2015年08月31日

第42講 人生の目的を探る(7) 中間世の存在=守護霊

前世の記憶がないのは障害を避けるため

 生まれ変わりの研究対象となるわずかな事例を除いて、ほとんどの人には前世記憶がない。催眠を通じて前世までさかのぼろうとしても、はっきりとした記憶が蘇るケースは稀で、大半は断片的なイメージが浮かんでくるだけで、それも真の前世記憶と言えるかどうか疑問が多い。

 なぜ、前世の記憶がなぜないのかの理由はわからないが、おそらく、前世の記憶は今生を生きる上で、障害になることが多いからであろう。「再生して未解決の課題に再び取り組む」には、前世記憶があった方が効果的のようにも思えるが、そうした情報を取り入れてもバランスを崩さないほど、まだ人間の意識や理性が成熟した段階にはないからであろう。

 また、自らの魂は「なぜここに生まれてきたか」を知っている。意識的にわからなくても、自分の心を深く見つめ、現在の境涯やたどってきた道を正しく観察すれば、「今生の課題」は、ある程度理解できるはずである。いたずらに前世にふりまわされるよりは、自らの心と現実を正しく見る方が、霊的成長には有益であろう(13)

因果応報・業の考えは差別思想にもつながる

 輪廻転生と常に連動するのが、カルマという概念である。最も通俗的なカルマの考え方は、「悪い行ないをすると、それが次の生でたたる」という「因果応報」である。

 カルマは、インドの宗教哲学思想で、もともとは「行為」を意味する言葉であり、ウパニシャッド以来の「輪廻転生説」と結びつき、人生で行なったことが、次の生に影響を及ぼす、いわゆる業(ごう)という観念となった。この概念は悪を抑制する効果がある。

 ところが、この概念は「今あの人があんなにみじめな境涯に生きているのは、前世で恐ろしい罪を犯したからだ」「貧困にめぐり遭うのは前世の当然の報い」と差別思想の根拠にもなってしまう(13)

カルマは愛を学ぶための宿題である

 とはいえ、霊信によれば、カルマは、そうした恐ろしいものではなく、魂に与えられた「宿題」のようなものである。ある魂が人生の中で、人を愛することがうまく学べなかった場合、魂は死後の回顧と反省の中で、それを未解決の課題として自覚する。そのうえで、指導霊の助言に従って、愛を徹底して学べるような境遇を選び輪廻転生するのである。

 すなわち、学習が足らないところがあれば、もう一度やり直す、そこで与えられる課題や教材がカルマなのであり、地上の人生は、霊の進化・成長のための学校のようなものなのである(13)

中間生の光の存在は守護霊である

 前世療法では、クライアントが光に包まれた魂の状態になり「中間生」(霊界)に入ると、そこにはたいてい「偉大な存在者」がいると報告されている。その「偉大な存在者」は、転生の意味を語り、今生の苦難が何を意味するのかを教える。ときには、この霊的存在がクライアントに憑依して、セラピストと会話をすることもある。前世療法におけるこの「中間生」状態でのやりとりは、ある種の交霊会となっている。この存在者こそ、守護霊にほかならない(15)

 霊魂は、やり残したことがあったり、さらなる成長を求めるために地上に転生するが(14)、その際に守護霊がどのような人生を選べばよいかを指導・アドバイスをするのである(14,15)。とはいえ、輪廻転生に際して、高位の霊からの指導を受けても、基本的には自由意志で選択する。すなわち、誰もが納得ずくでこの世に生まれてきている(13)

霊的な成長には世俗的な成長よりも苦悩が必要

 霊的成長を考える際に注意しなければならないのは、地上的な価値観と霊の成長とが異なることである(20)。現世の価値観に引きずられて、富や地位や名誉が目的であると考えるのは間違いである(13)。 事業に成功し、幸せな家族に囲まれといった地上的幸福が霊的に価値があるとは限らない。困らず悩まずのほほんと暮らすことは、霊的成長にはマイナスで、厳しい状況で苦悩することが、真の霊的成長をもたらすと言われている。苦悩は、古来から宗教が言うように「神の与え給うた試練」であることが多い。苦悩は霊的な成長に不可欠のものともいえる。苦悩によって、人は物質的世界への埋没から離れ、人生の意味や自らの存在の本質を問い、霊的な課題に直面して成長していく。世俗的な何の苦悩もない人生を思い描くよりも、自らの霊的な課題を探求し、苦悩しつつ魂を成長させていく人生を求めることが重要なのである(20)。すなわち、一見不幸であったり、何の栄光もない人生を歩んでいる魂が、成熟した高い魂であるということもしばしばある(13)

誰も独りではない〜誰もが守護霊から守られている

 スピリチュアリズムの霊信は、例外なく、守護霊の存在を強調している。例えば、カルデック『霊の書』はこう書く。

「貴方の傍にはいつも貴方より優れた者がいる、その人は貴方に寄り添い助言を与え、進歩の坂道を登るのを支え助けてくれている。此の世のどんなつながりよりも深い縁で結ばれ、その情愛は真実、貴方のために尽くしてくれる、その人が貴方の傍にいる」

「守護霊は、どんな悪の巣窟にもいると言う。長い辛酸と苦悩の果てに、その魂が目覚め、改悛して救いの叫びを発するまで、じっと待機してくれている。悩み苦しむ人間にとって、これほどの心の慰め、救いがあるであろうか(15)

 私たちは孤独で生きているわけではない。地上に生きるどの魂にも、それぞれを守り導いてくれる守護霊や指導霊と呼ばれる高位の霊的存在が伴っている。この守護霊は「gardian」、「guide」等、様々な呼び方をされているが、私たちと共に生きており(14)、私たちの類魂のひとつであり、霊的には親や子どもよりも身近な存在である(15)。守護霊は、深い慈悲を持って私たちを見守り、いくぶん人間くささも持っている。直接呼びかけられる存在で、そういう意味では諸宗教が説いてきた神に近い性格を持つ(16)

 ニュートン博士の報告も、各グループには、全体を指導するガイド(=守護霊)がいるとしている(33)。守護霊は、たとえ私たちが罪や愚行を犯しても、それを悲しみつつ、人間の肉欲や我欲に妨げられながらも、私たちが再び成長への道を歩むように何とか人間に助けの手を差し伸べようとしている。同情でも憐憫でもなく、私たちの霊魂が進化・成長の道を歩んでいることを信じ、焦らず、怒らず、忍耐と愛をもって見守っている(15,17,20)

(注) アラン・カルデック(Allan Kardec, 1804〜1869年)は、ペスタロッチの弟子兼協力者となり、教育関係の著作を数多く刊行する一方、親友の二人の娘を霊媒として毎週末に交霊会を開き、人生のさまざまな問題や宇宙観について質問し、自動書記等によって答えを得ていった。その著作が『霊の書 (Le livre des Esprits) 』(1857年)である。

霊的に進化した高位霊ですら、直接「神」を目にすることができない

 霊からの通信は、おしなべて神の実在と神への信仰を説く。けれども、その神は、これまでの諸宗教が説いていたものとはかなり異なる。自分たちが信奉する神が唯一絶対であると主張し続けてきた一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム)が作った神の観念を霊たちは厳しく非難する。神を喜ばせるために壮大な神殿を築いたり、大仰な儀礼をすることの無意味さは、言うまでもない。そうしたもてなしを受けて、喜んで奇跡を起こす霊がいるとしても、それは、あまり霊格の高くない霊であろう(16)

 多くの霊信は、至上の光、尽きることのなき慈しみをたたえた愛、しかし、愛よりも遙かに偉大なものとして神の実在がはっきりと感じられると述べるが、「神の姿を直接見ることなどはわれわれ進化した霊にも不可能だ」と語る。見ることも言葉で表現することも不可能だと述べる。神は「全宇宙」の創造主であり、すべての現象の第一原因で、すべての法則を統御する法則で、無慮無数の世界と宇宙の背後に控えるイデアで、唯一の実在ではあるが、言葉や概念をも超越するものなのである(16)

守護霊を大切にすることが重要

 インペレーターはこう語る。

「われらとて、超越界については何一つ知らぬ。が、われらは信ずる――その果てしなき未来永劫の彼方に、いつかは魂の旅に終止符をうつ時がある。そこは全知全能なる神の座。が、それ以上は何一つ知らぬ。あまりに高く、あまりに遠すぎるのである。汝らはそこまで背伸びすることはない。生命には事実上終末はなきものと心得るがよい。そしてその無限の彼方の奥の院のことよりも、その奥の院に通じる遥か手前の門に近づくことを心がけておればよい」

 すなわち、もっと身近な高級霊、とりわけ、私たちを守り導いてくれている守護霊に対する信仰を育てていく方が望ましい(16)

42William Moses.jpg(注)霊媒、ウィリアム・ステイントン・モーゼス(William Stainton Moses, 1839〜1892年)は、1873年から、霊信の受信方法として自動書記を採用、「ドクター・ザ・ティーチャー」という署名で、霊からのメッセージがもたらされる。その数年後、書記の筆跡が変化し、「インペレーター」と名乗る高級霊を主とする49名の霊団による大がかりな「霊的指導」が行なわれるようになった。霊信の内容の高貴さに加えて、自らが霊媒として起こす物体浮揚、自己浮揚、アポーツ、芳香・音楽現象などの華々しさ、そして当人の人格の高潔さから、当時のスピリチュアリズム運動の中核的存在となった。

守護霊は日本の伝統的宗教観と合致する

 古来、日本人は、祖先霊や産土(うぶすな)神と身近で個人的な神格を崇拝してきた。宇宙創造神に祈願する等といった傲岸不遜さはなかった。そこで、日本人には、この守護霊信仰は、さほど違和感がない。スピリチュアリズムに影響を受けた戦後日本の新宗教の一部が、守護霊信仰を前面に出しているのも、そういった風土があるからであろう。

 ある意味で、スピリチュアリズムは、霊的感性が豊かだった日本人の信仰を、近代的に復活させたものだとも言える(15)

守護霊信仰は民主主義的

 守護霊信仰とでも呼ぶべき、このスピリチュアリズム霊学は、きわめて画期的なものと言える。それは、良い意味で民主主義・個人主義である。それぞれがそれぞれの場所で、それぞれのやり方で、それぞれの守護霊に祈ればよく、神に祈るのに、特別な権威を持った宗教者を必要としない。道を示してほしい時にも、自らの守護霊に聞けばよく、大金を払って、本当に霊能があるかどうかわからない宗教者に聞き、とんだ目に遭う必要はない。さらに、どちらの神が真正か、格が上か、といった争いも起きない。信仰を求めるすべての人が、自らの守護霊と対話ができるようになれば、すなわち、誰もが霊媒になれば、少なくとも宗教組織や権威はもういらなくなってしまうからである(15)

【引用文献】
(12)2006年3月18日「2.基本編―霊信が語る死後の世界―(4)自殺について」東京スピリチュアリズム・ラボラトリー
(13) 2006年3月1日「2.基本編―霊信が語る死後の世界―(5)生まれ変わりとカルマ」東京スピリチュアリズム・ラボラトリー
(14) 2006年3月1日「2.基本編―霊信が語る死後の世界―(6)類魂」東京スピリチュアリズム・ラボラトリー
(15) 2006年3月1日「2.基本編―霊信が語る死後の世界―(7)守護霊」東京スピリチュアリズム・ラボラトリー
(16) 2006年3月1日「2.基本編―霊信が語る死後の世界―(8)神」東京スピリチュアリズム・ラボラトリー
(17) 2006年3月1日「2.基本編―霊信が語る死後の世界―(9)現実世界と霊界の交渉」東京スピリチュアリズム・ラボラトリー
(20) 2006年3月1日「2.基本編―霊信が語る死後の世界―(12)霊的成長とは」東京スピリチュアリズム・ラボラトリー
(21)2006年3月1日「2.基本編―霊信が語る死後の世界―(13)祈りについて」東京スピリチュアリズム・ラボラトリー
(33) 2006年9月7日「3.各論編―中間世セラピーと霊界探究」東京スピリチュアリズム・ラボラトリー

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posted by la semilla de la fortuna at 19:00| Comment(0) | 魂の人生論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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