


チューリヒでは、ダライ・ラマと精神&ライフ研究所会議(Mind & Life Institute Conference)を主催し、精神&ライフ研究所の取締役会メンバーとなった。博士の研究は、社会的な認識と感情の根底にある社会的行動、ニューロン、発達的な、ホルモンのメカニズムの基礎に重点がおかれている(例えば、共感、慈悲、公正さ)。慈悲と瞑想修行の心理学的・神経科学的な効果を調査し、サイエンスやネーチャー等にも投稿している。縦断的研究(longitudinal mental training study)、リソース・プロジェクト(ReSource Project)の第一調査者である。博士は生物学や心理学が、どのように経済的な意思決定につながるのかも研究し、世界経済フォーラムとグローバル経済シンポジウムに「ケアのエコノミー」を提案することで、グローバルな懸念を示した(p523)。
他人の痛みを目にするだけで脳内の痛み領域は活動する

それ以降、ほぼ10年。世界各地の様々な研究所で実施されてきた共感の研究では、苦痛に共感すると、それが、愛する人であれ、まったくなじみのない人であれ、相手とは無関係に前部島皮質(AI)と前部帯状皮質(aMCC)とが一貫して活性化することが見出されている。これは、痛みを感じているビデオや写真を見る時でもあてはまる。図2をご覧いただきたい。これは、9種類の独立した研究の結果をメタ分析したもので、他者の苦に感情移入した場合に、前部島皮質(AI)、前部帯状皮質(aMCC)、下前頭回((IFG= inferior frontal gyrus)が活性化していることを示している(p274)。

修行によって共感力が高まれば社会的感情には可塑性がある
チューリッヒ大学に移ったタニア・シンガー博士は、社会的感情に可塑性(plasticity of social emotions)があるのかどうかの研究に着手する。それは、修行によって共感が育まれるのかどうかをテストすればよい。幸いなことに、タニア博士らが可塑性(plasticity)の研究に乗り出したときに、レイナー・ゲーベル(Rainer Goebel)やベッティーナ・ソルガー(Bettina Sorger)ら、マーストリヒト大学(University of Maastricht)では、興味深いテクノロジー、リアルタイムのfMRIを用いるプロジェクトが始まっていた。この斬新なテクノロジーを使えば、被験者が別の精神活動に従事するとき、脳活動の変化をオンラインで視覚化することができる。
瞑想の達人が慈悲の瞑想をしたときに、その神経はどうなるのであろうか。シンガー博士の興味は、向社会的な感情を育むことに長年努力してきた熟練した瞑想者の脳に、どれだけ共感がエンコードされたているのかを見出すことにあった(p274)。
瞑想達人マウチ・リカールの登場
幸いなことに、シンガー博士は、ロンドンにある画像処理神経科学部門(Wellcome Department of Imaging Neuroscience)で、元科学者であるフランス人の仏教徒、マチウ・リカール(Matthieu Ricard)博士と出会う(p273,p274)。リカール博士は、心と生命研究所(Mind and Life Institute)で数多くの神経科学的な研究プロジェクトにかかわっていた(p274)。例えば、アントワーヌ・ルッツ(Antoine Lutz)博士やリチャード・デビッドソン(Richard Davidson)博士が行う瞑想の初心者と熟練者との比較プロジェクトに協力している(p275)。このため、こうした研究にオープンだった(p274)。
例えば、こうした研究のひとつに、慈悲の状態に浸りながら人の悲しみの声を聞くとき、初心者とは違って熟練した瞑想者では島皮質(insula)が大きく活性化されることが見出されている。ルッツ博士は、島皮質(medial insula)の活性化が、心臓迷走神経反射(heart rate responses)と関連し、この関連が初心者よりも熟練者で強いことを見出している(p275)。
そして、リカール博士の主観的な体験から得られた「第一人称」の知識と、シンガー博士やクリメッキ博士たちが神経科学的な研究から得た客観的な発見、「第三人称」の知識とを組み合わせることで(p273)、共感と慈悲とがまったく異なる感情をもたらすことが明らかになってきた(p273, p284)。とりわけ、リカール博士の自己報告やその脳の状態を初心者と比較することが、重要な洞察につながった(p284)。
共感と慈悲とでは活性化する脳領域が異なる
シンガー博士らは、リカール博士に、愛する人への慈悲(loving-kindness)、苦しむ人への慈悲(compassion for the suffering of others)、そして、対象のない慈悲(nonreferential compassion)と異なる慈悲の瞑想状態に入ってもらうように依頼した。驚くべきことに、このすべてがほぼ同様のネットワークを活性化させた。けれども、慈悲と関連するこのネットワークは、上で説明した苦痛に対する共感のネットワークとは似ても似つかなかった。
この結果は研究者たちを混乱させた。試験が終わった後に、研究者たちは、異なる慈悲の状態に携わっていたときに、何をしていたのかをリカール博士と議論した。そして、リカール博士は、苦痛を共感することは、ネガティブな悲しみの状態と関連するが、慈悲は、より向社会的な動機づけと関連した暖かでポジティブな状態にあると語った(p275)。
共感は人をバーンアウトさせるリスクがある
他者の苦しみへの共感は、他者に対する情け深さや慈悲の動機づけを育むこととはまったく異なるかもしれない。この直観を確かめるため、リカール博士が再び協力した。ただし、今度は、どのような慈悲の瞑想にも入らず、ただ他者の苦しみを感情的に共有だけしてほしい、と依頼された。この結果、研究者たちが、スキャナーに見出したのは、シンガー博士たちが以前に何度も目にしてきた非実践者と同じ、苦痛の共感ネットワークの発動であった(p278)。

多くの子どもたちが何時間も前後に揺れ、健康状態がまったく酷い状態だったことから、この孤児院では死が日常的でした。身体を洗うときですら、多くの子どもたちは苦痛でたじろぎ、ちょっとの衝突で足や腕を骨折するかもしれないのです。
そこで、共感を念じたとき、できるだけ鮮明にこうした孤児たちの苦しみを視覚化したのです。そして、この苦しみ共感するとすぐさま私は耐え難くなり、バーンアウトするのと同様に感情的に疲れ切りました」
リカール博士は、他者の苦しみへの共感が「非常に嫌悪すべき経験だ」と伝えた。このことから、実際に共感が「バーンアウト」の先駆けであることがわかる。苦しみへの共感という強力なネガティブな感情を繰り返し引き起こせば、それは圧倒的であろう。ヘルパー(caregivers)や医師たちのようなケアの専門業務に従事する人たちは、日々、他者の苦しみに直面しているため、バーンアウトするリスクがきわめて高い(6章、12章、ボックスVI)。そのうえ、悲しみ経験は、病院や老人ホームだけとは限らない。誰もが、いまこの瞬間に重病や強い嫌悪感に苦しむ親戚や親しい友人のことを思い浮かべられよう。誰もが、自分たちの仕事先や私生活で、他者の苦しみに強く共鳴することで圧倒される可能性がある(p279)。
慈悲は自分が悩まず他者の苦に共感できる
共感に付随するネガティブな影響は驚くほど強力だった。けれども、リカール博士は、この苦みを克服するうえで、慈悲が役立つことも明らかにする。
「1時間ほど共感した後に、慈悲の瞑想に従事するか、スキャンを終えるかの選択権を与えられました。ほとんど躊躇なく、慈悲の瞑想をしながらスキャンをし続けることに合意しました。なぜなら、共感の後で、干上がったように感じていたからです。その後に、慈悲の瞑想に従事すると私のメンタルな風景はまったく変わりました。苦しむ子どもたちへのイメージは、以前と同じほど鮮明でしたが、それはもはや悩みを引き起こしませんでした。そのかわりに、こうした子どもたちへの限りない愛情を、そして、子どもたちに近づいて慰める勇気を自然に感じたのです。そのうえ、私と子どもたちの距離は完全に消えていました。これが、私たちが共感の悩みやバーンアウト対策としての慈悲の巨大な可能性を理解した時だったのです」(p279)
素人も慈悲の修行でポジティブ感情が高まった
クリメッキ博士らは、2011年の論文で、新たに開発された『チューリッチ向社会性ゲーム(Zurich Prosocial Game)』と称されるタスクを用いて、素人に対しても慈悲を強化する修行が可能なのかどうかの最初の調査をチューリッヒで行ったことを報告している。短期の慈悲の瞑想の訓練を行い、その前後で様々な向親社会性行動をコンピュータで測定してみたのだ(慈悲の瞑想についてはボックスVII)。そして、わずか数日の慈悲の修行が、よそ者に対する支援行動を増やし、さらにより多く慈悲の瞑想を実践した参加者では、より利他的行動が増えることが見出された(P279)。
共感はネガティブ感情を増やしてしまう

まず、オルガ博士らは、ビデオ・ベースのワークを開発した。苦しむ人々と普通の日常生活の状況を描いた短いドキュメンタリー・ビデオを見てもらったうえで、参加者の脳反応を測定してみたのである。参加者たちは、それぞれのビデオの後、共感とともに、ポジティブとネガティブな感情を報告した。これまでにも明らかにされてきた苦痛への共感の発見とも一致し、苦しみへの共感反応には前部島皮質(AI)や前部帯状皮質(aMCC)の活性化が伴っていた。そして、苦しむ他者を見た場合には、ポジティブ感情が極低レベルとなり、ネガティブ感情のレベルが大きく高まった(p282)。
そして、神経レベルでも、共感と慈悲とが区別できるかどうかを確かめるため、シンガー博士たちは、短期的な実験を実施した。すなわち、まず共感、その後に慈悲の修行を受けたのだ。
自己報告されるレベルでは、共感の反響を訓練すると、ネガティブ感情や共感が増えた。しかも、ネガティブ感情は苦しみ悩む人たちに対してだけではなく、ノーマルな日常生活の状況にある人々に対してさえもそれに呼応して、ネガティブ感情が増えた。このことは、共感が非常に嫌悪すべき経験であって、バーンアウトのリスク要因であることを示唆している(p284)。
脳神経科学的にも慈悲は共感と別のネットワークを活性化する
次に、慈悲群は、他者に対する暖かさの感情や親切心を逐次拡げていく慈悲の瞑想の訓練を一日間受けた(ボックスVIIのメッタ(metta)瞑想)。一方、対照群(control group)は、場の方法(Method of Loci)を中心とする記憶の訓練を一日間、受けた。特定の場所と言葉を結び付けることで言葉の連鎖によって記憶力を高めるスキルである(p282)。
2013年の論文に紹介された結果によれば、慈悲の修行をした集団では、暖かさの感覚、幸せ感が生じると記述するポジティブ感情の自己報告が、とりわけ増え、他者の苦しみをより幅広く多く感じられるようになったことが明らかになったのだ(図5)(p282)。

下のパネルは、神経活動の変化を示したものだ。まず、他者の苦しみ(HEビデオ)に対しては、慈悲の訓練によって、(A)右の眼窩前頭皮質(mOFC= medial orbitofrontal cortex)、(B)右の腹側被蓋野(VTA= ventral tegmental area)/黒質(SN=substantia nigra)、(C)右の淡蒼球(pallidum)、(D)右側の被殻(putamen)が活性化した(p283,p284)。棒グラフのオレンジ色のボックスは、瞑想の熟練者の三つの慈悲状態での神経の活性度を示している(p283)。
要するに、神経レベルでみると、共感の訓練では、前部島皮質(AI)と前部帯状皮質(aMCC)が活性化した。これは、他者への苦しみに感情移入するとき、繰り返し関係する領域である。これに対して、慈悲の修行では、以前の慈悲の研究でも観察されていたのだが、これとはまったく違う脳領域のネットワーク、母親の愛情やロマンチックな愛情と同様に(p283)、ポジティブ感情や、所属感(affiliation)、愛情、報酬(reward)と関連する脳領域が活性化した(p283,p284)。また、リカール博士が、苦しむものへの慈悲と、無条件の慈悲(unconditional compassion)と異なる慈悲的な状態を念じてもらうと、やはり慈悲と関連したネットワークが活性化した(P284)。
要するに、その後の慈悲の修行によって、ネガティブな影響を減らし、ポジティブな感情を強化することで、ベースラインに戻せることがわかったのだ(P284)。
同時に、慈悲の修行は、ネガティブな量も減らさなかった。誰かが助けを必要としていることに気づくことが、適切な行動を取るうえで必要とされる最初のステップである。したがって、これは、支援行動には必要な条件であろう(p273)。
要するに、共感は慈悲と誤解されることが多いが、共感と慈悲とは、異なる生物的システムや脳ネットワークに依存する(p273)。そして、共感が悩みをもたらし、バーンアウトにつながることがある一方で、慈悲はレジリアンスを強化することでこれを克服し(p273,p284)、向社会的な行動、所属感、愛といったポジティブな感情と関連する神経活動を強化する(p284)。そこで、慈悲は別の人の苦しみを感じつつ、ポジティブな感情を経験できるのだ(p273)。
このことから、科学的にみても、親切な感情をもって、苦しみに遭遇することが可能な戦略を慈悲がもたらすことがわかる。要するに、慈悲は、バーンアウトから人々を保護することでケアする人たちにメリットがあるだけでなく、支援の行動力を高めることでその受益者にもメリットがあるのである(P279)。
【引用文献】
Olga Klimecki, Matthieu Ricard, Tania Singer“Chapter 15 Empathy versus Compassion Lessons from 1st and 3rd Person Methods”