2016年03月09日

慈悲の神経科学B〜相互依存を理解する智慧が慈悲を育む

09Barry Kerzin.jpg バリー・カーズィン(Barry Kerzin)博士はカリフォルニア大学バークレーで哲学の学士を取得後、南カリフォルニア大学(USC)で医学を学び医師となり、ワシントン大学(University of Washington)の家族医療の准教授となる。インドのバラナシ(Varanasi )のチベット研究中央大学(Central University of Tibetan Studies)の客員教授でもある。

 カーズィン博士は、24年もダラムサラに居住し、ダライ・ラマ法王の医師を努め、貧しい人々に慈善医療も提供している。約3年の接心を含め、多くの瞑想接心を行い、彼の脳は、ウィスコンシン大学マディソン校(Madison)やプリンストン大学で、長期瞑想者についての研究の一部として調査されている。

 博士は仏教僧としてダライ・ラマ法王から戒を受けたが、米国ファミリー医療学会(American Academy of Family Practice)のフェローで、マインド・アンド・ライフ研究所(Mind and Life Institute)の研究員で、ライプチヒのマックス・プランク研究所の慈悲の修行研究のコンサルタントである。日本におけるヒューマンバリュー総合研究所(Human Values Institute)の創立者と会長であり、幸せについてのTEDxでのトークを含めて、全世界の医学校や大学で、慈悲や倫理学(secular ethics)を教えている(p493)

エゴイズムは不幸をもたらす

 私たちは他者の幸せのことをときたま考えることもある。けれども、たいがいは、自分を一番大切にしている。誰もが、この植え付けられた習慣に閉じ込められ、この狭い思考様式に多くの時間を陥らせている。自分のニーズのことを考えることだけに時間を費やしている(p175)

 私たちは誰もが利己的で、なによりもまず自分自身の幸せを望んでいる。もちろん、自分の幸せを望み、みじめさを避けるのは、人間として自然であって、生けとし生けるもの、すべての真実である(p170)。すなわち、誰もが利己的で自己中心的である。自分が世界の中心だと思い、世界全体が「私」を中心に回転するため、エゴはナルティスティックでもある(p175)

「苦(Dukkha)」とは、苦しみのためのサンスクリット語で、惨めさや恐怖を意味する。苦痛、病気、絶望(hopelessness)、絶望(despair)も意味する。このレベルでの苦を理解することはたやすい。とはいえ、より精妙な苦はより認識することが難しい。そのひとつが変化の苦しみである。素敵なビュッフェでの外食は楽しいが、その喜びは続かずに衰え、喜びは惨めさにかわる(p167)。問題は、意味があり、意味があり持続する幸せがそこでは見出せないことにある(p170)

 利己主義はナルシシズムによって自分自身のニーズや欲望を中心にすえるため、私たちは、自分自身のために多くのモノをさらに集めがちになる(p170)。けれども、多くの幸せを見つけようとすることは、実際には、さらに多くの不満をもたらすことで終わる(p175)

エゴイズムは味方と敵という対立する世界を産みだす

 また、強力なエゴの感覚は、私たちを他者から切り離す。それが「私たちvs彼ら」という人生の図式を創り出す(p176)。そこで、私たちは、この世の中を友人と敵という二つの世界に人工的にわけ、自分に親切な人たちと脅威となる人たちとで世界を枠組み付ける。これによって、対立する世界が創り出され、それは、恐怖や疑いをもたらし、次には不信もたらす(p171)

 けれども、「私たちVS彼ら」という世界観は(p167)、リアルなものではなく、ただ私たちのマインドによって構築されたものにすぎない(p171)。すなわち、エゴが、不変で独立したものと自分自身を誤解すると、対立が生じる。これを仏教では「行苦(conditioned pervasive suffering)」と呼ぶ(p171)

他者の苦しみを救うための望みと行動があるのが慈悲

 慈悲とは何なのであろうか。慈悲は、共感とは違う(15章)。共感とは、他者が感じているものを感じることだが、そこには、苦しみを減らすことへのコミットメントや行動がまったくない(8章)。一方、慈悲には他者の苦しみを救うことに対する望みがある。そして、それが発展すれば、コミットメントも成長し、これが行動につながる。この慈悲が満ちたケースが利他主義者である(p167)

慈悲には生物学的な根拠がある

 「慈悲」という言葉は宗教用語として考えられがちである。無論、どの宗教でも「慈悲」はメイン・テーマである。けれども、慈悲は宗教には限られない。事実、ダライ・ラマ法王は「慈悲は宗教を超える」と語っている。慈悲は人生に必要である。例えば、産まれたての乳児は、母親からの愛情や親切、慈悲なくしては生き残れない。食べ物や保護されなければ死んでしまう。子どもへの母親の慈悲は生物学なもので、種を維持・永続させるのに役立つ。

 慈悲と愛情は、社会的な発展にも欠かせない。愛情と愛情なくしては、向社会的な行動を育むことはできない。そして、支援、わかちあい、贈与、協力、ボランティアといった向社会的行動は、幼少期に母親や主なヘルパー(primary caregiver)から受けた愛情や親切心によって育まれる(4章) (p167)

攻撃的な人の背景に幼少期の愛情不足があることを理解する

 世の中には、攻撃的な失礼な人たちがいるが、なぜこの人たちがそうした立ち振る舞いをするのかを考えてみることは価値がある。おそらく、その行動は自分自身の苦しみの経験が反映されている。あるいは、問題ある家庭で育ったという過去からの苦しみが反映されている。

 幼少期のつらい経験にとった対応は、怒り、憂鬱、悲しみ他のネガティブな気分としてあらわれ、本人が気づかなくても、水面下で心の乱れを産み出すことが多い。この幼少期の感情反応パターンはその後の人生でも何度も浮上する。

 このことを認めることで復讐の本能は調整できる。ある人が自分が幼い頃に自分をいじめた兄のように感じられたとしても、その人は兄本人ではない。このようにネガティブな家族の問題や影響を理解することで、なぜ私たちを傷つける人がいるのかの理解が容易になる。そして、この理解を通じて、より慎しみ深くなり、相手を許すことができる(p175)

誰もが幸せを望んでいることを理解すれば怖い相手はいない

 男であれ、女であれ、若者であれ、老人であれ、誰もが同じであることを私たちは深いレベルでは理解している。私たち誰もが自分が幸せであることを望んでいる。苦を望むことを誰も望んではいない。相手を傷つけることを誰も望まない。例えば、乱暴者がいるとしよう。でが、どのような状況で彼らは乱暴者になったのだろうか。そして、他者をいじめることでどんな結果が生まれるであろうか。もし他の人が幸せであれば、彼らが私たちに敵対的に行動してくる理由はまったくないだろう。つまり、彼らに対峙してもなんら問題がない(p174)

この世の中は相互依存で成り立っている

 このように幅広いパノラマ的な展望から思考すれば、多くの理解と慈悲が自然に生じる(p174)。すなわち、慈悲的行動を成功させるには、幅広い視野で物事を見る「知恵」が必要である(p167)。そして、本当に知恵を所有するには、相互依存の知識を持つ必要がある。それには、いくつかの精妙なレベルがある(p171)

 相互依存は、私たちの世界を統治する重要な特徴で、多くの分野で目にできる。例えば、このグローバル化した現代では、世界はより小さくなり、より相互依存するようになっており、グローバル経済では相互依存が非常に重要となっている。

 自然界においても、物事の変化は相互依存によってもたらされている。生物学の分野では、食物連鎖や共生は相互依存に基づき、種は複雑な相互関係に大きく依存して進化する(p171)。遠く離れた地域に影響を及ぼす気候変動も相互依存に基づく(p174)

 物理学では、相対性一般理論や「量子もつれ理論(theories of quantum entanglement)」が相互依存に基づく。アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein, 1879〜1955年)の一般相対性理論は、重力と空間と時間との関係性を説明し、相互依存は宇宙の起源で理解にも必要である(p174)

量子レベルでは切り離されて存在する粒子という世界観は時代遅れ

 一方、「量子もつれ理論」のもつれ(Entanglement)とは、エルヴィーン・シュレーディンガー(Erwin Schrödinger, 1887〜1961年)がアインシュタインに向けて書いた手紙の言葉、「Verschrankung」の翻訳である。遠距離にあってさえも相互作用する2粒子間の相互関係性のことで、アインシュタインは、それを耳にして「離れた距離の薄気味悪い行動(spooky action at a distance, spukhafte Fernwirkung)」と称した(p171)

 実際の世界のほとんどは何もない空間である。そして、原子よりも小さな粒子は絶えず流動している。さらに、その粒子の位置を突き止めようとすれば、その速度や運動量(momentum)を知ることができず、逆に速度を測定しようとすれば、その位置を定められない。ヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg, 1901〜1976年)の不確実性原理(uncertainty principle)であり、それが量子力学を発展させることにつながった。相対的なのは、その位置や運動量だけではない。粒子の動きを観察することも相互依存的である(p170)。ただ観察するだけで粒子の動きに影響してしまう。これが、「量子もつれ理論」を説明するし、古典力学から量子力学への飛躍のポイントとなった。すなわち、私たちの世界の基礎をなす原子よりも小さな量子の世界は関係性のネットワークのなかだけに存在している。それらが、他のすべてから切り離され、切り離されたやり方で存在しているという概念は、原子よりも小さなレベルではこれは意味をなさない。時代遅れなのである(p171)

関係性の世界観で仏教は量子力学と類似する

 仏教の「空」は相互依存を意味し、不変で独立した現実という観念を拒絶している。すなわち、すべては他のモノに依存してただ関係性においてのみ存在していると考える。この理解は量子物理学と同じである。すなわち、量子物理学でも仏教でも、確固たるエンティティは存在せず、ただ相互依存する関係性だけがあるのが現実であると理解する(p175)

量子力学の世界観と類似するエゴの心理学

 量子力学とエゴの世界には多くの類似点がある(p171)。前述した自分だけをかわいがるというエゴは、ゆがめられた世界観に執着している。すなわち、我執(Self-grasping)は、ゆがめられた認知に固執し、それが真実であること考えることを意味する。さらに、私たちは、このゆがめられたエゴの知覚と自分を同一視している(p175)。そして、私たちはエゴが独立して不変で他者や世界から切り離された実体だと考えている(p167,p170,p171)。けれども、この強力な独立した感覚と認識は現実にではなく誤解に基づいており、間違っている(p170,p171)

 他者とは切り離された個別で不変なエゴとは、それが存在するという信念から生じたフィクションにすぎない(p167,p170)。エゴは概念や名前以上のものではない。けれども、私たちは、そうした信念体系を自分が持っているすら気づいてさえいない。「私のエゴの知覚は正しいだろうか」と問いかけたりはしない。あまりにも慣れきっているため、エゴを当然のこととし、その仮定に挑むことすら考えない。自分の認識が正しいかどうかを確かめようとはしないし、エゴの性質を熟考することも稀である。私たちは、エゴが自分の肉体やマインドから切り離されたもので、それをコントロールするマネージャーのようなものだと考えている(p170)

 けれども、このエゴを確かめようとピンポイントで狙ってみても、実はその正体を突き止めることができない。世界を密接に調べてみれば、それがいつも流動し、絶えず変化していることがわかる。実際には、私たちのエゴは、数珠のようにたえず循環毎に変化している(p170)

 量子と同じように、エゴも、身体とマインドとの相互依存、すなわち、関係性のネットワークとしてだけ存在している。すなわち、エゴは関係性として存在する相対的なものであり、ダイナミックなつながりのネットワークにすぎず、独立したエンティティではない。要するに、エゴは、身体やマインドからは切り離せず、身体やマインドがなければエゴも存在しないが、エゴがなければ身体とマインドも存在しない(p171)

 私たちのマインドは、リアリティを形成するうえで大きな役割を果たしているが、エゴとはゆがめられた誤解によってマインド内で生じている幻想なのである(p167)。要するに、私たちは、歪められたやり方で、リアルではない何かを堅く握りしめている(p170)。私たちのエゴとは、メンタルな投影で、夢や蜃気楼のような雄大な幻覚にすぎない。その真実を知らず騙されて生きている。けれども、誤った知覚がなくなれば、歪められた無知も徐々に薄れていく(p171)

エゴを手放せばモノへの執着から自由になれる

 仏教の知恵の機能はユニークで、現実の幻覚を越えたところへと私たちを導いていく。仏教の知恵は、ゆがめられ誤認されたこの幻覚の世界を壊す。さらに、慢性化した習慣を打ち破る方法を教えてくれる。この知恵の鍵が幸せへの道を開ける(p175)

 すなわち、自分を解き放つためには、まず我執を解き放つことである。私たちの認知、思考、感情は、すべて私たちのマインドによって投影された構築物にすぎない。そこで、我執を手放す(Detachment)ことでモノへの執着から個人的に解放される(p174)

エゴを手放せば怒りからも自由になれる

 この幅広い視野を持てば、怒りの感情から自分自身を切り離す感情的なスペースも得られる。この感情的なスペースを持つことで、怒りと自分を同一視しないことが学べる。「私のもの」としての怒りと自分を同一視する必要はまったくな。自分のものとして怒りの感情に執着することなくただ流すことができる。空を自然に漂い横切っていく雲のように、ただ怒りが流れて行くとだけイメージできる(p174)

相互依存の智慧があれば自分の幸せ=他人の幸せと理解できる

 さらに、自分をかわいがるエゴイズムの反対は、自分を無視することではない。他者のニーズを認め、より幅広い視野を採り入れることを意味する(p175)。現実には、私たち誰もが多くのレベルで密接につながっている。このことを理解することが、心を他者に開き、他者の親切さや他者とのつながりを認めることになる。そして、このつながり感が、他者とをより近づけさせ、これが相互依存の知恵へとつなげる(p167)

 相互依存を認識することは、私たちが生きる世界のよりリアルな理解に向かわせる。よりバランスがとれ、全体の状況をよりはっきりと目にできるパノラマ的な展望をもたらす。これによってよりよい意思決定が可能となる(p174)

 また、相互依存とは、私たち自身の幸せが他者と結びついていることを意味する。したがって、他者をケアすることは自分自身をケアすることになるのである(p171)

 普遍的な慈悲とは「もし、親切にしてくれれば、私も親切にしよう」といった他者の反応には基づかない。むしろ、無執着(detached)の内なる深い意識に基づく。すなわち、自分のエゴを徹底的に探究することが、より深く、バイアスがない普遍的な慈悲を育む重要な方法である(p174)

エゴイズムを捨てることで逆に幸せになれる

 ジャラール・ウッディーン・ルーミー(Rumi, 1207〜1273年)は「私たちの仕事は、愛を捜し求めることではない。対立という私たちが築いている障壁を見つけることだ」と語っているが、利己的なバリアを壊すことは、自然につつがなく慈悲が流れることを可能にする(p167)

 すなわち、私たちのハートは開かれ、さほど利己的ではなくなる。他者のために多くを配慮するようになる(p170)。そして、利己主義が減れば、より謙虚となり、自動的に慈悲も強化される(p174)。すなわち、相互依存を理解する知恵によって慈悲はより強化される(p167,p174)

 手放し(Detachment)によって、で真実が何かが手にできる。そのリアリティははるかにソフトで優しい。さらに、複雑に織り込まれた感覚があり、世界は関係性のシステムとなる。すべてがバランスが取れて嬉しく感じられる。それが相互依存のリアリティである。すなわち、歪められた認知を手放すことで自由を手にできる(p175)。そして、相互依存の知恵は私たちを再び他者ととつなげる。対立と怒りは蒸発する。嫉妬と競争力は消え失せる(p176)。私たちの心は開かれ、よそ者であれ、敵でさえあれ、出会う誰もを新たな友人だと感じるであろう(p174,p176)。苦闘は喜びと意味ある人生へと変わる(p176)

 他者の希望やニーズを中心に据えることによって、行動にパラダイムシフトが起きる。他者が幸せになることを助けることは私たちの能力を深める。逆に、自分自身を深くケアし始めるのである。すなわち、他者のことを考えて助けることによって、私たちはよりオープンとなり、よりくつろぎ、平和を感じ、自分自身も恩恵を得るのである。私たちの人生は、意味の感覚で満たされる。より、幸せでより満足感を覚える。すなわち、自分自身の幸せも保証される(p175)

実践に向けて〜初心者慈悲はイラつく

 慈悲の修行が苛立ちをもたらすこともある(p167,p170)。とりわけ、即時的な変化を期待する場合に、フラストレーションがもたらされることが多い。確かに現代の多忙でストレスが多い生活は「即自的な変化」を求める。そこで、私たち誰もが忍耐心を欠いており、短時間でポジティブな変化が見られなければ失望し、慈悲の修行も止めてしまう(p170)

 また、慈悲の修行が逆効果になることもある。イギリスのダービー大学のポール・ギルバート(Paul Gilbert)教授は、自己批判と結びついた強力な恥辱感に苦しむ人たちを研究したところ、慈悲を育むことが難しく、恐怖心すら覚えることを見出している(3章)。こうした人たちは、直接的に慈悲を磨くアプローチはできないのである(p167)

 そこで、こうした人たちは、まず、忍耐心や寛大な心、怒りの管理といった補足的なアプローチを通じて間接的に慈悲を磨いていくことが望ましい(4章)(p167)。すなわち、慈悲心を磨くための障壁を少しずつ減らしていく多面的でホリスティックなアプローチが効率的で賢明なものとなる(p170)

 これはバランスと同様で、慈悲への障害が減れば、同時に慈悲は高まる(p170)。こうした補足的なアプローチによって障害が減れば、塞がれた水門が開かれ、慈悲は強化され、結果としてより大きな慈悲が生じる(p167,p170)

知恵と慈悲によって豊かな人生が実現する

 相互依存を本当に理解することはそれを実践することである。すなわち、相互依存を実現する必須条件は行動である。知恵の理解と実践の努力は終身続けなければならない。それによって、新たな発見や慈悲がもたらされる。私たちは、辛抱強く、愛情深く、親切になれる。新たな勇気や力の感覚が湧いてくる。知恵と慈悲は同じコインの両面側である(p176)。知恵を結合することで慈悲は大きく伸びる(p175)。そして、いずれもが他者だけではなく、私たちを豊かで有意義な人生へと導く(p176)

 手放した態度(detached attitude)は、慈悲をさらに多くの人たちへと広げることが可能となる。つまるところ、慈悲は誰に対しても平等に広がっていく。これが大慈悲(great compassion)が意味することなのである(p174)

【引用文献】
Barry Kerzin, “Chapter 9 Self, Interdependence and Wisdom A Contemplative Perspective”

posted by la semilla de la fortuna at 07:00| Comment(0) | 脳と神経科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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