2016年01月22日

佐保田鶴治のヨーガ禅 サットサンガとカルマヨーガE

サット・サンガ=僧はもともと集団であった

 仏教ではマントラのことを「陀羅尼」と言う(4p152)

「ナモー タッサ バガヴァトー、アラハトー サンマーサンブダッタ」(阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に敬礼し奉る)は、南方の仏教徒が礼拝時に唱える文句で、もともと人間ではあったが、その人間性を極限にまで発展させたブッダを手本として賛美するものである(2p137)

 南方仏教で、仏、法、僧の三宝に帰依する丁寧な礼拝の仕方を三宝礼という(3p37)

 ブッダン サラナン ガチャーミーはその仏が説かれた教えに帰依することで(2p137,3p37)、ダンマン サラナン ガチャーミーは法に、そして、サンガハ サラナン ガチャーミーは僧に帰依することである。

 一人一人の僧のことをパーリー語で「比丘」と言うのに対して、ここで言う「サンガハ」とは僧侶の集団のことである。「サンガハ:は漢字では「僧伽」と書く。「僧」という言葉は、ここから「伽」を取ったもので、本来の僧は、ひとり一人の坊さんではなく、坊さんの団体を意味していたのである(3p37)

自分の心を清めることを誓った人々の集まり

 人々の中には「神性」があるが(3p36)、この内なる魂が汚されてしまっている。そこで、自分の内なる魂をできる限り浄めてから死のう。そのように考える人、覚悟を持った立派な人を善人、中国では君子、ヨーガでは「サット」と呼ぶ(3p14)

 ヨーガは本来、一人で瞑想するもので、この形は禅に残されている(3p35)。けれども、そういう人の集まりを「サット・サンガ」(3p14,3p37)、仏教ではサンガハと呼ぶ(3p37)

集団でお祈りすると波動効果がある

 華厳哲学は最も深い哲学だが、そこでは一人一人が「相入する」という「一切即一」や「一多相入」が重視されている。一人の力は微弱だが、50人が集まれば50倍になる(3p39)。ひとり一人からでる良いバイブレーションが混じり合う(3p41)。そして、観世音菩薩を拝むと、そこに宇宙の良い念力が集まり、それが私どもにも波動を及ぼす。その大きなバイブレーションの海の中でヨーガをやることが大切なのである(3p42)

 キリストの十字架も木造の仏像も、そのものには力はない。しかし、お参りしてお祈りする心が、十字架や仏像に力を与える。すなわち、自分の力を一度外側にプロジェクトし、そこから再びその力を戻してもらう手段が仏像といえる。この自分の力を念力と呼ぶがそれは神秘的なものではない(3p121)

慈悲的な生き方をしよう〜カルマ・ヨーガ

 根本の覚悟ができている人は、金や名誉や権力があっても邪魔にはならない。けれども、多くの人にとっては、それによって人間が駄目になり悲惨な死に方をする(3p12)

 小乗仏教では修行者は「比丘」と言われる。これに対して、大乗仏教では戒律も少なく、出家も不必要で、基本的には在家集団である。その俗人集団で最も大切とされるものは「布施」である。布施は物質的なものに限らず、精神的なものもある。したがって、人に喜びを与える「慈悲」も重要である(3p38)

 本物のヨーガはラージャ・ヨーガである(3p79)。この道を徹底して修行するには社会から離れなければならない(2p95)、「サンニャーシー」といって(2p96)、家を捨ててしまわなければならない。100建のビルを作るようなものである(3p79)。多くの人はそこまではやれないし(2p95)、日本人では誰もできない(3p79)。そこで、社会の中で行動することがそのままヨーガの修行になるやり方をカルマ・ヨーガと言う(2p95)。自分がやる仕事に対して自分の私利私欲を念頭におかず(2p97,3p80)、自分はこういう仕事をするべき使命・運命があると考え、結果に期待せずに行なう(2p97)。仕事の結果、いくら儲かるとか、ただ与えられた仕事を一生懸命やっていく。すると、人間存在の最も奥の価値ある、実質が表面に出てくる(2p97)。マハトマ・ガンディーがその模範的実例であろう(3p82)

 ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda, 1863〜1902年)によれば、世界一のカルマ・ヨーガの修行者は、釈迦である(2p99)。カルマ・ヨーガ型ではないと結局は生活に破綻を来たす(1p103)。自分に与えられた仕事を一生懸命行い、そこに生きがいを感じ、その仕事そのものに歓びが感じられるカルマ・ヨーガ的な生き方ができれば、その人は幸せだといえる(2p104)

インドで仏教が滅びたのはヒンドゥ教と違いがなくなったから

 インドにおいてなぜ仏教が滅びたのかに関しては、仏教がインドの階級思想「カースト制度」を否定したためだという見解が多い。けれども、佐保田博士は、大乗仏教はカースト制度を寛大に認めていたことから、そうだとは考えない。佐保田博士は、仏教が滅びたのは、ヒンドゥ教が大乗仏教とあまりにも似てしまい、見分けがつかなくなり、インド人には在来のヒンドゥ教の方が仏教よりも親しめるために、消え失せたのだと解釈する(3p164)

ヨーガと仏教とは一体のもの

 龍樹(りゅうじゅ, ナーガールジュナNāgārjuna,150〜250年頃)の「中論」は、論理学的な思想でけっして心理学的とはいえない。それが、なぜ世親(せしん, ヴァスバンドゥvasubandhu,300〜400年頃)の超心理学的な思想である「唯識論」へと発展していくのか。仏教史だけから見ていると、その理由がわからない。けれども、ヒンドゥ教の側からこの問題を見てみると、ヨーガの独自の心理学思想が仏教に影響を及ぼしていることがわかる。ヨーガは瞑想の修行法だが、心理学的な分析を行なう。すなわち、このヒンドゥ教の影響を考えなければ説明が付かない。そして、逆に、バラモン系のヒンドゥー教も仏教、とりわけ、大乗仏教によって影響を受けた。

 すなわち、インドにおいては、ヒンドゥ教と大乗仏教は互に影響しあいながら発展し、最終的には仏教は密教的な「真言宗」となり、ヒンドゥ教も密教的な傾向を持つようになったのである(3p162〜163)

 もとからして、仏教はヨーガの一派である。釈迦はヨーガを修行していたし、それまでのバラモン・ヨーガの欠点を直したのが仏教だからである(1p116)

【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院
posted by la semilla de la fortuna at 05:00| Comment(0) | ヨーガの科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: