2017年10月21日

脳を超える心〜仏舎利の謎@

悟りの証とされた未知なる物質仏舎利

Buddha-Statue-BodhGayaS.jpg ゴータマ・シッタールダ(Siddharta Gautama)の遺体を荼毘に付すと、遺灰の中から数kgものビーズ状の物質が見つかった。弟子たちはそれを集めた(2)。インド北部のビハール州のガヤー県にあるボード・ガヤー(Bodh Gaya)に建てられた45mのブッダの銅像内にはそれが納められているという(4)。そして、一部は中国、韓国、日本へも送られた(2)。これが、いわゆる「仏舎利(sarira)」、あるいは、チベット語で「リンセル(ringsels)」と称されるものである(2,3)。「Sarira」は、本来は「身体」を意味するサンスクリット語だったが、その後に「遺骨」を意味するようになった(3)

 けれども、シッタールダの遺骨だけが仏舎利なわけではない(2)。チベットの高僧は、死後も腐敗しない。呼吸も止まり心臓も止まっているが、皮膚の色は赤みを帯びたままで数日から数週間にわたって、瞑想のポーズが保たれ、この状態が、数日、人によっては数週間つづく。この現象は、チベット語で「真実の心」、あるいは「聖なる心」という意味で「トゥクタム(thugs dam)」と呼ばれているという(6p189)

 「トゥクタム」だけでも十分に驚くべき現象だが、さらに摩訶不可思議な現象がある。ある一人のラマがトゥクタムに入ったとの報告を受けたダライ・ラマ14世は、仏塔と同じかたちの小さな構造物、「プルカン」を造って、その中で弱火で1週間以上かけてゆっくりと遺体を焼き上げるようアドバイスをした。そして、一週間後、建物を空けてみると、白い骨片と遺灰の中から五色の仏舎利が出て来たというのである(5p228)

 仏教では、悟りを開いた高僧は、凡人ではとうてい蓄えることができない物質をこの世以外の領域から体内に蓄積することができるとされてきた(3)。そして、トゥクタムに入れるほどある程度、高い悟りを得た人の場合では、荼毘に付されれば、ブッタと同じように遺灰の中には真珠や宝石のような仏舎利が残される(2,3,6p202)。確かに、普通の人たちの火葬では、そうした物質は残されない(3)。そして、その美しさは、僧侶の魂が存命中に到達した純粋さを表し、ニルヴァーナの証とされてきた(2)。中国の仏典に出てくる仏舎利は白いものだが、密教修行で高い境地にまで達すると五色の仏舎利が出るとされている(6p203)

 浄土教徒(Many Pure Land Buddhists)は、阿弥陀仏(Amitabha)の力によって、仏舎利が出現すると信じている。また、鳩摩羅什(くまらじゅう、クマーラジーヴァ、Kumārajīva、344〜413年)は、約300巻もの仏典を漢訳し仏教普及に尽力したが、その翻訳が間違っていなかった証として、火葬のされた後も鳩摩羅什の舌は無傷のまま残されたとの伝説も残されている(2)

仏舎利の成因を科学的に考える

 仏舎利はどのようにして生じるのか。その理由を科学的に説明するためいくつかの成因説が提唱されている。

 まず、仏舎利は、体内で生理的に形成されたとの説がある。僧侶たちは長時間瞑想するため代謝が低い。厳格な菜食主義に従うためその食事の内容もふつうと違う。そして、ビタミンの欠乏は腎結石につながる。つまり、瞑想習慣や食生活によって形成された腎結石が仏舎利だというのである。

 けれども、運動不足や低代謝で結石が作られるとすれば、その僧侶たちは生前にかなりの苦痛を感じていたことになる。けれども、ブッダが胆石や腎結石の痛みで苦しんでいたとはどうも思えない。さらに、胆石であれば、その色は通常、暗茶色か黒色なのだが、仏舎利の色はこれとは違う。

 さらに、胆石や腎結石はコレステロールが過剰に蓄積したときに形成される。肉食をしない僧侶たちの脂肪摂取量は平均よりもかなり少ない。また、タンパク質はマメから摂取されるが、マメにはコレステロール値を下げる働きがある。つまり、現実の僧侶たちの食生活は腎結石にかからないことにつながっている。

 第二は、僧たちが禁欲生活を送っているため、精子が体内に蓄積し、その精液が硬化したものが仏舎利であるとの説がある。けれども、この説も、比丘尼が死後に荼毘に付されたときにも仏舎利が見つかったことから誤りであることがわかっている。

 第三に、仏舎利は、真珠貝が形成する真珠と同じようなものではないかという説もある。タンパク質や炭水化物といったふつうの有機物は荼毘に付されれば燃えてしまう。そこで、仏舎利は無機物であるに違いない。そして、軟体動物は、身を守るために、アラゴナイト(aragonite)やタンパク質コンキオリン(conchiolin)を分泌する。そして、真珠貝では、砂粒やバクテリアといった異物が刺激となって、真珠が形成される。そして、ある状況下では、人間の骨が結晶構造を作れるとの証拠もある。確かに、化学分析をしてみると仏舎利の化学成分は骨に近い。けれども、髪、肉、血からなる仏舎利もある(2)

常識を超えた仏舎利の異常な物理化学特性

 1993年に、韓国の仁荷大のイム・ヒョング・ビン(Lim Hyoung Bin)博士は、仏舎利の成分を化学分析している。そのリポートによれば、仏舎利からは、カルシウム、リン酸、酸化アルミニウム、フッ素、二酸化ケイ素、ナトリウム、クロム、マグネシウム、リチウム、チタン等12種類の成分が特定された。それは骨と類似しているが、奇妙なことに放射性元素のプロトアクチニウム(Pa= Protactinium)も含まれているのである(2)

 さらに、チベットの密教経典『燃え上がる遺骨』によれば、仏舎利にも普通の白い仏舎利と青いラピスラズリやサファイア、緑の球、ルビーのような鮮やかな色彩に輝く仏舎利の2タイプがあり(5p231,6p203)。後者は金床の上に置いてハンマーでたたいても壊れないという(5p231)

 実際、仏舎利はダイヤモンドよりも硬いことが知られている。スチールですら12000lb/m2で壊れるのだが、イム博士の試験でも仏舎利は15000 lb/m2でも無傷のままであった。さらに3000度でも無傷なほど高熱にも耐える。その不可解な起源に加えて、その信じ難いほどの物理化学的特性を理解する多くの試みは、実を結ばなかったのである(2)

 さらに、『燃え上がる遺骨』によれば、仏舎利は遺灰の中に残されるというよりも、頭蓋骨のところから小さな球が次々と出て来てそれが増殖していくという(6p203)。根っからの合理主義者で、ひどく疑り深い京都文教大学の永沢哲准教授はこの様子を確認にいく。そして、准教授が目にしたのは、ラマのものと思しき真っ白な頭蓋骨だった。そして、その中からは直径2cmほどの白い球のような球状の無数の骨が溢れ出し、時間が経つに連れて透明な真珠へと姿を変えているのであった(6p229)

仏舎利からは聖なるエネルギーが放出されている

Amma.jpg インターネットオークション、Ebayには、わずか10ドルで仏舎利が売り出されているし、組織を維持するため仏舎利のコレクションを4000ドルで販売しているグループもある(3)。けれども、本物の仏舎利は、弟子たちが崇拝できるように、生前の師の意志によって意図的に残されたものであり(2)、その中には他界した僧侶の意識が刻印されていると言われる。実際、仏舎利には、聖なるパワーがあり、信心深い者も、信仰心が薄い者も、そこから発せられる静寂感(The sense of serenity)によって魅了するとされるという。中には、聖母アマチ(Amma=Hugging Nun)と同じエネルギーを感じると述べる人もいる(4)

 けれども、現実の仏舎利は希少で、かつ、聖なるものと考えられて来たため、この現象に関しては、ほとんど研究がなされてこなかった(3)。けれども、スタンフォード大学のウィリアム・A・ティラー(William A. Tiller)名誉教授とメイヨー・クリニック(Mayo Clinic)の医師、ニシャ・J・マネック(Nisha J. Manek)博士は、仏舎利に関する研究を行い、2012年にアリゾナ大学で開催された『意識科学に向けた会議(Toward a Science of Consciousness Conference)』でその結果を発表した(3,4)。そして、仏舎利には生前の僧の意志が刻印されていると述べ、多くのファンを喜ばせた(4)

 マネック博士は、スタンフォード大学で学んだ後、長年、メイヨー・クリニックで働き、現在は、ティラー名誉教授の「心霊エネルギー科学研究所(Institute for Psychoenergetic Science)」で研究を行っている(3)。博士は、仏教徒ではなかったが、2009年9月にミネソタ州のミネアポリス(Minneapolis)で開催された仏舎利の展示会に参加したところ「私の世界観はひっくりかえってしまいました。人生が変わる経験をしてしまいました」と博士は語る(1)

Nisha-Manek.jpg「お堂に入ると同時に、すぐさま、強力な意識が存在している状態を感じたのです。まるでブッダ自身がそこにいるかのようでした。その状態は言語化できず、深遠なものでした。このうえなく穏やかで、無限のように思える平和と静寂さがありました。時間が存在しなくなり、私の心は静まっていきました。普段の心の中でのおしゃべりがなくなったのは驚きでした。驚きながらも好奇心から身をまかせました。そして、洗練されたエネルギーが仏舎利から心臓センターへと流れているのを感じました。ワンネス(Oneness)の巨大な感覚、誰しもやすべてと調和している感覚をそれは伝えていたのです。通常の体験でそれに匹敵するようなモノはありませんでした」(1)

 2010年7月30日。ロサンゼルスのヒンズー教徒寺(Los Angeles Hindu Temple)でまた別の仏舎利の展示会が開催されるが、マネック博士は9ヵ月前の体験を再確認する。そして、数千人の展示会への参加者からのメッセージや電子メールから、やはり認識のシフトが生じていたことが判明する。

 参加者たちがどのような宗教を信じているのか、瞑想の習慣があるのかどうかは重要ではなく、多くの人々が深い平和な感覚を報告して涙を流した。病気が快復してしまった人もいた。ある初老の男性は重い糖尿病で腎臓透析をしていたが、それさえ治ってしまった。そして、展示会に参加した1年半後もまだ健康だという。

Fig6S.jpg この写真をご覧いただきたい。これは、仏舎利が展示される前の7月25日にカリフォルニアのサンタ・アナ(Santa Ana)で、プロのカメラマンが普通のキヤノンのカメラで撮影した画像である。写真の左下には祭壇からアーチ状に伸びる金色の半透明の光が明らかに映っているが、これは肉眼では見えなかった。

 2011年7月には、ケニアのナイロビで3日間、やはり仏舎利の展示会が開催され約5000人が訪れたが、この展示会でも、様々な信仰や経験を持つ誰もが平和と落ち着きを感じ、人生において何をすべきかについて最高の直観を得たと報告している(1)

geshe-lama-konchogS.jpg 2014年の11月にはアイルランドでも展示会がなされた。噂によれば、その一部は2500年前のブッダ本人のもので、ダライ・ラマ法王から提供されたものだという。中国によって破壊された僧院から確保された者や、25年も山中の洞穴で瞑想をしたゲシェ・ラマ・コンチョグ(Geshe Lama Konchog, 1917〜2001年)の仏舎利もあった。従来の科学からは理解できないが、すでに68カ国で約230万人が、仏舎利展示会でこうした体験をしている。あらゆる会場で再現されるエクスタシーや涙、そして、静けさによって仏舎利の持つパワーは明らかなのである(4)

脳を越える肉体なきマインド

 自然を理解するための従来の科学的な研究方法とは、科学的な事実として認められることを『ボトムアップ』で構築していくアプローチである。けれども、仏舎利展示会に参加したごく普通の人たちのスピリチュアルな経験は神経科学的な従来の意識モデルが瓦解することを意味する。

 神を信じることと実際に神に接した経験をすることとはまったく違う。仏舎利は、言葉や文字を介さずに「無条件な慈悲」のエネルギーを人々に直接与えている。高いスピリチュアルな状態についての知識ではなく、インスピレーション体験を強力に伝播する能力がある(1)

 これは、仏舎利に意識、生来の知性(innate intelligence)があることを意味する。そして、この異常で奇跡的に見える仏舎利現象を理解するためには、物理的に存在しない『肉体』や『神経系』を研究するという事実に直面せざるをえなくなる。なぜならば、物理的な『肉体』や『神経系』に一切依存することなく、どうしたわけか仏舎利からは「無条件な慈悲」といった高められた意識(evolved consciousness)が発せられているからである(1)

william-a-tiller.jpg つまり、仏舎利には何かのエネルギーがあり、それは崇拝者にインパクトを与えることができる。同時に、そのエネルギーは崇拝者によっても仏舎利へとある程度映されるかもしれない(3)。というのは、仏舎利を保管している人たちによれば、仏舎利は明るくなったり、虹をもたらすことができ、敬虔な環境におかれれば増えることもあるが、逆に、ズボンのポケットのように『聖ではない環境』に置かれると、姿を消してしまうと指摘されているからである(1)

 それでは、「無条件の慈悲」のような意識は、いかにして、仏舎利の形で存在できるのであろうか。この謎に答えるには「精神エネルギー科学(Psychoenergetic science)」が役立つ(1)。マネック博士は「仏舎利からある種のエネルギーが放射され、それが自分の心臓に流れていると感じた。このような経験ができるものはなかった」と説明するが、博士が主観的に感じたエネルギーを客観的に測定するための方法をティラー名誉教授は開発してきたからである(3)(続)。

【画像】
ブッダの銅像の画像はこのサイトより
永沢哲准教授の画像はこのサイトより
聖母アマチの画像はこのサイトより
ニシャ・J・マネック博士の画像はこのサイトより
光の写真は文献(1)より
ゲシェ・ラマ・コンチョグ師の画像はこのサイトより
ウィリアム・A・ティラー名誉教授の画像はこのサイトより

【引用文献】
(1) Nisha J. Manek and William A Tiller, The Sacred Buddha Relic Tour: For the Benefit of All Beings Presented at the Annual Toward A Science of Consciousness Conference: Forum on Eastern Philosophy Symposium University of Arizona Center for Consciousness Studies, Tucson, Arizona, April 9th, 2012
(2) Biochemical Mysteries, Last Assignment: Solution?, Hypotheses/Theories relating to the Mystery,April 2013.
(3) Tara MacIsaac, What Are the Pearl-Like Objects Found in Monks’ Ashes After Cremation?, The Epoch Times, Feb28, 2014.
(4) Manchán Magan, Do Buddhist relics have powers? See for yourself, Irishtimes, Nov 14, 2014.
(5) 永沢哲「骨の宝石〜ブッダの境地の証」『チベット仏教』(2016)サンガジャパン
(6) 永沢哲・藤田一照『禅・チベット・東洋医学』(2017)サンガジャパン
posted by la semilla de la fortuna at 16:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月19日

シンクロニシティ論

奇妙な偶然の一致

 小学校4年生のときの先生のことを20年ぶりにふと考えたときに、その日にスーパーでバッタリとその先生に出会う(1)。何年も聞いていなかった音楽のことをふと考えていると、その曲がいきなりラジオから流れ出す(2)。ふと誰かのことを考えていると、いきなり電話が鳴ってその人が出る(5)。偶然の一致は、人間の心同士でも生じることがある。例えば、互いに知らないままに友人とまったく同じ洋服を同じ時間に買っているといったケースだ(2)。こうした驚くべき偶然の一致が起きるときには、何かミステリアスな方法によって、自分の内的なメンタルな思考が周囲の外的世界で生じる出来事とつながっているように思えてくる(2,4,5)。「シンクロニシティ」という概念を認めて、この名前をつけ、精神的な展望からこの不可解な現象にアプローチをし、それを理解するための理論的な基礎を作ったのは、カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung,1875〜1961年)である(3,4,5)
Bernard-Beitman.jpg シンクロニシティは文字通り「共時性」を意味する。精神科医、バーナード・ビットマン(Bernard Beitman)博士は「見た目にはつながりの原因がない外的な出来事と心の中に浮かぶ思考が映し出せれるときに生じる起こる思いもかけないこと」と説明する(1,3)。それは、ある種の意味がある偶然の一致である。そして、この偶然の一致の科学を発展させるうえでユングの考えは重要な歴史上のステップとなった(3)
 哲学者、心理学者であるカリフォルニア・インテグラル研究所(California Institute of Integral Studies)のリチャード・タルナス(Richard Tarnas)博士は、自分の個人的な体験のひとつから、シンクロニシティの事例をあげる。博士の親友、前英国占星術協会(British Astrological Association)のチャールズ・ハーヴィー(Charles Harvey)会長は英国で他界したとき、在米の家族の一部が、サンフランシスコのベイエリアのゴールデン・ゲート近くにあるプレシディオに記念のために集まった。けれども、そこは人々で混みすぎていた。そこで、タルナス博士は近くに小さな教会があることを思い出し、代わりにそこに行くことを進める。すると、故ハーヴィー会長の義理の姉妹の目は驚きで突然に丸くなり、話すことを止めた。タルナス博士が彼女たちの視線を追うと、チャペルの壁には、こう読める金色の飾りの額がかかかっていたのである。
「チャールズ・ハーヴィー中佐(1845〜1910年)を記念して(4)
ユングの黄金色のスカラベ
 ビットマン博士は、ミズーリ大学コロンビア校(University of Missouri-Columbia)の元心理学部長で、ヴァージニア大学の客員教授でもある。エール大学医科部を卒業後、スタンフォード大学で精神医学を学び、精神療法のトレーニングプログラムで全国賞を受賞し、胸痛とパニック症候群との関係性の研究で、国際的にも知られている人物である。カール・ユング以降、精神科医としては、初めて「シンクロニシティ」に関する著作を書いた。そして、シンクロニシティに重点をおいた学際的な新たな学問を創設し「この分野はまだフロンティアです。ですが、将来は、繁栄しているでしょう」と語る(1)
 ビットマン博士は、有名なユングの「スカラベ」の物語についても分析しているので、その内容をここで簡単に紹介しておこう。
Scarab.jpg ユングはある若い女性とカウンセリングをしていた。そして、その女性が昨晩、金色のコガネムシの夢を見たことを語り始めると、ユングは窓の外から軽く叩く音を聞いた。そこにはまさに金緑色のコガネムシがいた。ユングは窓を開けてコガネムシを取りあげた。そして、彼女に夢と現実の世界とが関連している証拠を手渡した。
「あなたのスカラベはここにいます」(3)
不合理なモノを望むユングが呼び寄せたシンクロニシティ
Roderick-Main.jpg 傑出したユングの研究者、エセックス大学のロデリック・メイン(Roderick Main)教授の研究を参考に、ビエットマン博士は、スカラベが何を意味するのかを分析している。博士によれば、ユングは偶然の一致に魔法性を目にしたが、その潜在的な有用性にほとんど注意を払わなかった。ユングは、エゴ意識の懸念を越えた部分に関心があったため、自分自身で偶然の一致を引き起こすことで自分が演ずる役割を探究しなかった。
 一方で、ユングは、意味がある偶然の一致を使った治療が患者が変わるうえで助けになると書いている。そして、治療に対する患者の抵抗を突破するには「人間的な理解」が必要だと述べている。そして、この「人間の理解」は、過剰なまでの合理性を持つユングが言う『特徴づけられた患者(characterized the patient)』とまさに対照的なものなのである。ユングは偶然の一致が治療にどのような効果があるのか詳述していないが、患者の心理的な抵抗をブレークダウンし、満足な結果で治療が続けられると断言している(3)
 ユングがカウンセリングで対応していてスカラベが出現した女性も、高い教育を受けていたが、合理的な思考でガチガチとなっていた。ユングはその女性の心の殻を柔らかくすることが必要なことをはわかっていたが、それにはある種のマジックが必要だった。ユングは治療を成功させるためにシンクロニシティを必要としていた。
 メイン教授はこう述べている。
「ユングの見解によれば、シンクロニシティは、なされることが必要であるとわかっていても、自分自身ではすることができなかったことをやります。シンクロニシティは知識を付け加えませんがテクニックを補うのです。予想外のモノをユングが望んでいる状態が、シンクロニシティの内的な精神的な要素を形成し、外的なその要素は、コガネムシの形を取る実際の『予想外で不合理な何か』なのです」
 スカラベはまさにユングも若い女性も必要としていたものだった。ユングは予想外に不合理な出来事が姿を現すことを望んでいた。コガネムシはユングにとっても重要であった。ユング自身のビジョンのシンボルとして、以前にも出現したことがあった(3)
シンクロニシティには神話とおとぎ話性がある
 治療的なプロセスでのスカラベは現実の世界というよりもおとぎ話を思わせる。そして、メイン教授は「ユングの物語にはおとぎ話性があることにも気付きました」と語る。
「この文脈で、おとぎ話や神話の起源が、異常な出来事への反応にあると考えられていることを思い出すことには興味深いものがあります。スカラベとのシンクロニシティが治療に『不思議で有益な効果』があったという枠組みをユング心理学は全体としてもたらしています。ユングは世界にシンクロニシティという思想を持たらすことに尽力したのです」(3)
切り離された自己がシンクロニシティを奇妙に見せている
「明らかに因果関係がないにもかかわらず、ひとつかそれ以上の別々の出来事が、意味あるパターン形成しているように見えること」
Jeffrey-Kripal.jpg 宗教学者、ライス大学のジェフリー・クリパル(Jeffrey Kripal,1962年〜)教授は、2014年に開催されたシンポジウム、「シンクロニシティ:物質と魂(Synchronicity: Matter & Psyche Symposium)」でシンクロニシティについてこう定義する(4)
「シンクロニシティ、科学とソウル・メーキング(Synchronicity, Science, and Soul Making)」を執筆したコルゲート大学の物理学者、ビクター・マンスフィールド(Victor Mansfield,1941〜2008年)教授は、ダライ・ラマ法王の親友だが、「シンクロニシティは、心理的、哲学的に現代世界に大きな問題をもたらす。物理学者は科学的な唯物主義の文化で訓練を受けて来たので、それらはとりわけ、トラブルのある経験だった」とタルナス博士に語ったという。
Victor-Mansfield.jpg マンスフィールド教授も「単なる偶然の一致」としてだけ退けるには、あまりに多くのシンクロニシティを自分自身や他人の人生で眼にしてきた。けれども、今日では、たとえそうしたことが起きたとしても、まさに「偶然の一致」として退けられてしまうことが多い。ある人の心がなぜか外的世界とつながっていて、それによって長く出会わなかった知人が来ることを直観できると想定することは、近代人の思考の一部ではないからだ(4)
 17世紀の哲学者レネ・デカルト(René Descartes)は「我思うゆえに我あり」と語った。このデカルトの世界観では、自己は外界から切り離されている。そして、自己には意味があるが、自己を取りまく世界は意味を持たない客観的存在にすぎない(4)
シンクロニシティを科学的に分析する
 このように偶然の一致は、厳密に確率から説明できるとの見方がある一方で、宗教的にしか説明できないとの見解もある。この両極端は、主観的な要素によって、科学としてシンクロニシティを研究する価値を引き下げる。ビエットマン博士は、曖昧模糊としていたユングのシンクロニシティの概念を明確化し、科学研究の対象にするため、従来のシンクロニシティを分類し、それと関連する用語やカテゴリーを新たに創出した(1)
 ひとつは、セレンディピティ(Serendipity)である。セレンディピティとは、どのように見つけた出したのかわからないまま、まさに必要としているときに必要なものを見つける能力である。博士は、こうした新たなカテゴリーを創出するにあたって、そのインスピレーションにつながった個人的な経験を語っている。ひとつは、犬との出会いである。博士が子どもの頃、博士がかわいがっていた飼い犬、スナッパー(Snapper)がいなくなった。博士は犬を探して自転車で警察を訪れたが、警察にも届はなかった。博士は泣き出し取り乱した状態でメチャクチャな方向へと自転車を走らせた。すると、まるで博士と出会うことをまっていたかのように走り寄ってくる飼い犬が見えたのだった(1)
 もうひとつは、父が他界したときのことである。明らかに原因がないのにあるとき博士は息苦しくなった。そして、父親とは数千kmも離れて暮らしていたのだが、ちょうどその時期に博士の父親は死の床にいて窒息死していたことが後でわかった(1)
 物理的に離れていても別の人の苦悩を感じるこの現象を博士は「Simulpathity」と呼ぶ。「Simulpathity」の多くは、双子、とりわけ、双子から報告されるが、親も子どもと関連してこの現象も経験することがある。そして、感情移入(empathy)と異なるのは、その他者が苦しんでいることを知らなくても起こることにある(1)
 ビットマン博士はさらに、類似した出来事が数珠のように連続して起こる現象、「セリアリティ(Seriality)」と「インストラメンタル(Instrumental)」をあげている。施リアリティは、通常のシンクロニシティやセレンディピティとは異なり、とりわけ、主観的な要素がない。
 一方、「インストラメンタル」はセレンディピティと関連するが、ある人が必要としている人と必要な時に出会うケースである。ベイットマン博士は、シンクロニシティの有用性を強調するため、このカテゴリーを新たに確立し、二つの事例をあげる(1)
シンクロニシティは人生に役立つ
 ひとつは、虐待的な夫が許そうとしていたある一人の女性のケースである。彼女は夫と出会う前に電話が鳴る。出てみると、見知らぬ相手からの間違い電話で、少し話しただけだったのだが、相手はボーイフレンドから虐待されていた女性だった。
「この見知らぬ人の怯える声から、私は夫を許し夫の元にとどまることが間違だったと思ったのです。その後、空港で彼と会った時、もう自分の考えは変わっていて、一緒に暮らすことはできないと彼に話しました」とその女性はベイットマン博士に語った(1)
 もう一つは、文化人類学の研究助手のポストを探していたある学生の事例である。その学生はマラソンをしていて、その姿を母親が脇で見ていた。そして、もう一人、マラソンの光景を見ている人物と母親が会話をしてみると、まさに、その人物が文化人類学の研究助手を探していたのである。結果として、息子は採用されることになる。
「私は母親のGPSがこの人物にあわせたのだと考えます」とビエットマン博士は語る(1)
 ネズミの特定の脳細胞が、ケージに入れられた場所によって活性化することが示された研究にベイットマン博士はふれる。
「こうした格子細胞は、ネズミがどこにいるのかをマップ化しています」
 そして、格子細胞は、海馬近くに位置しており、人間には生まれつきGPSシステムが備わっているのではないかと博士は想定する。偶然の一致に遭遇する状況についてふれたスペインのジプシーのことわざ「駆け回る犬は骨を見つける」を博士はあげる。
 博士自身が飼い犬スナッパーと出会えたように、我々の内部にある何かが、役立つものを見つける能力を与え、この能力を理解することで、人生の方向性を見出すうえで役立つ。
「偶然の一致は並外れています。そして、人が通常ではない何かをしているときに、しばしば起こるのです。例えば、道に迷っているときに偶然の一致はより起こりそうです」とビエットマン博士は語る(1)
個人の境界を超えて広がる心の場
 偶然の一致の研究を通して、ビエットマン博士はこう理解するようになってきた。
「我々の想念や感情は、我々が考えている以上に互いに影響しあっています。私たち全員はともにいるのです」(1)
Richard-Tarnas.jpg 前述したとおり、今日では、たとえシンクロニシティが生じたとしても、それは「ただ」の偶然の出来事にすぎないとして無視されることが多い。「16世紀の科学革命の間に植えられた還元主義は、19世紀までには着実に育ちました」とリチャード・タルナス博士は言う(4)
 タルナス博士は、シンクロニシティを二重の円で図解する。
「内側の円は、自己あるいはエゴを意味します。外側の円が外界です。現代人の世界観では、エゴは、しっかりした線によって外界から遮断されています。ですが、実のところ、両者の壁は曖昧なのです」(4)
人は他人から見られていることを察知できる
 オンラインセミナー「ユングとシェルドレーク:シンクロニシティと拡張されたマインド(Jung and Sheldrake: Synchronicity & the Extended Mind)」では、心理学の修士号を持つ作家、ゲイリー・ボブロフ(Gary Bobroff)と、物理学を学んだシンシア・カヴァッリ(Cynthia Cavalli)博士がゲストとなり、多面的にシンクロニシティについて論じた。ボブロフは、生物学者、ルパート・シェルドレーク(Rupert Sheldrake,1942年〜)博士の「延長されたマインド」の研究から、シンクロニシティの議論を自然科学に位置づけられることは可能だと語る(5)
Rupert-Sheldrake.JPG シェルドレーク博士も、ユングとは違う形で、シンクロニシティ現象にアプローチをしている。博士は、ケンブリッジ大学での発生生物学を学んだ後、個人の身体を越えて広がる「マインドの場」の物理的な存在の証拠を集めることに、数十年を費やしてきた(5)
 例えば、2014年の「シンクロニシティ:シンポジウム物質と魂(Synchronicity: Matter & Psyche Symposium)」で、シェルドレーク博士は「他人から見つめられていることを感じることは、空港のドラッグ検査官、刑事や私立探偵、格闘家にとっては常識だと語る。イギリスの(British services)トレーナーも他人を尾行するときには、背中をみないようにするという。振り向かれてしまうからだという。逆に、格闘家たちは迫り来る敵をいち早く感じられるように、他者の視線に対する感度を高める訓練を受ける(5)
 本当に誰かから見られていることを正しくあてることができるのだろうか。何万人もの人々を対象に、アムステルダム科学博物館(Amsterdam Science Museum)が実施した研究をシェルドレーク博士は引用している。この研究では、相手を見るか、相手から目をそらすか、あるいは別のことを考えるかをランダムに告げられ、相手の被験者は、10秒以内に彼や彼女が見られていたかどうかを決める。この結果、的中率は、偶然よりもかなり高く、かつ、9才以下の子どもたちの場合、とりわけ、敏感だった。
Marilyn-Schlitz.jpg シェルドレーク博士は、ソフィア大学のマリリン・シュリッツ(Marilyn Schlitz)教授による研究も引用する。シュリッツ博士は、監視カメラで観察されていたとき、主体の皮膚に電気反応(galvanic skin response)があることを見出した。
 シェルドレーク博士があげるこうした研究から、マインドには身体を越えてある程度の物理的な影響があることが示唆される。シンクロニシティでは、ある人のマインドと彼の周囲の世界は、ミステリアスなやり方でつながれるようなのである(5)

シンクロニシティでは感情が重要

 シェルドレーク博士は、透視、予知他を含めた過去の心霊現象(psychic phenomena)のアカデミックな研究を調べ、家族のメンバー、とりわけ、双子の間で成功率が最も高いことを見出す。逆に、超能力を信じなかった人々の間では、その成功率が最悪で、平均以下の得点しか得られなかった。統計的に偶然よりも有為に低い結果を出してしまったことは、疑惑が超能力に対してネガティブに影響することを示し、皮肉なことに超能力が存在するとの仮説を支えてしまっているのである(5)
 シェルドレーク博士の仕事は、シンクロニシティを産み出すうえでの感情の役割を際立たせるとボブロフは指摘する。感情的な絆が、肉体を越えて広がるマインドの部分を強化したり、弱めたり影響を及ぼす。
「感情がないシンクロニシティなんてものはありません」とボブロフは言う。
「例えば、世界の反対側にいる息子や娘が危険な状態にあるかどうかを親が知る方法があります。そして、こうした拡張された意識場は、まさにメンタルなフィールドではなく、感情的なフィールドなのです」(5)

古典物理学では説明できないシンクロニシティ現象

「シンクロニシティは重要な偶然の一致で特徴づけられ、客観的な外的世界で生じる出来事と主観的なメンタルな状態との間で出現します」

Francois-Martin.jpg パリ大学の理論物理学研究所のフランソア・マーティン(Francois Martin)博士と欧州原子核研究機構(CERN= European Organization for Nuclear Research)の物理学者、フェデリコ・カルミナィ(Federico Carminati)博士は、2009年のコスモロジー誌(Journal of Cosmology)に掲載された論文「シンクロニシティ、量子情報と精神(Synchronicity, Quantum Information and the Psyche)」で説明する。
 シンクロニシティは古典物理学によっては説明できないと、マーティン博士とカルミナティ博士は語る。そして、マインドと物質との間や人々のマインドの間のつながりを説明するため「量子もつれ(quantum entanglement)」に目を向ける。
「量子もつれ」とは、互いに接触している素粒子のペアやグループが遠距離であってもつながったままのように見える現象である。ひとつの素粒子の上である現象が起こると、それに対応した変化が他方の素粒子上でも観察される(2)

意識は無意識の波動関数を崩壊させる

 彼らは量子物理学を用いて、意識と無意識との関連性や自由意志について探求しているのだが、例えば、意識は無意識とはどのように相互作用しているのであろうか。

 量子物理学によれば、一個の電子は測定されるまでは、固定された状態にはなく振動する波として存在している。この波動関数(wave-function)は測定によって崩壊する。

 マーティン博士は、この点で、無意識は電子と類似していると見なす。無意識は様々な潜在的な状態にあるが、意識的なマインドは、少なくとも一時的には、これを特定の状態へと固定させる測定装置のようにふるまう。つまり、意識的なマインドは、無意識の波動関数を崩壊させる。

 2005年の「神経量子論(NeuroQuantology)」に発表した別の論文「量子精神:人間の精神の量子場理論(Quantum Psyche: Quantum Field Theory of the Human Psyche)」で、マーティン博士はこう書く。
Federico-Carminati.jpg「自由な意志は、潜在的な状態から現実的な状態へのトランジションにおいて中心的な役割を演じ、逆もまたそうなのです」
 この理論によれば、マインドの異なる部分間で生じている量子的なプロセスがある。このプロセスはシンクロニシティ的な事象で各個人のマインドを越えて広がっていく。各個人のマインドは「もつれ」を介して集合無意識につながっているのではないか、とマーティン博士とカルミナィ博士は考える。

 二人以上の人々は、どのようにもつれるのか

「縛られた状態での人間の精神のアナロジーは、核家族です。そこでは家族のすべての要素が、コンスタントな相互作用によって結ばれています。それは同じ家庭で生活することによって生じる感情的な金銭的、あるいは社会的なインタラクションです」とマーティン博士は2005年の論文で書く。
「例えば、2人の個人間の関係性のアナロジーは、年老いた両親との成人となった子どもたちの継続的な結びつきです。そうしたケースでは、どの家庭も金銭他で共同依存していません。ですが、もつれは遠距離で数十年も存在し続けることができます。そうした明らかにつながりがない個人間の相関関係は、二つかそれ以上の精神の量子的なもつれの概念でよく表すことができます」
 マーティン博士は自分の仮説にはさらなる調査が必要なことを認める。人間の精神に適用するためには、量子物理学の分野でさらに発見されなければならないことがある。
Garret-Moddel.jpg 量子力学を研究するコロラド大学工学部のギャレット・モデル(Garret Moddel)教授は、もつれを単純化することがどれほどたやすいかについて説明する。
「人々は量子もつれについて、私が一個の粒子を振うときに、もう一つの粒子に対する影響を見にできることを意味すると思いがちです。ですが、それはそうでありません」と、彼は言う。
 古典的な情報では、ビットの二進法があり、それはただ0または1と2つの値だけを取ることができる。「量子ビット(quantum bit)、短縮形の「qu-bit」では、同時に0と1の値を取ることができます」と、マーティン博士とカルミナティ博士は説明する。量子ビットは、同時に両方の状態が重ね合せられている(2)
近代以前にはシンクロはあたりまえだった
 長い歴史を通じてみれば、わざわざ「シンクロニシティ」という名前をつける必要がないほど、それは人々の人生にとってあたりまえのことだった。過去においては、シンクロニシティは既知の事実だった。内なる心と外的世界との境は流動的で、外的世界が思考とつながっていることは意外でもなんでもなかった。神あるいはプロヴィデンス(Providence)、はたまた人智を越えたそれ以外の力が偶然の出来事を支配していたことは、当然のことと思われもしていた。つまり、「シンクロニシティ」という言葉を必要としているのは、近代だけとも言える(4)
 それでは、なぜ、「シンクロニシティ」の概念が現代人の心には必要なのか。タルナス博士は、その理由をこう語る(4)。
「ジェフリー・クリパル教授は、かつて私にこう話しました。『私は何も信じなくなった。けれども、シンクロニシティだけは信じている』。つまり、シンクロニシティは自分の身の回りの世界と再びつながることで、ポストモダニズム的な人生において意味を発見するための方法なのです」(4)
エゴ・ベースでシンクロニシティを解釈してはならない
 ボブロフ氏もシンクロニシティの個人的な体験を披露する。氏はある日、アルバータ州からカルガリーの西でサスカチュワン州へとドライブしていた。給油するためガソリンスタンドに止まると、偶然に高校時代の恋人に出会う。彼女も同じくカルガリーに向かっていた。そして、まさに二人がカップルとしてカルガリーへ一緒に旅していたのが、10年前のこの日であることを思い出す。
「ですが、私は、それが『我々は一緒にならなければならないのではないか』」というエゴの答えだとは必ずしも思いません。例えば、ロマンチックな偶然の一致は、その関係がそうであるべきことを必ずしも意味するというわけではありません。そうではなく、ただハートをつなげる何かが我々の世界にはあるのです」
 我々は、欲しいものを意味するためにシンクロニシティを理解すべきではないのである。そして、シンクロニシティを理解するために、古代の中国の思考方法も考える。
「私は、宇宙とのつながりで誠実でしょうか」
 ユングは、エゴベースのやり方でシンクロニシティを分析することを警告していたとボブフロフ氏は説明する。そして、ユングは、シグナルとしてシンクロニシティを受け止めていた(5)
 ユングは「シンクロニシティは、主観的世界と客観的世界との間の意味あるつながりを明らかにすると書いた。そして、危機的な時代に幻滅した西洋の世界観にシンクロニシティをもたらしたのである(4)
 ビエットマン博士も、偶然の一致は、迷った犬だけでなく、ソウル・メイトや就業機会さえ見つける助けになる。そして、個人の成長にすら役立つ(1)。そして、こうした力を利用することは、組織的な研究が必要だと偶然の一致の研究を通して、さらにシンクロニシティを理解し、より大きなスケールでそれを役立つようにすることが必要なのである(3)
【画像】
バーナード・ビットマン博士の画像はこのサイトよりリチャード・タルナス博士の画像はこのサイトより
スカラベの画像はこのサイトより
ロデリック・メイン教授の画像はこのサイトより
ジェフリー・クリパル教授の画像はこのサイトより
ビクター・マンスフィールド教授の画像はこのサイトより
ルパード・シェルドレーク博士の画像はこのサイトより
マリリン・シュリッツ教授の画像はこのサイトより
フランソア・マーティン博士の画像はこのサイトより
フェデリコ・カルミナィ博士の画像はこのサイトより
ギャレット・モデル教授の画像はこのサイトより
【引用文献】
(1) Tara MacIsaac, Frontier Science: Dr. Bernard Beitman on Coincidence Studies, The Epoch The Times, April 16, 2014.
(2) Tara MacIsaac, Quantum Physics Explains Coincidences?, The Epoch Times, July10, 2015.
(3) Bernard D. Beitman, How We Could Use Coincidences in Psychotherapy: Jung’s Scarab, The Epoch Times, Aug12, 2015.
(4) Tara MacIsaac, Why Synchronicity Is Especially Important Today, The Epoch Times, Aug30, 2015.
(5) Tara MacIsaac, Biology, Psychology, and Mysticism Unite in Synchronicity Discussion, The Epoch Times, Sep1, 2015.
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2016年09月26日

love2.0〜アップデートする愛〜慈悲ガイド@

愛とはつながりである

愛を定義しなおす

 従来、耳にされる「愛」とは、恋人を望むように欲望が中心である。そして、愛は、責務や誓約ともみなされがちである(p13)。実際、数多くの映画や歌は、愛をハッピーエンドな物語、陶酔、性欲、責任と見なしている(p15)。けれども、愛は性欲でもなければ、責任でもない(p14)。こうした先入観を捨てて、愛の定義を「2.0」へと「アップ・グレード」する必要がある(p13)

愛の対象はかなり幅広く、同時に愛の時間は短い

 愛は独占的で排他的なつながりだとの概念が持たれている(p15)。けれども、現実の愛は配偶者や親しい仲間や親族のような者たちだけに限定されるものではなく、普通にイメージされるよりもはるかに幅広い(p15,p28)

 また、愛は無条件に永続的なものだとも考えられているが、その時間尺度は普通に考えられているよりもはるかに短い(p15)。例えば、感情は永続するようにはできていない。どれほどよい感情を持ったとしても、せいぜい数分続くのが関の山で、何カ月も何年も続くことはない。そして、愛も感情である。したがって、天候のように絶えず変化する(p27)。愛はある前提条件に従い、かつ、その時々の状況に敏感なのである(p15)

 愛を生物学的に捉える

生物学的なつながりが愛に発展したわけ

 恐怖、怒り、嫌悪といったネガティブ感情は進化によって発展してきた。けれども、同時に生殖を成功させるためには、絆を作ることが必要である(p41)。そこで、他の生物とつながったときに、良い感情が生じるという生化学反応も生まれた(p42)。このようにして、長年の進化による自然淘汰によって「つながりの感情」が作られて来た(p32)

オキシトシンは絆を深める

 社会的な絆において、オキシトシンが重要な役割を果たしていることは、プレーリー・ハタネズミの実験から明らかになった(p64)。異性の前で一匹のハタネズミの脳にオキシトシンを注入すると、長期的に一緒にいたいという気分が生じて、互いに寄り添うのである(p65)

 人間においては、合成型のオキシトシンを鼻用スプレーとして研究用に用いることがヨーロッパで認められたことから、2005年にチューリッヒで128人を被験者に「信託ゲーム」の実験がなされた。あるグループをランダムに「投資者」と「受託者」にわけ、投資をさせると、オキシトシンを投与することで両者の信頼関係が高まることが見出されたのである(p66)

オキシトシンは扁桃体による恐怖を抑える

31Ledou.jpg ニューヨーク大学の神経科学センターのジョゼフ・ルドゥー(Joseph E. LeDoux, 1949年〜)教授が、『情動の脳科学』で明らかにしているように、生物は自然淘汰によって、脅威に対して反応するようにできている。そして、この脅威検出システムは無意識に働く(p31)。けれども、オキシトシンによって、扁桃体による恐怖感情が抑えられ(p67)、ストレス・ホルモン、コルチゾルも減ることがわかっている(p68)。その理由は、ネズミから明らかになっている。母親からグルーミングをされたり舐められたりすると、その子ネズミの扁桃体におけるオキシトシン・レセプターが増え、オキシトシンに対する感受性が増す。すなわち、愛情を受けて育った子ネズミは、物おじすることなく好奇心が旺盛でよりおとなしい物腰のネズミへと育つ(p71)

オキシトシンは敵か味方かを見抜く勘を鋭くする

  すなわち、オキシトシンは「闘争・逃走反応」の反対の作用をもたらし、哺乳類における「つながり反応」の主役とされている。けれども、オキシトシンは、つながるスキルを鋭くするわけではないし、ただ盲目的に見知らぬ人を避けようとする恐怖心を鎮めるわけでもない28Paul Ekman.jpg

 カリフォルニア大学サンフランシスコ校、人間相互関係研究所のポール・エクマン(Paul Ekman,1934年〜)所長によれば、人間は通常50種類もの異なるタイプの微笑みを用いているという。研究者たちは「スローモーションビデオ」の力を借りて、この微妙な微笑みの違いを突き止めているが、すべての人は微笑みの真の意味を勘で判断しているという(p33)。また、アイ・コンタクトによって本当に相手が誠実かどうかを判断しているという。愛は決して盲目ではないのである(p34)

 そして、オキシトシンによって、人は相手の目により注意を払うようになり、アイ・コンタクトやとりわけ、微妙な微笑みに対する注意力を高め、相手の感情をよく判断できるようになることがわかっている(p67)。すなわち、オキシトシンは、誰が信頼すべきで誰が信頼すべきではないかの「勘」を高める(p68)

 あらゆる人々は、生き延びるために、社会的なつながりを必要としている。オキシトシンは、他人の示す善意の暗示を察知して、その人に対しては自分も善意をもってアプローチをするように導くのである(p69)

迷走神経が活発な人はオキシトシンが多くポジティブである

 心拍数は恐怖を感じたり侮辱されると高まる(p71)。いわゆる「闘争・逃走」反応である。そして、高まった心拍数は静めるのは、迷走神経の働きである(p72)。すなわち、迷走神経が最も重要なのは、脳と心臓をつないでいることにある(p71)

 人間の心拍は、息を吸うときに少しスピードアップし、息を吐く時にはスローダウンする。そして、迷走神経の活力が高まると、健全な「心不整脈」のパターンが生じる(p73)

 迷走神経はアイ・コンタクトを良くしたり、表情を他の人とシンクロさせたり、中耳の小さな筋肉を調整することで、バックグラウンドのノイズから彼女の声を良く聞こえるようにもする(p72)。すなわち、迷走神経の活力が高いと、精神的には注意力が鋭敏となり、変化し続ける環境にも無意識レベルでよく適応できる(p73)

 感情・行動の調節能力が高まり(p73)、周囲の人と同調ができ(p76)、社会的には他者とポジティブなつながりが作れるようになっていく(p74,p76)

 迷走神経の活力が高い人ほど、ポジティブな共鳴を多く体験する。したがって、迷走神経は、愛の潜在力と言える(p74)。さらに、ポジティブな共鳴はオキシトシンのレベルも上げる(p77)。そして、ポジティブな感情と迷走神経の活性化は互いに高め合う(p235)。愛が愛を呼ぶのである(p76)

ポジティブに共鳴するとき脳はシンクロしている

Uri-Hasson.jpg ポジティヴィティな共鳴を感じ、本当に他者とつながると、その時に、脳は他人の脳とシンクロを始めている(p56)。従来の脳の研究は一人の脳だけを研究してきたが、2010年、プリンストン大学のウリ・ハッソン(Uri Hasson)准教授は、物語をヘッドホンで聞かせ脳がどれだけ同調するのかをfMRIを用いて調べてみた(p58)。そして、コミュニケーションが成功するときには、ほとんどの脳領域で聞き手の脳が語り手の脳を1〜3秒後にシンクロしていることがわかった(p60)。さらに、大脳皮質のいくつかの領域は数秒前に相手の脳活動を予期していた。ハッソン准教授によれば、脳のリンクロが互いを理解する手段なのである。そして、良いコミュニケーションの状態では、二人はひとつの共有する「感情」を感じている(p61)。そして、ポジティブな共鳴は、脳領域を構造的に変化させ、脳の可塑性も関係してくる(p77)

 すなわち、愛は、他者とポジティブな感情を共有し、他者と生化学・行動で同時性が起こり、互いの幸せのために投資をしようという動機が起きたときに生じる(p28)。この三つを「ポジティヴィティ共鳴」と呼ぼう(p29)。それは、生化学的に同期する変化と、互いの配慮のための言語的・非言語的表現によって増幅されていく(p30)

 そして、このポジティブな共鳴は生化学的変化を起こす(p227)。このため、身体的には炎症が抑えられる(p73)。フレドリクソン教授は、ソーシャル遺伝子センターのスティーブ・コール所長との共同研究で、炎症、遺伝子発現のパターン、迷走神経とが関係していることを見出す(p109, p235)。すなわち、細胞内の特定の遺伝子の発現が強化されたり弱まったりする(p235)。

 真の脅威はそれほど多くはない。けれども、不安、憂鬱、孤独、そして、自尊心の低さに悩む人は、はるかに多くの脅威を知覚する(p31)。このため、孤独で他人と切り離されたように感じていると、ストレス・ホルモン、コルチゾールが増え、炎症反応がより長期的となり(p78)、免疫系の白血球に影響を及ぼすため(p109)、免疫系が弱まり、慢性病にかかりやすくなる(p78)。これは、逆に言えば、ポジティブな人は風邪を引きにくく、心臓病、脳卒中、糖尿病、アルツハイマー、癌にかかりにくいことを意味している(p109)

 愛が身体を生化学的に変化させたり、DNAが細胞内で発現する形態すらも変えることが新たな科学によってわかってきたのである(p12)

ポジティブだと知覚の扉が開いて発想が豊かになる

 イギリスの詩人、ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757〜1827年)は、1790年の『天と地の結婚』で「もしも、知覚の扉が清められていれば、すべてのものは人間にあるがままに見える」と書いた。

 オルダス・ハクスリー(Aldous Huxley, 1894〜1963年)は、1954年の著作『知覚の扉』で、サイケデリック・ドラッグを用いた最初の体験を記している。ハクスリーは、ブレイクの隠喩になぞられ、人間の脳を減圧弁に例え(p83)、一時的にそれを広く開くことができるとの仮説を提唱していた(p84)

 このハクスリーの仮説は、現在、機能的磁気共鳴影像法(fMRI)を用いた研究によって事実であることが確認されている(p84)

 人間の脳には顔に反応する脳領域(FFA)と場所に反応する脳領域(PPA)とがあるが、ネガテイブ感情によって「知覚の扉」が閉じられていると、顔を認識する脳領域だけしか活性化しない。すなわち、ネガティブ感情は人の知覚を狭め(p85)、認識力も狭める(p105)。 

 一方、可愛い子犬やおいしそうなデザート等、ポジティブ感情を引き起こすイメージを見ておくと、場所に反応する脳領域(PPA)の血流も増加する。すなわち、ポジティブ感情は人の知覚を広げる(p85)。フレドリクソン教授によれば、ポジティブ感情によって、いつも「自分」に焦点をあわせている知覚は拡張していく(p62)。これは、気分が良いときには、ホリスティックな見方が可能となり、「点を結んで全体像」を創りあげたり、一見矛盾した見方を統合して「大きな絵を見る」ことができるようになることを意味している(p105)

 それだけではない。ポジティブ感情によって「知覚の扉」が開けば、他者とつながる準備ができる(p86)。さらに、他の人とつながりポジティブな共鳴が産みだされると、互いを統一された全体の一部とみなすようになる。これは、慈悲によって心は同心円状に広がり、多くの範囲の他者にまで含むようになるのである(p87)

愛とはつながりの感覚、大洋の感覚

 バーバラ・フレドリクソン教授は、2010年に、ボストン大学のダニエルセン研究所に招かれ、感情の科学が霊性の発達や宗教的な安寧とどのように関連するのかの講義を行った(p222)

 宗教学者、心理学者、哲学者は、いずれも、自分の境界が消滅して、自分がはるかに大きなものの一部であると感じる「つながりの瞬間」のことを指摘してきた。ジークムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856〜1939年)は、この感覚を母親と一体化していた頃の幼児退行だと一蹴したが(p222)、ウィリアム・ジェイムズ(William James, 1842〜1910年)は、霊的体験の基盤として、これを支持し、1902年の著作『宗教体験の諸相』において「感情は宗教の深い源泉であり、哲学的及び神学的的定式は二次的な産物にすぎない」とまで述べている(p223)。実はこの「大洋の感覚」は、愛の特徴の一部である(p222)。愛とは他の生物との、真にポジティヴィティのある一瞬の暖かさ、つながりである(p12,p19)。愛とは、自分が何か大きなものの一部であると感じさせる「超越性」である(p27)

【画像】
ジョセフ・ルドゥー教授の画像はこのサイトより

ポール・エクマン所長の画像はこのサイトより
ウリ・ハッソン准教授の画像はこのサイトより

【引用文献】
バーバラ・フレドリクソン『LOVE2.0』(2014)青土社
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2016年09月01日

姉妹サイトのお知らせ

おしらせ

 拙ブログ、「フローライフ」、ご訪問ありがとうございます。さて、本サイトは、脳神経科学や心理学、スピ系の情報を知るために、自習用に作成した趣味のサイトですが、次第に情報量が増えすぎて自分でもだんだん何を書いたのかわからなくなってきています(笑)。

 ブログは日付という時系列で管理するのには便利ですが、カテゴリー別に整理するには、通常のウェブサイトの方が格段に優れています。

 「そういえば、前にも似たようなことを書いたよな」とか「前にも聞いたような人物についてどこかで聞いたか読んだりしたよな」と思っても、時系列だといつのことだかわからなくなります。幸い、Seasaaブログにはサイト内検索という機能が付いているため、キーワードを入れれば、類似した情報を見つけ出すことはたやすいのですが、類似情報はやはりコンテンツ毎にウェブという形でまとめておいた方が見やすいし、日付毎でなければ、一度作ったページの更新もたやすいと言えます。

 とはいえ、あらたにまた別のウェブサイトをわざわざ立ち上げるのも大変です。以前は「ホームページビルダー」でウェブサイトも作っていたこともあったのですが、あいにくMac用のソフトはありません。そして、Mac用の簡易ウェブサイト作成ソフト「iweb」は開発が中止されてしまっています。もちろん、jimdoのように簡単にウェブサイトが作れるページもあるのですが、意外に使いづらいし、Mac用のサイト作成ソフトをわざわざ購入して使い方を新たにマスターするのもしんどい。


 そう躊躇していたところ、このブログを作っているseasaaブログそのものをホームページ風に改良する方法があることを知ったのです。これは便利。ということで、スローライフで書き貯めて来たコンテンツをベースに疑似ウェブサイト風ブログ「ケアエコノミー慈悲の経済」というサイトを立ち上げてみました。

 こちらは、日付では整理していません。そして、本を読んで情報が更新されれば以前に書いた記事をどんどんアップデートしてゆくことにします。そして、大きくは「幸せ(慈悲的生き方)の心理学」「幸せ(慈悲的生き方)のベースにある脳神経科学」「脳神経科学(近代科学)では説明がつかない少し危ない世界」「幸せ(慈悲的生き方)をベースとした経済社会」という四つのカテゴリーで整理していくつもりです。

 それでは、なぜこうしたサイトをそもそも作る気になったのかというと、このままでは、いまの社会そのものが、エコロジー的にも経済的にももはや立ち行かず破局することがわかっているからです。そして、それを救う唯一の望みがあるとすればそれは「慈悲」だからです。ということで、慈悲をベースとした新たな経済社会がどのようなものかを探りたいということで、「慈悲」をコアに情報を提供していきたいと思っています。

 実は、環境だけでなく、食と医療と教育は以前から私が追求してきたテーマでもあります。そして、食、医療、教育はすべて慈悲と重なってきます。その意味で、「生命とは何か」「資本主義経済とは何か」という以前から持っていた関心を追求する「没落屋」のテーマとも重なります。慈悲をキーワードに、これまで私が学んで来た食・医療・教育を再整理しておくことが、残り少なくなって来たこの人生の最後のミッションなのかなとも思ってもいます。

 「慈悲」についてはおわかりいただけたでしょうか。では、なぜ「科学としての慈悲」なのでしょうか。これにも訳があります。このサイトのネタ本ともなる本を読む中で、ほとほと認識したのが、いわゆるスピ系の「危なさ」です。

 結論から言えば、私は科学や脳神経科学ですべてが説明できるとは思ってはいません。けれども、通常の人はまず「宗教」という形容詞が付いただけで、まず否定的に捉えます。そして、「科学」という形容詞が付いただけで、肯定的に受け入れてくれます。

 そこで、宗教色を抜いた「心理学」と「脳神経科学」をベースに徹底的に慈悲を追求し、その基礎知識を共有したうえで、にもかかわらず「脳神経科学(近代心理学)では説明がつかない少し危ない世界」を語る必要があると思うのです。このテーマについては、引き続き、フローライフで重視していきたいと思います。

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2016年03月09日

慈悲の瞑想の神経科学9〜相互依存を理解する智慧が慈悲を育む

09Barry Kerzin.jpg バリー・カーズィン(Barry Kerzin)博士はカリフォルニア大学バークレーで哲学の学士を取得後、南カリフォルニア大学(USC)で医学を学び医師となり、ワシントン大学(University of Washington)の家族医療の准教授となる。インドのバラナシ(Varanasi )のチベット研究中央大学(Central University of Tibetan Studies)の客員教授でもある。

 カーズィン博士は、24年もダラムサラに居住し、ダライ・ラマ法王の医師を努め、貧しい人々に慈善医療も提供している。約3年の接心を含め、多くの瞑想接心を行い、彼の脳は、ウィスコンシン大学マディソン校(Madison)やプリンストン大学で、長期瞑想者についての研究の一部として調査されている。

 博士は仏教僧としてダライ・ラマ法王から戒を受けたが、米国ファミリー医療学会(American Academy of Family Practice)のフェローで、マインド・アンド・ライフ研究所(Mind and Life Institute)の研究員で、ライプチヒのマックス・プランク研究所の慈悲の修行研究のコンサルタントである。日本におけるヒューマンバリュー総合研究所(Human Values Institute)の創立者と会長であり、幸せについてのTEDxでのトークを含めて、全世界の医学校や大学で、慈悲や倫理学(secular ethics)を教えている(p493)

エゴイズムは不幸をもたらす

 私たちは他者の幸せのことをときたま考えることもある。けれども、たいがいは、自分を一番大切にしている。誰もが、この植え付けられた習慣に閉じ込められ、この狭い思考様式に多くの時間を陥らせている。自分のニーズのことを考えることだけに時間を費やしている(p175)

 私たちは誰もが利己的で、なによりもまず自分自身の幸せを望んでいる。もちろん、自分の幸せを望み、みじめさを避けるのは、人間として自然であって、生けとし生けるもの、すべての真実である(p170)。すなわち、誰もが利己的で自己中心的である。自分が世界の中心だと思い、世界全体が「私」を中心に回転するため、エゴはナルティスティックでもある(p175)

「苦(Dukkha)」とは、苦しみのためのサンスクリット語で、惨めさや恐怖を意味する。苦痛、病気、絶望(hopelessness)、絶望(despair)も意味する。このレベルでの苦を理解することはたやすい。とはいえ、より精妙な苦はより認識することが難しい。そのひとつが変化の苦しみである。素敵なビュッフェでの外食は楽しいが、その喜びは続かずに衰え、喜びは惨めさにかわる(p167)。問題は、意味があり、意味があり持続する幸せがそこでは見出せないことにある(p170)

 利己主義はナルシシズムによって自分自身のニーズや欲望を中心にすえるため、私たちは、自分自身のために多くのモノをさらに集めがちになる(p170)。けれども、多くの幸せを見つけようとすることは、実際には、さらに多くの不満をもたらすことで終わる(p175)

エゴイズムは味方と敵という対立する世界を産みだす

 また、強力なエゴの感覚は、私たちを他者から切り離す。それが「私たちvs彼ら」という人生の図式を創り出す(p176)。そこで、私たちは、この世の中を友人と敵という二つの世界に人工的にわけ、自分に親切な人たちと脅威となる人たちとで世界を枠組み付ける。これによって、対立する世界が創り出され、それは、恐怖や疑いをもたらし、次には不信もたらす(p171)

 けれども、「私たちVS彼ら」という世界観は(p167)、リアルなものではなく、ただ私たちのマインドによって構築されたものにすぎない(p171)。すなわち、エゴが、不変で独立したものと自分自身を誤解すると、対立が生じる。これを仏教では「行苦(conditioned pervasive suffering)」と呼ぶ(p171)

他者の苦しみを救うための望みと行動があるのが慈悲

 慈悲とは何なのであろうか。慈悲は、共感とは違う(15章)。共感とは、他者が感じているものを感じることだが、そこには、苦しみを減らすことへのコミットメントや行動がまったくない(8章)。一方、慈悲には他者の苦しみを救うことに対する望みがある。そして、それが発展すれば、コミットメントも成長し、これが行動につながる。この慈悲が満ちたケースが利他主義者である(p167)

慈悲には生物学的な根拠がある

 「慈悲」という言葉は宗教用語として考えられがちである。無論、どの宗教でも「慈悲」はメイン・テーマである。けれども、慈悲は宗教には限られない。事実、ダライ・ラマ法王は「慈悲は宗教を超える」と語っている。慈悲は人生に必要である。例えば、産まれたての乳児は、母親からの愛情や親切、慈悲なくしては生き残れない。食べ物や保護されなければ死んでしまう。子どもへの母親の慈悲は生物学なもので、種を維持・永続させるのに役立つ。

 慈悲と愛情は、社会的な発展にも欠かせない。愛情と愛情なくしては、向社会的な行動を育むことはできない。そして、支援、わかちあい、贈与、協力、ボランティアといった向社会的行動は、幼少期に母親や主なヘルパー(primary caregiver)から受けた愛情や親切心によって育まれる(4章) (p167)

攻撃的な人の背景に幼少期の愛情不足があることを理解する

 世の中には、攻撃的な失礼な人たちがいるが、なぜこの人たちがそうした立ち振る舞いをするのかを考えてみることは価値がある。おそらく、その行動は自分自身の苦しみの経験が反映されている。あるいは、問題ある家庭で育ったという過去からの苦しみが反映されている。

 幼少期のつらい経験にとった対応は、怒り、憂鬱、悲しみ他のネガティブな気分としてあらわれ、本人が気づかなくても、水面下で心の乱れを産み出すことが多い。この幼少期の感情反応パターンはその後の人生でも何度も浮上する。

 このことを認めることで復讐の本能は調整できる。ある人が自分が幼い頃に自分をいじめた兄のように感じられたとしても、その人は兄本人ではない。このようにネガティブな家族の問題や影響を理解することで、なぜ私たちを傷つける人がいるのかの理解が容易になる。そして、この理解を通じて、より慎しみ深くなり、相手を許すことができる(p175)

誰もが幸せを望んでいることを理解すれば怖い相手はいない

 男であれ、女であれ、若者であれ、老人であれ、誰もが同じであることを私たちは深いレベルでは理解している。私たち誰もが自分が幸せであることを望んでいる。苦を望むことを誰も望んではいない。相手を傷つけることを誰も望まない。例えば、乱暴者がいるとしよう。でが、どのような状況で彼らは乱暴者になったのだろうか。そして、他者をいじめることでどんな結果が生まれるであろうか。もし他の人が幸せであれば、彼らが私たちに敵対的に行動してくる理由はまったくないだろう。つまり、彼らに対峙してもなんら問題がない(p174)

この世の中は相互依存で成り立っている

 このように幅広いパノラマ的な展望から思考すれば、多くの理解と慈悲が自然に生じる(p174)。すなわち、慈悲的行動を成功させるには、幅広い視野で物事を見る「知恵」が必要である(p167)。そして、本当に知恵を所有するには、相互依存の知識を持つ必要がある。それには、いくつかの精妙なレベルがある(p171)

 相互依存は、私たちの世界を統治する重要な特徴で、多くの分野で目にできる。例えば、このグローバル化した現代では、世界はより小さくなり、より相互依存するようになっており、グローバル経済では相互依存が非常に重要となっている。

 自然界においても、物事の変化は相互依存によってもたらされている。生物学の分野では、食物連鎖や共生は相互依存に基づき、種は複雑な相互関係に大きく依存して進化する(p171)。遠く離れた地域に影響を及ぼす気候変動も相互依存に基づく(p174)

 物理学では、相対性一般理論や「量子もつれ理論(theories of quantum entanglement)」が相互依存に基づく。アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein, 1879〜1955年)の一般相対性理論は、重力と空間と時間との関係性を説明し、相互依存は宇宙の起源で理解にも必要である(p174)

量子レベルでは切り離されて存在する粒子という世界観は時代遅れ

 一方、「量子もつれ理論」のもつれ(Entanglement)とは、エルヴィーン・シュレーディンガー(Erwin Schrödinger, 1887〜1961年)がアインシュタインに向けて書いた手紙の言葉、「Verschrankung」の翻訳である。遠距離にあってさえも相互作用する2粒子間の相互関係性のことで、アインシュタインは、それを耳にして「離れた距離の薄気味悪い行動(spooky action at a distance, spukhafte Fernwirkung)」と称した(p171)

 実際の世界のほとんどは何もない空間である。そして、原子よりも小さな粒子は絶えず流動している。さらに、その粒子の位置を突き止めようとすれば、その速度や運動量(momentum)を知ることができず、逆に速度を測定しようとすれば、その位置を定められない。ヴェルナー・ハイゼンベルク(Werner Heisenberg, 1901〜1976年)の不確実性原理(uncertainty principle)であり、それが量子力学を発展させることにつながった。相対的なのは、その位置や運動量だけではない。粒子の動きを観察することも相互依存的である(p170)。ただ観察するだけで粒子の動きに影響してしまう。これが、「量子もつれ理論」を説明するし、古典力学から量子力学への飛躍のポイントとなった。すなわち、私たちの世界の基礎をなす原子よりも小さな量子の世界は関係性のネットワークのなかだけに存在している。それらが、他のすべてから切り離され、切り離されたやり方で存在しているという概念は、原子よりも小さなレベルではこれは意味をなさない。時代遅れなのである(p171)

関係性の世界観で仏教は量子力学と類似する

 仏教の「空」は相互依存を意味し、不変で独立した現実という観念を拒絶している。すなわち、すべては他のモノに依存してただ関係性においてのみ存在していると考える。この理解は量子物理学と同じである。すなわち、量子物理学でも仏教でも、確固たるエンティティは存在せず、ただ相互依存する関係性だけがあるのが現実であると理解する(p175)

量子力学の世界観と類似するエゴの心理学

 量子力学とエゴの世界には多くの類似点がある(p171)。前述した自分だけをかわいがるというエゴは、ゆがめられた世界観に執着している。すなわち、我執(Self-grasping)は、ゆがめられた認知に固執し、それが真実であること考えることを意味する。さらに、私たちは、このゆがめられたエゴの知覚と自分を同一視している(p175)。そして、私たちはエゴが独立して不変で他者や世界から切り離された実体だと考えている(p167,p170,p171)。けれども、この強力な独立した感覚と認識は現実にではなく誤解に基づいており、間違っている(p170,p171)

 他者とは切り離された個別で不変なエゴとは、それが存在するという信念から生じたフィクションにすぎない(p167,p170)。エゴは概念や名前以上のものではない。けれども、私たちは、そうした信念体系を自分が持っているすら気づいてさえいない。「私のエゴの知覚は正しいだろうか」と問いかけたりはしない。あまりにも慣れきっているため、エゴを当然のこととし、その仮定に挑むことすら考えない。自分の認識が正しいかどうかを確かめようとはしないし、エゴの性質を熟考することも稀である。私たちは、エゴが自分の肉体やマインドから切り離されたもので、それをコントロールするマネージャーのようなものだと考えている(p170)

 けれども、このエゴを確かめようとピンポイントで狙ってみても、実はその正体を突き止めることができない。世界を密接に調べてみれば、それがいつも流動し、絶えず変化していることがわかる。実際には、私たちのエゴは、数珠のようにたえず循環毎に変化している(p170)

 量子と同じように、エゴも、身体とマインドとの相互依存、すなわち、関係性のネットワークとしてだけ存在している。すなわち、エゴは関係性として存在する相対的なものであり、ダイナミックなつながりのネットワークにすぎず、独立したエンティティではない。要するに、エゴは、身体やマインドからは切り離せず、身体やマインドがなければエゴも存在しないが、エゴがなければ身体とマインドも存在しない(p171)

 私たちのマインドは、リアリティを形成するうえで大きな役割を果たしているが、エゴとはゆがめられた誤解によってマインド内で生じている幻想なのである(p167)。要するに、私たちは、歪められたやり方で、リアルではない何かを堅く握りしめている(p170)。私たちのエゴとは、メンタルな投影で、夢や蜃気楼のような雄大な幻覚にすぎない。その真実を知らず騙されて生きている。けれども、誤った知覚がなくなれば、歪められた無知も徐々に薄れていく(p171)

エゴを手放せばモノへの執着から自由になれる

 仏教の知恵の機能はユニークで、現実の幻覚を越えたところへと私たちを導いていく。仏教の知恵は、ゆがめられ誤認されたこの幻覚の世界を壊す。さらに、慢性化した習慣を打ち破る方法を教えてくれる。この知恵の鍵が幸せへの道を開ける(p175)

 すなわち、自分を解き放つためには、まず我執を解き放つことである。私たちの認知、思考、感情は、すべて私たちのマインドによって投影された構築物にすぎない。そこで、我執を手放す(Detachment)ことでモノへの執着から個人的に解放される(p174)

エゴを手放せば怒りからも自由になれる

 この幅広い視野を持てば、怒りの感情から自分自身を切り離す感情的なスペースも得られる。この感情的なスペースを持つことで、怒りと自分を同一視しないことが学べる。「私のもの」としての怒りと自分を同一視する必要はまったくな。自分のものとして怒りの感情に執着することなくただ流すことができる。空を自然に漂い横切っていく雲のように、ただ怒りが流れて行くとだけイメージできる(p174)

相互依存の智慧があれば自分の幸せ=他人の幸せと理解できる

 さらに、自分をかわいがるエゴイズムの反対は、自分を無視することではない。他者のニーズを認め、より幅広い視野を採り入れることを意味する(p175)。現実には、私たち誰もが多くのレベルで密接につながっている。このことを理解することが、心を他者に開き、他者の親切さや他者とのつながりを認めることになる。そして、このつながり感が、他者とをより近づけさせ、これが相互依存の知恵へとつなげる(p167)

 相互依存を認識することは、私たちが生きる世界のよりリアルな理解に向かわせる。よりバランスがとれ、全体の状況をよりはっきりと目にできるパノラマ的な展望をもたらす。これによってよりよい意思決定が可能となる(p174)

 また、相互依存とは、私たち自身の幸せが他者と結びついていることを意味する。したがって、他者をケアすることは自分自身をケアすることになるのである(p171)

 普遍的な慈悲とは「もし、親切にしてくれれば、私も親切にしよう」といった他者の反応には基づかない。むしろ、無執着(detached)の内なる深い意識に基づく。すなわち、自分のエゴを徹底的に探究することが、より深く、バイアスがない普遍的な慈悲を育む重要な方法である(p174)

エゴイズムを捨てることで逆に幸せになれる

 ジャラール・ウッディーン・ルーミー(Rumi, 1207〜1273年)は「私たちの仕事は、愛を捜し求めることではない。対立という私たちが築いている障壁を見つけることだ」と語っているが、利己的なバリアを壊すことは、自然につつがなく慈悲が流れることを可能にする(p167)

 すなわち、私たちのハートは開かれ、さほど利己的ではなくなる。他者のために多くを配慮するようになる(p170)。そして、利己主義が減れば、より謙虚となり、自動的に慈悲も強化される(p174)。すなわち、相互依存を理解する知恵によって慈悲はより強化される(p167,p174)

 手放し(Detachment)によって、で真実が何かが手にできる。そのリアリティははるかにソフトで優しい。さらに、複雑に織り込まれた感覚があり、世界は関係性のシステムとなる。すべてがバランスが取れて嬉しく感じられる。それが相互依存のリアリティである。すなわち、歪められた認知を手放すことで自由を手にできる(p175)。そして、相互依存の知恵は私たちを再び他者ととつなげる。対立と怒りは蒸発する。嫉妬と競争力は消え失せる(p176)。私たちの心は開かれ、よそ者であれ、敵でさえあれ、出会う誰もを新たな友人だと感じるであろう(p174,p176)。苦闘は喜びと意味ある人生へと変わる(p176)

 他者の希望やニーズを中心に据えることによって、行動にパラダイムシフトが起きる。他者が幸せになることを助けることは私たちの能力を深める。逆に、自分自身を深くケアし始めるのである。すなわち、他者のことを考えて助けることによって、私たちはよりオープンとなり、よりくつろぎ、平和を感じ、自分自身も恩恵を得るのである。私たちの人生は、意味の感覚で満たされる。より、幸せでより満足感を覚える。すなわち、自分自身の幸せも保証される(p175)

実践に向けて〜初心者慈悲はイラつく

 慈悲の修行が苛立ちをもたらすこともある(p167,p170)。とりわけ、即時的な変化を期待する場合に、フラストレーションがもたらされることが多い。確かに現代の多忙でストレスが多い生活は「即自的な変化」を求める。そこで、私たち誰もが忍耐心を欠いており、短時間でポジティブな変化が見られなければ失望し、慈悲の修行も止めてしまう(p170)

 また、慈悲の修行が逆効果になることもある。イギリスのダービー大学のポール・ギルバート(Paul Gilbert)教授は、自己批判と結びついた強力な恥辱感に苦しむ人たちを研究したところ、慈悲を育むことが難しく、恐怖心すら覚えることを見出している(3章)。こうした人たちは、直接的に慈悲を磨くアプローチはできないのである(p167)

 そこで、こうした人たちは、まず、忍耐心や寛大な心、怒りの管理といった補足的なアプローチを通じて間接的に慈悲を磨いていくことが望ましい(4章)(p167)。すなわち、慈悲心を磨くための障壁を少しずつ減らしていく多面的でホリスティックなアプローチが効率的で賢明なものとなる(p170)

 これはバランスと同様で、慈悲への障害が減れば、同時に慈悲は高まる(p170)。こうした補足的なアプローチによって障害が減れば、塞がれた水門が開かれ、慈悲は強化され、結果としてより大きな慈悲が生じる(p167,p170)

知恵と慈悲によって豊かな人生が実現する

 相互依存を本当に理解することはそれを実践することである。すなわち、相互依存を実現する必須条件は行動である。知恵の理解と実践の努力は終身続けなければならない。それによって、新たな発見や慈悲がもたらされる。私たちは、辛抱強く、愛情深く、親切になれる。新たな勇気や力の感覚が湧いてくる。知恵と慈悲は同じコインの両面側である(p176)。知恵を結合することで慈悲は大きく伸びる(p175)。そして、いずれもが他者だけではなく、私たちを豊かで有意義な人生へと導く(p176)

 手放した態度(detached attitude)は、慈悲をさらに多くの人たちへと広げることが可能となる。つまるところ、慈悲は誰に対しても平等に広がっていく。これが大慈悲(great compassion)が意味することなのである(p174)

【引用文献】
Barry Kerzin, “Chapter 9 Self, Interdependence and Wisdom A Contemplative Perspective”

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2016年01月11日

お知らせ〜更新が遅れています&姉妹サイトを立ち上げました

 みなさま、あけましておめでとうございます。幸せ探偵〜フローライフへのご訪問ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。

 ずっと更新が遅れていてもうしわけございません。このサイトは「幸せ」について、私が読んだ本のまとめを通じて掘り下げていくものですが、昨年秋からの体調悪化と昨年末の緊急入院を契機として、個人的な「幸せ」について、自分が体験した内容を記述する連携サイト「禅的生活〜風布庵」を立ち上げました。ご関心のある方は、あわせて、こちらのサイトもご訪問いただければ幸いです。なお、この自己体験サイトを立ち上げた理由については、最初の2015年12月26日の記事「初参禅」や2015年12月28日の記事「99%と1%のはじまり@」からお読みいたただければ、ご理解できますので、よろしくお願いいたします。

 こちらの姉妹サイトと連携して、禅や仏教、そして、マインドフルネスの理論面と幸せの関係についての記事も充実させていく予定ですので、ご期待ください。


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