

慈悲は感情のひとつとして位置づけられがちだ
感情は動機づけの強力な要因となり、ある行動へと人々を動かす。例えば、恐怖心があれば脅威から逃げ、怒りは、相手を攻撃することで自分を守り、喜びは対象にアプローチさせる。このため、動機づけのベースには感情があり、感情が強ければ強いほどより強く動機づけられると想定する文献も数多い。
「慈悲(compassion)」に関しては、一致した定義がない。このため、情(sympathy)、共感(empathy)、おもいやり(empathic concern)、哀れみ(pity)といった感情がその代用品として用いられることが多い。英語、イタリア語、中国語等、多くの言語の語彙を研究すれば、こうした感情用語のグループに慈悲も入ることがわかる(p327)。
慈悲は感情であるよりも動機づけのメカニズムだ
けれども、慈悲は感情とは違う。慈悲のユニークさは、感情の状態であるというよりも、苦しみの中にある他者を意識し、それを救いたいという動機を持つことにある。
英語の辞書では、この動機づけの面に重点をおく。アメリカン・ヘリテッジ・ディクショナリー(American Heritage Dictionary)では「他者を救う望みと結び付いた他者の苦しみへの深い自覚」、メリアム・ウェブスター(Merriam-Webster)では、「他者の苦しみを理解し、それに対して何かをしたいと思う人間の質」と定義している。同様に、ダライ・ラマ(Dalai Lama)も慈悲について「自己や他者を救うことに深くコミットメントする苦しみへの敏感さ」と定義している。
この定義のように、慈悲は、感情というよりも、ある特定の感情状態を強化したり抑制したりし、動機づけをもたらすものとして概念化したほうがよい(p327)。
慈悲は対象がなくても発動される
感情であれば、例えば、別の主体や対象に対して、どれだけ効率的なシグナルを発することができるかという面で評価できる(p327,p328)。一方、慈悲を動機づけとして概念化すると、これは重要な意味を持つ。
(a)行動を開始するための望み
(b)障害に直面してもその目標に向かう粘り強さや続けられる努力
(c)目標を追い求めるために必要とされるエネルギーが集中力
ふつうは動機づけを与えるためにはこれらが関係している。けれども、これでは慈悲は定義できない(p327)。
他者に対する暖かさ、同情(sympathy)、悲しさといった感情によって規定されるものに慈悲は依存しない。様々な感情の条件下において慈悲は柔軟に生じ、感情が不在であってさえ生じる。すなわち、慈悲は、ターゲットに対する感情的な執着が存在しなくても慈悲は発動できる。したがって、感情ではなく、動機づけとして慈悲を概念化すると、慈悲は、「他者」あるいは、ターゲットが、「無資格(unqualified)」であっても存在でき、「評価」を伴わない望みとしても概念化できる(p328)。
恐怖と怒りで他者に向かう感情は慈悲心を妨げる
感情とは別のものとして慈悲を見る別の鍵は、私たちがどれだけ互いの関係性を理解しているかが関係してくる。すなわち、理論的に言えば、感情と動機づけは密接にリンクする。そして、感情は動機づけの先駆的な駆動力として働く。そして、環境内の対象に注意を向け、特定のやり方で行動するように知らせる働きを持つ(p328)。
慈悲心を持つためには、他者、とりわけ、苦しむ他者に思いをよせなければならない。この慈悲心を達成するうえでは、感情はネックとなる。慈悲の目標とは違う方向へと注意をそらせてしまうからだ(p329)。
慈悲の障害となる一つ目の感情は、闘争・逃避反応である。闘争・逃避反応は、自分自身や拡張された自己、すなわち、自分の子孫の幸せや生き残りにつながるが、他者をケアするという動機づけとは対立する[7章](p329)。
カリフォルニア大学バークレー校社会・相互作用研究所のダチャー・ケルトナー(Dacher Keltner)所長は、著作「善として誕生:有意義な人生の科学(Born to Be Good: The Science of a Meaningful Life)」で、闘争・逃避反応と同じく、慈悲のような他者指向の反応も、本能的な行動として脳内に埋め込まれた要素だと主張している(p329)。闘争・逃避反応では、脅威に対処するため、交感神経系(SNS= sympathetic nervous system)が活性化し、ノルエピネフリン(norepinephrine)等のホルモンが放出され、血管系や呼吸器系が活性化する(p332)。要するに、闘争・逃避反応と関連する感情、すなわち、恐怖や怒りは、慈悲を妨げる(p329)。
安心して他者に対峙するときには副交換神経が活性化する
慈悲は他者の苦に重きをおく「向社会的反応(prosocial behavior)」である。脅威ベースの感情が血圧をあげるのと対象的に、「他者指向」の「向社会的反応」では、交感神経系ではなく、迷走神経(vagus nerve)や副交感神経系(PNS= parasympathetic nervous system)が活性化する[17章]。とりわけ、副交感神経系の活性化は、外に対する気づき(outward attention)と連動して起きていることがわかっている。例えば、スティーブン・ポージス(Stephen Porges)らは「社会的なかかわり(social engagement)」があるときには、副交感神経系が活性化し、それは、交感神経系を含めてストレス系を静める反応が関連してくると主張する。確かに、馴染んだ顔しかなく、「安全」だと安心できる状況では、闘争・逃避活動は減り、呼吸性洞性不整脈(RSA= respiratory sinus arrhythmia)が高まる。呼吸性洞性不整脈が高いことは、副交感神経系が優位である指標だ。ダチャー・ケルトナー所長は、こうした変化によって、相手にアプローチし、相手を安心させるための身体の準備がなされていると述べる。脅威に基づく感情システムとは異なる精神生物学的な関係性があることも、慈悲が、感情とは異なる性質を持つことを潜在的に支持する(p332)。
自分に向かう恥とプライドの感情も慈悲心を妨げる
慈悲の障害となる二つ目の感情は、恥辱(shame)、当惑、プライドといった自意識的の感情(selfconscious emotions)である。
恥辱とは、自分は理解力が乏しいと感じるように自分に対するネガティブ評価が中心となる。当惑(embarrassment)は、自分に対するネガティブ評価に加えて、他者を意識した行動に向けられる。例えば、大勢の前でけつまづけば当惑を感じる(p329)。要するに、自分が劣っているのではないかという自己評価や他者が自分をどのように見ているのかという評価。自分の自尊心やステータスを維持することに対する脅威として恥辱や当惑は生じる(p329)。
一方、プライドは自分に対する「ポジティブ」な評価である。とはいえ、こうした感情の注意は「社会的な自己」の維持に向けられている。このため、他者の苦に対して使えるエネルギーや関心を減らす(P332)。要するに、ネガティブな恥辱や当惑であれ、ポジティブなプライドであれ、こうした感情は、いずれも「自己」に注意を向けるため、慈悲の能力を減らしてしまうのである(p329)。
要するに、闘争・逃避感情(怒りや恐怖)と自意識過剰感情(恥辱、当惑、プライド)といったネガティブな感情は、慈悲が発動するうえでのネックとなる(p328,p332,p333)。
豊かすぎる感情と乏しすぎる感情も慈悲心を妨げる
第三に、感情が豊かすぎても乏しすぎても慈悲の駆動は妨げられる(p332)。まず、主観的な感情、とりわけ、ネガティブな感情が強いと慈悲は妨げられる。と同時に、過剰な感情も慈悲を抑制する。これまでの数多くの研究から、侵略をしたり、喜びの対象を探すといった動機づけの場合とは異なり、感情がバランスして、感情・覚醒度が低い(low arousal emotional states)ときに、最も慈悲がうまく作動することが示されている。同時に、感情に対して無神経であっても慈悲は妨げられる(p328)。他者の感情に共鳴する「感情的共感(affective empathy)」と慈悲とにはつながりがあることが研究からはわかっている(p333)鬱病(depression)、統合失調症(schizophrenia)、精神病(psychopathy)を含め、数多くの精神障害において情動鈍麻(blunted affect)が共感や向社会的行動の減少と関係することが知られている(p333)。
また、感情が非常に乏しい別の事例に、他者をケアすることによる感情的なバーンアウトで生じる「同情疲労(compassion fatigue)」として知られる現象がある。「身代わりのトラウマ(vicarious traumatization)」と評されることもあるが、感情麻痺(emotional numbness)や離人感(detachment from others)を伴う。この「同情疲労」は、他で論じられるように(15章)、「共感の悩み疲労(empathic distress fatigue)」と新たに名前すべきであろう。ナンシー・アイゼンバーグ(Nancy Eisenberg)とダニエル・ベートソン(Daniel Batson)は、高い感情的な感染(high emotional contagion)、すなわち、他者の悩みを目にして悩んでしまうことが、他者指向の動機づけを抑制してしまうというパイオニア的な研究を進めている[15章も参照](p333)。
感情的な共感、あるいは、まだ他者と自己とが区別されているとはいえ、適度なレベルでの「感情のわかちあい」があることが、他者の感情を理解して、他者指向の慈悲を発動させるには必要である。向社会的行動と前部島皮質(anterior insula)における脳の感情反応が関係することもこのことを生物学的に支持する(p333)。
感情のバランスが大切〜最先端科学が見出したのはシャカの「中道」だった
すなわち、感情のタイプや感情ヴェイレンス(valence)を問わず、感情的な強度は、慈悲を妨げる(p332)。要するに、感じすぎる、あるいは、ほとんど何も感じないのではなく(p328)、感情が多すぎるのでも少なすぎるのでもなく、熱すぎるのでも冷たすぎるのでもなく(p327)、適度なバランスが取れていることで慈悲心は発揮される(p327)。要するに、感情が豊かすぎても、乏しすぎても慈悲は働かない(p333)。
こうした社会心理学や社会神経科学(social neuroscience)の研究結果からは、慈悲を含めた「向社会的反応」を育むためには、感情調節と認識のコントロール力が大切であることが見えてくる。これは、仏教の「中道」の概念と一致する(p333)。すなわち、自己中心的な感情を減らし、とりわけ、潜在的に破壊的な感情をいかにうまく管理するかが、慈悲を育む鍵であって、感情のバランスを保つことが決定的なのである(p328,p333)。さらに、感情のバランスが慈悲の瞑想の効果を説明する鍵であることを示唆する証拠もある(p337)。
感情のバランスを保つための第一ステップ〜マインドフルネス
それでは、どうすれば、感情のバランスは保てるのであろうか。そのための最初のステップは、自分への気づき(self-awareness)を促進するテクニック、マインドフルネスである。マインドフルネスは、自分のマインドへの気づきを高めることに重点をおいていることから、この目標を果たすうえで中心的となろう(p333)。破壊的な感情を管理するには、ただそれを避けるのではなく、それに圧倒されたり、流されることなく、それを認め、マインドフルでいることが大切である(p328)。いくつかの研究は、慈悲が、認識のコントロール能力と関係することを示唆している(p332)。そして、マインドフルネス他の瞑想法は、慈悲を促進する認識力を強化できるのである(p337)。
感情のバランスを保つための第二ステップ〜慈悲の瞑想
慈悲を育むための二番目のステップは、他者の苦を減らす動機を直接高める仏教の瞑想技術、「慈悲の瞑想(loving-kindness meditation and compassion meditation)」である。これは、他者の苦を減らすことへの望みを高め、ポジティブで向社会的なマインドの状態を促進する意図をもって教えられる(p336)。
慈悲を育む三番目のステップは、困難な状況下においても、「破壊的」な感情を減らし、現実に向社会的な行動を増やすことである(p336)。
そして、瞑想は、この三つの目標を大いに助ける。すなわち、自分への「気づき」で、苦を減らすことへの動機づけが高まり、より向社会的な方向へと行動を変える(p336)。
慈悲の瞑想によって優しい社会は創れる
闘争・逃避と関連した感情は、生理的に「向社会的反応」を妨げるが、その一方で、精神生物学的な研究からは、他者に向けられた慈悲等の「向社会的な反応」によって、逆に闘争・逃避反応が減らせることもわかってきている。例えば、ナンシー・アイゼンバーグ(Nancy Eisenberg)らは、恐怖心をあおるフィルムに比べ、同情心をそそるフィルムを見た場合では、子どもも成人も心臓の鼓動率が低下することを明らかにしている。そして、「向社会的な行動」に従事した方が、ストレスが減り、より幸せになることがますます明らかになってきている(p332)。
ある研究では、8週間の瞑想を行なった後、参加者は、プライドやコントロールといった高ポジティブ状態(high arousal positive states)を評価するよりも、静けさや満足等といった感情・各制度が低い状態(valuing low arousal emotional states)を評価するようにシフトした。すなわち、瞑想によって、感情のバランスへの評価は変えられる。
「感情バランス育成プロジェクト(Cultivating Emotional Balance Project)」の結果からは、ストレスによる感情的・生理的な反応が減り、相手の表情から感情を読み取る力が高まり、向社会的反応が強化された(図)(p336)。さらに、重要なことは、自己報告された行動だけでなく、苦を救うことに対して大きな動機をもったことが実際の行動にも影響したように見えることだ(p337)。
瞑想が「向社会的反応」に有益に働くことは多くの文献から示唆されている(p337)。すなわち、社会的な団結を支援する方向へと人の意識を転換できるのである(p332)。
r(31)=‐51、p < 0.01
(B) 事後テスト・瞑想時間(分)とスピーチのタスクでの収縮期血圧(SBP= systolic blood pressure,mmHg) r(31)=‐43、p < 0.05
(C) 5ヶ月のフォローアップ・瞑想時間(分)と数学のタスクでの呼吸性洞不整脈(RSA= respiratory sinus arrhythmia;ログパワー)
r(34) = -58、p <0.01
(D) 5ヶ月のフォローアップ・瞑想時間(分)と数学のタスクでの拡張期血圧(DBP= diastolic blood pressure;mmHg)
r(30) = -36、p <0.05 (p336)
【引用文献】
Jocelyn Sze, Margaret Kemeny, “Chapter 18 The Art of Emotional Balance”