改正2015年7月7日
はじめに
ニュー・アース・シリーズでは、エックハルト・トール(Eckhhart Tolle, 1948年〜)の「いま」を生きる重要性を紹介してきた。
心は過去によって条件づけられている。罪悪感、後悔、怒り、不満、悲しみ、恨み等の許せない心は、「いま」が欠落し、過去の記憶から産まれている。内側の小さな自己」という幻想も時間概念から生まれている。ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895〜1986年)は「この内なる小さな人間はすべて記憶によって構成されている」と語った。
けれども、今を忘れ、過去の思い出にふけることはすべて悪いことなのだろうか。

ドイツ・ハイリゲンシュタット。自宅の庭で一人の失明した老人が雨に打たれながら、暗黒の世界の中で昔の青春の頃を思い出している。老人は、若き日には、ナチス・ドイツ空軍の不敗のエースパイロット、ファントム・F・ハーロック II であった。そこへ、日本から来た一人の青年が彼の前に父の形見を手渡す。それは、昔かけがえのない友人と共に遠い国へ行った筈の彼自身の照準器、REVIC/12Dであった。。。ここには、若き日の思い出にふける幸せな老人の姿が登場している。
松本零士の父親、松本強少佐は、終戦の日までキ84 四式戦闘機「疾風」に搭乗していた陸軍航空部隊の古参のパイロットだった。戦後、多くの元軍人パイロットが自衛隊入りしたが、「敵の戦闘機には乗れない」と断固拒否し、炭焼きや野菜の行商をしながらバラックに住み自ら進んで赤貧の生活を送っていた。この「本当のサムライとしての父のイメージ」が、ハーロックのモデルとなっている(7)。
知は記憶から始まった
情報の秩序化、「知」はモノに名前を付けることから始まった。その後に数や観念が生じた(1p157)。そして、オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガ(Johan Huizinga, 1872〜1945年)によれば、最も古くからある知の先駆けは、謎かけ遊びだった(1p152)。だから、ケルト時代のアイルランドの吟唱詩人は、詩と吟唱となぞなぞ、歌を毎日一つずつ覚えなければならなかった(2p149)。
古代ギリシア人は、「記憶」を司る女神ムネモシュネとして、記憶を擬人化していた。ゼウスの妻で、芸術と学問を司る9人の女神、ミューズの母親である。ギリシア人たちは、記憶がすべての芸術と科学を産み出すと信じていた。これは正しい。文字という「表記システム」が発達する以前には、すべての情報は記憶を通じて伝承しなければならなかったからだ(1p151)。記憶の重要性が低下したのは、書かれた記録が効果ではなくなり手に入りやすくなった19世紀からのことでしかない(1p154)。
驚嘆すべき記憶術
あらゆる時代、あらゆる文化には驚くべき記憶力を持つ人々がいる。イギリスの思想史家で『記憶術』の著者、フランシス・イェイツ(Frances Yates, 1899〜1981年)は、古代ギリシア、ヨーロッパ中世、ルネッサンス時代の記憶力の偉業を集めた(2p149)。
彼女が取り上げた達人の一人にローマ時代の哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca,紀元前1年頃〜65年)がいる。セネカは2000人の名前を教えられた順でそのまま繰り返すことができた。こうした偉業は、意欲と鍛錬によって人間の記憶能力が高められることを意味している(2p149)。

ラヴェンナはイタリア出身の法学者で、1472年に博士となった後、1497年にドイツに移住し、1506年にケルン大学で教会法と大陸法(canon and civil law)の教授となった人物である。著作「フェニックス」は「Phoenix seu artificiosa memoria」の題名で1491年にヴェニスでラテン語で出版されたが、増刷や翻訳を重ね、2世紀以上も影響力を持った。ラヴェンナの著作が人気があった理由のひとつは、著者自身が10歳で民法すべてを記憶できていたことがある(7)。
歓びをもたらす暗記

「私の祖父は、高校時代にギリシア語で3000行にも及ぶ『イーリアス』をギリシア語で暗記させられたが、70歳のときもまだ覚えていて、喜々としてその韻律を繰り返しては若き日々に戻るのであった」(1p154)。
そもそも、祖先の記憶をもとに情報を体系化することは、最も古代から、部族としてのアイデンティティを与えるものであった(1p151)。
人は歳を取るほど幸せになる
朝、目覚めたときにふとそんな想いにかられることがある(4p296)。けれども、人生の後半に対するこの思い込みは、@人生の最良の時がいつであるかを判断できる、A若い時ほど人は幸せである、という二点で誤っている(4p297)。
カリフォルニア大学リバーサイド校で心理学を研究するソニア・リュボミアスキー(Sonja Lyubomirsky)教授は、ポジティブ感情が経験されるピークが、64歳、65歳、79歳にあることが最近の三つの研究から明らかにされたと指摘する。意外なことに、青春時代は人生の最も明るい時期ではなく、最もネガティブな時期なのである(4p308)。

人は過去をバラ色とする
人生を振り返ってみればわかるが、人間には、過去の出来事や時代を実際にあったことよりも楽しくポジティブなものとして偏って思い出す傾向がある。この現象を「バラ色の記憶」と呼ぶ(4p298)。
例えば、ある旅行を体験を「する以前」、「している間」、「した後」の三点から分析した研究によると、実際に旅の間に憂鬱な体験をしていても、旅から帰った後には、そうした経験をすばらしいものとして想起することがわかった。同じように、多くの人は、恋愛や昇進時にかなりのストレスや失望感を味わっていたとしても、過去の想い出をバラ色のものとして思い出すのである(4p299)。
ギリシア神話のムネモシュネの長女、クレイオは歴史を司り過去の出来事を秩序立てて説明する責を負う女神であった。ミハイは「過去を思い出すことは非常に楽しい過程だし、歳を取ってから重要になる」と語っている(1p166)。
ネガティブな過去にこだわることが問題
過去の体験を思い出すことで不幸になることもあることも事実である。米国の大学生とイスラエルの成人を対象にして過去をどう思うかを調べたソニア教授の研究によれば、ネガティブな過去の体験を思い出す人ほど自分を不幸だと考えることがわかったという。
ソニア教授はこれを「預かり効果」と「対比効果」によって分析する。 例えば、1年間のすばらしい海外生活をしたとしよう。経験という「預金口座」には貯金がたまり生活が豊かになる。これを「預かり効果」と呼ぼう。一方、帰国後の経験がその海外での暮らしに比べて満足できないとしよう。すると海外と比べて不満がまる。そこで、これを「比較効果」と呼ぼう(4p300)。
分類 | 預かり効果 | 対比効果 |
---|---|---|
いま幸せと感じる | 過去の幸せな経験を思い出す | 過去のネガティブな経験から今の人生がいいと考える |
いま不幸だと感じる | 過去の不幸な経験を思い出す | 過去のポジティブな経験から今の人生が悪いと考える |
思い出にふけるほど幸せになれる
一方、ソニア教授らの実験によれば、結婚式や試合で優勝したといった過去の幸せな時は、それを分析せずに、録画したビデオを再上映するように味わい、再現することで古きよき時代から「預かり効果」を得られる(4p304)。ソニア教授らは、幸せな思い出や思い出の品々(写真やお土産等)のリストを作り、週に2回、ポジティブな思い出にふけるという実験をしてみた。すると、定期的に思い出にふけった参加者たちの幸せ度は著しく高まった。さらに、引き出される記憶が鮮明であればあるほどいっそう幸せ感を味わったのである。さらに、最近の研究からは、ポジティブな思い出にふけった後には、29%の人が新たな視点を手にして、現在の問題について自分なりの考察ができるようになったと報告し、19%がポジティブな影響があったとし、18%は「現在から逃れることができた」と報告している。影響がなかったと述べたのはわずか2%だけであった。しかも、回答者の多くが「過去の幸せであった出来事やイメージを思い出せばだすほど現在の生活を楽しめるようになった」と報告している(3p228)。
実際、老人は思い出にふけることに時間を費やせば費やすほど、よりポジティブとなり、より道徳的となることが知られている(3p227)。すなわち、古き良き時代は、比較分析するのではなく、思い出すときに最も幸せになれるのである(4p304)。
人は思い出があれ生きていける
ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の最後の場面で主人公にこう語らせている。
「たったひとつでもいい。心から大切だと思える思い出があれば、自分の人生を深いところで肯定できるはずだ」。
オーストリアの心理学者、ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl, 1905〜1997年)も、こう言っている。
「未来は来るかこないかわからない不確かなものである。現在は、またたくまに過ぎ去るはかないものである。けれども、心を込めて生きられた過去は何よりも確かなものである。それははかなく消えゆくものではなく時間の座標軸に永遠に刻み込まれ続けるものなのである」(8p143)

作家や芸術家には、まだ完成していない本や作品を心の中で完成させるようアドバイスをした。そして、人々の心の中で愛する人々のイメージを生き生きと保つように努力させた(1p149)。懐かしい思い出は、美化され、新たな物語になっていく。細かい出来事、それも、さして重要ではない小さな出来事を思い出して、その思い出に泣き崩れる人もいた。過去に逃げ込むことは、収容者たちが虚無感と悲しみから逃げ場を作ることに役立っていたのである(2p150)。
【引用文献】
(1) ミハイ・チクセントミハイ『フロー体験喜びの現象学』(1996)世界思想社
(2) ジェームズ・レッドフィールド他『進化する魂』(2004)角川書店
(3) ソニア・リュボミアスキー『幸せがずっと続く12の行動習慣』(2012)
(4) ソニア・リュボミアスキー『人生を幸せに変える10の科学的な方法』(2014)日本実業出版社
(5) John Michael Greer, The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age, New Society Publishers, 2008.
(6) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(7) ウィキペディア
(8) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
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