2015年07月19日

第28講チベット仏教の幸せ論(1)

幸せになるための修行がなおざりにされている

 2007年にユニセフが発表した先進国の子どもたちの「幸福度」調査によれば、「孤独を感じる」と答えた日本の15歳の割合は29.8%とOECD加盟25カ国中ずば抜けて高く、2位のアイスランド10.3%、フランス6.4%、イギリス5.4%をはるかに引き離す。加えて、2006年の調査では自殺者数は9年連続で3万人を超えている。これは旧ソ連圏を除いて世界最悪の水準である。これは、日本人の倫理観の中に「他人に迷惑をかけない生き方」が重視されているからではないだろうか(p365)

 高校を出てからも大学や専門学校で学び、健康を維持するためにジムに通い、社会的地位や富を獲得するために膨大なエネルギーと時間を費やす(p45)。その一方で、人生の質を高めるための心の内側の状態を改善する修行はおざなりにされがちである(p45)

欲望のままに生きることが自由ではない

 現代人は孤独を心配するあまり、予定が入っていない休みは一切考えないようにしている。強迫観念に取り付かれたかのように年中猛烈に動き回り、毎日をおかしく過ごそうとしている(p59)。西洋では自分がやりたいことをして、衝動の赴くままに行動することが自由であると解釈されている。そして、無秩序な自由の目標は、欲望を達成することであろう。けれども、それは果たして幸せをもたらすのであろうか。心の中で渇望、嫉妬、驕慢、恨みといった狂犬を荒れ狂うままにさせておけば、心はいずれその狂犬に占拠さてしまうであろう(p202)

 そして、物的な欲望が満たされても、幸せにはなれない。例えば、宝くじで大当たりしたことによる喜びには長期的な効果がなく、1年後には普段の満足度に戻ってしまうとの研究結果がある(p60)

 ある24歳のイギリス女性が100万ポンドもの宝くじに当選したが、仕事も辞めて以前の友人たちとの縁を切った。そして、高級住宅地に家を買い、免許もないのに高級車を買い、洋服を買いまくり、フィッシュ・アンド・チップスが大好物なのに高級レストランで食事をするという生活をしたところ、1年もたたずに鬱病になってしまったという(p61)

快楽と幸せとの取り違え

 このことは、最も起こしやすい間違い、快楽と幸せとを取り違えたためだ。ヒンドゥー教には「快楽とは幸せの影に過ぎない」という教えがある(p54)。フランスの作家バルベー・ドールヴィイは「幸福は聖人の喜びだが、快楽とは狂人の幸せである」と書いている(p55)

 確かに、快楽は親身に応じてくれる上に、常に変わらずもてなし上手である。そこで、快楽への渇望が心に埋め込まれやすいが、快楽が永続的な幸せをもたらしてくれると期待するのはまったく非現実的である(p176)

 快楽は、本来不安定なものだ。五感が刺激を受けた結果の産物だが、快適な対処と接したときには生じてもそれがなくなれば消滅する(p56)。そのうえ、繰り返されるうちに退屈が頭をもたげ、ゆきすぎれば嫌悪感にすら変わる(p54)。 

 各種の研究から人間が何かを「欲する」ときと「好む」ときとでは、脳の神経回路や機能部位が異なることが判明してきている。特定の欲求を感じるのに慣れていると、それに依存しはじめる。そして、それを感じるときに喜びがなくなった後でも、要求を満足させる必要性を感じてしまう。すなわち、好ましくないのに欲するというレベルに達してしまう。例えば、ラットの脳に特定部位に刺激を受けると快感を生み出す電極を植え付け、ラットがレバーを押すと自分で刺激できる仕掛けを作って実験を行なうと、ラットは食事や性行動を含めた他のすべての活動を病め疲労困憊して死ぬまでレバーを押し続けた。これもあくなき快感の追求が抑制が効かない要求と化すことを明らかにしている(p181)

 快楽は、個人的で自己中心的なものであるため他者の幸せと矛盾することがある。残酷、暴力、傲慢、欲望ほかの信条と結びつくことがある。とりわけ、官能的な快楽は執着と結びつく(p55)。すなわち、快楽は幸せとは無関係である(p56)。もちろん、快楽そのものが問題であるわけではない。ただ、その所有に執着すると貪欲さや依存症が頭をもたげ、幸せが妨害されてしまうのである(p57)

西洋哲学は原罪思想の影響を受けて人間は幸せになれないと考えてきた

 ドイツの哲学者で悲観論者であるアルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788〜1860年)は「いかなる満足にも永続性はない。いたるところで、もがき苦しみ、苦悩に帰するのを目にする」と述べている。この指摘は正しい。けれども、完全ではなく、人間が欲望やそれが永続させる苦しみから絶対の逃れられないと想定している(p177)

Martin Seligman.jpg このように、幸せの可能性を否定する考え方は、この世界や人類が基本的に悪だと決めつける考え方、キリスト教的な原罪思想に由来し、それに影響されている。米ペンシルバニア大学心理学部のマーティン・セリグマン(Martin Seligman, 1942年〜)教授は言う。

「すべての文明は、幼稚な性衝動や攻撃性の基本的葛藤を巧みに防御するものにすぎないとの定義に基づき、20世紀の心理学に原罪を引っ張り込んだのはフロイトである。このため、多くの現代知識人は、寛大さや親切な行為は負の衝動から生じるという愚にもつかない結論に達してしまう」(p70)

苦難と不幸との取り違え

 例えば、四肢が麻痺した障害者は、その直後には大半が自殺を考える。自分がこの世からいなくなったほうがよいと信じることが自殺に共通する動機であり(p62)、サンスクリット語では、厭世観、生きることが無意味だと感じる苦しみを「ドゥッカ」と表現する(p61)。けれども、この障害者たちも1年後にも人生が惨めだと考え続ける人は10%しかおらず、残りは生きることがすばらしいと考えている(p62)。すなわち、外から被る苦難が不幸につながるわけではない。不幸は自らが作り出す(p61)。また、一時的にしか続かない一過性の不快感を不安感という。そして、外的条件が好ましくても心の底に恒常的に不満が潜む状態が「不幸」と呼べるであろう(p87)

 したがって、苦しみが避けられず、幸せが手に入らないというニヒリズム的な西洋哲学とは一線を画し、仏教では不幸の原因は確認でき、それを取り除く方法も確実に存在すると考える(p84)。快楽が幸せとは違うように、苦難と不幸も区別する必要がある。不幸の主な原因は、無知と心の毒にある(p70)。チベット密教の高僧、チュギャム・トゥルンパ(Chögyam Trungpa, 1939〜1987年)は、無知についてこう説明する。

「ある意味で非常に知性が高い。ただその知性があるがままの現実の姿を単純に捉えずに、専ら自分の固定観念に反応する方向に向いているとき、それは無知と呼ばれる」(p35)

幸せは心の持ちようで決まる

 20世紀初頭の心理学や精神病医学の関心のほとんどは、心理学的な障害や精神病の治療に向けられていた。精神的に健全でエネルギーに満ち溢れた状態の可能性についての研究はほとんど関心がもたれなかった(p216)。セリグマン教授は「精神分析がどれほど頑張っても、せいぜいマイナス10からゼロにまで引き上げるのが関の山だ」と語っている(p170)

 けれども、認知科学とポジティブ心理学の発展によってこの状況は変わりつつある(p216)。膨大な研究結果から明らかになったのは以下の三点である。

@富、社会的地位、教育といった外的要因が幸せにもたらす影響は付随的で10〜15%以下にすぎない(p217)

 28Richard Layard.jpg米国では1949年以降、実質所得が倍以上になっているにもかかわらず、幸福と答える人は増加していないどころか減っている。ロンドン大学LSE校のリチャード・レイヤード(Richard Layard, 1934年〜)教授は、その理由が誰かと比較することにあると指摘する。誰かが新車を手に入れれば、現在の車に飽き足らなくなり、新車を手に入れなければ満足できないし、周囲の誰かが最新車を乗り回している場合は余計そうなる。東ドイツでもドイツ統一以降、生活水準が飛躍的に向上したが、旧ソ連圏の国々とではなく西ドイツの人たちと比較することで不幸を感じてしまっている(p220〜221)

 また、感覚的な刺激、騒音や熱狂に伴う官能的な娯楽による興奮や快楽は、神経疲労や慢性的不満を引き起こすだけで終わる。外的活動へのあくなき専心こそが問題で人々を不幸にしている(p225)

 一方、ストレスに苛まれた富裕層が羨むような陽気で苦労知らずの「ハッピー・プア」と呼ばれる人々がいる。カルカッタのスラムの路上貧困層の多くを調べた結果、友情、食事、生活、喜びと幸せ感が、米国の大学生とほとんど変わらないことが判明したのである。い法で、サンフランシスコの路上生活者や保護施設生活者の大半は「非常に不幸だ」と答えている。この違いは、サンフランシスコの路上生活者が社会的・感情的な愛着をほとんど断ち切っているのに対して、カルカッタの貧困層は社会的・経済的な立場が向上する希望をまったく放棄している結果、ささやかな物資を手に入れることで簡単に満足している。同時に、非常に生活が苦しいものの、仲間とともに大笑いし、歌を歌う。その善良性と無頓着さが彼らを幸せにしているのである(p222)

A幸せになるか不幸になるかの25%は遺伝的な素因が関係するが、遺伝子は青写真のようなもので状況に応じて無視できる(p217)

28Michael Meaney.jpg 一卵性双生児の研究から、幸せの45%が遺伝性で、人格の50%が遺伝子で決まると力説されているが、話はそう簡単ではない。カナダのマニトバ大学のダグラス病院研究センターのマイケル・ミーニィ(Michael J. Meaney, 1951年〜)教授らは、ラットで興味深い研究を行なっている。遺伝子操作によって極端に不安に感じるようにしたラットを生後10日間、過保護な母親に育てさせる。母親はグルーミングとなめまわしよるスキンシップを繰り返す。すると、ラットのストレス反応に関与する遺伝子は、DNAメチル化による制御機構によって機能を停止、そのラットが死ぬまで発現しない。反対に、放任的な母親の子は高ストレスを示した。このことは、母親の育て方が違うと、成長した後のストレス抵抗性だけでなく、脳や認知力の発達まで大きく修正されるのである。このことは、幼児期における愛情や優しさが人間の人生観を大きく左右し、幼児は規則正しい愛情を必要とするという仏教の考え方と一致する(p226〜227)

B状況に対してどのように認識し反応するかが幸せや不幸に多大な影響を及ぼす(p217)

 20世紀初頭に生まれた178人のカトリック修道女の長寿の研究によれば、幸せなグループの90%は85歳で生存中であったが、幸せではないグループの生存者は34%にとどまった(p230)。また、65歳以上のメキシコ人2000人を対象になされた研究では、ネガティブな人々のグループの死亡率はポジティブなグループの2倍であった(p231)。1960年に米国の入院患者900名を対象に楽観主義のアンケート実験がなされたが、40年後、楽観論者のほうが平均して19%も長寿であることがわかった。セリグマン教授によれば、物事がうまくいかなくなった場合に、悲観論者は、憂鬱になる傾向が楽観論者の8倍も高く、学力、スポーツ、職場での成績も実力を下回る(p278)

28Ed Diener.jpg イリノイ大学の心理学部のエド・ディーナー(Ed Diener,1946年〜)名誉教授は「客観的な状況よりも本人の世界観のほうが幸せになるためには重要な要素だ」と述べている(p231)。

 この例をチベット人は極端な形で実証してみせる。ダライ・ラマの主治医テンジン・チョドラク(Tenzin Choedrak, 1922〜2001年)博士は1959年の中国政府の侵略後、100人の同胞とともにチベット北東部の強制労働収容所に送られた。20年後に生きて出られたのはわずか5人だけだったが、同医師を診察した外傷後ストレス症外専門の精神科医は驚愕した。恨みや怒りが微塵も感じられず、不安や悪夢といった心的外傷患者の問題がまったく示されなかった。

28ani pachen.jpg チベットの尼僧、反乱軍の戦士という激しい人生を生きたアニ・パチェン(Ani Pachen, 1933〜2002年)も21年の投獄生活を終えた後、また9ヵ月も独房に閉じ込められた。鳥のさえずりだけが昼夜を告げる暗黒の世界であった。それでも、パチェンは瞑想の習慣を忘れず、心が病むことがなかった(p99)

ネガティブ感情は病気である

 怒り、嫉妬、貪欲さ等の感情は人間にとってあたりまえのものだという議論がある。けれども、病気も自然現象である。その病気を望ましい人生の要素として歓迎する人はいない。苦痛の原因となる感情に対して何かの手を打つことは病気を治療するのと同じく筋道が通ったことではないか(p154)

 とはいえ、ネガティブ感情は本当に病気なのだろうか。病気とネガティブ感情を同一視するのは極端すぎるという人もいるであろう。けれども、よくよく考えてみれば、健全な心は、ポジティブな感情の結果生じてくる一方で、精神的な混乱や苦悩は免疫機能を弱めて障害を引き起こす(p154)

 感情の赴くままにさせておけば封じ込まれていた緊張が緩和されるという考え方は、心理学的な研究結果とは食い違っている。怒りを放置し、それが生じる度に爆発させていると心理的に不安定となり癇癪の症状が徐々に悪化する(p155)。すなわち、悲観論者は、常に災難を予想し、慢性的な不安症にかかっており、何をしても裏目に出て、生まれつき幸せとは縁がないと思い込んでいる(p279)。そして、困難に直面すれば、逃げ出すか、あきらめるか、何の解決にもならない一時的な気晴らしに陥り、必要な行動を常に後回しにして重要性の低い雑事ばかりに忙殺されてしまう(p283)

ネガティブでは客観的な判断が出来ない

 心の内側に目を向けると、もう存在しない過去やいまだに存在していない未来に「私」を存在させ、意識の流れを凍結させてしまっていることがわかる。また、事象や状況の特定の側面だけを取り出して、それに「良い」「悪い」のレッテルを貼りつけて本来の姿をみえなくさせている。すなわち、現実を正しく見ることができず、幸せを見つけ出し、苦しみを避けるためにはどう行動すればよいのかが判断できない。これは精神が錯乱状態に陥っているといえる(p104)

 心の平安を乱すネガティブな感情は、現実を歪めて理解させようとする。このため、あるがままの性質を知覚することを妨げる。愛着は対象を理想化し、憎悪は対象を悪魔にしてしまう。人間の判断力が曇らされると誤って行動することになる。一方、感情がポジティブであれば、現実をより正確に理解できるため論理的な考え方ができる(p149)。楽観主義者よりも悲観論者のほうが客観的で冷静で用心深く判断が適切なのではないかという以前の見解は各種の見解から否定されている(p277)

最悪の精神錯乱はアイデンティティというエゴの引きこもり

 こうした精神的な混乱の中でも最も破壊的なものが「個人的アイデンティティ」、すなわち、エゴへの執着である。どの瞬間でも身体は絶え間なく変化している(p106)。私とは刻一刻と変化する想念の流れの内容以上のなにものでもない(p118)。アイデンティティとはそれほど重要なものなのだろうか。そもそも個性(Personality)という言葉は、役者の仮面を意味するら言語のペルソナ(Persona)を語源としている(p122)。にもかかわらず、エゴ(自己)は、自立性、恒久性が備わっていると頑なに考えようとする(p106)

 そして、知的優秀さ、肉体的強さ、権力、成功、美といった自分や周囲が見る「自分のアイデンティティ」や自分のイメージといった実体がない属性の上に架空に築いた自信に立脚している(p112)。エゴは非常にもろいものだ。そのために、エゴを心地よくさせ喜ばせる対象には親密感を覚えるが、保護して満足させられずゴにとって脅威となる対象には嫌悪という相反する感情が働き始める(p106)。そして、物事がエゴの要求を満たせないと、どれもが脅威や障害となる(p128)。現実とエゴとのギャップが広まるとエゴは苛立ちを著目、自信を喪失し、欲求不満や苦しみだけを残す(p112)

28Hans de Wit.jpg さらに、エゴは死への不安、対人関係への不安、世の中に対する恐怖心から、エゴに閉じこもることで自分が守られると仮想する。このエゴに対する執着と強い自尊心が苦しみを引き寄せる最も強力な磁石なのである。仏教哲学者ハン・デ・ウィット(Han F. De Wit,1944年〜)博士はこう書く。

「エゴは経験に対する快感、不快感の感情的反応の場、不安を原因とする心の引きこもりの場である」(p107)

 すなわち、自分の思考をコントロールできないことが苦しみの主因なのである(p128)

自己中心的な人=精神病患者

 西欧世界では、エゴ(セルフ)こそが人格形成の基本だと考えるため、自己中心性をどうしたら弱められるのかという問題にまともに取り組んでいる心理学治療法はほとんどない(p110)。「エゴを排除したら個人として存在できなくなる」「エゴなしに個を保てるだろうか」「総合失調症に陥る危険性があるのではないか」という疑問は、この馴染みのない考え方に対する西欧人の防衛反応といえる(p111)

28Sant Kirpal Singh.jpg 謙遜という概念も、自分の能力に対する自信の欠如、無力感、劣等感、無価値観等と関連づけて考えられがちである(p270)。けれども、インドのキルパル・シン(Kirpal Singh,1894〜1974年)は『聖なる光と音の瞑想法』で「本当の謙遜は、エゴからの完全な解放によって獲得される」と述べている(p271)

 さらに、強力なエゴがなければ何も感動せず、人生が無味乾燥になるのではないかという考えもある(p112)。けれども、長年、卓越したヒューマン・クオリティの研究に携わってきたポール・エクマン(Paul Ekman,1934年〜)教授によれば事実は違う。エゴが極端に強い人の傍らにいると苛立ちを感じる。芝居がかったわざとらしい手法を使うこともある。他者に苦しみを負わせて悔やむことがなく、誰とも気持ちを共感できないのは、エゴ至上主義者の特徴であると同時に精神病の症状でもある。精神病患者は、極端に自己中心的な利己主義者で、他者よりも自分が優れていると感じ、とりわけ、自分には生まれつき備わった権利や特権があり、それが他者の権利に優先すると信じ込んでいる。一方、ヒューマン・クオリティが高い人には、カリスマ的なはったりがまったく見られない。親切でエゴがない状態を最大の特徴とし、自分の地位や名声などをまったく意に介さない。エクマン教授はこういう。

28Paul Ekman.jpg「こうした自己中心性の不在は心理学的には不可解としか言いようがない。周囲は本能的にこうした人たちとの交流を希望する。一緒にいると心が豊かになるからだ」

 すなわち、エゴへの執着と目標を達成しようとする高い志とはまったく別物なのである(p113〜114)

エゴをなくしてこそ本当の自信が産まれる

 ある意味では、エゴ(セルフ)の確立が文明の特徴となっている。けれども、そうだとしても、より強く、レジリアンスがあり、順応性のある人格や個性を育て上げるべきではないだろうか。問題は、エゴと自信とを混同していることにある(p111)。そのため、世の中で成功するためには強力なエゴが必要だと勘違いされているのである(p114)

 エゴは、不安、嫉妬、貪欲、拒絶など精神性を果てしなく脅かすネガティブ感情からターゲットにされる。そのため、エゴの重要性が低いほど精神力も強くなる(p114)。真に勇敢な人は自己陶酔への引きこもり、不安な感情を持続させる恐怖に満ちた反応の対極にある(p107)。

 仏教では、欲望、憎悪、妄想(現実を歪めた見方)を三毒とし、これに自惚れと羨望も加え、これらが60余のネガティブな心の状態に結びついていると考え(p151)、煩悩(サンスクリット語のクレシャ)と呼ぶ(p149)。そして、仏教では、逆説的に純粋に自信がある状態はエゴがない状態だと考える。錯覚から生まれた安定感ほど脆いものはないからだ。エゴをなくして初めて自信は産まれる。仏教ではこれを人間であれば誰もが備わっている「仏性」と呼ぶ(p112)。仏教ではエゴを完全に消滅させるところまで修行を極めた人のことを賢者と呼ぶ(p110)。それでは、エゴとネガティブ感情をなくすためにはどうしたらいいのであろうか。

【引用文献】
マチウ・リーカル『Happiness 幸福の探求』(2008)評言社

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posted by la semilla de la fortuna at 17:00| Comment(0) | 仏教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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