現代人は小学校の優等生

自分の中で様々な欲望、怒り、嫉妬といった汚い感情が取りまいていると透明な智慧は出てこない(3p157)。そこで、ヨーガをやっていると物事の善悪や良し悪しがはっきりと判断できるようになる。このため、将来の難を逃れ失敗することがなくなる(3p130,3p157,4p198)。
ヨーロッパ哲学は見かけは立派でも本当の哲学はない
ウィルソンによれば、17世紀以降のヨーロッパの哲学者は、非常に深い哲学を説いているように見えても、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724〜1804年)も含め、半人前、小学生の優等生にすぎないと言う(2p10)。
佐保田博士によれば、現代ヨーロッパの哲学は、みかけは立派だが内実はつまらなく、あまりたいしたものではないと考えている(2p196)。唯物論は哲学ではないし、米国の新論理学も哲学ではない(3p167)。かろうじて哲学らしいものは実存哲学だが(3p115,3p167)、キルケゴールにしても、サルトルにしても、主体性の面がはっきりしていない(3p168)。コリン・ウィルソンは『アウトサイダーを越えて』で、その実存哲学を批判して乗り越えようとしたが、結局は、自分が目指す哲学を生み出すことができなかった(3p115,166)。
キリスト教によってヨーロッパの哲学は発展しなかった
佐保田博士によれば、西洋哲学が駄目になったのは、キリスト教神学が哲学を抑えてしまったからである(2p197)。キリスト教は瞑想中心の宗教ではなく(1p116,2p160)、ギリシア文化がキリスト教に圧倒されてから、ヨーロッパには瞑想の伝統がなくなってしまった(2p160)。すなわち、ヨーロッパには瞑想の伝統がなく、それがヨーロッパ文明の弱みとなっている(2p160)。
ヨーロッパでは宗教はキリスト教、哲学はギリシア・ローマ系思想として区別されている。けれども、これは、ヨーロッパだけの特殊事情である(3p165)。高次元の宗教は哲学であり、宗教ではない哲学は本物ではない(3p165)。ヨーロッパでは紀元前7世紀から始まったギリシア・ローマの哲学が一度途絶えて今日まで伝わっていない(3p116)。したがって、ヨーロッパには本当の哲学はいまだにできていない(3p165)。
客観主義のヨーロッパ思想は虚しくニヒリズムにつながる
西洋思想の根底には客観主義がある。すべての対象を「客体」として外から捉える(4p68)。どれだけ精密に発展しても、科学思想も客観性から離れることはない(3p167)。したがって、心理学も人間を外から研究対象としている(4p68)。
とはいえ、客観的にみれば、一個の人間は、大宇宙に較べて、比較にならないほど哀れである。こうした世界観では悲観主義にゆきつき、人生の喜びは得られない(4p79)。また、ウィルソンは「現在のヨーロッパでもてはやされている合理的な思想は、20年もすれば通用しなくなる」と述べている。現代思想がゆきずまっている以上、より高い次元に飛躍しなければならない(3p167)。
ヨーロッパはようやくはるか昔のインド哲学にたどり着いた
一方、東洋では3000年前からの哲学や世界観が伝わっている(3p116)。哲学と宗教とが対立することなく、哲学が宗教そのものとして進歩していった(2p197)。例えば、インドは紀元前5〜6世紀も昔から心の内部を探求してきた(4p56)。釈迦よりも200年前、紀元前700年にはすでに完成していたヴェーダンダは、人間を内側から捉えようと考えた(4p69)。
ヨーロッパで人間を内側から見ることの重要性が認められたのはようやく200年前からにすぎない(4p70)。したがって、心の探求の面ではヨーロッパよりもインドの方がはるかに進んでいる(4p56,4p71)。最近になってようやくインドが大昔に到達していた地点に近づいているような状況である(4p56)。そのひとつが実存主義だが、マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889〜1976年)やカール・ヤスパース(Karl Jaspers, 1883〜1969年)は東洋哲学、とりわけ、禅をよく学び(2p198)、ヤスパースは瞑想に興味を持ち、毎日座禅をしていた(4p70)。
自分の外に神を求める神霊教と自分の内側に神を求める神秘教
宗教は大きくわけて、自分の外にいる神を信仰する「神霊教」と自分の内側にいる神を信仰する「神秘教」、ミスティズムとにわかれる(1p64)。神霊教は外側に神がいる。このため、その神に対する信仰、お祈りや儀式が伴う(2p66)。神霊教には一神教と多神教があるが(2p64)、日本の神道は多神教の神霊教に相当し(2p66)、キリスト教は一神教の神霊教といえる(1p64)。
一方、神秘教は自分の中には本当の立派な神がいると考える。ただし、一般に我々が「自分」だと思っているものは、エゴであって、神様でもなんでもなく、影にすぎない。しかし、その「自我」の奥には「ほんとうの自分」がいる。すなわち、我々の中にいる魂は私の魂ではあるが、同時にそれは宇宙の魂の分身でもある(2p65)。この神秘教は神を自分の内側に求めるため、儀式がない代わりに瞑想を伴う(2p66)。瞑想して、自分の中に深く入り、自分の中に神を見る宗教である(1p117)。
道徳は他律的なものだと考えるとやりたくなくなる。ヨーガでは自分の奥に神がある。このため、神の命令といっても、自分が自分の命令に従うことになり他律的ではなくなる。一方、クリスチャンは偽善者が多いと言われるが、それは道徳を神の命令だとして受け取るからではないだろうか(2p189)。最も西洋でもスピリチュアル・サイエンスは魂の根本は神様であると考えている(4p16)。
主観主義のインド思想は幸せにつながる
インドでは本当の自分、真我のことをアパラ・アートマンと言う。一方、宇宙最高の魂のことをパラマ・アートマン、ブラフマン、梵と言う(2p70)。では、本当の自分はどうすればわかるのであろうか。インドの聖者が考え出したひとつは「これは本当の自分ではない」「これも本当の自分ではない」とひとつひとつ自分を否定していく修行である(4p138)。すると、最終的には、本当の自分と出会え(4p139)、それは宇宙の広さにまで広がり、宇宙と自分とが同一になる。これをヴェーダンタの思想では「ブラフマ・アートマ・アイキヤム(brahma-atoma-aikyam)」「梵我一如」と言う(2p70,4p84,4p139)。この最初の哲学書ウパニシャッドの考え方は、インド哲学の主流、ヴェーダンタ哲学として続いている(4p139)。
すなわち、客観的に見ていくと自分は哀れな存在でしかない。けれども、主観的に見ていて三昧の境地に達すると自分は哀れな存在ではなくなる(4p83)。そのときの喜びは無限の歓びであり、たとえ、三昧から目覚めた後でもその余韻が続く。瞑想をする価値はそこにある。おそらく、釈迦はそうした人生を送られたのであろう(4p84)。
仏教では禅はとりわけ内向的だが、外面的な要素もある。また、キリスト教は外面的な面が強いが瞑想の要素もある(2p66)。パウロも「もはや我、生きるにあらず。キリスト、我によって生きるのである」と延べ、自分がなくなっていて、私の中ではキリストが生きていると述べている(4p139)。すなわち、自分は神と独立した存在ではなく、神の容器、あるいは神のお宮なのだと考えている(4p140)。
エゴのやりたいようにやらせることが自由ではない
戦後日本は三つの悪の原理がはびこっている。第一は、すべてを物質で割り切る唯物思想である。第二は、欲望の肥大である(3p9)。第三は個人主義エゴイズムである(3p10)。
現代人は、自分がこうやりたいと思えることができれば、それが自由だと考える。けれども、それは外部的な自由にすぎない(3p87)。わがままにやれる。自分がやりたいように自由にやれるということは、エゴが自分の主人公になっているにすぎない(3p193)。本来は、自分の自由意志で行為をしているはずなのだが、その自由意志の選択は、自分の中にある迷い、すなわち、煩悩、エゴに支配されているからである(3p192)。そして、我とつきつめると、我と我との間の対立、矛盾が強くなる。だから、現代人は孤独なのである(3p22)。
けれども、自分だけの力で自分が生きていると考える人は無智な人間である(3p19)。人はたくさんの他人のおかげ、さらに、自然の様々なもののおかげで生かされている存在である(3p20)。仏教では、私は我という考えで厳然と立つのではなく、他人のお陰で我があると考える。これを「四衆の恩」という(3p23)。したがって、「我」が独立して存在するという、ヨーロッパで発達した近代人の考え方はあまりたいしたものではないことがわかる(3p22)。
けれども、ヨーロッパにはエゴの思想しかない(3p133)。ルネ・デカルト(René Descartes, 1596〜1650年)以降、エゴ(自我)は絶対に消すことができない最も大切なものだと考えられている。そして、現代の日本人はヨーロッパ流の考え方をするようになっている(4p131)。だから、現代人は、エゴの観念をだんだんと弱めていくと、生きがいもなくなり、頼りない人間になるのではないかと考える(4p140)。
けれども、実際には逆で、瞑想をすることでエゴの観念がだんだん減っていくと(2p168)、本当の自分がだんだんとはっきりして、生きることに対して非常に力強い信念が出てくる(4p141)。心の悩みはエゴの概念と密接に結びついているため、心の悩みも減っていく(2p168)。我をなくして無我になったときには、天地自然の真理、「法」がでてくる。その真理に依存していると絶対に強い(3p23)。
本当の自由は欲望を抑えることにある
何かをやろうとするのは欲望である。そして、やろうとする欲望を抑えられるところに人間の自由はある(3p86)。イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724〜1804年)は「汝の格率が一般の法則になるように行為せよ」と述べたが、これも同じことである(3p87)。
インドでは、エゴがあるために人間は苦しむのであり、エゴを消すことに人間の理想を求めてきた(4p132)。エゴの観念が強ければ、欲望、怒り、悲しみと自分を中心とした感情がはびこり、一番苦しむのは自分となるからである(3p133)。エゴは本当の自分ではなく、嘘の自我である(3p133,4p136)。それに捉われている限り、われわれは不自由で不幸なのある(4p136)。
インド的に考えれば、この世の人間は自由がなく牢獄につながれた罪人のような存在である。けれども、縛られていて不自由だからこそ生きていられるともいえる(4p132)。とはいえ、こうした不自由な世界から逃れたいという要求も持っている(4p134)。そして、この不自由な世界から逃れるためにはエゴの観念は邪魔である(4p135)。エゴを離れて本当の自分に帰るときに自由になれる(4p136)。
東洋哲学のもうひとつの柱は輪廻転生
東洋哲学には二つの柱がある。ひとつは、一人ひとりの存在の真髄は神であるという考え方である。仏教ではこれを「仏性」があるという。もうひとつは、人間が生まれ変わり、輪廻転生するという思想である(2p198)。
インドでは輪廻転生が信じられているが、佐保田も理論上、そう考えざるをえないと思っている。わずか50年、100年程度の短い人生ではなにもできない。この世でやり残したことは次の世でやると考えないと生きていく勇気や本当の意味での生きがいは感じられない(2p180)。
この世に本当に生まれた目的を知るためには、自分が何かを理解しなければならない(4p80)。輪廻転生をひとつの礎として、その上で人生を考えると、人生観が非常に深くなる。同時に自分の人生を慎むようになる(2p199)。
ヨーロッパのキリスト教は生まれ変わりを否定したが、ドイツの詩人ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729〜1781年)は来世があることを信じていた。自分の仕事はこの一生だけでは完成せず、生まれ変わりがなければ仕事が完成しないことから、仕事を完成したい強い希望がある以上は生まれ変わりを信じないわけにはゆかないと考えたのである。同じことをヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749〜1832年)も考えていたという(2p181)。いま、ヨーロッパでは輪廻転生が次第に認められるようになってきた。そう考えなければ理解できない現象が数多くあるからである(2p201)。
【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院
コリン・ウィルソンの画像はこのサイトより