2015年08月28日

第39講 人生の目的を探る(4) 聖なるセックスA

マスターベーションには「罪」はない

 性別に関係なくほとんど誰にでも「性的興味・衝動」はある。清楚な美女も精悍な美男も「マスターベーション」を行ったり異性の身体に興味を持つ(21)
けれども、スピリチュアルに関心を持ち、スピリチュアルとセックスは「相反するもの」と考える人もいる(2)。霊的なことを真面目に探究している方たちは、霊的なことを真面目に探究している人たちは、その一途さのために、こと「性」のことになると極端に嫌悪をしめす傾向がある(5,21))。スピリチュアルな修道男女は、スピリチュアルとセックスとは「相反する行為」だと考え背徳感のような気持ちを抱く(2,22)。けれども、それは誤りである(2)

セックスは背徳ではない:バランスが大事

 霊的な面からは、性教育に嫌悪感を抱いていたり偏見を持っていると、その先へは進めない。マスターベーションが性的な倒錯だと考えると「霊的な精神成長」には望ましくない(4)。ダスカロスは「セックスは適度に行いなさい」とセックスについてバランスの取れた考えを述べている。要するに「中庸」「バランス感覚」が大事だということだ。ケン・ウィルバーの「インテグラル・ライフ・プラクティス」もセックスを含めたバランスのとれた「スピリチュアルな実践生活」の叩き台となる。ウィルバーはダスカロスと異なり霊能者ではないが、現実生活を放棄したり逃避したりする不健全なスピリチュアル思考を痛烈に批判している(21)。セックスがあってもスピリチュアルな生活を送ることは可能である(2)。独身男性も将来的によき伴侶がいて子どもを授かりたいと考えていれば、勃起・射精中枢を衰えさせないためにマスターベーションを行なう必要があるし(22)、霊的な探究をされている若いカップルや夫婦であれば、「セックス」を二人の存在を高め合う一つの実践だととらえることもできる。セックスは「愛の波動を生み出すひとつの行為」なのである(5)

 例えば、マスターベーションを経験したことがない人がいるだろうか。いるとすれば、すでに普通の人とは違う高次なスピリットを持っているか、精神的に何らかの障害を持った人であろう(11)。統計的には、世界の子どもの90%がマスターベーションを経験している。既婚のカップルや老人を含め70%の成人も行っている(4)

 普通は一定の年齢になると、性に興味を持ち、そこから快感を覚えて、それが、マスターベーションにつながる(11)。幼い女の子が突起物等にヴァギナを当てると感覚的に気持ちいいと感じることもあろう。マスターベーションは自然なことであるため、子どもたちは男女関係なく、教えなくとも必ずマスターベーションを行う(4)。マスターベーションをしても「地獄」に落とされることはない。むしろ、下手に我慢をした方が、精神的に不健康なのである(8)

性を抑圧すると内面的に葛藤を産む

 マスターベーションが「罪深く」「罰を受ける」と脅すと内面的な葛藤を産む。セックスのタブーが情緒的な葛藤をひきおこし、その影響で、知的・肉体的活動も混乱する。セックスに関する禁止を強めると、子どもたちは、未成熟で神経症的な状態から抜けられず、猥褻で裏表のある人間になってしまう。そして、遠からず自分や子どもたちの幸せを奪うことにもなる(4)

 知識ばかりを詰め込み頭ばかりが大きくなる。性的倒錯者は、こういう面からも生まれる。さらに、葛藤のせいで、多くの子どもたちは宗教的な信仰を失い、無神論者になったり、自分の内外に指針がないままに混乱したり、あるいは行きあたりばったりとなり、浅薄で不幸な人間になっていく(4)

 子どもがセックスに疑問を持ったときに、例えば「赤ちゃんはどこから来るの?」という疑問を投げかけてきたときに「コウノトリが運んでくる」等と言えば、子どもは感覚的に親が嘘を言っていることを見抜いて、そのことを親に質問しなくなる。信用できない親だと思わせてしまい、一切の性的な質問はしなくなる。そして、誤まった情報源、インターネットや悪友から、わいせつな情報を知ることになる(4)

マスターベーションをしたことがない10%の子どもは、そのほとんどが、その後の人生で、ノイローゼや性的倒錯者になったり、性的不能や不感症に苦しめられているという。「愛」が「偽善」になってしまい「愛」を知らなければ、どうして「愛」を育むことができようか(4)

快楽としてのセックスは犬畜生にも劣る

 けれども、快楽のためのセックスは、「犬畜生にも劣る道」である。セックスは「快楽」や「遊び」のために神様が創った行為ではない。確かに動物は繁殖のために交尾をする。メスは強いオスの遺伝子を遺すためだけに相手を探しセックスをし、オスも自分の遺伝子を遺すためだけにメスを探しセックスをする。けれども、動物等の獣でさえも繁殖一心にセックスを行う。「誰それとのセックスは心地よくない」だの「相性が悪い」だの戯言を言うエゴのセックスはしていない(2)

まずは子どもを作るための人間としてのセックスをしよう

 まずは人間になろう。人間には本能を司る爬虫類脳、感情を司る動物脳、理性を司る人間脳と三つの脳がある。この三つをすべて使いながらセックスをしよう。それが「人の道」である(2)

 セックスのポジティブな面を見てみよう。一人の男性と関係を持つことと、複数の男性と関係を持つことと、どちらに喜びを感じるだろうか。幸せを感じるだろうか。最も大切なことは、したい相手とだけしたいときに行い、求められてもムリな行為はせず、喜びを感じることである(18)。結婚してからセックスをしなければならないという因習に縛られる必要はない。互いに気持ちが、晴れやかな気持ちで嫌な思いをさせない相手であれば婚前であっても関係ない(22)

 セックスは悪いことではない。それどころか、私たちの祖先が連綿と行ってきた「人の道」を歩むキッカケを与える基本である。日本の神社は「セックス」を大切にしている。神社などにある「しめ縄」は、「蛇の交尾」から連想されて作られたシンボルである。子孫繁栄は、共同体社会には最も大切なことである。したがって、セックスを行うことによって祖霊たちが喜び祝福しに来る(6)

 子どもを授かり、その子どもをしっかりと育てることは、神さまから祝福される行為である。生活に余裕があるにも関わらず「子育ては面倒」「子どもなんていらない」「自分たちがワクワクできるいきかたが最高」という生活を決め込むカップルは霊的には罪である。一方、シングルであっても逞しく子育てをされているお父様、お母様方は、祖霊たちも頑張ってサポートしてくれている(6)

相手のことを考えるエゴがないセックスが神への道

 けれども、「子作り」という考えも論外である。「子どもは作るものではなく、神様から授かるもの」だからだ。そこで、人間としてのセックスができるようになったら、「神の道」への歩みが始められる。「相手が心地よい時間を過ごせるようにしよう」「自分は無いのだから」と男女がともに、こうした胸中でセックスを行えたとき「無我のセックス」、すなわち、「スピリチュアルなセックス」が生まれる(2)

聖なるセックスはスローなセックス

 英領ニューギニアのトロブリアンド島民は、文明人のセックスをからかって、男女の観衆の前で、忙しく、落ち着きのない、ぶきっちょうな文明人の愛のテクニックとしてマネしてみせる。

 お客は、この低級なセックスの演劇をおかしがるが、それは俳優たちが誇張しているのだと信じている。彼らの経験によれば、それほど準備不十分で、それほど本番を急いだら、どんなカップルもセックスを楽しむことはできないはずだから。彼らはこんな説明をする。

「一時間たつと祖先の魂が目覚めて二人の結びつきを祝福しにくる」(5,6)

 実際に結合するセックスは普通、5日に一度。4日はしっかりと抱きあって、肌を密着させて眠って性器の接触はしない。セックスをするときには、前戯や抱擁や愛撫に最低1時間をかける。お互いの心と体が緩んでなじんだときに、女性の中に挿入していく。挿入した後は動かずに、じっと抱きあっている。じっくり時間をかけることが、南海諸島の性分化に共通している特徴なのである(5)

 これらトロブリアンド諸島の恋人たちにとって、セックスを長びかすことは義務であり、祖先の霊に対する務めなのである(5,6)

マスターベーションを聖なる儀式として教えるメラネシア文化圏

 裸族(未開人)にとっては、女性の胸、陰門、あるいは男性の陰茎は、エロティックなものではない。そこから子どもが生まれてくる神聖な身体の一部である。性衝動を無理矢理絶つことは、幼稚なスピリチュアルで立ち向かわない「臆病な教え」である。マスターベーションは大人になるための通る道だと子どもたちに自覚させ、その成長を温かく見守り、性の衝動を克服したりコントロールすることが大切だと諭すことが霊的な性教育である(4)

 そして、メラネシアの文化圏では、マスターベーションも「罪悪」や「堕落」とは教えず、「成人になるための儀式」として教える。マスターベーションを「聖なる儀式」だと教育された子どもたちは、嫌悪感による落ち込みといった葛藤に邪魔されることなく、リラックスして、満ちたりた幸福感を味わう。健康で、幸福で、恥ずかしがりやで、人形や遊びに夢中な温かく、無邪気で天真爛漫な子どもとして、朗らかに成長してゆく(4)

 西洋的な教え方からは、この教えが否定されるとしても、世界のどこよりも幸せな愛情生活をメラネシアの人々が送っていることを認めないわけにはいかない(4)

現代のセックス観は西洋近代による洗脳

 今の人たちは、誰からセックスを教わったのだろうか。たいていの男性はアダルトビデオ、女性はレディースコミックではないだろうか。アダルトビデオは「見せること」「欲情させること」に主体をおいて制作されている(6)

 すなわち、米国からのポルノ文化の流入でポルノ映像等に見られるエンターテイメントとしてメディアが作り出した「見せるセックス」の影響が大きい。私たちは、西洋諸国からの近代化、文明化のなかで知らず知らずのうちに洗脳されている(5)。セックスを否定的に考えてしまうのも「洗脳」である(6)。現在の洗脳状態から脱却する必要性がある(5)

磁気の交流としてのセックスを発見したジョン・ノイズ

 19世紀半ばに米国人ジョン・ノイズ(John Humphrey Noyes, 1811〜1886年)は、「カレッツァ(Karezza)」と呼ばれるセックスの技法を発見した。

 ノイズによれば、人間には磁気の力があり、男性器と女性器とを深く静かに結合すると、セックスを通して相手の体に流れるという。ノイズによれば、セックスの目的は、互いの性器を通じて磁気の交流がなされることである。それがなされれば、男女ともに性感がとても高まり、これまで味わったことがない、深く豊かな喜びに満たされるという(5)

アーバンの理論ではセックスはオーラーの交流である

 この理論を発展・研究したのが、米国人の精神科の医師、ルドルフ・フォン・アーバン(Rudolf von Urbantschitsch,1879〜1964年)である(5)

 アーバンは、相思相愛で結婚した二人がベッドに裸になって、強く抱擁しあい、愛撫しあったままなにもしないで一時間過ごし、真っ暗な部屋で二人が体を離すと(5)、妻の体から緑がかかった青い光に包まれ超越的な歓びがもたらされた事例をあげている(5, 23p133)

 イギリスの詩人、ピーター・レッドグローヴもつぎの例をあげる。

「横で眠っている妻が彼の中に浸透し、あたかも二つの身体がひとつに溶け合ったように感じた。部屋が金色の細い糸でいっぱいになっていた」(23p134)

 アーバンはいくつかの実験を行い「長時間、体を密着させておくだけでも、心の安らぎや満足感が得られる。前戯を行わず、いきなり性器の挿入をした場合、女性の体から発光現象が起きず、お互いに満足感はなかった」という結論を得る。この考え方は、「セックスの性愛機能ないし磁気機能は生殖機能とは分離されうる」というノイズのカレッツァ理論と一致した。このため、アーバンはキリスト教文化の影響を受けていないいくつかの未開の部族の性習慣を調査した。とりわけ、アーバンが興味を注いだのは、ポリネシア人のセックスであった(5)

ポリネシア人は現代の摩擦によるセックスを幼稚なセックスを見なす

 「宇宙は波動で満ちている」と言われているが、粗雑な物質世界(Gross Material World)では「摩擦」「波動」が鍵となる。セックス、オナニー、性風俗店でのボディマッサージ等の「性的な行為のほとんどすべて」には、摩擦がつきものである。例えば、女性がオナニーするときには、バイブレーターやローターなどの超振動を起こすような機械器具を性器に当てて快感を得る。性風俗店での男性の場合でも、手で性器をこすったり、女性が男性の身体に自分の身体(口など)を使ってこすり付けてマッサージをする。ほとんど、すべてが摩擦である(14)

 このように、現在、知られているセックスは、性器を激しくこすり合う「ペニスとヴァギナを用いたマスターベーション」にすぎない。動物と同じ「交尾」で「アニマルセックス」ともいえる(5,6)

 ところが、ポリネシア人たちは、ピストン摩擦、振動のセックスを馬鹿にする。その行為が動物的で、人のセックス(ポリネシアン・セックス)ではないからである。そして、研究者たちの報告から、ポリネシアの人たちが、ほとんど摩擦なしにオーガズムを体感して夫婦生活を満喫していることが、明らかになっている(12)

 メラネシアの人々も、性的に正しく成熟できていない子どもは、愛の達人になれないと考える。例えば、女性の場合では、膣で感じるのが大人の感覚であり、クリトリスで感じる快感は未熟である。そこで、この感覚を捨てきれず、パートナーとの性交で解放感のあるオーガズムを得られない少女は、欠陥があるとみなされて結婚できない(4)

 ポリネシアの島々の人たちは、クリトリスの刺激によるオーガズムを「悪魔との交わり」と感じ、優しく静かなオーガズムを得るために、そこへの愛撫は一切行わない。すなわち、ヴァギナで感じることを知らないクリトリス・オーガズムは強く否定され、男性も愛撫の際に女性のクリトリスを一切刺激してはいけない。そのオーガズムは幼稚なもので、大人の女性ならば卒業しなければならないし、クリトリスを刺激してくるような男性に逢ったら、その低俗な男性から離れ結婚せず、セックスをしないことも大切だという(5)

 また、激しい摩擦(ピストン運動)でしか射精できない男性は一種の「不能」で(6)、ペニスだけの摩擦を行う男性も同じく離れた方よいとされる(5)。女性の膣内で摩擦もせずに一時間以上勃起を保てるようでなければならない(6)

ポリネシア人は身体のふれあいを大切にする

 ポリネシア人はセックスに限らず、肉体的な接触をとても大切にする民族である。例えば、母親は赤ちゃんを裸の背中に乗せて仕事を行う。また、子どもをなだめるために、母親がその子の背中を長い間さすって、気を静める習慣がある(5)。育児では、赤ちゃんをずっと抱っこして育てると、精神面がよく発達することが最近の研究でわかってきているが、これは、母親の霊的エネルギーを赤ん坊は沢山受けられるからである(13)。母親が子どもを抱っこすると、抱かれた子どもはその「補い合い」を心と身体で受ける(3)。子どもは密着した母親の体から伝わる「気」によって、緊張感が和らぎ、安心して機嫌よくスヤスヤ眠れるのである(5)

古代日本人のまぐあい

 このメラネシアの考え方は、日本の先住民やアメリカ先住民の教えに近い。そのうえ、古代中国やインド、ギリシャ西洋文明でも、マスターベーションには「神聖な役割」が与えられてきた(4)

 ポリネシアのセックス文化は、私たちの祖先である日本先住民の間にもあった。縄文時代や弥生時代の日本人はポリネシア人のように「おおらか」で「おひとよし」な民族だった(5)。例えば、いにしえの日本人はセックスのことを「まぐわい」と呼んでいた。「まぐわい」とは「目を見合わせて愛情を通わせること」を意味する(5,6)。すなわち、目を見合わせて愛情を通わしながら、お互いに身体を接触させ性器でつながることなのである(6)

優しく静かなセックス=エネルギーの交流

 互いの体にふれて、愛撫を繰り返すうちに、相手の体から生体電子(気、霊気、プラーナ、エーテル・バイタリティー、オド、オルゴン等)が流れ出て、それが性器を通じて交流する。生体電子の交流がうまく流れ始めると、幸福感で満たされた結婚生活が送れる。それは男女の体から発する生体電子を「陰」と「陽」の交流と考えることもできるからである。一方、摩擦やバイブレーションは低次元で「気」の流れがない(5)

 このことからすると、毎晩眼を閉じてお互いに両手をつなぎ数分間、静かに瞑想したり、ベッドに寝ながら抱き合っているだけで、互いの霊的エネルギーの共鳴が高められ、夫婦の霊的絆が深まることがわかる。この方法は現代社会の日本で疲れている夫婦間では有効的な方法であろう(13)

プラトンは愛のスピリチュアルなセックスを知っていた

 ギリシャの哲学者プラトンも、この射精やオーガズムとは別のセックス、愛の関係のことを深く知っていたらしい。愛の性質についてのプラトンの対話篇『餐宴』はこう書く。

「わたしの考えでは人類はぜんぜん『愛』の力の理解が行きわたっておらず、愛神(エロス)をおがむために立派な神殿や祭壇をつくったり大きな儀式をしたりはしない。愛神は、ほかのどの神にもまして、崇拝と名誉に値するのに、彼はいまだにぜんぜんかえりみられていない。

 とにかく『愛』は、すべての神々のなかでも最も人間の味方であり、傷をいやす医者であり、彼の治療こそ人類にあたえられる最大の幸福であろう。

 はげしく……愛と欲求にうたれると……一瞬、自分でもわからない何かを互いに求めあう。それはたんなる性交の感覚的よろこびを求めて二人がそのように真剣に献身しあうのではなく、あきらかに互いの魂が渇望しあうのは、言葉ではいうことのできない何かを求めてなのである」

 プラトンの言う「これ以外のなにものか」は、いわゆる「精神的な愛」として多くの人々が理解するプラトンの愛ではない。インスタント・セックス、即時的な売春婦とのセックスや遊戯感覚でのセックスでは、到底行き着けない霊的なセックス、スピリチュアルなセックスの真髄であろう(5)

空海も愛のスピリチュアル・セックスについて述べている

「セックスにも神霊が宿る」ことを空海も理解していたのかもしれない。空海は、人間のセックスをひとつの経、「理趣経」として整理した。それは、今でも真言宗や真言密教の一日の務めの始まりの大切な経として唱えられている(5)

セックスは祖霊が歓ぶ聖なる行為

 この愛撫、前戯、挿入、結合の間で男女が何を行っているのかの深くまで探ってゆけば、「愛情」という感情が織りなす霊的実践がその先にあることがわかる。男性は深層で自分の体と女性の体に意識を向け、女性も自分の体で男性の体に意識を向ける。この行為は多くの霊的な実践法である瞑想や気功等のワークと符合する。瞑想は「集中する」というよりも、「意識を向ける」と言った方が真を得ている。仏陀が行ったとされる瞑想法も、「息」や「歩行」に意識を向ける等、そのワークを伝える(5)。そして、本当に集中してセックスが行われた場合、男女の脳内では深い瞑想中と同じような脳波が出ている(22)

聖なるセックスでは女性は菩薩となり神と交わる

 即時的なチャネリングを行うチャネラー(霊媒)たちが伝えるメッセージは低次元の世界からのものである。一方、日本では神霊からの神託を得るため、巫女たちは、食べ物を断ち、一昼夜待ち、明け方になって神託を得る神聖なるチャネリングをしてきた(5)。正統で正しい道をゆく霊能者の女性は、処女であるか、結婚した男性以外とは肉体関係にはならないし、無暗に淫らな行為として男性器にふれることもない。巫女が不特定多数の男性と性的な関係を持たないのは、道徳面だけでなく霊的に受ける「霊的縁」を「穢れ」とし、誰かのカルマを自分が肩代わりしてしまうことを避けているからである(13)

オーガニズム=クンダリニー覚醒

 セックスは本当の意味で「神降し」「神霊との交わり」である。女性を依り代(よりしろ)に見たてた神聖な行為である。優しく静かなオーガズムを迎えた女性の表情は菩薩のようなものに変わる。それは「神霊との交わり」であろう。高い世界からもたらされるメッセージと高次元でのオーガズムは同じなのであろう(5)

 確かに、女性のオーガズムは、スピリチュアルとは関係がある。神秘家たちのほとんどは男性だが、「神との一体化」と言われる「クンダリニー覚醒」といわれる状態も、女性のオーガズムを男性が体感したもので、女性が経験するオーガズムを目指していたのではないだろうか。例えば、女性がオーガズムを感じた時には、マラソン等のいわゆるランニングハイで認められるシータ波が観測される。女性はオーガズムに達しているとき、脳全体がシータ波を発し、男性に比べても10倍近くに及んでいる。シータ波が快感の尺度だとすれば、女性は男性とは比べようにならないほどの快感を味わっていることになる。

 そして、女性がオーガズムを感じた瞬間の状態は「クンダリニー」に似ている。例えば、眼球はふだん必ず動いているが、オーガズムに達したとき、わずか数秒だけ、眼球の動きがとまり、放心状態となる。エクスタシーの瞬間には1、2秒だが呼吸も止まる。そして、オーガズムに達するときには体全体が熱くなり汗をかく。これは、性中枢が視床下部にあり、発汗中枢が近いためであり、セックスもスポーツと同じ運動だからかくのではない。そして、エクスタシーの直前に女性の筋肉は急に緊張し、その後にエクスタシーに入と緊張が緩み脱力状態となる。この瞬間には、緊張がとれて放心状態となっている。こうした特徴のほとんどが、クンダリニー覚醒といわれているものとほぼ同じである。このことからすると、女性は、いつでもクンダリニーを模擬体験していることになる(10)

【引用文献】
(1) 2007年9月20日「スピリチュアルと性欲」スピリチュアルラボ
(2)2008年3月29日「スピリチュアルなセックス」スピリチュアルラボ
(3) 2008年4月5日「霊的に「性風俗」や「援助交際」が危険なわけ」スピリチュアルラボ
(4) 2008年4月19日「スピリチュアルな性教育(マスターベーション)」スピリチュアルラボ
(5) 2008年5月3日「スピリチュアルなセックスの真髄」スピリチュアルラボ
(6) 2008年6月22日「神さまの前でセックス」スピリチュアルラボ
(7)2008年6月24日「売春「性器の取扱注意!」」スピリチュアルラボ
(9) 2008年9月30日「〈風俗〉と〈セックス〉と〈スピリチュアル〉」スピリチュアルラボ
(10) 2008年10月29日「女性の〈オーガズム〉と〈クンダリニー覚醒〉」スピリチュアルラボ
(11) 2008年11月24日「スピリチュアルで見たオナニー、マスターベーションの害」スピリチュアルラボ
(12) 2009年5月4日「霊的に「援交」「性風俗」が超危険でマイナスな理由」スピリチュアルラボ
(13) 2009年5月12日「霊的(スピリチュアル) に「セックス、性的サービス」が危ないワケ」スピリチュアルラボ
(14) 2009年5月12日「霊的(スピリチュアル) に「性風俗」が危ないワケ」スピリチュアルラボ
(15) 2009年5月13日「霊的(スピリチュアル)に「援助交際」が危ないワケ」スピリチュアルラボ
(16) 2009年5月13日「霊的(スピリチュアル)に「ブルセラ」が危ないワケ」スピリチュアルラボ
(17) 2009年9月20 日「性とスピリチュアル(売春や買春でのマイナス面)」スピリチュアルラボ
(18) 2010年2月23 日「素敵なスピリチュアルセックスがしたい」スピリチュアルラボ
(19) 2011年7月30日「スピリチュアル的に売春は“ヤバイ”」スピリチュアルラボ
(21)2012年8月26日「〈セックス〉もたしなむ“スピリチュアル”」スピリチュアルラボ
(22) 2013年1月14日「性風俗と瞑想とセックス【スピリチュアル男女の悩み】」スピリチュアルラボ
(23) ジェームズ・レッドフィールド他『進化する魂』(2004)角川書店
posted by la semilla de la fortuna at 19:00| Comment(0) | 魂の人生論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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