シャドウに向き合うことがエゴを健全なアイデンティティへと広げる身体の感覚を取り戻す
『創世記』によれば、アダムがしたことは、モノに名前を付ける、すなわち、あるグループとグループの間に境界線を引くことであった(1p38)。生と死、善と悪、愛と憎悪、自己と他者。私たちは境界の世界に住んでいる。そのために争いと対立の世界に住んでいる。私たちが抱えている問題の大半は、「境界」とそれが生み出す対立の問題だといえる(1p42)。
対立は、ゲシュタルトの知覚理論によってよりはっきりする。ゲシュタルト心理学によれば、私たちは対照をなす背景との関係性なくして、モノや出来事を知覚できない。例えば、夜空に星が見えるのも、個別の星が見えているからではなく、暗い背景に明るい光が認識されるからである。一方の闇なくして他方の光を知覚することは絶対にできない。同じく、快楽も苦痛なくして自覚できない。快楽と苦痛が交互にやってくるように思えるのもそのためである。互いのコントラストと交代をとおしてしか、互いの存在を確認できない(1p47〜49)。
死の恐怖が身体と心(エゴ)の分離を生んだ
肉体が罪と同義語になるのはそのためだ。確かに、身体は苦痛の源である。けれども、同時に快楽の源でもある(1p185)。病による衰弱、癌の苦しみを感じるのは身体だが、同時に、エロティックなエクスタシーから、美食の味、日没の美しさを感じるのも身体の諸感覚である(1p20)。だから、エゴは苦痛もないかわりに喜びもないという大きな代償を支払っていることになる(1p185)。
こうして多くの人は、身体と心との間に無意識に深い境界線を引いて、身体感覚を喪失している。健全なエゴがペルソナとシャドウに切り離されているように、誰も「頭」だけが私となっていて、「身体」は「私」に所有される「私のモノ」となっていて「私」ではなくなっている(1p181)。頭の中の自己のイメージとそれに関連した知的・感情的なプロセスにアイデンティティを抱いている(1p21)。
投影していたシャドウに向き合い、それを再び所有しなおせば、貧困なペルソナから健全なエゴへとアイデンティティを広げることができる。ペルソナとシャドウとの分裂が癒され、境界が消え失せれば、より大きく安定したアイデンティティの感覚を味わえる。閉塞したアパートから心地よい家に移るようなものである。そして、心地よい家からさらに広々とした邸宅に移るためには、身体を再び所有しなおせばよい(1p180)。
身体の感覚を取り戻す
そこで、ウィルバーは、身体と心とが完全に統合され調和している「心身一如」の状態を表すものとして「ケンタウロス」の状態と呼ぶ。ケンタウロスとは半身半馬の伝説的な動物で、騎手は自ら馬を監督するではなく馬と一体化しているからである(1p140)。
エゴは現状が幸せではないと感じて、モノで身のまわりを取り囲むことで喜びを産みだそうとする。けれども、これは、喜びや幸せは外から呼び寄せられるという幻想を強めるだけである。そのうえ、エゴが意識的に対応できることはせいぜい二つか三つにすぎない(1p202)。
例えば、エゴは自分がコントロール可能な随意行動だけに自分を同一化させ、それ以外の自発的な不随意な行動は非自己的なものとしている。例えば、「わたしは腕を動かす」とは言う。けれども「わたしは心臓を脈打たせている」「わたしは血液を循環させている」「わたしは食べ物を消化させている」「わたしは髪の毛を伸ばしている」とは言わない。つまり、身体が、無意識に行なっている消化、代謝、成長・発達等の不付随な活動を自分とは認めない(1p184)。一方、身体はエゴの助けも借りずに、消化作用、神経伝達等、何百万ものプロセスをいまこの瞬間にも調整している(1p202)。
そこで、ケンタウロスのレベルに立ち返り、心身一如を取り戻すことは、身体そのものから喜びが湧き出ていることに気づくことになる(1p202)。
自我の確立や自己実現を超えた実存的自己の心理学
従来の心理学は、人間の心の成長を自我の確立(フロイト)や自己実現(人間性心理学)までしか描いてこなかった(2p98)。個人の幸せや自己実現だけを追求してきた(2p226)。
確かに、人生にエゴ的な意味を見出すことは、ある時点までは適切なことである。けれども、例えば、健全なエゴを発達させ、車や家を手に入れ、仕事で認められ、モノを買い集めた後にはどうなるのだろうか。外に物質的な欲望を追求することに魅力がなくなったとき、待っているものがただ死だけであることが明らかになったとき、どうすればよいのであろうか(1p205〜206)。
仏教では「マナ」、日本語の「慢」は煩悩のひとつとされている。プライドやセルフ・エスティームは低次元の段階では持つことが望ましいが(7p209)、最終的には卒業する必要がある(7p210)。
人生はいつ突然に最後の日がやってくるのかどうかわからない。もし、明日死ぬとしたら今日の朝ごはんが最後の朝ごはんとなるのである(6p141)。いくらお金を稼いでも、いくら高い社会的地位に就いたとしても、そんなものはあの世には持っていけない(6p152)。とすれば、今日が人生の最後の日になるかもしれない。そんな思いを胸に刻んで一瞬を心を込めて生きるしかない(6p142)。
人間性心理学がトランスパーソナル心理学のベースとなった
トランスパーソナル心理学が誕生する以前には、心理学には三つの流れがあった。第一は、行動主義心理学、第二はフロイトの精神分析から生れた心理学(2p62)、第三が、この二つを批判する形で産まれてきた人間性心理学(実存心理学・現象学的心理学)である(2p63)。
マズローも晩年には「自己実現欲求」のさらに先に自己実現を超えた心理学「自己超越欲求」がある考えていた(2p66,7p210)。このマズローの呼びかけを受け、カリフォルニアのパロアルトのグループが、自我を超えた体験の研究を始める。そして、1960年代後半にマズローとメリーランド精神医療研究センターのスタニスラフ・グロフ(Stanislav Grof, 1931年〜)研究部長とが話し合った結果、この新たな心理学に「トランスパーソナル」という名前が付けられる(2p66)。
それ以前にはトランスパーソナルという言葉は、1905年にウィリアム・ジェイムズが使い始め、1916年にはカール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875〜1961年)が「集合無意識」の意味で用いている。また、イタリアの精神科医、ロベルト・アサジョーリ(Roberto Assagioli, 1888〜1974年)もハイヤー・セルフという言葉をかなり古くから使っていた(2p67)。
1969 年、マズロー、グロフを中心に、オーストリアの心理学者、ビクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905〜1997年)博士、ロベルト・アサジョーリ、アーサー・ケストラー(Arthur Koestler,1905〜1983年)、イギリスの哲学者、アラン・ワッツ(Alan Watts,1915〜1973年)らが賛同し、トランスパーソナル心理学会が創設された。そして、その翌年、1970年にマズローは心臓発作で急逝している。その死が一年早かったならばトランスパーソナル心理学はこの世に誕生しなかったかもしれない。おそらく、トランスパーソナル心理学会の創設がマズローのいのちに与えられた最後の使命だったのであろう(2p68)。
エゴと身体の分裂を回復するフォーカシング
ウィルバーの自己成長論の意義は、人間の自己成長を最後のトランスパーソナルなレベルまで描き切ったことにある(2p115)。パーソナルからトランスパーソナルへのこの段階は、自分の人生を生きられるようになった人が、さらに進んでいく段階で、トランスパーソナル心理学がこれまで最も強調してきた段階である(2p120)。そして、エゴと身体に分裂したエゴ意識を身体も含めた人間として全体性の回復を目指すのが「フォーカシング」等の「人間性心理学」で(3p109〜110)、自分を離れたところから見る「眼」を養ううえで最も優れた方法が「フォーカシング」である(2p154)。
フォーカシングの専門家、関西学院大学の池見陽教授のイメージ図に意識のスペクトルを書き込んでみたものを作ってみた。
フォーカシングは向こうからやってくるものに心を開き、それを受動的に受け止める(2p160)。ジェンドリン博士は、この人生からの呼びかけを「暗黙への生起(Occuring into implying)」と呼ぶ(3)。このため、ネガティブな自己イメージをポジティブな自己イメージへと変える「認知療法」とは正反対度の態度で(2p160)、正も邪も、明も暗も、等しく認め、そのまま受け入れ、離れたところから自分自身を見る「眼」、高次元の自分を育む(2p170)。
『やさしいフォーカシング』(星雲社)の著者、アン・ワイザー・コーネル(Ann Weiser Cornell,1949年〜)博士は、すべてをあるがままに認め、許し受け入れる自分へのまなざしを「より大きな私」と呼び、それは慈悲に満ちたブッダのようなものだと語る(2p168)。
見えない世界からの呼びかけに耳を澄ます
フォーカシングでは、何かを伝えたがっている内なる私がいると考える。それが、「あいまいで重たい感じ」として感じられる。これを「フェルト・センス」と呼ぶ(2p157)。とかく、「小さなことにくよくよするな」と自分の内側にある漠然とした違和感を無視しがちである。けれども、フォーカシングからすれば、それは気づく必要のある大切なメッセージをゴミ箱に捨ててしまうような粗雑な生き方なのである(2p159)。
一人静かな時間を持ち、人生全体からの呼びかけをからだ全体で受け止めてみよう。私たちを超えた何かの力。私を超えた向こうからの呼び声。妙に気になる夢。人間関係のトラブル。なぜか思い出す映画の一場面。たまたまつけたテレビドラマの登場人物が語る言葉。気づく必要のある大切なメッセージは様々な形でやってくる。沈黙すると、ひっそりと届けられる呼びかけの声、「サイレント・コーリング」に気づく(3)。
この人生や状況からの呼びかけに対して心を閉ざし、自分自身に関心を向けていくと、それは自己愛や自己執着につながる。昨今のスピリチュアル・ブームが危険なのは、こうした新たな自己執着や虚しさを産むからである(3)。
コーネル博士の画像はこのサイトから
【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
ジェンドリン博士の画像はこのサイトから
【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ


