人の心はドーパミンとセロトニンで理解できる?
フロイトらの精神分析から、無意識や性的欲動といった用語によって人間が理解できるのではないかと考えられた時代がある。これと同じように、20世紀後半には、脳科学の急発展によって、ドーパミンやセロトニンといった神経伝達物質から人間の心を解釈する新たな人間観が急速に広まった。1990年代から広まったこのパラダイムをイギリスの社会学者、ロンドン大学キングスカレッジのニコラス・ローズ(Nikolas Rose, 1947年〜)教授は「神経化学的自己」と呼ぶ(p14)。
米国のプラグマティズムは霊性を脳から理解しようと試みた
霊性が脳と関係するのではないかと脳に初めて着目したのは、米国のプラグマティズムの哲学者、ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842〜1910年)だった。1901〜02年にかけエディンバラ大学でなされた講義内容は、その後『宗教的経験の諸相』として出版されている(p14)。
ジェームズが脳に関心を向けたのにはわけがある。生理学の研究から心理学に向かったことと(p16)、自分自身が青年期に精神病を患ったため、薬物(亜酸化窒素)を用いた経験があり、薬物によって精神が変容することを知っていたためだ(p17)。
このジェームズの発想は時代をはるかに先駆けるラディカルなものだった(p14)。また、ジェームズが精密な「内観」に基づく心理学理論を産み出していったのとほぼ時を同じくして、フランスにおいては、アンリ・ベルグソン(Henri-Louis Bergson, 1859~ 1941年)が「アラン・ヴィタール(elan vital)」を進化のキーワードとする生命哲学を提唱していた(p15)。
二人の哲学者の発想は、臨済禅の見性(けんしょう)の体験を哲学的に表現しようと試みていた西田幾多郎(1870〜1945年)にも影響する(p15)。西田の「純粋経験」の概念はエックハルトのようなヨーロッパの神秘主義者とともに、ジェームズとベルグソンから直接影響を受けている(p16)。
未来を考えられる知性の発達が死の恐怖を生んだ
宗教的な意識を脳の特定の部位や神経伝達物質に還元しようとした生物学的還元論の皮切りとなったのが、M・アルパー(Matthew Alper)の『脳の内なる神の部位』(1996年)である(p18)。旧石器時代以降、人類は地域や文化の差異を超えて、不滅の魂や超越的な力への信仰といった共通する宗教観念を抱いてきたが、アルパーによれば、それは遺伝子にコード化され、脳の特定の部位から生れるものである。蜂が六角形の巣を作り、猫がニャーと鳴くのと同じく人間の脳に先天的に配線されている(p20)。
アルパーによれば不安があれば捕食状況を避けられることから生存率を高まるため、不安には進化上の利点がある。けれども、不安が知性と結びつくと、いつ訪れるかわからない死への恐怖が人間特有の恐怖や混乱を産むことになる(p20)。
死の恐怖を克服するため不滅の魂や神の概念が作られた
前頭葉が発達することによって、人間は衝動を抑制すると同時に未来を予測する能力を手に入れた(p22)。けれども未来を予測する能力は人間に自己の死を自覚させる(p22,p24)。そのため、個人としての消滅の恐怖に拮抗し、バランスを回復させてくれるものが必要である(p24)。 結果として、高度に発達した知性を犠牲にすることなく、死の不安を克服できる認知回路を形成したグループが進化的に有利となり生き延びることができた。永続する不滅の魂や時間を超えて守ってくれる霊的な守護者、神の観念を産み出し、その神に祈ることでストレスを解消できる。髪は外にあるのではなく脳の特定の部位から産み出される。これが「生物・神学」の基本想定なのである(p21)。
神の体験は側頭葉の電気活動なのではないか

前頭葉が発達するとともに、海馬や情動・気分を制御する扁桃核は側頭脳の奥深くに移動する。海馬の細胞は、他の脳の部分よりも電気的に不安定である。刺激がなくなっても長時間にわたって反復して発火する。海馬と扁桃核はシーター波(4~7Hz)で同期する脳波を出しやすい。こうした脳派は祈りやマントラを繰り返しているときにも生じている。マイケル・パーシンジャー(Michael A. Persinger, 1945年〜)によれば、この側頭頭深部での異常な電気活動に由来するのが「神の体験」なのである(p23)。
至福を体験している瞑想者の側頭葉からは特異な脳波が発生している。このことから、側頭葉が宗教性や霊性に関わる脳内の部位だと想定し、臨床心理学者パーシンジャーは「神のヘルメット」を発明する(p22)。

ワシントン大学の精神医学者、クラウド・クロニンジャー(Claude Robert Cloninger, 1944年〜)教授は「自己超越性」という概念を提唱している。
@ 仕事やスポーツに熱中して自分を忘れ、ゾーンに入ってしまういわゆるフロー体験
A 自分は世界の一部で世界を良くするためには自分の生命をかけてもよいとする自然との一体感
B 合理的唯物論の反対で奇跡や第六感、神秘体験を好む精神的な受容性(p30)。
米国国立癌研究所の神経遺伝学者、ディーン ハマー(Dean Hamer, 1951年〜)博士は、この自己超越性がVMAT2と呼ばれる遺伝子の変異に関係すると考える。VMAT2は、神経伝達物質のうち、カテコール(ドーパミン、アドレナリン、ノルアドレナリン)やインドールアミン(セロトニン)を含めたタンパク質の生産に関わる遺伝子である。モノアミン(カテコールとインドールアミン)は細胞で生産された後、膜で包まれて小胞に運ばれるのだが、VMAT2遺伝子が変異して、膜が作られなくなると酵素によって急速に劣化する。このため、VMAT2遺伝子を欠いたマウスは、無気力で短命な上、ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンの量が通常の1000分の1以下と極端に乏しい(p31〜32)。
神秘体験、ロマンティックな恋愛、美的体験の背景には、辺縁系(視床下部、偏桃体、海馬)と脳幹ループが深く関わっている。例えば、辺縁系が刺激されることで視覚連合野へのアウトプットが減少すると幻覚が生じる。神秘体験はここから生じると推測できる(p33)。すなわち、VMAT2遺伝子によって自己超越性が高くなり、それが、人の霊性を決めている。ハマー博士が提唱する『神の遺伝子』(2004年)は生物学的還元主義の極致とも言えるだろう(p29)。
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【引用文献】
永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ