2016年07月10日

トランスパーソナル心理学入門D〜日常を生きる

スピリチュアル・レボリューションとトランスパーソナル心理学

 20160710David N. Elkins.jpgいま米国では何百万もの若者たちが伝統的な宗教から離れつつある。たとえ、教会に通わなくても自ら魂を養えることに人々が目覚めつつあるためである。『宗教を超えて』の著者、ディヴィッド・エルキンス(David N. Elkins)博士によれば、宗教とスピリチュアリティの乖離は現代の主な社会現象である。そして、エルキンス博士はこのスピリチュアル・レボリューションは、大きく三つの波で進められたと分析する(2p82)

20160710Thomas Moore.jpg 第一は、1960年代のヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントである。第二は、1980年代のチャネリング、前世療法等の流行である(2p83)。そして、第三の波は、1990年代のジェイムズ・ヒルマン(James Hillman, 1926〜2011年)博士の『魂のコード』やトーマス・ムーア(Thomas Moore, 1940年〜)博士の『魂のケア』の流行である(2p84)

 けれども、ニューエイジ運動には、チャネリング等怪しげなものが含まれている(2p84)。そこで、ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は、ニューエイジはナルシスティックな自己中心主義に陥っていると批判する(2p85)。こうした中、最も良質で信頼できるアカデミックな部分を支えてきたのがトランスパーソナル心理学と言える(2p84)

 ただし、トランスパーソナル心理学は最初から確固たる学問領域を確立するというよりも、従来の心理学を超えた様々な「超常体験」への人々の探究心があり、それに答えて産まれたという面がある(2p70)

 例えば、トランスパーソナル心理学の誕生には、カリフォルニアのエサレン研究所を中心に展開されたヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントの影響も大きい(2p69)。また、既成のキリスト教に反発した多くの米国の若者たちは東洋宗教にオルタナティブを求め、禅、ヨーガ、チベット仏教、テーラワーダ仏教、イスラム神秘主義がファッションのように流行していた。同時にメキシコのヤキ族のシャーマン、ドン・ファンの教えを紹介したカルロス・カスタネダの著作が圧倒的な人気を得て、先住民のシャーマニズムへの関心も高まっていた(2p71)

魂を心理学位置づけ自己進化のビジョンを描く

 「何のために私はこの世に生まれて来たのか」

 こうした問いかけは、心理学ではなく、哲学や宗教の問いかけであるとされてきた。けれども、この人生の究極の問いかけに正面から初めて向き合ったのがトランスパーソナル心理学である(2p11)。従来の心理学とトランスパーソナル心理学の最大の違いは、心理学の枠内に明確にスピリチュアリティ(魂)と呼べる次元を中心に据えたことにある(2p78)。そして、いま、WHOも健康にスピリチュアルを含めている(2p81)

水平にも垂直にもつながる壮大なビジョン

 トランスパーソナル心理学はつながりを重視する。ただし、「トランス」には垂直次元を超越するという意味と、水平次元での横切るという二つの意味がある。トランスパーソナル心理学の「個を超えて」は、とかく、自己の深層無意識を突き抜けて真実の自己につながるという垂直次元に超えていくイメージがあるが、これは誤解である。大自然とのつながりなど水平次元のつながりも関わる(2p46〜47)


 2016020701.jpgケン・ウィルバーは自己進化の途上で運み出された心・魂・スピリッツを含む真の意味での全宇宙を大文字のKで始まる「コスモス(Kosmos)」と呼ぶ(2p87)。そして、この世に生れてきた意味、生死の意味は、この真の全宇宙であるコスモスの働きの一部であることを自覚し、コスモスの中で自分がどういう役割を果たすべきなのか、その「天命」を知り尽くしていく中で実現されると考える(2p87)。このウィルバーの思想は奇抜なものではなく、フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela Garcia, 1946〜2001年)博士のオートポイエーシス理論やヴァレラ博士の理論を社会学に当てはめ、個人の心と社会は「共進化」するというビーレフェルト大学のニコラス・ルーマン(Niklas Luhmann,1927〜1998年)教授の主張や複雑系の科学等、現代科学の新たな方向性とも一致する(2p88〜89)

心身一如を取り戻すことは、いまをフローで生きることにつながる

 エゴが時間の中に住み、利益を求めて未来へと首を伸ばし、過去の損失を嘆いているのに対して、ケンタウロスは常にいまのフローの中に住んでいる。未来に要求することも、過去にしがみつくこともなく、永遠のいまの贈り物に充足感を見出している(1p203)

エゴが消滅するとき、死の恐怖は消滅する

 真理を探究していくプロセスでは、どこまでも登っていくことから「上昇の道」と言われる。また、他の一切を否定し、ひたすら真理を求めていくことから、『臨済録』では「仏に会ったらその仏を殺せ」と説かれ『否定道』とも言われる(2p121)。そして、この自己探求における決定的な体験は、同時に死生観をもひっくり返す(2p112)

13Ken Wilber.jpg
 ウィルバーによれば、普通の人は、ペルソナ、エゴ、ケンタウロスのレベルで存在している。このため、個としての自己が永遠に生き続けることを心から願う。けれども、残念ながらその身体は不死ではなく、死ぬ運命にある(1p230)

 「私が生きている」「私が命を持っている」と考えるならば、「私」とは、結局のところは、いつかは死んでしまう存在でしかない(2p112)

 けれども、「いのちの働き」がまずあって、そのいのちが「私という形をとっている」と考えれば、「私という形」は肉体の死とともに消え去るにしても、私を私たらしめているものは、まさに不生不滅であり、いつまでもあることになる(2p113)

 事実、ウィルバーによれば、分離した自己は幻想である。したがって、分離した自己の死も幻想なのである。となると、分離した自己がなくなれば、死の恐怖もなくなることになる(1p136)。この肉体に包まれた私は、いつか死んで消えゆくとしても、いのちの輝きそのものは永遠に存在し続ける。本当の自分は死なず、ただ本来の姿、空に還っていくだけである(2p112)。最も、輪廻転生していくのはエゴではなく、シャンカラ(Shankara,700年頃〜750年頃)が言うように、唯一転生するのは超越した自己なのだが、トランスパーソナルな「体験」には不死という直感が伴う(1p230)。つまり、観念的にではなく「体験」としてそれに目覚めれば、この世に生まれてきた意味、私たちの死生観をひっくり返すことになる(2p112)

 20160710井筒.jpg宗教哲学者、慶応大学の井筒俊彦(1914〜1993年)名誉教授は、瞑想修行に伴い、表層意識が深層意識へと深まり、そのよく極限の地点を「意識のゼロ・ポイント」と呼んだ。その段階では自我意識が消滅し、言語による存在の分節化からの解放された「無分節態」であると解いた(2p93,2p114)。諸富祥彦教授は、井筒名誉教授の『意識の本質』は、ウィルバー顔負けで日本生まれのトランスパーソナル心理学たりうる、と評価する(2p93)

命は四つの存在で輪廻転生する

 プラユキ・ナラテボー氏によれば、タイの葬式には、日本のような深刻さがない。それは、「死」を今生における終着地点ではあるとはいえ、同時に来世に向けての新たな出発地点だと考えるからである(7p172)

 仏教思想では、誕生から死、輪廻転生までのプロセスを同じひとつの「いのち」がとる四つの存在のあり方として捉える。母体から誕生するのが「生有」、この世の人生が「本有」、その後の死が「死有」で、肉体から離れたいのちが次に別の肉体の形をとって生れ変わるまでが「中有(バルド)」である。この考え方を京都大学大学院の西平直(1957年〜)教授は「円環的ライフサイクル」と呼ぶ(1p104)

再び日常生活に戻る

 ブッダの教説をまとめた初期仏教の論蔵(アビダルマ)では、未訓練の凡夫の心を「遍在するする心の作用」として「思、作意、触、受、想」の五要素からなる「遍行」と呼ぶ。そして、ある程度のトレーニングを経て、この要素が変化した心の作用は「求、勝解、念、定、慧」の五要素からなる「別境」と呼ぶ(7p221)。自己中心的な心は、学びを得ようとする敬虔で純粋な想い「求」へと育てることができ、外の世界や心の世界と触れ合う「触」もあるがままの気づき「念」へと変化する(7p225)。すると、快や不快という感情に無自覚に反応することなく、懐深くあるがままに受け入れられるようになる(7p226)

20160706ブッダ.jpg 土台部に戒律があり、そのうえに禅定、さらにそのうえに智慧がある。つまり、戒律を守って行動を整え(7p232)、あるがままに現象を子細に観察して智慧を得る。この智慧を得ることによって、解脱が起こり、苦しみが滅し尽くされていく(7p233)。その結果、「ピティ(喜)」や「スッカ(楽)」が生じてくる(7p230)

 とはいえ、世界の一切が空であるという真理を頭でわかるだけでなく、身を持って体感したとしても、日常世界に戻らなければならない(2p121)。けれども、これはトランスパーソナルからパーソナルへの退行を意味してはいない。これは、ヒルマンやミンデルが重視する段階である(2p122)。そして、ウィルバーも、上昇だけでなく、下降のプロセスもかなり詳しく論じている(1p102)

 禅の悟りへの道を示した「十牛図」がある。ここでも、第八図の「人牛倶忘」で人も牛も消え去った完全なる「空」があり、絶対無を体験した後、第九図では、川の流れとその岸辺に花咲く木が描かれ、平凡な街への往還のプロセスが示されている(2p114)

悟りで育んだ心を慈悲として外に拡充していく

 プラユキ・ナラテボー氏は、こうして育てられた心は、さらに外側に拡充していくべきだと主張する。例えば、「慈悲」は、衆生慈しみ、幸せを与えようとする心、「メッター(慈)」と衆生の悩みや苦しみを取り除きたいという心、「カルナー(非)」からなるが(7p227)、こうした慈悲心の本当の出所は「智慧」にある。ナランボー氏は、サマタ瞑想の一種である「慈悲の瞑想」よりも「智慧」の方が、効果があり、逆に慈悲心が自ずから湧いてこない「智慧」は本物ではないと考える(7p228)

 一時期、流行した自己啓発セミナーは、心理学に基づく強力な方法を用いて参加者を一時的に興奮・感動した状態に導く。そのため、その場では大きく自分が変化したように感じる。けれども、現実には変化していない。セミナーでの感動体験が大きかっただけに現実生活でのギャップに苦しむ(7p184)。そこで再び実感を求めてセミナーへということでビジネスが成り立つことになる(7p185)。セミナーで条件付けられた場でしか自己実現が図れなければ、セミナーや道場でしか自分らしく生きられないという本末転倒的な状況になっていく(7p210)

 けれども、井筒俊彦名誉教授によれば、この段階の日常意識はかっての日常意識と同じではなく、分節と無分節とが同時に成立する(2p114)。いったん究極の真理を体験すれば、日々の何気ない出来事ひとつひとつにも魂を砕き、心を込めて生きられるようになる(1p122)。このため、この段階は「肯定道」と呼ばれる(2p121)。地に足がついたごく普通の日常生活をしながらも、自分を超えた「向こう」からの呼び声を聴きながら生きることができるようになるのである(2p122)

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【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ
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2016年07月09日

トランスパーソナル心理学入門C〜いま、ここを生きると死の恐怖は消える

死を意識して生きる

魂が喜ぶ時間をどれだけ持てるかが大切

 人生で何が取り返しがつかないものかを考えてみよう。マネーはたとえ失ったとしてもまた働けば増やせる。仕事で失敗して評価を落としたとしても、また努力すればそれは回復できる。けれども、人生で取り返しがつかないものがある。それは、時間である。マネーは人生の時間を豊かなものにするための手段にすぎない(5p178)

 本当の幸せを考えれば、限られた時間をどれだけ「魂が喜ぶ時間」にできるかが最も大切なことになる(5p178)。いま、どれだけマネーを儲けたかよりも、どれだけ多くの人たちを幸せにできたかに人生の価値があるというまっとうな価値観を持つ若者が増えているのは喜ばしい(5p188)

死ぬときに何を残したいのかを考えながら生きる

 末期癌のホリスティック医療に取り組む帯津良一(1936年〜)博士は、やすらかに死んでいく人と後悔しながら死んでいく人との違いについてこう述べている。

「自分の人生でやりべきこと、やりたいと思うことをやりきったと思える人は、とてもいい顔をしてやすらかに死を迎える」

20160709ross.jpg そして、エリザベス・キューブラー=ロス(Elisabeth Kübler-Ross, 1926〜2004年)博士も人が死の際に語る言葉は「ああっあれをしておけばよかった」という呟きだという(4p97〜98,8p143)

 こうしたことを踏まえ、諸富祥彦教授は「やりたいと思ったことをすぐ始めるひとは慎重さにかけると思われがちだ。けれども、いつかしたいという想いを先のばししているうちに、本当にしたいことをほとんどやらずじまいで終わってしまうことの方がよっぽど愚かな生き方であるとはいえないだろうか」(6p129)。「そのうちにやってみたいことがあれば前倒しでどんどんするしかない。また、伝えたい思いがあれば、いますぐ伝えるしかない。そして、一人の時間をつくり、自分が本当にしたいことはなにか。これをせずには死ねないと思うことは何かを考えることだ」とアドバイスする(4p202〜204)

 メキシコには骸骨の仮面を被って踊る「死者の日」という祭りがある(4p96)。この祭りに込められているのは「メメント・モリ(死を忘れるな)」(4p96, 7p170)「カルペ・ディエム(その日をつかめ、いまを楽しめ)」という意味である(4p96)

 上座仏教では、死の瞑想(モラナサティ)がある。代表的なものは、「九墓地観」で、死んだばかりの遺体が、変色、腐敗し、蛆が湧いて、骨や土になっていくまでの様子を9段階にわけて順々に観想していくものである。タイには、多数のエイズ患者を受け入れている「エイズ寺」があるが、そこでは、エイズで亡くなった人のホルマリン漬けの遺体が展示されている(7p173)

 死を自覚することには、人間精神を本質に立ち返らせる大きな力がある(7p171)。マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger,1889〜1976年)は「気づくために死を自覚せよ」と述べており、アップルのスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs, 1955〜2011年)も死を日々意識していた(7p170)。米国の宗教哲学者、ハーバード大学のパウル・ティリッヒ(Paul Johannes Tillich, 1886〜1965年)教授は、こう語っていた。

「明日、死す者のようにして生きよ」(4p98)

今一瞬を心を込めて生きる

 幸せになれる選択対象を手にできる人がごく少数に限られ、極度に予測不可能性が高いこのような時代に実現可能な希望に躍らせてはならない。こうした時代に長期的な人生展望を持つことは無益なばかりか危険ですらある。このような時代の中で、死の間際に「私は幸せだった」と心の底から思える人生を生きるには、本当の意味でクレバーでなければならない(4p38)

 そもそも、「真面目に頑張っていれば、人生はいつかいいことがあるはずだ」という思い込みは、人生はいつ想定外のことが突然起こるかわからないというリアルな事実を直視していないから成り立つ。

「こうなればよかった」と過去に思い描いた願望に逃避しても、「いつか、きっとこうなる」と未来に思い描く空想に逃げるのも止めるしかない。となれば、できることは、ただこの瞬間を心を込めて生きるしかない(4p196)

 キューブラー=ロス博士が死にゆく人を見つめてきたその経験から学んだ最大のことは「いま、この瞬間」に心を込めて本当に生きることだった。例えば、愛する人と一緒にいても、心を込めてその一瞬一瞬をすごしていなければ、本当に一緒にいたことにはならない。

 すなわち、無力な私たち人間にできることは、「今日一日が人生最後の日になるかもしれない」とそんな思いを胸に刻んで一瞬一瞬心を込めて生きることしかない(4p95,8p142)。とりあえず、あと1年、さしあたりあと1年と一年単位で生きのびていくしかない(4p40)

エゴが誕生し環境との切り離されると死の恐怖が湧いてくる

瞬間の「いま」が存在するだけで未来も過去も存在しない

13Ken Wilber.jpg 「永遠」という言葉は一般的には何億、何百億年と果てしなく続いていく非情に長い時間だとされている(1p109)。けれども、ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は、一遍(1239〜1289年)が「あらゆる瞬間は最後の瞬間であり、あらゆる瞬間は再生である」と語っているとして(p136)、永遠とは果てることのない時間ではなく、時間がないという自覚が永遠であると述べる(1p111)。確かに、仏教によれば「無常」とは瞬間瞬間の生滅で、ある意味では誕生と死である(7p172)

 現在の瞬間には始まりはない。同じ理由で、現在の瞬間に終わりもない。すなわち、現在の瞬間には、過去もなければ未来もない。時がないのである。そして、時がないものは永遠であろう。ウィルバーによれば、現在こそが唯一のリアリティであって、果てしなく続く時間という概念の方がある種の奇形なのである(1p111)

環境と自己が切り離されることで死の恐怖が生れる

 それでは、なぜ、「時間」という奇妙な概念は作り出されたのであろうか。ウィルバーによれば、強烈な時間感覚は、環境と身体とが切り離されたことによって生じた死の恐怖が創り出したものである(1p136)

 動物にも死はある。けれども、年老いたネコは来るべき死の恐怖にさいなまれているわけではない。静かに木の根元にうずくまり死んでいく。瀕死の駒鳥も柳の木にやすらかにとまり日没を見つめ、もはや光がみえなくなったとき目を閉じて静かに地面に落ちる。人間の死に際となんと違うことか(1p36)

articles_009_image1.jpg ウィルバーによれば、エゴが作り上げるあらゆる境界で、最も基本となるのは、自己と非自己との境界である。すなわち、自己と非自己との境界は最初に引かれた原初の境界で、エゴが最も明け渡したがらず、最後まで消え去さらないのは、この境界である(1p83〜84)

 そして、この原初の境界が発生すると、人は自分の身体と環境にアイデンティティをもたなくなり、自分が知覚する世界と一体ではなくなる。皮膚を境にして身体は自己であっても、環境は非自己となり、環境と対立した自分の身体だけにアイデンティティを持つようになる。すなわち、自分が孤立した有機体として生きているとイメージするようになり、身体と環境との対立が作り出される(1p132)

 そして、この原初の境界の発生によって、「統一意識」は孤立した自己の「個人の意識」となる。そして、「真の自己」が特定の身体の中にだけに閉じ込められているとイメージすると、その有機体の死の不安が頭から離れなくなる。死に直面するのは部分だけであって全体ではないのだが、自己が環境から切り離される瞬間に死の恐怖が意識の中に生じてくるのである(1p132〜135)
死の恐怖によってまず未来という時間が作り出された

 それでは、過去と未来とではどちらが先に生じたのであろうか。ウィルバーによれば、それは、未来である(1p137)。死とは「未来」がなくなる状況である(7p175)。死を受け入れるということとは、未来を持たなくなることを受け入れることに他ならない。逆に言えば、死を拒絶することとは、未来を持たずに生きることを拒絶することに他ならない。こうして、時間が最も貴重な持ち物となり、かつ、未来が唯一の目標となるのである(1p137)。けれども、未来とは思考が作り出すイメージにすぎない(7p175)
いま、ここを生きられれば死の恐怖は消える

 過去も現実には存在していないし、過去とは「記憶」にすぎない。けれども、前方に未来を求めれば、それとセットで後方には過去が登場することになる(1p139)。要するに、未来も過去も現在に境界の線を引かれた幻想の産物にすぎない(1p116)。すなわち、未来への心配も、過去への後悔も、思考の物語によって、「いまここ」で構築されつつある概念にすぎない(7p142)。そこで、ただ「いま、ここを生きる」ことに安住できれば(7p175)、死は問題ではなくなり、過去や未来の考えにとらわれることも少なくなり、良寛(1758〜1831年)の「死ぬときは死ぬがよろしき候」という境地になれる(7p176)

エゴが消滅し環境との統合されると慈悲のエネルギーが湧いてくる

空を体験する

「心身一如」の意識が達成されると、意識はさらにトランスパーソナルな領域へと入ってゆく。そして、究極の統一意識、宇宙との一体感の回復を目指すものがヴェーダンタや大乗仏教、道教、秘教的な回教、秘教的なユダヤ教、そして、秘教的なキリスト教ということになる(3p109〜110)
 ウィルバーは、トランスパーソナルなレベルの内部で、以下の三つのサブレベルを設定している。

 @マインド(心霊の段階)
 Aソウル(魂の段階、微細な段階)
 Bスピリット(コーサルの段階) (2p107)
20160707shunryu suzuki.jpg ウィルバーは『初心善心』で知られる鈴木俊隆(1905〜1971年)老師の下でかなり熱心に座禅を学んだ(2p91)。このこともあって、神秘体験や超常現象(体外離脱体験、ESP、透視、念力、テレパシー、過去生体験等)は一番下のレベルに位置づけられている(2p107)

 ウィルバーの関心はそれを突き抜けた東西の宗教の伝統で、空、無、ブラフマン、神等と呼ばれてきた絶対者との合一体験、さらに、それさえも消え去る「無境界」の状態、西田哲学でいう「絶対矛盾の自己同一」、般若心経で言う「色即是空」「空即是色」の世界にある(2p108)

エゴの構築のためのエネルギーが不必要になればそのエネルギーを慈悲にまわせる
 動物は身体的な痛みを恐れるが、人間はそれ以上に、心が傷つくことや自我の死を恐れている(7p177)。自我が苦しみのもとになるのは、認知され構築された自我イメージが執着の対象となり、その維持のために膨大なエネルギーが浪費されるからである(7p167〜168)。けれども、ヴィパッサナーでの洞察を深めていくと、「私」や「自我」と称されるものが、様々な感覚や認識作用から構成された概念にすぎないとの理解が深まる(7p140)。消耗的な心のアクションが次第に減り、過去の習慣パターンの奴隷にならずにすむようになっていく(7p134)。そして、自我への執着が緩んでくると、自我の消滅に脅えていた感情エネルギーや自我を維持するために投入されてきた行動エネルギーが浪費されなくなる。そして、生きのびるために必死でいる人間存在を慈しむ思いがわいてくる(7p140)

 ウィルバーは、神秘家たちが強調してやまない普遍的な慈悲は、トランスパーソナルな直感から生じるとして、その理由をこう説明する。
「環境と身体との境界が取り払われた超越的な自己となると、環境のなかの全対象を自分自身として扱い始める。すなわち、超個体レベルでわれわれが他を愛するのは、相手が自分を愛したり安心させてくれるからではなく、相手が自分自身だからである。自分の腕や足を世話するように周囲を思いやるようになるのは、世界とは自分の身体であり、また身体として扱わなければならないからなのである。キリストの第一の教えは、『自分自身を愛するように隣人を愛せ』ではなく『隣人を自分自身として愛せ』と言う意味なのである」(1p228)

観音菩薩はエゴから解放されたパーソナリティのシンボルである

 求めるものが得られない苦しみを仏教では「求不得苦(ぐふとっく)」という。この苦がはっきりと観ることができたとき、ある種の畏怖感とともに深い洞察智が生じる(7p219)。これを「サンヴェーガ(samvega)」と呼ぶ。そして、人間存在のかかえる根源的な切なさが得心でき、深い慈悲が生まれるとしている(7p219)

 2016010901.jpg自分の心の傷をごまかすことなくしっかりと見つめていると、他者の心の傷にも優しい気持ちになれる。そして、宮沢賢治のように世界全体が幸せにならない限りは私の幸せもありえないという心境になってくる(2p226)。こうして自我から解放され、理想のパフォーマンスを行うパーソナリティを象徴しているのが観音菩薩なのである(7p141)

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【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ
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2016年07月08日

トランスパーソナル心理学入門B〜人生のミッションを知るプロセス・ワーク

基本的な欲求が満たされなくても人は自己実現を目指す

13viktor.jpg マズローの理論からすれば、「自己実現」という上位の欲求は、生理的・安全的欲求が満たされたうえでのみ満たされるはずである。けれども、オーストリアの心理学者、ビクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905〜1997年)博士が、目にしたのは、悲惨な状況の中でも耐え抜いた人がいたことだった。フランクル博士は、「基本的な欲求が満たされなくても人は崇高に生きられるのではないか」と考え、それをマズローに問いかけてみた。マズローの答えはイエスだった(4)

すべて人は未来からの可能性の呼びかけに応えるために存在している

 「私の人生は何をやってもうまくいかない。ただの一度もいい思いをしたことがない。誰にも必要とされていないこんな人生は、生きるに値しないのではないか」

 こう思い悩む人は、こうした思考法を止め、自分のことを待っている誰か、自分のことを必要としている何かに目を向けてみるといい。とかく、人は人生の意味を問いかける。けれども、フランクル博士は、「人生」の方が人間に問いを発していることから、人生の意味を問いかける必要はないと考えた。これは、人生の意味についての立ち位置を180度転換するものである(5)

 フランクル博士によれば、この世には、かならずあなたを必要としている「何か」や「誰か」が存在している。そのつながりの中で人は生きている(5)。すなわち、どの人にも絶えず実現されることを待っている「可能性」が存在している。その可能性は、絶えず、今に先行して、未来から「可能性」を呼びかけている。この未来からの可能性からの呼びかけに応えるために、私たちは存在しているとも言えるし(3)、誰しもが、この人生からの呼びかけに応える責任を持っているとも言える。フランクル博士によれば、答えなければならないのは、人生からの問いなのである(5)

 そこで、空虚感におそわれる人に対して、フランクル博士は「未来にあなたを待っているものに目を向けよ」と示唆する。あなたに見出されるものを待っている「何か」を探せと外に目を開くことを促す(5)

実存的不安はトランスパーソナルへの発展の悩み

「どんなにあなたが絶望していても人生の方であなたに絶望することはない」

 フランクル博士のメッセージは数多くの絶望する人の魂を救ってきた(5)

 プレパーソナルなレベルでは、自分を殺してしまい自分の人生が無内容であると空虚感をいだくと述べた。けれども、健全な自我が確立されていたとしても、自分はあっても、あるべき「つながり」から切り離されてしまっているがために抱く空虚感もある。これは、自己発展の途上にある人がさらに成長していくための空虚感である(2p173)。パーソナルな自己実現の段階から、トランスパーソナルな高次の段階へと進むための苦しみといえる(2p175)。フランクル博士によれば、人生の意味を疑うことは、最も人間的な表現なのである(2p176)。そこで博士はこれを「実存的空虚感」と呼んだ(2p173)

 それでは、この実存的空虚さを乗り越えるにはどうしたらよいのだろうか。諸富祥彦教授によれば、方法は二つある。ひとつは、フリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844〜1900年)のように人生の無意味さを直視することである。世界には何の目的も終わりもなく、一切はただ永遠に意味もなく「永劫回帰」しているというニヒリズムを徹底することである。すると、哲学者、京都大学の西谷啓治(1900〜1990年)名誉教授の言う、すべてを肯定する地平が逆に開けてくる(2p176)

 もうひとつは、ひたすらこの世に生れてきた意味を求めていくことである。すると、エゴの働きが次第に弱まり、消え失せ、それと同時に自分ではない何かが自分の内側にあることに気づく(2p177)。古い自分であるエゴは死に、これまで自分であると思っていた自分が、「内なるいのちの働き」によって生かされている自分のほんの一部でしかないことに気づく。エゴが死んで無我になり、真の自己に目覚める。この「死と再生」ともいうべき深い自己変容体験の中から、本当の自分とは何かという答えを「向こう」から告げられるのである(2p178)

人生の出来事には意味がある〜ヒルマン博士の「魂のコード」

20160707James Hillman.jpg『魂のコード』の著者、米国の心理学者、ジェイムズ・ヒルマン(James Hillman, 1926〜2011年)博士は、子ども時代の心の傷によって人生が決定づけられると考える「トラウマ理論」を厳しく批判する(2p185)。トラウマ理論では、人生そのものが、安っぽい心理学的な物語に矮小化されてしまうからである。その代わりに、人生には理屈では説明できない「何か」があり、その運命の守護霊(ダイモーン)によって、自分がやらなければならないある道に呼び込まれて行くのだと運命の感覚の復権を説く(2p186)。ヒルマン博士は、日々の出来事には意味があるとして、人生の使命、摂理といった古い観念を蘇えらす(2p187)。そして、フランクル博士と同じように、毎日のささいな出来事に「向こうからの呼び声」を聴くことの大切さを強調する(2p183)

 どのような仕事であれ、たまたま与えられた仕事だとみなしていては心を込めてすることはできない。逆に、どんなささいな仕事であっても、そこに眼に見えない「ご縁」を感じることができれば、ひとつひとつの仕事に慈しみを感じて、丁寧に取り組むことができる(2p189)。自分の仕事を「天職」として受け取る感覚が育まれる(2p188)

 仕事と同じように人間関係や出会いも、自分の意図を超えた運命、ご縁の力が働いていると感じれば、様々な出会いがすべてかけがえなき慈しむべきものに思えてくる。

「たまたま適性があったからこの仕事に就いたのだ」とか「たまたま適齢期で条件があったから結婚したのだ」と割り切って生きていくと、心を込めて人生を生きて行くために必要なとても大切な何かを失ってしまう(2p190)

 ヒルマン博士の『魂の心理学』は単なる運命論ではない。人生には意図を超えた運命の力が働いているが、ほとんどの人はそれに気づかず、人生を粗末に扱う習慣が身に付いてしまっている。そこで、人生に働いている運命の力を思い出して、自覚的に生きよ、と説く(2p191)

シンクロニシティが続くとフローの人生を生きられる

06mihaly.jpg 自分の意図や努力を超えて働いている力を自覚することは、ハンガリー出身の米国の心理学者、クレアモント大学院大学のミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi, 1934年〜)教授の言う「フロー」の概念とも合致する(2p191)

 テレビをつけた瞬間に自分に重要なニュースが流れてくる。バス停に着いた途端にバスが到着する。コーヒーを飲みながら気になる人を思い浮かべていたら、自分の目の前にその人がいた。こうした偶然をシンクロニシティと呼ぶ(6p89)

 不思議なことだが、「人生」からの呼びかけに無心になって生きるとき、人生全体の隠れたミッションが顕在化していく。この流れに乗って生きていくとき、ミッションの実現に必要なものはすべて自ずから与えられはじめる。起こるべくしておきた偶然は、もはや偶然ではなく、「シンクロニシティ」であると言える。そして、人生の決定的な場面では、シンクロニシティが顔を出すことが多い。シンクロニシティが頻繁に生じ始めると、自分を超えた大きな流れが人生で働き始める。チクセントミハイは、教授はこの流れを「フロー」と名付けた(3)

フローの人生を生きていると人生への疑問も解消される

 自分の意志を超えた大きなフローが生じ始め、こうしたフローの中で生きているとき、適切な場所で適切なときに、適切なことをしているという感覚を抱く。マネーであれ、仕事のチャンスであれ、人生の流れを前進させるのに必要なものがちょうどよいタイミングで与えられる不可思議な出来事が頻発していく。また、心はウキウキしているが平静であり、自分自身を超えた偉大な何かとのつながりを感じ、人生は意味と目的に満たされ、生きる意味や目的への疑問はおのずから解消される(3)

 いま自分はこの人生を生きていて、共にいるべき人と共にいて、この人生で自分が行うべきことを行っているという感覚が持てるとき、私のことを必要としている誰かがいて、私のことを必要としている何かがあって、私はその何かや誰かとつながることができているという感覚を持てるとき、どれほど貧しく、どれほど孤独で、どれほどさみしく、どれほど健康を害していても、心の深いところで生きる意味を実感しつつ生きていける。すなわち、魂のミッション、生きる意味、精神の気高さという心の一番深いところで、生きる意味と使命感が満たされた生き方を得ることが大切なのである(4)。そうすれば、どのような挫折や失敗があっても幸せといえるギリギリの幸せが得られる(3)

 何やら新手の宗教のように思える(4)。けれども、心の深いところで満たされた人生を生きている人は、「私はなすべきことをなしている」という実感を抱いて、人生を意味あるものとして感じ生きていることが多い(2p192,4)。実際、諸富祥彦教授は、カウンセリングを通じて、そうした気づきに多く立ち会ってきた(5)

二つの選択肢〜すべての出来事には意味がある

 人間は驕慢な生き物である。何事もなく平穏な日々を過ごしているとますます驕慢となり、自己中心的になっていく。つらく苦しい悩ましいできごとを経験しなければ、自分を深く見つめて人生を変えていくことはできない(5)

13Mindell.jpg そこで、思い出すことすら辛い出来事や、慢性の病、障害や死といった否定的なことも含めて、「人生のすべての出来事には意味がある」、「ある種の必然性をもって、起こるべくして起こっている」とアーノルド・ミンデル(Arnold Mindell, 1940年〜)博士は考える(2p162,5)。それとしっかりとかかわることで私たちの魂は耕され人生は豊かになっていく(2p219)。なぜならば、すべてのできごとは、気づきと学び、自己成長の機会であって、「それに対してどう答えるのか」を迫ってきているからである(5)

 ここで、二つの選択枝がある。ひとつは人生からの「問いかけ」に耳を貸さず、心を閉ざし続け、これまでと同じパターン化された日々を繰り返していくことだ。結果として、何を学ぶこともなく人生に大きな変化も生じない(5)

 もうひとつは、人生で起きた辛く苦しい体験に正面に向き合い、「できごと」が自分に何を学ばせようとしているのかを丁寧に振り返り、自分を深く見つめることだ(5)

 もちろん、この未来の可能性に対して、どのように応えるべきかは本人の自由である。けれども、この呼びかけを満たせる「最善の答え」はひとつしかない。その意味で、人生は半分は自由であり、半分は決まっているとも言える(3)

人間は目的を持って生まれてくる

 人は偶然としか思えない出来事を通じて「運命の人」と出会ったり、自分の「天職」とも言える仕事に出会ったりする。そして、偶然の出会いを通じて知らず知らずのうちに「運命の道」へと誘われていく(2p164,6p164)

 実は、すべての人間は、この世で果たすべき「使命と課題」をもって産まれてきている(5)。この人生で果たすべき暗黙の「使命(ミッション)」を刻印されて、一人ひとりの「魂」はこの世に産まれてきている(バースディ・プロミス) (3,4,5)。逆に言えば、そのミッションを生きて、現実化し、使命を果たすために、人はこの世に産まれてきたのである(4)。そして、この自分の魂に刻み込まれたミッションを発見したとき、「ああ、これこそが、私が生きることになっていた人生だ」「このことをなすために、私はこの世に生まれて来たのだ」という感慨を覚えることが多い(2p165,3,5, 6p93)。自分の人生に課された使命を「暗黙の予感」として発見でき、これまで歩んできた道が運命の道であったことに気づく(5)

ミンデル博士のプロセスワーク

 この人生における大切なメッセージに気づくうえで最も優れた方法が、ミンデル博士の確立した『プロセス志向の心理学』である(2p193,3)。ミンデル博士によれば、人は誰も自分がどう生きればよいのかの深い心の知恵を持っている(6p118)。それが、ささやきの声、静かな沈黙の呼びかけ、サイレント・コーリングである(6p170)。そこで、博士も「センシェント」と呼ばれる繊細な感覚を重視する。この感覚があれば、何が本当に必要で、何が不必要かが見分けることができるようになっていく(3)

13Ken Wilber.jpg この宇宙のすべてはつながっている。一見するとバラバラに思えるものも、すべては究極的な一の顕れである(3)。ミンデル博士は、人生の流れや人生の方向性を作り出している源の力を人知を超えた「プロセス・マインド」だと考える(3,6p119)。ミンデル博士のものの見方には、老荘思想のタオや量子力学、アニミズム的な気配が漂う。そして、これをケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は「スピリット」と呼ぶ(3)

 普段目にしている現実の次元とは別に、それは、スピリットや内なるタオイストの賢人、仏性、慈悲、システムマインド等と多くの哲学や宗教で呼ばれてきたより深い次元、エッセンスの次元がある(3,6p119〜120,6p180)。それは、時空間に束縛されず、すべてを知っている深い知恵である(6p180)。米国の先住民やオーストラリアのアボリジニたち、とりわけ、シャーマンは、ミンデル博士が「プロセス・ワーク」で使う「心の魔法」を身に付けていたと言える(6p182)

魂が喜ぶ人生を生きることが幸せにつながる

 フランクル博士は、幸福は決して目標ではなく、結果にすぎないと述べているが(6p156)、本当の幸せを手に入れるためには、幸せを求めるのではなく、何か自分が大切にしたいものを大事にしたり、自分の人生で成し遂げるべき「使命」に取り組んだり、愛する人のために尽くしたりすることなのである。そして、我を忘れて何か夢中になっているときに、幸せだと感じられる状態がやってくる(2p158)

 自己を超えた生命の流れがある。この偶然のつながりから、様々なシンクロニシティが産まれてくる。人生で劇的に大きな流れを創りだし、成功や幸せを手にできる人は、このシンクロニシティに対して開かれた心の姿勢を持っている人が少なくない。大切なことは、人との出会い、つながり、ご縁を大切にすることなのである。幸せになれる人は、自分にあまり関心を注がない。逆説的だが、この世界を信じて愛することが、巡り巡って真の幸福を与えることにつながる(3)

 日々魂が喜ぶ毎日、悔いのない人生を生きるためには、収入よりも、ただそれをしているだけで魂が喜ぶ仕事をする。あるいは、勤務時間が一定で残業等がなく、残りの時間でできるだけ魂が喜ぶことのために時間を使うしかない(2p150)。もちろん、魂が喜ぶ仕事は人によって違う。とはいえ、魂が喜ぶ仕事に就くことは、間違いなく、多くのお金を稼いだり、高い社会的地位に就くよりも大切なことなのである(2p151)

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【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ
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2016年07月07日

トランスパーソナル心理学入門A〜身体と心を調和させるフォーカシング

シャドウに向き合うことがエゴを健全なアイデンティティへと広げる身体の感覚を取り戻す

 『創世記』によれば、アダムがしたことは、モノに名前を付ける、すなわち、あるグループとグループの間に境界線を引くことであった(1p38)。生と死、善と悪、愛と憎悪、自己と他者。私たちは境界の世界に住んでいる。そのために争いと対立の世界に住んでいる。私たちが抱えている問題の大半は、「境界」とそれが生み出す対立の問題だといえる(1p42)

 対立は、ゲシュタルトの知覚理論によってよりはっきりする。ゲシュタルト心理学によれば、私たちは対照をなす背景との関係性なくして、モノや出来事を知覚できない。例えば、夜空に星が見えるのも、個別の星が見えているからではなく、暗い背景に明るい光が認識されるからである。一方の闇なくして他方の光を知覚することは絶対にできない。同じく、快楽も苦痛なくして自覚できない。快楽と苦痛が交互にやってくるように思えるのもそのためである。互いのコントラストと交代をとおしてしか、互いの存在を確認できない(1p47〜49)

死の恐怖が身体と心(エゴ)の分離を生んだ

 20160707Alexander lowen.jpgペルソナからシャドウが投影されるように、「有機体」の中に境界が引かれ、身体は「非自己」として投影されてしまっている。米国の精神科医アレクサンダー・ローエン(Alexander Lowen, 1910〜2008年)博士は、この状態を霊的領域と身体とをブロック(封鎖)していると表現する(1p182)

 肉体が罪と同義語になるのはそのためだ。確かに、身体は苦痛の源である。けれども、同時に快楽の源でもある(1p185)。病による衰弱、癌の苦しみを感じるのは身体だが、同時に、エロティックなエクスタシーから、美食の味、日没の美しさを感じるのも身体の諸感覚である(1p20)。だから、エゴは苦痛もないかわりに喜びもないという大きな代償を支払っていることになる(1p185)

13Ken Wilber.jpg それでは、なぜ、身体と心は分離したのだろうか。ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)によれば、この身体と心(エゴ)の分離を産んだのは、死の恐怖である。人は、自分の肉体が必ず死ぬことを知っている。そこで、エゴは死をイメージさせる身体を押しやって、自分の観念を中心にアイデンティティを確立し、エゴとしてだけ生きのびようとする(1p137)。こうして、身体と心に境界が発生し、身体はエゴである「騎手」にコントロールされる「馬」の役割に格下げされてしまう(1p140)

 こうして多くの人は、身体と心との間に無意識に深い境界線を引いて、身体感覚を喪失している。健全なエゴがペルソナとシャドウに切り離されているように、誰も「頭」だけが私となっていて、「身体」は「私」に所有される「私のモノ」となっていて「私」ではなくなっている(1p181)。頭の中の自己のイメージとそれに関連した知的・感情的なプロセスにアイデンティティを抱いている(1p21)

 投影していたシャドウに向き合い、それを再び所有しなおせば、貧困なペルソナから健全なエゴへとアイデンティティを広げることができる。ペルソナとシャドウとの分裂が癒され、境界が消え失せれば、より大きく安定したアイデンティティの感覚を味わえる。閉塞したアパートから心地よい家に移るようなものである。そして、心地よい家からさらに広々とした邸宅に移るためには、身体を再び所有しなおせばよい(1p180)

身体の感覚を取り戻す

 そこで、ウィルバーは、身体と心とが完全に統合され調和している「心身一如」の状態を表すものとして「ケンタウロス」の状態と呼ぶ。ケンタウロスとは半身半馬の伝説的な動物で、騎手は自ら馬を監督するではなく馬と一体化しているからである(1p140)

 エゴは現状が幸せではないと感じて、モノで身のまわりを取り囲むことで喜びを産みだそうとする。けれども、これは、喜びや幸せは外から呼び寄せられるという幻想を強めるだけである。そのうえ、エゴが意識的に対応できることはせいぜい二つか三つにすぎない(1p202)

 例えば、エゴは自分がコントロール可能な随意行動だけに自分を同一化させ、それ以外の自発的な不随意な行動は非自己的なものとしている。例えば、「わたしは腕を動かす」とは言う。けれども「わたしは心臓を脈打たせている」「わたしは血液を循環させている」「わたしは食べ物を消化させている」「わたしは髪の毛を伸ばしている」とは言わない。つまり、身体が、無意識に行なっている消化、代謝、成長・発達等の不付随な活動を自分とは認めない(1p184)。一方、身体はエゴの助けも借りずに、消化作用、神経伝達等、何百万ものプロセスをいまこの瞬間にも調整している(1p202)

 そこで、ケンタウロスのレベルに立ち返り、心身一如を取り戻すことは、身体そのものから喜びが湧き出ていることに気づくことになる(1p202)

自我の確立や自己実現を超えた実存的自己の心理学

 従来の心理学は、人間の心の成長を自我の確立(フロイト)や自己実現(人間性心理学)までしか描いてこなかった(2p98)。個人の幸せや自己実現だけを追求してきた(2p226)

 確かに、人生にエゴ的な意味を見出すことは、ある時点までは適切なことである。けれども、例えば、健全なエゴを発達させ、車や家を手に入れ、仕事で認められ、モノを買い集めた後にはどうなるのだろうか。外に物質的な欲望を追求することに魅力がなくなったとき、待っているものがただ死だけであることが明らかになったとき、どうすればよいのであろうか(1p205〜206)

 仏教では「マナ」、日本語の「慢」は煩悩のひとつとされている。プライドやセルフ・エスティームは低次元の段階では持つことが望ましいが(7p209)、最終的には卒業する必要がある(7p210)

 人生はいつ突然に最後の日がやってくるのかどうかわからない。もし、明日死ぬとしたら今日の朝ごはんが最後の朝ごはんとなるのである(6p141)。いくらお金を稼いでも、いくら高い社会的地位に就いたとしても、そんなものはあの世には持っていけない(6p152)。とすれば、今日が人生の最後の日になるかもしれない。そんな思いを胸に刻んで一瞬を心を込めて生きるしかない(6p142)

 20160707E. E. Cummings.jpg人生の真の意味を見出すことは死を受け入れることであろう。米国の詩人、画家、随筆家、E・E・カミングス(Edward Estlin Cummings, 1894〜1962年)は、エゴを超えたところには、「すること」が減り、「ただ在ること」が増えることがあると指摘する。そして、意味はモノを所有することではなく、友人や社会との関係性、自分自身の存在という光輝く内なるフローに見出される(1p205〜206)

20160707rollo may.jpg すなわち、ケンタウロスのレベルを復活させることは、アブラハム・マズロー(Abraham Maslow, 1908〜1970年)の「自己実現」、あるいは、米国の心理学者、ハーバード大学のロロ・メイ(Rollo May, 1909〜1994年)教授の言う『人生の意味』が関わってくる(1p204)。エゴだけの狭いアイデンティティを手放し、ケンタウロスのレベル、エゴと身体を同一化し、心身が統一されたアイデンティティを確立することは、実存的自己の発見を意味する(1p186,206)。 

人間性心理学がトランスパーソナル心理学のベースとなった

 トランスパーソナル心理学が誕生する以前には、心理学には三つの流れがあった。第一は、行動主義心理学、第二はフロイトの精神分析から生れた心理学(2p62)、第三が、この二つを批判する形で産まれてきた人間性心理学(実存心理学・現象学的心理学)である(2p63)

 マズローも晩年には「自己実現欲求」のさらに先に自己実現を超えた心理学「自己超越欲求」がある考えていた(2p66,7p210)。このマズローの呼びかけを受け、カリフォルニアのパロアルトのグループが、自我を超えた体験の研究を始める。そして、1960年代後半にマズローとメリーランド精神医療研究センターのスタニスラフ・グロフ(Stanislav Grof, 1931年〜)研究部長とが話し合った結果、この新たな心理学に「トランスパーソナル」という名前が付けられる(2p66)

 それ以前にはトランスパーソナルという言葉は、1905年にウィリアム・ジェイムズが使い始め、1916年にはカール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875〜1961年)が「集合無意識」の意味で用いている。また、イタリアの精神科医、ロベルト・アサジョーリ(Roberto Assagioli, 1888〜1974年)もハイヤー・セルフという言葉をかなり古くから使っていた(2p67)

 1969 年、マズロー、グロフを中心に、オーストリアの心理学者、ビクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905〜1997年)博士、ロベルト・アサジョーリ、アーサー・ケストラー(Arthur Koestler,1905〜1983年)、イギリスの哲学者、アラン・ワッツ(Alan Watts,1915〜1973年)らが賛同し、トランスパーソナル心理学会が創設された。そして、その翌年、1970年にマズローは心臓発作で急逝している。その死が一年早かったならばトランスパーソナル心理学はこの世に誕生しなかったかもしれない。おそらく、トランスパーソナル心理学会の創設がマズローのいのちに与えられた最後の使命だったのであろう(2p68)

 13Carl Rogers.jpgそして、トランスパーソナル心理学の発展には、アブラハム・マズローだけでなく、カール・ロジャーズ(Carl Ransom Rogers, 1902〜1987年)博士のクライエント中心療法、ユージン・T・ジェンドリン(Eugene T. Gendlin, 1926年〜)博士のフォーカシング、フレデリック・パールズ(Frederick Perls, 1893〜1970年)博士のゲシュタルト療法、フランクル博士のロゴセラピー等が大きく貢献する(2p44,2p63)

エゴと身体の分裂を回復するフォーカシング

 ウィルバーの自己成長論の意義は、人間の自己成長を最後のトランスパーソナルなレベルまで描き切ったことにある(2p115)。パーソナルからトランスパーソナルへのこの段階は、自分の人生を生きられるようになった人が、さらに進んでいく段階で、トランスパーソナル心理学がこれまで最も強調してきた段階である(2p120)。そして、エゴと身体に分裂したエゴ意識を身体も含めた人間として全体性の回復を目指すのが「フォーカシング」等の「人間性心理学」で(3p109〜110)、自分を離れたところから見る「眼」を養ううえで最も優れた方法が「フォーカシング」である(2p154)

 フォーカシングの専門家、関西学院大学の池見陽教授のイメージ図に意識のスペクトルを書き込んでみたものを作ってみた。

ウィルバー.jpg カール・ロジャーズは「自分が自分を受容的に耳を傾けられるとき、自分自身になれるとき、私はよりよく生きることができる」と述べ、自分の心の声を他の誰かに聞いてもらう『傾聴』が大事だとしていたが(5)、フォーカシングは、ロジャースとその弟子であるユージン・T・ジェンドリン(Eugene T. Gendlin, 1926年〜)博士が、カウンセリングの中から作り上げた方法である。カウンセリングが成功する場合と失敗する場合との違いを研究した結果、自分の内側のまだ言葉になる以前の漠然とした感覚にふれ、そこから言葉を語っているときに、カウンセリングは成功していた。そこで、このエッセンスを取り出し体系化・技法化したのである(2p166)

 フォーカシングは向こうからやってくるものに心を開き、それを受動的に受け止める(2p160)。ジェンドリン博士は、この人生からの呼びかけを「暗黙への生起(Occuring into implying)」と呼ぶ(3)。このため、ネガティブな自己イメージをポジティブな自己イメージへと変える「認知療法」とは正反対度の態度で(2p160)、正も邪も、明も暗も、等しく認め、そのまま受け入れ、離れたところから自分自身を見る「眼」、高次元の自分を育む(2p170)

20160707Ann Weiser Cornell.jpg『やさしいフォーカシング』(星雲社)の著者、アン・ワイザー・コーネル(Ann Weiser Cornell,1949年〜)博士は、すべてをあるがままに認め、許し受け入れる自分へのまなざしを「より大きな私」と呼び、それは慈悲に満ちたブッダのようなものだと語る(2p168)

見えない世界からの呼びかけに耳を澄ます

 フォーカシングでは、何かを伝えたがっている内なる私がいると考える。それが、「あいまいで重たい感じ」として感じられる。これを「フェルト・センス」と呼ぶ(2p157)。とかく、「小さなことにくよくよするな」と自分の内側にある漠然とした違和感を無視しがちである。けれども、フォーカシングからすれば、それは気づく必要のある大切なメッセージをゴミ箱に捨ててしまうような粗雑な生き方なのである(2p159)

 一人静かな時間を持ち、人生全体からの呼びかけをからだ全体で受け止めてみよう。私たちを超えた何かの力。私を超えた向こうからの呼び声。妙に気になる夢。人間関係のトラブル。なぜか思い出す映画の一場面。たまたまつけたテレビドラマの登場人物が語る言葉。気づく必要のある大切なメッセージは様々な形でやってくる。沈黙すると、ひっそりと届けられる呼びかけの声、「サイレント・コーリング」に気づく(3)

13gendlin.jpg この人生や状況からの呼びかけに対して心を閉ざし、自分自身に関心を向けていくと、それは自己愛や自己執着につながる。昨今のスピリチュアル・ブームが危険なのは、こうした新たな自己執着や虚しさを産むからである(3)

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【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ

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2016年07月06日

トランスパーソナル心理学入門@〜神秘体験よりも健全な自我の確立を

日本社会はなぜ生きづらいのか

選択と自己責任を強いる冷たい社会

 現代は自分探しの時代だと言われる。学校においても会社においても、個性を発揮する自分らしさが尊重されている。けれども、これほどまでに自分探しや個性が求められることそのものが、現代社会の病理といえる(5)

 そもそも複雑化した現在社会の中で、自分らしく生きることそのものが難しい(5)。しかも、人生の選択肢の幅はますます広くなっている。仕事や結婚をはじめとして、自分がどのような人生を歩むのかが絶えず問われ続けている。そして、人生の幸や不幸のすべてはこの「自分の選択の結果」だと誰もが思い込まされている(4)

 すなわち、いま不幸なのは自分の選択の誤りのためだ、結局、自分が悪いのだという思いを抱かざるを得ない自己責任社会なのである。そして、この自己責任社会の背景にあるのは、冷たい新自由主義的な考え方である(4)

他者との能力比較で評価される自分は歯車でしかない

 また、日本社会が求める「自分らしさ」や「個性」は、絶えず他者と比較することによって評価されるものである。けれども、学歴や収入等、他者との比較によって生きていれば、どこまで自分を高めたところで、自分は常に自分と同じ能力を持つ他の誰かと交換可能な存在でしかない。そして、多くの人たちが、日本社会とは、効率性がすべてに優先され、自分は交換可能なただの歯車のような存在でしかないことを実感している(5)

日本の個を殺す「つながり主義」が人々を閉塞させている

 『戦争論』において、小林よりのり氏は「公共性から切り離された個人主義はエゴイズムと変わりなく、日本人は倫理も美意識も失った」と個を殺した滅私的なつながり、「公偏重」の立場を主張してみせた(2p55,2p57)。小林氏の指摘は、ある意味で正鵠を射ている。けれども、限定され、閉ざされた「つながり至上主義」ほど、危険なものはない(2p57)

 日本では、親の過干渉でアダルトチルドレンが生れる等、個を窒息させる「つながり主義」が根強い(2p55)。とりわけ地方では「個を殺したつながり」を良しとする風潮が残っている(2p58)。これに対して、誰もが極端に孤独を恐れるあまり、まわりにあわせることに過敏になっている(2p31)。「いつも元気で明るくでいよ」という親の過剰な要求が子どもたちを苦しめている(2p33)

日本は誰もが自分を殺し匿名の誰かを演じる閉塞社会である

 すなわち、日本は「普通」から外れることに大きな不安を覚える社会である。大半の日本人は人並み教、「ふつう教」の信者である。そこで、「普通」から外れることに対して多くの人が自己否定感を募らさざるをえない。これは異様な社会といえる(4)

 このため、誰もが相手や世間から受け入れられる「匿名の誰か」という仮面を演じるようになっている。その背景にあるのは、集団から排除される不安、孤独に対する不安である(5)。自分の人生は自分が主人公のはずである。けれども、他者に服従したり、迎合したりして、他の誰かのために生きていると虚しさを覚えてくる(2p173)。他の誰かからの愛を失うことを恐れてひたすら相手に迎合し続けていくと、自分の人生が自分のものではなくなっていく。これは、日本人が陥りがちな自己喪失の典型的なパターンなのである(2p126)

 世間の価値観や物事の見方にあわせることで、自分を失う人のことをマルティン・ハイデガー(Martin Heidegger,1889〜1976年)は『ダス・マン(頽落した人)』と呼んだ。モノやマネーはあっても夢はなく、上辺の人間関係はあっても深いつながりはない。こうした閉塞感に包まれた時代を私たちは生きている(5)

個を賛美する相対主義にはニヒリズムが伴う

 そこで、他者の期待に応え、他者を喜ばせる「偽の自分」を演じるのを止め、自分が自分の主人公になる必要がある(2p123,3p46)。こうした日本の状況に対して、首都大学東京の宮台真司教授は、ポストモダンの相対主義を提唱し(2p52)、バラバラの個人主義を重視する(2p55)。これは、「腐ったつながり」を断ち切る意味では、大きな意味がある(2p58)。けれども、つながりを欠いた個人主義は抑圧的な人間関係や集団への埋没から個を解放することに役立っても、その先がない(2p59)

 日本では1980年代にポストモダンが流行した。ポストモダンは、フリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844〜1900年)の「パースペクティビズム(遠近法主義・観点依存性)」を源流とし、誰にとっても普遍的な真理はないと考える(2p51)。けれども、ポストモダンは大きな無力感を与える思想でもある(2p52)。宮台教授は「人生には意味もクソもない」と主張するが、そこでは個人の成長や真善美といった価値の一切が否定され、この世界は極めて荒涼としたフラットランドに化してしまう(2p90)。「私はここにいてもいなくてもかまわない」という相対主義には虚しさの感覚が伴う(2p215)

「個が生きる」つながりを目指すトランスパーソナル心理学

現代社会の問題の根底には物質主義と個人主義がある

 13Ken Wilber.jpgこうした相対主義に対して、トランスパーソナル心理学、とりわけ、ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は、壮大なスケールで「生と死の物語」を提示してみせる(2p85,2p90)

 トランスパーソナル心理学は、現代社会の様々な問題は、近代的なバラバラ思考の産物である物質主義と個人主義のゆきづまりによってもたらされたと考える(2p51)。「個を超えたつながり」を回復するしか、現代人の歪んだ生き方の根本からの改革は成し遂げられないと考える(2p225)。このため、トランスパーソナル心理学は、つながりを重視する(2p51, 2p224)

 けれども、そのつながりは、カルト集団のような閉鎖的・排他的なつながりでなく、開かれたつながりでなければならないし、ある種の全体主義的な抑圧的なつながりではなく、個が生きるつながりでなければならない(2p225)。すなわち、トランスパーソナル心理学が目指す、個が個として生きながら、同時につながることもできる「個が生きるつながり」が必要なのである(2p59)

個人主義が克服されたとき社会問題と環境問題も解決する

 そして、個人の心の問題である「私の癒し」を「世界の癒し」、「地球の癒し」と不可分のものとみなす(2p224)。ひとり一人を生きづらくしているもの、社会に歪みをもたらしているもの、地球を破滅に追い込んでいるもの。それは、同じものだからである。こうした、私はどう生きるべきかという自己探求の問題と、この世界はどこに向かうべきかという社会変革の問題と、傷つけた地球生命をどう癒すかというエコロジーの問題がひとつに溶けあう(2p227)

意識のスペクトルでレベルに応じた癒しを整理する

カウンセリングはペルソナとシャドウに分離した心を健全化する

 ケン・ウィルバーは若干24歳で書き上げた『意識のスペクトル』で、人間の意識を「ペルソナ意識」、「エゴ(自我)意識」、「ケンタウロス(心身一如)意識」、「究極の統一意識」という4レベルからなる階層構造として捉えて見せた。さらに、意識を階層構造化することによって、心理カウンセリングから霊的・宗教的な諸伝統が、各意識のレベルに応じて互いに相補的な関係にあることを整理してみせた。図をご覧いただきたい(3p108)
articles_009_image1.jpg 
 ウィルバーによれば、シャドウを意識化することで、ペルソナとシャドウに分裂した意識を健全なエゴ(自我)意識へと統合するのが「カウンセリング」である(3p109〜110)

 エゴが最も憎むのは自分である。すなわち、頭の中で勝手に理想とする「ペルソナ」を作り出し、自分が受け入れられない部分を非自己としてシャドウの側に追いやっていく。残されるのは、痩せ細って、ますます貧困化するペルソナである(1p153)。このため、自分が見たくなかったシャドウに向き合い、それを再び所有しなおせば、エゴはより健全なエゴとなり、ペルソナとシャドウとの分裂が癒され、自分で引いたその境界が消え失せれば、より広く安定したアイデンティティ感覚が味わえる(1p180)

西洋心理学と合致する、個としての自分の健全なエゴを確立する仏教の教え

 すなわち、きちんとした自己を確立することが、トランスパーソナル心理学の自己成長の第一段階であり(2p127)、それは、カール・ロジャーズ(Carl Ransom Rogers, 1902〜1987年)らの人間性心理学が強調する段階である(2p123)
 20160706ブッダ.jpgそして、興味深いことに、仏教はただ「我を捨てよ」と主張しているわけではない。自我を苦しみの原因とはせず、有効に再活用するため、ブッダは、法の実践を助ける7要素「七具足(善友性、戒具足、志欲具足、我具足、見具足、不放免具足、如理作意具足)」のひとつとして、「我具足(atta-sampada)」を説いている。文字通り「我を備えよ」という教えである(7p165)。また、極端な自己嫌悪や自我否定はある種のとらわれである。そこで、ブッダは、健全な人間関係を築くためには、しっかりとした自我を確立することが重要であるとみなしていた(7p166)

 これは西洋心理学でいう「自己確立」や「自己実現」に相当する(7p166)。そして、この健全な自我のまとまりが失われたときの認知モードが、総合失調症や境界性障害、離人症だと言える(7p162)。すなわち、自我確立を重要だとみなす西洋心理学とブッダの教えは矛盾しないのである(7p166)

ネガティブ思考は習慣で人は不幸になることを自分から願っている

 それでは、健全な自我を確立するためにはどうすればよいのだろうか。

 幸せになれるかどうかは、めぐってきたチャンスを捉まえる心構えがあるかどうかに尽きる(6p23)。「どうせ私は」と世界に自分を閉ざしてしまえばチャンスがめぐってきてもそれをうまくつかめない。この世界は自分の味方だという実感が持てなければもって産まれた自分の才能も十分に生かせない(2p149)
 けれども、口では「幸せになりたい」のに、「自分は不幸である」という殻に閉じこもっている人が多いのはなぜであろうか。それは、幸せになるのが怖く、今のままでいる方が楽だからである(6p31)。幸せになると本気で決意しても失敗すれば傷つく。傷つくくらいならば、今の不幸のままでいい。いっときの幸せを手に入れてもそれが長続きするかどうかわからない。それならば最初から幸せを手に入れなくてもいいと考えてしまうのである(6p32)

 16James Allen.jpgイギリスの哲学者ジェームズ・アレン(James Allen, 1864〜1912年)は「人間の心は庭のようなもので、思いは種子のようなものだ」と述べた(6p23)。何を考えるかがもたらす影響は大きい。昔の日本人も「言葉には物事を変える力がある」ことに気づき、これを「言霊」と呼んでいた(6p24)。それでは、なぜ言霊が機能するのであろうか。人間の脳にはいつも用いている「言葉」を頭の中で勝手に再生する「自動思考」という機能がある。ネガティブな言葉を用いる習慣がついていると、無意識でも自動的に「どうせ・・・〜できない」というネガティブな言葉が出てきてしまうのである(6p33)
 そして、人間の脳には、いつも考えていることを自動再生する「自動思考」という働きがある。このため、ネガティブな思考は意識してやめない限りずっと続いてしまう(6p33)。 深い心の傷を抱えた人は、自分の人生における最悪の出来事を何度も繰り返してしまい、不幸になってしまう人がいる。それは、客観的な過去のつらい事実ではなく、自分が作り出した物語を自分で確認したがっているからなのである(2p137,2p139)

マインドフルネスを活用したハコミセラピー

20160706Ron Kurtz.jpg このトラウマから解放するセラピーの一つに、ネーティブ・アメリカンのホピ族の言葉で「あなたは誰か」を意味する「ハコミ」という言葉から産まれた「ハコミセラピー」がある。創始者のロン・クルツ(Ron Kurtz)博士のワークショップではマインドフルネスを活用する(2p142)

 例えば、多くの人は「〜ができない」と考えがちだが、これを「〜しない」と言いかえることによって、「〜ができない」と思い込んでいたのは、したくないからしていなかっただけにすぎないという事実に直面する(2p133)。すべての行為は自分が選んでいるのだ、という主体性の感覚を取り戻せる(2p134)

いま、ここを全力で生きてみる〜ゲシュタルト療法

 「今のままの自分」でいることは楽である。そこで、人は、変わられない理由、いまのようにしか生きられない理由を自分に対して言い訳をする(6p40)。いつまでも不幸にとどまり、人生を変えられない人は、自分の不幸を「過去」と「他人」のせいにすることが多い。けれども、過去も他人も変えることはできない。変えることができるのは、「いま」と「自分」だけである。自分の不幸の原因を過去や他人のせいにしていることが、人生の流れを淀ませ停滞させている最大の障害物なのだから、このブロックを解除しない限り、いい人生の流れをつくりだすことは難しい(6p45)

16Fritz Perls.jpg 1960年代に米国で活躍したカウンセラー、フレデリック・パールズ(Frederick Perls, 1893〜1970年)博士は「過去への捉われと未来への空想を口にすることが、いまの自分を変えずにいるために張り巡らした最大のバリアーだ」として、過去や未来に逃避するのではなく、「いま、ここを生きる」ためのゲシュタルト療法を産み出し(6p42)、『ゲシュタルトの祈り』という詩を作っている。
 私はあなたの期待に応えるために、この世に産まれてきたわけではない

 あなたも、私の期待に応えるために、この世に生まれてきたわけではない
 あなたはあなた。私は私。
 もし、ふたりが出会うことがあれば、それはそれで素晴らしいこと
 もし、ふたりがふれあうことがなくても、それはそれでいたしかたのないこと(5,6p44)
 あなたは、他の誰とも違うかけがえのない存在である。そして、私も他の誰かと交換不可能なかけがえのない存在である(5)。過去への捉われや未来への空想、他人への責任転嫁を止めよ。他人に期待に応えることも止めよ。そこからしか自分の人生は始まらない。なればこそ、「私は私のことをして、あなたはあなたのことをする」とパールズは唱える(6p47)

神秘体験よりも健全な自己の確立が大切

プレパーソナルとトランスパーソナルな意識状態の区別が大切

 ここで、重要なことは、ウィルバーが、「プレパーソナル」というレベルを設け、これを「トランスパーソナル」と明確に区別したことである(2p99)

 ウィルバーは『アートマン・プロジェクト』(1980年)において、ゲーテやシェリングに由来するロマン主義に立ち、「乳幼児は神と一体化した天国状態にある」と書こうとしていた(2p99)。確かに禅においては「悟りとは赤ん坊のようになることだ」と表現され、聖書でも「幼な児のようにならなければ天国に入ることはできない」と書かれている(2p99, 3p114)。けれども、個としての「自分(エゴ)」が確立される以前の「プレパーソナル」な自他が未分化な幼児的意識状態の段階へと退行していくことと、個が確立されたうえで、さらにそれを超えていく「トランスパーソナル」な段階、悟りの状態とを同一視してよいのであろうか。『アートマン・プロジェクト』の執筆中に、この問題に直面したウィルバーは、「プレとトランスの混同」という概念を提起する(3p115)
 確かに、赤ん坊の未分化な意識状態も、成長の極限である「無境界」の意識状態も、「非エゴ的体験」である点では変わらないし、同一視されやすい(2p99,3p116)。けれども、悩んだ末に「両者には違いがある」とウィルバーは結論づけた(2p100)

20160617-CharlesT.Tart.jpg このウィルバーの区別には大きな意義がある。例えば、正常な人間の神秘体験も精神病患者の体験も「非自我的・非合理的な体験」である点からすれば違いはない。そして、フロイトは、非自我的・非合理的な体験をすべて「プレパーソナル」な領域だと見なす。このため、フロイトによれば、ブッダやキリストでさえプレパーソナルな幼稚な状態に貶められてしまう。逆に、ユングは幼児的な神話的思考や古代のイメージといったプレパーソナルな状態を過度に賛美してトランスパーソナルと同一視するという過ちを犯しているのである(2p101)
 ただ「頭を捨てよ」と理性的な判断を放棄させ、個人の成長を妨げる「似非スピリチュアリティ」と、理性を保持したまま「超合理」の段階を目指すトランスパーソナルな意識状態は、区別しなければならないと、ウィルバーは警告する(3p116)

 他者に盲目的に尽くしたり、集団に埋没するつながりは、「個の確立」以前という意味で「プレパーソナル」なつながりといえる(2p58)。下手をすればオウム真理教のようになりかねない(2p57)。プラユキ・ナラテボー氏によれば、ブッダは「カーラーマ経」で「師が言ったからといって鵜呑みにしてはならない」とグルイズムを明確に否定している。理にかなった思考「如理作意(にょりさい)」や「中道」を重視して、盲目的な行動や極端な苦行を戒めていたのである(7p70)

超常体験よりもきちんとした自己確立が大切

 20160706Arthur hastings.jpgカリフォルニア大学デービス校のチャールズ・タート(Charles T. Tart,1937年〜)教授やパロ・アルト(Palo Alto)のソフィア大学のアーサー・へスティング(Arthur Claude Hastings, 1935〜2014年)教授らの研究によって、通常の意識とは異なる「変性意識状態」があることがわかってきた(2p72)。けれども、どれだけ素晴らしい超越的な神秘体験をワークショップ等でしたとしても、日常生活はなにも変わらないことが多い(2p74)。そして、オウム真理教の信者のように、神秘的な体験によって自分の宗教的な格が上がってしまったと思い込んでしまいがちである(7p101)。そこで、トランスパーソナル心理学では、個の確立という人格の基礎ができなければその人は人間的に成長しないし(2p127)、日々の生活の中で、個を超えた力をどう生かし、心を豊かにしていくかのほうが神秘体験よりもはるかに重要だと考える(2p74)

 ブッダも瞑想中に生じてくる「光の体験」や「歓喜体験」等(7p137)、10の特殊の体験についてふれ、これを「ヴィパサヌーッパキレー(瞑想随煩悩)」と称して、とらわれてはならないと述べていた(7p138)
 すなわち、自分や周囲の人の苦しみが軽減され、楽が増えている。「抜苦与楽(ばっくよらく)」な状態であれば正しい方向に進んでみるとみなしてよいが(7p101)、たとえ、神秘体験をしていても周囲の人の苦しみが増えているのであれば、それは正しい方向には進んでいないのである(7p102)

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【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ
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2016年07月04日

A贈与の生物学〜国家を作らなかった人々の論理

権力なき首長

 新石器時代には、政治があったとしても、呪術師や占い師たちのご神託で物事が決められる非合理きわまりないものにちがいない。それが、これまでのイメージだった。けれども、人類学の研究が進んだ結果、意外なほど「民主的」なやり方で政治が行われて来たことがわかってきた(3p138)

 20160704lowie robert.jpg例えば、米国の人類学者、カリフォルニア大学バークレー校のロバート・ハリー・ローウィー(Robert Harry Lowie, 1883〜1957年)教授は、南北のネーティブ・アメリカン社会を元に、「首長(titular)」の三つの特徴を以下のように整理してみせたが(3p136)、そこにはまさに根源的な「政治」の姿が表れている(3p137)

交渉と調整の人

 首長の役目は、部族内や他部族ともめ事がおきたときに、緊張をやわらげ、戦争や殺人といった最悪の事態に突入することを防ぐことにある(3p137)。ただし、「威信」はあっても、政治権力は持たなかった。したがって、気長にネゴシエーションを行いながら、緊張を取り除き、平和をもたらすため、自分の利害を離れ客観的な立場に立てる「正しい心」の持ち主であることが求められた(3p138)。首長の権威を支えているのは「理性」といえる(3p200)

物惜しみしない

 20160704PierreClastres.jpgケチであることは自分を否定することに等しいため、首長は、物惜しみしなかった(3p137)。フランスの人類学者、ピエール・クラストル(Pierre Clastres, 1934〜1977年)の『国家に抗する社会』によれば、誰よりも所有物が少なく見栄えのしない装身具しかもっていない者が首長である。求めるものをすべて与えてしまうのが首長の役割だからである。レヴィ=ストロースも『悲しき熱帯』において「首長の人気の程度では、気前のよさが大きな役割を果たす」と述べている(3p141)。首長は、「貪欲」に対立する作法、文化を身に付けていたといえる(3p142)

弁舌がさわやか

 ためになる話や教訓となる話を聞きたいという人々の欲求には根深いものがある(3p144)。このため、多くの部族の首長には、毎朝や日暮れ時に、何かためになる話をして人々を喜ばせる義務があった。とはいえ、人々が飽きてしまわないように話さなければならない。このため、首長は誰よりも弁舌が巧みで、かつ、うまく踊り歌えなければならなかった(3p143)。踊りと歌で人々に深い感銘を与えた後、おもむろに正しい生き方を諭す。これはまさに文化的な行為といえる(3p144)。なお、現代でも若者たちに最も影響力を持っているのがミュージシャンであることはこれと無関係ではない(3p145)

戦争時には戦争のリーダーが登場する

 けれども、首長の交渉や調停がいつも成功するとは限らない。その場合には、首長とは別に戦時のリーダーが選ばれ、男たちを率いて戦争にでかけることになった。ここでリーダーに求められる能力は勇気である。したがって、二つのリーダーは完全に分離されていた(3p139)

熊楠と折口は対称性の思考を模索していた

20160704Orikuchi.jpg 南方熊楠(1867〜1941年)は傑出した対称性の思考能力を持っていた(7p91)。熊楠が粘菌の研究に没頭したのも、動物と植物、生と死との間の高次元領域を発見することを求めたからであった(7p4,7p93)。また、民俗学者の折口信夫(1887〜1953年)も、表面的には違って見えるものの間に共通性や同質性を見出し、ひとつのものとして捉える能力に長けていた。これもまさに「対称性の思考」といえる(7p90)

幸福という言葉は異界を表す言葉から作られた

 例えば、幸福という言葉は明治時代に英語の「hapiness」やフランス語の「bonheur」を翻訳するため、それまでのやまと言葉にあった「さち」と中国語由来の「福」を組み合わせ作られた(6p176,7p208)

 折口信夫によれば「さち」は、新石器時代の狩猟社会使われていた言葉である。「さ」は古代語で境界を表し「ち」は霊力を意味する(6p177,7p211)。すなわち、森の守護神である熊が境界を超えて人間に贈与する狩猟の豊かさを意味していた(7p211)

 「福神」も、折口信夫の言う、海の彼方にある他界「常世」が関係していた(6p177)。記紀や万葉集、風土記に見られる「常世」は、この世とは時空間の尺度が違い、生命力が溢れた豊穣な世界だとされてきたが(6p208)、オーストラリアのアボリジニの言う「ドリームタイム」に類似する(6p178)。「福神」は、そうした空間や死霊の世界と深くつながり、無限の富や生命を貯蔵し、人間世界に豊かな富をもたらす神と考えられて来た(7p213)。ここには対称性の原理が働いている(7p211)。とりわけ、「さち」は、空間的に対称性の原理を作動させている(7p212)。したがって、人間の幸せは対称性と切り離しては考えられないのである(7p214)

冬は霊力が高まる聖なる時間である

 折口信夫は、霊魂や神の概念がどのようにして誕生したのかを探る中で「古代」という概念を提示する(3p164)。折口は「たま」が極めて古い時代から生き残って来た言葉だと考える。そして、長く寒い「ふゆ」に「たま」が増えると考えた(3p165)。日本の冬は聖なる時間であり、霊力が増える意味を持っていた(3p172)

20160704FranzBoas.jpg 折口が独創的な「霊魂論」を着想したヒントには(3p26)、北西インディアン部族、クワキトゥル族、トリンギット族、ツィムシアン族が行っていた祭りについて、コロンビア大学のフランツ・ボアズ(Franz Boas, 1858〜1942年)教授の研究がある(3p168)

無文字社会のイニシエーションと怪物

 国家を持たない無文字社会では、イニシエーションの儀式が盛んに行われて来た。若者がこれを通過してはじめて大人社会に迎え入れられることになる(7p45)。共同体の長老たちが厳重に保管し、資格ありと認められた若者が、厳しいイニシエーションの儀式を通過した末にようやく体験できる「特別な知恵」が最も大切にされてきた(7p138)

 例えば、北米北西海岸に住む先住民、クワキトゥル族は、夏には協同で漁撈や狩猟採集を行い、首長がリーダーとなっているが(3p170)、冬になると家族中心の社会構造が一変し、人々は「アザラシ組」「ワタリガラス組」といった秘密結社に属し、霊力を発動させるための祭り「ツェツァイカ」を行うのである(3p172)

 うち、最も権威ある秘密結社、アザラシ組の一員になるためには、「ハマツァ(人食い)」の儀式を経験する。その中で志願者は「パブバクアラヌフスィイェ」という強力な人食いの怪物に食べられる体験をしなければならない(3p174,7p46)

20160704Kwakwakawakwgirl.jpg 人類の古いイニシエーションの儀式の主題は、真っ暗の小屋や洞窟に若者が長時間放置し、これから怪物に喰われるのだぞと脅されるというものである。そして、闇の中で若者を待ち受けている怪物は、ほとんどが半人・半獣の怪物なのである(p130)

 夏は狩猟の季節であり、人間が動物を殺す。けれども、冬にはこの関係が逆転し、森を住処とする自然の王「パブバクアラヌフスィイェ」に人間が食べられるのである(3p175)

自らを犠牲にすることで幸をもたらすアリクイ

 中央アフリカのバンツー系の一部族「レレ族」は、動物/人間、女/男、左/右と二項論理によって自分たちの生きる世界を構築しているが(7p122)、1970年代に人類学者、ノースウェスタン大学のメアリー・ダグラス(Mary Douglas, 1921〜2007年)教授は、男たちだけが参加するある特別な儀式ではこの秩序が崩壊することを報告している(7p123)

 20160704douglas.jpg若者が長老からレレ族伝承の「特別の知恵」を授けられるイニシエーションの儀式では、全員でアリクイを食べる(7p124)。そして、彼らの二項論理では分類できない「怪物」、アリクイを食べることで女性たちが妊娠し、狩人は獲物をたくさんしとめられると考える(7p125)。さらに、アリクイは自らの内部から世界に幸せをもたらす能力を解放しようとして、自ら進んで死を選んだと解釈される。怪物的な動物は聖者のような利他心をもって自分を犠牲に捧げようとしていると考えることによって、アリストテレス型の論理が解体され(7p126)、生と死の対立を超えた高次元な世界が追求されているのである(7p127)

人間に変身するシャチやヤギ

 クワキゥトゥル族は、人間とシャチとが入れ替る「トランスフォーム・マスク」を作っているが、こうした仮面は北西海岸のインディアンやイヌイットに至るまで広範な地域で発見されている。東京帝国大学の金田一京助(1882〜1971年)教授の「山の思考」によれば、明治の東北盛岡でも春田打ちの舞に出てくる芸人が、美しい女性の田の神と醜い山の神の顔を交互に入れ替えるマスクで芸を演じていた(7p42)

 北米北西海岸に居住するトンプソン・インディアンの神話「狩人と山羊」では、山羊も人間となる(7p26)。そこには、山羊と人間を切り離す非対称の原理と、山羊と人間との間に絆を作り出す「対称性の原理」のバランスとがよく考え抜かれている(7p30)

冬には逆に人間が食べられる〜対称性の論理でバランスをとる

ポイエーシス(贈与)からテクネー(開発)へ

 例えば、ドイツの哲学者、マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889〜1976年)は、近代技術の本質を明らかにするため、古代ギリシア人がテクノロジーについて、どのように考えていたのかに着目した。テクノロジーの語源は、ギリシア語の「テクネー」だが、この言葉は「ポイエーシス」と対比的な意味を持っていた(3p121)

 すなわち、ギリシア人は、自然に花が咲くように、自然が隠し持っていた豊かなものを自発的に持ち出す「贈与」を「ポイエーシス」と呼ぶ一方、岩山を砕いて鉄鉱石を取り出したり、鉄鉱石を熱して純度が高い鉄を作る等、自然の中に隠れている豊かなものを挑発的に引き出す行為のことを「テクネー」と呼んでいた。そして、ハイデガーは、近代社会では技術が「テクネー」としての性格を強め、自 然を開発の対象として見るようになってしまったことに危機感を抱いていた(3p121)

 確かに、人間は技術を手にすることによって動物よりも圧倒的に有利な立場に立てたし、自然の富も無尽蔵に手に入れられるように見える。けれども、人間が動物に対して「非対称的」な関係を打ち立ててしまえば、いずれ非道な仕打ちに怒った自然が、人間に豊かな富を贈与しなくなるに違いない。先住民たちは、そう考えていた(3p176)

夏には人間が獣を食べ、冬には獣に人間が食べられる

 夏の狩猟の季節には、世俗的な季節を指導する首長は、法律家であり、道徳家であり、理性と弁舌をもって社会に平和をもたらすため、威信を保っていた(3p182)。そして、こうした社会においては、シャーマンはいつも社会の周辺部にいて、権力の中心には近づけないようにされていた(3p135)。ただし、冬の祭りの時には、戦士、シャーマン、秘密結社のリーダーが中心となった(3p183)。戦争も祭りとよく似た行為である(3p180)。ただし、伝統社会での戦争は、失われたバランスを取り戻すことが目的であり、報復が完了すればそれで終わり、大量虐殺や全面戦争には至らなかった(3p182)

 要するに、二つの異なる原理をバランスさせることで、無文字社会、国家を持たない社会は3万年以上も比較的つつましくこの地球上で生きて来た(7p118)。人間と動物との間には対称性の思考があるため、狩猟民は乱獲を起こさなかったのである(7p154)

 1920年代には、フランツ・ボアズ教授による北米西海岸の先住民の姿が紹介されていた時代だった。彼らの生業も日本の縄文時代も、いずれも、狩猟と漁撈に依存し、熊とサケが重要な動物となっていた点で類似していた(3p155)。このため、宮沢賢治(1896〜1933年)は『氷河鼠の毛皮』(大正12年、1923年)という作品で、節度をもって生きることの大切さを格調高く童話で描いて見せている。

20160704賢治2.jpg『おい、熊ども。きさまらのしたことは尤もだ。けれどもなおれたちだつて仕方ない。生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから今度はゆるして呉くれ』

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【引用文献】
(1) 中沢新一『宗教入門』(1993)マドラ出版
(2) 中沢新一『人類最古の哲学・カイエ・ソバージュ1』 (2002)講談社選書メチエ
(3) 中沢新一『熊から王へ・カイエ・ソバージュ2』 (2002)講談社選書メチエ
(4) 中沢新一『愛と経済のロゴス・カイエ・ソバージュ3』 (2003)講談社選書メチエ
(5) 中沢新一『神の発明・カイエ・ソバージュ4』 (2003)講談社選書メチエ
(6) 中沢新一・河合隼雄『仏教が好き』(2003)朝日新聞社
(7) 中沢新一『対称性人類学・カイエ・ソバージュ5』(2004)講談社選書メチエ
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2016年07月03日

贈与の生物学@ 脳神経の配線変化による人類の誕生

はじめに

 先住民、シャーマニズム、脳神経科学、仏教、慈悲、脱成長経済、贈与といったキーワードが気になっている。これが、中沢新一明治大学特任教授が2001年から2003年にかけて行った講義をベースとした『カイエ・ソバージュ』シリーズのテーマとなっていることを知った。脱成長経済の鍵となる贈与経済は、脳神経科学や慈悲、仏教思想とどのように絡んでくるのだろうか。ついては、中沢氏の著作の内容をここで再整理しておきたい。

ユーラシアには中石器時代から続く神話が残されている

 ケルト文明の伝承が色濃く残るフランスのブルターニュやイギリスのウェールズ地方とアジアには、「燕石」についての瓜ふたつの神話が残されている(2p40)。この事実に着目したのは南方熊楠(1867〜1941年)で(2p41)。「燕石」は日本では9世紀に書かれた『竹取物語』に登場するが(2p48)、柳田國男(1875〜1962年)によれば、燕の古い名称は「ツチハミクロメ(土喰黒女)」であり、燕は闇と湿気、すなわち、死の領域にかかわる動物なのである(2p77)

 また、世界最古のシンデレラの物語は9世紀に中国の『酉陽雑俎』に記録されたもので(2p133)、この事実を発見したのも南方熊楠である(2p132)

 ユーラシア大陸の両端に類似した神話があることは、中石器時代に共有されていた思考が残っているからではないだろうか(2p41)

 日本の『古事記』や『日本書記』は8世紀にある政治的な意図をもって編纂されたものだが、その中には、中石器時代や新石器時代の文化に属する驚くほど古い神話が保存されている。これは世界の文明の中でも類例をみない(2p11)

環太平洋には国家を作らなかった人々の文化圏がある

 中国西南部の雲南地方には、イ族、ナシ族、リース族等、多くの少数民族が居住する。現在は山岳地帯に居住しているが、以前は、揚子江に近い平原部で生活していたらしく、縄文人ともかかわりが深い(3p150)。例えば、上述した最古のシンデレラの物語は、唐末期に南中国の少数民族「荘族」の伝承を記録したものらしい(2p133)

20160703map2.jpg 中国では漢民族によって国家が作られるが(3p150)、中沢特任教授は、中国南西部から、日本の東北と北海道、サハリン島、アムール川流域、北米西海岸、そして、南米にまで国家を作ろうとはしなかった環太平洋の人々の文化が辿れると主張する(3p151)

 北海道とサハリンにはアイヌ、サハリンの北方には、ウィルタやギリヤークがおり、オホーツ海に面したアムール川流域には、オロチやウリチ等の狩猟民がいる(3p27)。さらに、北方にはコリャークやチュクチがおり(3p28)、カナダではバンクーバー島を中心に、トリンギット族、ハイダ族、クワキウトゥル族、トィムシアン、サリッシュ族等が居住している(3p28,3p154)

 もちろん、こうした社会が平等であったわけではない。富は蓄積され、貴族、平民、戦争で負けて捕虜になった奴隷と社会の階層化は生じていた(3p160)。けれども、王や国家が出現するあらゆる条件が整っているにも関わらず、彼らは、王や国家を作ることを拒否していた。このことから、中沢特任教授は、社会が発展進化するにつれて、首長が王になり、国家が誕生するわけではないと考える(3p159,5p17)

3万年前にシベリアから移動し、1万年前にアメリカに進出

20160703map1.jpg ホモ・サピエンスは、約10万年前にアフリカを出発し、ヨーロッパやオーストラリア大陸には4万年前、シベリアを超えてバイカル湖周辺には3万数千年前に出現した(7p74)。そして、シベリアからアメリカ大陸への移住は大きく三波にわたってなされた(3p66)

 第一波として、バイカル湖の東のほとりに住んでいた「古モンゴロイド」が、マンモスを追って今から1万年前にベーリング海峡をわたり、ローレンタイドとコルディエラ氷床の間を抜けて中央平原地帯へと進んだ(3p67,3p157)

 移住の第二波は、やはりバイカル湖周辺に居住していたが、その後に、アムール川流域にかなり長期間滞在する中で、独自の文化を身に付けた「北西海岸インディアン」たちである(3p158)

 さらに、南米大陸にたどりついた集団は、アンデス山麓にしばらく滞在した後、あるグループは最南端を目指して南下し、別のグループはオリノコ川流域にそって北上を続け太平洋に到達した。そして、もうひとつのグループはアマゾン川流域の森林地帯に散会していった(5p26)

3万年前に最古の哲学、神話が登場した

 地球上の各地では、いまから1万年前に農業が始まり、動物が家畜化される。これを「新石器革命」と呼ぶ(2p13)。けれども、中沢特任教授は、上部石器時代、3万数千年前に、ホモ・サピエンスの大脳組織に飛躍的な変化が起きたことが重要であると考える(2p12,7p2,7p24)。世界中に残されている神話的な思考の痕跡を探ってみると、ある深いレベルで働いている一貫性のある「論理」が存在していることがわかる(7p14)。これをクロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908〜2009年)にならって「人類最古の哲学」と呼ぼう(2p20,7p14)。すなわち、この脳組織の変化によって、中石器時代に人類は最初の「哲学」を作り出す(2p13)。そして、人類が文字を作り出したのは「神話」を語り始めてから2万年以上も後のことなのである(2p17)

ネアンデルタールとホモ・サピエンスの違いは無意識にある

 ネアンデルタール人は、高度な技術的才能を持ち優れた石器を作り出した。間違いなく言語も話していた(7p67)。ネアンデルタール人は妊娠期間が1年近くもあった(7p65)。そして、ネアンデルタールは、子ども時代が非常に短く、3歳でも新人の成人並の脳を持っていた(7p64)。けれども、ネアンデルタール人の脳は言語的認識を行う部分、社会的認識を行う部分がバラバラに別れて発達し、それぞれが独立して作業をしており、その間のスムーズな連携網は発達していなかったらしい(2p12,5p57)。けれども、象徴的思考、メタファーの能力が欠如していた(3p78,7p69)

 一方、ホモ・サピエンスでは、脳内の結合組織が横断的につながれ、これまでなかった流動的知性が発達する(3p78,5p57)。このことで、人類は「記号」ではなく「意味」として物事を理解できるようになり、そこから「言語」もいまある形へと組織化される(3p78)

 あらゆる言語は、異なる領域を重ねて圧縮する「隠喩(パラディグマ軸)」と異なる領域をずらす「換喩(シンタグマ軸)」からできている(3p78,5p58)。言語は人間の象徴だとされるが、より正確にいえば、言語を可能としている比喩能力、そして、それを可能としている流動的知性の働きこそが人間の証なのである(3p78)。この比喩的思考能力によって、言葉で表現する世界と現実とは必ずしも一致しなくてもよくなり、現実から自由な思考が可能となる。このため、人類は、言葉をしゃべり、歌を歌い、神話という最初の哲学を作り出し、複雑な社会を作り出すことが可能となった(3p58)

 カナダのユーコン川に住むアタパスカン族の神話は、最も古く、コリャーク、チュクチ族等の古モンゴロイドの間でも知られているのと同様の内容を持つ(3p66)。それは、人間が熊になるという神話である(3p74)。ネアンデルタールは、人間は人間、熊は熊と認識していたが、ホモ・サピエンスのように人間が熊になるという思考はできなかった(3p76)

統合失調症は無意識が生で表れた症状

 レヴィ=ストロースはことあるごとに「神話は無意識の行う思考である」と語っているが(7p59)、象徴的思考には、圧縮や置き換えによって意味を横断的につなぎあわせていく流動的な知性活動が不可欠である。それは、豊かな無意識が必要である(p68)。そして、フロイトによれば、「無意識」は、ホモ・サピエンスは妊娠期間が短く、未熟なままに子どもが産まれてくるという「未熟さ」のため発達する(7p65)。「夢」は「無意識」が語る言葉と言われるが、夢は、イメージを圧縮する隠喩とイメージをずらす換喩からできている。「無意識は言語のように構造化されている」とジャック・ラカンが語ったのはそのためなのである(3p58)。すなわち、人類とは初めて無意識を持ったヒトであると定義できる(7p76)

 20160703Blanco.jpgフロイトは、無意識の活動として圧縮や情動の混乱、置き換え等をあげたが(7p59)、チリの精神科医イグナシオ・マッテ・ブランコ(Ignacio Matte Blanco, 1908〜1995年)は『無限集合としての無意識−バイロジックの試み』(1975)で、カオスのように見える総合失調症の背後には、フロイトが無意識の特徴としてあげたのと完全に一致する論理があることを見出す。このことから、ブランコは、統合失調症とは、無意識活動が「生の形」で表面に浮上した現象であると主張する(7p53)

無意識は個を認識しない

 この神話的思考を動かしている最も基本的な思考プロセスは、現在の科学的思考とまったく同じ「二項論理」であり(7p15,7p24)、それ以来、人類の知的能力は進歩していない(7p24)。けれども、神話と科学には大きな違いがある。科学は二項論理を用いてアリストテレス型の論理を働かせる(7p25)。うち、最も重要なのがAという命題があり、非Aという命題があるとき、Aと非Aとは両立しえないという「矛盾律」である(7p25)。

 けれども、無意識も神話と同じくアリストテレスの論理に従わない。アリストテレスの論理は「個」を認識することから出発する(7p53)。けれども、無意識は「個」には関心を示さず、「個」を日本国民や人類のように一般化して扱おうとする。これを哲学者、京都大学の田邊元(1885〜1962年)名誉教授は「種の論理」と呼ぶ(7p54)。すなわち、フロイトが見出した無意識では自己と他者との区別をせず、個を認識しない(7p164)

無意識は非対称の関係性を対称的に扱う

 無意識は非対称の関係を対称的に扱おうとする。これをブランコは「対称の原理」と呼ぶ(7p54)。そして、時間は消失し、部分と全体との差異もなくなる(7p55)。例えば、統合失調症の患者は情動に障害があるが、ブランコによれば、それは、非対称の関係にある愛と憎しみが同質の情動として扱われてしまうためなのである(7p56)

対称性原理の復興が必要

 神話的思考では「対称性の論理」が働いていたが(7p15)、近代以降の科学や哲学は、「非対称の原理」によって成り立ち、対称性の論理を極力排除しようとする(7p32,7p15)。形而上学、資本主義の経済活動、国家権力のすべてが非対称性の論理と関係している。それが、無意識の働きに抑圧や歪みをもたらしている(7p119)

 そこで、神話の対称性の論理を復活させることには今日大きな意義がある。交換が贈与となり、言語は詩となり、人間が宇宙の一部にすぎない倫理的思考が生命を取り戻すからである(7p15)

 とはいえ、現代人がもはや神話の思考に戻ることは不可能である(7p119)。「野生の思考」だけでこの状況に立ち向かうことはできない(7p147)。したがって、流動的知性=無意識の中から出現する新たな智、「対称性人類学」を作り出して行くしかない(7p120)。「対称性人類学」とは抑圧されていない無意識をできるだけ純粋な形で取り出そうとする試みなのである(7p146)

北米西海岸の先住民の図はこのサイトから
ホモ・サピエンスの移動図はこのサイトから
マッテ・ブランコの画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) 中沢新一『宗教入門』(1993)マドラ出版
(2) 中沢新一『人類最古の哲学・カイエ・ソバージュ1』 (2002)講談社選書メチエ
(3) 中沢新一『熊から王へ・カイエ・ソバージュ2』 (2002)講談社選書メチエ
(4) 中沢新一『愛と経済のロゴス・カイエ・ソバージュ3』 (2003)講談社選書メチエ
(5) 中沢新一『神の発明・カイエ・ソバージュ4』 (2003)講談社選書メチエ
(6) 中沢新一・河合隼雄『仏教が好き』(2003)朝日新聞社
(7) 中沢新一『対称性人類学・カイエ・ソバージュ5』(2004)講談社選書メチエ
posted by la semilla de la fortuna at 12:42| Comment(0) | 脳と神経科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする