2016年03月14日

慈悲の神経科学E〜ブッダの理論を脳神経科学が実証する

Joshua Grant.jpgジョシュア・グラント(Joshua A. Gran)はライプチヒにあるマックス・プランク認知神経科学研究所(Max Planck Institute for Human Cognitive and Brain Sciences)の社会的神経科学部(Department of Social Neuroscience)でタニア・シンガー(Tania Singer)教授と共に研究をしているポスドクのフェローである。博士は、ピエール・レインビル(Pierre Rainville)教授の指導の下、2011年にモントリオール大学(University of Montreal)で、神経科学で学位を取得した。

 博士の博士研究は、苦痛の知覚への行動的、神経生理学的、そして、経験的な指標への禅の影響がメインテーマである。優れたチベットの瞑想者と新たにトレーニングを受けた個人に対して、博士はMPIで瞑想と痛みの作用についての研究を続けている。博士は脳画像から薬学、遺伝学の手段を組合わせることで、親和(affiliation)やアタッチメントでの内生オピオイドシステムの役割も調査している(p508)

意識的な注意散漫で痛みを感じないヨーギ

「瞑想中にはまったく痛みを感じない」と主張するあるヨーガ行者の事例が2005年に報告されている。研究者たちは、安全とはいえ痛みを感じるレーザーをヨーギの手にあててその脳の状態を調べてみた。すると平常時には痛みと関連する脳領域が活性化するのに、瞑想時にはそれは静まっていた。つまり、このヨーギが痛みを感じなかったのは本当だったのである(p256)

 このヨーギが行なった瞑想法が何であったのかは報告されていない。けれども、おそらく、集中瞑想なのではあるまいか。そして、このヨーギは、意識的に出来事を知覚から切り離すことを学んでいた。ある種の意志的な注意散漫(volitional distraction)である。

 瞑想は、注意(attention)を維持することで活発な心を静めることを目指している。こうした実践は、科学的には「集中(concentrative)」あるいは『集中した注意喚起を促す瞑想(Focused Attention Meditation)』と呼ばれている(ボックスVIIと11章) (p256)

 こうした注意喚起によって認識のあり方が変わり、修行(training)の初心者でさえも痛みの知覚変化が起きるケースがある。あるひとつの刺激にしっかりと注意を向けているとそれ以外のモノに気づかなくなるのである。

 脳の画像処理の研究から、ある刺激に集中すると、刺激と関連した脳活動がより強化されることがわかっている。これは苦痛(pain)にも働く。つまり、痛みの刺激に注意を向ければ、こうしたインプット情報を処理する脳エリアの活動は活発化し、苦痛体験もかなり増える。これは、逆に言えば、注意が散漫であれば苦痛を減らせることになる。とはいえ、興味をそそるとはいえ、さらに多くの事例が得られるまで、このヨギの事例に重きを置くことはできない(p256)

禅の実践者は一般人よりも痛みに集中しているはずなのに痛みを感じない

 これとは別でもっとつつましいが、やはり瞑想が痛みの知覚を変化させるという事例がある。我々は、痛みの実験を行うため禅の瞑想者たちを集めて、足に熱さの痛みを与えてみたのだが、年齢やジェンダーが合致する対照群よりも、痛みに敏感ではなく、同じ痛みの報告をするためにはもっと強い刺激が必要だった。この発見は、冷たさの痛みに対する耐性が瞑想によって高まるという以前の研究結果と一致する(p256)

 集中瞑想は心を安定させるといわれる。けれども、ブッダは、苦を克服するのにはそれだけでは不十分だと洞察した。ブッダは、マインドフルネスな状態(Being mindful)で世界に気づいていることも必要だとした(p257)。そして、この実験では、参加者たちは、常に痛みの刺激への「注意」を維持して、「マインドフルネス」でいられるよう依頼されていた。つまり、痛みがあっても、その瞬間、その瞬間に意識を向け、かつ、その経験に自動的な判断をしないよう試みた(p256)

 注意に集中している間では、予想どおり、痛みの報告が対照群ではかなり増えた。けれども、禅の瞑想者たちは、変化を示さなかった。瞑想修行を長くしていると、隙がなく集中した状態(Hypervigilance)が保てるようになっていくことが知られる。そして、痛みに対する注意が高まれば、痛みの経験は増幅され、痛みへの耐性は低まるであろう。すなわち、反対が予想されるのである(p256)。しかも、マインドフルネスでは、経験そのものに注意を向ける。アンケートでのマインドフルネスの測定で禅の実践者たちは高く評価され、事実、判断なしに瞬間に注意を払うことができていた。したがって、観察される痛みの減少は、上述したヨーガ行者のような注意散漫に起因することはありえない(p257)。したがって、なぜ、禅の瞑想者が痛みに耐えられるのかが説明できない。何か別のことが関係しているのである(p256)

苦は複雑な脳内領域のネットワーク活動として感じられる

 熱いストーブに触れたり、指を突き刺されれば誰も痛みを感じる。けれども、この苦痛は、脳内にあるひとつのセンターがそのシグナルを受け取ることで痛みとして感じられるわけではない。MRI等の脳の画像技術の進展によって、以前に科学者たちが考えていたよりも苦痛がはるかに複雑なプロセスであって、相互接続した多くの領域の複雑なネットワークが活動することで経験されることがわかってきた(p253)。MRIは、脳解剖学的に詳細なイメージが得られ、様々な組織の長期的な変化を定量化できる(p261)。さらに競合する仮説を区別する力ももたらす(p260)

痛みは感覚・感情・認識の三段階から感じられる

痛みはまず感覚として感じられる

 さらに、それはいくつかの段階にわけられる。まず、苦痛に対する典型的な神経反応では、いわゆる「苦痛神経マトリックス(pain neuro-matrix)」活動が高まる。まず、肉体感覚として痛みが認識される。苦痛の感覚区別的なディメンジョン(sensory-discriminative aspect of pain)は、第一次感覚皮質(Primary somatosensory cortex:S1)、第二次感覚皮質(secondary somatosensory cortex:S2)、視床(thalamus=Thal)、島皮質(INS=insular cortex=感じた強さを反射)の一部で処理される。どれだけ痛みの刺激が強烈であったかの評価と脳活動レベルは一致する(p253)

痛みの刺激を感情として受け止める

 けれども、苦は感情的な反応とも関連する。この刺激どのように感じるのかを、前帯状皮質(ACC= anterior cingulate cortex)と島皮質(INS=insular cortex=感じた不愉快さを反射)等が処理することによって、感情的に決める。こうした領域は痛みに反応するだけでなく、注意といったプロセスも行なうため、この区別は絶対的なものではないが、不愉快さの評価は脳活動レベルとは一致することが多い(p253)

痛みの刺激は認識される

 最後に、この苦痛の知覚を、前頭皮質(PFC=prefrontal cortex)が認識的に評価・調整する。前頭皮質(PFC)は、意志(volition)、注意(attention)、記憶等の高度な認識機能がかかわる領域である。このため、また痛い刺激を受けるのではないかという不安が、痛みの認識され具合に影響することがわかっている(p256)

痛みの領域が活性化しつつ、脳活動全体が低下する

14-1.jpg この実験では対照参加者(Control participants)は、座禅の仕方を一週間だけ指導された。その結果は、まことに興味深いものだった。図をご覧いただきたい。マインドフルな注意(mindful attention)をしていると、瞑想者たちは痛みやその不愉快さがかなり減ると報告した。しかも、経験豊かな瞑想者たちが最も痛みが減ると報告したのである(p257)

 瞑想経験者に対しては、より強力な刺激を与えることで同じランクの痛みを与えてみたのだが、痛みと関連するエリアは、対照群よりも瞑想者の方がより強く作動することがわかった(図1 C、D)(p257)。注意散漫であれば、脳活動の低下が伴う痛みの減少が報告されるはずである(p260)。つまり、瞑想者は意識を散らしてはいないのだ。

 同時に、痛みの間に瞑想者では、扁桃体(amygdala)、海馬(hippocampus)と眼窩前頭皮質(OFC:orbitofrontal cortex)、内側前頭前皮質(mPFC:medial prefrontal cortex)と前頭前野背外側部(DLPFC:dorsolateral prefrontal cortex)を含めて、脳全体の活動が低下したのだが、対照群ではそうではなかった(図1 A、B)(p257)

 中段のMRIのイメージは、苦みを感じている間の統計的に異なる脳領域を示している(オレンジ~黄色:瞑想者>対照者)、(青~緑色:対照者>瞑想者)。灰色のバーは、刺激が表された所を表している。A:右側前頭前野背外側部、B:右側内側前頭前皮質/眼窩前頭皮質、C:左側視床(THAL)、D:背側前帯状皮質(dACC:dorsal anterior cingulate cortex)(p257)

いまに集中し評価をしないマインドフルネスでは海馬や扁桃体の活動が低下する

 これは何を意味しているのだろうか。マインドフルネスでは、いまの瞬間に起きている経験、すなわち、この場合では苦みを観察する。結果として、関連する皮質、前帯状皮質(ACC)、島皮質(INS)、第一次感覚皮質(S1)等)が活性化する。

 感情、とりわけ、恐怖の感情を鍵となって処理するのは、扁桃体(amygdala)である。内側前頭前皮質(MPFC=medial-prefrontal cortex)は、自己に関する処理(self-referential processing)に関わる。そして、海馬(hippocampus)は記憶と関連し、背外側前頭前野 (DLPFC= dorsolateral-prefrontal cortex)と協力して働く。けれども、観察は「いま」という瞬間で起こり続ける。したがって、心が詳細な物語を産み出していくことが防がれる。要するに、記憶や自己関連づけの処理(self-related processing)がさほど必要とはなくなる。となれば、ことによれば、海馬や内側前頭前皮質や前頭前野背外側部(背外側前頭前野)の活動が低下するであろう。

 記憶処理では、過去や未来と「いま」とを比較することが必ず関係してくる。したがって、ここの活動も低下することになる。眼窩前頭皮質(OFC)は、インプットされた感覚を受けて、その相対的な価値や重要性を統合する役割をすることが知られているのだが、その眼窩前頭皮質(OFC)活動の低下が説明できる。最後に、判断・刺激が少なかったり、あるいは、まったく判断・刺激がなければ、強力な感情反応もありそうにはない。そこで、扁桃体の活動低下が説明できる(p260)

 もちろん、これは憶測だって将来的な研究上での立証が必要ではある。とはいえ、研究結果で、とりわけ興味深いのは、苦みを感じている間に、瞑想者では、苦みを感情として受け止める領域と痛みを認識する領域、すなわち、前帯状皮質(ACC)と前頭皮質(PFC)とのつながりを切っていることが見出されたことだ。さらに、前帯状皮質(ACC)と前頭皮質(PFC)との情報が最も遮断されている瞑想者は、苦みを感じるのに最高の温度が必要であったのだ(p260)

脅威から身を守るために作られた警報システムが「苦」だ

 苦痛は、脅威からの被害を避けるためには欠かせないシグナルである。けれども、なぜ、私たちは「苦が存在」することによって苦しまなければならないのであろうか。ただ警報を発する警告システムを手にしているだけでは不十分なのであろうか(p253)

ブッダは苦について二つの矢の説明を行なった

 興味深いことだが、いまから約2500年前に、ブッダは、生き残びるためには苦痛が必要だが、それは、苦しむこととは関連しないと説いた(p253)。感覚そのもの(最初の矢)と、その結果としてマインドが創り出した苦(二番目の矢)と苦には二つの面があると考えた(p261)。最初の苦痛は警告のシグナルとなる。けれども、二番目の苦痛は、まだ修行を積んでいないマインドが不必要に産み出したものである。そして、生けとし生けるすべてのものが苦しみから解放されるように、仏教は今日も広く用いられている一連の実践や理論を発展させてきた(p253)

 そして、この伝統的な仏教思想が西洋科学によって吟味されているのだが、その結果は、ブッダが語った言葉を裏付けている(p253)。研究結果はブッダの主張を支持し、瞑想修行によって二番目の苦の矢が取り除けるという主張も確証する。例えば、ヴィパッサナー(Vipassana)瞑想の研究事例では、瞑想中には苦と関連した島皮質(INS)が活性化する。けれども、側部前面活動(lateral frontal activity)が減ることによって苦痛が減ることが見出されている。チベットの優れた瞑想者を対象に行なわれたウィスコンシン大学グループの研究も同様の結果を見出している(p261)。これは、このことは、瞑想者が苦みを調整できることを意味する(p260)

瞑想者は痛みを感じる前帯状皮質が厚い

 また、これとは別の研究で、私たちは禅の実践者と対照者の灰白質(gray matter)の厚さを測定してみた。そして、瞑想者では、前帯状皮質(ACC)を含めて、苦みと関連する脳領域の灰白質が厚いことを見出した。さらに、より多くの瞑想経験がある者ほど、この領域の灰白質が厚く、それが厚いほど苦みを感じるのに高い温度が必要なのだ。

 このことは、瞑想によって、脳の物理構造そのものが変化し、それが苦みの調整能力につながることを意味する。さらに、8週間の瞑想プログラムで、海馬(hippocampus)、後帯状皮質(posterior cingulate cortex)、側頭頭頂接合部(TPJ: temporo-parietal junction)、小脳(cerebellum)で灰白質が増えることが示されている(p261)

マインドフルネスで苦は減らせる

 瞑想による無痛覚(analgesia)のメカニズムの研究は、いま世界中で進められているが、我々は、修行の継続的な効果を見出している。そして、こうした実践が日常生活にも効果があるとすれば重要であろう(p261)。研究からは、心理的・感情的な苦が、生理的な苦と同じ脳領域を作動させることがわかっている。社会的に排除されれば、参加者のリポート内容の悩みが増え、それに比例して前帯状皮質(ACC)や島皮質(anterior INS)が活性化し、私たち苦痛にある他の人々を見る時には、苦痛と関連の領域が作動する。要するに、古代仏教の主張と一致して、マインドフルネスの集中瞑想は、多様な形で苦を減らすのである(p264)

慈悲はオピオイドが関係している

 苦痛の経験は、これとは別の多くの脳領域によっても調整されている(p256)。現在、知られている最も強力な鎮痛剤はオピオイド(opioids)だが(p265)、前頭皮質(PFC)や中脳水道周囲灰白質 (periaqueductal gray)や骨髄(rostroventral medulla)等が関係する「下行性疼痛抑制系(descending modulatory system)」は、脳内にオピオイドを放出することによって痛みを減らす(p256)

 さて、私たちは、パートナーや同じスポーツのチームのファンのように自分が感情移入できる気になる人の苦は感じても、ライバルのファンが苦しんでいるのを見ても、共感しないし、そうした脳活動は働かない。 そして、様々な科学分野から、愛、暖かさ、ケア、人々の間の絆といった感情が脳内でのオピオイド族(opioid family)に属するベータ・エンドルフィン(beta-endorphins)の放出に起因するとされている。ベータ・エンドルフィンは、生き残びるために欠かせない社会的な絆を強めるために進化してきたとされている。仲間を作るためのメカニズムがあれば、生き延びるものも増え、それは進化によって保存されていく。こうした絆は、現在では、パートナーや親子、スポーツファンといった形になっている。彼らは、まさに私たち自身が感情移入してその苦を感じ、ケアしたいと思う人たちなのだ(p264)

 もし、暖かさやケアの感情がベータ・エンドルフィンの放出と関係しているのであれば、慈悲の感情もこうしたオピオイドの放出と関係していると言える(p264)。慈悲の瞑想状態にあるときに、オピオイドが自然に放出されているとすれば、たとえ他者の身になって苦を経験したとしても、ほとんど苦しまないことが可能である。意識的に慈悲心を産み出すことによって、我々は、オピオイドの放出のやり方を学んでいるかもしれない(p265)

チベットの仏教僧は脳内オピオイドを出すことで慈悲を発現している

14-2.jpg このことを裏付けるエビデンスもある。我々の研究室や他の研究室での最近の研究から、慈悲では、オピオイド(opioid signaling)の脳領域が活性化することが示唆されている(13章)。 また、チベット僧たちは、苦しむ他者を観ながら共感(他者の苦しみに共鳴する)や慈悲(他者の苦しみに対して暖かさと愛の感情を産み出す)の状態に入ることを依頼されたのだが、慈悲の間には、苦痛が大きく削減された。すなわち、修行を積んだチベット僧たちは、慈悲を産み出しながら、脳内のオピオイドエリアを活性化させ、苦の不愉快さを大幅に減らしているのである(図2)。このケースに一般性があるとすれば、それは、極めて重要であろう(p265)

慈悲による優しい社会の実現は生物学的に根拠がある

おまけに、オピオイドには中毒性がある。オピオイドはポジティブな歓びの感情を引き起こし、薬物乱用のように慈悲的な行動を強化してしまう。つまり、ある意味では慈悲には中毒性であるという過激な提案すらできるのである(p265)

 そして、重要なことだが、仏教はマインドフルネスだけでは終わらない。慈悲心を育むためには、縁起(interconnectedness)、無常(はかなさ=impermanence)、普遍的な苦への洞察が用いられる。さらに、慈悲心が育まれるほど、個人段階での苦も減らせる(p264)。そして、各個人が慈悲的になることでオピオイドによって、暖かさ、ケア、愛の感情が持て、苦しみが減るだけでなく、それは自ずから強化され、人々を救いたいという望みや動機づけが高まることで、慈悲的な行動が増えれば、それはより優しい社会につながってゆく(p264,p265)。これは、慈悲が苦から解放される道だと説く仏教の教えが生物学的に説明できることを意味しているのである(p265)

【引用文献】
Joshua A. Grant,“Chapter 14 Being with Pain, A Discussion of Meditation-Based Analgesia”

posted by la semilla de la fortuna at 07:00| Comment(0) | 脳と神経科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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