亡命者たちの出会い

この亡命先で、ヴァレラ博士は、チベット仏教の導師、チュギャム・トゥルンパ(Chögyam Trungpa, 1939〜1987年)と出会い、仏教の修行をはじめる。その理由をヴァレラ博士は「苦しかったからだ」と答えている。祖国を追われ、残した家族や友人の安否を気づかう不安と苦しみの日々がヴァレラ博士を瞑想へと向かわせた。
トゥルンパも1959年の中国人民解放軍のチベット侵攻によって祖国を追われ米国に亡命し(2p70)、西洋の科学と東洋の伝統とが出会う「ナローパ研究所」を開いていた(2p71)。
さらに、ヴァレラ博士は1983年の国際会議において、もうひとりの亡命者、ダライ・ラマ14世と出会う(2p71)。この出会いが契機となり、最初の「精神と生命」会議がインドのダラム・サラで開催さるのである(2p71)。科学者との対話は1985年以降、継続されることになる(1p240)。
ヴァレラ博士は「認知科学と仏教の瞑想者が共同研究に従事することが今後向かうべき進路である。そうすることは、人間の心に対する理解を深めるだけでなく、実際の科学的実験によって無限の可能性を汲み取ることができるだろう」と述べている。博士は米国の実業家アダム・エングルと共に、「心と命の研究所(Mind and Life Institute)」を設立し、一流の科学者とダライ・ラマ14世との対話を実現させた(1p16)。そして、ヴァレラ博士は2001年の死の間際まですべての会議のコーディネーターを努めていた(2p71)。
そして、この会議には、マサチューセッツ大学医学大学院教授で同大マインドフルネスセンターの創設所長となるジョン・ガバット・ジン(Jon Kabat-Zinn,1944年〜)博士やアイオワ大学医学部精神科医のアントニオ・ダマシオ(Antonio Damasio,1944年〜)博士が参加していく(2p72)。すべては亡命から始まっていたのだ。
ヴァレラ博士によって否定されたダーウィニズムの「最適適応」
ダーウィニズムは以下の三つの原理に基づく。
@ 世代毎に生物が変化することによって進化は起こる
A 遺伝物質は突然変異等によって多様化する
B 変化した個体は自然選択にさらされ、環境に適応するものが生き延びていく(2p236)。
この進化によって最適な適応がもたらされるというダーウィニズムの概念は、ネオリベラリズムのベースにもなっているが、ヴァレラ博士は、これを明確に否定してみせた(2p77,2p235,2p236)。例えば、遺伝子は連鎖していて、ある遺伝子は複数の効果や役割を持つ。ある遺伝子の発現が適応度を高めるとはいえない(2p237)。
例えば、人間の視覚は、網膜にある青、緑、赤という三種類の色に反応する錐体細胞によって認識されている(2p75)。けれども、どの動物の視覚も「三色型」なわけではない。リスやウサギは「二色型」だし、金魚や淡水に棲むカメは「四色型」、ハトは「五色型」である。すなわち、昆虫、魚、鳥、霊長類は異なる視覚世界の中で行きている(2p78)。さらに、それは個体が生き延び、成長して、種として再生産されるという条件を満たすのであれば、どのような構造でもかまわない。常に「最適」である必要はなく「生存可能」であれさえすればいい(2p79)。
ヴァレェラ博士の神経理論は仏教の世界観に近い
1991年に出版されたヴァレラ博士の『身体化された心』は、「オートポイエーシス」理論をさらに神経学的に深め、知覚や認知を身体的な行為の一部であるとみなす「エネクティブ・アプローチ」を提起する(2p74)。
もちろん、ヴァレラ博士のベースとなっているのは、生物学や神経科学であり、仏教の意識論ではない(2p73)。けれども、このようにそれぞれの生命が知覚し、体験する世界は、それぞれの個体に「内蔵」されていることになる。このような体験世界を仏教では「顕現(けんげん)」と呼ぶ。つまり、ヴァレラの「エネクティブ・アプローチ」の認識論は、仏教の認識論ととても深い共通性を持つ(2p80)。
自己とは様々なレベルからなり中心がない幻想である


幅広く神経細胞が共鳴することで意識は生まれる
2001年の死の直前にヴァレラ博士は、「ラディカルな身体」という論文でさらに2点を強調する。
@ 複雑系における「創発」の一般特性の帰結から、神経活動と意識との間には相互的な関係性が存在する。すなわち、混雑した駅での歩き方が個人の自由や好みにはならず集団の流れのパターンに縛られるように、意識も特定の神経細胞群からなる回路のレベルだけでなく、脳全体の神経活動の影響も受けている。
A 意識が成立するためには脳にしばられた神経活動だけでなく、脳・身体・世界がかかわってくる(2p84)。すなわち、意識は幅広い領域での神経細胞の同期現象(共鳴)が関係してくる(2p85)。
20世紀末から21世紀の初めにかけて脳科学は大きく変わる。そのひとつが、神経科学における神経可塑性の発見とヴァレラ博士のエナクティヴなアプローチ、すなわち、創発とトップダウン因果性の概念を理論化し、自己組織化するシステムとして脳が理解されるようになったことである(2p88,2p118, 2p168)。
チベット僧の脳ではガンマ波が異常発生していた

このことが可能となったのは、ダライ・ラマの全面的な協力のもと8人の熟達したチベット仏教の瞑想修行者を被験者とできたことがある(1p241,2p118, 3p173)。
研究対象となった8人の修行僧たちは、平均年齢49歳。15〜40年の修行体験を持っていた(2p119)。隔離された環境で最低でも1万時間、4〜5万時間も瞑想をしていた(2p119,4p119)。
チベットでは伝統的な隠棲修行を3年3カ月行う。午前3時前に起き、夜10時に就寝するまで一日12時間は瞑想し、それ以外の時間も食事以外は、読経や勤行にあけくれる。1万時間とは、この3年3カ月の修行1回分にあたる(2p119)。
行われた瞑想は、心を落ち着かせて、鼻の下で出入りする呼吸に意識を集中する。あるいは、慈悲を表す観世音菩薩としての自分に意識を集中するシャマタ瞑想(止瞑想)、日本の坐禅のように、特定の対象に焦点をおかない無所縁、オープン・プレゼンスな非二次元的な瞑想(4p119)、そして、慈悲心を伴いつつ、オープン・プレゼンスな対象がない慈悲の瞑想を行った場合に、どのような神経変化が起きるのかが彼らのテーマだった(2p119,4p119)。ちなみに、無所縁の慈悲の瞑想とは、心の本質である慈悲が光輝く瞑想で、熟練した瞑想者では自然に菩提心が流れ込むような感覚を受けるという(4p119)。
その結果、慈悲の瞑想を行うと前頭葉前皮質の幸せな状態と関連する左側と右側部分の活動が非常に活発となった(3p173,4p119)。
また、左右の脳でガンマ波で位相同期が起こり、かつて一度も報告されたことがないレベルでの高周波のガンマ波の劇増が見られた(1p243,3p173,4p119)。
ガンマ波は、直感的な理解やヒラメキが生じる「アハ体験」の時に見られる脳波だが、通常では、2〜3秒しか続かない。ヒラメキの場合はわずか0.1秒にすぎない(p129)。ところが、チベット僧の場合、純粋な慈悲の瞑想に入ると、ガンマー波の同期活動が観測されはじめ、ガンマ波の同期活動が5〜10分と(2p127)その3000〜6000倍も長時間にわたって続いていた(2p131)。さらに、修行した時間が長いほどガンマー波活動は大きく(2p127)、瞑想修行者たちは瞑想をしていないときでもガンマ波活動がかなり高い一方、瞑想の初心者は心の動きをコントロールできなかった(1p244)。
これまで脳内でのコミュニケーションは1cm以内の近い部位でしか起こらないと考えられて来た(4p120)。けれども、この研究から大脳皮質の多くの離れた部位が相互にコミュニケーションできることが明らかとなった。脳全体でシンクロニシティが同時多発している。すなわち、相互対話している状態が出現していたのである(4p121)。
このことは、数多くの細胞群が共鳴していることを意味する(2p129)。このことは、高次の意識が局所的な細胞群にとどまらず、広範なネットワークがかかわり、かつ、そうした大きなネットワーク活動が下位にある細胞群の活動をトップダウン的に制御することで、同期による創発を起こしているというヴァレラ理論が正しいことも意味している(2p129, 3p169)。すなわち、人間の高次な精神構造は広範な脳のネットワークと対応していることがわかってきたのである(3p214)。
この21世紀の脳科学は、研究と瞑想の修行の結合から生まれた。ヴァレラ博士も瞑想の修行者であれば、博士からその研究のインスピレーションを受けたウィスコンシン・マディソン大学でリチャード・デビッドソン(Richard J. Davidson, 1951年〜)教授も(2p67)、インドで慈悲の瞑想の仕方を最初に教わって以来、それが非常に効果があったことから、50年近く瞑想をしている修行者だったのである(3p172)。
ヴァレラ博士の画像はこのサイトから
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デビッドソン教授の画像はこのサイトから
瞑想実験の画像はこのサイトから
【引用文献】
(1) マチウ・リーカル『Happiness 幸福の探求』(2008)評言社
(2) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(3) 永沢哲「マインドフルネスと脳科学の可能性」『マインドフルネス最前線』(2015)サンガ新書
(4) バリー・カーズィン『慈悲と智慧の科学』(2016)瞑想を語る、サンガジャパン
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