スピリチュアリズムが最も強調することは、自らが霊魂であることを自覚し、霊的に成長していくことである。成長の課題やプロセスは、それぞれの魂にとって異なる。現世的な成功をめざす若い魂もあれば、困難な環境で苦闘する高貴な魂もある。
スピリチュアリズムは教条主義に陥ることを嫌う。固定した価値観は、霊魂の成長を妨げることが多い。このため、霊的成長について子細に述べた霊信はあまりなく、「愛」「共感」「奉仕」といった、きわめて抽象的な表現が主流である(20)。
セックスはかけがえのなき愛の基盤
人間は、霊魂と肉体からなっている。霊魂が、この困難な物質世界に宿って、そこで成長を果たしていく。霊魂と物質とのぶつかり合いの場が人間の人生である。そのため、物質性を極度に嫌うことは人生の本質に反する。僧院に引き籠もり、極度の禁欲生活を送ることは、一般には推奨されない。
むしろ、健康な肉体を作り、運動の歓びを味わったり、食生活・性生活を適宜に楽しむことが望ましい。
セックスも人間にとって重大な問題である。人はセックスに苦しみ、あるいは重大な罪を犯すことが多いが、肉体を持つ以上、セックスの問題は回避できない。ひたすら目をそむけ、否定・抑圧することがよいことではないことは、心理療法理論でも言われている。
性エネルギーは生きる上での根源的情熱であり、人間からこれがなくなってしまうことは考えられない。手強く、なかなか解決できない困難を、いかに創造的なものに変えていくか、親密な愛情を築くための基礎にしていけるかが、肉体を持つ人間に課せられた課題であろう。
スポーツを楽しんで健康な肉体をつくり、食事を始めとする肉体的快楽を精神的健康の基礎にし、性生活をかけがえのない愛の基盤にすることが大切なのである(20)。
相手への共感力を持って嫌いな人も愛する
多くの霊信が愛の重要性を指摘する。自分が好きなものを愛するのは、まだ未熟な愛である。ナザレのイエスが「汝の敵を愛せ」と言ったように、愛することが難しい相手を愛することが『霊魂の成長(「神の国に入る」)』には重要な要素である。
もちろん、それは最大の難問で、想像力や共感力をしっかりと働かせなくては難しい。想像力と感情は共感をつくりあげる。他者の置かれている状況を想像し、そこに動いている感情に、自らの感情を共振させることが共感である。この共感から「愛」は生まれる。
「共感」は、現実生活でも重要な要素である。他者の痛みに共感できる人は、慈愛を持て、人から愛され尊敬される。共感しえないような、自分にとって嫌な相手にも、その心の奥深くを想像し、そこにある痛みの感情を見つけ出せれば、共感が可能になる。そうすれば、その魂がこれからどのように成長していけばよいのか、想像できる。
おそらく、究極の愛は、霊魂がそれぞれに進化・成長の途上にあるということを、深く信じ、実感することで生じるものであろう。この宇宙を貫いている法則は、すべての霊魂が、進化・成長の道を歩んでいくことである。悪をなしているように見える霊魂も、一時の迷いに囚われているだけで、やがては気づきが訪れ、自らそれを償い、霊魂の責務に目覚めることで再び成長の道を歩んでいく―そのことが真にわかれば、どのような魂も愛せるようになるのではあるまいか。そして、その歩みを続けていくように、宇宙のエネルギーが注がれ続けている。それが神の愛であろう(20)。
共感力がない自己中心的な人は自殺することもある
共感がなければ、真の人間関係は成り立たない。共感力がない人は、他者と関係することができない。相手の感情に無頓着な人は、我執の強い、孤独で不幸な人と言えるであろう。相手とは単なるやりとり、取り引き、攻撃と防御しか生まれない。それは、殺伐とした、孤独で不幸な世界であろう。
自己中心的な観念に浸り、自殺を犯してしまう魂は、おおむね共感が欠けている。死後の世界へ行っても、生前の欲得ずくの攻撃ばかりに囚われ、他の霊魂と関係を結び、さらに成長していくことができない(20)。
自殺がいけないのは霊は死後も存続するため
ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教は、自殺者は地獄に堕ち永遠の責め苦を受けると主張する。この考えは間違いである。ただし、霊からの通信は、いずれも自殺を厳しく戒めている。この世には自殺を考えざるを得ない状況があることは否定できない。けれども、霊学的には、自殺はよいものではない。
自殺は生命や霊魂への冒涜であり、霊魂は肉体の死後も存続するため、「消滅という決着」はないのにもかかわらず、自殺によってすべてが決着するという誤った思いから発しているからである(12)。
自殺した魂は暗い霊界に漂うか、成仏できずに地縛霊となる
マイヤーズ通信はこう語っている。
『いかなる人も自らの命を絶つことをしてはならないと強調するのは、自殺に伴い、絶望、恐怖、すねもの的幻滅感等の精神状態が甚だしく強められる事実があるからである。自殺は通常自分が死んだことに気づかず、そこへ彼を追い込んだムードだけが雲のように彼を包み込み、われわれの側が彼を救済しようと思っても長いことうまく行かない。
感情的な思考や精神的態度な全体が防壁を造ってしまい、それを壊すには当人自身の忍耐強い努力やきっぱりした克己心、なかんずく救済者たる高級霊に対する彼の魂の嘆願懇請によるほかはない。多くの場合、自殺に先立つ暗鬱でくよくよした思いは、ある種の自然霊を呼び寄せ、こうした地妖の類が彼を悩ませ掻き乱し、こわがらせたり苦しめたりする。正当ならざる動機で自殺する者は、しばらく冥府の暗闇に住まい、しかるのちに幻想界の最下部で過ごす」(12)
自殺者は、たいがい自分が死んだことに気づかない。そして、自殺の原因となった、絶望、恐怖、いじけ、投げやりといった気分に包まれたまま、長く停滞を続ける。こうした霊は、高位の霊からの救いも拒否し、暗鬱な境涯の中に長く苦しむことになる。時には生前の利己的な執着から地上をうろつきまわるケースもある(12)。

憑依霊の影響で自殺した場合は憑依霊に責任がある
マイヤーズ通信はこうも語っている。
『憑依霊がしつこく唆した結果、命を絶つに至る例では、当人はしばらく暗闇で過ごすとしても、こうした行為の結果を全面的に償わなければならないのは憑依霊の方である』
すなわち、邪悪な霊の影響で自殺した場合は、自殺の罪は邪霊に帰せられる。ただし、自らの霊魂を低め、邪悪な霊の影響を受けた場合、その責任は当人にある(12)。
高貴な目的から自殺した場合には暗鬱な世界に留まることはない

魂の波動が低下していると低級霊の影響を受ける
死後も自らが死んだことに気づかず、あるいは肉欲・物欲への執着が捨てられずに、現実世界の近くをさまよい、何とか格好な人間を見つけて、それに憑依しようとしている霊がいる。これらが「未浄化霊」とか「邪霊」と呼ばれる存在である。こうした低い霊の影響を受けたり、憑依されると病気や悪事・暴力への耽溺が発生する。
通常の人間がこうした状態に陥ることはない。だが、類は友を呼ぶ。高い波動は高い霊を呼び、低い波動は低い霊を呼ぶ。暴飲暴食や過労等で体調を崩していたり、肉欲・物欲・我欲にばかり囚われているとき、あるいはネガティブな思いばかりにひたっているときに、魂のバイブレーションが低下しているために、低級な霊を呼び寄せることになる(17)。
人間が傲慢になると守護霊も低級霊の憑依を防げない
このような良からぬ霊の影響から私たちを守ってくれているのも守護霊である。とはいえ、人間があまりに傲慢になったり、低劣な欲求や悪の中に好んで突き進んでいったりすると、守護霊も手を出せなくなってしまう。そうすると、低級な霊や未浄化の霊が、その魂に取り憑き、さらに悲惨が増す。守護霊は悲しみつつはるか遠くから見守るしかない。とはいえ、それでも見捨てるわけではない(15)。
なお、憑依されてしまったら、正しい霊媒と強力な高級霊団によって、除霊してもらう必要がある。こうした事態を防ぐには、健康な心身を保ち、とりわけ、低級霊の影響を受けないように、自らの魂を清く保つことが大切である(17)。
めったにないことだが、自然霊の影響を受けたり、憑依されたりするケースがある。これも自らの魂が低下している時に起こる。自然霊は強い力を持つ。このため、悪意がなくても心身が混乱させられる。特定の場所が持つ良いバイブレーションや悪いバイブレーションが、人間の魂に影響を及ぼすこともある。暗くじめじめした陰気な所には低い霊が集まりやすく、明るく清浄な所には高い霊が来ることも事実のようである(17)。
守護霊のサポートを受けるためには瞑想と祈りが有効
このように、守護霊や本霊は、私たちを愛している。それを促している(20)。そして、守護霊の働きは、人間の霊や見えない身体を通してなされている。現実世界と霊界との交渉は、通常の人が考えている以上にある。そう霊は告げている。人間は肉体をまとっているが、同時に霊でもある。霊は肉体や自我意識の中に押し込められてはいるが確かに息づいている。現実世界を超えた霊的存在は、微細ではあるものの、現実の物質とは異なるこの人間の霊的な部分に影響力を及ぼすことができるのである(17)。
インペレーターは言う。
「そのためには、日頃の訓練が望まれる。日頃より霊性に目覚めたる生活を営む者ほど霊的世界の深奥に深入りできる。その種の者には我らの方からも近づきやすい。彼らは地上に在りながら極めて高き霊性を発揮する。何となれば、日頃より霊と交わることを知り、霊的栄養を摂取しつつあるからである。地上生活においては苦しみも悲しみも魂の成長にとって不可欠であることを悟りつつ、なおそれに超然とした生活を送ることができる」(21)

スピリチュアリズムでは、守護霊や高級霊との親密な交渉を奨励し、そのために祈りや瞑想が重要だと説く(21)。瞑想や祈りをおこなう際は、清潔で整頓された場所、加えて群衆の様々なバイブレーションが及ばない場所を選ぶことが望ましい(17)。けれども、その時の心のあり方、霊的な希求の深さだが大切だとして、具体的なやり方は決めてはいない。
キリスト教文化圏では祈りの方が理解されやすいこともあり、祈りについては多くのアドバイスがあるが、瞑想については、あまり細かい言及はない。とはいえ、守護霊・高級霊に思いをこらし、心を開いていくことを主眼にすれば、瞑想も「祈り」に近いものになる。
例えば、マイヤーズはこう言っている。
「祈ることで取るに足らない煩いや些細なことを気に掛ける日常意識から無限意識へと移っていく。疑いや恐れや不信他、神の国の入り口を閉ざしてしまう人生のあらゆる重荷を投げ捨ててしまわなければならない。虚飾と見せかけを振り捨て、われわれ自身を反省する。これを超えてさらに進んだとき、受動状態で神に聴く瞑想へと入っていく。最初は沈黙のなかに自己の霊のかすかな光を見る。そして、その光に刺激される。けれども、まだ「非我」との接触はない。これはまだ統一の初段階である。第二の状態に入ったとき、意識は魂の世界に気づく。第三に、最後の段階、静寂の中で「神に聴く」段階に達する」
内省的・自己探求的な瞑想よりは、祈りの方が望ましいと言えるかもしれない(21)。
人事を尽くして天命を待つ
シルバー・バーチは祈りについてこう指摘する。
「あなた方を悩ますすべての問題や困難に対して正直に、正々堂々と真正面から取り組み、解決のためにありたけの能力を駆使しても力が及ばないと悟ったとき、自分より大きな力を持つ霊に対して問題解決を求めて祈る、完全な権利があるといえる。なぜなら、あなたのまわりにいる者、霊的な目をもって洞察する霊は、あなたの魂の状態をありのままに見抜く力があるからだ」(21)。

自己をさらけ出す祈りにしか効果がない
また、シルバー・バーチはさらにこう言う。
「あなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然である。目的もなく言葉を繰り返すだけなら、それは単に空気の振動にすぎない。心をこめ魂のかぎり、神に触れようと神に従おうと願いをこめる祈りなら、初めてその強さを増し、神のしもべにふさわしいものとなる。自己をさらけ出して、心をひらく、この祈りの行為によって、我々はすべて一つに結び付くことができる」(21)
インペレーターも言う。
「真実の祈りは、守護霊への魂の奥底からの叫び、直情的発露であらねばならぬ。祈りは形式の問題ではない。一語一語述べる必要もない。ましてや宗教的慣習、紋切り型の用語等によって拘束する必要などさらさらない。真の祈りとは、悩める魂を、慰め癒すことのできる霊の手にあずけることである。必要なのは守護霊の存在の認識と、それとの霊交を求めんとする直情的衝動のみである。それには言葉も身構えも形式もいらぬ。むしろそうしたものへのこだわりが消えた時こそ最も真実味を帯びる性質のものである」(21)
マイヤーズもこう言う。
「祈りの効果は、言葉にあるのではなくそのときの心の態度による。神を呼んで神に己の心を開くためには、まず厳しく己れの心を浄めなければならない」(21)
祈りとは他者に尽くすためのものである
シルバー・バーチは言う。
「人のためという動機、自己の責任を義務を自覚した時に湧き出るもの以外の祈りはすべて無視されるがよろしい」「祈りとはただ一つしかない。すなわち「どのように奉仕したらよろしいか、お教えください」これである。この神や人類への奉仕の願い、これよりも大きな仕事はない。これにまさる愛はなく、これにすぎる宗教も哲学もない。どの道で奉仕するかは問うところではない。神法の真理を述べ伝えるか、飢えた人に食を与えるか、苦しむ人の心から悩みを取り除いてやるか、道はそれぞれ違っていても、肝心なことはただ一つ、いかにひたすら奉仕するかなのである」
マイヤーズも言う。
「祈る時は、ただ他人のために、物質的窮乏の軽減のことを願いなさい。己れの利益を図る気持ちがあってはならない。人類同胞への想いに満ち溢れた状態でなければならない。自分自身の小さな個我から出て、あらゆる生命あるものの魂と融合しようとしなければならない。そこで初めて神の前に立ち、祈りのことばを口にし、他人を傷つけたりするものでない限りにおいて、自分の赤心からの願いを述べることができる」(21)
守護霊のサポートを受けるためには他者への奉仕が有効
霊信が強調するものに、「奉仕」がある。奉仕は愛を実践する行為である。自らの利得を手放し、他の存在を支援することは愛の珠玉の行為である。これを非難する人はいないであろう。守護霊は、自らの位置を低め、苦悩しつつ、私たちを守り導いている。それはまさしく奉仕である。私たちは奉仕されているのだから、それを見習い、自分も人に奉仕するのは、自らを高めることになるのは間違いない(20)。
自らの利得を手放すことが奉仕であることから、奉仕することによって社会的賞賛を得たりすることは、本質を損なうことになる。
イエスは「神に捧げものをする時には人に見られないようにせよ。右手のやっていることを左手も知らないようにせよ」と述べている。すべてを他者の救いのために投げ出す高貴な魂も実際にいるし、神を真に信じる魂はそれをめざすべきであろう。
とはいえ、さらに厳密に自己の満足感を得たり、奉仕が自己の霊的成長につながると思うことさえも奉仕の精神にそむくものだとしてしまえば、奉仕はほとんど成立しえない。 自己の欲望や利得を抑えて、人のため世のためになることをしよう、と素直に考えるべきであろう。思いつめると苦しくなる。ある霊信でも「むずかしく考えたり、大それたことを企図したりする必要はありません。最初はともかく、人に優しく、親切にしなさい」と述べている(20)。
宇宙との調和の祈りは満たされる
シルバー・バーチは言う。
「宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもある。肉体に宿るがゆえの宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りである。これは必ず叶えられる。なぜならば、その魂の行為そのものがそれにふさわしい当然の結果を招来するからだ」
マイヤーズは言う。
「もし全体が一つの心になって魂の底から祈りのことばを唱えるならば、大勢が集まってする祈りには霊的な力がある。その祈りは永遠の霊に届くばかりでなく、世の暗闇に霊感の明るい燈火を投げかけ、それが礼拝を意に介さない心の薄暗がりに灯りを点す。なぜなら、霊の吹き込まれた想念が熱烈に信念をもって発せられると、それは空間を伝播し、無分別、無自覚な心のなかに浸透するからである。そのときの音声がエーテル中を伝播して地球の最果てまでも伝わり、それを受信すべく同調した装置によって聴取されるように、ある目的と必要性から集団で全身全霊をもって祈る人々は、時満ちて豊かな収穫をもたらす種を蒔いているのである」(21)
祈りがかなえられるのも守護霊の働き
この守護霊の導きをさらに得るためにも、肉欲・物欲・我欲を鎮め、祈りや瞑想の時間を持ち、あるいは霊的な書物を読み、さらに人に奉仕することに努めることが必要である。それができなくても、ともかく自らの守護霊に祈ることである。「私の霊が高く清められますように」という祈りは必ず聞き届けられる、なぜなら、その祈り自体が清めそのものだからである(17)。そして、私たちが守護霊にそれを願う時、それは必ずかなえられる(20)。
インペレーターは、こう言う。
「真実の祈りは、守護せんとして待機する背後霊への魂の奥底からの叫びの、直情的発露であらねばならぬ。祈り――魂の無言の希求を読み取り、それを叶えさせんとして遥か上界との連絡の労を取らんとして待機せる背後霊を通じての神への直情的叫び―これは形式の問題ではない。……真の祈りとは……悩める魂を、慰め癒すことのできる霊の手にあずけることである」(21)
人間の如く卑小な存在のちっぽけな思いが、全宇宙を包み込む絶対存在たる神にそのまま届くということはありえない。私たちが神に祈る時、私たちの祈りを聞いてくれているのも実は守護霊である(15)。そして、本当に私たちに必要なものを引き寄せてくれる(20)。
すなわち、祈りの結果はエゴの思い通りにはならない。
シルバー・バーチは言う
「いかなる祈りにも、絶対的な因果関係を変える力はない。スピリチュアルな祈りには自動的に反応が返ってくるが、その反応は必ずしも当人の期待したとおりのものとはならない。それは、その祈りによって生じたバイブレーションが生み出す自然な結果なのである」
インペレーターは言う。
「祈りは人間が勝手にこうあって欲しいと望む通りになるのではない。変え得べからざるはずの法則を喜んで変え、気まぐれな要求に応えて、てくれるが如き神への他愛なき幻想が、祈りの観念を大きく傷つけてしまっている。そのようなことを信じてはならぬ!」(21)
絶対存在の愛を受けて、私たちの祈りをかなえ、成長のためにならないものは却下してくれるのは、私たちの守護霊なのである(15)。
【引用文献】
(12)2006年3月18日「2.基本編―霊信が語る死後の世界―(4)自殺について」東京スピリチュアリズム・ラボラトリー
(15) 2006年3月1日「2.基本編―霊信が語る死後の世界―(7)守護霊」東京スピリチュアリズム・ラボラトリー
(17) 2006年3月1日「2.基本編―霊信が語る死後の世界―(9)現実世界と霊界の交渉」東京スピリチュアリズム・ラボラトリー
(20) 2006年3月1日「2.基本編―霊信が語る死後の世界―(12)霊的成長とは」東京スピリチュアリズム・ラボラトリー
(21)2006年3月1日「2.基本編―霊信が語る死後の世界―(13)祈りについて」東京スピリチュアリズム・ラボラトリー
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