瞑想=自分がいなくなること

すべてがマーヤだと考えると苦しみは消える
ブッダは、その根本において人生は苦しみであると考えた。なぜ、人生が苦に満ちているのかというと、この世のあらゆるものには実体があって、それが動かすことができないものだと信じ込むからである。けれども、あらゆるものが実体がないものだとわかれば悩みはことごとく消えてしまう。このようにブッダは考えた(2p123)。
ブッダが悟りを開いたときには、「生まれてきて良かった」、そして同時に「死んでもいい」という大変な満足感が生まれたという。この境地を仏教では「般若」の「智」と呼ぶ。ブッダが悟ったときの喜びは、感情に近いものではなく、智慧であったからである。そして、その内容を仏教では「空」と呼んでいる(4p77)。そして、『ヨーガ・スートラ』も、この境地にまでゆけば、人生をすべて解決でき、恐れることも悲しむこともなく、天地とひとつになれる状態が続くとしている(4p79)。
瞑想でシンキング・マインドをなくすと対象がリアルに感じられる
『ヨーガ・スートラ』には八部門あるが、道徳や戒律から始まり、座法や呼吸法が続き、最後が凝念、瞑想、三昧となっている(2p162,4p81)。そして、この『ヨーガ・スートラ』に書かれているように、たえず動き回る心の動きを止め、雑念をなくしていくことが瞑想の目的である(2p161,4p75,4p141,4p143)。
たいていの人の背骨は曲がってまっすぐになっていないが、禅の僧侶で長年熱心に修業された人は背骨がまっすぐである。すなわち、瞑想で大切なことは背骨をまっすぐにすることである(2p170)。とはいえ、コロコロと動く心の動きをいきなりなくすことは難しい(4p144)。雑念を払うためには、心を一定の方向に向けていく必要がある。仏教ではこれを「心一境性」と呼ぶ。「境」とは対象のことである(2p169)。そこで、ひとつのことをずっと思い続ける(4p144)。すると考える想念が消える(4p145)。
あるいは、数を数える「数息観」や結論がでない公案を念じる「公案禅」を行なっていく。このようにしても、いつのまにか想念は消えてしまう(4p146)。
抽象的概念もリアルに掴む=リアリゼーション

画家はたとえ目の前に花がなくても、実際に花を見ているかのように心に花のイメージを描くことができる。こうした能力をさらに磨いていくと、平和や愛といった抽象的な概念も花を見るように実感として捉えるようになれる。すなわち、普通の人にとっての抽象的な思想が生き生きと実感できるようになる。これがリアリゼーションである(2p149)。
そして、次の瞑想(ディアーナ)とは、花や抽象的な愛や平和について考え抜くことである。考えに考え抜くと、もう考えられなくなってしまい、考えていた自分が突如としていなくなってしまい、考えていたことが目の前にあらわれてくる(2p162,4p81)。すなわち、抽象的な概念にすぎないものが花のように具体性をもってあらわれてくる(2p163)。自分が消えて、自分が考える対象が具体的に感じられる(2p164)。桜であれば、自分がなくなり、桜の花だけが存在している。これが三昧であると『ヨーガ・スートラ』は説明している(4p82)。これは、意識を失った状態になるのではなく、非常に充実した状態になる。これが「三昧」である(4p145)。「定(じょう)」とも言う(4p76)。
田毎の月
けれども、さらに、先がある。本当の瞑想の対象は自分である。そこで、三昧に入ると本当の自分があられてくる(4p82)。江戸中期の禅僧、白隠慧鶴(はくいん えかく、1686〜1769年)は「衆生本来仏なり」と語ったが、これは、人間はもともと仏であり、一人ひとりの内側には神様がいるということに他ならない(4p146)。これが観念ではなく、事実としてあらわれてくる(4p146)。
私たち一人ひとりの心を田圃のようなものだと考えてみよう。風が吹いて波が立てば、そこに写っている月も揺れる。けれども、田圃の表面が静まってくると天の月と同じように美しい月が映し出される(2p169)。
瞑想によって妄念をなくしていくと真我に近い美しい自我として、自分の生活の中に自我があらわれてくる(2p169)。
そして、この段階がさらに深まると田圃の水がひあがったように自我の影も消えてしまい、空に月が浮かんでいるかのように真我そのものだけがあらわれる(2p169)。
道元禅師の境地=三昧
仏教も同じで、考えて考えて考え抜くことを道元禅師は「仏法を習うは自己を習うなり」と表現している(3p208)。その結果、道元禅師(1200〜1253年)は「仏法を習ふといふは、我を忘るるなり」。すなわち、エゴをなくすことが修行だと述べている(2p164)。さらに、道元は「我を忘るるといふは万法に証せらるるなり」と述べている。この意味は難しいが、インドでは「証」のことをサークシャートカーラ、本当に自分の目でまじまじと見るように感じることを言う(2p164,3p209)。したがって、普通の知性はモノを間接的にしか見ることができないが、「証」とは直接、対象をつかむことであり(2p165)、ヨーガ・スートラが言う三昧の状況と一致する(2p164)。対象と自分とが区別されず、この世界にあるすべてのものがまじまじと自分を見ている、ということになろう(2p165,2p166)。
シンキング・マインドをなくすと出てくる般若の智慧は高次元の思想

アーサナを通じて私をなくすことがハタ・ヨーガの目的
知性が働くためには「私」と対象とが対立し、エゴがなければならないが、アーサナをやっているうちに、「私」の意識が薄まり、「対象」だけが浮かんでくる(1p153)。そこで、まず、身体をリアライズしてはっきりとつかみ、さらに人間の一番奥にある聖なる性質とも一体化することがヨーガの目的である(2p151)。そして、自分の身体と心と魂とが統合されると本当の魂が生かされるようになる。さらに、層が統一されていくにつれて、その人はトランスフォーメーションしていく。これがヨーガの目的なのである(2p152)。
【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院
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