人間関係がまずければ人生は傷つく
ジョン・ダン(John Danne, 1571〜1631年)は、「誰もがそれ自体で自足した島ではない」と語った(p125)。私たちの人生は、他人との関係性によって育まれもすれば、傷つけられもする。他人との人間関係がうまくゆかなければ、どれだけ健康で、財産があって、権勢に恵まれていたとしても幸せとは言えない。誰もが忘れたがっているとはいえ、そのことをよく承知している(p121)。
良好な人間関係は他人をどれだけ理解できるかにかかっている
それでは、この人間関係は何によって作られるのであろうか。それは、私たちの他人を理解する能力、そして、他人が私たちを理解する能力に依存している。
ここには次の4ステップがある。
@ 話し手は自分が伝えたいと望んでいる考えの内容を知らなければならない
A 話し手は自分の内なる考えを正確に「表現」しなければならない。これを第一の翻訳と呼ぶ(p121)
B 聞き手は話し手のシンボルを正しく受け取れなければならない(言語が理解できる)
C 聴き手は受け取ったシンボルを統合して、自分の考えにまとめあげなければならない。これを第二の翻訳と呼ぼう(p122)。
問題は、この二つの翻訳で多くの間違いが起きることである(p122)。例えば、知識には四つの分野がある。
第一分野:内なる自己:私は何を感じているのか
第二分野:内なる他者:あなたは何を感じているのか
第三分野:外なる自己:私は他人からどのように見えているのか
第四分野:外なる他者(外なる世界):あなたはどのように見えているのか(p91)。
このうち、我々が直接ふれることができるのは、第一分野と第四分野の知識だけである(p94)。すなわち、他者が何を感じているのかを直接知る手立てはできない(p123,p172)。おまけにたいていの人は、自分の内側のことを他人に知られたくないと思っている(p120)。それでは、人生を共にしている人々の心の中のことをよく理解できるようになるためにはどうしたらよいのだろうか(p123)。
古代の教えによれば自己を深めるほど他人を理解できる
注目すべきことに、すべての古来の教えは、この問いかけに対して同じ答えを出している。すなわち、自分について知る度合いが深いほど、他人のこともよく理解できるということだ(p123)。
例えば、肉体の痛みをはっきりと経験したことがない人には、他人の痛みはわからない。要するに「知識の第一分野」自分が何を感じているのかを深めれば深めるほど、第二分野の知識、自分以外の存在、他者の内的な体験に対する洞察力も身に付けられるのである(p124)。
自分自身を理解しない限り隣人も理解しえない。自己認識という基盤を欠いていれば、相手のことも知り得ない。他人の内的生命を尊重するためには、まず自分自身の内面生活を大切にする必要があるのである(p125)。逆に言えば、自己認識をひきあげ、自分をコントロールする努力を怠れば、必要な時に他人を助けるための他人への理解能力も失われてしまうことになる(p127)。
内に引きこもる人が社会性がないと非難されるのは伝統的な知が失われた証
にもかかわらず、こうした基本的な真理を宗教の専門家ですら忘れてしまっている(p125)。世界で危機が広がる中、誰もが「賢者」や私心なき指導者、信頼のおける助言者がいないことが嘆かれる一方で、念処、ヨーガ、イエスの祈り等を通じて内面の旅路を辿って、内的修行を積んでいる人たちは、利己的で社会的な義務に反していると批難されている。そして、人間の行動やその動機を説明するために、安っぽい心理学や経済学が流行しているのは、近代化によって、知識の第一分野、自己認識が無視されたために、知識の第二分野の能力が失われてしまっているという恐るべき証左なのである(p126)。すなわち、他者を知るための唯一の道は自己認識であり、その道を求める人を「社会に背を向けている」との理由で批判することは大きな誤りなのである(p172)。逆に自己認識の追及を怠る人は、他人の言動をすべて誤解し、自分自身がしていることもお幸せなことにほとんど知らないままに終わる傾向があるため、こうした人こそ社会にとって危険なのである(p173)。
他人の目に自分がどのように映っているのかがわからなければ人間関係はうまくゆかない
自分は他人に対してどのような印象を与えているのだろうか。誰もが興味は持つ(p142)。そして、自分が他人に対して与える影響がわからない限り「己の欲せざるところは人に施すなかれ」という戒めも意味をもたないし、他人と調和が取れた関係を構築することも望めない(p140)。健全な自己認識を持つためには、自分の内的世界を知る(第一分野)と同時に、他者が私をどのように見ているのか(第三分野)の知識を持たなければならない(p139)。
けれども、これも大変に難しい(p140,p142)。なぜならば、自分が間違いだらけな存在であることを思い知らされるのは苦痛だし、そうした不快感から身を守るために人間は数多くの防御機能を備えている。とかく、人は自分の欠点には目をつぶり、他人の欠陥をほじくり出すことになりがちだからである。それでは、どうすればこの課題を遂行できるのだろうか(p142)。
客観的に評価せずに自分を観察する

我々は社会的な存在である。誰もがただ一人で生きているわけではなく、他者とともに生きている。そして、他者とはあるがままの自分を映し出す一種の鏡である(p145)。自分の矛盾は他人には気づけても自分にはわからない。これは、逆に言えば、第三分野の知識を身に付けられれば、他人の眼で自分自身を眺めることができ、自分の矛盾も発見できることになる(p143)。
慈悲と利他主義という特性によって身に付けられる知識
第二分野の知識も第三分野の知識も、自分の観察によって直接的にふれることはできない。そこで、知識の第二分野は「同情」、第三分野は「利他主義」という最高の徳性によって初めてその分野に分け入ることができる(p146)。第一分野を探求していくと自分を重視する思いが高まるが、第三分野を探求していくと、虚栄心が少なくなり、自分の卑小さに気づく(p145)。自己認識は最も価値あるように思われがちだが、内的経験を深めることだけを追求すれば無益であるどころか有害である。第一分野の知識と第三分野の知識は混同されがちだが、自己認識を第三分野の深い探究によってバランスを保つことで、他人が知るように自分自身を知ることができるのである(p172)。
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【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社