スピリチュアル・レボリューションとトランスパーソナル心理学


けれども、ニューエイジ運動には、チャネリング等怪しげなものが含まれている(2p84)。そこで、ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は、ニューエイジはナルシスティックな自己中心主義に陥っていると批判する(2p85)。こうした中、最も良質で信頼できるアカデミックな部分を支えてきたのがトランスパーソナル心理学と言える(2p84)。
ただし、トランスパーソナル心理学は最初から確固たる学問領域を確立するというよりも、従来の心理学を超えた様々な「超常体験」への人々の探究心があり、それに答えて産まれたという面がある(2p70)。
例えば、トランスパーソナル心理学の誕生には、カリフォルニアのエサレン研究所を中心に展開されたヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントの影響も大きい(2p69)。また、既成のキリスト教に反発した多くの米国の若者たちは東洋宗教にオルタナティブを求め、禅、ヨーガ、チベット仏教、テーラワーダ仏教、イスラム神秘主義がファッションのように流行していた。同時にメキシコのヤキ族のシャーマン、ドン・ファンの教えを紹介したカルロス・カスタネダの著作が圧倒的な人気を得て、先住民のシャーマニズムへの関心も高まっていた(2p71)。
魂を心理学位置づけ自己進化のビジョンを描く
「何のために私はこの世に生まれて来たのか」
こうした問いかけは、心理学ではなく、哲学や宗教の問いかけであるとされてきた。けれども、この人生の究極の問いかけに正面から初めて向き合ったのがトランスパーソナル心理学である(2p11)。従来の心理学とトランスパーソナル心理学の最大の違いは、心理学の枠内に明確にスピリチュアリティ(魂)と呼べる次元を中心に据えたことにある(2p78)。そして、いま、WHOも健康にスピリチュアルを含めている(2p81)。
水平にも垂直にもつながる壮大なビジョン
トランスパーソナル心理学はつながりを重視する。ただし、「トランス」には垂直次元を超越するという意味と、水平次元での横切るという二つの意味がある。トランスパーソナル心理学の「個を超えて」は、とかく、自己の深層無意識を突き抜けて真実の自己につながるという垂直次元に超えていくイメージがあるが、これは誤解である。大自然とのつながりなど水平次元のつながりも関わる(2p46〜47)。

心身一如を取り戻すことは、いまをフローで生きることにつながる
エゴが時間の中に住み、利益を求めて未来へと首を伸ばし、過去の損失を嘆いているのに対して、ケンタウロスは常にいまのフローの中に住んでいる。未来に要求することも、過去にしがみつくこともなく、永遠のいまの贈り物に充足感を見出している(1p203)。
エゴが消滅するとき、死の恐怖は消滅する
真理を探究していくプロセスでは、どこまでも登っていくことから「上昇の道」と言われる。また、他の一切を否定し、ひたすら真理を求めていくことから、『臨済録』では「仏に会ったらその仏を殺せ」と説かれ『否定道』とも言われる(2p121)。そして、この自己探求における決定的な体験は、同時に死生観をもひっくり返す(2p112)。
ウィルバーによれば、普通の人は、ペルソナ、エゴ、ケンタウロスのレベルで存在している。このため、個としての自己が永遠に生き続けることを心から願う。けれども、残念ながらその身体は不死ではなく、死ぬ運命にある(1p230)。
「私が生きている」「私が命を持っている」と考えるならば、「私」とは、結局のところは、いつかは死んでしまう存在でしかない(2p112)。
けれども、「いのちの働き」がまずあって、そのいのちが「私という形をとっている」と考えれば、「私という形」は肉体の死とともに消え去るにしても、私を私たらしめているものは、まさに不生不滅であり、いつまでもあることになる(2p113)。
事実、ウィルバーによれば、分離した自己は幻想である。したがって、分離した自己の死も幻想なのである。となると、分離した自己がなくなれば、死の恐怖もなくなることになる(1p136)。この肉体に包まれた私は、いつか死んで消えゆくとしても、いのちの輝きそのものは永遠に存在し続ける。本当の自分は死なず、ただ本来の姿、空に還っていくだけである(2p112)。最も、輪廻転生していくのはエゴではなく、シャンカラ(Shankara,700年頃〜750年頃)が言うように、唯一転生するのは超越した自己なのだが、トランスパーソナルな「体験」には不死という直感が伴う(1p230)。つまり、観念的にではなく「体験」としてそれに目覚めれば、この世に生まれてきた意味、私たちの死生観をひっくり返すことになる(2p112)。

命は四つの存在で輪廻転生する
プラユキ・ナラテボー氏によれば、タイの葬式には、日本のような深刻さがない。それは、「死」を今生における終着地点ではあるとはいえ、同時に来世に向けての新たな出発地点だと考えるからである(7p172)。
仏教思想では、誕生から死、輪廻転生までのプロセスを同じひとつの「いのち」がとる四つの存在のあり方として捉える。母体から誕生するのが「生有」、この世の人生が「本有」、その後の死が「死有」で、肉体から離れたいのちが次に別の肉体の形をとって生れ変わるまでが「中有(バルド)」である。この考え方を京都大学大学院の西平直(1957年〜)教授は「円環的ライフサイクル」と呼ぶ(1p104)。
再び日常生活に戻る
ブッダの教説をまとめた初期仏教の論蔵(アビダルマ)では、未訓練の凡夫の心を「遍在するする心の作用」として「思、作意、触、受、想」の五要素からなる「遍行」と呼ぶ。そして、ある程度のトレーニングを経て、この要素が変化した心の作用は「求、勝解、念、定、慧」の五要素からなる「別境」と呼ぶ(7p221)。自己中心的な心は、学びを得ようとする敬虔で純粋な想い「求」へと育てることができ、外の世界や心の世界と触れ合う「触」もあるがままの気づき「念」へと変化する(7p225)。すると、快や不快という感情に無自覚に反応することなく、懐深くあるがままに受け入れられるようになる(7p226)。

とはいえ、世界の一切が空であるという真理を頭でわかるだけでなく、身を持って体感したとしても、日常世界に戻らなければならない(2p121)。けれども、これはトランスパーソナルからパーソナルへの退行を意味してはいない。これは、ヒルマンやミンデルが重視する段階である(2p122)。そして、ウィルバーも、上昇だけでなく、下降のプロセスもかなり詳しく論じている(1p102)。
禅の悟りへの道を示した「十牛図」がある。ここでも、第八図の「人牛倶忘」で人も牛も消え去った完全なる「空」があり、絶対無を体験した後、第九図では、川の流れとその岸辺に花咲く木が描かれ、平凡な街への往還のプロセスが示されている(2p114)。
悟りで育んだ心を慈悲として外に拡充していく
プラユキ・ナラテボー氏は、こうして育てられた心は、さらに外側に拡充していくべきだと主張する。例えば、「慈悲」は、衆生慈しみ、幸せを与えようとする心、「メッター(慈)」と衆生の悩みや苦しみを取り除きたいという心、「カルナー(非)」からなるが(7p227)、こうした慈悲心の本当の出所は「智慧」にある。ナランボー氏は、サマタ瞑想の一種である「慈悲の瞑想」よりも「智慧」の方が、効果があり、逆に慈悲心が自ずから湧いてこない「智慧」は本物ではないと考える(7p228)。
一時期、流行した自己啓発セミナーは、心理学に基づく強力な方法を用いて参加者を一時的に興奮・感動した状態に導く。そのため、その場では大きく自分が変化したように感じる。けれども、現実には変化していない。セミナーでの感動体験が大きかっただけに現実生活でのギャップに苦しむ(7p184)。そこで再び実感を求めてセミナーへということでビジネスが成り立つことになる(7p185)。セミナーで条件付けられた場でしか自己実現が図れなければ、セミナーや道場でしか自分らしく生きられないという本末転倒的な状況になっていく(7p210)。
けれども、井筒俊彦名誉教授によれば、この段階の日常意識はかっての日常意識と同じではなく、分節と無分節とが同時に成立する(2p114)。いったん究極の真理を体験すれば、日々の何気ない出来事ひとつひとつにも魂を砕き、心を込めて生きられるようになる(1p122)。このため、この段階は「肯定道」と呼ばれる(2p121)。地に足がついたごく普通の日常生活をしながらも、自分を超えた「向こう」からの呼び声を聴きながら生きることができるようになるのである(2p122)。
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【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ