し」と表現されていた(1p70)。内山老師によれば、「非思量」とは、様々な煩悩・妄想を弱めていって石のように生命がないものにするものではない(1p71)。ひとつの生命風景としてそれを「思いの手放し」にしておくことなのである(1p72)

 番場一雄氏は、内山老師のアドバイスにしたがって、この「思いの手放し」を試みてみた。すると、想念がエスカレートするのをコントロールでき、車窓から見る風景として想念を眺めることがうまくできるようになった(1p73)。そして、ほんの少しだが、ある種の三昧状態が現れ、なんともいえないリサックス感、恍惚感、生命との一体感を感じたという(1p74)

イメージ瞑想が難しい人のためにはマントラを

 仏教の経典『観無量寿経』は『大無量寿経』や『阿弥陀経』とあわせて『浄土三部経』と呼ばれ、浄土信仰の経典として重視されてきた。日本で、これを最も重視したのが天台宗である。

 『観無量寿教』の瞑想メソッドとは、無量寿仏(阿弥陀仏)や極楽浄土を瞑想対象としてイメージしていくものである。このイメージ瞑想は『定善観』と呼ばれ、日没する太陽を見て、その後そのイメージを頭に焼付ける「日想観」、きれいな水をイメージする「水想観」等、13もの連続した瞑想メソッドから構成されている。とはいえ、道元禅師の「非考量」と同じく、誰もが簡単にイメージ瞑想を実践できるわけではない。瞑想の資質が乏しければ、いくらイメージしようと試みてもなかなかイメージできない。

 こうした人のためにより優しくした瞑想メソッドが「南無阿弥陀仏」と繰り返しマントラを唱える『散善観』で、法然上人(1133〜1212年)や親鸞上人(1173〜1263年)が重視した(1p181)

ヨーガは新脳の思考活動を抑えることで直観力を養う

 池見酉次郎(1915〜1999年)九州大学名誉教授によれば、リズミカルに同じ言葉、すなわち、念仏やマントラを繰り返すことは、新皮質の活動を抑えて、情動の坐である旧皮質を安定させるという。旧皮質が安らげば、それが脳幹、視床下部に伝わり、それが自律神経やホルモンの働きを整え体調が好転されていく(1p83)。すなわち、マントラには意味があるのである。

 これまで述べてきたように、ヨーガは、分析過多で疲労困憊している左脳をリラックスさせ、素直な自然の脳である右脳を活性化する(2p219)。右脳と左脳とを協調させることの重要性は、仏教でも知られている。例えば、仏像は右に「慧」の象徴、普賢菩薩が、左には「智」の象徴、文殊菩薩が置かれ、その中央に両者の和としての中道の智慧、釈迦如来が配置されている(2p216)

20160208番場.jpg ヨーガを続けると、健康になれる。番場一雄氏は、新陳代謝の乱れによるおできもなくなり、精神集中力、忍耐力が高まったと述べている(1p102)。そして「私は50歳をすぎたが、健康でいられて人よりも10歳以上も若く見られ申し訳ないように思うことがある」と語っている(2p186)

 さらに、身体と心との対話が深まり、自分の意識が次第に消えてゆけば、頭で考える思考とは次元が異なる全身思考、非思量ともいうべき意識状態が表れる(1p99)。このため、ヨーガを続けていると、何が自然で何が不自然なのかの直感的な感知能力が養われて来るのである(1p102)

頭よりも身体を重視する「作務」によって悟りは体得される

 対象を分析的に捉えるのが「分別智」だが、存在全体を直感的に把握するのが「般若の智慧」、「無分別智(ニルヴィカルパ=nirvikalpa)」である(1p206)

 けれども、こうした智慧は、言葉、知性・思惟によっては得られない。ヨーガや座禅の身体的な修行によって得られる。このため、東洋的な修行では頭で理解する「知解(ちげ)」よりも身体が理解する「体解(たいげ)」を重視する。すなわち、身体よりも頭を上位におく常識的な考え方を逆転して、身体の方を頭よりも上位におく。ヨーガには、このような八枝の体系があり、仏教でも、ほぼこれと同じ戒、定、慧の三学が設けられている(1p85)

 例えば、禅宗では禅院の規則である「清規(しんぎ)」にしたがって、洗面、手水、食事、精巣といった日常の作務にしたがって座禅を実践していく。道元禅師は『学道用心集』で仏法を学ぶ者の心構えを説いているが、この背景には、心が身体のうえにあってそれを支配する「我天法」ではなく、身体のあり方が心のあり方を支配する「法転我」との考え方がある(1p86)。芸道等の修行では「体得」という言葉があるが、智慧の目覚めは心と身体の逆転のプロセスにおいてのみ可能であるとの考え方があるのである(1p87)

バクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガ

 ヨーガには、神々への絶対的な帰依を重視する信仰的なヨーガもある(1p15,1p25)。インドでは、現在でも破壊や死を司るシヴァ神とシヴァ神の妃神であるカーリー神、ブラフマー神が創造した宇宙を維持するヴィシュヌ神とヴィシュヌ神の妃神であるラクシュミー神が熱く信仰されている(1p25)。また、欲を離れた本来のミッションを社会の中で遂行していくのがカルマ・ヨーガである(1p26)

ハタ・ヨーガのクンダリニー

 10世紀以降に発展したハタ・ヨーガはヒンドゥ教の中の密教、タントリズムである(1p7, 1p24)。ハタ・ヨーガの「ハ」は太陽、「タ」は月を意味し(1p208)、『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』では「ハタ・ヨーガはラージャ・ヨーガに登らんとするものにとって、すばらしい階段に相当する」と述べられている(1p24)

 さて、人間は煩悩によって汚されている。けれども、心を清浄無垢にする自浄清浄心が本来備わっている。すなわち、「根本識」から電流のごとく他意識に向けて「自浄正常心」が発源されることによって解脱するという考え方があると述べたが、この考え方はハタ・ヨーガにおけるクンダリニー思想とも共通するものがある(1p147)

 クンダリニー思想とは、尾骶骨に眠るクンダリニーという女性原理、シャクティを背骨のなかを通っている「スシュムナー管」内で上昇させ、その中にあるチャクラを順次打ち破り、最終的に、サハスラーラー・チャクラに鎮座する男性原理、シヴァとの合一させることを目指している。まず、本能的な情動エネルギーを目覚めさせ、次に慈悲、博愛等の精神的な領域を目覚めさせ、最終的にそれが頭頂に到達するとき、法悦(エクスタシー)が訪れて、解脱すると考えているのである(1p163,1p208,1p210)

禅に取り入られなかったクンダリニーを覚醒させるためのバンダ

 そして、根源的な生命エネルギーを覚醒させ、プラーナを引き上げるためになされるのが、ムーラ・バンダ(肛門の引き締め)、ウディーヤーナ・バンダ(腹部の引き締め)、ジャーランダラ・バンダ(喉の引締め)を行なう「ムドラー」という修行である(1p223)。ムドラーはヨーガ行法の中でも秘法とされるため、「封印(ムドラー)」とされてきたが、これは禅には取り入れられなかった(1p225)

 このクンダリニー思想は、空海(774〜835年)にも脈打っている。空海は千年も前に「瑜伽(ヨーガ)」という言葉を用いて、その重要性を指摘している。さらに、淳和天皇の命を奉じて、天長年間(824〜833年)に『秘密曼荼羅十住心論』十巻を執筆しているが、その中で異生羝羊心という欲望に駆られた段階からスタートし、最終的な即身成仏に到達するまで、人間存在のあり方を十段階にわけている(1p211)

 なお、番場一雄氏もクンダリニーの覚醒体験を持っているが、ヨーガへの誤解を招くためあえて具体的に触れないと述べている(1p237)

ヨーガで得られる超能力

 ヨーガや仏教では、その修行が深まると、様々な超能力(シッディー)が表れるとそれぞれの文献に記載されている。玄奘三蔵(602〜664年)の高弟、慈恩大師(632〜682年)は以下の十種類の自在力をあげている。

1寿自在(寿命に際限がない)

2心自在(とらわれがない)

3財自在(欲しいものが手に入る)

4業自在(よいことが自由自在にできる)

5生自在(思うように行動できる)

6勝解自在(自在に変身して人を導く)

7願自在(思うままに成し遂げられる)

8神力自在(最高の超能力)

9知自在(言葉を自由自在に操る)

10法自在(経典を自由自在に読む) (2p221)

また、『ヨーガ・スートラ』にも、事物の過去や未来がわかる。前世がわかる。他人の心がわかる。死期を知ることができる。神霊に会うことができる等、霊性能力、シッディが生じてくると書かれている(1p40)。番場一雄氏はこれを右脳が開発されることによる両脳の調和によって引き出された相乗的能力だとしている(2p221)

内山老師の画像はこのサイトから
番場一雄氏の画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) 番場一雄『ヨーガの思想』(1986)NHKブックス
(2) 番場一雄『一億人のヨーガ』(1988)人文書院
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2016年02月20日

番場一雄のヨーガ 瞑想A

ほんとうの自分とつながっていないから人生は苦しい

5000年前から心の動きを止めることをインド人は考えてきた

 発掘されたインダス文明の坐像から、インドにおいては、巨大な樹木の下や清流のそばに静かに坐って瞑想する修行法が紀元前2000〜3000年前から存在していたことがわかっている。紀元前800〜700年前からは、特定対象に心を集中させることで、心や感覚の動きを止め、奇跡的な能力を獲得できることが文献上からも明らかにされている(1p173)

 パタンジャリによって編纂された『ヨーガ・スートラ』に代表されるように、心のコントロールによって解脱できると考えるのが瞑想中心のヨーガで(1p15,1p23)、『ヨーガ・スートラ』は心の作用を抑滅させることがヨーガであると定義する。語源的にみれば、ヨーガは馬に「馬具を付ける」や「車に馬をつなぐ」を意味するサンスクリット語の「yuj」から発生しており、暴れ馬のように動き回る心の動きをある対象にしっかりとつなげることを意味していたことがわかる(1p21)

無常という制約を受けた不自由な人間

 人間存在の姿をつぶさに見ていけば、そこには本当の自由などないことがわかる(1p14)。人間だけでなく、動植物を含めて、ありとあらゆるものは、社会的な拘束や物理的な拘束だけでなく、時間法則とも拘束されている(1p15)

 ヒンドゥ教の宇宙観によれば、ありとあらゆるものは、ブラフマー神によって創造され、ヴィシュヌ神によって維持され、シヴァ神によって破壊されるという無限のサイクルを繰り返している。これを「無常」と言う。そして、この「無常」は人間は「苦」として経験される。なぜならば、どのような経験もたえず変化し不安定なもので、相対的なものでしかないからである(1p16)

ほんとうの自分とつながっていないから人生は苦しい

 とはいえ、古代インドの偉大なリシたちは、こうした人間存在の姿から、悲観論的な宿命論を打ち出しはしなかった。ルーマニア出身の宗教学者、ミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade,1907〜1986年)は、ヨーロッパ人としてヨーガの経験を積んだ貴重な実践者だが、この普遍的な「苦」を「ペシニズム哲学」へと展開しなかったと指摘する(1p17)

 私たちは日常生活において「自分が、自分が」と考えている。けれども、この「自我」と称するものは、ほんとうの自分ではなく虚妄の自我でしかない(1p17)。サーンキャ哲学によれば、精神、肉体、物質をはじめとして、あらゆる現象世界は、「自性(プラクリティ)」が展開することによって産み出されている。けれども、これとは別に、人間の内奥は永遠不滅の本当の「自我(プルシャ=purusa)」が存在している。そして、このプルシャそのものは、時空間の制約を受けず、常に平和と光明に満ちた存在である。けれども、プラクリティから展開された客観的な器官のうえに、プルシャの純粋な意識性・照明性が投影された結果、さまざまな心理現象が生じる(1p40)

 そして、人間は本来は絶対的に自由なのだが(1p18)、本来の自己の姿を見失い、いろんな苦しみを現実に受けているとの錯覚を起こす(1p40)。こうして自己中心的なエゴをほんとうの自分と同一視してしまうという誤りを犯した結果、人は苦しまなければならなくなってしまったのである(1p18)

心を静め本当の自分とつながれば幸せになれる

 となれば、このプラクリティからプルシャを引き離し、プルシャの独存、「真我独存(カイヴァルヤ=kivalya)」を実現してやればよい(1p17,1p40)。散漫な心の動きが静止すれば、雲が晴れて輝き出すように「プルシャ」が表れるであろう(1p22)。そして、こうした拘束された状態から人間が解放された状態をウパニシャッドでは『梵歓喜(聖なる喜ぶ)』、ブッダは「涅槃寂静(ねはんじゃくしょう)」と称した。そして、内なる歓喜の充実感や幸せ感は、人間社会で想定される最高の幸せを100の8乗倍した大きさだと考えた(1p17)。これがヨーガの「解脱(サンスクリット語:モークシ=moksa)」なのである(1p40)

 正式な静坐瞑想は、ウパニシャッドの時代から行なわれるようになる(1p174)。そして、悟りの状態は、「三昧(サンスクリット語:サマディ=Samadhi)」、「止(サンスクリット語:サマタ=samatha)」、サンスクリット語でディヤーナ(dhyana)、パーリー語でジャーナ(jhana)とも表現されるようになる。そして、この音写語が禅なのである(1p172)

 ブッダが悟りを開くために行なったヨーガの修行も「禅定」と表現され(1p174)、ブッダは菩提樹のもとで初禅定(離生喜楽地)、二禅定(定生喜楽地)、三禅定(離喜妙楽地)、四禅定(捨念清浄地)を経て(1p206)、最高の智慧、無上正等覚(むじょう-しょうとうがく)、『阿耨多羅三藐三菩提(あのくたら-さんみゃくさんぼだい=anutara-samyak-sambodhi)』を獲得した(1p85)

本当の自分とつながると幸せになれるわけ〜阿頼耶識論

唯識派によれば心は8つの意識から形成されている

 それでは、本当の自分とつながるとなぜ幸せになれるのであろうか。存在するものには実体や我は存在しないと考える思想を「空思想(サンスクリット語:シュニアター=sunyata)」と呼ぶ。空の思想はブッダの時代からあったが(1p167)、ナーガールジュナ(Nagarujun=龍樹,紀元前150〜250年)の中観派の哲学思想によって体系化された。そして、空を「観法」、サンスクリット語でいう「ヴィッパサーナ(Vipasyana)」と呼ばれるメソッドを通じて、これを解明しようとしたのが、「ヨーガ行唯識派」である(1p143)

 唯識派は数ある仏教の学派の中でも最も徹底的に心の世界を解明しようとしたグループで、心は以下のように8つ種類からなっていると考えた(1p144)

@〜D 五感
E 「六識」:自我意識の主体である
F 「末那識(サンスクリット語:マナス=Manas)」:エゴのベースとなり、その背後にある深層心理
G阿頼耶識(サンスクリット語:アラヤ= Alaya)」:この1〜7までの意識のバックとなる深層心理(1p144)

阿頼耶識には善と悪の両方の経験がストックされている

 ヨーガによれば、人間の心の奥底に過去の様々な経験を記憶として残されている(1p151)。「阿頼耶識」は、無限の輪廻転生を通じて蓄積されてきた過去の経験や記憶が蓄えられている「蔵」を意味し(1p146)、あらゆる現象世界が展開していく種子が蔵されているため「種子識」と考えられている(1p145)

 この潜在的な種子因子を「行(サムスカーラ=samskara)」と呼ぶが、ここには心の発動が生み出される衝動となる「業(カルマ)」、仏教でいう三毒、「貪(とん)」、「瞋(じん)」、「痴(ち)」という悪い記憶だけでなく、不殺生、布施、慈悲等の望ましい行為もストックされている(1p146,1p151)。すなわち、阿頼耶識には「煩悩」と「菩提心」とが共に共存していることがポイントである(1p146)。まず、煩悩からみていこう。

阿頼耶識内の煩悩が「無明」を産み出す

 怒ったり、イライラしたり、クヨクヨしたりといったネガティブな感情を持ち続けているとそれがストレスとなって病気を引き起こすことは心身医学の立場から知られている。仏教では、このようにこだわりや執着を持った心の状態を病んでいると見なし、「ほんとうの自分」、すなわち、自我の真にあるべき姿「真我(プルシャ)」が、「煩悩(サンスクリット語:クレーシャ=Klesa)」によって見失われているこれを「無明(サンスクリット語:アヴィドヤー=avidya)」と呼ぶ。ことを言う(1p18,1p153,2p154)。すなわち、人間が上述した束縛条件によって苦しめられているのは、煩悩による「無明」のためなのである(1p18)

阿頼耶識の菩提が悟りを産み出す

 けれども、「阿頼耶識」には、同時に望ましい意識悟りの智慧を求めて仏道を行じる心、「菩提(サンスクリット語:ボーディ=bodhi)」も含まれている(1p145)。鎌田茂雄(1927〜2001年)氏は「入楞伽経(にゅうりょうがきょう)」、第七の「仏性品」で、阿頼耶識とは如来蔵のことであり、煩悩の根源であると同時に、如来蔵としてあるべき理想的な魂の根源、自性清浄心が同時に共存していると述べている(1p153)。如来蔵とはサンスクリット語のタターガルーガルパのことで、迷いに覆われてはいるものの凡夫の心の中にも存在する如来になりえる可能性、すなわち、清らかな如来法身のことである(1p152)。大乗起信論では、無限の生命だとしている(1p153)

悟りの脳科学

阿頼耶識は旧皮質と関係している

 密教では、「空」に帰した境地として、さらに「阿摩羅識」も掲げている(1p147)。それでは、「阿頼耶識」や「阿摩羅識」を脳神経系から考えてみよう。

 大脳生理学者、時実利彦(1909〜1973年)東京大学名誉教授は『脳と人間』で、阿頼耶識の働きは、本能的な古皮質の働きと対応すると指摘している(1p151)。脳にある古皮質は相手を殺してまで自分のエゴや欲求を果たそうとはしない。知性や理性がなくても動物たちが殺し合うことなく個体や種族をうまく保っているのはこのためである(1p152)

脳幹・古皮質・前頭葉が調和をすると「阿摩羅識」が生まれる

 2016011704池見.jpg一方、大脳新皮質の働きは時には相手を抹殺してしまう危険性がある(1p152)。池見酉次郎(1915〜1999年)九州大学名誉教授は、前頭葉には他の存在を否定・抹殺することで自分のエゴを満たそうと限りなく増長させていくと同時に、他の存在を認める慈悲を生み出す諸刃の剣の働きがあると指摘する(1p155)。すなわち、阿頼耶識は、本能的な欲求の根源である煩悩を産み、かつ、前頭葉もマイナスに働く危険性がある一方で、普遍的な個人を超えたものもある(p158)

 脳生理学者によれば、人間の潜在的な知的能力の90%以上は使われないまま眠っているという。アーサー・ケストラー(Arthur Koestler, 1905〜1983年)も『ホロン革命』の中で「人類は約100億もの神経細胞とほぼ無限のシナプス結合の中に潜む未開発の能力の一部を、いまようやく利用し始めているにすぎない」と述べている(2p207)。フランスの神経生理学者、ポール・ショシャール(Paul Chauchard, 1912〜2003年)は「現代人は悪しき合理主義、知性、言語主義という左脳に閉じ込められてしまっており『愛の脳』という非常に大切な自然の生命活動と深い関わりのある右脳の働きを忘れてしまっている」と述べている(2p216)。ショシャールによれば、前頭葉の働きがコントロールされ身体感覚が最も鋭敏になったときに脳の働きは宇宙の流れと調和する」と述べている(1p163)。そして、「坐禅をすると前頭脳が静かとなり、非思量の状態となって宇宙秩序と一体となる」と述べている(1p79)

 要するに、脳幹、古皮質、新皮質、前頭葉の調和が大切なのである(1p163)。仏法の真理を繰り返し聞くことでそれを全身に染み込ませていく行為を聞燻習(もんくんじゅう)と呼ぶが(p158)、番場一雄氏は、八識の迷いを捨てた九識の働き「阿摩羅識」は、脳幹と深く関係し(1p153)、脳幹は背骨と深く関係しており(1p154)、このため「般若の智慧」も背骨と密接に関係していると考える(1p155)

脳が調和すると四無量心・慈悲心が発信される

 唯識説では、一〜九識までの意識が「三昧」状態になったとき、九識は「法界体性智」という根源的な智慧に転化し、そのエネルギーが生命活動の根源として八識にたどり着き、その結果、「大円鏡智」が実現される。そして、この智慧の力とエネルギーが七識を「平等性智」という大慈悲に転化させ(p158)、相手の存在を抹殺しようとする前頭葉の働きは抑制され、生きとし生けるものを平等にしようとする智慧が表れて来る。そして、六識は「妙観察智」という事象を察する深い智慧へと変わり、一〜五識までは「成所作智(じょうしょさち)」に転化し、現実にすべきことを実施していく智慧になるのである(1p159)

 すなわち、エゴがなくなると自分が幸せになるというメリットがあるだけではなく、ヨーガと仏教の根本精神である高次元の利他心「四無量心」が発動され、あらゆる生きとし生けるものに向かって光のように放射されていく。

@ 慈(マイトリー) 生けとし生けるものすべてに友情の心を持つ

A 非(カルナー)  生けとし生けるものすべての苦しみに対する同情を苦を除こうとする哀れみ

B 喜(ムディター) 生きていることへの歓びと感謝、人の幸せを見て喜ぶ心

C 捨(ウペークシャ) とらわれや怨親等差別を捨ててすべて平等に利する心

 すなわち、ヨーガとは、自分が完成されるだけでなく、すべての生命に至福をもたらすための魂の道なのである(1p18)


池見酉次郎の画像はこのサイトから

引用文献
(1) 番場一雄『ヨーガの思想』(1986)NHKブックス
(2) 番場一雄『一億人のヨーガ』(1988)人文書院

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2016年02月08日

番場一雄のヨーガ―ハタ・ヨーガ@

はじめに

 番場一雄氏(1938〜2003年)の著作のまとめを紹介する。これも、1987年といまから29年も前に購入した著作だが、改めて読み直してみるとヨーガや仏教の理解に非常に役立つことがわかったからだ。番場氏は心不全のために66歳と師の佐保田博士よりも早く他界するが、とりわけ、番場氏がヨーガをやりながら内山興正(1912〜1998年)老師の下、参禅をしていたことは改めて気づいた。脳生理の部分についてはいささか古いことを免れないが、仏教とヨーガとの関係についてはいまも有効である。そこで氏の著作内容をまとめておく。

身体が病弱であるためハタ・ヨーガを始める

 番場一雄氏(1938〜2003年)は、小中学校から病弱で三分の一月は学校に通えなかった。17歳では肺結核を患う。35歳前後まで、抗生物質の副作用によって、胃腸障害、耳鳴り、慢性的な疲労感、慢性蕁麻疹に悩まされていた。このため、25歳からヨーガを始める(2p151)

佐保田01.jpg 佐保田鶴治(1899〜1986年)博士のヨーガ研修会は、京都東山連邦の宝塔寺のひとつ、大雲寺でされていた。博士と秋山陽文老師とがインド哲学と仏教を通じて懇意だったからである(1p41)。当時は月1回だけ研修会がもたれ、参加者も数十名だった(1p42)。アーサナが1時間。調気法20〜30分、瞑想法20分と全部で2時間のコースであった(1p44)

 佐保田博士は、@ゆっくり行い一定の時間保つ、A部位に意識を向ける、B動作と呼吸を合わせる、C緊張と弛緩を交代させる(1p45,2p22)。この四原則を守らなければ形だけアーサナに似ていても、実質的にはアーサナにはならず、期待する効果が得られないと言われた(1p44)。そして、心身が調和すると「梵歓喜」と呼ばれる至福の境地が表れてくると言われていた(1p45)。そこで、番場氏は、佐保田博士と石井祐雄氏の指導の下でアーサナを始めた(1p46)

 番場氏は、佐保田鶴治博士から、人の心を受け止める寛容心、生きとし生けるものへの慈しみ、人の心を見抜く直感力、物事にこだわらない大海のような心を直に感じて、大きな感動を受けた、と語っている(2p149)

正しい呼吸法で健康になる

ストレスから息が浅くなるため胸が狭まり腹が出てくる

 現代人は色々なストレスから呼吸が小さくなり、胸郭が萎縮している。肋骨が開くチャンスも少ない。息が浅いため、いつも汚れた息の上に新たに入ってくる息を混ぜて吸っていることになる(2p108)。石井祐雄氏によれば、いつもの呼吸は肺から出されない空気が2〜3割あるという(1p59)。そこで、普通の人間は25歳前後に肺活量が最大となり、その後は徐々に落ちていく(1p58)。番場氏は、長年のヨーガの経験から、呼吸の微妙な動きによって、その人の身心のレベルがわかるという。病んでいる人の息はスムーズに流れていないからである(2p155)。また、人間は若いときには内臓が引き締められているが、年とともに下垂気味になる。そのため、胸が貧相になり、腹が出てきて内蔵を骨盤で支えるようになる(2p99)

腹の引き締めを行なって息を吐き切る

 このため、ヨーガでは老化防止のために「調気法」を行なう前提として、腹をへこます練習を行なう。これを「ウディヤーナ(気をあげる)」と「バンダ(締め付け)」と呼ぶ(2p99,2p102)。この結果、内臓は刺激を受けて若々しさを取り戻す。心臓も下からマッサージを受けるため、心筋梗塞になったとしても後遺症を起こさず完治させることができるという(2p102)

20160208番場.jpg そして、アーサナやプラーナヤーマの練習によって胸郭が発達して肺活量が増えてゆく(2p107)。健康な男性の肺活量は3500〜4000ccだが、番場一雄氏は2800ccしかなかった。けれども、20年もヨーガを続けた結果、6470ccに増えたのである(1p101,2p114)

吐く息を長くする自然な呼吸で心臓の負担が小さくなる

 呼吸は自律神経によってコントロールされている。けれども、呼吸だけは自分の意志でもコントロールすることができる(1p57)。ヨーガはそこに着目した(1p58)。そこでは、ヨーガでは、入息、保息、出息を1:4:2で行い、吸うよりも出す方を長くする(1p120)。『ヨーガと医学』(1980)紀伊国屋書店の著者、スティーブン・F・ブレナ(Steven.F.Brena)博士によれば、肺にとって生理学的に最も楽な状態とは息をゆっくりと吐いている時であり、その時には、心臓の右心室からの静脈と、酸素供給を受けて左心房へ出て行く血液とが最もバランスが取れた状態にあると述べている(1p120,2p109)

 ジョギング等によって無理をして筋肉を堅くすると、心臓に負担がかかり心臓肥大を進行させるが、ヨーガで肺活量が多くなるとエネルギーのバランスが良くなるため、心臓が次第に小さくなる(1p112)。事実、番場一雄氏も肺機能が目覚ましく向上し心臓が小さくなったという(1p101)

 そして、このヨーガの呼吸を練習すると交感神経が緩んで副交感神経が優位になるために、高血圧であっても血圧が10〜30mmも下がる(2p115)

保息することで血管を緩めスムーズに血液を流す

 普通の成人では、息を止めていられるのは1〜1分半が限度である(2p111)。番場一雄氏もヨーガを始めた頃には、カパーラ・パーティ浄化法やバストリカーといった調気法が苦しく(1p60)、保息(クンヴァカ)も1分もできなかった。けれども、いまでは3分以上できるようになった(1p60,2p111)

 そして、血液中の酸素が飽和状態になると、倦怠感や恐怖心が起こり、頭の働きが低下し、脳動脈も収縮する。保育器の中の未熟児が酸素の過剰供給で失明するのもそのためである(2p112)。一方、血液中に含まれる二酸化炭素には脳血管を緩め拡大させる。そのため、血管は柔らかくなり血液がスムーズに流れる。クンヴァカに意味があるのはそのためだったのである(2p113)。さらに、ヨーガではプラーナを取り入れている。そこで呼吸法のことを「プラーナ・ヤーマ」と呼んでいる(1p58)

ハタ・ヨーガのアーサナをすれば身体の姿勢が美しくなる

 ハタ・ヨーガでアクロバットのようなアーサナをすることは不自然に思える(1p126)。けれども、基本的なヨーガのアーサナを毎日30分前後、食事をするように行なっていくと美しい姿が現れてくる(2p158)。身体の動きが次第にスムーズに背骨は張りを持つようになり、全身のバイタリティが高まってくる(2p14)。いつも背骨が伸びやかにまっすぐ立ち、誰でも歩く姿勢が美しくなる。不思議なことに、歩行の度に脚は動いても、上半身は手や腕の動き以外はシーンと静止している感じである。あたかも高級乗用車に似ている(2p166)。ブッダの修行法「三十七菩提分法」に「軽安(きょうあん)」と呼ばれる修行法があるが、これは、ヨーガの心身統一による禅定力によって、身も心も春のそよ風のように軽やかになることを言う(2p15)

 また、現代人は立っているときの重心がカカトの方にきているが、古代人は立った時の重心の位置が現代人よりも前方にあったという(1p139,2p160)。京都の三十三間堂の千体の千手観音がしている「立禅」のような姿になる(2p160)。すなわち、実践すればするほどその姿勢は仏像のように美しくなり活力が満ちてくる(1p127)。それは、人間の身体には美しい姿勢を築こうとする設計図があるからである(2p159)

 16〜17世紀のインドのハタ・ヨーガの文献、『ゲーランダ・サンヒサー』によれば、シヴァ神は太古に8400万もの対位法を説かれ、うち84が優れ、さらに人間社会では34のアーサナが素晴らしいと記されている(1p127)。けれども、20年の実践から番場氏は、背中を伸ばす体位、背中をそり上げる体位、背骨をねじる体位の三つにアーサナが集約できると述べている(1p128)

アーサナは身体で唱えるマントラで動く瞑想である

 番場氏は、本当に体が心と一体となって、相互に情報が交換できれば、身体に異変があれば直ちにそれが意識できるはずである、と述べる(2p176)。確かに、普段の意識では、身体のことが感じられない。けれども、ヨーガの実習が進むと、身体感覚が目覚め、身体への意識化が進む。随意筋だけでなく、不随意筋や内蔵までが意識対象になってくる(1p95,2p180)。いままで鈍感であった腰や背骨が力強く活き活きとしてくるのがわかり(2p165)、内臓感覚が目覚めて、疲労やストレスで胃腸が腫れていると、それが手に取るようにわかるようになるのである(2p102)。このため、番場氏は「ヨーガは身体で唱えるマントラである」と述べる(2p18)

坐禅では安楽の法門なのだろうか?

20160208内山.jpg 生活に伴う過度なストレスを解消して、心の安らぎや健康を得たい。こうした人々のニーズを反映して、瞑想や座禅がブームになっている(1p169)。佐保田博士は「ヨーガ禅」と述べ、ヨーガが禅と密接に関係があるとしていた(1p64)。そこで、番場氏はほぼ2年にわたって、ヨーガをやりながら、吉田山の麓にある換骨堂という曹洞宗の寺で、内山興正(1912〜1998年)老師の下、参禅をした。ともに参禅していたのは心理学者の牧康夫氏であった(1p65)。ちなみに、牧康夫氏はフロイト研究で著名な研究者である。神経症に陥って、研究所の地位を捨て婚約まで辞退する。けれども、ヨーガを実践した結果、結婚し、愛児を設け再び大学の教壇に立つ(1p7)。とはいえ、その後不可解な死を遂げている(1p8)。それは、自殺である。

 番場氏は、禅堂で座禅をしたが、それは楽ではなくいろいろな想念が去来した(1p68)。道元禅師は「坐禅は安楽の法門である」と述べたが、本当にそれができるのであろうか(1p68,1p119)

 一般の修行者にとっては坐禅をするだけでも大変な緊張をもたらす。禅宗は意志宗と言われるほど強固な意志が必要である。佐々木雄二医学博士によれば脚や膝の痛みを訴えるものが89%にも登ったという。また、江戸時代前期の臨済宗の僧、盤珪永琢禅師(1622〜1693年)は胸部疾患、江戸中期の臨済宗の僧、白隠慧鶴禅師(1686〜1769年)は禅病に陥った。いずれも生理を無視して過酷な修行をしたためであろう。そこで、健康が維持されて瞑想ができればその方が望ましい、と番場氏は考える(1p119)

 座禅では結跏趺坐だが、ヨーガでは蓮華坐(パドマ・アーサナ)である(1p67)。『ハタヨーガ・プラディーピカー』には、パドマ・アーサナを行うことであらゆる病気がなくなると書かれている(2p35)。確かに、自律神経が集まった腹部の太陽神経業が、活性化し、臍の下の丹田に精気が充実した感じを覚える(2p35)。けれども、ヨーガではさらに、達人坐(シッダ・アーサナ)をより重視している(1p67)

 ヨーガではまず身体の歪みをアーサナで意識的に筋肉を緊張させて緩めるやり方をする(1p69)。つまり、正しく座るための身体の条件が整えられないまま坐禅の姿勢をするとむしろ身体を悪くするのではないかと番場氏は言う(1p70)

ハタ・ヨーガは弛緩と緊張のリズムによって自然に瞑想に入る

 ヨーガをベースにドイツの医師シュルツ(Johannes Heinrich Schultz,1884〜1970年)が創案した「自律訓練法」では手足の温感は得られても、それ以降の太陽神経叢の温感まではなかなかいけない。けれどもヨーガのシヴァ・アーサナを行えば、ほとんど誰もが上腹部に温感を確実に感じられる。それは、弛緩をするためにまず意識的に緊張をさせるからである(1p115)

 また、静のままの坐禅では生命の根本が感じられないが、動から静のヨーガに瞑想の秘密が隠されていると番場氏は体験的に感じた(1p75)。瞑想が深まって心が統一され、三昧の境地に入っていくと、通常とは異なる意識状態が表れる。脳生理学の研究からはα波やθ波が出現することが知られている。けれども、こうした脳波はヨーガのアーサナや調気法のなかでも現れる(1p170)。正しい呼吸と一体となった緊張と弛緩のリズムが身体の感覚として外界の対象から心の動きを引き離してしまう。こうして、意識は「非思量」を経験できる(1p77)。このことから、座禅が「静」の瞑想であると同時に、ヨーガのアーサナや調気法も「動」の瞑想であることがわかるのである(1p170)

佐保田博士の画像はこのサイトから
番場一雄氏の画像はこのサイトから
内山老師の画像はこのサイトから

引用文献
(1) 番場一雄『ヨーガの思想』(1986)NHKブックス
(2) 番場一雄『一億人のヨーガ』(1988)人文書院
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2016年02月07日

瞑想と脳の科学10 ポスト3.11の哲学〜惑星的思考と伝統の知恵・結

インドの精神文化を丸ごと輸入

 現在の仏教は、大きくはスリランカやミャンマー等、東南アジアの国々に広がる上座部仏教と、チベット、日本、中国等に広がる大乗仏教の二つに分かれる(1)

 上座部仏教では、出家僧と在家信者とがはっきり区別され、悟りはもっぱら出家僧のことと考えられている。一方、大乗仏教では、社会で職業生活をいとなむ修行者にも大きな役割が認められ、「利他」が強調されている(1)

 チベット人は、高原で農牧畜行を行なうとともに、シルクロードの交易で栄えた商業民族で、財を築く才能に恵まれた、現実的な人々である。けれども、その一方、精神的、霊的な世界に莫大なエネルギーを投入してきた(1)。とりわけ、6〜14 世紀とほぼ 800 年にわたって、はるばるヒマラヤを越えインドに残されていた、ありとあらゆる教えを持ち帰り、移植するという巨大な実験を行った(1,2p117)。チベットから帰国したのは約半数とされるが、400 人もの僧が雪山を越えてインドへとわたった。同時に、インドからも多くの僧が招かれ、精力的な仏典の翻訳・修行の伝授がなされた。インド仏教は、度重なるイスラームの侵攻後、次第に衰微し、14 世紀には消滅する。けれども、あたかも、それを予見していたかの如く、チベットはインドの精神文明を丸ごと移植しようとした。仏典の忠実な翻訳がなされ、他のアジア地域には広がらなかったインド「後期密教」も導入された。その熱意は、インドにとどまらず、中国、インドネシア、キルギスタン等、その周辺で発展した仏教もほぼ純粋なまま、中央アジアの高原にもたらされることとなった(2p117)

 ユニークなチベット仏教は、インド由来の仏教と土着のシャーマニズム信仰とが融合する中からこうして生まれた。ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille,1897〜1962年)は、消費をめぐる著作の中で、聖なるものを中心に展開したその経済について、アステカとならべて、詳細な分析を行っている(1)

顕教と密教の9ステップからなるチベットの瞑想修行体系

 大乗仏教には、「顕教」と「密教」がある。「顕教」とは論理的な思考や言葉、分析をつうじて、言葉を超えた境地に入ろうとする教えである。禅宗で唱えられる『般若心経』は、その代表的な経典である。それに対して「密教」は、身体にかかわる修行を含むため、経を読むだけでは理解できず、師が弟子に与える口伝が、とても重要な意味を持つ。チベット仏教は、顕教、密教の両者が含まれ(1)、その哲学・瞑想体系を「九つのメソッド(乗り物)」に分類している。

(1) 世俗の神々と人間の乗り物―ヒンドゥー教の諸潮流

(2) 声聞・独覚乗―ほぼ、上座部仏教、小乗仏教に対応

(3) 菩薩乗―大乗仏教。「漸悟」と「頓悟(禅)」にわかれる

(4) クリヤ・タントラ―外的行為、浄化、沐浴が重点される

(5) ウパヤ・タントラ―真言宗の「大日経」=胎蔵界曼荼羅に対応する

(6) ヨーガ・タントラ―「金剛頂経」=金剛界曼荼羅に対応する

(7) マハー・ヨーガタントラ

(8) アヌ・ヨーガタントラ

(9) アティ・ヨーガタントラ

 (2)と(3)は顕教、(4)〜(9)は密教にあたり、うち、(7)〜(9)が「後期密教」にあたる。こうした密教は、チベットにだけ移植された(2p117)

トゥムモは慈悲の瞑想の後に行うことができる瞑想

 例えば、シッキムでは顕教に属する意識集中による「止の瞑想」がなされたが、瞑想中の酸素消費量が安静時と比較して64%も減少した。通常の酸素消費量は睡眠中で17%、瞑想中でも10〜15%でこれも説明がつかない。さらに、左脳がアルファー波、右脳がベータ波とまったく異なる脳波パターンを示した(2p128,4p170)。けれども、慈悲の瞑想を含めて、これらも、チベット仏教では「顕教」にすぎない。トゥムモとは、チベットに伝承される9つの哲学・修行のステップ、九乗のうち、八番目のアヌヨーガ(ニンマ派以外の伝統では、「母タントラ」と呼ばれる)に相当する修行である。

 チベット仏教では、五体投地や懺悔によって心を浄化し、マンダラを供養するといった「前行」を行い、それから「正行」に入る。顕教の瞑想である慈悲の瞑想を行った後、何カ月も自分が観音菩薩やヴァジョラヨーギニーといった本尊の姿になったと観想し、マントラを唱える。その後に、それを土台に「密教」に入り、呼吸法やヨーガを用いて熱を発したり、身体の基底部に眠るチャンダリーという生命エネルギーを覚醒させるといったトゥムモをはじめとする「脈管と風」の修行に初めて入ることができるのである(4p168)

死を考える文化チベットが明らかにしたこと〜心の本性は青空で死の時には青空が出現する

 チベット人たちは、「人間が必ず死ぬ」という事実から「いかに死ぬか」、「よく死ぬか」について日常的に考えている。また、人間が何度も生まれ変わる「輪廻転生」を当然のことだととらえ、「来世」について考えながら人生を送り、利他と菩提心を行動の基準にし、毎朝、仏陀、法、僧の三宝への供養のバター・ランプをともして、お経をとなえ、ブッダの教えにある「仏国土」を実現させようと本気で考えてきた。全人口の約三分の一が僧侶になった時期もある(1)

 現代医学では、心臓が停止したり、呼吸が停止したときを死と定義する(7p116)。けれども、死のプロセスをたいへん詳しい調べてきた(3p27)チベット仏教によれば、死のプロセスには8ステージがある(7p116)。心臓や呼吸が止まるのは4ステージまでで、その後もさらに4ステージがある(7p117)

 後期密教は、「心の本性」とは、透明に輝く鏡のようなものだと説く。鏡そのものには、そこに映しだされるものの形や色が、もともとそなわっているわけではない。けれども、その前に何かを置くと、その姿をあるがままに映しだす。「心の本性」も、それと同じで、空でありながら、同時に光り輝いているという、二側面をそなえている。

 ふつう生きている間、「心の本性」は、さまざまな煩悩や概念的思考の雲によっておおわれていて、じかに体験することができない(5p19)。死んでいく人間の内側では様々な体験が起きる。感覚が止まり、身体が重くなって動くなくなり、視覚が失われ、鼻がきかなくなり、聴覚は最期まで残るがまもなく耳も聞こえなくなる(4p193)。様々な感情が消えていく(3p27)。死に至る過程で、生命活動や意識を支える脳と神経系の働きが止まり(1)、情動や思考にかかわるプラーナの運動がしだいに止まって、生命のエネルギーが心臓に収束していくと(5p17,5p18)、その後、何かにのしかかられて押しつぶされたり、ゴーゴーと鳴る風に追い立てられたり、様々な幻覚や光のビジョンが表れたり、あるいは生きていたときの記憶がパノラマ的に蘇る等、さまざまな体験が生じてくる(4p193,5p17)。そして、「心の本性」をおおう雲は、ひとつひとつちぎれ、飛び散っていく(5p18)。その果てに、「光明」があらわれてくる(5p19)
 その後、非常に透明な、秋の青空のような意識状態があらわれてくる(3p27)。密教経典は、この意識状態「土台の光明」を、雲ひとつない秋の大空にたとえる。すべての感覚をそなえた生きものは、仏性、すなわち、何にもおおわれることがなく、真っ青に晴れ渡った広々とした大空のような心をそなえている。したがって、誰であれ、死の時には、この「土台の光明」があらわれてくる(5p19)

 それを過ぎると、「心の本性」に内蔵されている光、すべての生きものの根底にある透明で強烈な光に満ちた仏陀や菩薩のヴィジョンがあらわれてくる(3p27,5p19)。これを「法性のバルド」や(5p19)「菩提心」「明知」と呼ぶ(1)

 こうした状態変化は、心臓が止まる前から、その直後にかけて起こってくる(3p27)。とはいえ、こうした「土台の光明」や「法性のバルド」の体験が死の際に生じたとしても、ただ一瞬だけで通り過ぎてしまってそれを認識できない。このため、六道に再生するプロセスに入ってしまう。一方、生きている間に「心の本性」やその中に内蔵されている光を体験し、深めることができれば、「土台の光明」や「土台の顕現」の体験が現れてきたときにこれを認識できる(5p19)。すなわち、マハームドラーやゾクチェンという高度の密教の修行によって、「心の本性」に慣れ親しんでいることが必要である。瞑想を通じて、心の本質に慣れ親しむと、死ぬときに、目が見えなくなる、体が重くなる、耳が聞こえなくなるという状態の後に、心の本質があらわれてきたときにそれを認識できる。すなわち、心の本質とされている秋の空のように晴れ渡った心の状態を、生きている間に体験することが瞑想の修行の重要なポイントなのである(3p28)。そして、死のときに、この最後の二つの存在の基底状態の境地にとどまったまま、そこに自らの心を溶けこますことができれば、ブッダになれると考えるのである(3p27,5p19)

 そして、普通は呼吸が止まってから30分で、微細な意識と身体との分離が起きる(4p192)。そして、最期のステージの「光明」(クリアライト)と呼ばれる微細な意識が離れた時が死とされている(7p117)。このような死の瞬間を大事に守るため、『チベットの死者の書』をはじめとして「バルドにおいて聴聞することによって解脱する」という多くのマニュアルが書かれてきたのである(1)

近代医学は死に対する哲学が浅くデリカシーがない野蛮な行為

 粗雑なレベルの意識は肉体に依存しているため、脳が停止すれば意識もなくなることは仏教も認めている(4p189)。けれども、だからといって脳の物質的なプロセスが意識の根本原因であって、そこから意識が表れるとはいえない(4p190)。ダライ・ラマは、脳機能は意識が生じるための補助的原因であって、極めて微細な意識である「明知」が根本原因であると考えている(4p189)

 ダライ・ラマは言う。

「死の光明の体験が続いている間は、心(微細な風)と粗雑な身体とのきずなはまだ切れていないといえる。赤と白の精枠が鼻から流れ出し、同じことが性器でもおきたときに、死んだとはっきり言える」(4p188)

 すなわち、仏教からみれば、神経科学は因果関係について大きく単純化を行っているのである(4p190)

 そして、このプレセスは人によって違う。そこで見かけ上、死んでいてもできれば7日間、そうでなくても3日半は静かに遺体を安置して、死者の意識が心おきなく次の生命に向かう手助けをせよ(4p193)。死のプロセスを経験的に蓄積してきたアジアの伝統では、とても繊細な配慮が必要であると口を酸っぱくして述べて来た(4p192)。こうしたチベットの伝統からすれば、死をめぐる現代の医療はデリカシーのかけらもないひどく野蛮なものと言えよう(4p194)

後期密教はプラーナと微細身理論から幽体離脱も説明していた

 すなわち、トゥムモの修行の後には「楽」の体験があり、その後には思考が完全に消滅し(「無分別」)、さらに煙、蜃気楼、蛍、夜明けの光のビジョンがあり、雲のない澄み切った青空体験があり、その後、様々なパラサイコロジカルな能力が現れ「世俗の成就」がなされ、その後についに究極の悟り「至高の成就」が達成される(2p130,4p172)。菩薩のステップをひとつひとつあがって、ブッダの境涯に至のである(2p130)

 すなわち、インドのナーランダの僧院長であったナローパ(Naropa)の「6 つの教え」をはじめとして、北西インドやベンガル地方で発達した後期密教の体系によれば、下丹田に観想した赤い炎を、めらめらと燃え上がらせ、身体から強烈な熱と快楽を引き出す「トゥムモ」の後では、「意識の転移」の修行が行われる(5p16)
 すなわち、呼吸の制御、観想法、身体的ヨーガといった技法を駆使してこの「微細身」を作り変え、生きている間に心臓から頭頂へと向かうナディを開いておけば、死ぬ時に意識が頭頂から抜き出して「阿弥陀仏」の浄土へと一気に送り込むことができ、よりよい転生に向かえると考えるのである。これが「微細身」をめぐる後期密教の精密な理論と深く結びついている「意識の転移」という考え方である(5p18)
 そして、「意識の転移」は、「死の準備」として、重要な意味を持つことに加えて、多層的な意識の構造や「心の本性」を理解するうえで、たいへん重要な役割を果たす。例えば、「意識の転移」の修行を行っていると「体外離脱体験」が起こることが多い。
 後期密教は「プラーナ」の概念をベースに、この体外離脱体験を説明するため「意識の身体(意成身)」という概念を発展させてきた。生きている間の知覚は、感覚にかかわる意識作用「識」、肉体の感覚器官「根」、感覚対象「境」の三要素から形成されているが、「体外離脱中」や死後のバルドの「中有」においては、肉体から離れた「意成身」が働き、それによって、知覚が可能になっている。
 すなわち、体外離脱体験が起きているときには、意識は、微細なプラーナのエッセンスからなる「意成身」に載って自由に移動できる。もちろん、より粗大なレベルのプラーナが肉体にとどまったまま、生命維持の機能を果たし続けているため、それは死後の体験とはわずかに異なるが、体外に飛び出した意識は、肉体にかかわる粗大なレベルのプラーナの運動から相対的に自由になり、より微細なリアリティを知覚できる。そのため、つねに変転してやまない心の現象を超えた「心の本性」を理解するうえで、大きな手がかりとなる。そうタントラの伝統は考えて来たのである(5p18)

死んでも体温が保たれるトゥクタム

 すなわち、トゥムモの修行の後には「楽」の体験があり、思考が完全に消滅し、さらに煙、蜃気楼、蛍、夜明けの光のビジョンがあり、雲のない澄み切った青空体験があり、その後、様々なパラサイコロジカルな能力が現れ、その後についに究極の悟りに達する(4p172)。そして、「土台の光明」にとどまっていることを示す印のひとつが、もともと「真実の心」、あるいは「聖なる心」という意味を持つトゥクタム(チベット語、thugs dam)である(5p18)

 普通、人間は死ぬと呼吸も心臓が停止し、体温が急激に低下し、体液の流出が起こり、死後硬直が起こる(2p192,4p118)。そして、数日のうちに皮膚に死斑と呼ばれる痣が浮かび、身体がむくみ、異臭も漂う(4p118)。脳に血が流れず酸素が供給されなくなれば、脳細胞も一週間後にはすべて壊死してしまうはずである(3p215)

 けれども、チベットの高僧は、死後も腐敗しない(7p118)。これは、生きている間に瞑想のトレーニングを重ねて、十分に「心の本性」に慣れ親しんで、様々な表面的な思考や感情を超えて心の本性に留まれるようになっているために、死後に「土台の光明」があらわれてきたときも、それをあるがままに認識し、その状態にとどまれるため、死んだ後も瞑想のポーズを保ち続けられるのである(5p18,6p215, 7p118)。すなわち、「土台の光明」を認識している間、数日から数週間にわたって、瞑想のポーズを保たれ(3p27)、この状態が、数日、人によっては数週間つづく(5p18)

2016020701.jpg チベットやネパール、インド、あるいは、チベット人のラマたちが定住するようになった欧米の各地で、トゥクタムの現象は目撃されてきた(5p18)。フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela Garcia, 1946〜2001年)博士やリチャード・デビッドソン(Richard J. Davidson, 1951年〜)教授もこの「トゥクタム」の実例を身近に見てきた(5p18)。例えば、ヴァレラ博士の最初の師であったチュギャム・トゥルンパ(Chögyam Trungpa, 1939〜1987年)は米国で他界したとき、一月間にわたってトゥクタムに留まった(4p184)。そこで、何とか科学的に計測できないかと、考えてきた(4p184,5p18)

 そして、ダライ・ラマの協力によって(5p18)、この現象の科学的測定が初めてなされたのは2008年の秋のことであった(4p191,5p18)。南インドの僧院で、優れた学殖と深深々とした瞑想体験で知られる、ダライ・ラマの属するゲルク派の教主、ロプサン・ニマ・リンポチェ(Lobsang Nyima Rinpoche,1929〜2008年)が他界し、18 日間のトゥクタムに入ったのである(4p191,5p18,7p118)

 2016020702.jpg2008 年以来、デビッドソン教授たちは、「トゥクタム」に入ったヨーギや高僧たちの脳波や心電図を測る計測実験を行い、すでに、4例ほど計測が行われてきた(3p27)。デビッドソン教授の分析結果はまだ公表されてはいない。けれども、死後も瞑想のポーズが維持され、体液の流通も死後膠着も起こらなかった。また、心臓が停止していても血色が保たれ、体温もほぼ一定に保たれ、暖かい状態が18日も続き、肉体は腐敗せず良い香りまでした(4p191,5p18,7p118)

虹しか残らない

 また、十年前に東チベットのカム地方でなくなった高僧の場合、最期には髪の毛と爪と衣しか残らず、空には奇麗な虹がかかったという。これは肉体を最も微細なエネルギーに変容できたからである(7p118)

 こうした現象は、パーリー経典には記述が少ないが密教タントラでは詳細に述べられている。この光明は、智慧を育む究極の道で、真実を表すダルマカーヤ(法身:dharma-kaya)、虹の身体は、慈悲や菩提心の究極の道を表し、ルーパカーヤ(色身:Rupa-kaya)と呼ばれる(4p118)

 こういう伝統が、地球上にはまだ残っている。大変困難な時代、大きな曲がり角にさしかかっていることは確かだ。えけれども、人間は、まだまだ、とても大きなポテンシャルがある。困難な時代だからこそ、逆に、人間のなかに潜在している力は、あらわれてくるだろう。そう永沢准教授は考える(3p29)

現代科学では理解できないトゥクタム

 現代の科学では「トゥクタム」は説明できない。とはいえ、科学は、それ以前のパラダイムによってうまく説明できない、いわば「例外」的な現象の発見をつうじて、飛躍的に発達してきた。ヴァレラのように意識が脳活動から「創発する」と考える現代の脳科学、あるいは医学は、「トゥクタム」をつうじて、大きな転回を遂げることになるのではないかと永沢准教授は考える(3p28,5p19)

チャクラから始まる子どもの誕生

 チベットの微細身理論は、子どもの誕生についてもプラーナから考える。すなわち、微細身は、心の本性、バルドにある意識が、未来の両親の性行為の場に引き寄せられることで、受胎の時にまで遡る(4p173)。そして、父親と母親から受け継いだ2 種類の根源的な赤と白の精滴(ビンドゥ)、すなわち、精子と卵子を土台に、プラーナの運動性とが一体となって、身体が生まれてくる(4p173,5p17)。受胎とともに、胎児は、臍のチャクラから頭と下半身に向けて脈管を伸ばす。まるで豊かに葉を生い茂らせた樹木のようなネットワークを作っていく(5p17)。脈管の発生は妊娠4週目に始まり、出産後3 ヵ月から、脈管によって「増え」たり、「枯れ」たり、という変化が生じる(2p131)。けれども、老化とともに、ナディとプラーナは少しずつ衰え、それとともに、運動機能や五感をはじめとする、さまざまな身体的・精神的機能は、しだいに弱まっていく(5p17)。その後、10の風が生れるが、それは、誕生後、10年毎にひとつずつ機能停止していく。このため人間の寿命の限界は100歳なのである(4p173)

死を忘れた文化は不健全

 人間は必ず死ぬ。これは自明の事実である(1)。現代文化の大きな欠落は、死について、十分な思考も教育もなされていないということである(3p26)。とくに戦後日本は、生産性を上げるなど「生」の部分にスポットライトを当て、物質的に豊かな社会の実現をめざしてきた。その結果、現代の日本にはモノがあふれているが、日常のなかで「死」について考える機会はほとんどなく、むしろ隠されているといってもよい(1)

 そして、3.11 の震災は、我々の意識を大きく揺さぶり、生きて死ぬことの意味について、根本的に考え直す機会となった。例えば、最後まで海岸近くの建物にとどまり、津波襲来の放送を続けて、海に呑まれた若い女性の方のように、利他性は死の恐怖を超えていく。人間は、自分の生命をも贈与する存在である。日本人は、自分たちの文化の深層にある、そういう生と死の哲学に、戦後初めて、直接出会った(3p26)

 「死」が組み込まれていない文化はどこかで破綻する可能性がある。死について考えるからこと、よりよく生きられる。「死」への準備をしながら生きているチベット人の考え方や生き方、仏教について学ぶことは、私たち自身の生き方と文明を考え直す大切なきっかけになるが、実は日本においても、法然や親鸞が生きていた平安や鎌倉時代には仏教に対する強烈な信仰を抱き、「死」を意識しながら生きていたのである(1)

 そして、チベットの後期密教の生命論によれば、心はこのように表現されることになるだろう。

「生きている間、私たちの心は、身体のなかに住まい、その身体は環境との深い相互依存の関係の中にある。そして、心で起こってくるさまざまな現象は、全身に広がるナディのネットワークを循環するプラーナ―それは光でもある―の運動にかかわっている。だから、それらを調べたり、分析することはできる。けれども、それはただ、大いなる海の表面にあらわれるさざ波の形について、調べているのにすぎない。それによって海そのものを理解することはできない。心の本体は、いのちを超えている」(5p20)

ヴァレラ博士の画像はこのサイトから
ロプサン・ニマ・リンポチェの画像は文献(5)より

【引用文献】
(1) 永沢哲「Teacher's Link」京都文教大学ウェブサイト
(3) 永沢哲『日本トランスパーソナル心理学/精神医学会第12回学術大会基調講演:惑星的思考へ』トランスパーソナル心理学/ 精神医学vol.12, No.1, Sept, 2012 p.10-p.29
(4) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(5) 永沢哲「いのちとこころ、チベット仏教の意識― 生命論」2013年9月「こころの未来」第10号
(6) 永沢哲「マインドフルネスと脳科学の可能性」『マインドフルネス最前線』(2015)サンガ新書
(7) バリー・カーズィン『慈悲と智慧の科学』(2016)瞑想を語る、サンガジャパン
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2016年02月06日

瞑想と脳の科学H ポスト3.11の哲学〜惑星的思考と伝統の知恵・下

ダンスを踊ると身体が熱くなるブッシュマン

 20160206Richard Katz.jpg先住民にとってはダンスが重要であると述べた。カラハリ砂漠のブッシュマンのシャーマンたちは、『ンム』と呼ばれる大変な高温と活力を発生させる能力を持つ。人類学者リチャード・カッツ(Richard Katz)博士に対して「踊って踊って踊る。すると、ンムがお腹の中に入り込んで背中を持ちあげる。すると身体が震え始めて熱くなる。ンムが身体のあらゆる部分、足の先から髪の毛の中にまで入り込む。それは神から与えられる」と語っている(1p118〜119)

 カトリックの聖人、フィリッポ・ロモロ・ネリ(Filippo Romolo Neri, 1515〜1595年)も神への燃えるような愛を感じると身体全体が熱くなったという。ネリはわずかな食事しかとらず、高齢で痩せた身体であるにもかかわらず、真冬でさえも寒がらなかった。ネリによれば、この『愛の炎(インセンディウム・アモリス)』は、聖霊からの贈り物なのであった(1p118〜119)。そして、チベットのヨギたちも『トゥムモ』と呼ばれるエネルギーによって寒さに対する抵抗力を持つ(1p118,1p210)

弛緩反応〜瞑想やヨーガはストレスへのレジリアンスを高める

 20160206Herbert Benson.jpgチベット仏教の瞑想の科学的研究で、デーヴィッドソン教授と並んで重要なものに、ハーヴァード大学心身医学研究所のハーバート・ベンソン(Herbert Benson,1935年〜)博士が1980年代に行った密教の瞑想修行の医学的な研究がある(2p127)

 もともとベンソン博士は、心臓医師として出発したが、1960 年代の末から心臓病がストレスに関連することに気づき、当時、米国で大衆化していたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギ(Maharishi Mahesh Yogi, 1918〜2008年)のTMに興味を持った(2p127,4p167)

 1929年 にウォルター・B・キャノン(Walter Bradford Cannon, 1871〜1945年)が提唱したように、ストレスがある状況では人間を含めて生物は「闘うか、逃げるか」(fight or flight)の選択が強いられる。そして、血圧の上昇、心拍数の増大、ストレスホルモンが増大する。これは原始社会においては適応的な反応である。けれども、現代社会においては、身体への大きな負荷、病気の原因となる。ベンソン博士は、宗教的な伝統から、気功、ヨーガ、マントラ、マインドフルネスとこの「闘争―逃走反応」によるストレスを修復・治癒するメカニズムを抽出し、「弛緩反応(relaxation response)」という概念を創出してみせた(2p128,6p204)

 瞑想には、科学的な根拠もある。数カ月程度だと変化はないが、10年くらい瞑想を行っていると遺伝子のレベルの発現が変化するとの研究結果が出されている(6p204)

 20160127SaraLazar.jpgまた、ベンソン博士の弟子であるマサチューセッツ総合病院のサラ・ラザー(Sara Whitney Lazar)博士が2014年に発表した研究によれば、マインドフルネスをやったグループもハタ・ヨーガをやったグループもいずれも物理的なダメージに対してレジリアンスが高まり、全般的にみるとハタ・ヨーガの方が効果が高いという(6p207)。すなわち、ヨーガにはレジリアンスを高める力がある(6p208)。また、毎日6時間ずつ三カ月間マインドフルネス瞑想を行った結果、テロメアの修復酵素がでるようになったという研究結果もある。テロメアとは真核生物の染色体の末端部にある反復構造で、これが死と関係する。すなわち瞑想すると長寿になる理由の遺伝子レベルでの根拠も次第に見えて来たのである(6p198)

 また、人生のすべてを瞑想に掲げているような僧侶でなく、普通の人ができる範囲での慈悲のトレーニングでもポジティブな効果があることがわかってきた(7p121)

火の瞑想の発見

 20160206alexandra-david-neel.jpgTMのように単純なマントラにただ意識を集中する瞑想を20分するだけでストレスがかなり解消されるのであれば、その生涯を瞑想に捧げる修行者たちはどのように変化するであろうか。この疑問からベンソン博士はチベット仏教に関心を寄せてゆく(2p128,4p167)。とりわけ、ベンソン博士が関心を抱いたのは、14年にわたってチベットに滞在して、密教の瞑想を自ら行ったアレクサンドラ・ダヴィッド=ニール(Alexandra David-Néel, 1868〜1969年)が記述した「トゥモ」と呼ばれる瞑想修行に興味をいだいた(2p128,4p168)

 トゥモとは熱を出す修行である。標高4500mのラダックの屋外ではマイナス18℃まで気温が低下するが、その中を裸で過ごすのである(2p129, 4p170)。マイナス18℃の中で、裸で寝れば、普通は、すぐ死ぬ。けれども彼らは、マイナス20℃の戸外で、裸に水をつけた布を巻きつけて乾かす。一番多い人は、真夜中から夜明けまで40枚乾かしたという。そして、震えてもいないのである(2p129, 3p29, 4p170)。そして、インドのダラムサラで行われた屋外実験では最大9.4℃も体温が上昇した(2p129, 4p170)

トゥモはどのようなメカニズムで体温があがるのか不明

 人間が体温を上昇させるやり方としては、アラスカのイヌイットのように代謝を促進して体温をあげる「代謝型」の方法がある。マイナス18℃の中で体温が上昇していることから、トゥムモもこの代謝型と考えられるが、これにはエネルギー源、食料が必要である。そして、チベットの達人の場合には食事もとらなくなるケースがある。すなわち、そのエネルギーがいったいどこからやって来るのか、化学反応をベースとした現代医学や生理学では説明がつかない。安保徹(1947年〜)新潟大学名誉教授は、細胞内でのミトコンドリアでカリウム放射性同位体崩壊によるエネルギー生産が行われているのではないかと推測している(4p292)

人間の身体は肉体と微細な身体からなる

 「トゥムモ」は微細な、目に見えない「気」や「プラーナ」によって作られている身体「微細身」に取り組む瞑想で、この瞑想をすると、非常に強烈な熱や快楽が生まれるという(3p28)。チベットのタントラ仏教の修行僧たちは、死体が散乱する墓場を放浪しながら修行を続けてきた。この中で、後期密教の瞑想と密接に連携して、目に見える粗雑な身体と目に見えない微細な身体の概念、「微細身(みさいしん)」が産み出されてきた(4p173)。すなわち、タントラ医学によれば、生きているときの人間の身体は、眼に見える粗雑な肉体「粗大身(そだいしん)」と目に見えない微細な「微細身(びさいしん)」からなっている(2p130,4p173)。そして、「微細身」は、脈管(ナディ,nādi:チベット語rtsa)、風(プラーナ,prāna:チベット語rlung)、精滴(ビンドゥbindu:チベット語thig le)の三要素から形成されている(2p130,5p17)

 後期密教の意識論によれば、生きている間の心は、肉体を「よりどころ」としており、心と体とは、深い絆によってしっかりと結びついている。「微細身」は、いわばそのインターフェースにあたる(5p17)。すなわち、この微細身が「心」と密接な関係を持つ。その背景には「風=心」(rlung-sems)という思想がある。全身にはりめぐらされた脈管のネットワークでも最も重要なものは、脊椎の中を通る中央の脈管と、そのすぐ左右にある脈管であり、これが脳につながっている。そして、脳は、無数の脈管が集中する場所で、「脈管の大いなる海」(rtsa’i rgya mtsho)と表現されている(2p130)

微細な身体の内部を移動するプラーナで心は作られる

 この微細身の脈管内部を運動しているのが「プラーナ」であり(5p17)、プラーナには移動する「運動性」の意味がある。これに対して、心は「照明し、認識する」という意識の働きを意味している。けれども、タントラ医学によれば、これは、もともと同一のものを別の側面から表現したのにほかならない(2p130)。すなわち、脈管の内部を全身で移動している「プラーナ」は生命維持の機能にかかわる一方で(5p17)、異なる波動や色彩を帯びた光であって、様々な思考や感情等の意識体験は、脈管内を移動する「プラーナ」が運び、その光の異なる色彩ないし波動と対応すると考えるのである(2p130,5p17)

プラーナのパターンはビンドゥが決めている

 そして、このような「プラーナ」=光の運動のパターンを作り出しているのが「ビンドゥ」である(2p130,5p17)。ビンドゥは無数の種類があり、それぞれ脈管の特定の部分に局在すると考えられているが、心身の健康と深くかかわり、食べ物から7 段階のプロセスを経て作り出されるとされている(2p130,5p17)。したがって、身体のみならず、心の健康や意識状態は、どのような食べ物を、どれだけ食べるかに影響されることになる(2p130)

最先端の神経科学とタントラ仏教との世界観は共通する

 この後期密教の「微細身理論」は、ヴァレラやデーヴィッドソンらが提唱する現代の脳科学のパラダイムとはまったく異なる生命観から出発しているにもかかわらず、偶然の一致とは思えない共通性を持つ(2p131, 4p166)

 第一に、風=心=光という考え方は、意識・情報の単位を電気信号のパルスと見なす脳科学の基本と一致する。

 第二に、精滴は、神経伝達物質やホルモンとよく類似した性質を持つ。

 第三に、タントラ医学では、脈管の「可塑性」が人間の変化の可能性の根底にあると考えるが、これは、近年の脳科学が見出した「神経可塑性」の概念と合致する(2p131, 4p178)

 微細な身体のナディ中を精妙なプラーナが移動するが、このプラーナの移動と心とはもともと一つである。このため、心、プラーナ、ナディ、身体の間では、トップダウンとボトムアップの双方向的な作用が働いている。すなわち、心が変われば、プラーナの運動が変化し、それによって、ナディもトップダウンで成長、変化していく。逆に、身体やナディが変化すれば、移動するプラーナの運動も変わり、心はボトムアップで変化していく。

 トゥムモをはじめとする「脈管と風(ナディとプラーナ)」の修行は、ヤントラヨーガ、座法、呼吸法、意識集中によって、プラーナの動き変化させ、精滴(ビンドゥ)を動かし、脈管(ナディ)を変えていく。とりわけ、トゥムモは、ナディとともにビンドゥをコントロールすることによって、健全な思考やプラーナを通過させるナディは増え、悪しき思考やプラーナが動くナディは枯れていく。このプロセスを繰り返すことによって、「智慧」のプラーナの移動を妨げていた「結節」が解き放たれ、原初の「智慧」のプラーナの通路が開く。すなわち、悟りにいたるプロセスは、微細な身体でのナディの変化としても表現でき、これをこのことを後期密教経典は「心に根源の智慧が生じるのは、体の脈管のはたらきによる」と簡潔に表現している(2p131)

 すなわち、トゥムモ瞑想修行の根底には、プラーナの流れ道であるナディには「可塑性」があり、思考を変化させたり身体の運動を通じて、ナディを変化させることで悟りが得られると考え方がある。これは、まさに神経可塑性の考え方と類似しているのである(2p131,3p28)

人間の死後の意識の存在も仏教は考える

 米国の生物学者ジェラルド・モーリス・エデルマン(Gerald Maurice Edelman, 1929〜2014年)は、ニューロンやシナプスの発生、調節、修復において、ヘッブの法則による「神経ダーウィズム」が支配し、その過程で、主観的な意識が体験されると考えた。ヴァレラは、この理論をベースに意識の創発論を論じている。したがって、ヴァレラの理論からすれば、脳の活動や物理的な身体の存在を抜きにしては意識は存在しえない(4p178)。そして、デヴォッドソンも人間の高次な精神機能を脳のネットワークで説明しようとしている。生きている間はその説明でかなり近い所までいける(6p214)。けれども、死ぬときについてはそれだけでは説明がつかないことがある(6p214)。そして、仏教では身体がなくても意識は存在すると考えているのである(4p172)。トゥムモ瞑想も「明知」や「心の本性」を発見するための準備でしかないのである(3p165)

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【引用文献】
(1) ジェームズ・レッドフィード『進化する魂』(2004)角川書店
(3) 永沢哲『日本トランスパーソナル心理学/精神医学会第12回学術大会基調講演:惑星的思考へ』トランスパーソナル心理学/ 精神医学vol.12, No.1, Sept, 2012 p.10-p.29
(4) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(5) 永沢哲『いのちとこころ、チベット仏教の意識ー生命論』2013年9月「こころの未来」第10号 
(6) 永沢哲「マインドフルネスと脳科学の可能性」『マインドフルネス最前線』(2015)サンガ新書
(7) バリー・カーズィン『慈悲と智慧の科学』(2016)瞑想を語る、サンガジャパン
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2016年02月05日

瞑想と脳の科学G ポスト3.11の哲学〜惑星的思考と伝統の知恵・中

人類は七段階でエネルギー利用を発展させてきた

 文明史家のアンドレ・ヴァラニャック(André Varagnac, 1894〜1983年)は、人間のエネルギー利用の形式を大きく七段階にわけてみせた。

 第一は火である。人類以外の動物は筋肉しか使っていない。けれども、人類は、はじめて、筋肉以外のエネルギー、火を使うようになった動物である。火の利用は、おそらく、ホモ・サピエンスの誕生以前にまで遡る。

 第二は、畜力である。一万数千年前から農耕がはじまり、その後、牧畜が起こり、牛に犂を付け、耕起に使うといったエネルギー利用がなされるようになる。

 第三は、冶金術である。金属がある程度利用できるようになることから、風車や水車を作って風力や水力を使えるようになった。

 第四は、火薬で(p18)、第五以降が、この300 年の変化で、石炭、石油、そして、第七が、20 世紀後半での原子力とコンピュータの発達利用である。この原子力とコンピュータの時代によって、生活様式は変化した。普段体を使う必要がなくなったことから、汗をかくことで気持ち良くなるという経験も消滅した。とはいえ、こうした近代エネルギーはいずれも持続不可能である。ウランは70 年くらいしかもたない。石炭や石油、天然ガスもいずれ枯渇する(p19)

ポスト3.11の文化や社会

 けれども、すでに大きな意識変化は起きている。世論調査によっても、これまでの生活様式やエネルギー利用を続けることはできず、それでもかまわないということが、おおまかな合意になってきている。もちろん、かつての狩猟採集社会や農耕牧畜に戻ることはできないが、エネルギー利用は、ソーラー、風力、あるいは潮力を利用する基本的に持続可能な自然エネルギーになっていく(p19)

photo.jpg そして、永沢哲准教授は、エネルギー利用の形態が、私たちの身体や心の状態、パターン、ひいては世界観と深く関係していることが重要だと考える(p18)。エネルギーの利用方法が変化すれば、心や身体の使い方も変化し、それに応じた社会や文化になっていく。それは必ずしもマイナスではない。人類の中にある、長い間培ってきた適応のパターンを再発見することにつながる(p20)

狩猟採集民の原理−わかちあいと贈与の復活

 3.11 以降の変化のひとつが、何かあるとバーベキューがしたくなっていることである。例えば、明るい蛍光灯やLED を使っても、落ち着かない。ゆらゆら揺れている火をみると、心が落ち着く。皆で、ご飯を食べ、しゃべって、楽しく歌をうたって、暗くなってきたら、ちらちら揺らぐ炎をぼんやり眺める。そういう生活が楽しくなっている。

 少し余裕があったら、寄付してしまう。それは、贈与やシェアすることで社会を作りたいという狩猟採集民の社会の原理や倫理が、欲求として表面にあらわれてきているように思える。狩猟採集時代には、狩猟が成功すれば、誰もが分配して食べ、火を囲んで、ダンスを踊っていた。それが、人間の最も古い層に属するスピリチュアリティである。それが、3.11 の後に、現代の空間に、急速に露出してきた。ここ数百年というのはまさに少し長かった夢のようなものだった。これから、こうした動きがさらに、広く、深く復活してくるであろう。あるいは形を変えて、転生してくるであろう(p20)

ポスト3.11の鍵となるのは慈悲の瞑想

慈悲の瞑想は利他精神を作り出せる

 これから徐々に姿をあらわすだろう、ポスト3.11 の21 世紀文明の最初の手がかりになるのは、2004 年に発表された「慈悲の瞑想」についての研究である。人間は、共感能力を持つ。それは、論理的に思考することで相手の状態を推論するのではなく、ほぼ瞬間的に生まれる直観的な心のはたらきである。

 けれども、この共感が起きたときに、人間は大きく二つの方向で反応していく。

 第一は、共感が慈悲や慈愛がわきおこる引き金となって、利他的行為につながるケースである。これは、今回3.11 の後に、非常に多くの人たちが体験した(p20)

 けれども、もう一つ別のプロセスもある。それは、共感が起きても、恐怖や不安によって利他的行動が遮断される場合である。誰かが苦しんでいる状態を目にしたとき、自分も同じ状況になったらどうしようかと不安や恐怖を抱き、それを未来に投影してやめてしまう。その場所にいて共感し続けると疲れてしまう、あるいは苦しくて、耐えられないため、逃げたり目をそむける。私たちは、この二つのパターンの間を移動したり、揺らいできた。けれども、慈悲の瞑想の一つ、息を吸うとともに他者の苦しみを吸いこみ、吐くときにじぶんの心臓から、喜びや富を光として贈る瞑想を実践すると、苦しみを味わうことに対する恐怖が小さくなり、静かな勇気が生まれる(p21)

慈悲の瞑想は閃きと同じ脳状態を保つ

 もちろん、恐怖そのものは、必ずしもマイナスの感情とは言えない。けれども、恐怖心をもっているときに人間が行う判断や、そこで生じてくるインスピレーション、思考や発想はたかが知れていて、創造性とはほとんど無関係である。

 けれども、慈悲の瞑想をした場合に「アハ体験」と同じ状態が、その3000〜6000 倍もの長さの時間で続く。これが創造性と直接結びついているかどうかは、まだ明らかではないが、創造性や閃きが生じやすい脳の状態を、一定の時間キープすることから、創造性の回路が強化される可能性が大きい(p21)

瞑想は無意識なパターンから人を解放し創造性を育む

 アインシュタインは「一定の年齢を超えてから本を読むと、人間はバカになるからやめろ」と語っていた(p21)。それは、パターンができてしまうためである。ある状況ではパターンが有用なこともあるが、そのパターンにあまりに深く入り込んでしまうと、新しいものは生み出せない(p22)

 パターン化は、知的創造に限られない。何かを見て怖いと思う。あるいは、こういうことは自分にはできないと思って萎縮する。こうした思考や行動パターンは、自分がこれまでに習慣化してきたパターンへの自動反応で無意識に産み出されている。そして、こうしたパターンは、身体の状態や感情と深く結びつき、だいたい、幼い頃に作られている。けれども、ヴィパッサナ瞑想等は、こうした反応パターンから自分を解放する。すなわち、瞑想は、心を平穏にするだけではなく、創造的な知恵が生まれやすい条件をととのえる(p22)

 今世紀半ばにかけての危機の時代には、それは、とくに重要な意味を持つ(p22)。これから生まれ出る文明は、創造性を成長させ、発揮する方法を文化の中に組み込んでいる必要がある。すなわち、慈悲の瞑想は、恐怖や不安から自分を解放し、利他性と創造性を発揮するための方法の一つとして、使える(p21)

ブータンの幸せの三要件〜自給、コミュニティ、自然

 人口70 万人のブータンは、たくみな外交手腕によって、固有の文化や伝統を守り、低い技術水準やGDP にもかかわらず、浪費に依存しない高い幸福度を実現している。そして、ブータン人の幸せは、大きくは以下の三つに依存する。

第一に、食べるのに困らない。ブータンの食料自給率は高く、誰かが仕事を求めれば、はたらく場所をすぐに得られる。最低限の衣食住は、確保できる。

第二に、コミュニティがしっかりしていて、帰属感が得られる。共同作業が多く、それが、人間の関係をしっかり保証している。

第三に、自然環境が豊かである。国土の60%以上が森林で、憲法上、この60 %を維持することが決められ、裏山の樹木を伐採するのに許可がいる。

 見過ごされがちだが、環境のもたらす美的・感性的満足は、人間の幸福度に大きく影響する。熱帯雨林は非可聴帯域の音を含むが、この熱帯雨林とよく似た音の分布を持つバリ島の音楽は脳の回路を活性化するが、ブータンの僧院で鳴り響いている宗教音楽は、バリ島とほとんど同じ音の構造を持つ(p24)

21世紀の新文明のキーワードは惑星総幸福

 そして、永沢准教授は、これから生まれてくるであろう21 世紀の新しい文明は、ブータンの「国民総幸福」(GNH)の哲学を発展させた概念、自分の造語で「惑星総幸福」(Gross Planetary Happiness:GPH)という概念になるのではないかと指摘する(p24)

 「惑星的思考」という言葉を第二次世界大戦の直後に「存在への問い」という論文で用いたのは、マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger,1889〜1976年)である。ハイデガーは、大地に対する支配や大地のつくりかえによって各地域で積み重ねられてきた伝統的が破壊されることは、人間に大きな不幸を招き寄せると、ごく初期から近代的な科学技術を批判してきた。一方で、ハイデガーは、必ずしも普遍性や科学も捨てず、伝統的な知恵と科学、両者の対話の中から、何かを創っていくことが大切だと考えていた(p10)。では、3.11の震災以降の世界での伝統的な智恵と科学の融合はどうなっていくのであろうか。

精霊とアニミズムの復活

 第一は、人間の身体と意識をめぐる思考や、それとつながっている実践を、これから先の社会は、おそらく取り戻していく必要がある(2p23)

 そして、生命エネルギーについての思考を掘り下げれば、「精霊」と呼ばれるものにつきあたる。樹木、山、湖、岩といった自然をかたちづくる存在には、命が宿っている。それは、人間とも共通の精神を持ち、人間との間にコミュニケーションが起こる。そういうふうに、世界のあちこちの文化が、語ってきた(p23)。例えば、京都の北山で長い間、木を切ってきた方は、「木と話す」という言葉を使っている。木をみたときに、その中を流れる生命の声や響きが聞こえる。そういう感覚が、非常に重要になってくるのではないか。そういう意味で、アニミズム的なものの復権ということが、やはり必要になるだろう(p22)

 こうした生命エネルギーをめぐる知恵の伝統は、一人称の直観に基づき、認知科学でいえば、こうした見方は、自然にかんする博物学的知性とコミュニカティヴな社会的知性の融合から生まれた、擬人論にすぎない。けれども、そういう直観は、とても普遍的で古い人間の思考と感覚の層に由来している。この気や精霊にたいする感覚の復活が、これから非常に重要になるだろうと私は思っている。この自然環境がもたらす満足について、その最たるものは、聖地であろう。聖地が人間を幸福にする意味について、私たちは、これから、考えなおす必要がある(p23)

色即是空の世界観

 第二に、これは別の言葉でいうと、「心も体も光である」ということになる。健康な人をみると、そこに輝きを感じ、幸せになる。子ども、産まれたばかりの赤ん坊、元気な赤ん坊は輝いている。それをみていると、じぶんも元気になる。私たちは生命の輝きや光を感じる。それを中心にした社会や文化をこれから創っていく必要がある(p23)

 ミクロの素粒子のレベルでみていけば、私たちが物質だと思っているもののほとんどは、空間である。量子力学までいかなくとも、この原子核と、周囲の電子軌道の間の距離を考えてみると、その間にある空間は非常に大きい。原子が占めている体積の、99.99999999% が空間である。それは、仏教でいう、空、色即是空ということだ。こうした認識の延長上に、私たちの21 世紀的な文明の核となる世界観は創られていく。チベットの密教、とりわけ、ゾクチェンと呼ばれる密教と量子力学や超弦理論を結びつける作業を行いたい。そういう「惑星的思考」が、21世紀文明の核の一つになっていくはずだと、私は考えている(p24)

 そして、永沢哲准教授は、今、気や生命エネルギーからできている「微細な身体」、「霊的な身体」の概念が、人類のなかでどのように発生したのか、この微細な身体と、性や死の関係をテーマに、本を書いているという(p23)

永沢准教授の画像はこのサイトから

【引用文献】
永沢哲『日本トランスパーソナル心理学/精神医学会第12回学術大会基調講演:惑星的思考へ』トランスパーソナル心理学/ 精神医学vol.12, No.1, Sept, 2012 p.10-p.29
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2016年02月04日

瞑想と脳の科学F ポスト3.11の哲学〜惑星的思考と伝統の知恵・上

LSDは左脳と右脳の融合によって超越体験を引き起こす

 1950〜1960年代にかけて、LSDの臨床実験や研究がなされたが、LSDで経験される「変性意識状態」が、宗教で言われてきた神秘体験と極めて類似していることが明らかになって来た(1p53)

 20160204arnold-mandell.jpgそのメカニズムの中核には、セロトニンを神経伝達物質とする神経回路がある(1p53)。アーノルド・マンデル(Arnold J Mandell)博士によれば、セロトニンが生産される「縫線核」は原始的な脳の部位や脳幹にまたがっているが、LSDをはじめとする幻覚物質は、セロトニンと拮抗的に働く。このため、海馬のCA3細胞へのセロトニンの抑制が失われる。このため、CA3細胞の活動は活発化し、海馬−中隔において、ゆっくりとしたアルファー波やシーター波の脳波が発生する。さらに、海馬−中隔で同期化が起こり、前頭葉においても同期化が起きていく。結果として、LSDは左脳と右脳の融合を通じて超越体験がもたらされるのである(1p54)

外から見る人類学から自ら体験する人類学へ

 1960年代後半から1970年代にかけて、宗教人類学では大変な変化が起きた(1p52)。それまで人類学者たちは、「儀礼」を外から観察して、神話の構造分析や社会・政治組織とつなげて論じて来た。けれども、この時期から人類学者たちはシャーマンや呪術師に直接弟子入りして、自分の体験をベースに内側から儀礼の内容を語るようになったのである。この変化の背景には環境問題や戦争等、近代技術や合理主義がもたらした限界が明らかになったことがある(1p53)

変性意識状態から洞窟壁画と宗教は産まれた

2016204Paul MacLean.jpg かつて、ポール・マクリーン(Paul MacLean, 1913〜2007年)博士は、人間の脳の構造と行動様式を「生物の進化の過程」と「原始的な本能」から説明することを試み、本能に関わる脳幹、情動に関わる辺縁系、知性に関わる大脳皮質と系統進化のプロセスで脳が発展してきたと考え、『脳の三層構造仮説』を提唱した。実際の脳の構造がマックリーン博士が考えたよりもはるかに複雑であることが明らかになるとともに博士の説は否定される(1p54)

 けれども、アリゾナ州立大学マイケル・ウィンケルマン教授(Michael Winkelman)によれば、機能面からみれば、本能、情動、知性という区別は意味を失ってはいない(1p55)。教授は、ペンシルバニア大学のユージーン・ダギリ(Eugene G. d'Aquili,1940年〜)博士や人類学者ウィリアム・ラフリン(William S. Laughlin, 1919〜2001年)博士が提唱する「神経現象学」をさらに深め、脳科学とシャーマニズムの研究をつなげようと試みている(1p53)

 原生人類の認知革命は4〜5万年前にさかのぼる。この時期、ラスコーをはじめ洞窟芸術の爆発が起こる(1p57)。後期旧石器時代に起きたこの精神革命は宗教につながるが、洞窟や岩絵に描かれたモチーフは、現代人が変性意識で体験する光のビジョンと共通する。すなわち、その背景にシャーマニズム的な呪術的実践で生れた変性意識状態があったことは間違いない(1p58)

ダンスは変性意識状態をもたらす

 マジック・マッシュルームの主成分であるサイロシン、サイロシビン等(1p54)、幻覚物質を用いるとセロトニンの抑制作用が抑えられ、海馬に影響し、側頭葉が刺激される。その結果、情動や視覚中枢のブロックが解放され、抑圧されていた無意識の情動が浮上して幻覚体験が生れる(1p56)。一方、また、踊り、神話の詠唱等で脳が同時共鳴していくとダギリが示したように副交感神経が活性化する(1p56)

 人類はその歴史の大半を、狩猟採集民として生きてきた。その最初の時代から人類はダンスしてきた。そもそも、人間は、なぜ、徹夜で踊って、身体の痙攣するトランスに入ろうとしてきたのだろうか。それは、ダンスのトランスは、通常とは違う意識状態、光に満ちた体験をもたらすからである。ダンスは脳のなかに潜在している回路を開き、大きな統合をもたらす。 

 中国では、人間を「気」や生命エネルギーの場としての「微細な身体」として捉えてきたが、興味深いことに、「気」に相当する概念は狩猟採集民のなかにもある。最近のDNA 人類学の発達から、人類の発生と分化、移動については、かなり理解が進んできたが、カラハリ砂漠で生きるサン人、いわゆるブッシュマンが、もっとも古い原型を現代に保っている民族である。そして、彼らは、中国の気やインドにおけるプラーナやクンダリニーをめぐる思考と、ほぼ同一の生命理論をもっている。

 そして、その鍵となるのは、踊りである。長時間踊っていると、臍の下にある生命エネルギーが熱くなり、脳天を突きぬけて上昇する。インドでクンダリニーの覚醒と言われるような体験が、狩猟採集民のヒーリングダンスのトランスにおいても、生まれてくるのである(2p23)

本能、情動、知性が統合された変性意識状態が意識を進化させる

 20160203Michael Winkelman.jpgこうして、古哺乳類脳、とりわけ、記憶の海馬や快楽に関わる海馬―中隔、視床下部が、情動や自律神経のバランスを制御する領域が活性化し(1p55)、深い脳の層からの徐波によって前頭葉両半球でも徐波のコヒーレンスの増大が起き、認知と情動、直観と分析的知性の高次な統合がもたらされる(1p56)。すなわち、三位一体の脳の統合が起きる。この統合こそが、宗教と人類の進化の鍵をなすと教授は考える(1p55)。ウィンケルマン教授は、この変性意識状態を「統合意識モード」と呼び、人類進化において決定的な役割を担ったと考える(1p54)

 そして、こうした統合意識モードによって、自他の心の様々な面を観察する「メタ意識」仏教でいう「憶念(おくねん)」も誕生した(1p56〜57)。とはいえ、幻覚物質は変性意識状態をもたらしたとしても、それ以上の意味をもたないという反省がさらなる宗教の進化を促したのではないだろうか(1p57)。そう永沢准教授は考える。

マンデル博士の画像はこのサイトから
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ウィンケルマン教授の画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(2) 永沢哲『日本トランスパーソナル心理学/精神医学会第12回学術大会基調講演:惑星的思考へ』トランスパーソナル心理学/ 精神医学vol.12, No.1, Sept, 2012 p.10-p.29
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2016年02月02日

瞑想と脳の科学E 慈悲の瞑想・下

ガムランを聞くと脳は活性化する

 20160202ohashi.jpg大橋力(1933年〜)博士は、芸能山城組を創設した山城祥ニとして、バリ島のケチャやブルガリアのヘテロフォニックな聖歌等、非西洋的な音楽に着目してきた(p59)。バリ島のガムラン音楽「ガンバン・クタ」の平均スペクトルは5万ヘルツだが、上限は10万ヘルツを超える(p60)。そして、この音楽を聴いた被験者は、アルファ波が高まり、脳幹や視床の一部が活性化し、免疫活性も高まるという(p61)

人間は熱帯林の音でリラックスできる

 人間が普通に耳で聞くことができる音の周波数は2〜20万ヘルツである。けれども、人類が長らく暮らして来た原生林、例えば、アフリカの熱帯雨林は10万ヘルツ以上の可聴帯域外の音、超高周波成分が含まれている(p59)。農村や屋敷林がある場所では6万ヘルツくらいの音しかないが、それでも、まだ可聴帯域外の音が多く含まれている。けれども、都会は500〜1万5000以下の低周波の音が集中している。大橋力博士によれば、人間は長く暮らして来た熱帯林の音環境に適応しているために、脳もそうした環境において最も活性化する。都会でストレスを感じるのはそのためなのだという(p60)

 ラットの海馬の神経細胞が自然に近い複雑な環境の中で運動することで新生していくように、人間も野生の自然、とりわけ、熱帯雨林の中で進化してきた生物種である。そして、熱帯雨林で狩猟採集を行っていた10万年前からその遺伝子はほとんど変わっていない。なればこそ、積極的に作り替えられていない原生林のなかでもっとも生き生きと活動するのである(p246)

モノカルチャー景観の中では人は安心できない

 20160202jonas.jpg自然を改造することが幸せをもたらすという社会ダーウィニズムやネオ・リベラリズムは、もとを辿ればベーコン主義にゆきつく(p242)。そして、キャロリン・マーチャントの『自然の死』(1985)工作舍によれば、ヨーロッパでの寒冷化、農地の拡大と森林伐採の中で、ベーコンの思想は次第に準備されルネサンスまでの有機的な地球のイメージから取ってかわっていったという(p298)

 生命と技術の倫理について考え抜いたドイツの実存主義哲学者ハンス・ヨナス(Hans Jonas, 1903〜1993年)は『責任という原理』(2000)東信堂でこう述べている。

「小規模農家による雑多な農場経営では、栽培植物は風景と一体化している。すべてが人工的であっても自然らしさを備えている」(p244)

 一方、効率性の追求によってもたらされた米国中西部にみられる穀物の単調な光景は人間疎外と結びついている。大工場が「文化」としての故郷を提供しないのと同じく、自然としての単調さからは故郷が提供されない。人間が美を感じるためには景観の変化の織りなす複雑さが必要なのである(p245)

荒廃した時代を生きることになる人類

 人口増加と生産拡大に伴い、水や鉱物資源をめぐる国家間の爭いは、ますます激化していく。環境汚染と資源枯渇、食料問題、気候変動、巨大地震やハリケーンといった自然災害に直面しながら、これからの数十年は荒廃した時代を生きていくことになる(p256)

20160202Jacques Attali.jpg フランスの思想家、ジャック・アタリ(Jacques Attali, 1943年〜)は、こうした近未来の世界の住民を3グループに分ける。世界中を移動しながらイノベーションに関わる「上位ノマド」、定住しながらヴァーチャル空間で移動への欲望を充足する「ヴァーチャル・ノマド」、定住する場を奪われ難民化する「下位ノマド」である(p255)。現在最も多いのは「下位ノマド」である。けれども、技術革新によって、ヴァーチャル・ノマドは解体されつつあり、誰もが下位ノマドに転落し難民化する恐怖を抱いている。技術革新は排外主義、ショーヴィニズムを強化していく(p256)

ジャック・アタリは贈与の時代が来ると予想する

 こうした状況の中で、アタリは、環境問題や貧困問題に取り組むNPOやNGOによるソーシャル・ビジネスの活動比重が増え、利他性に基づく経済や贈与のネットワークを構築していくと考える(p256)。アタリは彼らを「トランスヒューマン」と呼び、その中に、イエスやブッダ、マザー・テレサ(Mother Teresa, 1910〜1997年)と共通する人格を読み取っている(p255)

 はたして、利益への欲望に突き動かされ圧倒的な力を持って進むグローバルな市場経済やそれに従属する巨大な国家の前に、贈与のネットワークや利他性はどれだけの力を持つのであろうか。アタリの未来予想は、イノベーションに出遅れたヨーロッパがキリスト教的なニューマニズムの観念を布教するための手段なのではあるまいか。けれども、欧州開発銀行の総裁を長く務め、北アフリカでマイクロファイナンスを実践しているアタリの見解はあくまでもリアルである(p257)

環境悪化でベーシックニーズを満たす職業が価値を持つようになる

 アタリは、急速な技術革新によって今後数十年で起きる人々の価値観やライフスタイルの変化が、利他性の流行を底から支えると考える(p258)。まず、環境や資源、食料問題が悪化し自然災害が増えれば増えるほど、人間の生命の基底に関わる欲求を満たすことが改めて大きな価値を持つようになる(p259)

生の体験が価値を持つようになっていく

 また、イノベーションによって複製可能なモノをコピーしたり、情報を生産するコストは急激に低下している。そのために、逆に複製できない生の体験や身体に深くかかわる技能に与えられる価値は高くなっていく。例えば、音楽でいえば、ネットからダウンロードされるメディアの価値は事実上ゼロに近づき、生演奏に重点が移りつつある(p259)

幸せな時間が価値を持つようになる

 20160202mita.jpg市場経済において、「時間」とは利益を産み出すためのものである。賃労働は文字どおり時間を売ることであり、技術革新や新商品開発によって得られる利益も時間から利益を引き出している点では同じである。けれども、人間は誰しも自己実現への欲求を持っている。このため、「利益を産む時間」から「よき時間」や「幸せな時間」への価値価値が起きていく。このアタリの言う「幸せな時間」は、真木悠介こと見田宗介(1937年〜)東京大学名誉教授が『時間の比較社会学』(2003)岩波現代文庫で言う「自己充足的な時間」とほぼ重なる(p259,p260)

企業経済も利他性に基づく贈与経済に向かう

 そもそも経済とは、人間の欲求を理解して、それを充足することで成り立つものである。したがって、企業活動は利他性に基づくNPOに近づいていく傾向をはらんでいる(p257)。だとすれば、それを妨げる投機的投資やカジノ資本主義の根源である金融業活動を規制すればよい、とアタリは考える(p258)

 他者の苦しみが除かれることを歓び、利他を実践することを喜び、新たなひらめきを生んで創造することを喜ぶ。そうした人々が誕生する文化を作り出すことが、未来の地球システムや人類にとって、生存可能な軌道を産み出すために最も重要なのである(p269)

仏教は利潤追求活動を避け里山内で自活する贈与コミューンを産んだ

 実のところ、利益を生む時間と幸せな時間との関係も深い社会的・倫理的に反省したのが仏教だった。仏教の瞑想の伝統は古代都市時代から生まれた。ブッダの熱心な弟子となったのは、都市国家において商業活動を営む人々が多かった。仏典に貨幣経済に由来する無数の比喩が見出されるのはそのためである。そして、利益を生む時間によって支配される都市を離れ、里山の中で幸せな時間を生きることを選択した。そして、彼らが作り出したコミュニティ、サンガのガバナンス原則は、友愛と贈与だったのである(p266)

 とはいえ、彼らの生活は都市に住む信者からの棋符や贈与によって支えられていた。このため、幸せな時間を生きながらも、利益を生む時間の中で生きる市民社会とどのように関係するのかを深く反省することとなった。この中から、南インド出身で中観派の創設者、ナーガルジュナ(Nāgārjuna,150〜250年頃、龍樹)による贈与や経済的正義をめぐる『宝行王正論』や同じく、南インド出身の中観派の僧侶、シャーンティデーヴァ(Śāntideva, 650〜700年頃、寂天(じゃくてん))による時間と自由をめぐる『入菩提行論』が誕生してゆくのである(p266)

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【引用文献】
永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
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2016年02月01日

瞑想と脳の科学D 慈悲の瞑想・中

アダム・スミスは良心を説いていた

20160201Adam Smith.jpg はたして利潤の追求だけで人間は幸せになれるのだろうか。アダム・スミス(Adam Smith, 1723〜1790年)は、市場メカニズムを理論化すると同時に、私的利潤の追求が幸せとどのようにつながるのか道徳的に内省していた(1p137)。そして、スミスが重視したのは「共感」であった。「健康で、借金がなく、良心的にやましい所がない状態」で暮らせるのであれば、それ以上、富を得たとしてもその効用はわずかしか増えない。むしろ、管理のわずらわしさや高慢等によって心の平静が失われてしまう。そうスミスは説いた(1p138)

慈悲の瞑想の実践者は不公正な状況を憂え多額の贈与を行う

 MITの経済学者とともにウィスコンシン・マディソン大学でリチャード・デビッドソン(Richard J. Davidson, 1951年〜)教授は、このスミスの思考を先に押し進めることにつながる次のような実験を行っている(p138)

 このゲームは3人のプレーヤーたちが以下のマネーを手にした状態からスタートする。

 @プレーヤー1 100ドル

 Aプレーヤー2 0ドル

 Bプレーヤー3 50ドル

29Richard Davidson.jpg そして、プレーヤー1が、まずプレーヤー2に対して贈与を行う。次に、プレーヤー3はプレーヤー2に対して贈与を行う。けれども、最初の贈与が30ドル以下である場合には「不公正」であるとする。

 つまり、このゲームは、最も豊かな者が最も貧しい者に対して贈与を行ったとしても、それが「不公正」である場合に、中間層はいったいどのような反応を示すのかを調べるためになされたのであった(1p136)

 そして、このゲームの結果、プレーヤー3の贈与額の多寡は、本人がどれだけの慈悲心を持っているのかに依存することがわかった。すなわち、どう行動するのかは慈悲心の度合いに依存するのであって、近代合理的な経済人のモデルが現実とは合致しないことが示されたのである(1p137)

 それでは、この「慈悲心」は、もともと決まったものなのであろうか。デビッドソン教授は、瞑想の初心者に対して毎日30分、二週間、後述する「慈悲の瞑想」を行うという実験をしてみた。そのやり方は、まず愛している人が、「幸せになりますように」から始めて、他人、難しい関係にある相手、さらにすべての人間へと広げていくやり方で、後述する伝統的な仏教の「非」に相当する。その結果、島皮質の活動が増大し、その活動が大きいほど寄付額も大きくなることがわかった(1p135)

グーグルも慈悲の瞑想を行っている

 ソーヤ海氏がやり方を解説している「グーグルのマインドフルネス革命」(2015)サンガによれば、グーグル社内には31カ所の瞑想スペースが設けられ、グーグル社員5万人の10〜15%が「マインドフルネスストレス低減法」を行っているという。もちろん、グーグルが瞑想を推進しているのは、自己認識力とセルフコントロール力を向上させるためである。

 仏教では「能力の向上」はあくまで副作用であって、エゴを捨て去ることで人生の苦を克服することが瞑想の主目的なのだが、できるだけ宗教性を排除してハードルを下げるのがグーグルのやり方らしく、こうした言葉は一切出てこない(3)。とはいえ、グーグル社員が実践している最先端の瞑想プラクティス、「慈悲のプラクティス」は「慈悲の瞑想」と同じものなのである(4)

慈悲の瞑想を行うと幸せとなり共感能力が高まる

 慈悲の瞑想を行うと、喜びや肯定性と結びついている前頭前野左部が活性化する。また、抑鬱と結びついている前頭前野右部の信号が減る。その結果、人は幸せになる。さらに、デーヴィッドソン教授の研究からは、慈悲の瞑想は、ただ喜びや幸せになるだけでなく、共感やひらめきや創造性といった様々な神経回路を共鳴させ、それらを大きく成長させる可能性を持っていることがわかってきた(1p261,1p263,1p267)。すなわち、人間には、もともと共感する能力があり、そうした力を育てていくことは可能なのである(1p261)

共感力は競争で有利に立てることから進化した

20160128tania.jpg 神経経済学によれば、共感能力や他者の心を読み取る能力があれば、他者の未来の行動を予測して、先取り的に行動することが可能となる。このことは、競争で優位に立てることを意味する。共感能力はそのために進化した。タニヤ・ジンガー(Tania Singer, 1969年〜)博士は、そう推測する(1p260)

 けれども、一方で、共感能力は、自分の行為が他者にどのような感情をもたらすのかを感じて予測することによって、欲望や行動を抑制する基盤にもなる。すなわち、経済的な道徳心や倫理感もこの能力が土台となっている(1p261)

社会性の神経科学によれば共感能力は恐怖心によってブロックされる

 けれども、興味深いことに、共感から慈悲の神経ネットワークが立ち上がって活性化していくプロセスは「恐怖」によってブロックされてしまう(1p263)

 もとより人間には共感能力がないわけではない(1p265)。けれども、共感とは 自己と他者とを区別することを前提とした自動的な反応である(1p262,1p263)。そして、人間は、恐怖心と共感との結合を意識的に断ち切る方法をしらない(1p265)。そのため、他者の苦しみへの共感は、恐怖に結びつく(1p263)。このため、社会性の神経科学によれば、人間は共感によって味わう苦しみを排除するために、他者を視野から追い出し、自分のまわりに高い壁を作って他者を援助することを断念しようとする(1p263,1p265)。そして、市場が作り出す享楽を消費するのである(1p265)。そして、この心理作用は意識的にコントロールすることができない(1p262)

 生命のホメオスタシスをベースとしたアイオワ大学医学部精神科医のアントニオ・ダマシオ(Antonio Damasio,1944年〜)博士の情動理論をさらに発展させることによって、タニヤ・ジンガー博士たちは、島皮質の二重機能モデルを産み出す。この二重機能モデルからは、他者の苦しみに対する共感と、慈悲や愛とが同列ではないことがわかる(p262)

 共感にかかわる島皮質と恐怖にかかわる扁桃体とには強い神経的な結びつきもあることから、このことは脳の解剖学的構造からも推測できる(1p263)。さらに、タニア・ジンガー博士たちは「囚人のジレンマ」ゲームを用いて、直接的に知らない相手に対しても人は共感を覚えるものの、好き嫌いがその共感に影響することを明らかにした(1p263)

共感に伴う恐怖や好悪に伴う共感への影響を克服するメソッドを仏教は開発してきた

 @ したがって、共感(他者の苦しみ)に伴う恐怖にどのように対処するのか

 A 好き嫌いによって共感が抑えられてしまうプロセスにどのように対処するのか

 この二つがポイントであることがわかる(1p263)

  共感と恐怖との関係や共感と好き嫌いの関係を深く理解したうえで、実践的なスキルを編み出してきたのが仏教なのである(1p264)。共感と恐怖とのつながりを断ち切る瞑想の伝統を開発し、それを「菩薩」と称してきたのである(1p265)

慈悲の瞑想とは何か

 チベット仏教でも大念処経「サティパッターナ・スッタ」に書かれている修行方法で、ヴィパッサナーと同じように自分の身体の状態や感覚、感情等を観察する瞑想、「四念処」が行われる。とはいえ、大乗仏教であるため、慈悲の瞑想が重視されている(2p163)

 慈悲の瞑想とは、チベット仏教にはニンマ派、カギュ派、サキャ派、ゲルク派の4宗派があるが、うち、ニンマ派の修行プロセスの中に位置づけられている(1p120)

 長期の隠棲修行をおこなう場合に、修行者たちは9種類の哲学と瞑想メソッド(九乗)を段階的に学んでいく。まず、無常を始めとして世間への執着を断ち切る出離の修得(声聞乗)を学ぶ(1p121)。その後、「九乗」の三番目に学ぶ「菩薩乗」の中で慈悲の瞑想は学ばれることになる(1p120)

 菩薩乗は、「空性」の悟りを目的とする。そして、これには、直接的にこの目的に向かう「頓悟(とんご(=禅)」と、段階的にこの目的へと進む「漸悟(ぜんご)」がある。そして、慈悲の瞑想は、後者の「漸悟」の修行の入口にあるものとしてチベット仏教では重要視されている(1p120)

 慈悲の瞑想は大きくは以下の三つのやり方からなる。

@心の浄化

 生きとし生けるすべての感覚を持つ生物(有情)が、かつては自分の母であったことを認めてその恩義に報いる瞑想である(1p121)。輪廻世界をさまようどの生物の苦しみも自分と無関係には存在していない。この当事者意識をもって、かつて被った恩義を返すためには、すべての生物を苦しみから解き放とうと決意する必要がある。けれども、煩悩や無知におおわれたままでは他者を救うことは不可能である。このため、煩悩や無知を抜け出すための修行が必要であるとの決心が生れる。これが第一ステップである(1p122)

A四無量心

 対象を区別せず、すべての生物に対して慈(いつくしみ)、非(あわれみ)、喜(よろこび)、捨(平等)を育む瞑想である。例えば、ニンマ派の場合は、捨から始まり、慈、悲、喜へと進めていく(1p123)

捨 今は友人であってもかつては敵であったかもしれず、あるいは、未来は敵となるかもしれない。今は敵であってもかつては母として自分を大切に育ててくれたかもしれない。それを繰り返し考え、すべての生き物に対して平等心を養う(1p123)

慈 母親が巣で雛鳥を抱いて温め食べ物を与えているように、あらゆる生き物が幸せであるように願う心を修得する(1p124)

 これから死刑場に連れて行かれる罪人が母親である。あるいは、自分が激しく流れる川に子どもが流され溺れながらもどうにもできない母親であるとイメージし、苦しんでいるものが苦しみから解き放たれるように願うことである(1p124)

 迷っている子どもと再会した母親のように、幸せであるのを見てそれを喜ぶことを願う(1p124)。

B抜苦与楽

 慈悲の瞑想の中核であり、思考の消滅した「無分別」の境地を体験するための重要な方法で、呼吸とともに他者の苦しみをもらい、自らの幸せを贈ることをイメージする瞑想である(1p126)

 まず、心臓か喉にあらゆる願いをかなえる宝の玉、「如意宝珠(にょいほうじゅ)」をイメージする。次に吸う息とともに、六道の有情の苦しみと悪業が黒い煙となって入って来るが、それは心臓の「如意宝珠」の輝く光にふれた瞬間に消滅する。そして、吐く息とともに、喜び、幸せ、富、善業などが光となって放たれ、有情の苦しみを和らげていく(1p126)

慈悲の瞑想の四無量心は好き嫌いを突破する

 慈悲の瞑想によってネガティブな感情と関連した回路は次第に力を失っていく。それは仏教が抱いてきた考え方と良く似ている(1p132)

 伝統的な仏教の「無所縁」では、特定対象に意識集中することを放棄する。7世紀半ばのインド仏教、唯識派の最大の知識人、ダルマキールティ(dharmakīrti=法称)は、対象を持った慈悲が修得された後、すべてが幻であることを認識しつつ、かつ、同時に慈悲を抱いている状態だと説明している(1p120)

 すべての生き物を心や身体といった構成要素に分解して吟味していくと、どこにも実体がないことがわかる。こうして「四つの無量の心」は「空性」の瞑想と一体となって「対象のない慈悲」をもたらす。悪意や暴力から解き放たれ、このうえなく清らかな心の本性を見出せるのである(1p125)

「好き嫌いによって共感が抑えられてしまうプロセスにどのように対処するのか」がポイントであると述べたが(1p263)、大乗仏教では、ありとあらゆる生命に対する平等な心が慈悲を育むうえで最も重要だとしている。そして、この「四無量心」の瞑想は、まさに好き嫌いをコントローするための方法なのである(1p264)

「抜苦与楽」の瞑想は共感と恐怖との結びつきをカットする

 「抜苦与楽」の修行を続けていくと、そのプロセスで、苦しみを味わうことへの恐怖が次第に消え、静かな勇気が目覚めてくる(p264)。あるときすべての思考が止まる。そして、「空性」が体験され、すべての生命に対する強烈極まりない慈悲が自然に生れる。大乗仏教で空性の悟りを絶対的な菩提心(勝義菩提心)と称しているのは、「空性」の悟りが、自然にほとばしりでる慈悲を伴っているからである(1p126)

学生向けの教育用に改良された慈悲の瞑想

20160201negi-lobsang.jpg とはいえ、慈悲の瞑想を行ううえでは、仏教をはじめインド思想の大半を占める輪廻転生が認められていることが前提となる(1p121)。キリスト教を信じる米国を始めとして、輪廻転生を認めない文化においては「四無量心」のなかでもとりわけ「捨」の瞑想は、輪廻転生を前提としているために行うことが難しい(1p140)。このため、インド・ラダックの出身でチベット仏教僧として哲学博士の学位ゲシェも得ているテンジン・ネギ(Tenzin Negi)博士は、輪廻転生の代わりに、シャーンティデーヴァ(Śāntideva, 650〜700年頃、寂天(じゃくてん))の『入菩提行論』による「すべてが相互に依存している」ことを考えるように伝統的な慈悲の瞑想を現代風にアレンジした(1p139)

 20160201chuckraison.jpgこれをもとに、アリゾナ大学のチャールズ・レーゾン(Charles Raison)准教授は、エモリー大学の新入生 61 人を被験者として、ネギ博士のアレンジした慈悲の瞑想を6 週間行ってもらうという実験を行ってみた。すると、慈悲の瞑想を行った者はストレスが低下したが、瞑想しなかった者は、効果がなかった。すなわち、瞑想はただ知識として知るだけではまったく役には立たないが、実践すれば、効果があることがわかったのである (1p140,2p131)

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【引用文献】
(1) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(2) バリー・カーズィン『慈悲と智慧の科学』(2016)瞑想を語る、サンガジャパン

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