道元の非思量は誰もが体験できるわけではない
道元禅師は、座禅中に考えることを止めること。すなわち、「非思量」を力説していた(1p172)。普通の催眠状態におかれると人間の批判力が低下して被暗示性が強まってしまう。けれども、坐禅においては雑念がない明晰な意識状態が表れてくる。意識を失わずに意識が空白である状態が「非思量」なのである(1p121)。

内山老師の弟子である、弟子丸泰仙(1914〜1982年)老師は「全存在の生成枯衰に人間の思量が介入できる余地は一切ない。坐禅によってエゴのかわりに仏教でいわれる『仏性』そのものに自然になりきる。それは他の異なる振動が、私たちの汚れで重苦しい振動と入れ替って、それらを粉砕し、一掃し、すべてのエゴの悪いものを変容させるといってもよい」と述べている。すなわち、万物と我とが一体という直感智、すなわち、「般若の智慧」が表れてくると述べている(1p73)。
さらに、こうした「非思量」の意識状態を偶然に体験してしまう人もいる。例えば、ジャン・ジャック・ルソー(Jacques Rousseau, 1712〜1778年)は『孤独な散歩者の夢想』の中で、サンピエール島で美しい湖に対面したときに、自然と自己とが融合し、永遠のいまという感覚を味わったことを書いている(1p79)。
そこで、番場一雄氏は、眉間に意識を集中してみた。けれども、次々と想念が浮かんで集中できなかった(1p62)。ヨーガを始めて数年を経てみても「無心」や「見性を得る」ことはできなかった(1p70)。
内山老師の下で瞑想を試みる
内山興正老師は道元禅師の「非思量」を「思いの手放し」と表現されていた(1p70)。内山老師によれば、「非思量」とは、様々な煩悩・妄想を弱めていって石のように生命がないものにするものではない(1p71)。ひとつの生命風景としてそれを「思いの手放し」にしておくことなのである(1p72)。
番場一雄氏は、内山老師のアドバイスにしたがって、この「思いの手放し」を試みてみた。すると、想念がエスカレートするのをコントロールでき、車窓から見る風景として想念を眺めることがうまくできるようになった(1p73)。そして、ほんの少しだが、ある種の三昧状態が現れ、なんともいえないリサックス感、恍惚感、生命との一体感を感じたという(1p74)。
イメージ瞑想が難しい人のためにはマントラを
仏教の経典『観無量寿経』は『大無量寿経』や『阿弥陀経』とあわせて『浄土三部経』と呼ばれ、浄土信仰の経典として重視されてきた。日本で、これを最も重視したのが天台宗である。
『観無量寿教』の瞑想メソッドとは、無量寿仏(阿弥陀仏)や極楽浄土を瞑想対象としてイメージしていくものである。このイメージ瞑想は『定善観』と呼ばれ、日没する太陽を見て、その後そのイメージを頭に焼付ける「日想観」、きれいな水をイメージする「水想観」等、13もの連続した瞑想メソッドから構成されている。とはいえ、道元禅師の「非考量」と同じく、誰もが簡単にイメージ瞑想を実践できるわけではない。瞑想の資質が乏しければ、いくらイメージしようと試みてもなかなかイメージできない。
こうした人のためにより優しくした瞑想メソッドが「南無阿弥陀仏」と繰り返しマントラを唱える『散善観』で、法然上人(1133〜1212年)や親鸞上人(1173〜1263年)が重視した(1p181)。
ヨーガは新脳の思考活動を抑えることで直観力を養う
池見酉次郎(1915〜1999年)九州大学名誉教授によれば、リズミカルに同じ言葉、すなわち、念仏やマントラを繰り返すことは、新皮質の活動を抑えて、情動の坐である旧皮質を安定させるという。旧皮質が安らげば、それが脳幹、視床下部に伝わり、それが自律神経やホルモンの働きを整え体調が好転されていく(1p83)。すなわち、マントラには意味があるのである。
これまで述べてきたように、ヨーガは、分析過多で疲労困憊している左脳をリラックスさせ、素直な自然の脳である右脳を活性化する(2p219)。右脳と左脳とを協調させることの重要性は、仏教でも知られている。例えば、仏像は右に「慧」の象徴、普賢菩薩が、左には「智」の象徴、文殊菩薩が置かれ、その中央に両者の和としての中道の智慧、釈迦如来が配置されている(2p216)。

さらに、身体と心との対話が深まり、自分の意識が次第に消えてゆけば、頭で考える思考とは次元が異なる全身思考、非思量ともいうべき意識状態が表れる(1p99)。このため、ヨーガを続けていると、何が自然で何が不自然なのかの直感的な感知能力が養われて来るのである(1p102)。
頭よりも身体を重視する「作務」によって悟りは体得される
対象を分析的に捉えるのが「分別智」だが、存在全体を直感的に把握するのが「般若の智慧」、「無分別智(ニルヴィカルパ=nirvikalpa)」である(1p206)。
けれども、こうした智慧は、言葉、知性・思惟によっては得られない。ヨーガや座禅の身体的な修行によって得られる。このため、東洋的な修行では頭で理解する「知解(ちげ)」よりも身体が理解する「体解(たいげ)」を重視する。すなわち、身体よりも頭を上位におく常識的な考え方を逆転して、身体の方を頭よりも上位におく。ヨーガには、このような八枝の体系があり、仏教でも、ほぼこれと同じ戒、定、慧の三学が設けられている(1p85)。
例えば、禅宗では禅院の規則である「清規(しんぎ)」にしたがって、洗面、手水、食事、精巣といった日常の作務にしたがって座禅を実践していく。道元禅師は『学道用心集』で仏法を学ぶ者の心構えを説いているが、この背景には、心が身体のうえにあってそれを支配する「我天法」ではなく、身体のあり方が心のあり方を支配する「法転我」との考え方がある(1p86)。芸道等の修行では「体得」という言葉があるが、智慧の目覚めは心と身体の逆転のプロセスにおいてのみ可能であるとの考え方があるのである(1p87)。
バクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガ
ヨーガには、神々への絶対的な帰依を重視する信仰的なヨーガもある(1p15,1p25)。インドでは、現在でも破壊や死を司るシヴァ神とシヴァ神の妃神であるカーリー神、ブラフマー神が創造した宇宙を維持するヴィシュヌ神とヴィシュヌ神の妃神であるラクシュミー神が熱く信仰されている(1p25)。また、欲を離れた本来のミッションを社会の中で遂行していくのがカルマ・ヨーガである(1p26)。
ハタ・ヨーガのクンダリニー
10世紀以降に発展したハタ・ヨーガはヒンドゥ教の中の密教、タントリズムである(1p7, 1p24)。ハタ・ヨーガの「ハ」は太陽、「タ」は月を意味し(1p208)、『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』では「ハタ・ヨーガはラージャ・ヨーガに登らんとするものにとって、すばらしい階段に相当する」と述べられている(1p24)。
さて、人間は煩悩によって汚されている。けれども、心を清浄無垢にする自浄清浄心が本来備わっている。すなわち、「根本識」から電流のごとく他意識に向けて「自浄正常心」が発源されることによって解脱するという考え方があると述べたが、この考え方はハタ・ヨーガにおけるクンダリニー思想とも共通するものがある(1p147)。
クンダリニー思想とは、尾骶骨に眠るクンダリニーという女性原理、シャクティを背骨のなかを通っている「スシュムナー管」内で上昇させ、その中にあるチャクラを順次打ち破り、最終的に、サハスラーラー・チャクラに鎮座する男性原理、シヴァとの合一させることを目指している。まず、本能的な情動エネルギーを目覚めさせ、次に慈悲、博愛等の精神的な領域を目覚めさせ、最終的にそれが頭頂に到達するとき、法悦(エクスタシー)が訪れて、解脱すると考えているのである(1p163,1p208,1p210)。
禅に取り入られなかったクンダリニーを覚醒させるためのバンダ
そして、根源的な生命エネルギーを覚醒させ、プラーナを引き上げるためになされるのが、ムーラ・バンダ(肛門の引き締め)、ウディーヤーナ・バンダ(腹部の引き締め)、ジャーランダラ・バンダ(喉の引締め)を行なう「ムドラー」という修行である(1p223)。ムドラーはヨーガ行法の中でも秘法とされるため、「封印(ムドラー)」とされてきたが、これは禅には取り入れられなかった(1p225)。
このクンダリニー思想は、空海(774〜835年)にも脈打っている。空海は千年も前に「瑜伽(ヨーガ)」という言葉を用いて、その重要性を指摘している。さらに、淳和天皇の命を奉じて、天長年間(824〜833年)に『秘密曼荼羅十住心論』十巻を執筆しているが、その中で異生羝羊心という欲望に駆られた段階からスタートし、最終的な即身成仏に到達するまで、人間存在のあり方を十段階にわけている(1p211)。
なお、番場一雄氏もクンダリニーの覚醒体験を持っているが、ヨーガへの誤解を招くためあえて具体的に触れないと述べている(1p237)。
ヨーガで得られる超能力
ヨーガや仏教では、その修行が深まると、様々な超能力(シッディー)が表れるとそれぞれの文献に記載されている。玄奘三蔵(602〜664年)の高弟、慈恩大師(632〜682年)は以下の十種類の自在力をあげている。
1寿自在(寿命に際限がない)
2心自在(とらわれがない)
3財自在(欲しいものが手に入る)
4業自在(よいことが自由自在にできる)
5生自在(思うように行動できる)
6勝解自在(自在に変身して人を導く)
7願自在(思うままに成し遂げられる)
8神力自在(最高の超能力)
9知自在(言葉を自由自在に操る)
10法自在(経典を自由自在に読む) (2p221)。
また、『ヨーガ・スートラ』にも、事物の過去や未来がわかる。前世がわかる。他人の心がわかる。死期を知ることができる。神霊に会うことができる等、霊性能力、シッディが生じてくると書かれている(1p40)。番場一雄氏はこれを右脳が開発されることによる両脳の調和によって引き出された相乗的能力だとしている(2p221)。
内山老師の画像はこのサイトから
番場一雄氏の画像はこのサイトから
【引用文献】
(1) 番場一雄『ヨーガの思想』(1986)NHKブックス
(2) 番場一雄『一億人のヨーガ』(1988)人文書院