はじめに
2016年1月31日付のブログ、禅的生活・風布庵の「贈与と慈悲とが地球を救う」では1月23日(土)に、清泉女子大学で開催されたNPO法人「もったいない学会」での田村八洲夫氏による「変革行動を促す『もったいない学』一分野に関する試論〜人間行動生物学」という興味深い報告について書いた。
田村氏が参考としたのは、以下の二冊の書物である。
@ポール・J・ザック(柴田裕之訳)『経済は「競争」では繁栄しない――信頼ホルモン「オキシトシン」が解き明かす愛と共感の神経経済学』(2013) ダイヤモンド社
A大竹文雄・田中沙織・佐倉統「脳の中の経済学」(2012)ディスカバリー・トゥエンティワン
ポール・J・ザック(Paul J. Zak)博士は、クレアモント大学院大学の経済学・心理学・経営学教授で、2004年に、人間が相手を信頼できるか否かを決定する際に脳内化学物質の「オキシトシン」(oxytocin)が関与していることを発見して以来、オキシトシンが人間のモラルや社会行動に与える影響を追求している研究者である。神経経済学(neuroeconomics)という言葉を出版物で最初に使用したのもザック博士だという。
また、2016年2月23日付のブログ、禅的生活・風布庵の「シンクロニシティU」では色平哲郎医師からハイデガーの「ケア」の理論とチベット仏教の話を聞いたと書いた。この二つは、なぜかずっと気になっていた。そして、「ケア」と「チベット」とは意外なところでつながっていた。ネットを見ていると、こともあろうに、ダライ・ラマ法王が、仏教の慈悲の精神に基づく「ケア経済」を提唱していたのである。
しかも、それは、神経科学と行動心理学とが融合した「神経経済学」とも深く重なってくる。さらに、このページには、2015年7月19日付のブログ「第28講チベット仏教の幸せ論(1)」で著作を紹介した、かのフランス出身のチベット僧侶、マチウ・リーカル氏も登場しているではないか。
さらに、2016年2月1日付のブログ、「瞑想と脳の科学D 慈悲の瞑想・中」では、京都文教大学の永沢哲准教授のタニア・シンガー博士の取り組みについても紹介したが、タニア博士は「ケア・エコノミー」のコア・メンバーとなっている。そこで、タニア博士の「慈悲と経済」についての研究内容をさらに紹介してみたい。
近代経済学の想定は間違っている
いま、主流となっている経済モデル、「新古典派」の経済理論は、基本的には二つの想定に基づいている(3,4)。第一は、人間性は悪であって(4)、本質的に利己的な存在で、自らの効用を最大化して欲望を満たすために合理的に行動するいわゆる『ホモ・エコノミクス』だというものだ。第二は、アダム・スミスの『見えざる手』に象徴されるように、自由にゆだねれば、よりよき世界が実現されるというものだ(3,4)。
「けれども、いずれの想定も明らかに間違っています(3)。それは、人間性のごく一部を記述したものにすぎません。心理学や神経科学分野の研究からは、この想定を越えるものが示されているのです」(4)。

気候変動や格差といった差し迫ったグローバルな問題に対処するためには、古典的な『ホモ・エコノミクス』の概念を超え、これとは異なる行動を引き起こす別の動機づけをもたらすシステムを含めたものへと現在優位な経済モデルを見直してゆかなければならない(3,4)。
共感力は競争で有利に立てることから進化した
消費や欲望、権力や達成感によって人間が動機づけがなされていることは確かだ。けれども、神経科学の研究からは、同時に他人をケアすることにも同じほど深く動機づけられることが判明している(3,4)。
神経経済学によれば、他者の心を読み取る能力、すなわち、共感力があれば、他者の未来の行動を予測して、先取り的に行動することが可能となる。これは、競争で優位に立てることを意味する。共感能力はそのために進化した。タニヤ博士は、そう推測する(5p260)。例えば、信頼感を築いて、安定した人間関係を営めれば、子どもをケアできる。けれども、それには、同情心や共感力が必要である。私たち人間は、そのように進化してきたのである(3,4)。
共感をもたらすシステムは、全人類に共通しているし、動物とさえ共有されている(3,4)。最近では、ネズミにも共感的な反応があることが発見されているし、ケアはそれ以外の多くの生物でも研究がなされている(3)。そのことに気づけば、世界はまったく違って見え始めよう(3,4)。
ミラーニューロンの発見―1匹のサルから
とはいえ、この共感力がどこから生じるのかが解明されたのは意外に新しく、1990年に1匹のサルから発見された神経細胞「ミラーニューロン」がその皮切りとなった(6)。
イタリアにあるパルマ大学の神経科学者、ジャコーモ・リッツォラッティ(Giacomo Rizzolatti,1937年〜)博士の研究室では、運動に関わる神経を調べるため、マカクザルの頭蓋骨に穴を開け、脳の運動を司る、下前頭皮質(pre-motor cortex)に電極を付けて実験を行っていた(2,6,7)。
それは1990年だった。サルがブドウを拾うときには、数百万のニューロンが動き、いつも電極が反応していた。けれども、この時、まだ、サルに実験を始めたときに偶然に科学者はブドウのひとつをつまみ上げたときに、サルの脳内に電気信号が走り、電極が検知した。機械の技術的な誤動作だと考えた科学者は再び同じことをやってみた。するとやはり同じ反応が起きた。これは、あることを実行する時に発火するニューロンが、その出来事が実行されることをただ目にするだけでも発火することを意味している。実際には行動せずにただ目で見ているだけなのに、ブドウを拾い上げる研究員の姿を目にしたサルは、それと同じ行動を脳内で体験していたことになる(2)。
この反応を示した神経細胞は、鏡のように同じ行動をとっている反応を示すことから「ミラーニューロン(mirror neuron)」と名付けられた(6)。ジャコーモ博士のチームはミラーニューロンの研究に本格的に乗り出す。そして、下前頭皮質と下頭頂皮質にミラーニューロンが存在していることを解明する(6,7)。
さらに、その後の研究から、ミラーニューロンは他者の経験を鏡に映すように、自分も経験するように反応させる機能を備えていることもわかってきた(6)。ある行動を眼にするとき、こうした行動をするために使われるプレモーター・ニューロン・グループ(pre-motor neurons)が脳内で発火する。これは、他人が何かをやっているのを目にするときに(2)、ミラーニューロンは観察した行動を脳内でシミュレーションして、その機能によって、他者の行動や技術を理解して模倣して学んでいることを意味している(2,6)。
さらに、「鏡映し」は行動だけでなく、感情にも影響を及ぼす。他人の悲しみや喜びを自分のように感じる共感能力もミラーニューロンは持ち合わせている(6)。ミラーニューロンは、まさに人間の精神生活を理解するための新たな水門を開いた(2)。
恋人を素材に共感感情のニューロンを見つけ出す
こうしたミラー反応プロセス(mirroring processes)から、さらに深い洞察を得て、それを、例えば日常生活に活かす。それには、「共感」が鍵となる。タニア博士はそう考えた。
「共感」はミラー反応と類似した特長を持つ。他者が苦しんでいるのを目にするとき、なぜか、人は自分も苦しみを感じる(2)。それでは、脳は他者の苦しみをどのように処理しているのだろうか。科学者がこのビジュアル化に最初に成功したとき、「あなたの苦みを感じる」というこのフレーズはまったく新たな意味を呈していた(1)。
タニア博士は「共感を伴う状況」を人工的に産みだすことで、2004年の画期的な論文で、苦を感じている他者に感情移入するときに、苦痛に敏感な脳内のいくつかの部分が活性化しており、「共感現象」と関連する神経を見出すことに成功する(1,2)。
「私たちは、カップルたちに研究所に来るように依頼し、女性の脳をスキャンしました。そして、隣に座るパートナーの苦しみに感情移入したのです」(1)
当時、ロンドン大学の神経研究所にいたタニア博士は、16組のカップルを被験者として集め、それぞれの腕に電極を取り付ける(8)。そして、fMRIを用いて、女性の脳活動がどう変化するのかを測定した(1,2)。

タニア博士が見出したのは、感情と関連した神経のネットワークのうち、共感が苦痛と関連する部分だけでなく、感情的な経験をも作動させることだった(1)。すなわち、恋人が痛みを感じるときには、同じ痛みを感じるエリアが反応し、かつ、脳はそれ以外の苦痛も繰り返し追体験していた。さらに、実験後にアンケートを受けた人はさらに強い印象をいだいた。かくして、他者の苦しみに反応する脳内神経がマップ化されたのである(2)。
認知神経科学として共感の研究が始まり利他主義への理解が深まる
2004年の論文が産んだ最大の発展は、共感の研究が認知神経科学の分野に導入されたことだ、とタニア博士は主張する。
「日本、インド、ヨーロッパ、米国と世界中で、こうした研究が実施されていきます。苦しみ、ふれあい、嫌悪から味や報酬にまで及ぶ多様な領域での共感に関する数多くのfMRIの研究上の発見を要約したものを私たちは数年後に出版します。こうした研究をまとめると、他者が感じていることを理解するために、私たちは自分の感情的な経験を処理する皮質を用いていることが確認されるのです」(1)
タニア博士は言う。
「そして、この共感の研究からは、私たちが自覚している以上に他者とつながっていることがわかります。私たちは絶えず他者と感情的に交流しています。このことは社会的な相互作用と関連するだけでなく、経済モデルにも意味を持します。そして、伝統的な経済モデルの基本的ないくつかの想定に疑問を投げかけるのです。
研究を始める前には「空っぽの脳(empty brain)」しか見つけられないだろうと予測する人すらいました。けれども、この研究が、誇張された利己心や個人主義から、利他主義と相互依存へと動く、最初の大きな変化であったと思うのです」(1)
タニア博士はケアの経済学が可能だと語る。
「神経経済学からは、お金だけでなくどのように物事が決定されるのかが理解されます。心理学や神経経済学、社会的な神経科学から得られたすべての知識をあわせれば、古い『ホモ・エコノミクス』の反対側にある新たな人間像に向けて歩み始められます。実際の人間は、他者の嗜好に洞察することがなく、利己的で合理的な意志決定者なのではなく、他者へのケアに動機づけられる利他主義者であって、多様な社会的な嗜好を発展させられるのです。もちろん、これはずっと安定したものではありません。瞬間的な動機の状態や環境に依存します。こうした洞察は、新たな『ケアの経済学(caring economics)』に向けたマクロ経済モデルを発展させるために根本的な意味を持つことができます」(1)。
双子として二人として育ったことが他者の理解の契機に
博士は、いまもこの2004年の痛みの共感論文が重要だと考え、その理由をこう説明する。
「当時としては、一人だけ脳に焦点をおくのではなく、二人の人間について報告をした認知神経科学の論文のひとつだったからです。当時は、記憶や言語等の認識プロセスの研究に較べ、感情の神経科学的な基礎を調べることはさほどあたりまえではありませんでした。ですから、『身代わり感情(vicarious emotions)』の根底にあるニューロンのプロセスを研究することはとても斬新なことだったのです」(1)
それでは、なぜ、このような斬新な発想を博士は持てたのだろうか。それには、育った環境が大きいと博士は語る。
「まず、父親が神経生理学の科学者であったことから、幼い頃から脳科学と接していました。そこで、心理学を学び、マックス・プランク認知神経科学研究所から博士号を受け取りました。当時のテーマは行動心理学に完全に重点がおかれていました。ですが、まもなく、どのように脳が働くのかをさらによく知りたいと思っていることに気がつきます。そこで、心理学者であることに加えて、認知神経科医になる訓練を受けるためロンドンに行ったのです。
さらに重要なことは、共感や感情感染(emotion contagion)等の社会現象に魅了され、社会的な感情や行動をさらによく理解することを望んでいたことです。この興味は、おそらく、私が一卵性双生児として生れた事実によります。私は「私」 というよりも「WE」として誕生したのです」(1)
タニア博士は双子であったことから、いかにして人々がその直接の経験を手に取り、それを他の人々の考えや感情をよく理解することに投影されるのかに特に関心をいだいていたのである(1)。
タニア博士の画像はこのサイトから
タニア博士の脳の画像は文献(2)から
【引用文献】
(4) Tania Singer, How to build a caring economy, Jan24, 2015.
(5) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(6) 『ヒトの脳から見た共感マーケティング――ミラーニューロンの発見』マーケッターの思索
(7) ウィキペディア・ミラーニューロン
(8)【認知科学】 恋人同士では相手の痛みがわかる