ほんとうの自分とつながっていないから人生は苦しい
5000年前から心の動きを止めることをインド人は考えてきた
発掘されたインダス文明の坐像から、インドにおいては、巨大な樹木の下や清流のそばに静かに坐って瞑想する修行法が紀元前2000〜3000年前から存在していたことがわかっている。紀元前800〜700年前からは、特定対象に心を集中させることで、心や感覚の動きを止め、奇跡的な能力を獲得できることが文献上からも明らかにされている(1p173)。
パタンジャリによって編纂された『ヨーガ・スートラ』に代表されるように、心のコントロールによって解脱できると考えるのが瞑想中心のヨーガで(1p15,1p23)、『ヨーガ・スートラ』は心の作用を抑滅させることがヨーガであると定義する。語源的にみれば、ヨーガは馬に「馬具を付ける」や「車に馬をつなぐ」を意味するサンスクリット語の「yuj」から発生しており、暴れ馬のように動き回る心の動きをある対象にしっかりとつなげることを意味していたことがわかる(1p21)。
無常という制約を受けた不自由な人間
人間存在の姿をつぶさに見ていけば、そこには本当の自由などないことがわかる(1p14)。人間だけでなく、動植物を含めて、ありとあらゆるものは、社会的な拘束や物理的な拘束だけでなく、時間法則とも拘束されている(1p15)。
ヒンドゥ教の宇宙観によれば、ありとあらゆるものは、ブラフマー神によって創造され、ヴィシュヌ神によって維持され、シヴァ神によって破壊されるという無限のサイクルを繰り返している。これを「無常」と言う。そして、この「無常」は人間は「苦」として経験される。なぜならば、どのような経験もたえず変化し不安定なもので、相対的なものでしかないからである(1p16)。
ほんとうの自分とつながっていないから人生は苦しい
とはいえ、古代インドの偉大なリシたちは、こうした人間存在の姿から、悲観論的な宿命論を打ち出しはしなかった。ルーマニア出身の宗教学者、ミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade,1907〜1986年)は、ヨーロッパ人としてヨーガの経験を積んだ貴重な実践者だが、この普遍的な「苦」を「ペシニズム哲学」へと展開しなかったと指摘する(1p17)。
私たちは日常生活において「自分が、自分が」と考えている。けれども、この「自我」と称するものは、ほんとうの自分ではなく虚妄の自我でしかない(1p17)。サーンキャ哲学によれば、精神、肉体、物質をはじめとして、あらゆる現象世界は、「自性(プラクリティ)」が展開することによって産み出されている。けれども、これとは別に、人間の内奥は永遠不滅の本当の「自我(プルシャ=purusa)」が存在している。そして、このプルシャそのものは、時空間の制約を受けず、常に平和と光明に満ちた存在である。けれども、プラクリティから展開された客観的な器官のうえに、プルシャの純粋な意識性・照明性が投影された結果、さまざまな心理現象が生じる(1p40)。
そして、人間は本来は絶対的に自由なのだが(1p18)、本来の自己の姿を見失い、いろんな苦しみを現実に受けているとの錯覚を起こす(1p40)。こうして自己中心的なエゴをほんとうの自分と同一視してしまうという誤りを犯した結果、人は苦しまなければならなくなってしまったのである(1p18)。
心を静め本当の自分とつながれば幸せになれる
となれば、このプラクリティからプルシャを引き離し、プルシャの独存、「真我独存(カイヴァルヤ=kivalya)」を実現してやればよい(1p17,1p40)。散漫な心の動きが静止すれば、雲が晴れて輝き出すように「プルシャ」が表れるであろう(1p22)。そして、こうした拘束された状態から人間が解放された状態をウパニシャッドでは『梵歓喜(聖なる喜ぶ)』、ブッダは「涅槃寂静(ねはんじゃくしょう)」と称した。そして、内なる歓喜の充実感や幸せ感は、人間社会で想定される最高の幸せを100の8乗倍した大きさだと考えた(1p17)。これがヨーガの「解脱(サンスクリット語:モークシ=moksa)」なのである(1p40)。
正式な静坐瞑想は、ウパニシャッドの時代から行なわれるようになる(1p174)。そして、悟りの状態は、「三昧(サンスクリット語:サマディ=Samadhi)」、「止(サンスクリット語:サマタ=samatha)」、サンスクリット語でディヤーナ(dhyana)、パーリー語でジャーナ(jhana)とも表現されるようになる。そして、この音写語が禅なのである(1p172)。
ブッダが悟りを開くために行なったヨーガの修行も「禅定」と表現され(1p174)、ブッダは菩提樹のもとで初禅定(離生喜楽地)、二禅定(定生喜楽地)、三禅定(離喜妙楽地)、四禅定(捨念清浄地)を経て(1p206)、最高の智慧、無上正等覚(むじょう-しょうとうがく)、『阿耨多羅三藐三菩提(あのくたら-さんみゃくさんぼだい=anutara-samyak-sambodhi)』を獲得した(1p85)。
本当の自分とつながると幸せになれるわけ〜阿頼耶識論
唯識派によれば心は8つの意識から形成されている
それでは、本当の自分とつながるとなぜ幸せになれるのであろうか。存在するものには実体や我は存在しないと考える思想を「空思想(サンスクリット語:シュニアター=sunyata)」と呼ぶ。空の思想はブッダの時代からあったが(1p167)、ナーガールジュナ(Nagarujun=龍樹,紀元前150〜250年)の中観派の哲学思想によって体系化された。そして、空を「観法」、サンスクリット語でいう「ヴィッパサーナ(Vipasyana)」と呼ばれるメソッドを通じて、これを解明しようとしたのが、「ヨーガ行唯識派」である(1p143)。
唯識派は数ある仏教の学派の中でも最も徹底的に心の世界を解明しようとしたグループで、心は以下のように8つ種類からなっていると考えた(1p144)。
@〜D 五感
E 「六識」:自我意識の主体である
F 「末那識(サンスクリット語:マナス=Manas)」:エゴのベースとなり、その背後にある深層心理
G阿頼耶識(サンスクリット語:アラヤ= Alaya)」:この1〜7までの意識のバックとなる深層心理(1p144)
阿頼耶識には善と悪の両方の経験がストックされている
ヨーガによれば、人間の心の奥底に過去の様々な経験を記憶として残されている(1p151)。「阿頼耶識」は、無限の輪廻転生を通じて蓄積されてきた過去の経験や記憶が蓄えられている「蔵」を意味し(1p146)、あらゆる現象世界が展開していく種子が蔵されているため「種子識」と考えられている(1p145)。
この潜在的な種子因子を「行(サムスカーラ=samskara)」と呼ぶが、ここには心の発動が生み出される衝動となる「業(カルマ)」、仏教でいう三毒、「貪(とん)」、「瞋(じん)」、「痴(ち)」という悪い記憶だけでなく、不殺生、布施、慈悲等の望ましい行為もストックされている(1p146,1p151)。すなわち、阿頼耶識には「煩悩」と「菩提心」とが共に共存していることがポイントである(1p146)。まず、煩悩からみていこう。
阿頼耶識内の煩悩が「無明」を産み出す
怒ったり、イライラしたり、クヨクヨしたりといったネガティブな感情を持ち続けているとそれがストレスとなって病気を引き起こすことは心身医学の立場から知られている。仏教では、このようにこだわりや執着を持った心の状態を病んでいると見なし、「ほんとうの自分」、すなわち、自我の真にあるべき姿「真我(プルシャ)」が、「煩悩(サンスクリット語:クレーシャ=Klesa)」によって見失われているこれを「無明(サンスクリット語:アヴィドヤー=avidya)」と呼ぶ。ことを言う(1p18,1p153,2p154)。すなわち、人間が上述した束縛条件によって苦しめられているのは、煩悩による「無明」のためなのである(1p18)。
阿頼耶識の菩提が悟りを産み出す
けれども、「阿頼耶識」には、同時に望ましい意識悟りの智慧を求めて仏道を行じる心、「菩提(サンスクリット語:ボーディ=bodhi)」も含まれている(1p145)。鎌田茂雄(1927〜2001年)氏は「入楞伽経(にゅうりょうがきょう)」、第七の「仏性品」で、阿頼耶識とは如来蔵のことであり、煩悩の根源であると同時に、如来蔵としてあるべき理想的な魂の根源、自性清浄心が同時に共存していると述べている(1p153)。如来蔵とはサンスクリット語のタターガルーガルパのことで、迷いに覆われてはいるものの凡夫の心の中にも存在する如来になりえる可能性、すなわち、清らかな如来法身のことである(1p152)。大乗起信論では、無限の生命だとしている(1p153)。
悟りの脳科学
阿頼耶識は旧皮質と関係している
密教では、「空」に帰した境地として、さらに「阿摩羅識」も掲げている(1p147)。それでは、「阿頼耶識」や「阿摩羅識」を脳神経系から考えてみよう。
大脳生理学者、時実利彦(1909〜1973年)東京大学名誉教授は『脳と人間』で、阿頼耶識の働きは、本能的な古皮質の働きと対応すると指摘している(1p151)。脳にある古皮質は相手を殺してまで自分のエゴや欲求を果たそうとはしない。知性や理性がなくても動物たちが殺し合うことなく個体や種族をうまく保っているのはこのためである(1p152)。
脳幹・古皮質・前頭葉が調和をすると「阿摩羅識」が生まれる

脳生理学者によれば、人間の潜在的な知的能力の90%以上は使われないまま眠っているという。アーサー・ケストラー(Arthur Koestler, 1905〜1983年)も『ホロン革命』の中で「人類は約100億もの神経細胞とほぼ無限のシナプス結合の中に潜む未開発の能力の一部を、いまようやく利用し始めているにすぎない」と述べている(2p207)。フランスの神経生理学者、ポール・ショシャール(Paul Chauchard, 1912〜2003年)は「現代人は悪しき合理主義、知性、言語主義という左脳に閉じ込められてしまっており『愛の脳』という非常に大切な自然の生命活動と深い関わりのある右脳の働きを忘れてしまっている」と述べている(2p216)。ショシャールによれば、前頭葉の働きがコントロールされ身体感覚が最も鋭敏になったときに脳の働きは宇宙の流れと調和する」と述べている(1p163)。そして、「坐禅をすると前頭脳が静かとなり、非思量の状態となって宇宙秩序と一体となる」と述べている(1p79)。
要するに、脳幹、古皮質、新皮質、前頭葉の調和が大切なのである(1p163)。仏法の真理を繰り返し聞くことでそれを全身に染み込ませていく行為を聞燻習(もんくんじゅう)と呼ぶが(p158)、番場一雄氏は、八識の迷いを捨てた九識の働き「阿摩羅識」は、脳幹と深く関係し(1p153)、脳幹は背骨と深く関係しており(1p154)、このため「般若の智慧」も背骨と密接に関係していると考える(1p155)。
脳が調和すると四無量心・慈悲心が発信される
唯識説では、一〜九識までの意識が「三昧」状態になったとき、九識は「法界体性智」という根源的な智慧に転化し、そのエネルギーが生命活動の根源として八識にたどり着き、その結果、「大円鏡智」が実現される。そして、この智慧の力とエネルギーが七識を「平等性智」という大慈悲に転化させ(p158)、相手の存在を抹殺しようとする前頭葉の働きは抑制され、生きとし生けるものを平等にしようとする智慧が表れて来る。そして、六識は「妙観察智」という事象を察する深い智慧へと変わり、一〜五識までは「成所作智(じょうしょさち)」に転化し、現実にすべきことを実施していく智慧になるのである(1p159)。
すなわち、エゴがなくなると自分が幸せになるというメリットがあるだけではなく、ヨーガと仏教の根本精神である高次元の利他心「四無量心」が発動され、あらゆる生きとし生けるものに向かって光のように放射されていく。
@ 慈(マイトリー) 生けとし生けるものすべてに友情の心を持つ
A 非(カルナー) 生けとし生けるものすべての苦しみに対する同情を苦を除こうとする哀れみ
B 喜(ムディター) 生きていることへの歓びと感謝、人の幸せを見て喜ぶ心
C 捨(ウペークシャ) とらわれや怨親等差別を捨ててすべて平等に利する心
すなわち、ヨーガとは、自分が完成されるだけでなく、すべての生命に至福をもたらすための魂の道なのである(1p18)。
池見酉次郎の画像はこのサイトから
引用文献
(1) 番場一雄『ヨーガの思想』(1986)NHKブックス
(2) 番場一雄『一億人のヨーガ』(1988)人文書院