2015年10月11日

第49講 霊としての人間

はじめに

 古代インドでは「科学的知識」「世俗の知識」を「ヴィジュナーナ」と呼んでいた。したがって、科学も超心理学もすべて「ヴィジュナーナ」に入る。古代インドの聖賢は瞑想によってヴィジュナーナの限界を既に見極めていた。このため、ウパニシャッドなどの聖典は「霊的知恵」である「ジュナーナ」でなければ理解できないと言い切っていた(5)

「スピリチュアル・精神世界」分野に興味をもつ人ならば「超心理学」を一度は耳にする。この9月に世を去ったが、本山博(1925〜2015年)は、この超心理学研究の先駆的人物の一人であった(5)。経絡や気の流れなどの微弱な電流をとらえる事で、それぞれの人の魂の質や状態を明らかにする研究をおこなっていた(6)

 本山は、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、ヒンドゥー、仏教、密教、禅、神道、科学にも深い洞察を持つ研究者で(2)、科学者として国際的に知られている人物である(6)。同時に、霊的能力も有する宗教家という肩書も持つ(5,6)。このため、世界的に著名な超心理学者J.B.ラインからも認められていた(5)

本山は霊能力者である

10motoyama.jpg 本山博は、幼少期から霊的能力を持つ養母から厳しい修行を受けてきた(1p29)。隠れてはいるが、日本には、神道の霊能巫女・霊媒巫女がかなりいる。古くは教派神道大本(おほもと)の出口なお師がそうであったが、本山博の御母堂、本山キヌエ師も木村藤子さんと同じような神道系の霊能巫女・霊媒巫女であった(3)

 このため、幼い頃からアストラル次元の霊も見えた(1p30)。24歳のときからはヨーガ、チャクラへの精神集中をはじめ、幽体離脱やクンダリーニの覚醒経験もした(1p31)。ただ、本山博は『スピリチュアリティの真実』(PHP研究所)で「チャクラ」とかはあまり意識しない方が良いと付け加えている。ダスカロスも東洋的なクンダリニー系のヨガは危険なので薦めていなかったが、本山も初心者がチャクラを意識し始めてヨガを行うとバランス崩すと述べている(2)

 とはいえ、それ以降は、光輝く神の姿が見え、信者が困っていることも聴かなくてもわかるようになった。信者の祖先の姿や前世で冒した罪や善行も映画をみるように一瞬でわかるようになった(1p33)。三昧に入って超意識で何百例も人々の前世を見てきた(1p23)。本山はチャムという可愛い利口なネコを飼っていたが、玉光神社から1kmほど離れた井の頭公園の池の橋の上から「お宮の門のところまで迎えにおいで」と念じてネコとつながることができた(1p25)

48玉光.jpg また、病気もレントゲンを見るようにわかるようになり、アジナチャクラから力を送ってその病気を治せた(1p32)。超心理学の国際学会がメキシコシティで開催された折には、神の助けを受けて心霊治療で癌の手術も成功させている(1p34)。これは、ヨーガでいうカラーナの次元へと霊的に成長を遂げたためである(1p33,1p74)。本山も、ダスカロスと同じく、鍼を使ったり、遠隔ヒーリングをしていたヒーラーでもあった(6)

 スピリチュアル・ラボのTeru Sun氏は、本山を稀有な霊能者でヒーラーとして生きていたダスカロス(4,6)や葉室宮司、ダライラマ、シュリ・ラマナ・マハリシ、ヨガナンダと同じ域に達しているのではないかと評価する(4)。Teru Sun氏は、本山博の『愛と超作―神様の真似をして生きる』はスピリチュアル・ビギナーにもベテランにも納得できる「人生を無駄にしないための有益なスピリチュアル」がよくまとめられているし、『祈りと救い』もおそらく現代の日本では唯一の、祈り方の技術書である。また、『神秘体験の種々相―自己実現の道』も類い稀なる名著であると評価する(4)。そして、本山は講演では「魂は在る」という考えを淡々と述べるが、同時に独特の言葉遣いで聴衆をドッと笑わせたりしていたという(6)

 以下は、1999年の著作『宗教とは何か』のまとめである。

宗教の本質とは聖なるものとの出会いである

 宗教学者、ギュンター・ランツコフスキーは著書『宗教現象学入門』で「宗教の本質を規定するものは聖なるものである」と語っている(1p17)。宗教史学者として有名なミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade,1907〜1986年)は著書『宗教の歴史と意味』で「宗教とは聖なるものと人間との出会いである」と語っている(1p3)

完全な人間は人間が身体・心・魂からなることを自覚している

 この聖なるものとの出会いは普遍的なものである。とはいえ、聖なるものとの出会いは、霊的存在の次元で行なわれる(1p5)。エリアーデは「完全な人間は聖なるものの経験をその意識構造の一部として持つ」とも述べている。すなわち、多くの人間は現在は忘れてしまっているが、人間は、身体・心・霊からなるホリィスティックな存在であり、霊的次元の存在を自覚していることが、エリアーデに言わせれば完全な人間なのである(1p18)。採集狩猟時代の人々は、身体・心・魂をもった一体的な存在として自然とともに生きており、現代人のように物欲に心を奪われることはなかったであろう(1p26)

聖なるものを経験した人=聖人

 聖なるものを経験した人間は、宇宙・自然・人間についての知恵を啓示される。この宇宙観・自然観・人間観を教え、人々を助けるために使うのが聖者の役目である。一方、内なる霊にまだ目覚めず、聖なるものとの出会いを経験していない人々は、聖者の教えにしたがって、眼に見えない聖なるものを信仰し、自分の個性を確立し、人々と共存する社会性を身に付けることが人間として成長していくために重要である(1p19)

アストラル次元

 魂(霊界)の最下位に存在するのは、アストラルの霊界である(1p70)。アストラル次元の霊もカルマの法則下にあり、存在するためには肉体を必要とする(1p67)。ただし、霊界の身体は物理法則の制約を受けず(1p69)、そのイメージ力で霊界の物質を創造・変化させることができる(1p69,1p71)。このため、霊の心がある想念に捉われて沈んだ状態になると、その周囲は黒い雲、ベールがかかったようになり、他の霊との交渉ができず自閉状態となる。これは何百年も続くこともある。これが地獄である(1p71)

 アストラル次元の霊は、空間の物理的制約を受けず超心理学の対象であるESPで知覚しあう。そして、心が開かれ他の霊と共存・協調できるようになると、想像力が協働して大きな創造力となり、想念どおりのモノを創造したり破壊できるようになる。この想念の力がこの世の霊能者の能力と協働すると、物質化現象が生じる(1p71)

 アストラル次元の霊界では、心は感情と想念(想像力)として働いているが(1p70,1p73,1p130)、物質に強く支配され、独善的で物への執着も強く(1p73)、理性、良心、愛は従属的である(1p130)。アストラル次元の霊に支配された霊能者が利己的で良心に乏しく、人格的に歪みがある人が多いのはこのためである(1p73)。この数千年は人類は、この世の時間でいえば200から300年の周期で死と再生を繰り返している(1p70)

カラーナ次元

 アストラル界でも上界になると、理性や良心が働き、個別的な感情と社会的理性とが両立する(1p130)。さらに、カラーナ界へと霊的に成長すると、いまだにカルマの法則を脱してはいないとはいえ、霊の心の内容はESPに頼らず直感できるようになる(1p72)。また、アストラル次元での例のように感情に左右されて利己的になることもなく、他の霊、人間への愛の働きが中心となる。こうして、魂は個別的な感情と理性による判断と行動とで社会性を両立させることができる(1p73,1p130,1p131)

プルシャ次元

 宗教者が断食や瞑想を通じた自己否定、神へ自己の存在のすべてを託すという全託を続け、自己への執着を離れると、神の次元から宗教者の存在次元へと流入が起こり、カラーナ次元から純粋精神(プルシャ)の次元へと霊的に成長することができる。純粋精神は無条件の愛と彼岸の智恵を持ち、単なる霊能者や超能力者を越え、聖者になることができる(1p75)

 聖なるものとの出会いは、修行者の霊的次元にまで降りてきたものであって、相対的なものである。霊的修行が繰り返されると最終的には神、絶対との出会いが生じるが(1p6)、人間よりも大きな存在である神への絶対的な帰依と神の力の流入、それに伴う人間存在の空化が生じなければ、想念のイメージからは抜け出ることができない(1p112)

唯物論と世俗化への反動でスピリチュアル運動は生じた

 人間は、身体・心・霊からなる存在である(1p132)。しかし、共産主義は人間をモノとして扱い、肉体と社会面だけでしか評価しなかった(1p105,1p132)。一方、資本主義は個人主義的な傾向が強く、心よりもモノに偏り、社会性を忘れている(1p133)

 こうした唯物化と宗教の世俗化の傾向に対して、19世紀前半からイギリスを中心に起こったのが、魂、聖なるものを求めるスピリチュアル運動、心霊研究であった(1p106)。日本では、1800年代前半から1920年代にかけ、天理教、大本教、人の道教団等が出現した(1p106,1p109)

 けれども、1970年代以降は、超能力を前面に掲げた閉鎖性、独善性、反社会的、商業主義のオカルト宗教集団が多く生じるようになる。資本主義社会の競争に敗れた人々がこうした新主教に引かれていった(1p108)。例えば、米国ではカリフォルニア州サンディエゴにあるマーシャル・アップルホワイト(Marshall Applewhite,1931〜1997年)を教祖とする、ヘヴンズ・ゲート(Heaven's Gate)教団の教祖と信徒38人が1997年3月に集団自殺した。能力主義や競争社会についていけない下層階級の人々が、汚れた世界を極度に嫌悪し、肉体は魂の容器にすぎず、性欲と物欲を捨て、神の聖なる国へと帰るのが人類の目的であるとの教えに従ったのであった(1p110)。日本でも瞑想法の技術をビデオとして販売している教団があるが、観想法は禅で魔境と呼ぶアストラルのイメージ世界から抜け出ることが難しい(1p111)

 神経生理学の研究によって、脳部位での細胞の電気活動や血流量の変化、脳伝達物質の動きもわかってきたが、霊的次元の心や魂の働きは、物理的な次元の脳からはわからない。したがって、科学は、身体・心・霊からなる人間存在に対して、どのように生きるべきかの指針を与えることはできない(1p123,1p124)。人間を身体・心・霊からなる存在として、かつ、個人の存在と社会性とを両立させるためには、科学ではなく、独善的・閉鎖的・物質化した宗教でもなく、真の宗教が必要である(1p133)

【引用文献】
(1) 本山博『宗教とは何か』(1999)宗教心理出版

本山博博士の画像はこのサイトから
玉光神社の画像はこのサイトから

posted by la semilla de la fortuna at 10:39| Comment(0) | 魂の人生論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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