神経現象学〜人類に共通する変性意識には神経学的なベースがある


チベットの修行僧の禅定時の脳活動の変化を調べる
瞑想をしていくと意識が静まり「内なる自己」が表れてくる。この内なる自己は、以下のような特性を持つ。
@ 変わることがない唯一の真実である
A 孤立しておらず万物と分かちがたく結びつき、自分が万物の一部になっている
B 時間を超越している
C その素晴らしさは言葉での表現を超えている(p37)
ダギリ博士らは、8人のチベット仏教の修行僧たちの協力を得て、禅定時に彼らの脳状態がどのようになっているのかを単光子放出断層撮影法(SPECT)を用いて画像化することに成功する(p37)。
上頭頂葉後部の活動が低下することで自己と他者の区別が失われる
その結果、以下の特徴があることがわかった。
@ 前頭前野の活動が増大
A 情動と関連する視床・帯状回の活性化
B 上頭頂葉の後部(頭頂連合野)の活動が低下し、
C 前頭前野左部の活動増加と頭頂葉左部の活動低下とには強い相関関係がある
頭頂葉の左部分は自己と他者との区別や身体境界、頭頂葉の右部分は空間内での自分の位置にかかわる(p30)。一点に集中するという瞑想のメソッドによって前頭前野の活動が増大し、頭頂葉への情報が入らなくなる(p39)。そして、頭頂葉の活動が低下すれば、自他の区別が消滅し、無限なものとの絶対的な一体感が経験されることになる。すなわち、古代から神秘家たちが語ってきた体験を脳活動と結びつけて理解する鍵が得られたのである(p38)。
キリストに祈りを捧げる修道女の脳は右脳頭頂葉が活発
ダギリ博士とニューバーグ博士は、フランシスコ修道院の修道女を対象とした実験で、キリスト教の神秘体験においても同様の現象が起きていることを見出した(p39)。けれども、チベット仏教の瞑想の場合は自他の区別が完全に消え無限と一体となる一方で、キリスト教の神秘体験では、人格神(キリスト)のイメージが残されたままである(p39)。このためダギリ博士らは、能動的瞑想と受動的瞑想との二つのメカニズムがあると考えた(p40)。

頭頂葉への情報入力が完全に失われると「無」の体験が産まれる
けれども、疲労することでイメージに集中する努力が弱まると右脳の頭頂葉に唯一入力されていたイメージも失われる(p42)。その結果、頭頂葉への入力が完全に失われる。すると、これまでの「神秘的合一」体験は「絶対的一者」への体験へと変化する(p43)。また、チベットの瞑想のように、思考と感情を取り除こうと試みる受動的瞑想によっては、頭頂葉への情報が完全に遮断される(p40)。
すなわち、ダギリ博士らの仮説によれば、神経回路の遮断がまだ不十分であると「万物との完全な合一」や「無」だけが経験されることはなく、「神秘的な合一」のレベルにとどまっていることになる。この経験から、自然界の強力な精霊や一神教における「人格神」の観念は産まれた。けれども、この体験は超越されて「絶対的一者」にシフトするはずである。それが、一神教の伝統においても、アヴィラの聖テレサ(Teresa de Cepeda y Ahumada,1515〜1582年)やイスラム神秘主義者のスーフィーたちの伝統でも語り継がれてきた「自己の内部に神はまします」という異端の概念が産まれたのではないか(p43)。
すなわち、超越体験の神と神秘体験との比較は、様々な宗教の間のための生物的な枠組みを与える大きな可能性が秘められているのである(p44)。
ボールガール博士の画像はこのサイトから
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【引用文献】
永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ