2016年04月19日

シューマッハーの人生論C〜記述する科学と指示する科学

死んだ自然に依存する指示的科学

 科学は大きく2グループにわけられる。物理化学のように、一定の成果を出すためには何をすべきかを答えて指示する「指示的科学」(p152)と、植物学のように現実に見えるものや経験されるものを記述する「記述的科学」である(p151)。指示的科学はプラグマティズムで(p155)、それを発展させる手段は数学である(p153)

20160419Northrop.jpg 科学のほとんどは「指示的科学」に関わることから、この二つの違いに気づいている人は少ない(p152)。例えば、米国の哲学者、フィルマー・ノースロップ(Filmer Stuart Cuckow Northrop, 1893 〜1992年)はこう述べている。

「どのような科学も正常かつ健全に発展しているときには、帰納的な研究方法から出発し、形式論理と数学が最も主要な役割を演じる演繹的に定式化された理論をもって成熟に達する」(p152)

 確かに、ノースロップの指摘は指示的科学については正しい(p152)。そこで、物理学や化学は最も成功した学問であるのに対して、生命科学は社会科学や人文科学と並んで不確実性に満ちた未成熟な学問だと考えられている(p151)。記述的科学をいまだに未熟な段階にある指示的科学だと見なす傾向はデカルト以降、ますます強まっている(p171)。けれども、記述的科学と指示的科学との違いは成熟や発展にあるのではない(p152)

事実を記載する記述的科学

 記述的科学のミッションは、自分が自然界の主人であり所有者であるというデカルト的な態度ではなく、謙虚な態度で自然を記述することにある(p159)

 オッカムの剃刀(Ockham's razor)とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする指針である。14世紀の哲学者・神学者のオッカムが多用したことから有名になったが、オッカムの剃刀のような限定は、真実を貴ぶ記述とは両立しえない(p158)。指示的科学の方法論は、動植物学や地理学のような記述的な科学的の方法論には適応できない(p152,p157)

死んだ対象だけを扱うときに実験は有効となる

 例えば、実験が有効な研究方法でありえるのは、研究対象がそれによって破壊されない場合に限られる。無生物は破壊されないから、実験を行うことが可能である。けれども、生命、意識、自覚は簡単に破壊されてしまう。そこで、実験が不可能となる(p150)

 すなわち、指示的科学は自然の死んだ側面にだけ依拠している。数学には、ある種の荘厳なまでの美や魅惑的な真理の表徴ともとれる魅惑的な優美さがあるが、生や死の猥雑さ、希望や絶望、歓喜や苦悩がない。それは、数学や物理学を始めとする指示的科学は、その研究対象を生命がない面に限定しているからである(p154)

死んだ対象を扱う物理科学の世界観は荒涼としたものとなる

「生となんぞや」という疑問に指針を与えるのが哲学であるとすれば(p154)、そうした哲学はこうした指示的な科学からは生れてこないし、生き方の指針も与えない(p154,p155)。そこから導き出される技術を生活に生かすことはできるが、それが善に帰結するのか悪に帰結するのかは科学が関知するところではない。したがって、指示的科学が倫理的に中立であるというのは正しい(p155)。西洋文明はより低い次元での能力は圧倒的に協力だが、人間の問題を扱うことになれば、無知で無能なのである(p112)

記述的科学には意味を認めるものと偶然しか認めないものがある

 記述的科学も事実が際限なく積み上げられていくと理解・把握できなくなるため、どうしてもこれを分類し、一般化し、事実に筋道をつける必要性が生じてくる。この場合に記述的科学の包括的な理論は2グループにわけられる。

@ 記述された対象の中には理性や意味が働いている

A 記述された対象の中に偶然しか認めない(p160)

 この区別は、進化論を考察する際に重要となってくる(p161)。進化論においてチャールズ・ダーウィンは以下の二つのことをしたといわれる。

@創造についての聖書の伝説を否定した

A進化の原因、自然淘汰は神の導きや創造ではない自動的なものであることを明らかにした

 20160419Karl Stern.jpg動植物を育ててみれば、自然淘汰を含めて「淘汰」が変化を産むことは明らかである。したがって、淘汰が進化という変化の要因であることが証明されたということは科学的に正しい。けれども、進化が神とは無関係の自動作用であることは証明されない(p162)。精神科医カール・スターン(Karl Stern, 1906〜1975年)はこう述べている。

「歴史のある時点で生命の発生にきわめて適切な構造を持つ分子群が生れ、その時点から膨大な時間が流れ、自然淘汰のプロセスが進み、憎しみを抑えて愛が、不正を排して正義が選びとられ、ダンテのような誌を書き、モーツアルトのような音楽を作曲し、ダ・ヴィンチのような絵を描ける人間がついに生れた。このような宇宙生成論は狂気の沙汰である。まったくこのような考え方は精神分裂病患者の考え方とある面で良く似ているのである」(p164)

進化論は人類が偶然の産物だと考える宗教である

 「創造主」「宇宙の設計者」といった直接的に観察できない原因を想定せず、観察できる事実から現象をどこまで説明できるのか試みることは、方法論としてははなはだ実りが多い(p165)。けれども、進化論は、逆に人類を含めたすべての自然が適応と生存のための自然淘汰による功利主義的なメカニズムによる偶然の所産であるとする。これは、19世紀の唯物論的な功利主義の最も極端な産物である。すなわち、進化論は、人類を向上させる高次の意義を排除して、人類を堕落させる科学的根拠がない宗教と言える(p165,166)

 イギリスの作家、マーチン・リングス(Martin Lings, 1909〜2005年)はこう警告している。

「近代世界で宗教的信仰心が失われた原因を探っていくと、進化論がなににもまして直接的な原因であることがわかる。驚くべきことと思われるかもしれない。けれども、論理的に考えれば、進化論と宗教のいずれか、つまり、人間の堕落の教義をとるか、人間向上の教義をとるかしか道はない。そして、何百万人という現代人が「科学的に証明された真理」だとの理由で進化論を選んでいる。その理由は現代人の多くが進化論を学校で教えられたからである」(p167)

人は宗教なしには生きられない存在である

 19世紀の物理学から見出されたのも、生命とは宇宙の偶然であり、意味も目的もないことであった(p154)。すなわち、こうした科学的な世界像は荒廃したものとなり、文明も同様に死滅するであろう(p171)。そして、この偽りの思想を脱却しえなければ、それは文明の崩壊すら来しかねない。なぜならば、いかなる文明といえども、安楽と生存のための功利主義を超えた意味や価値への信仰、すなわち、宗教的信仰心がなければ生き延びられないからである(p166)。宗教なしに生きるという現代の実験は失敗に終わった。人は宗教なしに生きることは不可能なのである(p198)

ノースロップの画像はこのサイトから
スターン博士の画像はこのサイトから
リングスの画像はこのサイトから
【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社


posted by la semilla de la fortuna at 07:00| Comment(0) | 魂の人生論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: