
主観的な経験は身体と心に影響する
いったい慈悲的な暮らしとはどのようなものなのだろうか。裸の皮膚にあたる最初の数滴の雨のショック。最初のキスの幸せ感。鉛のような孤独の重さ。つまるところ、人生とは、主観的なレンズを通じて経験されるものだ。そして、多くの科学者たちは、主観的な経験は、免疫系や視床下部-下垂体-副腎系(HPA axis=hypothalamic-pituitary-adrenal axis)に変化を及ぼすほど実質的なものだと主張している。したがって、主観的な慈悲経験を規則的にすることは、内分泌系や免疫、エピジェネティック・システム(epigenetic systems)の変化が付随する。
それでは、慈悲の瞑想は、どのように主観的な経験の変化を引き起こし、それは、神経学、生理学的な機能の変化につながるのだろうか。まず、慈悲経験を特徴づける二つの主観的な経験、ポジティブな感情と他者へのつながり感が、身体や脳にどのようなインパクトを及ぼすのかを見てみよう(p315)。
ポジティブ感情は人を健康にする
ポジティブな感情は人を健康にする。実際に自分が書き記したポジティブな感情の量が多い上位4分の1は最も低い4分の1よりも10年も寿命が長かったという研究結果もある。健康な人々の場合、ポジティブな感情の頻度が多いと風邪にかかりにくく、患者の場合では死亡率が低下する。愛情、感謝、満足、喜び等、個人的なポジティブ感情の影響を調べた約300もの研究のメタ分析からは、ポジティブ感情は、免疫機能を高め、生理的に人を健康にするだけでなく、自尊心、問題解決力の改善、人間関係での満足、利他的な行動といった恩恵ももたらされると結論づけられている。ただし、重要なことは、効果をもたらすものは、具体的なポジティブな感情の内容よりも、その感情の「経験頻度」であることがわかっている。

恐怖、嫌悪といったネガティブな感情は、人々の意識を狭め、生きのびるための策略(例えば、闘争・逃避、敵意)につながるが、喜び、興味、静けさ、愛といったポジティブな感情は、人々の意識を広げることで、生きのびるための資源(例えば、道を見つけるスキル、レジリアンス、社会的な絆、生理的なフィットネス)を育む。そして、行動や目の動き、脳活動を評価する実験からは、ポジティブな感情が実際に意識を広げることが立証されている。そして、慈悲には、愛や喜びといった感情が伴う(15章、18章)。すなわち、結果として、より創造的で柔軟性があるアプローチを人生に取れるし、それが成長や健康を促進するのだ(p316)。
社会的なつながり感が最も人を健康にする
飲み食いして、眠るのと同じほど、社会的なつながり感が、生理的機能でも必要なことが、最近の研究からは判明している。メタアナリシスからは、社会的なつながり感があると全死亡リスクが50〜91%も下がることが見出されている。これは、運動をしたり体重を健全に維持するよりも3倍も大きく、喫煙に匹敵する効果だ。社会的関係のつながりの中にいるとい自覚があると、心臓病、いくつかの癌、様々な感染症にかかりにくい。
では、なぜ社会的なつながり感は人を健康にするのだろうか。研究者たちは、8週間以上の実験的な研究によって、社会的なつながり感を高めた参加者たちの迷走神経(vagal tone)が対照群よりも高まっていることを見出した。確かに自律神経が調節されれば、それは、ポジティブな健康結果とつながる。逆に言えば、社会的な孤立感は、ネガティブな健康結果をもたらすことになる。孤立感は、寂しさ(loneliness)とも呼ばれ、生理機能に強力に影響する。このため、心臓病、高血圧、疲労感、浅い睡眠、運動活動の減少、認知機能の低下といったリスクも高まる(p315)。
そして、社会的なつながり感は、慈悲の決定的な要素であって(15章)、慈悲は他者とのつながり感を経験させる(p316)。慈悲は、さほど孤独ではないと人に感じさせ、自分が他者や世界ともっとつながっていると気づかせる。そこで、健康な生理的機能をもたらすことにもなる(p315)。
慈愛の瞑想はポジティブ感とつながり感を高め人を健康にする
社会的なつながり感とポジティブ感情の文献からは、「暖かく愛情深い感情」を慈悲の瞑想の一部として経験すれば、これが心や身体の双方に作用することがわかる。それでは、こうした主観的な経験は、慈悲行動の潜在的なメカニズムになるのであろうか(p316)。すなわち、自己や他者に対するポジティブな意図を持つことが、他者に関心を向けることとなり、それが、結果として、行動的な変化を生じるのであろうか(p315)
(a)慈悲の瞑想がポジティブ感情や社会的なつながり感を引き起こすのかどうか
(b)ポジティブ感情や社会的なつながり感は、健康上の変化や慈悲の修行と関係するのかどうか
これを確かめるには、主観的な経験や生理的機能の変化を時間をかけて追跡しつつ、実験的に慈悲を引き起こしてみることであろう。二つの慈悲の瞑想の研究で、研究者たちは、この二つの問題に対処した。
慈悲の瞑想、メッタ(metta)とは、仏教の瞑想伝統から引き出された感情の修行法で「生けとし生けるすべてのものが幸せでありますように。安全でありますように。安らかでありますように(May all beings live with ease)」といったフレーズを唱える。
同時に、瞑想のターゲットに向けて、ポジティブな愛の感情を育み、ターゲットに向けて送る感情を視覚化する。他者が喜びや平和を感じることを願う。そして、意識的に他者のための暖かさや深い愛情感を産み出すプロセスを通じて、メンタル面や生理面での健康とともに、ポジティブ感情や社会的つながり感を日々育むのである(p316)。

このことは、慈悲の恩恵は、グループや教師からの学びに使われた時間といった文脈上の要因ではなく、瞑想そのものに起因することを示唆している。 さらに、日常でもポジティブ感情が増えることは、ポジティブな社会や環境との関係、そして、生理的な健康が高まり、憂鬱感が減り、人生に対する満足度も高まることを意味する(p317)。
二番目の慈悲の瞑想の縦断的研究では、参加者たちは、9週の瞑想修行と日誌を書くことを依頼された。今回は、参加者は毎日、ポジティブ感情と社会的なつながり感の双方を報告した。さらに、被験者は、研究の最初と終わりに自律神経の調節指標、迷走神経のトーンが測定された。迷走神経のトーンは、変化する状況に対して、柔軟かつ急速に適応する身体能力を表し、免疫機能や心臓血管系の健康とも関連する。この結果、やはり、慈悲の瞑想のポジティブ感情への効果が表れ(図1)、社会的なつながり感と迷走神経のトーンも高まっていた(p320)。神経系活動と副交感神経(parasympathetic nervous system)のバランスを調節する肉体の能力が改善されていたのだ(p321)。
すなわち、慈悲の瞑想は、ポジティブ感情の経験頻度や強度を高め、社会的なつながり感も高め、両者が変わることが、迷走神経のトーン、自律神経の調節にも影響し、メンタル面と生理面で健康を改善できるのである(p317,p320)。このことは、慈悲が主観的な経験が、ただ自分が楽しさを感じるだけでなく、メンタル面でも生理的でも健康を改善することを意味している(p320,p321)。
慈悲の瞑想で健康になれば、人は慈悲的行動を取るようになる

フレドリクソン教授の画像はこのサイトより
【引用文献】
Bethany E. Kok,“Chapter 17 The Science of Subjective Experience, Positive Emotions and Social Closeness Influence Autonomic Functioning”