2016年07月09日

トランスパーソナル心理学入門C〜いま、ここを生きると死の恐怖は消える

死を意識して生きる

魂が喜ぶ時間をどれだけ持てるかが大切

 人生で何が取り返しがつかないものかを考えてみよう。マネーはたとえ失ったとしてもまた働けば増やせる。仕事で失敗して評価を落としたとしても、また努力すればそれは回復できる。けれども、人生で取り返しがつかないものがある。それは、時間である。マネーは人生の時間を豊かなものにするための手段にすぎない(5p178)

 本当の幸せを考えれば、限られた時間をどれだけ「魂が喜ぶ時間」にできるかが最も大切なことになる(5p178)。いま、どれだけマネーを儲けたかよりも、どれだけ多くの人たちを幸せにできたかに人生の価値があるというまっとうな価値観を持つ若者が増えているのは喜ばしい(5p188)

死ぬときに何を残したいのかを考えながら生きる

 末期癌のホリスティック医療に取り組む帯津良一(1936年〜)博士は、やすらかに死んでいく人と後悔しながら死んでいく人との違いについてこう述べている。

「自分の人生でやりべきこと、やりたいと思うことをやりきったと思える人は、とてもいい顔をしてやすらかに死を迎える」

20160709ross.jpg そして、エリザベス・キューブラー=ロス(Elisabeth Kübler-Ross, 1926〜2004年)博士も人が死の際に語る言葉は「ああっあれをしておけばよかった」という呟きだという(4p97〜98,8p143)

 こうしたことを踏まえ、諸富祥彦教授は「やりたいと思ったことをすぐ始めるひとは慎重さにかけると思われがちだ。けれども、いつかしたいという想いを先のばししているうちに、本当にしたいことをほとんどやらずじまいで終わってしまうことの方がよっぽど愚かな生き方であるとはいえないだろうか」(6p129)。「そのうちにやってみたいことがあれば前倒しでどんどんするしかない。また、伝えたい思いがあれば、いますぐ伝えるしかない。そして、一人の時間をつくり、自分が本当にしたいことはなにか。これをせずには死ねないと思うことは何かを考えることだ」とアドバイスする(4p202〜204)

 メキシコには骸骨の仮面を被って踊る「死者の日」という祭りがある(4p96)。この祭りに込められているのは「メメント・モリ(死を忘れるな)」(4p96, 7p170)「カルペ・ディエム(その日をつかめ、いまを楽しめ)」という意味である(4p96)

 上座仏教では、死の瞑想(モラナサティ)がある。代表的なものは、「九墓地観」で、死んだばかりの遺体が、変色、腐敗し、蛆が湧いて、骨や土になっていくまでの様子を9段階にわけて順々に観想していくものである。タイには、多数のエイズ患者を受け入れている「エイズ寺」があるが、そこでは、エイズで亡くなった人のホルマリン漬けの遺体が展示されている(7p173)

 死を自覚することには、人間精神を本質に立ち返らせる大きな力がある(7p171)。マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger,1889〜1976年)は「気づくために死を自覚せよ」と述べており、アップルのスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs, 1955〜2011年)も死を日々意識していた(7p170)。米国の宗教哲学者、ハーバード大学のパウル・ティリッヒ(Paul Johannes Tillich, 1886〜1965年)教授は、こう語っていた。

「明日、死す者のようにして生きよ」(4p98)

今一瞬を心を込めて生きる

 幸せになれる選択対象を手にできる人がごく少数に限られ、極度に予測不可能性が高いこのような時代に実現可能な希望に躍らせてはならない。こうした時代に長期的な人生展望を持つことは無益なばかりか危険ですらある。このような時代の中で、死の間際に「私は幸せだった」と心の底から思える人生を生きるには、本当の意味でクレバーでなければならない(4p38)

 そもそも、「真面目に頑張っていれば、人生はいつかいいことがあるはずだ」という思い込みは、人生はいつ想定外のことが突然起こるかわからないというリアルな事実を直視していないから成り立つ。

「こうなればよかった」と過去に思い描いた願望に逃避しても、「いつか、きっとこうなる」と未来に思い描く空想に逃げるのも止めるしかない。となれば、できることは、ただこの瞬間を心を込めて生きるしかない(4p196)

 キューブラー=ロス博士が死にゆく人を見つめてきたその経験から学んだ最大のことは「いま、この瞬間」に心を込めて本当に生きることだった。例えば、愛する人と一緒にいても、心を込めてその一瞬一瞬をすごしていなければ、本当に一緒にいたことにはならない。

 すなわち、無力な私たち人間にできることは、「今日一日が人生最後の日になるかもしれない」とそんな思いを胸に刻んで一瞬一瞬心を込めて生きることしかない(4p95,8p142)。とりあえず、あと1年、さしあたりあと1年と一年単位で生きのびていくしかない(4p40)

エゴが誕生し環境との切り離されると死の恐怖が湧いてくる

瞬間の「いま」が存在するだけで未来も過去も存在しない

13Ken Wilber.jpg 「永遠」という言葉は一般的には何億、何百億年と果てしなく続いていく非情に長い時間だとされている(1p109)。けれども、ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は、一遍(1239〜1289年)が「あらゆる瞬間は最後の瞬間であり、あらゆる瞬間は再生である」と語っているとして(p136)、永遠とは果てることのない時間ではなく、時間がないという自覚が永遠であると述べる(1p111)。確かに、仏教によれば「無常」とは瞬間瞬間の生滅で、ある意味では誕生と死である(7p172)

 現在の瞬間には始まりはない。同じ理由で、現在の瞬間に終わりもない。すなわち、現在の瞬間には、過去もなければ未来もない。時がないのである。そして、時がないものは永遠であろう。ウィルバーによれば、現在こそが唯一のリアリティであって、果てしなく続く時間という概念の方がある種の奇形なのである(1p111)

環境と自己が切り離されることで死の恐怖が生れる

 それでは、なぜ、「時間」という奇妙な概念は作り出されたのであろうか。ウィルバーによれば、強烈な時間感覚は、環境と身体とが切り離されたことによって生じた死の恐怖が創り出したものである(1p136)

 動物にも死はある。けれども、年老いたネコは来るべき死の恐怖にさいなまれているわけではない。静かに木の根元にうずくまり死んでいく。瀕死の駒鳥も柳の木にやすらかにとまり日没を見つめ、もはや光がみえなくなったとき目を閉じて静かに地面に落ちる。人間の死に際となんと違うことか(1p36)

articles_009_image1.jpg ウィルバーによれば、エゴが作り上げるあらゆる境界で、最も基本となるのは、自己と非自己との境界である。すなわち、自己と非自己との境界は最初に引かれた原初の境界で、エゴが最も明け渡したがらず、最後まで消え去さらないのは、この境界である(1p83〜84)

 そして、この原初の境界が発生すると、人は自分の身体と環境にアイデンティティをもたなくなり、自分が知覚する世界と一体ではなくなる。皮膚を境にして身体は自己であっても、環境は非自己となり、環境と対立した自分の身体だけにアイデンティティを持つようになる。すなわち、自分が孤立した有機体として生きているとイメージするようになり、身体と環境との対立が作り出される(1p132)

 そして、この原初の境界の発生によって、「統一意識」は孤立した自己の「個人の意識」となる。そして、「真の自己」が特定の身体の中にだけに閉じ込められているとイメージすると、その有機体の死の不安が頭から離れなくなる。死に直面するのは部分だけであって全体ではないのだが、自己が環境から切り離される瞬間に死の恐怖が意識の中に生じてくるのである(1p132〜135)
死の恐怖によってまず未来という時間が作り出された

 それでは、過去と未来とではどちらが先に生じたのであろうか。ウィルバーによれば、それは、未来である(1p137)。死とは「未来」がなくなる状況である(7p175)。死を受け入れるということとは、未来を持たなくなることを受け入れることに他ならない。逆に言えば、死を拒絶することとは、未来を持たずに生きることを拒絶することに他ならない。こうして、時間が最も貴重な持ち物となり、かつ、未来が唯一の目標となるのである(1p137)。けれども、未来とは思考が作り出すイメージにすぎない(7p175)
いま、ここを生きられれば死の恐怖は消える

 過去も現実には存在していないし、過去とは「記憶」にすぎない。けれども、前方に未来を求めれば、それとセットで後方には過去が登場することになる(1p139)。要するに、未来も過去も現在に境界の線を引かれた幻想の産物にすぎない(1p116)。すなわち、未来への心配も、過去への後悔も、思考の物語によって、「いまここ」で構築されつつある概念にすぎない(7p142)。そこで、ただ「いま、ここを生きる」ことに安住できれば(7p175)、死は問題ではなくなり、過去や未来の考えにとらわれることも少なくなり、良寛(1758〜1831年)の「死ぬときは死ぬがよろしき候」という境地になれる(7p176)

エゴが消滅し環境との統合されると慈悲のエネルギーが湧いてくる

空を体験する

「心身一如」の意識が達成されると、意識はさらにトランスパーソナルな領域へと入ってゆく。そして、究極の統一意識、宇宙との一体感の回復を目指すものがヴェーダンタや大乗仏教、道教、秘教的な回教、秘教的なユダヤ教、そして、秘教的なキリスト教ということになる(3p109〜110)
 ウィルバーは、トランスパーソナルなレベルの内部で、以下の三つのサブレベルを設定している。

 @マインド(心霊の段階)
 Aソウル(魂の段階、微細な段階)
 Bスピリット(コーサルの段階) (2p107)
20160707shunryu suzuki.jpg ウィルバーは『初心善心』で知られる鈴木俊隆(1905〜1971年)老師の下でかなり熱心に座禅を学んだ(2p91)。このこともあって、神秘体験や超常現象(体外離脱体験、ESP、透視、念力、テレパシー、過去生体験等)は一番下のレベルに位置づけられている(2p107)

 ウィルバーの関心はそれを突き抜けた東西の宗教の伝統で、空、無、ブラフマン、神等と呼ばれてきた絶対者との合一体験、さらに、それさえも消え去る「無境界」の状態、西田哲学でいう「絶対矛盾の自己同一」、般若心経で言う「色即是空」「空即是色」の世界にある(2p108)

エゴの構築のためのエネルギーが不必要になればそのエネルギーを慈悲にまわせる
 動物は身体的な痛みを恐れるが、人間はそれ以上に、心が傷つくことや自我の死を恐れている(7p177)。自我が苦しみのもとになるのは、認知され構築された自我イメージが執着の対象となり、その維持のために膨大なエネルギーが浪費されるからである(7p167〜168)。けれども、ヴィパッサナーでの洞察を深めていくと、「私」や「自我」と称されるものが、様々な感覚や認識作用から構成された概念にすぎないとの理解が深まる(7p140)。消耗的な心のアクションが次第に減り、過去の習慣パターンの奴隷にならずにすむようになっていく(7p134)。そして、自我への執着が緩んでくると、自我の消滅に脅えていた感情エネルギーや自我を維持するために投入されてきた行動エネルギーが浪費されなくなる。そして、生きのびるために必死でいる人間存在を慈しむ思いがわいてくる(7p140)

 ウィルバーは、神秘家たちが強調してやまない普遍的な慈悲は、トランスパーソナルな直感から生じるとして、その理由をこう説明する。
「環境と身体との境界が取り払われた超越的な自己となると、環境のなかの全対象を自分自身として扱い始める。すなわち、超個体レベルでわれわれが他を愛するのは、相手が自分を愛したり安心させてくれるからではなく、相手が自分自身だからである。自分の腕や足を世話するように周囲を思いやるようになるのは、世界とは自分の身体であり、また身体として扱わなければならないからなのである。キリストの第一の教えは、『自分自身を愛するように隣人を愛せ』ではなく『隣人を自分自身として愛せ』と言う意味なのである」(1p228)

観音菩薩はエゴから解放されたパーソナリティのシンボルである

 求めるものが得られない苦しみを仏教では「求不得苦(ぐふとっく)」という。この苦がはっきりと観ることができたとき、ある種の畏怖感とともに深い洞察智が生じる(7p219)。これを「サンヴェーガ(samvega)」と呼ぶ。そして、人間存在のかかえる根源的な切なさが得心でき、深い慈悲が生まれるとしている(7p219)

 2016010901.jpg自分の心の傷をごまかすことなくしっかりと見つめていると、他者の心の傷にも優しい気持ちになれる。そして、宮沢賢治のように世界全体が幸せにならない限りは私の幸せもありえないという心境になってくる(2p226)。こうして自我から解放され、理想のパフォーマンスを行うパーソナリティを象徴しているのが観音菩薩なのである(7p141)

ロス博士の画像はこのサイトから
ウィルバーの画像はこのサイトから
鈴木老師の画像はこのサイトから
意識のスペクトルの画像はこのサイトから
観音像の画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ
posted by la semilla de la fortuna at 11:36| Comment(0) | 魂の人生論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: