現代人は心が健康でないから人に愛を与えられない

すなわち、本当の愛は与えるものであって求めるものではない。けれども、現代人は誰もが愛を求めるばかりで与えようとはしない。一人一人が他人に愛されたいとは思っていても、愛がない。そのために誰も愛を得られずに絶望していく。では、なぜこのようになってしまったのかというと、それは現代人のほとんどが本当に健康ではないからである。本当に健康であれば、人は人に愛を与えることを喜びとする存在だからである(3p66)。けれども、この状況を変えるには頭から入るだけでは難しい(3p67)。
身体から心が健康になると病気にもかからない
ヨーガは体操ではなくライフスタイルである(4p189)。そして、心と呼吸と身体とが結びついたヨーガ体操を行なっていると性格が自然に変わってくる(1p163,3p68)。自律神経が調和すれば、自律神経の中枢が大脳皮質にまで影響し、心がまさに変わってくる(1p152)。例えば、気に入らないことをされても腹が立たなくなり、憎むことがなくなっていく(1p123)。感情が豊かで穏やかで静かになれば、どれだけ忙しい職場にいたり、嫌な上司がいてもストレスがたまらない(4p203)。そして、心が変われば、世の中の不幸や幸いも当人にはいままでのように痛切に感じられなくなる(1p164)。
お釈迦さまが語っているように心身が非常に安定している。これを寂静(じゃくじょう)という(2p37)。そして、心が非常に安定し、感情の起伏が少なくなって安定し、心の動きが穏やかな波を描くようになると、病気になることも減っていく(1p125)。この人間の心の成長は年齢に制約されない。年を重ねるほど進歩する(1p129)。
聖書が読めるようになる
人を憎んだり、イライラしている人が読むのと、心が安定して宗教性が表れてきた場合とでは、聖典を読んでもそのわかり方が違ってくる(1p125)。こうして昔の偉人が言ったことや書かれたことが自分の細胞のはしはしにまで染み込むようになってくると、先人が言った立派なことが身体に備わってくる(1p126)。
歓びが出てくるから明るくなる
涅槃とは空漠たる状態ではなく、心が非常に澄んでいて安定し、かつ、歓びに満ちている状態を言う。世俗的な財産、名誉、権力からではなく、別の歓びが溢れている状態を言う(2p37)。
ヨーガを長く続けていくと心が安定し、朗らかになるだけでなく、心の中に説明ができない歓びが出てくる。いつも明るく、非常に透き通って、歓びの心が心の中に満ちてくる(1p127,3p156, 3p64,4p29,4p198)。毎日が楽しくいい日である。禅宗で言う「日々是好々」の気持ちがあらわれてくる(1p127)。
さらに、ヨーガでは瞑想が入ってくる(3p63)。瞑想が入るとますます楽しくなり、気分が明るく愉快になっていく(3p68)。たとえ、ハタ・ヨーガであっても、瞑想と同じ効果が次第に出てくる。逆に言えば、心の中に歓びが湧かなければその瞑想をやった甲斐はない(4p199)。禅の修業も本当に成功すれば、心の中に無限の歓びが湧いてくるはずである。歓びが湧かず、しょっちゅ癇癪を起こしているようであれば、ニセモノであろう。本当の禅僧ならば周囲に雰囲気も非常に明るくなる(2p184)。
慈悲の心が出てくる
初めはかすかであっても、自分の心の中に嬉しさがあれば人に不親切はできない(3p68)。こうなれば、人を恨んだり、妬んだり、癇癪を起こすといった悪い部分が希薄になっていく(3p64,3p73)。敵と味方の区別も減って相手に同情心を持つようになってくる(3p73)。
すなわち、自分に喜びが湧くだけではなく、あらゆる人、あらゆる生き物にも優しい心が出てくる(4p201)。心が変わりその人の心に慈悲が芽生える。慈悲とは人と歓びを共にし、悲しみを共にすることである(1p167)。つまり、何も言わなくても周囲に向かって愛の光を出している(4p201)。どんな人に対しても、その人が幸せになることを望み、その人が幸せになるためにできるだけ何かをしてあげたいという気持ちが出てくる(3p156)。あらゆる動物に対して愛情が出てくる(4p89)。傲慢にならず、慢心も起こらず、他人に好意が持て、スズメやアリ等の虫にも温かい心がもてるようになる(4p90)。大乗仏教の修行者である菩薩の根本の動機は慈悲である。それを動機としないものは仏教徒ではない(3p157)。
一隅を照らす
見たところは相変わらずくだらない人間であってもだんだんその人の実質が変わっていく(2p61)。その人、独特の雰囲気が生まれてくる(3p45)。自分の内なる歓びが皮膚を通じて外にあふれ出す(1p127)。つまり、ヨーギをしていると、その心境がだんだん表れ、そういう人はその周囲に明るい光を撒き散らしていく(2p37)。そういう人がいるところは必ず明るく愉快になる(3p15)。
これを伝教大師(767〜822年)は「道心ある人は一隅を照らす」と語った(2p37,2p184)。そうすると、周囲の人もそれを感じる。そして、周囲が変われば自分も影響され、よいフィードバックが始まりだす(1p127,2p61)。ヨーガが習慣となると、他人に不愉快な感じを与えない(1p162)。自分にとって好ましいだけではなく、他人からもいい人だを思われる人間になることがヨーガの最終目的である(1p144)。こういう人があちらこちらにでてくると、社会全体が明るくなる(2p184)。そして、ヨーガを毎日する人が何十万にもなれば日本社会は変わる(1p144)。その結果、社会も幸せになるのである(4p91)。エゴイズムがなくなり、他人のことも考えなければならないと思えば、孤独で寂しい生活をしていた人も変わる(3p10)。個人が救われれば社会も救われる(3p11)。
岡田虎二郎先生は愛が出ていた

明治時代の文豪、高山樗牛(たかやま ちょぎゅう, 1871〜1902年)は30代で日本最高のジャーナリストとなり、京大の教授にもなるはずの天才だった(2p183)。東大の学生のときに雑誌『太陽』に次々と論文を出していた(2p107)。けれども、肺病で早く死ぬ(2p107,2p183)。その娘が今日で言う鬱病にかかった。これを治したのが、岡田虎二郎であった。岡田はただ座っているだけで治した。ただ静座しているだけで身体からやわらかい愛のような香りがいつも漂っていた(2p183)。
佐保田博士は、先生からは宗教的な愛を感じたという(4p102)。そして、それまで聖書を退屈な書物だと考えていたが、岡田氏に会ってから宗教的なことに興味を持つようになり、聖書が面白く読めるようになってきた(2p110)。聖書の後で『論語』も読んでみたが、これも非常に面白い(2p111)。
偉大な宗教家は、その人と接するだけで、あるいは、その人と一緒に座るだけで人格の一番深いものが引き出されてくる。その人自身の存在が心の根底から振動を与える。岡田寅二郎はそうした人物であった(2p110)。こうした宗教的な愛がある人が一人いれば、周りの人は皆、幸せになる(4p103)。
ヨーガは宇宙意識に近づくこと

@ 光のイメージが目をつぶっていても見えてくる
A 無理に腹を立てなくするのは偽善者だが、自然に腹が立たなくなり、道徳的に不道徳なことができなくなる
B 智慧が表れてくる
C 生の不滅を感じ、死への恐怖がなくなる(1p165)
D 罪悪感が消える
E 霊的に目覚め回心が得られる(1p166)
F 他人から見てもその人が変化している(1p167)
自分の内なる宗教性を目覚めさせることがヨーガの目的
人間の心の働きの中で一番深いところにあるのは、宗教的な働きである(2p155)。人間にとって最後の力になりうるものは宗教である。宗教がなければ人は最後の力を失ってしまう(2p143)。本当の宗教を持った人は自分の一番に底にある力を発揮できる(2p144)。

ヨーガの目的も、この自分の内側にある神様をだんだんと浄めていくことにある(3p11)。そこで、そして、ヨーガをしていると人間の心の中に宗教性が出て宗教的になってくる(1p125,4p98)。ここでいう宗教とは、念仏を唱えたりすることではなく、自分の心の一番深いところにある神様を呼び覚まし目覚めさせることにある(2p155)。
すべての生物の中心には神があり、それをリアライズする。その思想がインドでは紀元前7〜8世紀にはできていた(3p165)。けれども、これは瞑想以外にはできない(2p155)。そして、ハタ・ヨーガはそのひとつの手段である。すなわち、体操の中に瞑想が入っていると言える(2p156)。
どのような宗教も、立派な宗教であれば、最終的にはキリスト教で言うような愛が湧いてくる(4p205)。それを目的としないものは、宗教という名前がついていても偽物である(3p12)。したがって、自分だけがよくなるためにヨーガをやるのは、ヨーガの精神に反する。ヨーガは人のため、人を幸せにするために行なうのである(3p132)。
ヨーガが充実するとフローライフ「預流果」が誕生する
さらに、ヨーガを4、5年やっていると、自分の感情や欲望に支配されず、自分がやるべきことがはっきりと見え、それをやっていくようになっていく(3p93)。幸せ感が出て、人間が生まれてくる意味がわかってくる(4p29)。
そして、心と身体が健康なだけでなく、それ以上のものが出てくる。例えば、色々なことをするのに向こうから条件が整ってくるツキが出てくる。人生がだんだんと楽になってくる(3p46)。
船やイカダでガンジス河の中ほどの川の流れに乗るところまでいくと、後はほっておいても自然に流れていく。ヨーガを続けていくとこうした状態になる(2p186)。川の真ん中の流れのように人生をおくれる。これを原始仏教では「預流果」といった(2p186,3p74)。なぜ、そうなのか。これは、科学では説明できないが、それは、科学がまだ不十分だからである(3p45)。
【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院
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