ネガティブ感情をなくすにはネガティブさを観察する
メンタル・イメージは苦痛を変えるのに有効だが、仏教にもイメージを使って苦痛を消去する手法が古来から伝わっている。光り輝く聖なる命の水が痛みの中心部に染み込んでいって身体全体に浸透し、痛みが消滅し、次第に幸福感に変わっていくことを思いに描くイメージ法である(p96)。
第二は、ネガティブな感情が湧きあがってきたら、苦痛をもたらす出来事をくよくよと考えず、その感情そのものを熟視することである。するとその感情は太陽光線にあたって溶ける雪のように次第に溶け始める。感情のエネルギーが弱まれば、悲劇的に見えていた苦しみの原因がさして悲惨なものではないことが見え始め、ネガティブな思考の悪循環から抜け出せる(p130)。
利他の心を持つとネガティブな感情が消えていく
第二は、他者に対する思いやりを深めるアプローチである(p97)。自分が苦しいときに他人の苦しみに思いをはせることなどありえないし、自分の苦痛が増えるだけだと思われるかもしれない。けれども、自分のことに夢中になってまわりのことに無関心な状態になっていると、心は傷つきやすく、無力感や不安、混乱などの感情に捉われやすくなっている。逆に他人の苦しみに対して深く共感できれば、無力感が有機に、憂鬱は愛に、独りよがりは周囲への心の開放へと変わっていく(p98)。
これには理由がある。心を内観しているとネガティブな感情が一時的な束の間の心の出来事にすぎないことがわかる。そして、それと背中合わせに存在するポジティブな感情によって抹消できることがわかる(p157)。すなわち、愛と憎しみの二つの心の状態は交互には生じても同時に共存できない。そこで、憎しみを抑制するのではなく、正反対の思いやりや愛に心を向けていると最終的には憎しみの感情が消えていく (p159)。利他の愛が心の中で習慣化されると憎悪の感情は次第に弱まり(p158)、究極的にはポジティブな感情となり、自分の苦痛はそれほど過酷なものとは感じなくなり、なぜ、こうしたひどい目に遭うのだろうかと苦々しい問いを繰り返すこともなくなるのである(p98)。
ネガティブ感情をなくすだけでなくポジティブ感情を高めることも必要

さらに、一連の研究から利他主義と幸せとの間には相関があることが明らかになってきている。最も利他的な人間は、最高に幸せだと感じてもいる(p259)。
例えば、マーティン・セリグマン教授の研究から私欲がない親切によって生じる喜びが深い満足感を与えることが実証されている。友人と映画を見たりアイスクリーム・デザートを食べるといった満足感よりも、社会奉仕活動から得られる満足感のほうが高い(p260)。
人は幸せなときには他者に向けて心が開かれる。アンドリュー・ソロモンは『真昼の悪魔:うつの解剖学』で鬱病とは愛の欠陥であると指摘する。このことは、利己主義が苦しみの原因であり、利他的な愛が本当の幸せの主成分であるとの仏教的な視点と合致する(p259)。すなわち、他者に害を加えることを自制するだけでは不十分で、他者を助けようとする利他主義の実践でさらに強化されなければならないのである(p148)。
慈悲の瞑想では脳のガンマ波が激増する
深刻な精神病が脳の病的な状態に関係していることやある脳の部位を刺激すると強烈な快楽が生じることは判明していた。けれども、幸せと脳機能との関係についてはずっと謎に包まれていた。
また、20年前までは神経科学者たちのほとんどがニューロンの新生はありえず老化とともにゆっくりと衰えるだけだと考えてきた(p238)。
けれども、研究の進展によって脳には可塑性があることが判明してきた。例えば、カリフォルニア州のソーク研究所でフレッド・ゲージ教授らは、刺激がない箱に入れられていたラットを回し車や探検用のトンネル、遊び仲間がいる広い檻に移すという実験を行なってみた。するとたった45日間で大脳側頭葉の海馬のニューロン新生率が15%も高まった。海乳とは珍しい経験を処理する脳の領域だが、高齢のラットの脳でも新生していることが明らかになった。また、スウェーデンのピーター・エリクソン博士らはラットと同じく人間の脳でも海馬でニューロンの新生が起こっていることを発見した。すなわち、脳の神経細胞は死ぬまで変化し続けるのである(p239)。

ダライ・ラマ14世は、1985年以降、継続されてきたと科学者との対話を行なっている。この対話シリーズの10回目として、2000年の秋に、フランシスコ・ヴァレラ、ポール・エクマン、リチャード・デビッドソンらとダライ・ラマ14世との討議がもたれた。この対話が契機となり20年以上も修行してきた人々を対象とした研究プロジェクトがたちあがる。
そして、2004年に画期的なリポート「長期的瞑想の実践が脳に及ぼす影響の研究」が報告される。長年チベット仏教の瞑想を実践してきた12名がウィスコンシン・マディソン大学でリチャード・デビッドソン(Richard J. Davidson, 1951年)教授らの実験台となったのである(p240〜241)。

感情は独立した神経回路ではない
怒りや嫉妬等の強い感情は、特定の認識や概念がなくても生じるとフロイトは考えた(p141)。けれども、感情とは脳内のいくつかの部位の機能が相互作用した結果現れる複雑な現象である。したがって、「幸せ」や「不幸」の場所を見出そうとすることは意味がない(p245)。感情系の神経回路は認知系の回路と完全に織り合わさっている。すなわち、感情は行為や思考と関連して生じるのであり、他と切り離しては存在しない(p141)。
仏教には様々な精神事象を表現する用語が豊富に存在する。けれども、感情そのものを表現する言葉はひとつもない。仏教では感情と思考を区別しない(p140)。すなわち、認知科学の脳と感情についての学説や見解は仏教の見方と一致する(p140,P141)。
左脳=ポジティブ脳、右脳=ネガティブ脳
感情という言葉はラテン語の「動く」を意味する言葉「emovera」が語源となっており、ポジティブでもネガティブでもない。とはいえ、仏教では、どのタイプの精神活動が自分や他者の健全性につながり、どのタイプが有害であるかに関心を向ける。そして、愛や憎悪等の感情性が高い状態は、破壊的な思考と一緒に結びついていると考える。心の平安を強化し、他者のためになることを求める感情をポジティブ、心の静穏を乱し、他者に害を加える意図があれば、それをネガティブな感情と言えよう(p141)。

脳の活動は性格にも現れる。2歳半児400人を対象とした研究から、不安げに母親にまとわり続ける幼児は右側の活動が活発である一方、のびのびと安心して遊ぶ幼児は左側の活動が活発であることがわかっている(p246)。
利他的な思いやりを持つと幸せになれる

瞑想者は心の平安を保ち、利他的行動を行なえる
驚きは最も原始的な人間の反射行動である。恐れ、怒り、悲しみ、嫌悪といったネガティブな感情が心を支配していると「驚愕反射」が大きい。ネガティブ感情が高い人ほど、たじろいたり、ひるんだりする(p250)。
驚愕反射は最も原始的な脳の部位、脳幹がコントロールしており、意識的・自律的には脳幹の活動はコントロールできないとされている(p250)。

瞑想者は@一点意識集中法とA心の全開法という2種類の瞑想を行い、いずれもマディソン研究所で調査したところ、心の全開法のほうが効果が高かった。
瞑想者は「心が散漫であれば爆裂音によって突然に現在に引き戻されるために驚く。けれども、心が全開放状態に入ってしまえば、いまこの瞬間に完全にリラックスしているため、どのような轟音も鳥が空を横ビル程度のほんのわずかの妨げにしかならない。驚愕を積極的に制御しようという努力は必要ない」と語っている。
瞑想者も、脈拍、発汗、血圧等の生理的なパラメーターは、驚愕反射に伴い標準的なレベルに上昇した。つまり、爆発音のショックに身体は反応した。けれども、感情には一切のインパクトを与えていない。2000年以上も前から瞑想修行の成果として記述されている「平静さ」とはこのことなのである(p252)。
行動学の研究でも、感情が高い人は他者の苦しみよりも、自分が感じる心の痛みや恐れ、不安の方により関心が高く、他人の苦しみに直面しても、それを和らげるためにはどうすればよいのかの関心が低いことがわかっている。一方、感情を抑圧せず、うまくコントロールしてバランスが取れる人は、他人の苦しみを目にして、無私の心を示せることが証明されている(p155,Pp265)。
ポジティブ感情は生物の進化にも有利
進化の角度から感情を研究する心理学者たちは、生殖や子孫保護、競争者との関係でそれが有利に機能するかどうかで感情が進化してきたと考えてきた(p143)。短期的に見れば、敵意、貪欲さ、恨み等のネガティブな感情も自分が欲したり惹かれたりするものを手に入れる助けになるため効果はある。怒りや嫉妬も種族保全の観点から利点がある。けれども、長期的にみれば、自分や他者の成長や発展が妨げられてしまう(p151)。

利他主義には本物と偽者とがある
利他主義という言葉は1830年に社会学者オーギュスト・コント(Auguste Comte, 1798〜1857年)によってエゴイズムの反対語として新造された(p265)。とはいえ、利他主義にはいくつかのタイプがある。社会心理学者ダニエル・バットソン(Daniel Batson, 1943年〜)カンザス大学名誉教授は、「偽の利他主義」と「本物の利他主義」を区別する。他者の苦しさを見て自分が感じる苦痛に耐えられない。あるいは、自分自身の感情的な緊張を和らげたいとして他者を助けるタイプは「偽の利他主義」である(p263)。例えば、17世紀のイギリスの哲学者、トマス・ボッブス(Thomas Hobbes, 1588〜1679年)は「人間は基本的に利己的な生き物である。人間の行為の中に純粋な無私は存在しないし、利他主義は気分爽快の仮の姿にすぎない」と述べた。そして、ある日、乞食に施しをしている姿を見られると「乞食の苦痛は私を苦しめる。乞食の苦痛を和らげれば自分の苦痛も和らぐ」と答えたという。キリスト教文明の原罪の考え方は、こうした哲学思想と一致する(p261)。偽の利他主義者は、苦しむ人の姿を見なくてもすむ、あるいは、自分が非難される危険性がなくこっそりと立ち去れる状況であれば、利己主義者と変わらぬ頻度で、関わり合いを避けたがる(p263)。

長年の修行によって利他心を育むことが出来る
西洋の心理学の研究の大半は、仏教でのマインドフルネスの教えに相当するものが欠落していた(p169)。けれども、瞑想者の研究から、利他的な愛や慈悲心は歳月をかげて磨かれるテクニックであることが実証されている(p265)。すなわち、苦痛を伴うネガティブな感情が人間の精神的な健康にとって有害であり、憎しみの解毒剤が愛情豊かな親切心であることを理解するレベルは第一ステップである。次には、憎しみがない状態が習慣化されることが最終段階である。チベット語の「Gom」は瞑想と訳されるが「習熟」であり、サンスクリット語のバーヴァナーも瞑想と訳されるが「修養」とか繰り返して身に付けることを意味する(p157)。
仏教では人間は完全ではないし、完全に幸せでもないと理解する。それは、自己憐憫や自信欠如、悲観論とは異なり、極めて健全な事実の容認である。そのうえで、何を優先すべきかの順位をはっきりさせることを仏教では、「出離」と呼ぶ。出離は禁欲主義や厳格な戒律でイメージされることが多いが、喜びや幸せがもたらす事物を自分で取り上げることでも、快適がすべて悪だと考えるマゾヒストとも異なる。これでもかこれでもかと押し寄せる苦の原因を取り除き、苦しみの根本的な原因を知らずに隷属してきた態度を勇気をもって改めることなのである(p205)。
利他心が育まれた状態が究極の幸せである
愛とは他者の幸せを願うことであり、憎しみとは他者の不幸を望むことに他ならない。愛する人が幸せになってほしいと願うのが真の愛である(p160)。人間は本来、他人の幸せを望むはずなのに、なぜ、他人の幸せに動揺するのであろうか(p198)。他人が幸せになったとしても自分から何かが奪われることはない。自分が落ち込んでいるときに聞こえてくる他人の喜びの声や自分が病気のときに他人が健康であることが許せず我慢できないのはエゴなのである(p199)。他人の幸せが自分の幸せとなり、他人が経験するどのような喜びに対してももろ手をあげて歓喜することが「羨望」と「嫉妬」の反対なのである(p198)。すなわち、本物の愛には自己愛が含まれない(p182)。セックスも利他の心が中心にある場合にのみ純粋な幸せが感じられる(p55)。この永続的な幸せは内なる本質と完全に調和しているときには持続する(p56)。そして、自由な状態で快楽が経験されれば、幸せに影を投げかけることもなく、かえって幸せを引き立てる(p57)。安らかで心地よいこうした幸せ感をサンスクリット語で安楽(スカ)と呼ぶ(p32)。
利他心を他人や他の生命にまで広げることが仏教の理想
そして、現実の世界では純粋な利他主義の事例は少なくない。例えば、多くの母親は子どものために真心で命を投げ出す容易がある。仏教では、こうした母親の利他心をさらに延長し、生きとし生けるものすべてに対して心配することが真の利他主義であると教えている(p264)。
マンチェスター大学の中庭で実験をしてみた。一人の若者が横に倒れていても助けようと立ち止まる人は15%にすぎない。けれども、フットボールクラブのジャージを着ているとファンの85%が仲間を助けようと立ち止まる。このことは、帰属意識と利他的行為との間にかなり相関があることを示す。人は見知らぬ人よりは友人等共通点を持つ人を助けようとするのである。こうした帰属意識を拡大し、最終的にはすべての生物を帰属させるというのが仏教のアプローチである(p258)。ダライ・ラマが口にする「普遍的な責任」という考え方である(p259)。まず、自分自身の幸せへの願望を認識することからはじめ、次にその願望を自分の愛する人に向け、最終的には友人、赤の他人、そして、敵を含めた全人類に向けるというステップをたどるのが仏教古来のトレーニングの方法なのある(p159)。
感情よりも理性に基づく道徳が大事だと考えるカントの倫理学

イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724〜1804年)は、あらゆる道徳問題を支配するものは義務感であって、共感や思いやりの利他主義に突き動かされて他者のために行動する考え方を否定した。倫理は普遍的で公平な道徳に基づきべきであり、思いやりというあやしげな感情は信頼性に欠けると考えたからである。カントは言う。
「人間があらゆる幸せの権利を求めることを断念すべきだと純粋理性は命じているのではない。義務が問題とされる瞬間には幸せを考慮に入れるべきではないと言っているのである」(p316〜317)。
例えば、人々は二者択一のジレンマに直面しなければならなくなるケースに置かれる。例えば、1000人を救出するために一人の無罪な人間の命を見捨てなければならないという選択の板ばさみにおかれたらどうするだろうか。カントは「正義が消滅すれば人間はこの世における存在価値を失う」として、これを否定する(p313)。
一方で、ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham, 1748〜1832年)は「最大多数の最高の幸福は、道徳や法律の基礎をなす」と述べた(p318)。この功利主義を最も手厳しく批判した一人が、米国哲学を代表するジョン・ロールズ(John Rawls, 1921〜2002年)である。ロールズは、最大多数の幸福説を否定し、それに代わるものとして、個人の権利を神聖なものとし、自由・平等・公正の原則を提唱した(p320)。正義は効率性や幸せよりも価値が高い。たとえ、最大多数の幸福のためであっても正義がそのために犠牲にされてはならないからである(p314)。
とはいえ、人間は頭の中で考えたドグマ的な非現実的な抽象観念や感傷的な考え方の餌食になりやすい。例えば、罪のない子どもの命を犠牲にするという無残な状況はありありとイメージできる。その一方で、犠牲にされる1000人は具体性が乏しく抽象的な存在イメージとしてしかイメージできない。すると罪のない1000人を何もしないまま殺してしまう可能性が高い。「一人の子どもの命を救うために、罪なき1000人を犠牲にできるか」と問題を再設定すれば、より多くの人の命を救えた可能性をカントは拒絶してしまったことになる(p314〜315)。
善と悪の二分法は正しいか
カントの絶対善は、宇宙を超越した存在としてそれ自身で存在するものであろう(p317)。そして、「善」と「悪」とを明確に区別できるというユートピア的理想主義とそのドグマによって、人類は、不寛容や宗教的迫害、全体主義を経験してきた。理想主義では多様なバリエーションが考え出されてきたが、その根底には常に「絶対善の名において、我々は誰しもを幸せな人間にするであろう。それを拒否するものは排除されなければならない」という原則がある(p324)。
「この完全なる失敗の結果、道徳的な敗北主義が近代西洋文化の中核をなしはじめている」。
神の命令からも遠ざかり、無数の哲学者や道徳家の相矛盾する倫理観に封じ込められ、現代人は完全に路頭に迷っているのである(p324)。
憎しみは、心の猛毒である。あらゆる暴力や殺戮、人間の尊厳に対する攻撃力の駆動力となる。エゴが脅かされ、傷つけられ、無視されたときに感じる恨みの感情は、憎しみほど暴力的ではないが、要注意である。ネガティブな怒りは憎しみへと芽生える前兆となっている(p186)。
危害を受けたら怒りと暴力で報復することが英雄的だと考えられがちだが、復讐は暴力の火種に油を注ぐだけで、決して幸せをもたらさない(p193)。復讐願望は、攻撃者が攻撃するときと同じ感情に由来する(p186)。
すなわち、憎しみは、不幸の主因であることから、思考から憎しみの感情を排除することが幸せへの決定的な第一歩となる。なればこそ、釈迦は「憎しみに対して憎しみをもって報いる限り、憎しみは消えることはない」と教えた(p186)。不正を目撃した人の中には、犠牲者を助けるよりも、不正者を攻撃し暴力的に対応することに関心を持つ人がいるが、それは利他主義ではなく単なる激情である(p266)。憎しみや怒りといったネガティブな感情に捉われた人は、敵としてよりも病人として哀れむべきであろう(p189)。心の内側での武装が解除されなければ世界の武装解除も起こらない(p196)。
カントの倫理学は理性に基づくと言いながら実は原始的な感情に基づく

教授によれば、感情的な反応とは霊長類の祖先から受け継いで進化してきた領域である。それが、カントのような独善的でドグマ的な考え方の中核をなしていると推測する。一方、遅まきに進化してきた前頭葉には高度な認知制御機能ある。その構造のおかげで利他的な評価が可能となったという。
グリーン教授は言う。
「この説が正しければ、カント派の道徳哲学の根底をなす『合理主義者』のアプローチは、心理学的には、純粋な実践の原則ではなく、一連の感情的反応を根拠としており、それが最終的に合理化されたという実に皮肉で風刺的なことになる」と述べている(p323)。
最大多数の最高幸福は快楽と幸せを区別できない
カントよりもより人間的なベンサムのアプローチの方が仏教により近い(p318)。とはいえ、最大多数の最高幸福は、幸せを評価するための適正な尺度がないため(p319)浅薄な快楽と深遠な幸福を同一視し混同している。そのため、幸せを快楽に降格させてしまうリスクがある(p318)。社会学者も、現世における人生をどれだけポジティブに評価できるかで幸せを定義する。けれども、この定義では人生に深く満足している状態と単なる外的条件を評価している状態との違いを区別できない(p23)。
最大化の原則が闇雲に採用されれば、ある社会の構成員が犠牲になりかねない。アリストテレスは「奴隷がいなければ、知識層はつまらない作業に従事することとなり、高尚で品格ある活動を断念しなければならない」として奴隷制度を容認していた。アリストテレスの考え方は、功利主義という言葉が発明される以前ものものだが、その変形とも言える。仏教では、こうしたまことしやかでもっともらしい理屈は想像もつかない(p319)。
仏教では結果よりも心の状態を重視する
そして、仏教では善は人間から独立した究極的絶対的な原理ではなく、すべては人間の内側に生じるものだと考える(p317)。ダライ・ラマは「苦しみと幸せの個人的経験と切り離された倫理体型には重要な意味があるとは考えられない」と述べている。ダライラマの観点からすれば、抽象的概念に基盤をおく倫理はほとんど役立たないことになる(p308)。
どのように行為の結果がどうなるのかをどれほど予想しようにも、外部から降りかかる出来事をコントロールする力は人間には備わってはいない。一方で、利他的な動機やポジティブな結果を生み出そうとする努力を選択することはできる(p310)。仏教では人を幸せにすることを意図する行為は倫理的で、他者を苦しませることを目的とした行為は反倫理的であると考える。他者を苦しめれば自分自身に苦しみが戻ってくる一方で、他者に幸せをもたらす行為は自分の幸せを保証する。仏教ではこれをカルマ(因果応報)と呼ぶ。すなわち、倫理観と精神的な健全性は直結している(p308)。
さらに、フランシスコ・ヴァレラ博士は「真に高潔な人は倫理観に基づいて行動するのではない。賢者は倫理的であり、特定の状況にはいつも自分がそうする傾向に沿って自然に行動する」と述べている(p309〜310)。
さらにこうも言う。
「伝統的な社会では、常人よりも専門性が高い人として選り抜かれた倫理の専門知識を備えた模範、賢人が存在していた。近代社会では、倫理に関する模範を探し出すことが難しい。これが近代倫理思考がニヒリズムの趣きを漂わせている原因のひとつである」(p321)。
エゴを捨ててフローで生きる
幸せの探求においては、最も貴重な財産は時間である。人生は長くはない。需要な物事を先延ばししてしまう人は多くを失う。もちろん、何を黄金の時間と受け止めるのかは人様々である。活発な人にとっては、創造や達成や他者の幸せに自分を捧げる時間となるであろうし、瞑想者にとっては、自分の内側を見つめる時間となる。その間は活動していないように見えても、今の瞬間の価値をはっきりと認識し、他者を助けられる自分へと内側の質を向上させている時間は黄金以外のなにものでもない(p292)。

【引用文献】
マチウ・リーカル『Happiness 幸福の探求』(2008)評言社
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