2016年02月07日

瞑想と脳の科学10 ポスト3.11の哲学〜惑星的思考と伝統の知恵・結

インドの精神文化を丸ごと輸入

 現在の仏教は、大きくはスリランカやミャンマー等、東南アジアの国々に広がる上座部仏教と、チベット、日本、中国等に広がる大乗仏教の二つに分かれる(1)

 上座部仏教では、出家僧と在家信者とがはっきり区別され、悟りはもっぱら出家僧のことと考えられている。一方、大乗仏教では、社会で職業生活をいとなむ修行者にも大きな役割が認められ、「利他」が強調されている(1)

 チベット人は、高原で農牧畜行を行なうとともに、シルクロードの交易で栄えた商業民族で、財を築く才能に恵まれた、現実的な人々である。けれども、その一方、精神的、霊的な世界に莫大なエネルギーを投入してきた(1)。とりわけ、6〜14 世紀とほぼ 800 年にわたって、はるばるヒマラヤを越えインドに残されていた、ありとあらゆる教えを持ち帰り、移植するという巨大な実験を行った(1,2p117)。チベットから帰国したのは約半数とされるが、400 人もの僧が雪山を越えてインドへとわたった。同時に、インドからも多くの僧が招かれ、精力的な仏典の翻訳・修行の伝授がなされた。インド仏教は、度重なるイスラームの侵攻後、次第に衰微し、14 世紀には消滅する。けれども、あたかも、それを予見していたかの如く、チベットはインドの精神文明を丸ごと移植しようとした。仏典の忠実な翻訳がなされ、他のアジア地域には広がらなかったインド「後期密教」も導入された。その熱意は、インドにとどまらず、中国、インドネシア、キルギスタン等、その周辺で発展した仏教もほぼ純粋なまま、中央アジアの高原にもたらされることとなった(2p117)

 ユニークなチベット仏教は、インド由来の仏教と土着のシャーマニズム信仰とが融合する中からこうして生まれた。ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille,1897〜1962年)は、消費をめぐる著作の中で、聖なるものを中心に展開したその経済について、アステカとならべて、詳細な分析を行っている(1)

顕教と密教の9ステップからなるチベットの瞑想修行体系

 大乗仏教には、「顕教」と「密教」がある。「顕教」とは論理的な思考や言葉、分析をつうじて、言葉を超えた境地に入ろうとする教えである。禅宗で唱えられる『般若心経』は、その代表的な経典である。それに対して「密教」は、身体にかかわる修行を含むため、経を読むだけでは理解できず、師が弟子に与える口伝が、とても重要な意味を持つ。チベット仏教は、顕教、密教の両者が含まれ(1)、その哲学・瞑想体系を「九つのメソッド(乗り物)」に分類している。

(1) 世俗の神々と人間の乗り物―ヒンドゥー教の諸潮流

(2) 声聞・独覚乗―ほぼ、上座部仏教、小乗仏教に対応

(3) 菩薩乗―大乗仏教。「漸悟」と「頓悟(禅)」にわかれる

(4) クリヤ・タントラ―外的行為、浄化、沐浴が重点される

(5) ウパヤ・タントラ―真言宗の「大日経」=胎蔵界曼荼羅に対応する

(6) ヨーガ・タントラ―「金剛頂経」=金剛界曼荼羅に対応する

(7) マハー・ヨーガタントラ

(8) アヌ・ヨーガタントラ

(9) アティ・ヨーガタントラ

 (2)と(3)は顕教、(4)〜(9)は密教にあたり、うち、(7)〜(9)が「後期密教」にあたる。こうした密教は、チベットにだけ移植された(2p117)

トゥムモは慈悲の瞑想の後に行うことができる瞑想

 例えば、シッキムでは顕教に属する意識集中による「止の瞑想」がなされたが、瞑想中の酸素消費量が安静時と比較して64%も減少した。通常の酸素消費量は睡眠中で17%、瞑想中でも10〜15%でこれも説明がつかない。さらに、左脳がアルファー波、右脳がベータ波とまったく異なる脳波パターンを示した(2p128,4p170)。けれども、慈悲の瞑想を含めて、これらも、チベット仏教では「顕教」にすぎない。トゥムモとは、チベットに伝承される9つの哲学・修行のステップ、九乗のうち、八番目のアヌヨーガ(ニンマ派以外の伝統では、「母タントラ」と呼ばれる)に相当する修行である。

 チベット仏教では、五体投地や懺悔によって心を浄化し、マンダラを供養するといった「前行」を行い、それから「正行」に入る。顕教の瞑想である慈悲の瞑想を行った後、何カ月も自分が観音菩薩やヴァジョラヨーギニーといった本尊の姿になったと観想し、マントラを唱える。その後に、それを土台に「密教」に入り、呼吸法やヨーガを用いて熱を発したり、身体の基底部に眠るチャンダリーという生命エネルギーを覚醒させるといったトゥムモをはじめとする「脈管と風」の修行に初めて入ることができるのである(4p168)

死を考える文化チベットが明らかにしたこと〜心の本性は青空で死の時には青空が出現する

 チベット人たちは、「人間が必ず死ぬ」という事実から「いかに死ぬか」、「よく死ぬか」について日常的に考えている。また、人間が何度も生まれ変わる「輪廻転生」を当然のことだととらえ、「来世」について考えながら人生を送り、利他と菩提心を行動の基準にし、毎朝、仏陀、法、僧の三宝への供養のバター・ランプをともして、お経をとなえ、ブッダの教えにある「仏国土」を実現させようと本気で考えてきた。全人口の約三分の一が僧侶になった時期もある(1)

 現代医学では、心臓が停止したり、呼吸が停止したときを死と定義する(7p116)。けれども、死のプロセスをたいへん詳しい調べてきた(3p27)チベット仏教によれば、死のプロセスには8ステージがある(7p116)。心臓や呼吸が止まるのは4ステージまでで、その後もさらに4ステージがある(7p117)

 後期密教は、「心の本性」とは、透明に輝く鏡のようなものだと説く。鏡そのものには、そこに映しだされるものの形や色が、もともとそなわっているわけではない。けれども、その前に何かを置くと、その姿をあるがままに映しだす。「心の本性」も、それと同じで、空でありながら、同時に光り輝いているという、二側面をそなえている。

 ふつう生きている間、「心の本性」は、さまざまな煩悩や概念的思考の雲によっておおわれていて、じかに体験することができない(5p19)。死んでいく人間の内側では様々な体験が起きる。感覚が止まり、身体が重くなって動くなくなり、視覚が失われ、鼻がきかなくなり、聴覚は最期まで残るがまもなく耳も聞こえなくなる(4p193)。様々な感情が消えていく(3p27)。死に至る過程で、生命活動や意識を支える脳と神経系の働きが止まり(1)、情動や思考にかかわるプラーナの運動がしだいに止まって、生命のエネルギーが心臓に収束していくと(5p17,5p18)、その後、何かにのしかかられて押しつぶされたり、ゴーゴーと鳴る風に追い立てられたり、様々な幻覚や光のビジョンが表れたり、あるいは生きていたときの記憶がパノラマ的に蘇る等、さまざまな体験が生じてくる(4p193,5p17)。そして、「心の本性」をおおう雲は、ひとつひとつちぎれ、飛び散っていく(5p18)。その果てに、「光明」があらわれてくる(5p19)
 その後、非常に透明な、秋の青空のような意識状態があらわれてくる(3p27)。密教経典は、この意識状態「土台の光明」を、雲ひとつない秋の大空にたとえる。すべての感覚をそなえた生きものは、仏性、すなわち、何にもおおわれることがなく、真っ青に晴れ渡った広々とした大空のような心をそなえている。したがって、誰であれ、死の時には、この「土台の光明」があらわれてくる(5p19)

 それを過ぎると、「心の本性」に内蔵されている光、すべての生きものの根底にある透明で強烈な光に満ちた仏陀や菩薩のヴィジョンがあらわれてくる(3p27,5p19)。これを「法性のバルド」や(5p19)「菩提心」「明知」と呼ぶ(1)

 こうした状態変化は、心臓が止まる前から、その直後にかけて起こってくる(3p27)。とはいえ、こうした「土台の光明」や「法性のバルド」の体験が死の際に生じたとしても、ただ一瞬だけで通り過ぎてしまってそれを認識できない。このため、六道に再生するプロセスに入ってしまう。一方、生きている間に「心の本性」やその中に内蔵されている光を体験し、深めることができれば、「土台の光明」や「土台の顕現」の体験が現れてきたときにこれを認識できる(5p19)。すなわち、マハームドラーやゾクチェンという高度の密教の修行によって、「心の本性」に慣れ親しんでいることが必要である。瞑想を通じて、心の本質に慣れ親しむと、死ぬときに、目が見えなくなる、体が重くなる、耳が聞こえなくなるという状態の後に、心の本質があらわれてきたときにそれを認識できる。すなわち、心の本質とされている秋の空のように晴れ渡った心の状態を、生きている間に体験することが瞑想の修行の重要なポイントなのである(3p28)。そして、死のときに、この最後の二つの存在の基底状態の境地にとどまったまま、そこに自らの心を溶けこますことができれば、ブッダになれると考えるのである(3p27,5p19)

 そして、普通は呼吸が止まってから30分で、微細な意識と身体との分離が起きる(4p192)。そして、最期のステージの「光明」(クリアライト)と呼ばれる微細な意識が離れた時が死とされている(7p117)。このような死の瞬間を大事に守るため、『チベットの死者の書』をはじめとして「バルドにおいて聴聞することによって解脱する」という多くのマニュアルが書かれてきたのである(1)

近代医学は死に対する哲学が浅くデリカシーがない野蛮な行為

 粗雑なレベルの意識は肉体に依存しているため、脳が停止すれば意識もなくなることは仏教も認めている(4p189)。けれども、だからといって脳の物質的なプロセスが意識の根本原因であって、そこから意識が表れるとはいえない(4p190)。ダライ・ラマは、脳機能は意識が生じるための補助的原因であって、極めて微細な意識である「明知」が根本原因であると考えている(4p189)

 ダライ・ラマは言う。

「死の光明の体験が続いている間は、心(微細な風)と粗雑な身体とのきずなはまだ切れていないといえる。赤と白の精枠が鼻から流れ出し、同じことが性器でもおきたときに、死んだとはっきり言える」(4p188)

 すなわち、仏教からみれば、神経科学は因果関係について大きく単純化を行っているのである(4p190)

 そして、このプレセスは人によって違う。そこで見かけ上、死んでいてもできれば7日間、そうでなくても3日半は静かに遺体を安置して、死者の意識が心おきなく次の生命に向かう手助けをせよ(4p193)。死のプロセスを経験的に蓄積してきたアジアの伝統では、とても繊細な配慮が必要であると口を酸っぱくして述べて来た(4p192)。こうしたチベットの伝統からすれば、死をめぐる現代の医療はデリカシーのかけらもないひどく野蛮なものと言えよう(4p194)

後期密教はプラーナと微細身理論から幽体離脱も説明していた

 すなわち、トゥムモの修行の後には「楽」の体験があり、その後には思考が完全に消滅し(「無分別」)、さらに煙、蜃気楼、蛍、夜明けの光のビジョンがあり、雲のない澄み切った青空体験があり、その後、様々なパラサイコロジカルな能力が現れ「世俗の成就」がなされ、その後についに究極の悟り「至高の成就」が達成される(2p130,4p172)。菩薩のステップをひとつひとつあがって、ブッダの境涯に至のである(2p130)

 すなわち、インドのナーランダの僧院長であったナローパ(Naropa)の「6 つの教え」をはじめとして、北西インドやベンガル地方で発達した後期密教の体系によれば、下丹田に観想した赤い炎を、めらめらと燃え上がらせ、身体から強烈な熱と快楽を引き出す「トゥムモ」の後では、「意識の転移」の修行が行われる(5p16)
 すなわち、呼吸の制御、観想法、身体的ヨーガといった技法を駆使してこの「微細身」を作り変え、生きている間に心臓から頭頂へと向かうナディを開いておけば、死ぬ時に意識が頭頂から抜き出して「阿弥陀仏」の浄土へと一気に送り込むことができ、よりよい転生に向かえると考えるのである。これが「微細身」をめぐる後期密教の精密な理論と深く結びついている「意識の転移」という考え方である(5p18)
 そして、「意識の転移」は、「死の準備」として、重要な意味を持つことに加えて、多層的な意識の構造や「心の本性」を理解するうえで、たいへん重要な役割を果たす。例えば、「意識の転移」の修行を行っていると「体外離脱体験」が起こることが多い。
 後期密教は「プラーナ」の概念をベースに、この体外離脱体験を説明するため「意識の身体(意成身)」という概念を発展させてきた。生きている間の知覚は、感覚にかかわる意識作用「識」、肉体の感覚器官「根」、感覚対象「境」の三要素から形成されているが、「体外離脱中」や死後のバルドの「中有」においては、肉体から離れた「意成身」が働き、それによって、知覚が可能になっている。
 すなわち、体外離脱体験が起きているときには、意識は、微細なプラーナのエッセンスからなる「意成身」に載って自由に移動できる。もちろん、より粗大なレベルのプラーナが肉体にとどまったまま、生命維持の機能を果たし続けているため、それは死後の体験とはわずかに異なるが、体外に飛び出した意識は、肉体にかかわる粗大なレベルのプラーナの運動から相対的に自由になり、より微細なリアリティを知覚できる。そのため、つねに変転してやまない心の現象を超えた「心の本性」を理解するうえで、大きな手がかりとなる。そうタントラの伝統は考えて来たのである(5p18)

死んでも体温が保たれるトゥクタム

 すなわち、トゥムモの修行の後には「楽」の体験があり、思考が完全に消滅し、さらに煙、蜃気楼、蛍、夜明けの光のビジョンがあり、雲のない澄み切った青空体験があり、その後、様々なパラサイコロジカルな能力が現れ、その後についに究極の悟りに達する(4p172)。そして、「土台の光明」にとどまっていることを示す印のひとつが、もともと「真実の心」、あるいは「聖なる心」という意味を持つトゥクタム(チベット語、thugs dam)である(5p18)

 普通、人間は死ぬと呼吸も心臓が停止し、体温が急激に低下し、体液の流出が起こり、死後硬直が起こる(2p192,4p118)。そして、数日のうちに皮膚に死斑と呼ばれる痣が浮かび、身体がむくみ、異臭も漂う(4p118)。脳に血が流れず酸素が供給されなくなれば、脳細胞も一週間後にはすべて壊死してしまうはずである(3p215)

 けれども、チベットの高僧は、死後も腐敗しない(7p118)。これは、生きている間に瞑想のトレーニングを重ねて、十分に「心の本性」に慣れ親しんで、様々な表面的な思考や感情を超えて心の本性に留まれるようになっているために、死後に「土台の光明」があらわれてきたときも、それをあるがままに認識し、その状態にとどまれるため、死んだ後も瞑想のポーズを保ち続けられるのである(5p18,6p215, 7p118)。すなわち、「土台の光明」を認識している間、数日から数週間にわたって、瞑想のポーズを保たれ(3p27)、この状態が、数日、人によっては数週間つづく(5p18)

2016020701.jpg チベットやネパール、インド、あるいは、チベット人のラマたちが定住するようになった欧米の各地で、トゥクタムの現象は目撃されてきた(5p18)。フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela Garcia, 1946〜2001年)博士やリチャード・デビッドソン(Richard J. Davidson, 1951年〜)教授もこの「トゥクタム」の実例を身近に見てきた(5p18)。例えば、ヴァレラ博士の最初の師であったチュギャム・トゥルンパ(Chögyam Trungpa, 1939〜1987年)は米国で他界したとき、一月間にわたってトゥクタムに留まった(4p184)。そこで、何とか科学的に計測できないかと、考えてきた(4p184,5p18)

 そして、ダライ・ラマの協力によって(5p18)、この現象の科学的測定が初めてなされたのは2008年の秋のことであった(4p191,5p18)。南インドの僧院で、優れた学殖と深深々とした瞑想体験で知られる、ダライ・ラマの属するゲルク派の教主、ロプサン・ニマ・リンポチェ(Lobsang Nyima Rinpoche,1929〜2008年)が他界し、18 日間のトゥクタムに入ったのである(4p191,5p18,7p118)

 2016020702.jpg2008 年以来、デビッドソン教授たちは、「トゥクタム」に入ったヨーギや高僧たちの脳波や心電図を測る計測実験を行い、すでに、4例ほど計測が行われてきた(3p27)。デビッドソン教授の分析結果はまだ公表されてはいない。けれども、死後も瞑想のポーズが維持され、体液の流通も死後膠着も起こらなかった。また、心臓が停止していても血色が保たれ、体温もほぼ一定に保たれ、暖かい状態が18日も続き、肉体は腐敗せず良い香りまでした(4p191,5p18,7p118)

虹しか残らない

 また、十年前に東チベットのカム地方でなくなった高僧の場合、最期には髪の毛と爪と衣しか残らず、空には奇麗な虹がかかったという。これは肉体を最も微細なエネルギーに変容できたからである(7p118)

 こうした現象は、パーリー経典には記述が少ないが密教タントラでは詳細に述べられている。この光明は、智慧を育む究極の道で、真実を表すダルマカーヤ(法身:dharma-kaya)、虹の身体は、慈悲や菩提心の究極の道を表し、ルーパカーヤ(色身:Rupa-kaya)と呼ばれる(4p118)

 こういう伝統が、地球上にはまだ残っている。大変困難な時代、大きな曲がり角にさしかかっていることは確かだ。えけれども、人間は、まだまだ、とても大きなポテンシャルがある。困難な時代だからこそ、逆に、人間のなかに潜在している力は、あらわれてくるだろう。そう永沢准教授は考える(3p29)

現代科学では理解できないトゥクタム

 現代の科学では「トゥクタム」は説明できない。とはいえ、科学は、それ以前のパラダイムによってうまく説明できない、いわば「例外」的な現象の発見をつうじて、飛躍的に発達してきた。ヴァレラのように意識が脳活動から「創発する」と考える現代の脳科学、あるいは医学は、「トゥクタム」をつうじて、大きな転回を遂げることになるのではないかと永沢准教授は考える(3p28,5p19)

チャクラから始まる子どもの誕生

 チベットの微細身理論は、子どもの誕生についてもプラーナから考える。すなわち、微細身は、心の本性、バルドにある意識が、未来の両親の性行為の場に引き寄せられることで、受胎の時にまで遡る(4p173)。そして、父親と母親から受け継いだ2 種類の根源的な赤と白の精滴(ビンドゥ)、すなわち、精子と卵子を土台に、プラーナの運動性とが一体となって、身体が生まれてくる(4p173,5p17)。受胎とともに、胎児は、臍のチャクラから頭と下半身に向けて脈管を伸ばす。まるで豊かに葉を生い茂らせた樹木のようなネットワークを作っていく(5p17)。脈管の発生は妊娠4週目に始まり、出産後3 ヵ月から、脈管によって「増え」たり、「枯れ」たり、という変化が生じる(2p131)。けれども、老化とともに、ナディとプラーナは少しずつ衰え、それとともに、運動機能や五感をはじめとする、さまざまな身体的・精神的機能は、しだいに弱まっていく(5p17)。その後、10の風が生れるが、それは、誕生後、10年毎にひとつずつ機能停止していく。このため人間の寿命の限界は100歳なのである(4p173)

死を忘れた文化は不健全

 人間は必ず死ぬ。これは自明の事実である(1)。現代文化の大きな欠落は、死について、十分な思考も教育もなされていないということである(3p26)。とくに戦後日本は、生産性を上げるなど「生」の部分にスポットライトを当て、物質的に豊かな社会の実現をめざしてきた。その結果、現代の日本にはモノがあふれているが、日常のなかで「死」について考える機会はほとんどなく、むしろ隠されているといってもよい(1)

 そして、3.11 の震災は、我々の意識を大きく揺さぶり、生きて死ぬことの意味について、根本的に考え直す機会となった。例えば、最後まで海岸近くの建物にとどまり、津波襲来の放送を続けて、海に呑まれた若い女性の方のように、利他性は死の恐怖を超えていく。人間は、自分の生命をも贈与する存在である。日本人は、自分たちの文化の深層にある、そういう生と死の哲学に、戦後初めて、直接出会った(3p26)

 「死」が組み込まれていない文化はどこかで破綻する可能性がある。死について考えるからこと、よりよく生きられる。「死」への準備をしながら生きているチベット人の考え方や生き方、仏教について学ぶことは、私たち自身の生き方と文明を考え直す大切なきっかけになるが、実は日本においても、法然や親鸞が生きていた平安や鎌倉時代には仏教に対する強烈な信仰を抱き、「死」を意識しながら生きていたのである(1)

 そして、チベットの後期密教の生命論によれば、心はこのように表現されることになるだろう。

「生きている間、私たちの心は、身体のなかに住まい、その身体は環境との深い相互依存の関係の中にある。そして、心で起こってくるさまざまな現象は、全身に広がるナディのネットワークを循環するプラーナ―それは光でもある―の運動にかかわっている。だから、それらを調べたり、分析することはできる。けれども、それはただ、大いなる海の表面にあらわれるさざ波の形について、調べているのにすぎない。それによって海そのものを理解することはできない。心の本体は、いのちを超えている」(5p20)

ヴァレラ博士の画像はこのサイトから
ロプサン・ニマ・リンポチェの画像は文献(5)より

【引用文献】
(1) 永沢哲「Teacher's Link」京都文教大学ウェブサイト
(3) 永沢哲『日本トランスパーソナル心理学/精神医学会第12回学術大会基調講演:惑星的思考へ』トランスパーソナル心理学/ 精神医学vol.12, No.1, Sept, 2012 p.10-p.29
(4) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(5) 永沢哲「いのちとこころ、チベット仏教の意識― 生命論」2013年9月「こころの未来」第10号
(6) 永沢哲「マインドフルネスと脳科学の可能性」『マインドフルネス最前線』(2015)サンガ新書
(7) バリー・カーズィン『慈悲と智慧の科学』(2016)瞑想を語る、サンガジャパン
posted by la semilla de la fortuna at 08:45| Comment(0) | 脳と神経科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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