世界は鉱物・植物・動物・人間の四分野から構成されている
それでは、階層的な世界の構造を研究してみよう。つい最近、100年前までは、鉱物、植物、動物、人間の四分野に世界をわけるというのが最も一般的な世界の見方であった(p32)。
生物学者によれば「生命力」のようなものは存在しない。けれども、最も次元が低く死んだ存在、すなわち、無生物の鉱物と生きた植物との間には明確な違いが存在する(p33)。無生物や鉱物はまったく受動的で何も利用することができない。けれども、植物は光に向かって成長したり、水分や養分を求めて土壌中に根を伸ばすように環境に対する適応力がある(p46)。そこで、この生命力を「x」と呼ぼう(p33)。
次に植物と動物との間にもある種の飛躍が見られる(p34)。概して植物が受動的であるのに対して、動物は食料を獲得したり危険を避けたり敏速な動作を行なうことができる(p47)。動物には植物には及びもつかないことを成し遂げる力が備わっている。そこで、植物に付け加わる要素を「y」と呼ぼう。「y」は意識とも呼べよう(p34)。期待と不安、幸せと不幸といった意識によって動物の行動はより自律的となり、資源を利用する力は格段に高まる(p47)。
さらに、人間には動物と異なり、神秘的な力、自分を意識する「自覚(Self-awareness)」がある。これを「z」と呼ぼう(p35)。
すると、四次元は次のように整理できる。
鉱物=「m」
植物=「m+x」
動物=「m+x+y」
人間=「m+x+y+z」(p33〜35)
「x」に相当するものを「生命体」、「y」に相当するものを「精霊体(アストラル体)」、「z」に相当するものを「自我(精神)」とすれば、よりわかりやすくなる。物質としての身体(m)と生命「x」をセットとして生命としてみれば、人間は身体(m+x)、魂(y)、精神(z)から構成される三重の存在であることになる(p60)。
近代科学は鉱物・無生物だけを対象に研究している
物理学や化学は最低の次元である鉱物だけを取り扱う。したがって、そこには生命、意識、自覚は存在していない(p37)。近代の生命科学が異常なことは、生命そのものの要素「x」をほとんど考慮せず、生命の容器にすぎない物理的・化学的な肉体の研究と分析にだけ関心を払っていることである(p38)。すなわち、近代の唯物的科学主義では、生命や意識、自覚は、分子の複雑な配列による化学現象でしかない(p70)。
また、自然科学とは異なり、人文科学はなんらかの形で要素「y」を扱う(p38)。けれども、近代的な考え方では動物の意識である「y」と人間の自覚である「z」との間に区別があるとはされていない。このため、物理学を研究することで生命を明らかにしようと試みるのと同じように、動物を研究することで人間を明らかにしようと試みられている(p39)。
世界はレベルに応じてしか認識できない
これには理由がある。生きているものと生きていないものとの違い、生命が存在するかどうかを識別することはさして困難ではない。けれども、生命と意識との違いを識別することは難しい。そして、意識と自覚との違いを識別して認識することはさらに難しい。次元が高いものほど包括的で、より高い水準がなければ、高い水準は認識できないからである。そこで、自覚「z」の力が十分に開発されていないと、それを意識「y」の延長として受け取る傾向がある。そこで、人間は知的な動物だとかの解釈が生まれる(p40)。
それでは、人間はどのようにして周囲の世界を知ることができるのだろうか。世界が「大宇宙」であるとすれば、人間は「小宇宙」であり、自分を知ることで世界を理解することもできる。非常に古くからこう考えられてきた(p64)。
ネオプラトニズム(新プラトン主義)の創始者といわれるプロティノス(205年? 〜270年)は「知るためには対象に適した器官を必要とする。知る者の理解は知られる事柄に相応するものでなければならい」と述べた(p73)。
聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354〜430年)は「この人生における我々の一切の仕事は、神を見ることができる心の目の健康を取り戻すことである」と主張した。
スコットランドの神学者、聖ビクターのリチャード(Richard of Saint Victor, 1173年)は「外部の感覚のみが見えるものを知覚し、心の目のみが見えざるものを見る」と語った(p73)。
ペルシアのスーフィ教の詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミー(Mevlânâ Celaleddin-i Rumi, 1207〜1273年)は「心の目は70の層をなしており、うち二つの層である肉体の視覚は断片的な知識を集めるだけに過ぎない」と述べた(p73)。
17世紀のイギリスの哲学者、ジョン・スミス(John Smith, 1616〜1652年)は「神に関する事柄を我々に正しく知らせ、理解させるものは、我々の内部に生きている神聖さの原理に違いない。我々は資格としての眼を閉じ、哲学者が知的能力と呼ぶ魂の目を開かなければならない。それは誰もが持っているのだが、活用する人は少ない」と語った(p63)。
すなわち、世界が「低次元のもの」や「高次元のもの」で階層構造をなしているように、人間が世界を認知する感覚器官や能力も階層構造をなしている(p68)。外に向かうものは「より低次元のもの」に対応し、感覚は最も外側の器官である(p70)。そこで、五感は、最低の存在の次元、無生物に対応する(p64)。感覚的な情報だけではいかなる洞察も理解も生まれない(p75)。五感はより高い次元の情報をもたらさない(p76)。これは普段は眠っている認識器官を充分に陶冶して完成させれば、これまで手がとどかなかった新しい世界、新しい意味や豊かさを発見できるが、認識器官が充分に使われなかったり、故意に無視されると、世界は、実際に持っている豊かさを減殺したカタチでしか認識できない(p91〜92)。近代科学は客観性や精緻さを求めながら、人間の認識手段を働かせることを限定してきたが、それは、黒白の非立体的なレンズで量的な観察しか行なってこなかった。こうした方法で得られる世界像は、最も下位の無生物の現象に限られてしまうのである(p92)。
生命・意識・自覚の各要素は壊れやすく自覚は最も希である
こうした上向きの分類よりも、実際の経験を元にした下向きの分類の方が理解しやすい。三要素、「x」「y」「z」は弱められて消え去るし、意図的に破壊することもできる(p36)。鉱物はどこにでもあるが、生命は地表上に薄い膜としてしか存在せず、意識は稀で、自覚はさらに稀少である(p68)。すなわち、生命、意識、自覚と上に進むにつれて稀少で脆弱なものとなる(p42)。物質「m」は破壊できないが、生命は稀少で不安定で、「x」を取り去れば地に帰り、生命のない物質「m」、すなわち、遺体だけが残る。同じように、生命はいたるところに存在するが、意識は非常に稀少で、かつ、壊れやすい。さらに、自覚となると最高に不安定である(p42)。
鉱物・植物・動物・人間と統合度と自由度が高まっていく
鉱物、植物、動物、人間と進むにつれて、統合に向けた変化が見られる。無生物は統合されていないため簡単に分割できる。植物も内的統一が非常に弱いため、一部を切り離しても別個の存在としていき続けることができる。けれども、動物は高度に統合された存在であるためバラバラに切り離されては存在できない(p51)。とはいえ、精神面の統合はほとんど見られず、記憶力も弱く知性もぼんやりしている(p52)。
そして、統合は自由を創造することも意味する(p52)。無生物や鉱物はあるがままであり、それ以外のものに発達していくことはできない(p50)。けれども、鉱物、植物、動物、人間と進むにつれて、受動的な行動から能動的行動への変化が見られる。これは、自由とも密接に関係している(p49)。統合が高まるにつれて、存在は外的力によって動かされる単なる「客体」であることから、自ら外側の世界に働きかける「主体」となっていく(p52)。
自覚していない人間は機械であって自由ではない
とはいえ、もっとも自主的で自律的な人間であっても多くの場面で環境条件に左右され、受動性が強く残っている(p47)。人間の行動を綿密に観察すれば(p50)、人生のほとんどが何らかの形の隷属状態下におかれ(p102)、人間特有の「自覚」という力が眠っていて(p50)、動物と同じように外からの影響に対応して機械的なプログラムどおりにふるまっているだけであることがわかる(p50,p102)。人間はプログラムに従って働いているという自覚はない(p112)。けれども、どれだけ自分が洗練され、法をよく守る良き市民だと考えていたとしても、普段はただ決められたプログラムを実行しているだけである(p126)。
古代の教えをコンピュータを用いて現代流の言葉で表現すれば、人間の行動は二つの要素、コンピュータのプログラマーとコンピュータからなっている。プログラマーがいなくてもコンピュータが機械としては円滑に作動するのと同じように意識の要素「y」も、自覚の要素「z」がなくても完全に働くからである(p112)。

@注意力を失っていたり注意が散漫な状態になっていれば、機械的な状態となっている
A注意力が観察する対象に集中してふらつかない状態になっていれば、情緒の状態にある
B注意力が意志によって制御されて対象に没入している状態になっていれば、理知の状態にある(p102)。
人間がその力を奪われ惨めな状態となって、人間的存在以下のものになるのは、その注意力が集中せず、たえずさまよっているからなのである(p103)。つまり、常に自覚していなければ、人間は自分が自由な意志を持ち、自分が意図したことを実行できると思っていても、それは空想にすぎず、実際には(p104)過去から蓄積されてきた習慣の影響によってその行動は規定されている(p50)。
そして、ウスペンスキーは、こう述べている。
「我々が知っている人間は完結した存在ではない。人間は一定のところまでは自然に成長するが、そこで放り出されてしまう。そこからは、人間自身の努力と知恵でさらに成長していくか。生まれたままの状態で生き、そして、死んでしまうか、あるいは、堕落し成長の能力を失ってしまうかのいずれかである。人の進化とは、普段は開発されないままでひとりでには伸びることができない内的な性質を伸ばすことなのである」(p98)。それでは、どうすれば、この人間の能力は開発させることができるのであろうか(p100)。
人間は注意して自覚している瞬間だけ自由である
内に向かうことは「より高次元のもの」に対応し、より自覚的な努力が求められる(p70)。人間に追加された「z」は自覚と深くつながっている。そして、自覚は「注意」をどこに向けるのかと深く関係してくる(p100)。たいがい「注意」は外的な音や色に捉われているか、自分自身の内部にある期待や関心、恐れや悩みのとりこになっている。こうした状態でいるとき、人間は非常に機械に類似している(p100)。
逆に言えば、人間は「自覚」の力を働かせ、「注意」を自分に向けているときに初めて、「生かされている」のではなく自ら「生きている」のであり、自由の次元に達することができると言える(p50,p100)。自覚のある瞬間にだけ、人間には自由が訪れると言える(p104)。
これは古代の様々な教えの中でも最も重要視されてきた問題である。同時に、近代世界でほとんど無視され歪曲されている問題である(p100)。実は、古代の各宗教は、どうすれば、この自覚を継続させ、かつ、制御できるかの様々な方法を発展させてきた(p104)。
普段のシンキング・マインドを除外したときに真我は出現する

「一切の感覚、次には抽象的な想念、思惟、意思、概念を排除していったら意識には何が残るであろうか。一切が失われただ空、虚のみとなるであろう。ア・プリオリには意識がまったくなくなり、眠りに陥るか無意識状態になるは、と思われよう。ところが、世界中に何千人といる内的神秘家たちが異口同音に語るところによれば、空の境地に達した後に起きるのは無意識状態とはおよそ異なり、まったく反対の純粋意識状態が生まれてくるのである」(p116)
「我々の日常意識はつねに対象やイメージを持っている(p117)。そのすべての心理的な対象が排除され、自己が対象を捉えていないときには、自己は自己自身を意識するようになる。すなわち、自己が示現してくるのである。普段は隠れていた純粋な自己が前面に出てくるのである」(p118)。要素「z」は、意識という要素「y」が舞台の中央から去ったときに初めて姿を現すと言える(p117)。
内なる自己を探求する心理学
心理学はおそらく最も古い学問分野である(p98)。そして、古来の心理学は、「正常」に戻さなければならない病人を対象とするのではなく、普通の人間を対象としてきた。そして、人間を「救い」「悟り」「解脱」という山の頂にたどり着くためのこの世の「巡礼」であると見てきた。キリストは「われは道なり」と語ったが、中国の道教にも「タオ(道)」とい考えがあり、仏教の教えは「中道」と言われてきた。すなわち、多くの宗教の教えの中心には「道」という考え方がある(p99)。
この人生を生きていくために、ブッダの最後の言葉は「怠らず努めよ」であった。そして、チベットの祖師たちはこう教える。十分に幅広い哲学が必要であり、精神を集中させる瞑想が不可欠であり、生活の技術が不可欠である(p23)。
身体を安定させることが心の内側を探す第一歩
米国の心理学者ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842〜1910年)は、情緒が身体感覚以外の何ものでもないとしてこう述べている。
「私たちは悲しいから泣き、怒るから打ち、恐れるから震えるのではなく、泣くから悲しく、打つから怒り、震えるから恐ろしいのである」(p127)。
身体が制御されずにふらついていると心も落ち着かない。自己認識を得るために、古代のどのメソッドも姿勢や身振りに多くの注意を払っているのはこのためである。一方、内的な落ち着きと静けさが達成されれば「コンピュータ」は姿を消して、プログラマーが真価を発揮し出す。身体を制御することが思椎の働きを制御するための第一歩なのである(p128)。
シンキング・マインドを落ち着かせるためのヴィッパサナー
環境は常に直面する現実だけにとどまらない。自分の心の内側からわきあがってくる想念も統御しなければならない。あらゆる宗教が説く、最も大切な教えによれば、「明視」、観(ビッパサーナ)を手に入れるためには「シンキング・マインド」を落ち着かせなければならない(p108)。
「ブッダが念処経(Satipatthana)の中で説いた正しい精神集中を体系だてて涵養することが最も効果のある方法である(p104)。そして、正しい精神集中を身に付ける要諦は、とらわれない注意力にある。とらわれない注意力とは、内側から起こってくるものを認めた瞬間にはっきりと意識することである。そして、観察される事実に対して、行動や言葉で反応せず、好悪の感情や判断、反省といった心の中での反応も一切加えないことである。この捉われない注意を実践しているときに、何らかの反応が心の中で起こってきたとしても、その反応そのものが注意力の対象として拒否も追求もされず、しばしの間、心にとどめられた後に、捨てられるだけなのである」(p105)。
シンキング・マインドを脱落させるための内なる祈り
西洋科学の方法はそれを学んだ誰もが使えるが、ヨーガの科学的方法を駆使できるのは、規律と系統的な内面作業によって自分を整えた人だけである(p132)。そして、インドの手法がヨーガであるとすれば、キリスト教の手法は「祈り」である(p108)。内なる祈りの要諦は、精神を没入して神の前に立つことだが、ギリシアとロシア正教によって完成される(p109)。キリスト教の伝統において発達したこの方法は仏教とは違う言葉や表現となっているが、帰するところはまったく同じである(p106)。仏教ではヴィッパサナー(止観)、明視を呼ぶものをキリスト教では高い次元の存在との邂逅と呼ぶ(p128)。そして、自己本位の自己中心的な「我」が立ちふさがっている限りは、何ごとも達成されず何ごとも成就しない。そして、我から離れるためには「飾りなき心」で神に注目しなければならない(p106)。
ハーモンズワース『不可知の雲』(1951)現代思想社はこう語る。
「想念の干渉が敵である(p106)。良い想念か悪しき想念かは問題ではない。なぜならば、シンキング・マインドは意識の存在の次元に属し、自覚を持った存在という一段と高い次元のものではないである。仏教ではその種の想念を「戯論」と呼んでいる。シンキング・マインドから「観想」へのシフトが受容なのである(p107)」
「祈りによって精神を集中するには、注意力を心の中に注ぎ込まなければならない。頭の中では絶えず様々な想念がひしめいているので、ひとつのことに集中する暇がない。ところが、注意力が心に降りて来ると、魂と身体の一切の力が心の中の一点に集中してくる(p110)。直ちにある感動が心の中に現れてくる。最初はほんのりとではあるけれども、まもなく暖かい感情となってゆき、注意力はそれにひきつけられて行く。やがては注意力そのものによって心の中に暖かみが生まれてくるようになる(p111)」
オカルト体験とスピリチュアルなものとの区別が必要
最近では、別の意識状態への関心が高まっている。けれども、人類の英知の偉大な伝統、宗教に対する深い畏敬からではなく、「水瓶座のフロンティア」や「意識の進化」のように人生の倦怠感を逃れるための目新しい刺激を求めるものになってしまっている。すなわち、オカルトとスピリチュアルなものとの区別がまったくされていない(p129)。

「明るい光が訪れる。ある人にはランプの光に見え、他の人には稲妻の閃光や月や太陽の輝き等に見える。ある人の場合はそれは一瞬のうちに消え去るが、他の人の場合はもっと長時間続き、恍惚状態が訪れる。そうした輝かしい光を伴った恍惚や幸福を感得するや『我こそはまさに現世を超えた成道に到達したに違いない』と信じる。これは、道ではないものを道とあやまり見たものであり、洞察力の堕落なのである」(p130)。
16世紀のスペインのカトリック司祭、十字架のヨハネ(Juan de la Cruz, 1542〜1591年)もこう述べている。
「こうしたことは神の道を求める過程で肉体的感覚として起こるものであるが、それに頼ったり、それを受け入れたりしてはならず、常にその善悪を判断しようとせずにそれから逃れるべきである(p130)」
人はプログラマーとプログラムで動いている機械の二要素からなっている

プログラマーとして目覚めるためにはヨーガ・念処・祈りが欠かせない
目覚めたならばもうその人はプログラムで動かすことはできない。自分自身がプログラムを組むからである(p112)。世界の宗教の教えは、純粋な自己に目覚めることなのである(p118)。プログラマーがコンピュータよりも高い次元であるように、自覚と呼ばれるものも意識よりも高い次元である。そして、プログラマーに必要なのは、洞察力である。けれども多くの人は知識と洞察力の違いがわからない(p114)。目に見えないものの方が見えるものよりも大きな力と意義を持っていることを教えることが古来の宗教の役割であったが、西洋文明が宗教を捨て去ったためにこの教えは忘れられてしまっているた(p112)。ヨーガや念処や絶えざる祈りといった訓練方法が迷信に近い無意味なことに思えてしまうのはそのためなのである(p114)。
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【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社