2016年01月21日

佐保田鶴治のヨーガ禅 マントラとお祈りの効用D

日本では仏教は滅んだ―念仏には意味がないと考えるのは近代仏教学の罪

 昔の日本の本当に信心深い仏教徒は輪廻転生を信じていたが、今ではお寺はあっても仏教の心はなくなってしまった(2p200)。佐保田博士は、ある真宗の若い僧侶が信者から「位牌の前でお経を読んで下さったが、人間死んでから先はあるのですか」と聞かれ「そんなものはない。来世がないのにお経を読むのも、親鸞上人が念仏を唱えよといったのも教訓のためだ」と答えたことに驚き「こんな僧侶がいるのは近代仏教学の罪である」と述べている(2p181)

 佐保田博士は、田舎の小さなお寺で偉いお坊さんが仏教を守り続けているかもしれないが、全体としては仏教は滅んだ、と語る(2p201)。ただ現代人の宗教に対する要求が消えたわけではない。お寺にしても教会にしても、人々の要求に応えられないために人が集まらなくなったにすぎない(2p118)。佐保田博士によれば、心の病気が救えなければ身体の病気も治らず、結果として患者を救えない。本当に病気を治そうと思ったら、宗教と医療が結びつかなければならないのである(2p185)

チベットのマントラは内なる魂、女神への呼びかけ

 インドでは瞑想は基本的に一人で行なうが、多数が集まって瞑想をするときには、マントラを20分位唱えて、瞑想は10分位しかしない。それほど、マントラを大切にしている(4p149)。それでは、マントラにはいったいどのような意味があるのであろうか。

 チベット仏教、密教で最高のマントラ、「オーム・マニー・パドメー・フム」を考えてみよう(4p148)。最初の「オーム」と最後の「フム」は聖なる言葉である(2p75,4p149)。「マニー」は中国語では「摩尼」と書き、打出の小槌のようにどのようなものも出す力を持つ宝、宝珠のことを言う。「パドメー」は「蓮華であるパドマの中にある」という意味である(2p75,4p149)。仏教では、昔から心臓を八葉の蓮華だと考えている(2p75)。したがって、これは、蓮華の中にある宝物、すなわち、「アストラル体や幽体の心臓の中にある魂よ」と呼びかけているのである(2p75,4p150)

 インドでは女神は非常に偉く、女神信仰は、密教の根本でタントリズムとも呼ばれる(4p151)。したがって、このマントラは真言のマントラなのである(4p152)。女神はサンスクリット語では「シャクティ」と言うが、これと同じく「マニー」も女神を表す(4p151)。また、「パドメー」も蓮華を表す女性名詞「パドマ」の呼びかけ言葉で、女神を表している。すなわち、「マニー・パドメー」は「蓮華であるところのシャクティ女神よ」という呼びかけにもなっている。内なる心臓と同時に女神への呼びかけという二つの意味を持っているのである(4p152)

神とつながる祈り=バクティ・ヨーガ

 神霊教では、観音様他多くの神仏をお祭りしてある(2p72)。宇宙最高の自在神(イーシュヴァラ)を信仰して、自分自身の生涯を捧げるつもりで生きていく。これをバクティ・ヨーガと言う。キリスト教や真宗はまさにバクティ・ヨーガである(3p82)。アーメンやオームと同様に般若心経も非常にいい優れたマントラで、宗教的なモノを出すには非常に便利な方法といえる(2p120)

 また、「オン・アロリキヤ・ソワカ」と観音様の名前を唱えることも(2p73,4p162)、宇宙の神々に呼びかけていることであって(2p73)、その意味を何も考えなくても良い(4p162)

観音菩薩マントラによって実際に人は幸せになれる

 さて、ヨーガの道徳律は、殺傷をしない、人のものは取らない、道ならぬ恋をしない、嘘をつかない、モノをむやみと欲しがらない(不貪)という5つの禁戒と以下の5つの勧戒からなっている(2p189,2p191)。さらに、身も心もきれいにする。雑念を持たないようにする「清浄」(2p192)、もがかないで現在与えられた境遇に満足し、ベストを尽くす「知足」(2p193)、「苦行」、「読誦」、「自在神祈念」と続く(2p193)。『ヨーガ・スートラ』によれば、不貪の戒律を守ると自分の転生を知ることができ(2p191)、「苦行」をすれば超能力が得られ、マントラや般若心経を唱えれば観音様に会え、天地の一番高い神様に祈ると三昧に達するとされている(2p193)

 仏には法身・報身・応身の三体がある。「報身」とは、長い間の苦労が功労として報いられることで、宇宙いっぱいにまで広がった身体である。阿弥陀如来がそれにあたる(4p147)。阿弥陀如来は修行して知恵を磨くことによって仏(如来)になっており、菩薩よりも格としては上である(3p17)。けれども、観世音菩薩は慈悲に重きをおく。自分が仏になってしまうと衆生に対して慈悲を施すことができない。そこで、自分は菩薩のままでよいと留まっている(3p17)。すなわち、観世音菩薩も、もともとは「報身」を持った仏なのだが、衆生を救うため相手に応じて便宜的に一段下の姿、「応身」を現したものなのである(2p157, 4p147)

 けれども、マントラや般若心経を唱えると観音様に会うことができ(2p193)、佐保田博士によれば、マントラを唱えたり、聞いたりするだけで、現実に不幸であった人がだんだん幸せになっていくことがあるという。マントラが深層心理や潜在意識に影響することは知られているが、なぜ、そのようなことが可能なのであろうか。佐保田博士は、その理由を潜在意識の世界がマントラによって変わることによって、外的環境も変わるためだからだと考える(4p156,4p161)

人間は自分で運命を作っている

 人間は作られた環境を受身で受け入れるしかないという考え方と環境はわれわれ自身が作っているという考え方とがある(3p189)。ヨーロッパ思想では宇宙を支配するのは、絶対的な人格神である。したがって、人格を持つ自分と神とが対立する。このため、神が我々を審判するという考え方につながっていく。一方、インド思想では自分の意志によって世界が作られていると考える。これは、逆に言えば、運命は自分の自由意志によって変えられるということでもある(3p191)

 2016011803ルイス.jpgバラ十次会日本支部が翻訳したスペンサー・ルイス(Harvey Spencer Lewis, 1883〜1939年)の『ライフ・マップ』によれば、宇宙にはリズムがあり、そのリズムをよく理解し、それに乗っていけば人間の運命も自分で支配できるという(3p188)。すなわち、環境は人間が作るのであって、運命も自分で作っているという考え方がルイスの宇宙バイオリズム思想である(3p189)。人間はキリスト教で言う人格的な神によって運命を決められているのではなく、自由意志で自分の行為を決めている。したがって、この自分の選択に対する責任を非人格的な宇宙の法則によって負わされているとルイスは述べる。これはインドの考え方とまったく同じである(3p190)

自分で自分の環境を決めている=自業自得

 自業自得と言う言葉は、不幸な人に対する冷淡で無常な批評として受け取られがちである。けれども、それは誤解である(3p190,4p64)。自分がやった行いの結果は必ず自分が受け取る。すなわち、どのような環境が自分にもたらされるのかは自分の自由意志によって決定したというのが、自業自得の本当の意味である(3p190)。すなわち、環境は自分が作っており、心の中にネガティブな傾向が強ければ、周囲もネガティブになってしまう(2p83)

前世を含め過去の経験はチッタに格納される

 瞑想の修行が盛んであったインドでは、心の内側が信じられないほど詳細に観察されてきた。その結果、産み出された「行(ぎょう)」と「業(ごう)」の観念にはとりわけ、驚かされる、と佐保田博士は述べている(4p57)

 近代心理学でも一度経験された印象はすべて潜在意識に残され消えずに機会ある毎に記憶として心の表面に浮かんでくることが知られている。インドでも同じことが考えられていた(4p57)

 ヨーガの心理学では、前世の記憶を含めて、すべての経験の残存印象が貯蔵されている記憶の貯蔵場所を「チッタ」と呼ぶ。チッタは神経細胞ではなく、今日で言うエーテル体やアストラル体のように、眼に見えない精妙な物質からできているとされる(4p58)。すなわち、過去に経験された心の印象は「チッタ」と呼ばれる心の土の中にいわば種子として保存されている(4p159)。この集積された膨大な経験のトータルな残存印象のことを「行(サンスカーラ)」あるいは「薫習(くんじゅう)」と言う(4p59, 4p160)

 普段の日常での心の働き、想念も、このチッタから「発現」している。『ヨーガ・スートラ』では、この発現を「転変」と表現する(4p58)

過去の印象、業が現在の外部環境を作っている

 けれども、過去の経験からの残存物は、過去からの記憶「チッタ」だけではない(4p59)。個人が過去において行なった善や悪の行為の残存印象である(4p61)「業(ごう)」や「煩悩」もある(4p59)

 記憶の残存印象である「行」の中には外部環境を作らない記憶もあるが、外部環境を作り上げる種子もある。これを「業」と呼ぶ(4p60,4p159)。「業」はチッタに貯蔵されている「行」の一種だが、心理的な内容に「転変」せず、外界を「転変」する原因となってしまう(4p60)。ただし、「業」は自然世界の設計図のようなもので、そのまま世界を創り出すわけではない。この設計図にしたがって、宇宙を作る根源的な力である、天地のエネルギー源、自性(プラクリティ)が流れ込むことによって、世界が作られていく。要するに、過去に行なった無数の残存印象が種子として植え付けられることで、世界を作る神的な力によって畑が作られていくのである(4p61)。そして、記憶に外界の力を作る力があるのは、無意識の世界が環境を作っているからである(4p161)。外界、すなわち、自分の周囲の環境世界は、個々の瞬間毎に各個人の心によって「発現」されているものだと考えれば、心の操作によって、外界も変わっていくことになる(4p61,4p64)

 よく、ヨーガを正しく習得した人から「このごろ不思議にツキが良くなった」ということを耳にする。これは、守護神の恩加護のためだと考えることも間違ってはいないが、このように考えれば、その理由も理解できるし、ヨーガの神秘性を強調する必要もなくなる(4p64)

運命とは自分が過去に行った行為の結果である

 要するに、インドでは、この世に生まれる前、何千年前、何万年前に考えたり行動した記憶すらも心の奥底に残っており、その記憶が心の動きや運命すらも決定すると考える(1p142)。すなわち、自分が過去に行ったことの結果がカルマ、すなわち「運命」であると解釈する(3p89)。不幸な人、幸せな人、金持ちの人、貧乏の人。こうした現在の外部環境は、前世で行なった行為の結果が自分によって作られている(4p159)。人生には不幸もあれば幸福もあるが、それはすべて過去の蓄積だと考える。これを仏教では因果という(2p199)。ひどい境遇に陥ったりひどく不幸になる人がいるが、それは、前世から持ち越した借金の支払いをしているのである(3p13)。このように考えれば、この世に生まれてくることそのものが運命であって、すべてが自分の責任、自業自得である(3p92,3p108)

煩悩に流されなければ今のカルマを逃れられる

 したがって、仏教流にいえば、人はカルマによって生きている。そして、この借金を返すことが、この世での一番の使命なのである(3p13)。また、こうしたカルマから逃れることが一番立派なことだといえる(3p92)。例えば、つまり、自分の中から湧き起こる激情や怒りや憎しみや欲望等によって悪い意志決定をしてしまうのも運命である。そして、この意志決定に対して、自分が作った運命が実現するように自然の力が働く。そこで、自分で支配できるようにならなければ、外から来る力に操られてしまい、運命の支配を超えることができない(3p85,3p86)

カルマを逃れば功徳が積める

 さらに、肉体が死んでも心が残るとすれば、自殺したからといってすべてから逃れられるわけではない。未来も生まれ変わると考えれば軽率に自殺等はできない。また、自殺をするとその心に悪いものが付くために再び生まれたときには不幸な運命を送ることになる(2p199,2p200)。例えば、エマーヌエル・スヴェーデンボルグ(Emanuel Swedenborg, 1688〜1772年)の『天国と地獄』には、あたかも自分で進んで地獄にいく霊が登場する。神様が悪いことをした霊を地獄に投げ込むことはなく、霊そのものが地獄が好きなために落ちていくのである(3p90)

目に見えない守護霊の世界とつながる

 人間は社会的な動物であって、精神的にも人から恵みをもらい、人に恵むという関係性がなければ生きてはいけず気が狂ってしまう(3p21)。社会的本能から人との交際がなければ生きて生けない(2p145)。けれども、ヒマラヤの山中で仙人が孤独でいられるのは、なぜなのだろうか。佐保田博士は、周囲の植物や岩石とも精神的に交流ができているからだと主張する(3p21)

 最近の心霊科学では、誰にもその人に好意を持つ神様、守護霊が必ずいると考えている。けれども、本人がその神様とうまくコンタクトができないと神様は支援することができない。そこで、神様と連絡をつけるためには「祈る」ことが必要となってくるという(2p135)。眼に見えないものを信じない合理主義者は、左の前頭葉が発達していても右の前頭葉が発達していないが、神仏を拝むと右脳が発達していく(2p136)

 そして、ヨーガをやっていると、自分の死んだ祖先の霊を含めて神様がいつも自分を保護しているとの感じがしてくる。このため、偉い人は狭いところに閉じ込められ外界との交渉を絶たれても孤独のために病気になることはない(2p146)

 要するに、インドでは死んでからも残るものがあり、それを「ダルマ」、「功徳」と考えている(3p106)。良いことをすればこの世でいい結果を受け取り、たとえこの世で受け取れなくてもあの世でいい結果を受け取る(3p107)。すると、来世の運命も保証されてくる。それがヨーガの最高の理想なのである(3p94)

【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院

スペンサー・ルイスの画像はこのサイトから



posted by la semilla de la fortuna at 05:00| Comment(0) | ヨーガの科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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