ダンスを踊ると身体が熱くなるブッシュマン

カトリックの聖人、フィリッポ・ロモロ・ネリ(Filippo Romolo Neri, 1515〜1595年)も神への燃えるような愛を感じると身体全体が熱くなったという。ネリはわずかな食事しかとらず、高齢で痩せた身体であるにもかかわらず、真冬でさえも寒がらなかった。ネリによれば、この『愛の炎(インセンディウム・アモリス)』は、聖霊からの贈り物なのであった(1p118〜119)。そして、チベットのヨギたちも『トゥムモ』と呼ばれるエネルギーによって寒さに対する抵抗力を持つ(1p118,1p210)。
弛緩反応〜瞑想やヨーガはストレスへのレジリアンスを高める

もともとベンソン博士は、心臓医師として出発したが、1960 年代の末から心臓病がストレスに関連することに気づき、当時、米国で大衆化していたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギ(Maharishi Mahesh Yogi, 1918〜2008年)のTMに興味を持った(2p127,4p167)。
1929年 にウォルター・B・キャノン(Walter Bradford Cannon, 1871〜1945年)が提唱したように、ストレスがある状況では人間を含めて生物は「闘うか、逃げるか」(fight or flight)の選択が強いられる。そして、血圧の上昇、心拍数の増大、ストレスホルモンが増大する。これは原始社会においては適応的な反応である。けれども、現代社会においては、身体への大きな負荷、病気の原因となる。ベンソン博士は、宗教的な伝統から、気功、ヨーガ、マントラ、マインドフルネスとこの「闘争―逃走反応」によるストレスを修復・治癒するメカニズムを抽出し、「弛緩反応(relaxation response)」という概念を創出してみせた(2p128,6p204)。
瞑想には、科学的な根拠もある。数カ月程度だと変化はないが、10年くらい瞑想を行っていると遺伝子のレベルの発現が変化するとの研究結果が出されている(6p204)。

また、人生のすべてを瞑想に掲げているような僧侶でなく、普通の人ができる範囲での慈悲のトレーニングでもポジティブな効果があることがわかってきた(7p121)。
火の瞑想の発見

トゥモとは熱を出す修行である。標高4500mのラダックの屋外ではマイナス18℃まで気温が低下するが、その中を裸で過ごすのである(2p129, 4p170)。マイナス18℃の中で、裸で寝れば、普通は、すぐ死ぬ。けれども彼らは、マイナス20℃の戸外で、裸に水をつけた布を巻きつけて乾かす。一番多い人は、真夜中から夜明けまで40枚乾かしたという。そして、震えてもいないのである(2p129, 3p29, 4p170)。そして、インドのダラムサラで行われた屋外実験では最大9.4℃も体温が上昇した(2p129, 4p170)。
トゥモはどのようなメカニズムで体温があがるのか不明
人間が体温を上昇させるやり方としては、アラスカのイヌイットのように代謝を促進して体温をあげる「代謝型」の方法がある。マイナス18℃の中で体温が上昇していることから、トゥムモもこの代謝型と考えられるが、これにはエネルギー源、食料が必要である。そして、チベットの達人の場合には食事もとらなくなるケースがある。すなわち、そのエネルギーがいったいどこからやって来るのか、化学反応をベースとした現代医学や生理学では説明がつかない。安保徹(1947年〜)新潟大学名誉教授は、細胞内でのミトコンドリアでカリウム放射性同位体崩壊によるエネルギー生産が行われているのではないかと推測している(4p292)。
人間の身体は肉体と微細な身体からなる
「トゥムモ」は微細な、目に見えない「気」や「プラーナ」によって作られている身体「微細身」に取り組む瞑想で、この瞑想をすると、非常に強烈な熱や快楽が生まれるという(3p28)。チベットのタントラ仏教の修行僧たちは、死体が散乱する墓場を放浪しながら修行を続けてきた。この中で、後期密教の瞑想と密接に連携して、目に見える粗雑な身体と目に見えない微細な身体の概念、「微細身(みさいしん)」が産み出されてきた(4p173)。すなわち、タントラ医学によれば、生きているときの人間の身体は、眼に見える粗雑な肉体「粗大身(そだいしん)」と目に見えない微細な「微細身(びさいしん)」からなっている(2p130,4p173)。そして、「微細身」は、脈管(ナディ,nādi:チベット語rtsa)、風(プラーナ,prāna:チベット語rlung)、精滴(ビンドゥbindu:チベット語thig le)の三要素から形成されている(2p130,5p17)。
後期密教の意識論によれば、生きている間の心は、肉体を「よりどころ」としており、心と体とは、深い絆によってしっかりと結びついている。「微細身」は、いわばそのインターフェースにあたる(5p17)。すなわち、この微細身が「心」と密接な関係を持つ。その背景には「風=心」(rlung-sems)という思想がある。全身にはりめぐらされた脈管のネットワークでも最も重要なものは、脊椎の中を通る中央の脈管と、そのすぐ左右にある脈管であり、これが脳につながっている。そして、脳は、無数の脈管が集中する場所で、「脈管の大いなる海」(rtsa’i rgya mtsho)と表現されている(2p130)。
微細な身体の内部を移動するプラーナで心は作られる
この微細身の脈管内部を運動しているのが「プラーナ」であり(5p17)、プラーナには移動する「運動性」の意味がある。これに対して、心は「照明し、認識する」という意識の働きを意味している。けれども、タントラ医学によれば、これは、もともと同一のものを別の側面から表現したのにほかならない(2p130)。すなわち、脈管の内部を全身で移動している「プラーナ」は生命維持の機能にかかわる一方で(5p17)、異なる波動や色彩を帯びた光であって、様々な思考や感情等の意識体験は、脈管内を移動する「プラーナ」が運び、その光の異なる色彩ないし波動と対応すると考えるのである(2p130,5p17)。
プラーナのパターンはビンドゥが決めている
そして、このような「プラーナ」=光の運動のパターンを作り出しているのが「ビンドゥ」である(2p130,5p17)。ビンドゥは無数の種類があり、それぞれ脈管の特定の部分に局在すると考えられているが、心身の健康と深くかかわり、食べ物から7 段階のプロセスを経て作り出されるとされている(2p130,5p17)。したがって、身体のみならず、心の健康や意識状態は、どのような食べ物を、どれだけ食べるかに影響されることになる(2p130)。
最先端の神経科学とタントラ仏教との世界観は共通する
この後期密教の「微細身理論」は、ヴァレラやデーヴィッドソンらが提唱する現代の脳科学のパラダイムとはまったく異なる生命観から出発しているにもかかわらず、偶然の一致とは思えない共通性を持つ(2p131, 4p166)。
第一に、風=心=光という考え方は、意識・情報の単位を電気信号のパルスと見なす脳科学の基本と一致する。
第二に、精滴は、神経伝達物質やホルモンとよく類似した性質を持つ。
第三に、タントラ医学では、脈管の「可塑性」が人間の変化の可能性の根底にあると考えるが、これは、近年の脳科学が見出した「神経可塑性」の概念と合致する(2p131, 4p178)。
微細な身体のナディ中を精妙なプラーナが移動するが、このプラーナの移動と心とはもともと一つである。このため、心、プラーナ、ナディ、身体の間では、トップダウンとボトムアップの双方向的な作用が働いている。すなわち、心が変われば、プラーナの運動が変化し、それによって、ナディもトップダウンで成長、変化していく。逆に、身体やナディが変化すれば、移動するプラーナの運動も変わり、心はボトムアップで変化していく。
トゥムモをはじめとする「脈管と風(ナディとプラーナ)」の修行は、ヤントラヨーガ、座法、呼吸法、意識集中によって、プラーナの動き変化させ、精滴(ビンドゥ)を動かし、脈管(ナディ)を変えていく。とりわけ、トゥムモは、ナディとともにビンドゥをコントロールすることによって、健全な思考やプラーナを通過させるナディは増え、悪しき思考やプラーナが動くナディは枯れていく。このプロセスを繰り返すことによって、「智慧」のプラーナの移動を妨げていた「結節」が解き放たれ、原初の「智慧」のプラーナの通路が開く。すなわち、悟りにいたるプロセスは、微細な身体でのナディの変化としても表現でき、これをこのことを後期密教経典は「心に根源の智慧が生じるのは、体の脈管のはたらきによる」と簡潔に表現している(2p131)。
すなわち、トゥムモ瞑想修行の根底には、プラーナの流れ道であるナディには「可塑性」があり、思考を変化させたり身体の運動を通じて、ナディを変化させることで悟りが得られると考え方がある。これは、まさに神経可塑性の考え方と類似しているのである(2p131,3p28)。
人間の死後の意識の存在も仏教は考える
米国の生物学者ジェラルド・モーリス・エデルマン(Gerald Maurice Edelman, 1929〜2014年)は、ニューロンやシナプスの発生、調節、修復において、ヘッブの法則による「神経ダーウィズム」が支配し、その過程で、主観的な意識が体験されると考えた。ヴァレラは、この理論をベースに意識の創発論を論じている。したがって、ヴァレラの理論からすれば、脳の活動や物理的な身体の存在を抜きにしては意識は存在しえない(4p178)。そして、デヴォッドソンも人間の高次な精神機能を脳のネットワークで説明しようとしている。生きている間はその説明でかなり近い所までいける(6p214)。けれども、死ぬときについてはそれだけでは説明がつかないことがある(6p214)。そして、仏教では身体がなくても意識は存在すると考えているのである(4p172)。トゥムモ瞑想も「明知」や「心の本性」を発見するための準備でしかないのである(3p165)。
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【引用文献】
(1) ジェームズ・レッドフィード『進化する魂』(2004)角川書店
(2) 2007年永沢哲他「平成19年度:意識の先端的脳科学がもたらす倫理的・社会的・宗教的影響の調査研究」
(3) 永沢哲『日本トランスパーソナル心理学/精神医学会第12回学術大会基調講演:惑星的思考へ』トランスパーソナル心理学/ 精神医学vol.12, No.1, Sept, 2012 p.10-p.29
(4) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(5) 永沢哲『いのちとこころ、チベット仏教の意識ー生命論』2013年9月「こころの未来」第10号
(6) 永沢哲「マインドフルネスと脳科学の可能性」『マインドフルネス最前線』(2015)サンガ新書
(7) バリー・カーズィン『慈悲と智慧の科学』(2016)瞑想を語る、サンガジャパン