いま、主流となっている経済モデル、「新古典派」の経済理論は、基本的に二つの想定に基づく。まず、人間は本質的に利己的な存在で、自らの効用を最大化して欲望を満たすために合理的に行動する『ホモ・エコノミクス』だと想定する。次に、アダム・スミスの『見えざる手』に象徴されるように、自由にゆだねればよりよき世界が実現されると考える(5,6)。
「けれども、この想定はいずれも明らかに間違っています(5)。それは、人間性のごく一部を記述したものにすぎません。心理学や神経科学分野の研究からは、この想定を越えるものが示されているのです」(6)。
マックス・プランク認知神経科学研究所(Max Planck Institute for Human Cognitive and Brain Sciences)のタニヤ・シンガー(Tania Singer, 1969年〜)教授はそう語る(5,6)。
人間が消費欲や権力欲に動機づけられることは確かだ。けれども、気候変動や格差の広がりといったグローバルな問題に対処するには、古典的な『ホモ・エコノミクス』の概念に基づく現在優位な経済モデルを見直し、ケア経済を構築する必要がある(5,6)。そして、エコノミストたちの議論とは裏腹に(2)、神経科学の研究からは人間が他者をケアすることに対して深く動機づけられることがわかっている(5,6)。
ダーウィンは慈悲的種族が最も繁栄すると論じていた
「適者適存(survival of the fittest)」という言葉がある(2)。ダーウィニズムは以下の三つの原理に基づく。
@ 世代毎に生物が変化することで進化は起こる
A 遺伝物質は突然変異等によって多様化する
B 変化した個体は自然選択にさらされ、環境に適応するものが生き延びていく。
この進化によって最適な適応がもたらされるというダーウィニズムの概念は、ネオリベラリズムのベースにもなっている(7p236)。けれども、「適者適存」という言葉を作ったのは、チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin, 1809〜1882年)ではなく、進化論によって階級や人種的な優越性を正当化することを望んでいたハーバート・スペンサー(Herbert Spencer, 1820〜1903年)や社会進化論者たちだった(2)。
意外なことに、ダーウィン本人は、著作『人間の由来:性淘汰(1871年: The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex)』において「それ以外のどの本能や動機よりも同情(sympathy)こそが最も強力な本能で、時には自分の利益よりも強力である」と論じ、自然淘汰によって「最も同情的な種族こそが最も繁栄し最も多くの子孫を育める」と主張していた(1,2)。
ダーウィンには10人の子どもがいたが、病弱だった長女アニーは1851年に病に臥せったまま10歳で病死する(8)。この娘の死が人生における苦や慈悲についての深く洞察させる契機となった(1)。すなわち、ダーウィンの進化論は「最も親切なものが生きのびる(survival of the kindest)」というフレーズで最もよく説明できる(2)。昨今の進化論がすっかり無視しているのはこのポイントなのである(1,2)。
慈悲があることが最もモテる条件だった
進化論的にいえば、私たちは『遺伝子の乗り物』である。親の遺伝子が組合せられることで誕生し、しばらくの時間この地球上に滞在し、新たな『乗り物』、再生産された遺伝子を残して、それから、死んでいく存在である(3p127)。そこで、生物は、遺伝子を次世代に手渡すためにパートナーを選ぶ。進化論の言葉では、これを「連れ合い(mate)」と呼ぶ(1)。

慈悲は生得的な本能である


「性善説:有意義な人生の科学(Born to Be Good: The Science of a Meaningful Life)」の著者でもある、カリフォルニア大学バークレー校のダッチャー・ケルトナー(Dacher Keltner) 社会・相互作用研究所長は(1)、これを「慈悲的本能(compassionate instinct)」と呼ぶ(2)。慈悲のような反応は、闘争・逃避反応と同じように、本能的な行動として脳内に埋め込まれた要素だと主張する(4p329)。言い換えれば、慈悲は、生得的で自動的な反応なのである(2)。
人間の子どもが脆弱になったため慈悲が産まれた
けれども、人類は互いに戦いあう存在ではなかったのだろうか。なぜ、同情や慈悲が最大の本能だと言えるのであろうか(1)。その答えは、子どもが脆弱であって親に依存する存在であることにある。
「子どもが脆弱であることが、人間関係を変えたのです。生きのびるために慈悲を欠かせないものにしたのです」

すなわち、慈悲なくしては、人類の生き残りや繁栄があり得なかったし、慈悲が人の生き残びるために欠かせない自然な傾向であることは驚くべきことではない(2)。生き残り、つながり、人生において連れ合いを発見するという個としての最大のニーズに寄与するものとして、生物種としての人類がどのような存在であるのかを規定しているのは「慈悲」という特性なのである(1)。
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【引用文献】
(3) Paul Gilbert, “Chapter 7 The Flow of Life An Evolutionary Model of Compassion” , Compassion, Bridging Practice and Science, Max Planck Society, 2013.
(4) Jocelyn Sze, Margaret Kemeny, “Chapter 18 The Art of Emotional Balance”,Compassion, Bridging Practice and Science, Max Planck Society, 2013.
(7) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(8) ウィキペディア