2016年04月16日

シューマッハーの人生論@〜近代科学と哲学では幸せにはなれない

はじめに

Schumacher.jpg 『スモール・イズ・ビューティフル』で知られるエルンスト・フリードリヒ・シューマッハー(Ernst Friedrich Schumacher, 1911〜1977年)は、『仏教経済学』を提唱したが、シューマッハーの理論や実践の背景にある哲学的・宗教的な側面はあまり注目されてこなかった。シューマッハーは「宗教なき近代の人生の実験は失敗である」と警告しているが、その透徹した文明批判の背景には、人間を精神面から見た深い反省がある。

  デカルト以来、過去300年にわたる西洋文明は、人間の最も大切な精神的営為を片隅においやってしまったとし、迷える人々に対して人生の案内書を提示することが哲学の義務だと主張する(p6)

 シューマッハーの死後2週間目の1977年に発刊された本書は、1980年に小島慶三・斉藤士郎氏のコンビで翻訳出版された。いまから36年前に出版されたこの本を私は1988年の7月に購入し、一度読んだ。けれども、ほとんどその内容を咀嚼できなかった。「スモール」のような他のシューマッハーの著作が知的に頭で理解できるのに対して、本書はまさに「叡智」について書かれた著作であり、心が充実しなければ理解できない内容となっていたからである。

 けれども、いま、改めて本書を読み直し、その要旨をまとめておく必要性を感じた。例えば、驚くなかれ。本書の最後で、シューマッハーは、解決されていないのは「欲望」という「心の問題」だけであって「経済」の問題はすでに解決されていると述べている。それでは、心の問題と社会問題(他者との問題)を解決するためにはどうすればよいのだろうか。

 シューマッハーは内なる感覚に敏感になるほど他者の心もわかるようになると提案する。これは最新の神経生理学の見解と合致する。そして、内なる感覚に敏感になるためにシューマッハーが推奨するのがテーラーワーダ仏教による四念処(サティパッターナー)なのである。いまから39年も前にマインドフルネスに着目していたとは。シューマッハー恐るべし。ということで、はじめよう。

近代哲学はどのように人生を生きるべきかに答えてくれない

13viktor.jpg 人生とはなにか。私はこの人生で何をすべきなのだろうか。そのことを知るにはマップがいる(p21,p22)。けれども、西洋哲学はまさにこれが決定的に欠落している(p22)。人間は何のために存在しているのか、何が善で何が悪なのか。人間の絶対的な権利と義務とは何なのかという問いかけが欠落しているため(p84)、「人生をどのように生きるべきなのか」という問いかけに対して「再大多数の最大幸福」という功利主義的な回答しか提示できていない(p28)。そして、どれだけ生活水準が高まろうと、どれだけ寿命を延ばす医療サービスが充実しようとも、ますます健康と幸せを失い、文明は苦悩と絶望と自由喪失へと陥らざるをえない。なぜならば、これは「人間はパンのみによって生きるものにあらず」という問題だからである(p84)。
 ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl, 1905〜1997年)博士は、現在の危機についてこう述べている。
「300年にわたる科学帝国主義の経験が、若者たちに大変なまごつきと困惑をもたらしている。今日の真のニヒリズムとは還元主義である」(p19)

伝統的な叡智は「神を見ること」が究極の幸せだと考えてきた

 けれども、伝統的な叡智は、人生はどう生きるべきかについて納得ができる明確な回答を持っていた(p29)。古代の科学、叡智は、至高の善、すなわち、真・善・美を探究することを目指し、それを知ることが幸せと救いをもたらすものとされてきた(p82)。例えば、聖トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225年頃〜1274年)はこう論じている。「神の摂理によって、かよわき人間は、現在の人生で達成できるものよりも、一層、高次元の善なるものに導かれる」(p29)

 動物と同じように人間には快楽を享受したいという欲望がある。そして、官能的な生活を送ることによって快楽を追求しようとする。そして、節度を失うことによって自制を失っていく(p30)。すなわち、人間が、より低いところに堕ちて、動物と同じような低い能力しか開発できないまま終われば、それは不幸であって絶望に陥る。けれども、より高いものを目指して、最高の能力と最高の知識を得られれば幸せになれる(p29)。感覚的な喜びよりもさらに完璧な喜びとは『神を見る』という知性的な喜びでありそれが幸せなのである(p29,p30)

「低い存在」「高い存在」の次元を考えなければ功利主義以上の幸せ論はでてこない


29kant.jpg すなわち、西洋も非西洋世界と同じく伝統的な叡智を豊かにもってきた。けれども、過去300年、それを故意に無視されてきた(p86)。伝統的な叡智は、世界が「低い存在の次元」と「高い存在の次元」があるとしてきたが、これをルネ・デカルト(René Descartes, 1596〜1650年)は、数学的な量的要素だけを重視して平板化した(p26,p81)。これはあまりにもやりすぎであった。そこで、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724〜1804年)は、これをやり直そうとしたた(p26)。けれども、このカントにしても不十分であった、とフランスの哲学者、エティエンヌ・アンリ・ジルソン(Étienne Henri Gilson,1884〜1978年)は言う。

「カントは数学から哲学へではなく、数学から物理学への方向転換を行なっていたのである。『形而上学の真実の方法とはニュートンが自然科学に導入しその分野において実り多き成果をもたらした方法と基礎においてまったく同一である』とカント自身が結論付けている」

 数学と同じく物理学にも「低い次元」「高い次元」という「質的な概念」を欠いている(p27)。高い存在の次元へとレベルをあがるにつれて、量の重要性が減って質の重要性が高まるが、数学物理モデルでは質的な要素は失われてしまう(p81)。そして、「低い次元」「高い次元」という「質的な概念」なくしては、個人的な功利主義、集団的な功利主義、利己心を超えた人生の指針を考えることは不可能である。現代人が完璧な幸せを得られるとは信じられなくなったのはそのためなのである(p31)

手段はあっても目的を欠落した西洋科学はカタワである

20160417Etienne Gilson.jpg デカルトの数学モデルをして、オランダの数学者、物理学者、天文学者、クリスティアーン・ホイヘンス(Christiaan Huygens, 1629〜1695)は「この世の中にはそれよりも望ましく有用な知識はなにもない」と語ったが、西洋人は質的知識から量的知識へと関心が変化した。この結果、人間の啓蒙と解放を目指す「理解のための科学」、すなわち『叡智』から、力を得るための「操作のための科学」への変化も起きる(p81)。ティエンヌ・アンリ・ジルソンはこう警告する。

「叡智が対象とするものは、理解であって悪用はできない。けれども、科学が対象とするものは物質である。したがって、強欲の手中に陥る危険性が常にある。科学は、至高の善を目指す叡智に従属するのか、それとも、欲望に従属するのかによって二つの名前を与えてよいであろう」(p82)

 これは決定的に重要なポイントである。「操作のための科学」が叡智、すなわち、「理解のための科学」に従属するのであれば、なんら害がなく極めて価値の高いツールとなる。けれども、人々が叡智の追求への関心を示さなくなり、叡智が消え去ると、「操作のための科学」は物質的な力だけを目指すことになる(p82)。そこで、フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561〜1626年)は「知識はそれ自身、力である」と語った(p81)

 従来の理解のための科学は、自然を神の創造物であり、人間の母であると見なしてきた(p82)。そして、伝統的な叡智では、人間は神のイメージによって作られた最高のものであるとしてきたため、高貴なる人間には義務、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)があり、世界を「預かっている」とみてきた(p83)。けれども、操作のための科学では、人間は進化による偶然の産物にすぎないため、客観的に研究される対象物とみなされる(p83)。このため、自然も征服されるべき対象物とみなす(p82)。事実、デカルトは「人間は自然界の主人にして所有者の如き者となる」と述べた(p81)。その結果、西洋文明は手段においては豊かであっても目的においては貧しいという方輪的な発展をしてきた(p87)。これがデカルト以降の西洋思想の歴史なのである(p82)

力としての科学の危険性は信仰が否定されること

 核融合が開発できればエネルギー問題は解決される。石油タンパクが完成すれば食料問題が解決される。新たな薬が開発されればどのような健康の危機も回避できる。こうした科学技術の万能感への信念は薄れつつある。人々は宗教なしに生きるという「現代の実験」が失敗に終わったことを知り始めている。

 人間は巨大なエネルギーで自分を地上に閉じ込めようと試みた。けれども、もはや地球は持続可能性がない状態になっている。人は宗教なしに生きることはどうやら不可能なのである(p198)

 けれども、科学の努力を物質的なものに限定することは、結果として世界を空虚で意味がないものとしてみることにつながる(p70)。知性をより高い次元への理解に導く案内役が信仰であるとは見ないため、信仰そのものが否定され、伝統再生へのすべての道が閉ざされてしまうのである(p84)

シューマッハーの画像はこのサイトから
フランクル博士の画像はこのサイトから
カントの画像はこのサイトから
ジルソンの画像はこのサイトから
【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社
posted by la semilla de la fortuna at 11:17| Comment(0) | 魂の人生論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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