日本社会はなぜ生きづらいのか
選択と自己責任を強いる冷たい社会
現代は自分探しの時代だと言われる。学校においても会社においても、個性を発揮する自分らしさが尊重されている。けれども、これほどまでに自分探しや個性が求められることそのものが、現代社会の病理といえる(5)。
そもそも複雑化した現在社会の中で、自分らしく生きることそのものが難しい(5)。しかも、人生の選択肢の幅はますます広くなっている。仕事や結婚をはじめとして、自分がどのような人生を歩むのかが絶えず問われ続けている。そして、人生の幸や不幸のすべてはこの「自分の選択の結果」だと誰もが思い込まされている(4)。
すなわち、いま不幸なのは自分の選択の誤りのためだ、結局、自分が悪いのだという思いを抱かざるを得ない自己責任社会なのである。そして、この自己責任社会の背景にあるのは、冷たい新自由主義的な考え方である(4)。
他者との能力比較で評価される自分は歯車でしかない
また、日本社会が求める「自分らしさ」や「個性」は、絶えず他者と比較することによって評価されるものである。けれども、学歴や収入等、他者との比較によって生きていれば、どこまで自分を高めたところで、自分は常に自分と同じ能力を持つ他の誰かと交換可能な存在でしかない。そして、多くの人たちが、日本社会とは、効率性がすべてに優先され、自分は交換可能なただの歯車のような存在でしかないことを実感している(5)。
日本の個を殺す「つながり主義」が人々を閉塞させている
『戦争論』において、小林よりのり氏は「公共性から切り離された個人主義はエゴイズムと変わりなく、日本人は倫理も美意識も失った」と個を殺した滅私的なつながり、「公偏重」の立場を主張してみせた(2p55,2p57)。小林氏の指摘は、ある意味で正鵠を射ている。けれども、限定され、閉ざされた「つながり至上主義」ほど、危険なものはない(2p57)。
日本では、親の過干渉でアダルトチルドレンが生れる等、個を窒息させる「つながり主義」が根強い(2p55)。とりわけ地方では「個を殺したつながり」を良しとする風潮が残っている(2p58)。これに対して、誰もが極端に孤独を恐れるあまり、まわりにあわせることに過敏になっている(2p31)。「いつも元気で明るくでいよ」という親の過剰な要求が子どもたちを苦しめている(2p33)。
日本は誰もが自分を殺し匿名の誰かを演じる閉塞社会である
すなわち、日本は「普通」から外れることに大きな不安を覚える社会である。大半の日本人は人並み教、「ふつう教」の信者である。そこで、「普通」から外れることに対して多くの人が自己否定感を募らさざるをえない。これは異様な社会といえる(4)。
このため、誰もが相手や世間から受け入れられる「匿名の誰か」という仮面を演じるようになっている。その背景にあるのは、集団から排除される不安、孤独に対する不安である(5)。自分の人生は自分が主人公のはずである。けれども、他者に服従したり、迎合したりして、他の誰かのために生きていると虚しさを覚えてくる(2p173)。他の誰かからの愛を失うことを恐れてひたすら相手に迎合し続けていくと、自分の人生が自分のものではなくなっていく。これは、日本人が陥りがちな自己喪失の典型的なパターンなのである(2p126)。
世間の価値観や物事の見方にあわせることで、自分を失う人のことをマルティン・ハイデガー(Martin Heidegger,1889〜1976年)は『ダス・マン(頽落した人)』と呼んだ。モノやマネーはあっても夢はなく、上辺の人間関係はあっても深いつながりはない。こうした閉塞感に包まれた時代を私たちは生きている(5)。
個を賛美する相対主義にはニヒリズムが伴う
そこで、他者の期待に応え、他者を喜ばせる「偽の自分」を演じるのを止め、自分が自分の主人公になる必要がある(2p123,3p46)。こうした日本の状況に対して、首都大学東京の宮台真司教授は、ポストモダンの相対主義を提唱し(2p52)、バラバラの個人主義を重視する(2p55)。これは、「腐ったつながり」を断ち切る意味では、大きな意味がある(2p58)。けれども、つながりを欠いた個人主義は抑圧的な人間関係や集団への埋没から個を解放することに役立っても、その先がない(2p59)。
日本では1980年代にポストモダンが流行した。ポストモダンは、フリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844〜1900年)の「パースペクティビズム(遠近法主義・観点依存性)」を源流とし、誰にとっても普遍的な真理はないと考える(2p51)。けれども、ポストモダンは大きな無力感を与える思想でもある(2p52)。宮台教授は「人生には意味もクソもない」と主張するが、そこでは個人の成長や真善美といった価値の一切が否定され、この世界は極めて荒涼としたフラットランドに化してしまう(2p90)。「私はここにいてもいなくてもかまわない」という相対主義には虚しさの感覚が伴う(2p215)。
「個が生きる」つながりを目指すトランスパーソナル心理学
現代社会の問題の根底には物質主義と個人主義がある

トランスパーソナル心理学は、現代社会の様々な問題は、近代的なバラバラ思考の産物である物質主義と個人主義のゆきづまりによってもたらされたと考える(2p51)。「個を超えたつながり」を回復するしか、現代人の歪んだ生き方の根本からの改革は成し遂げられないと考える(2p225)。このため、トランスパーソナル心理学は、つながりを重視する(2p51, 2p224)。
けれども、そのつながりは、カルト集団のような閉鎖的・排他的なつながりでなく、開かれたつながりでなければならないし、ある種の全体主義的な抑圧的なつながりではなく、個が生きるつながりでなければならない(2p225)。すなわち、トランスパーソナル心理学が目指す、個が個として生きながら、同時につながることもできる「個が生きるつながり」が必要なのである(2p59)。
個人主義が克服されたとき社会問題と環境問題も解決する
そして、個人の心の問題である「私の癒し」を「世界の癒し」、「地球の癒し」と不可分のものとみなす(2p224)。ひとり一人を生きづらくしているもの、社会に歪みをもたらしているもの、地球を破滅に追い込んでいるもの。それは、同じものだからである。こうした、私はどう生きるべきかという自己探求の問題と、この世界はどこに向かうべきかという社会変革の問題と、傷つけた地球生命をどう癒すかというエコロジーの問題がひとつに溶けあう(2p227)。
意識のスペクトルでレベルに応じた癒しを整理する
カウンセリングはペルソナとシャドウに分離した心を健全化する
ケン・ウィルバーは若干24歳で書き上げた『意識のスペクトル』で、人間の意識を「ペルソナ意識」、「エゴ(自我)意識」、「ケンタウロス(心身一如)意識」、「究極の統一意識」という4レベルからなる階層構造として捉えて見せた。さらに、意識を階層構造化することによって、心理カウンセリングから霊的・宗教的な諸伝統が、各意識のレベルに応じて互いに相補的な関係にあることを整理してみせた。図をご覧いただきたい(3p108)。

ウィルバーによれば、シャドウを意識化することで、ペルソナとシャドウに分裂した意識を健全なエゴ(自我)意識へと統合するのが「カウンセリング」である(3p109〜110)。
エゴが最も憎むのは自分である。すなわち、頭の中で勝手に理想とする「ペルソナ」を作り出し、自分が受け入れられない部分を非自己としてシャドウの側に追いやっていく。残されるのは、痩せ細って、ますます貧困化するペルソナである(1p153)。このため、自分が見たくなかったシャドウに向き合い、それを再び所有しなおせば、エゴはより健全なエゴとなり、ペルソナとシャドウとの分裂が癒され、自分で引いたその境界が消え失せれば、より広く安定したアイデンティティ感覚が味わえる(1p180)。
西洋心理学と合致する、個としての自分の健全なエゴを確立する仏教の教え
すなわち、きちんとした自己を確立することが、トランスパーソナル心理学の自己成長の第一段階であり(2p127)、それは、カール・ロジャーズ(Carl Ransom Rogers, 1902〜1987年)らの人間性心理学が強調する段階である(2p123)。

これは西洋心理学でいう「自己確立」や「自己実現」に相当する(7p166)。そして、この健全な自我のまとまりが失われたときの認知モードが、総合失調症や境界性障害、離人症だと言える(7p162)。すなわち、自我確立を重要だとみなす西洋心理学とブッダの教えは矛盾しないのである(7p166)。
ネガティブ思考は習慣で人は不幸になることを自分から願っている
それでは、健全な自我を確立するためにはどうすればよいのだろうか。
幸せになれるかどうかは、めぐってきたチャンスを捉まえる心構えがあるかどうかに尽きる(6p23)。「どうせ私は」と世界に自分を閉ざしてしまえばチャンスがめぐってきてもそれをうまくつかめない。この世界は自分の味方だという実感が持てなければもって産まれた自分の才能も十分に生かせない(2p149)。
けれども、口では「幸せになりたい」のに、「自分は不幸である」という殻に閉じこもっている人が多いのはなぜであろうか。それは、幸せになるのが怖く、今のままでいる方が楽だからである(6p31)。幸せになると本気で決意しても失敗すれば傷つく。傷つくくらいならば、今の不幸のままでいい。いっときの幸せを手に入れてもそれが長続きするかどうかわからない。それならば最初から幸せを手に入れなくてもいいと考えてしまうのである(6p32)。

そして、人間の脳には、いつも考えていることを自動再生する「自動思考」という働きがある。このため、ネガティブな思考は意識してやめない限りずっと続いてしまう(6p33)。 深い心の傷を抱えた人は、自分の人生における最悪の出来事を何度も繰り返してしまい、不幸になってしまう人がいる。それは、客観的な過去のつらい事実ではなく、自分が作り出した物語を自分で確認したがっているからなのである(2p137,2p139)。
マインドフルネスを活用したハコミセラピー

例えば、多くの人は「〜ができない」と考えがちだが、これを「〜しない」と言いかえることによって、「〜ができない」と思い込んでいたのは、したくないからしていなかっただけにすぎないという事実に直面する(2p133)。すべての行為は自分が選んでいるのだ、という主体性の感覚を取り戻せる(2p134)。
いま、ここを全力で生きてみる〜ゲシュタルト療法
「今のままの自分」でいることは楽である。そこで、人は、変わられない理由、いまのようにしか生きられない理由を自分に対して言い訳をする(6p40)。いつまでも不幸にとどまり、人生を変えられない人は、自分の不幸を「過去」と「他人」のせいにすることが多い。けれども、過去も他人も変えることはできない。変えることができるのは、「いま」と「自分」だけである。自分の不幸の原因を過去や他人のせいにしていることが、人生の流れを淀ませ停滞させている最大の障害物なのだから、このブロックを解除しない限り、いい人生の流れをつくりだすことは難しい(6p45)。

私はあなたの期待に応えるために、この世に産まれてきたわけではない
あなたも、私の期待に応えるために、この世に生まれてきたわけではない
あなたはあなた。私は私。
もし、ふたりが出会うことがあれば、それはそれで素晴らしいこと
もし、ふたりがふれあうことがなくても、それはそれでいたしかたのないこと(5,6p44)。
あなたは、他の誰とも違うかけがえのない存在である。そして、私も他の誰かと交換不可能なかけがえのない存在である(5)。過去への捉われや未来への空想、他人への責任転嫁を止めよ。他人に期待に応えることも止めよ。そこからしか自分の人生は始まらない。なればこそ、「私は私のことをして、あなたはあなたのことをする」とパールズは唱える(6p47)。
神秘体験よりも健全な自己の確立が大切
プレパーソナルとトランスパーソナルな意識状態の区別が大切
ここで、重要なことは、ウィルバーが、「プレパーソナル」というレベルを設け、これを「トランスパーソナル」と明確に区別したことである(2p99)。
ウィルバーは『アートマン・プロジェクト』(1980年)において、ゲーテやシェリングに由来するロマン主義に立ち、「乳幼児は神と一体化した天国状態にある」と書こうとしていた(2p99)。確かに禅においては「悟りとは赤ん坊のようになることだ」と表現され、聖書でも「幼な児のようにならなければ天国に入ることはできない」と書かれている(2p99, 3p114)。けれども、個としての「自分(エゴ)」が確立される以前の「プレパーソナル」な自他が未分化な幼児的意識状態の段階へと退行していくことと、個が確立されたうえで、さらにそれを超えていく「トランスパーソナル」な段階、悟りの状態とを同一視してよいのであろうか。『アートマン・プロジェクト』の執筆中に、この問題に直面したウィルバーは、「プレとトランスの混同」という概念を提起する(3p115)。
確かに、赤ん坊の未分化な意識状態も、成長の極限である「無境界」の意識状態も、「非エゴ的体験」である点では変わらないし、同一視されやすい(2p99,3p116)。けれども、悩んだ末に「両者には違いがある」とウィルバーは結論づけた(2p100)。

ただ「頭を捨てよ」と理性的な判断を放棄させ、個人の成長を妨げる「似非スピリチュアリティ」と、理性を保持したまま「超合理」の段階を目指すトランスパーソナルな意識状態は、区別しなければならないと、ウィルバーは警告する(3p116)。
他者に盲目的に尽くしたり、集団に埋没するつながりは、「個の確立」以前という意味で「プレパーソナル」なつながりといえる(2p58)。下手をすればオウム真理教のようになりかねない(2p57)。プラユキ・ナラテボー氏によれば、ブッダは「カーラーマ経」で「師が言ったからといって鵜呑みにしてはならない」とグルイズムを明確に否定している。理にかなった思考「如理作意(にょりさい)」や「中道」を重視して、盲目的な行動や極端な苦行を戒めていたのである(7p70)。
超常体験よりもきちんとした自己確立が大切

ブッダも瞑想中に生じてくる「光の体験」や「歓喜体験」等(7p137)、10の特殊の体験についてふれ、これを「ヴィパサヌーッパキレー(瞑想随煩悩)」と称して、とらわれてはならないと述べていた(7p138)。
すなわち、自分や周囲の人の苦しみが軽減され、楽が増えている。「抜苦与楽(ばっくよらく)」な状態であれば正しい方向に進んでみるとみなしてよいが(7p101)、たとえ、神秘体験をしていても周囲の人の苦しみが増えているのであれば、それは正しい方向には進んでいないのである(7p102)。
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【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ