2016年07月04日

A贈与の生物学〜国家を作らなかった人々の論理

権力なき首長

 新石器時代には、政治があったとしても、呪術師や占い師たちのご神託で物事が決められる非合理きわまりないものにちがいない。それが、これまでのイメージだった。けれども、人類学の研究が進んだ結果、意外なほど「民主的」なやり方で政治が行われて来たことがわかってきた(3p138)

 20160704lowie robert.jpg例えば、米国の人類学者、カリフォルニア大学バークレー校のロバート・ハリー・ローウィー(Robert Harry Lowie, 1883〜1957年)教授は、南北のネーティブ・アメリカン社会を元に、「首長(titular)」の三つの特徴を以下のように整理してみせたが(3p136)、そこにはまさに根源的な「政治」の姿が表れている(3p137)

交渉と調整の人

 首長の役目は、部族内や他部族ともめ事がおきたときに、緊張をやわらげ、戦争や殺人といった最悪の事態に突入することを防ぐことにある(3p137)。ただし、「威信」はあっても、政治権力は持たなかった。したがって、気長にネゴシエーションを行いながら、緊張を取り除き、平和をもたらすため、自分の利害を離れ客観的な立場に立てる「正しい心」の持ち主であることが求められた(3p138)。首長の権威を支えているのは「理性」といえる(3p200)

物惜しみしない

 20160704PierreClastres.jpgケチであることは自分を否定することに等しいため、首長は、物惜しみしなかった(3p137)。フランスの人類学者、ピエール・クラストル(Pierre Clastres, 1934〜1977年)の『国家に抗する社会』によれば、誰よりも所有物が少なく見栄えのしない装身具しかもっていない者が首長である。求めるものをすべて与えてしまうのが首長の役割だからである。レヴィ=ストロースも『悲しき熱帯』において「首長の人気の程度では、気前のよさが大きな役割を果たす」と述べている(3p141)。首長は、「貪欲」に対立する作法、文化を身に付けていたといえる(3p142)

弁舌がさわやか

 ためになる話や教訓となる話を聞きたいという人々の欲求には根深いものがある(3p144)。このため、多くの部族の首長には、毎朝や日暮れ時に、何かためになる話をして人々を喜ばせる義務があった。とはいえ、人々が飽きてしまわないように話さなければならない。このため、首長は誰よりも弁舌が巧みで、かつ、うまく踊り歌えなければならなかった(3p143)。踊りと歌で人々に深い感銘を与えた後、おもむろに正しい生き方を諭す。これはまさに文化的な行為といえる(3p144)。なお、現代でも若者たちに最も影響力を持っているのがミュージシャンであることはこれと無関係ではない(3p145)

戦争時には戦争のリーダーが登場する

 けれども、首長の交渉や調停がいつも成功するとは限らない。その場合には、首長とは別に戦時のリーダーが選ばれ、男たちを率いて戦争にでかけることになった。ここでリーダーに求められる能力は勇気である。したがって、二つのリーダーは完全に分離されていた(3p139)

熊楠と折口は対称性の思考を模索していた

20160704Orikuchi.jpg 南方熊楠(1867〜1941年)は傑出した対称性の思考能力を持っていた(7p91)。熊楠が粘菌の研究に没頭したのも、動物と植物、生と死との間の高次元領域を発見することを求めたからであった(7p4,7p93)。また、民俗学者の折口信夫(1887〜1953年)も、表面的には違って見えるものの間に共通性や同質性を見出し、ひとつのものとして捉える能力に長けていた。これもまさに「対称性の思考」といえる(7p90)

幸福という言葉は異界を表す言葉から作られた

 例えば、幸福という言葉は明治時代に英語の「hapiness」やフランス語の「bonheur」を翻訳するため、それまでのやまと言葉にあった「さち」と中国語由来の「福」を組み合わせ作られた(6p176,7p208)

 折口信夫によれば「さち」は、新石器時代の狩猟社会使われていた言葉である。「さ」は古代語で境界を表し「ち」は霊力を意味する(6p177,7p211)。すなわち、森の守護神である熊が境界を超えて人間に贈与する狩猟の豊かさを意味していた(7p211)

 「福神」も、折口信夫の言う、海の彼方にある他界「常世」が関係していた(6p177)。記紀や万葉集、風土記に見られる「常世」は、この世とは時空間の尺度が違い、生命力が溢れた豊穣な世界だとされてきたが(6p208)、オーストラリアのアボリジニの言う「ドリームタイム」に類似する(6p178)。「福神」は、そうした空間や死霊の世界と深くつながり、無限の富や生命を貯蔵し、人間世界に豊かな富をもたらす神と考えられて来た(7p213)。ここには対称性の原理が働いている(7p211)。とりわけ、「さち」は、空間的に対称性の原理を作動させている(7p212)。したがって、人間の幸せは対称性と切り離しては考えられないのである(7p214)

冬は霊力が高まる聖なる時間である

 折口信夫は、霊魂や神の概念がどのようにして誕生したのかを探る中で「古代」という概念を提示する(3p164)。折口は「たま」が極めて古い時代から生き残って来た言葉だと考える。そして、長く寒い「ふゆ」に「たま」が増えると考えた(3p165)。日本の冬は聖なる時間であり、霊力が増える意味を持っていた(3p172)

20160704FranzBoas.jpg 折口が独創的な「霊魂論」を着想したヒントには(3p26)、北西インディアン部族、クワキトゥル族、トリンギット族、ツィムシアン族が行っていた祭りについて、コロンビア大学のフランツ・ボアズ(Franz Boas, 1858〜1942年)教授の研究がある(3p168)

無文字社会のイニシエーションと怪物

 国家を持たない無文字社会では、イニシエーションの儀式が盛んに行われて来た。若者がこれを通過してはじめて大人社会に迎え入れられることになる(7p45)。共同体の長老たちが厳重に保管し、資格ありと認められた若者が、厳しいイニシエーションの儀式を通過した末にようやく体験できる「特別な知恵」が最も大切にされてきた(7p138)

 例えば、北米北西海岸に住む先住民、クワキトゥル族は、夏には協同で漁撈や狩猟採集を行い、首長がリーダーとなっているが(3p170)、冬になると家族中心の社会構造が一変し、人々は「アザラシ組」「ワタリガラス組」といった秘密結社に属し、霊力を発動させるための祭り「ツェツァイカ」を行うのである(3p172)

 うち、最も権威ある秘密結社、アザラシ組の一員になるためには、「ハマツァ(人食い)」の儀式を経験する。その中で志願者は「パブバクアラヌフスィイェ」という強力な人食いの怪物に食べられる体験をしなければならない(3p174,7p46)

20160704Kwakwakawakwgirl.jpg 人類の古いイニシエーションの儀式の主題は、真っ暗の小屋や洞窟に若者が長時間放置し、これから怪物に喰われるのだぞと脅されるというものである。そして、闇の中で若者を待ち受けている怪物は、ほとんどが半人・半獣の怪物なのである(p130)

 夏は狩猟の季節であり、人間が動物を殺す。けれども、冬にはこの関係が逆転し、森を住処とする自然の王「パブバクアラヌフスィイェ」に人間が食べられるのである(3p175)

自らを犠牲にすることで幸をもたらすアリクイ

 中央アフリカのバンツー系の一部族「レレ族」は、動物/人間、女/男、左/右と二項論理によって自分たちの生きる世界を構築しているが(7p122)、1970年代に人類学者、ノースウェスタン大学のメアリー・ダグラス(Mary Douglas, 1921〜2007年)教授は、男たちだけが参加するある特別な儀式ではこの秩序が崩壊することを報告している(7p123)

 20160704douglas.jpg若者が長老からレレ族伝承の「特別の知恵」を授けられるイニシエーションの儀式では、全員でアリクイを食べる(7p124)。そして、彼らの二項論理では分類できない「怪物」、アリクイを食べることで女性たちが妊娠し、狩人は獲物をたくさんしとめられると考える(7p125)。さらに、アリクイは自らの内部から世界に幸せをもたらす能力を解放しようとして、自ら進んで死を選んだと解釈される。怪物的な動物は聖者のような利他心をもって自分を犠牲に捧げようとしていると考えることによって、アリストテレス型の論理が解体され(7p126)、生と死の対立を超えた高次元な世界が追求されているのである(7p127)

人間に変身するシャチやヤギ

 クワキゥトゥル族は、人間とシャチとが入れ替る「トランスフォーム・マスク」を作っているが、こうした仮面は北西海岸のインディアンやイヌイットに至るまで広範な地域で発見されている。東京帝国大学の金田一京助(1882〜1971年)教授の「山の思考」によれば、明治の東北盛岡でも春田打ちの舞に出てくる芸人が、美しい女性の田の神と醜い山の神の顔を交互に入れ替えるマスクで芸を演じていた(7p42)

 北米北西海岸に居住するトンプソン・インディアンの神話「狩人と山羊」では、山羊も人間となる(7p26)。そこには、山羊と人間を切り離す非対称の原理と、山羊と人間との間に絆を作り出す「対称性の原理」のバランスとがよく考え抜かれている(7p30)

冬には逆に人間が食べられる〜対称性の論理でバランスをとる

ポイエーシス(贈与)からテクネー(開発)へ

 例えば、ドイツの哲学者、マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889〜1976年)は、近代技術の本質を明らかにするため、古代ギリシア人がテクノロジーについて、どのように考えていたのかに着目した。テクノロジーの語源は、ギリシア語の「テクネー」だが、この言葉は「ポイエーシス」と対比的な意味を持っていた(3p121)

 すなわち、ギリシア人は、自然に花が咲くように、自然が隠し持っていた豊かなものを自発的に持ち出す「贈与」を「ポイエーシス」と呼ぶ一方、岩山を砕いて鉄鉱石を取り出したり、鉄鉱石を熱して純度が高い鉄を作る等、自然の中に隠れている豊かなものを挑発的に引き出す行為のことを「テクネー」と呼んでいた。そして、ハイデガーは、近代社会では技術が「テクネー」としての性格を強め、自 然を開発の対象として見るようになってしまったことに危機感を抱いていた(3p121)

 確かに、人間は技術を手にすることによって動物よりも圧倒的に有利な立場に立てたし、自然の富も無尽蔵に手に入れられるように見える。けれども、人間が動物に対して「非対称的」な関係を打ち立ててしまえば、いずれ非道な仕打ちに怒った自然が、人間に豊かな富を贈与しなくなるに違いない。先住民たちは、そう考えていた(3p176)

夏には人間が獣を食べ、冬には獣に人間が食べられる

 夏の狩猟の季節には、世俗的な季節を指導する首長は、法律家であり、道徳家であり、理性と弁舌をもって社会に平和をもたらすため、威信を保っていた(3p182)。そして、こうした社会においては、シャーマンはいつも社会の周辺部にいて、権力の中心には近づけないようにされていた(3p135)。ただし、冬の祭りの時には、戦士、シャーマン、秘密結社のリーダーが中心となった(3p183)。戦争も祭りとよく似た行為である(3p180)。ただし、伝統社会での戦争は、失われたバランスを取り戻すことが目的であり、報復が完了すればそれで終わり、大量虐殺や全面戦争には至らなかった(3p182)

 要するに、二つの異なる原理をバランスさせることで、無文字社会、国家を持たない社会は3万年以上も比較的つつましくこの地球上で生きて来た(7p118)。人間と動物との間には対称性の思考があるため、狩猟民は乱獲を起こさなかったのである(7p154)

 1920年代には、フランツ・ボアズ教授による北米西海岸の先住民の姿が紹介されていた時代だった。彼らの生業も日本の縄文時代も、いずれも、狩猟と漁撈に依存し、熊とサケが重要な動物となっていた点で類似していた(3p155)。このため、宮沢賢治(1896〜1933年)は『氷河鼠の毛皮』(大正12年、1923年)という作品で、節度をもって生きることの大切さを格調高く童話で描いて見せている。

20160704賢治2.jpg『おい、熊ども。きさまらのしたことは尤もだ。けれどもなおれたちだつて仕方ない。生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから今度はゆるして呉くれ』

ローウィー教授の画像はこのサイトから
クラストルの画像はこのサイトから
折口信夫の画像はこのサイトから
ボアズ教授の画像はこのサイトから
ダグラス教授の画像はこのサイトから
宮沢賢治の画像はこのサイトから
クワキトゥル族の画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) 中沢新一『宗教入門』(1993)マドラ出版
(2) 中沢新一『人類最古の哲学・カイエ・ソバージュ1』 (2002)講談社選書メチエ
(3) 中沢新一『熊から王へ・カイエ・ソバージュ2』 (2002)講談社選書メチエ
(4) 中沢新一『愛と経済のロゴス・カイエ・ソバージュ3』 (2003)講談社選書メチエ
(5) 中沢新一『神の発明・カイエ・ソバージュ4』 (2003)講談社選書メチエ
(6) 中沢新一・河合隼雄『仏教が好き』(2003)朝日新聞社
(7) 中沢新一『対称性人類学・カイエ・ソバージュ5』(2004)講談社選書メチエ
posted by la semilla de la fortuna at 07:00| Comment(0) | 脳と神経科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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