2016年02月23日

慈悲の瞑想をすれば10%は幸せになれる

グーグルは慈悲の瞑想を行っている

 「グーグルのマインドフルネス革命」(2015)サンガによれば、グーグル社内には31カ所もの瞑想スペースが設けられ、グーグル社員5万人の10〜15%が「マインドフルネスストレス低減法」を行っているという。

 グーグルが社員に瞑想を奨めているのは、もちろん、自己認識力やセルフコントロール力を高めるためだ。ハードルを下げるために宗教性も排除され、仏教関係の言葉は一切出てこない。けれども、グーグル社員が実践している最先端の瞑想プラクティス、「慈悲のプラクティス」は「慈悲の瞑想」と同じものなのである(2)

慈悲の瞑想にはやはり効果がある

 suzuki yu氏は「慈悲の瞑想」をまったくやってこなかった。理由は三つある。

 なんだか恥ずかしい

 見も知らぬ他人の幸せを願うことは偽善者ぽい

 思ってもいないことを心のなかでくり返すのはスピリチュアルぽくて嫌だ

 とはいえ、「慈悲の瞑想」には以下のような効果があり、それを実証データも豊富にあるという。

 @ ポジティブな感情が増え鬱病の症状が軽減される

 A 迷走神経の働きがよくなりストレスが減る

 B 慢性痛や頭痛を減らす効果がある

  C 脳の灰白質が厚くなる

 さらに、その瞑想も1日10〜15分続ければよい(3)

 そこで、suzuki yu氏は、慈悲の瞑想を試みてみた。すると、定番のリラクゼーション法である「自律訓練法」でもおなじみのズシーンと全身が地中にめり込んでいく体感があった。また、同氏は「Muse」という脳波計で日々の瞑想内容を記録しているのだが、そのデータに明確な変化が出た。数値が100%に近いほどアルファ波の発生量が多く、メンタル的に落ち着いていることを示すが、それが増えたのである。慈悲の瞑想を取り入れると、明らかに数値が安定している。

「ここまで変化が出ると、その効果を認めざるを得ない。やはり、2000年以上の歴史を持つテクニックには、ちゃんとした効力があるものだ」と同氏は感想を述べている(3)

パニック障害を克服したニュースキャスター

 suzuki yu氏は、「慈悲の瞑想」にうさん臭さを感じている懐疑論者でも、試してみるとその効果を認めざるを得ないとして(3)、ABCニュースの有名キャスター、ダン・ハリス(Dan Harris,1971年〜)氏の著作『10% Happier』を紹介している(1)

 20160223dan harris.jpg同氏は、番組の途中でパニック障害を発症し、その瞬間が、全世界に放送されてしまう。このパニック障害を克服するため、ハリス氏は、エックハルト・トールやディーパック・チョプラといったスピリチュアル界の大御所たちとコンタクトを取るが、インタビューをしたうえで、彼らをバッサリ切り捨てていく。

 結果として、ハリス氏は、パニック障害を克服するのだが、「瞑想前よりも10%だけ幸せになった」と控えめに効果を評価する。瞑想をしてからといってイライラが消えるわけではない。ただ、ネガティブな感情と少しだけ距離が取れるようになるという(1)

 ハリス氏はスピ系が嫌いである。それだけに同氏著述はバランスがとれている。同著の内容を紹介してみよう。

トールの過去と未来論に魅せられる

 エックハルト・トール(Eckhart Tolle, 1948年〜)という人物の名を耳にしたハリス氏は『ニュー・アース―意識が変わる世界が変わる』(2008)サンマーク出版を手に入れる(4p93)

 トールによれば、人間は生れてから死ぬまで、ひっきりなしに何かを考えている頭の中の声に支配されている。そのほとんどはネガティブな思考であり、かつ、同じことの繰り返しである(4p94)。ハリス氏は、トールがあげたエゴに捉われた人にありがちな行動リストを読み、まるで自分のことを言われているかのように夢中になった(4p95)

 トールによれば、エゴは決して満足しない。どれだけ買い物をしても、どれだけ美味しいものを食べても、エゴの欲はとどまることをしらない。また、エゴはいつも自分の外見、豊かさ、社会的地位等を周囲と比べることで自分の価値を測ろうとする。そして、エゴは昔の恨みや不満をいつまでも抱えていて何度も頭の中で再生する。

 さらに、過去の出来事を何度も再現し、未来の出来事を予想してはまだ起きてもいないことに想いを巡らせている。トールによれば、人間は過去の記憶と未来の期待の中だけで生きている。過去と未来にばかり執着するために現在が犠牲になっている。けれども、いまあるのは、「今とここ」だけなのである(4p96)

 トールの人生の転機はケンブリッジの大学院生であったときに訪れた。いきなり至福を感じ、それから2年も強烈で完全な幸せに包まれながら公園のベンチに座って過ごすことになった。その後、トールはカナダに移住し、『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(2002)徳間書店を執筆する。この書物はセレブの間で話題となり、ジム・キャリーとジェニー・マッカーシーは協働でこの書物を推薦する動画を作った(4p99)

浮世離れし、今を生きるための具体的なアドバイスがないことが問題

20EckhartTolle.jpg 「今、ここ」にとどまることの大切さはわかる。心配はムダな作業だし恐怖を未来に投影しているだけだとのトールの主張も正しい(4p105)。けれども、トールのどの著作を読んでも、具体的にどんなことをすればよいのかがまったく書かれていないのである(4p104,4p106)。ハリスはトールと会ってみることにした(4p106)

「ネガティブな感情はないのですか」

 このハリス氏からの質問に対して、トールは「ない」と答える(4p111)。トールは完全に陶酔したような雰囲気を持っていた(4p123)。ハリス氏はトールをインチキだとは思わない。悪人のようなオーラをまったく出していないからである(4p115)

 エセ科学のトンデモ理論や眉唾物の体験談はともかく、人間心理について驚くほどの洞察力を発揮している。そうハリス氏は、トールを評価する。けれども、トールの書物に対する最大の不満と弱点として、エゴと戦うための具体的なアドバイスや行動プランが一切ないのである(4p104)

俗物そのもののチョプラ

 トールとのインタビューの6週間後に、ハリス氏はディーパック・チョプラ(Deepak Chopra,1947年〜)とテレビ番組で出会う(4p117)。チョプラの年収は2200万ドル(4p130)。レディー・ガガからも最も人生で影響を受けた人物とまで評価されている人物である(4p133)

20160223Deepak.jpg もともとマサチューセッツの郊外で研修医をしていたときにはチョプラもボロボロに疲れ切っていて、一日にニ箱もタバコを吸い、酒も多飲していた。その後、病院を止め、マハリシ・マヘーシュ・ヨギ(Maharishi Mahesh Yogi,1918〜2008年)に弟子入りし、マハリシの右腕になるまで出世する。けれども、チョプラは「あまりにもカルト化している」とマハリシを批判し、マハリシも野心的すぎるチョプラを嫌った。マハリシから袂を分かった(4p132)。チョプラは、5000ドルを出して本を自費出版する。これがヒットし、マイケル・ジャクソンと知り合うことが契機で有名となるのである(4p133)

 「トールと出会った」と語るハリス氏に対して、チョプラは、「トールはそれほどいい書き手ではない」と開口一番切り捨てた(4p120)。そして、チョプラもトール氏と同じように、過去や未来をいっさい考えず、未来への期待も不安もなく、ただ現代だけを生きている(4p121)。フローと無理のない自然発生的な状態で生きていると主張する(4p131)

 けれども、現実のチョプラは自著のプロモーション活動に熱心で、カメラマンには「太って見えないように撮ってくれよ」と指示するように矛盾に満ちているのである(4p131)。ハリス氏は、浮世離れしたトールと異なり、チョプラのぎらぎらした野心の方がまだ好感が持てる、という(4p134)

トールの主張の原点は仏教だった?

 こうしたプロセスを経て、最終的にハリス氏がたどりついた解決策が瞑想であった。当初は「ヒッピーのお遊びだろう」と疑っていたが、ハーバード大学出身の医学博士、「ブッダのサイコセラピー」の著者であるマーク・エプスタイン(Mark Epstein,1953年〜)教授から瞑想の科学的な根拠を知らされ考えを改める(1)

 20160223Mark Epstein.jpgエプスタイン博士によれば最高の自己啓発プログラムは今から2500年前に生れたという(4p136)。博士の著作を読む中で、ハリス氏は、トールの著作の最もよい部分はすべて仏教からの引用であったことに気づく(4p138)。最初こそ『ニュー・アース』のオリジナル性に満ちた教えに衝撃を受けたが、実はそれは、仏教の教えを黙って拝借して、そこに独自の味付けを加えて大げさな表現にしただけなのである。例えば、いまここにとどまれず、同じことを繰り返し考えているということは、エプスタイン博士の著作にもちゃんと書かれていた(4p138)

 ネガティブに物事を考える傾向も仏教では、何も役に立たない思考であるとして、これを「戯論(けろん)」と名付けている。また、他人と比較する心は「慢」、欲しがる心は「欲」としている(4p145)

 けれども、欲を否定するのは向上心を否定することにつながるのではないだろうか。執着はよくないというが愛する人に執着するのもいけないのだろうか。手放すという概念は受け身的な生き方につながるのではないだろうか。また、幸せになることを目指しながら、一切皆苦という言葉があるのはおかしい(4p146)。ハリス氏は、エプスタイン博士と会ってみた(4p149)

精神分析と異なりブッダのメソッドでは実際に苦を取り除ける

 エプスタイン博士によれば、ブッダは世界最初の精神分析医とも呼べるという。しかも、セラピーでは問題の原因はわかっても救済はできない。フロイトでさえもセラピーで達成できるのは、激烈な悲痛を一般的な不幸にすることでしかないことを認めている(4p140)。けれども仏教は違うのである。

 自分も愛する人たちもいつか必ず死ぬ。名声もいつか失われ美も衰える。普通なら見過ごしされがちなひとつの真理にブッダは注目した。このすべてが移り変わる世界の中で、永遠には続かないものに執着することが苦しみの原因となっている(4p143)

 誰も頭ではすべてが無常であることをわかっていても、それを感情のレベルでは受け入れられない(4p143)。すべてが自分の力でコントロールできると勘違いしている。そこで、ブッダによれば、真の幸せの道は、無常の概念を腹の底から理解することから始まる。不安は避けられないことを知る知恵。これが不安の智慧なのである(4p144)

 ハリス氏は、トールやチョプラとは違って具体的な実際に役立つ行動プランが仏教にきちんと存在することを知った(4p154)。例えば、瞑想をするとぼんやりするのではないかと思える。けれども、エプスタイン博士によれば、瞑想はむしろ精神を鋭敏にして洞察力を高める。これは、自己啓発の世界で猛威をふるっている100%のポジティブ・シンキングとは正反対のものである(4p176)。そして、初心者が仏教を知るため、カリフォルニアのスピリットロック(4p189)で開催されるジョセフ・ゴールドスタイン(Joseph Goldstein, 1944年〜)の「7月の瞑想合宿」という10日間で約1000ドルの合宿に参加することにする(4p186)

接心での慈悲の瞑想でムディターを体験する

20160223joseph goldstein1979.jpg ゴールドスタインはコロンビア大学で建築家か弁護士になることを目指していたが、なぜか哲学を専攻する。その後、カルマの働きでタイにでかけ仏教と出会う(4p243)。瞑想を発見して興奮し、その後、インドで7年も本格的に瞑想を修行してきた人物である(4p244)

 ハリス氏が参加した10日の合宿の食事はベジタリアンで(4p189)、歩くときも、食べるときもいつも意識的にゆっくりと行動し、自分の心に細心の注意を払うものであった(4p193)。また、早朝5時に起床し、1時間の瞑想を行い、それを延々と夜22時まで続ける。毎日約10時間も瞑想するのである(4p193)。また、パーリー語で書かれた仏陀への帰依と戒律を唱えるのであった(4p195)

 ハリス氏は2日目の段階ではウォーキング・メディテーションの意味もわからず(4p197)、ただ「瞑想が早く終わってくれ」とだけ考えていた(4p198)。3日目からは慈悲の瞑想が始まるが、ただただ退屈でうんざりしていた(4p208)。5日目には絶望的な気分となる(4p209)。そして、肩の力を抜いて瞑想をしてみようと考えた。すると、ついに何かを感じた(4p212)。眼の中では光が見える(4p213)。その後は、いま、ここに存在している感覚が感じられ、一瞬で現れる小さな思考にも気づけるようになった(4p215)。「無常」という概念がたんなる概念ではなく感じられるようになったのである(4p216)。そして、慈悲の瞑想を唱えると限りなく涙が溢れてきた(4p218)。そして、ドラッグの1000倍は気持ちが良い幸せの波が次々と押し寄せてきた(4p219)。ハリス氏はブッダの像に自然にお辞儀をしていた(4p223)。6日目には、五感が研ぎ澄まされて、恐ろしいほど精神が鋭敏になっていた(4p223)。部屋の向こうで食事をしている男性に対して、他人の幸せをともに喜ぶ、仏教で言う「喜(ムディター)」の感覚が急激に沸き上がっていた。あまりに強い感情で泣きたくなってしまう(4p224)

 しかし、その日の午後にはまったく何も感じられなくなってしまう(4p225)。8日目にハリス氏はゴールドスタインと面接して、瞑想に浮き沈みがあるのはあたりまえのことであることを知る(4p227)

幸せを追い求めるとむしろ不幸になる

 ゴールドスタインは、人間は一生自分を騙し続けるという。食事をすれば、パーティにいけば、休暇が来れば、セックスをすれば、昇進をすればと(4p255)、私たちは人生の大部分において「○○さえあれば」という思考に突き動かされている。そして、満たされない感覚は絶対に消えない。すなわち、幸せを追求することがかえって不幸の源になっているのである(4p256)

瞑想が深まると1分当たりの気づきの量が増えていく

 夜の7時の法話ではゴールドスタインはこうも語った。

「在家で修行をしている人が執着や欲を捨てることが不可能だと感じて当然です。たいていの人は聖アウグスティヌスの言葉の方に共感を覚えるはずです。『神よ、私に慎み深さをお与えください、しかし、今はまだいいです』」

 笑いが起こる。悟りへの道はゴールドスタインによれば、まず瞑想中に集中力が極限にまで高まることから始まる(4p228)

「瞑想を続ければ1分間で気づく数NPMの数値が上昇するでしょう」(4p226)

 NPM数が爆発的に増加すると、映画のように滑らかに流れていた世界が1秒が24コマに分解され、宇宙は原因と条件の広大な海という姿を表す。すべての物事がめまぐるしく変化し、すべてが無常であることを理解する。そこからは、恐怖の瞬間、落とし穴、罠という回り道がある。そして、最期に瞑想が真に目指す地点にたどり着く。人生の屋台骨であると思っていた自己が実は幻想にすぎないことを理解するのである(4p229)

エゴが幻想であることを知ればネガティブ感情もなくなる

 瞑想とはエゴをコントロールすることではなく、エゴそのものに実体がないことを理解することなのである。仏教によれば、自己という幻想があらゆるネガティブ感情の源泉となっている。一方、ありのままの姿では、人間はエゴよりもはるかに大きな存在で全体とつながっている(4p229)。そこで、自己が幻想であることが理解できれば、ネガティブな感情が精神から引き抜かれ、完全な瞑想が達成でき、猿の心はガゼルの心になるのである(4p230)

悟りに向けた四段階

 ゴールドスタインによれば、悟りには4段階がある。第一段階が預流果である。第二段階が、一度戻った人で「一来果(いちらいか)」、第三段階が戻らない人で「不還果(ふげんか)」、第四段階の完全に悟りを開いた人が「阿羅漢(あらかん)」である。そして、各段階がさらに16段階ずつに別れている(4p246)

「状況に対する感じ方は変わらない。けれども、その感情に執着することはなくなる。必要以上に大げさにすることもなくなる。ただ感情がわきあがりとおりすぎていく」

「死ぬのは怖くないですか」

「その瞬間になるまでは誰にもわからない。けれども言う間の段階では怖くない」

 実際にゴールドスタインを見ていると普通の人よりも幸せそうであった(4p247)。けれども、 何十年も修行を積んでいるエプスタイン博士でも、ゴールドスタインとは違って悟りの第一段階にまでまだ達していないという(4p254)

効率性をあげるため大企業が座禅を取り入れ始めた

20160223Janice Marturano.jpg 米国の巨大食品メーカー、ゼネラル・ミルズの本社では、顧問弁護士、ジャニス・マルトゥラーノ(Janice Marturano)の指導によって専用の瞑想ルームが設けられ、ヨガマットや坐布まで完備されている(4p262)

 瞑想が企業で受け入れられたのは、スピリチュアルな面には一切ふれず、集中力が高まり、創造性や革新性が広がるという実務面が強調されたからだ。マルトゥラーノによれば、脳科学の研究から人間の脳は一度にひとつのことしかできないことが判明したという。これは同時に多くのことをしているのはバリバリ仕事をしているように見えて実際には生産性を下げていることを意味している(4p263)。メールをチェックするのはその時だけにし、会議のときは会議だけを行い、電話の時には電話だけをし、一定時間毎に頭を休める小休止をしたほうが、集中力や思考力が向上し、創造的にもなることがわかってきたのだという(4p264)

いま、ここに集中する

 ブッダによれば、人間は三つの方法で物事に対応する。望ましいと思うか。拒絶するか。ぼんやりしているかである。ただ、これとは別に四番目の選択がある。自分が考えたことに判断を下さず、ただ客観的に眺めるというやり方である(4p165)。仏教のたとえでは、自分の心を滝だとすると、落ちる水が「思考」と「感情」であり、滝の後ろにある空間が「身アンドフルネス」なのである(4p168)

 瞑想のおかげで退屈もしなくなった。時間があれば自分の呼吸に意識を集中するか、ただ周りの状況をありのままに眺めるようになった(4p163)

 ほとんどいつも、あちこちに飛ぶ思考のカーテンを通じて世界を見ていたことに気づいたのである。普段の生活でも「いま、ここ」に集中することを心がけたおかげで、静謐(静謐)とい地下水脈に碇をおろしたような感覚を覚えるようになった(4p164)

瞑想は脳を変化させる

 ハリス氏は、ヒッピーやニューエイジに対して嫌悪感を抱いていた(4p155)。そこで、瞑想が科学的にも研究されていることを耳にして、ハリス氏は衝撃を受ける。カウンターカルチャーであったはずの瞑想が、いまや科学界の主流になっていたのだ(4p257)

 例えば、ハーバード大学がMRIを用いて行なった大規模な研究により、マインドフルネス・ストレス軽減法(MBSR=Mindfu lness-based stress reduction)を8週間行なうと、自己認識や思いやりを司る前頭前皮質の部位が大きくなる一方、ストレスと関係する最も古い部位の脳幹が小さくなることがわかった。

 また、脳のデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)は、過去を思い出したり未来を予想したりと思考に没頭すると活発になるが、イエール大学の研究では、瞑想を習慣化させると、瞑想をしている時だけでなく、日常時にもDMNが不活発になることがわかった(4p259)

 すなわち、脳内での無意味なおしゃべりが沈黙し、周囲で起きていることをただ気づき、現在を味わう気持ちを大切にすると言う心境変化が脳科学的に説明できるのである(4p260)。瞑想は暴走する思考を制御するための地道な脳の反復練習だったのである(4p161)

地に付いたダライ・ラマ〜慈悲の瞑想は自分のため

「科学的な発見が仏教の教えと矛盾したらどうするのか。信じていることが否定されたらどうするのか」というハリス氏の質問に対して、ダライ・ラマは「ただその事実を受け入れ信仰を変えます」と答える。

「こころがいつも平静ですか」という問いかけには「いえ、そんなことはありません。たまには癇癪をおこすこともありますよ」と答える(4p270)

 エックハルトやチョプラよりもはるかにまともなのである(4p271)

 また、ダライ・ラマは、慈悲の心を持つことと自己愛も両立できることを示唆する。

「仏教は慈愛が大事とか言うがそれは偽善ではないか」との問いかけに「他者の幸せを願う気持ちを育てれば、それはそのまま自分にとっても大きな利益になるからです」(4p271)。「慈悲の心を実践すると最終的には自分の利益になります。ですから、人間は自分勝手だが、愚かな自分勝手ではなく、賢い自分勝手になりなさい、と言っているのです」とダライ・ラマは答える(4p272)。ダライ・ラマは地に足が着いている(1)

慈悲の瞑想には脳科学的根拠がある

 自己愛があるからいい人にもなれるというダライラマの主張には科学的な根拠もある。慈悲の瞑想を行なうとストレスホルモン、コルチゾールの分泌量が大幅に減少する。これは、慈悲の瞑想を行なえば、ストレスに効果的に対応できるように身体が変化することを意味している(4p273)。また、義務感ではなくボランティアで他人に親切にすると、それが快楽として脳に認識される「ぬくもり効果」があることもわかってきた(4p274)

 慈悲の瞑想をしていると、より同情心に溢れ、孤独であるよりも他人と過ごす時間が長くなり、よく笑い、「私」という単語を使う回数が少なくなることが、ウィスコンシン大学マディソン校の「健康な精神研究センター」のリチャード・デヴィッドソン(Richard J. Davidson, 1951年〜)の研究によってわかった(4p274)

 人間は利己的な存在で、道徳心は卑劣さという底なし沼の表面に張り付いているだけにすぎない、というダーウィニズムの適者生存の考え方は間違っており、他者のために自分を犠牲にする部族は他の部族よりもむしろ繁栄することがわかってきた。そして、これは、個人にも適用できそうなのである(4p275)

慈悲の瞑想によっていい人になれる

 ハリス氏は実験として慈悲の瞑想を取り入れてみる。ブッダによれば、夜が良く眠れ、顔つきが晴れやかとなり、人間や動物から好かれ、天界の存在から守られ、生まれ変わってからも幸せになれるという(4p276)。それはともかく、誰もが切り離されたエゴで争いあっている。そこで、週に2回慈悲の瞑想を取り入れてみた(4p277)

 何カ月かたつと様々な変化が訪れた。とはいえ、いきなり聖人君子になったおか、ありがたい後光がさすようになったとかではない。ただ、いい人でいることが日々の生活での優先事項として意識されるようになったのである。

 マインドフルになっていると怒りの感情はより鋭敏に感じられる。けれども、ネガティブモードから解放されると、被害妄想のレベルが下がり、判断力が高まり、さらに幸せになるという循環が生まれる。いい人でいた方がよい(4p278)。もちろん、野心を持って頑張ることはよいことだが、結果を自分で思い通りにはできないことを自覚しておけばよい(4p303)

幸せはスキルである〜いまよりも10%幸せになるというキャッチフレーズ

 以前には人間の脳は成人になると変化しないと考えたれてきた。けれども、神経には可塑性があり、瞑想によって脳の構造を作り変えることが可能なことがわかってきた。もともと幸せ「happy」の「hap」は「運」を意味するが、このことは、「幸せ」が偶然に左右される運ではなく、スキルであることを意味している(4p261)。 

 10日目の瞑想を終えたハリス氏は、変人だと思われずに自分の瞑想について話す方法を考えていた。にわかに瞑想の達人とされてしまったからである(4p238)。また、合宿中の至福を体験したことから自分が学んだことを是非他の人にも伝えたいと思っていた(4p240)

 けれども、瞑想のことを聞かれれば、気まずそうに黙ってしまうか、ムキになってマインドフルネスの素晴らしさを論じるかの両極端しかなかった。そそいて、いずれも相手の目にはかすかな恐怖の色がうつる(4p239)。そこで、とっさに思い付いたフレーズが「瞑想すると今よりも10%幸せになれる」ということだった(4p240)

 自己啓発によるある大言壮語よりも信頼でき、かつ、投資した分のリターンはきちんと満たされている決めゼリフではないか(4p241)。自分の精神をきちんと見つめないと人生を知ることもできない。けれども、10%にとどまることはなく、100%の幸せ、すなわち、悟りも可能なのである(4p245)

ハリス氏の画像はこのサイトから
トール氏の画像はこのサイトから
チョプラ博士の画像はこのサイトから
エプスタイン博士の画像はこのサイトから
ゴールドスタインの画像はこのサイトから
ジャニスの画像はこのサイトから
【引用文献】

(1) 2014年6月21日suzuki yu「瞑想は人生を10%だけ幸せにする
(4) ダン・ハリス『10%HAPPIER』(2015)大和書房

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2015年07月06日

第25講 過去の思い出にふけることは悪いのか

改正2015年7月7日

はじめに

 ニュー・アース・シリーズでは、エックハルト・トール(Eckhhart Tolle, 1948年〜)の「いま」を生きる重要性を紹介してきた。

心は過去によって条件づけられている。罪悪感、後悔、怒り、不満、悲しみ、恨み等の許せない心は、「いま」が欠落し、過去の記憶から産まれている。内側の小さな自己」という幻想も時間概念から生まれている。ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895〜1986年)は「この内なる小さな人間はすべて記憶によって構成されている」と語った。

 けれども、今を忘れ、過去の思い出にふけることはすべて悪いことなのだろうか。

25アルカディア.jpg 『ビッグコミックオリジナル』1976年5月5日号に掲載された漫画家、松本零士氏の『戦場まんがシリーズ〜わが青春のアルカディア』には、ファントム・F・ハーロックII世と日本人技術者の台場元(トチローの祖先)が運命的な出会いが描かれている。

 ドイツ・ハイリゲンシュタット。自宅の庭で一人の失明した老人が雨に打たれながら、暗黒の世界の中で昔の青春の頃を思い出している。老人は、若き日には、ナチス・ドイツ空軍の不敗のエースパイロット、ファントム・F・ハーロック II であった。そこへ、日本から来た一人の青年が彼の前に父の形見を手渡す。それは、昔かけがえのない友人と共に遠い国へ行った筈の彼自身の照準器、REVIC/12Dであった。。。ここには、若き日の思い出にふける幸せな老人の姿が登場している。

 松本零士の父親、松本強少佐は、終戦の日までキ84 四式戦闘機「疾風」に搭乗していた陸軍航空部隊の古参のパイロットだった。戦後、多くの元軍人パイロットが自衛隊入りしたが、「敵の戦闘機には乗れない」と断固拒否し、炭焼きや野菜の行商をしながらバラックに住み自ら進んで赤貧の生活を送っていた。この「本当のサムライとしての父のイメージ」が、ハーロックのモデルとなっている(7)

知は記憶から始まった

 情報の秩序化、「知」はモノに名前を付けることから始まった。その後に数や観念が生じた(1p157)。そして、オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガ(Johan Huizinga, 1872〜1945年)によれば、最も古くからある知の先駆けは、謎かけ遊びだった(1p152)。だから、ケルト時代のアイルランドの吟唱詩人は、詩と吟唱となぞなぞ、歌を毎日一つずつ覚えなければならなかった(2p149)

 古代ギリシア人は、「記憶」を司る女神ムネモシュネとして、記憶を擬人化していた。ゼウスの妻で、芸術と学問を司る9人の女神、ミューズの母親である。ギリシア人たちは、記憶がすべての芸術と科学を産み出すと信じていた。これは正しい。文字という「表記システム」が発達する以前には、すべての情報は記憶を通じて伝承しなければならなかったからだ(1p151)。記憶の重要性が低下したのは、書かれた記録が効果ではなくなり手に入りやすくなった19世紀からのことでしかない(1p154)

驚嘆すべき記憶術

 あらゆる時代、あらゆる文化には驚くべき記憶力を持つ人々がいる。イギリスの思想史家で『記憶術』の著者、フランシス・イェイツ(Frances Yates, 1899〜1981年)は、古代ギリシア、ヨーロッパ中世、ルネッサンス時代の記憶力の偉業を集めた(2p149)

 彼女が取り上げた達人の一人にローマ時代の哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca,紀元前1年頃〜65年)がいる。セネカは2000人の名前を教えられた順でそのまま繰り返すことができた。こうした偉業は、意欲と鍛錬によって人間の記憶能力が高められることを意味している(2p149)

25ravenna.jpg かっては、世界中には、人間の能力を高めるトレーニングに関する莫大な実用的な知識があり(6)、身体やマインドの訓練がなされてきた(7)。そのひとつに、古代ギリシャで最初に考案され、古代ローマや中世、ルネッサンスにまで継承されてきた「記憶術(art of memory)」がある。必要な資料をコード化しビジュアルなイメージの形で即時に想い出せるように記憶する技だ。この術を身に付けた大家は、今では想像できないほどの暗記力を備えていた。例えば、14世紀当時、最も広く読まれた「記憶術(Fenix),1497年」の著者、ラヴェンナのピーター(Peter of Ravenna, 1448〜1508年)は、中世の教会法のすべてを記憶していることで有名だった(5)

 ラヴェンナはイタリア出身の法学者で、1472年に博士となった後、1497年にドイツに移住し、1506年にケルン大学で教会法と大陸法(canon and civil law)の教授となった人物である。著作「フェニックス」は「Phoenix seu artificiosa memoria」の題名で1491年にヴェニスでラテン語で出版されたが、増刷や翻訳を重ね、2世紀以上も影響力を持った。ラヴェンナの著作が人気があった理由のひとつは、著者自身が10歳で民法すべてを記憶できていたことがある(7)

歓びをもたらす暗記

06mihaly.jpg 古代ギリシアでは詩人だけでなく、学校の子どもたちまでもホメロスの『イーリアス』や「オデュッセイア』の長い章句を暗記するのが普通だった(2p149)。20世紀の教育では、機械的な暗記学習は情報を効率的に獲得する効果がないものとして記憶の役割が軽視されている。けれども、創造性と機械的学習は両立するし、記憶すべきものがない人の人生は貧しい(1p155)。ミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi, 1934年〜)は言う。

「私の祖父は、高校時代にギリシア語で3000行にも及ぶ『イーリアス』をギリシア語で暗記させられたが、70歳のときもまだ覚えていて、喜々としてその韻律を繰り返しては若き日々に戻るのであった」(1p154)

 そもそも、祖先の記憶をもとに情報を体系化することは、最も古代から、部族としてのアイデンティティを与えるものであった(1p151)。

人は歳を取るほど幸せになる

Sonja Lyubomirsky.jpg「人生の最良のときはもう過ぎてしまった。もはや幸せにはなれない」

 朝、目覚めたときにふとそんな想いにかられることがある(4p296)。けれども、人生の後半に対するこの思い込みは、@人生の最良の時がいつであるかを判断できる、A若い時ほど人は幸せである、という二点で誤っている(4p297)

 カリフォルニア大学リバーサイド校で心理学を研究するソニア・リュボミアスキー(Sonja Lyubomirsky)教授は、ポジティブ感情が経験されるピークが、64歳、65歳、79歳にあることが最近の三つの研究から明らかにされたと指摘する。意外なことに、青春時代は人生の最も明るい時期ではなく、最もネガティブな時期なのである(4p308)

25carstensen laura.jpg それでは、歳を取るほど幸せになるのはなぜなのだろうか。スタンフォード大学高齢化センター(Stanford Center on Longevity)を設立したローラ・カーステンセン(Laura Carstensen)博士によれば「残りの時間が限られていることに気づきはじめると人生に対する見方を抜本的に変え、限られた時間を本当に人生で大切なことに注ぐようになるからだ」と指摘する(4p309)。確かに、残された人生の時間が少ないとの意識が高まれば、社会的なスキルの向上とあいまって、感情をもっとコントロールし、幸せになろうという気持ちになるであろう(4p310)

人は過去をバラ色とする

 人生を振り返ってみればわかるが、人間には、過去の出来事や時代を実際にあったことよりも楽しくポジティブなものとして偏って思い出す傾向がある。この現象を「バラ色の記憶」と呼ぶ(4p298)

 例えば、ある旅行を体験を「する以前」、「している間」、「した後」の三点から分析した研究によると、実際に旅の間に憂鬱な体験をしていても、旅から帰った後には、そうした経験をすばらしいものとして想起することがわかった。同じように、多くの人は、恋愛や昇進時にかなりのストレスや失望感を味わっていたとしても、過去の想い出をバラ色のものとして思い出すのである(4p299)

 ギリシア神話のムネモシュネの長女、クレイオは歴史を司り過去の出来事を秩序立てて説明する責を負う女神であった。ミハイは「過去を思い出すことは非常に楽しい過程だし、歳を取ってから重要になる」と語っている(1p166)

ネガティブな過去にこだわることが問題

 過去の体験を思い出すことで不幸になることもあることも事実である。米国の大学生とイスラエルの成人を対象にして過去をどう思うかを調べたソニア教授の研究によれば、ネガティブな過去の体験を思い出す人ほど自分を不幸だと考えることがわかったという。

 ソニア教授はこれを「預かり効果」と「対比効果」によって分析する。 例えば、1年間のすばらしい海外生活をしたとしよう。経験という「預金口座」には貯金がたまり生活が豊かになる。これを「預かり効果」と呼ぼう。一方、帰国後の経験がその海外での暮らしに比べて満足できないとしよう。すると海外と比べて不満がまる。そこで、これを「比較効果」と呼ぼう(4p300)

分類預かり効果対比効果
いま幸せと感じる過去の幸せな経験を思い出す過去のネガティブな経験から今の人生がいいと考える
いま不幸だと感じる過去の不幸な経験を思い出す過去のポジティブな経験から今の人生が悪いと考える

 25Pennebaker.JPGテキサス大学の心理学者、ジェームズ・ペネベーカー(James W. Pennebaker,1950年〜)教授は、人生で最も悲惨であった、あるいは、つらかった経験を書き記させるという実験をやってみた。その結果、トラウマとなっている過去の出来事について心の奥底にある感情を書けば心も体も健康になることを見出した。これは『筆記療法』として知られている。その秘密は、押さえ込まれていた感情がカタルシスを感じ、解放されるからではない。書くことそのものにある。言語とは非常に構造化されたものである。頭の中に入り込んでくるとりとめないイメージや想念が書き記すことによって体系化されてまとまり、理路整然としたひとつの物語になるのである。そうすれば、苦痛を伴う強烈な混沌としたイメージや感情もはるかに対処しコントロールしやすいものとなる。こうしてトラウマを理解し受け入れられるようになるからだ(3p189〜190,4p207〜208)。つまり、過去の最も不幸だった時は、それを体系的に分析し理解すればもっとも幸せになれる(4p304)

思い出にふけるほど幸せになれる

 一方、ソニア教授らの実験によれば、結婚式や試合で優勝したといった過去の幸せな時は、それを分析せずに、録画したビデオを再上映するように味わい、再現することで古きよき時代から「預かり効果」を得られる(4p304)。ソニア教授らは、幸せな思い出や思い出の品々(写真やお土産等)のリストを作り、週に2回、ポジティブな思い出にふけるという実験をしてみた。すると、定期的に思い出にふけった参加者たちの幸せ度は著しく高まった。さらに、引き出される記憶が鮮明であればあるほどいっそう幸せ感を味わったのである。さらに、最近の研究からは、ポジティブな思い出にふけった後には、29%の人が新たな視点を手にして、現在の問題について自分なりの考察ができるようになったと報告し、19%がポジティブな影響があったとし、18%は「現在から逃れることができた」と報告している。影響がなかったと述べたのはわずか2%だけであった。しかも、回答者の多くが「過去の幸せであった出来事やイメージを思い出せばだすほど現在の生活を楽しめるようになった」と報告している(3p228)

 実際、老人は思い出にふけることに時間を費やせば費やすほど、よりポジティブとなり、より道徳的となることが知られている(3p227)。すなわち、古き良き時代は、比較分析するのではなく、思い出すときに最も幸せになれるのである(4p304)

人は思い出があれ生きていける

 ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の最後の場面で主人公にこう語らせている。

 「たったひとつでもいい。心から大切だと思える思い出があれば、自分の人生を深いところで肯定できるはずだ」。

 オーストリアの心理学者、ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl, 1905〜1997年)も、こう言っている。

「未来は来るかこないかわからない不確かなものである。現在は、またたくまに過ぎ去るはかないものである。けれども、心を込めて生きられた過去は何よりも確かなものである。それははかなく消えゆくものではなく時間の座標軸に永遠に刻み込まれ続けるものなのである」(8p143)

 13viktor.jpg思い出にふけることは、絶望的ないまの瞬間から逃れることも可能にする。ヴィトール・フランクルは、著作『意味の探究』において、アウシュヴィッツの強制収容所で、どのように人々を助けたのかについても書いている。

 作家や芸術家には、まだ完成していない本や作品を心の中で完成させるようアドバイスをした。そして、人々の心の中で愛する人々のイメージを生き生きと保つように努力させた(1p149)。懐かしい思い出は、美化され、新たな物語になっていく。細かい出来事、それも、さして重要ではない小さな出来事を思い出して、その思い出に泣き崩れる人もいた。過去に逃げ込むことは、収容者たちが虚無感と悲しみから逃げ場を作ることに役立っていたのである(2p150)

【引用文献】
(1) ミハイ・チクセントミハイ『フロー体験喜びの現象学』(1996)世界思想社
(2) ジェームズ・レッドフィールド他『進化する魂』(2004)角川書店
(3) ソニア・リュボミアスキー『幸せがずっと続く12の行動習慣』(2012)
(4) ソニア・リュボミアスキー『人生を幸せに変える10の科学的な方法』(2014)日本実業出版社
(5) John Michael Greer, The Long Descent: A User's Guide to the End of the Industrial Age, New Society Publishers, 2008.
(6) John Michael Greer, The Wealth of Nature: Economics as if Survival Mattered, New Society Publishers,2011.
(7) ウィキペディア
(8) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書

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2015年06月24日

第17講 ラテンの生き方に学ぶ

はじめに
 
 このブログ「幸せ探偵」は、経済成長に依拠しない国家や社会の有り様を、個人レベルの「幸せ」という切り口から捉え直してみたいと思っている。
 
  「幸せ」になるための条件とは、マネーやモノではなく、ソニア・リュボミアスキー教授が言う、感謝して生きる。他人と比較しない。人に親切にする。楽観的 に生きる。豊かな人間関係を育む。やりがいがあり没頭できる仕事や経験を増やす。人生に目標を持ち、それに向けて努力する。運動や瞑想を行うことといった 取り組みなのであった。17yagi.jpgこうしたポジティブ心理学の観点からみると、まさに、ラテンアメリカは、それを地で行っていることがわかる。八木啓代氏の名著を紹介してみよう。
 
世界で一番幸せなラテンの人々
 
「世界価値観調査(WVS=World Values Survey)」というものがある。ミシガン大学を中心とする社会学者たちが世界70カ国以上の男女1000人を対象に、5年毎に面接によるアンケート調 査を行い、人々の意識変化を追う国際プロジェクトだ。2005年度の結果は、1位がコロンビア、2位がメキシコ、3位がグアテマラで、日本は15位であっ た。
 
「地球幸福度指数(HPI=Happy Planet Index)」というものがある。ロンドンに本部があるシンクタンク、新経済財団が143カ国で行なった調査で生活の満足度と環境に対する負荷から算出し たものだ。環境負荷を重視しているため先進国には不利だが、この結果も1位がコスタリカ、2位がドミニカ共和国、3位がジャマイカ、4位がグアテマラと中 米諸国が並び、日本は75位、米国は114位であった。治安が悪いとされ、経済格差も激しいラテンアメリカ諸国が最も幸せだという結果が出ている(p8〜10)
 
内戦よりも多くの自殺者を出す日本
 
 日本では1997〜2009年までの13年で40万人近くが自殺によって命を落としている。しかも、公にされている自殺者には身元不明の自殺と見なされる 死者はカウントされていない。いき倒れや無縁死は年間に3万2000人にも及び、その死因には餓死や凍死が目立つ。豊かなはずの日本には、心が冷えるよう な孤独と貧困がある(p12〜14)
 
 一方、コロンビアの内戦は、政府、共産主義ゲリラ、極右ゲリラが麻薬を絡めて三つ巴で争ったものだった。けれどもその死者は1964〜2000年で20万 人である。熾烈を極めたエルサルバドルの内戦の死者も10年で7万人。イラク戦争でのイラク人の死者も2004〜2008年で8万5000人である (p15)。日本は自殺によって戦争や内戦以上の死者を出している(p16)
 
日本の自殺は世間体を気にする閉塞感によるところが大きい
 
 無縁死とされる3万2000人のすべてが天涯孤独で身寄りも友人もないはずがない。本当は家族がいる。けれども、心理的な理由から頼れない。実の子どもよりも世間体の方が重要だという日本の価値観に問題がある。今の日本の閉塞感は不況だけが原因ではない(p107)
 
ラテンアメリカ人の幸せな人生観に学ぶ
 
 1989年にアルゼンチンが5000%ものハイパーインフレを経験したように(p104)、ラテンアメリカ諸国は、日本とは比べものにならない超格差社会であり、政治や経済も不安定極まる(p17)。キューバを除けばラテンアメリカ諸国の国家によるセーフティネットは皆無に近い(p83)。にもかかわらず、明るいラテンアメリカから帰国すると日本の閉塞感に愕然とすることが良くある(p22)。ラテンアメリカの人々は、世界で最も「幸せ」なのではなく、ただ世界で最も「おめでたい」だけかもしれない。けれども、幸せとは煎じ詰めれば主観だ(p11)。無格差社会・無縁社会・経済危機と言われる時代に、どのような状況でも幸せに生きる智慧を持ち、したたかに生き抜いているラテン人の生き方から学ぶべきことは多い(p24)
 
欠点をけなすのではなく相手を褒める文化
 
 ラテンアメリカでは、見ず知らずの女性に対しても甘い言葉、ピローポ(投げ言葉)がかけられる。ピローポは口説き文句ではなく、挨拶の一貫としての褒め言 葉にすぎない。とはいえ、ラテンの子どもたちは、子どもの頃から、周囲の大人が女性に対してピローポを投げているのを見て育つ。14〜15歳になれば、女 性をエスコートする側に回る(p27)。要するに、できるだけ相手の良い点を見つけ、まず相手を誉めるという文化がラテン文化の神髄にある(p28〜29)
 
毎日、愛を表現することで幸せ度がアップする夫婦関係
 
「素敵な服だね」といった馬子にも衣装と取られかねない発言はしない。「その服を選んだセンスは素晴らしい」とその人間の内面を誉める。そして、決して他人と比較しない(p32)。 「うちの奥さんほど優しくて賢くて私のことを思ってくれている素晴らしい女性はいない。彼女のような人に巡りあえた私はほんとうに幸せだ」と人前で堂々と言う。ここまで言われて不愉快になる恋人や奥さんがいるであろうか(p35)。長年連れ添った夫婦や親兄弟ですら、言葉なくしてはわかりあうことはできない(p178)。また、話をじっくりと聞き、自分がどれほど相手を大切に思っているのかを日々伝えることに余念がない(p43)
 
 しかも、誉めることは簡単そうに見えて実は容易ではない。まず、相手を観察しなければならない。プロであるラテンの男たちは実によく相手を観察している(p31)。 ピローポはお世辞とは違う。お世辞とは心にもないことを言うこと。すなわち、事実ではないと思っていることを相手の気を引くために口にする嘘である。けれども、ピローポは「心にもないこと」を言っているのではなく、愛情をもって相手をよく観察し、気づいた良いところを口に出して評価しているのである(p178)
 
 米国の心理学者ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842〜1910年)は「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」と唱えた。毎日、愛している、あなたが大事だと言われ続ければ、愛情が湧き、絆が深くなり幸せ度がアップするはずである(p36)。共に暮らすパートナーを褒めちぎることによって、ラテン系の夫婦は生涯現役を保っているのである(p43)
 
生涯男女であり続けるラテンの夫婦
 
 日本では結婚したとたんに多くのカップルがパートナーと対等の男と女ではなく主人ととの妻になってしまう。さらに「愚妻」「粗大ゴミ」といった表現がある(p38〜39)。けれども、ラテン諸国では、人前で自分のパートナーをおとしめるようなことを口にする男性や女性がいたらその場でアウトである(p42)。 あなたは素敵だ、愛していると言われ続ければ、互いが男と女であることを意識せざるをえない。ラテンでは男性も女性も生涯現役で「枯れる」という発想はない(p36)。ラテンの女性は70歳になっても80歳になっても現役の女を捨てることはない。お母さんもお父さんの妻として魅力的な存在で、愛情深い夫婦関係には子どもといえども入り込めない(p54)。 女性は自分が美しくないと思えば美しさを失う。家事も無表情で食事を食べるだけであれば、料理や掃除をしようという気分もだんだん萎えてくる。けれども、たとえ簡単なメニューでも作った料理が誉めてもらえればまた作ろうという気になるではないか(p46)
 
エレガントな別れ
 
 日本では結婚した以上は添い遂げるべき。よほどの理由がなければ離婚すべきではない。という意識が強い。壊れるべきが壊れたことに関しても、自分は悪くな く、相手が悪いといことをアピールしがちである。けれども、ラテンアメリカでは、これをただ「愛情が冷めた」という一言ですましてしまう。相手を罵るわけ でもなく、自分を卑下するだけでもなく、淡々と愛情のバランスが壊れた事実を説明する。親や友人、周囲を巻き込んでの罵りあいの別れにはならないため、分 かれた男女が少し時間が経つと、良き友人として普通につきあうケースも多い。別れた相手を非難するのはエレガントではない。そこには、自分を大切にするラ テン人たちの大きな知恵がある(p96〜98)
 
痛みを共感しあう癒し
 
 失業とは職場から「あなたは不要だ」と言われるようなものだ。だから、かなりの喪失感を伴う(p86)。 日本では「同情されたくない」という言葉がよく耳にされる。たしかに、同情という感情には上から目線が見え隠れする。また、「どんな言葉をかけていいのか わからない」という理由で苦しんでいる人を避けてしまう傾向がある。けれども、共感は違う。本当に悲しいときに必要なのは、言葉ではなく同じ目線で一緒に 悲しんでくれる、すなわち、完全に同等の立場で相手の痛みを思いやる。同じ痛みをわかちあえないとしてもそれを理解して感じようとする気持ちである。ラテ ン系の人々の豊かな人間関係の根底には、この共感力の高さがある(p88〜90)
 
生活を助け合う友人や家族の絆
 
 日本ではお金がないために結婚できないと考える人が多い。だが、ラテンアメリカでは考え方は逆になる。お金がないからこそ、就労状況が不安定だからこそ、結婚することで二人分の収入で生活費をシェアしていこうとする(p79〜80)。日本では失業すると直ちにホームレスになってしまう。2か月も家賃を滞納すれば出て行かざるを得ない。そして、ネットカフェ難民になっていく。だからこそ、友達や家族を頼る。友だち同士のルームシェアはごく普通に行われている(p82〜85)
 
肌のふれあいによるスキンシップの文化
 
 ラテン系の国々にはキスとハグの文化がある。ふれあうこととは、相手の存在を「肌」で感じることだ。例えば、とてもつらいときには、百の言葉よりも黙って ハグされたほうが気持ちは伝わる。一方、日本には親子や兄弟姉妹の間ですら「ふれあう」文化がない。この意志疎通のやり方を持たない日本人は感情を伝える ことが下手だと言えよう(p68〜69)
 
 ハグには深い意味はない。ハグのある文化とは、男女の間にも、恋愛以外の関係があることを日々確認する文化でもある。オール・オア・ナッシングではなく、 白と黒との間のグレーゾーンが幅広く、人間関係が豊かだと言える。一方、ハグがない日本では、異性同士でキスをしたり、抱き合っていると、そういう関係を 意味してしまう。そのため、部下の女性を触るだけでセクハラで訴えられたり、スキンシップといえば「エッチすること」しか連想できない。家庭内暴力や引き こもりが起きたり、大人になってからも、さほど好きでもない相手とのセックスに走ってしまうのも、子どものことからスキンシップにかけ、素朴なふれあいの 愛情を渇望するためなのではあるまいか(p69〜74)
 
音楽と踊りを楽しむ
 
 クラシックとして知られる「セレナーデ」は本来、男性が女性を称えるために奏でる音楽である。女性の家の窓際で愛を告白するために歌を歌ったり楽器を奏で たりする中世からの伝統だった。スペインやフランスでははるか昔に廃れてしまったが、ラテンアメリカでは本来のセレナーデの伝統がまだ存在している。 キューバの首都ハバナでもわずか30年前ぐらいまではそうした伝統が見られたという(p120〜121)。 日本では芸術家といっても尊敬されず胡散臭い職業と思われている。けれども、ラテンアメリカでは芸術家の社会的な地位は高い(p156)。 人を楽しませたり、感動を与えることが立派な仕事として認められているからだ。いくらのお金になるのかという市場主義的なものさしが評価基準となる日本と は異なり、食料やマネーを溜め込むだけのアリ的な人生よりも、キリギリス的な人生のほうがはるかに豊かなものだと考えられている(p158)
 
 働くのは最小限でいい。むしろ、働きすぎないほうがいい。この感覚がラテンアメリカに根強いのは、温暖な気候に恵まれ、食料が豊かで食料備蓄に意味がない こともある。イソップ童話が生まれたギリシアも温暖な地中海性気候である。そして、古代ギリシアでも歌うことは教養と見なされていた(p162〜163)
 
家族、恋人、友人の他者との中に居場所がある
 
 ラテンは、いいかげんで、女たらしで、享楽的。食べることや芸術を愛して、人生を楽しむというイメージも強い(p21)。 ラテンの人々が常に明るくその社会を生き抜いているのは、人生の主軸をマネーやモノにおいていないからだ。家族や恋人、友人といった他者との関係の中に自 分を位置づけ、自分の居場所を見出し、愛する他者とのふれあいながら生きているからである。ラテンの人々が音楽を大事にするのも、踊りを愛するのも、他者 との関係性をつなぐための潤滑油だからである(p108)。人間、大半のものを失ったとしても、命さえあれば何回でもやり直せる。やり直せると思っている限り、その人は不幸ではない。これがラテン人の人生観である(p111)
 
セロトニンが活発に分泌されるためネガティブにならない
 
 キューバは平均寿命が70歳代後半という長寿国である。けれども、キューバ人たちの食生活は健康的な長寿食ではない。ラードであげた豚肉や鶏肉がいちばんの好物で野菜もあまり食べず、アルコールやタバコ、砂糖が大好きである(p169)。にもかかわらず、キューバ人たちが健康なのは、予防医療システムのためだけではない(p171)
 
 自律神経失調症や鬱病は脳内物質セロトニンが関係する。セロトニンは脳内の縫線核のセロトニン神経で作られ、快感を刺激するドーパミンと恐怖感や緊張感を 刺激するノルアドレナリンとのバランスを保っている。すなわち、セロトニンが不足すると心のバランスは崩れる。抗鬱薬として知られるSSRIもセロトニン が再吸収されないようにすることで血中のセロトニン濃度を高める薬である。
 
 このセロトニンを研究する東邦大学医学部の有田秀穂教授によれば、セロトニンは以下の条件で活発に分泌されるという。
 
@日光を浴びる、Aリズムのある動きとほどよく集中して行なう、B肌のふれあいによるスキンシップ、C喜怒哀楽を抑えず素直に表現する、D共感力を高める、Eきちんと食事を取る。
 
  まさに、ラテン文化そのものではないか。事実、有田教授の実験によれば、わずか2曲、10分程度、サルサを踊るだけでセロトニンが大量に分泌され血中のセ ロトニン濃度が一挙に上昇したという。太陽のもとで歌と踊りを愛するラテン文化は、セロトニン大量分泌文化だったのである(p173〜176)
 
【引用文献】
八木啓代『ラテンに学ぶ幸せな生き方』(2010)講談社α新書
八木氏の画像はこのサイトから
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2015年06月22日

第16講 ハップンスタンス理論

はじめに

 このブログ「幸せ探偵」は、とにかく経済成長が必要である。そのためには、戦火を交えることも辞さないという国家の有り様を、個人レベルの「幸せ」という切り口から捉え直してみたいと思っている。確かに、世界が貧困や戦争に苦しめられ、多くの人々が絶望の中にいるとき、自分だけ幸せになって何になるという見解もあろう。けれども、ソニア・リュボミアスキー教授は、こう述べている。

「たとえ全世界の問題が解決するまで自分が幸せにならないと先送りしたとしてもそれは誰のためにもならない。人は幸せになればなるほど、健康になり、生産的で創造的となり、よりいっそう他人に援助の手を差し伸べるようになる。したがって、まず自分が幸せになることが結果としてまわりの人たちも助けることになるのである(5p249〜250)

 この見解は正しい。第14講では「どれだけマネーを儲けたかよりも、どれだけ多くの人たちを幸せにできたかに人生の価値があると考える若者が増えている」という諸富祥彦明治大学教授の意見を紹介した。第15講では「マネーを持っている人よりも、周囲の人から必要とされている人間となる夢を持つことが幸せの要件である」ことが見えてきた。

 他者に尽くし、他者を幸せにすることが幸せにつながるのであれば、これは確実に「経済至上主義」のパラダイムを超えている。

成功者の80%は偶然で成功していた

 幸せになるためには、何が重要なのであろうか。努力だろうか。能力だろうか。世渡りのスキルであろうか。前向きに考える姿勢、ポジティブ・シンキングだろうか?(2,4p50)

16krumboltz.jpg スタンフォード大学のJ・D・クランボルツ(John D. Krumboltz,1955年〜)博士は、数百人のビジネスパーソンのキャリアを分析してみた。すると、成功と幸せを勝ち取った人たちの80%が予期しない偶然によるもので、自分一人で積み重ねた努力によるものは20%でしかないことがわかった(2,4p55)

幸せになる人はオープンマインドで楽観的

 クランボルツ博士が気づいたように、成功して幸せになっている人は、確かに様々なラッキーな出会いや出来事に恵まれていた(2,4p56)。けれども、彼らは、そうしたラッキーな偶然が起きやすい価値観、開かれた心を持ち、ラッキーが訪れたときにすぐに具体的に行動していた(2,4p58)。逆に言えば、ラッキーな出来事や出会いがいつ起きてもいい心の準備ができていたことから、ラッキーな偶然が起きていることになる(4p58)

 クランボルツ博士は、偶然をチャンスに変えるためには、次の5つの鍵があると指摘する。

@好奇心
 どうせ無理と決めつけず、何か心にひっかかるものを大切にかかわってみる。

A粘り強さ
 気乗りしない仕事であっても心を込めて取り組む。情熱・パッションが必要である(2,4p59〜60)。たとえ気乗りがしないことでもはまってみることが天職にめぐりあうことにつながる(4p61)

B柔軟性(オープン・マインド)
 クランボルツ博士の調査によれば、18歳のときに考えていた職業に就職している人は2%にすぎない(2,4p63)。「自分にはこの仕事しかない」「自分の結婚相手はこんな人だ」と決めつけていると、それ以外の可能性や選択肢に心を閉ざしてしまう(2)

C楽観性
「ダメでもともと。とりあえずやってみよう」という肯定的な人生観がなければ、目の前のチャンスをみすみす逃してしまう。

Dリスクを恐れない
 楽観的な生き方とは、リスクを恐れない生き方でもある。リスクのないチャレンジ等ありえない。リスクを恐れすぎていると、その人の運命は凝り固まってしまう(2,4p65〜66)

 要するに、「こうありたい」「こんな人生を生きてみたい」という深い心の願い、まっすぐな志が重要なのである。幸せを導く偶然、ラッキーな出来事や出会いは、それにふさわしい言葉、表情、行動をとっているときに、必然的に引き寄せられる(2)。クランボルツ博士は、「人生が成功するかどうかは、様々な偶然を活かせるかどうかで決まる」とプランツ・ハップンスタンス理論(計画された偶然性理論)を提唱する(2,4p54)

ポジティブなオーラ〜小さな幸せに感謝して生きる

 私たちの日常は小さな、偶然のつながりや出会い、すなわち、ご縁によって成立している。小さな幸せを大切にして、それに感謝して生きることで人はもっと幸せになれる。そして、幸せの追い風が吹いて来ることは間違いない(4p75〜78)

 要するに、幸せをつかめる人とつかめない人との違いは、巡ってきたチャンスを捉まえる心構えがあるかどうかにつきる(4p23)。世の中には、幸せのオーラを出している人がいる。「病は気から」と言われるが、「幸せも気」なのである。幸せの波に乗るためには、幸せの気を出す必要がある(4p18)

 クランボルツ博士は「偶然」は引き寄せることができるだけでなく、計画的に起こせるものだとも指摘する(4p79)。ただし、出会いやつながりやご縁を育むには、エゴを消すことが必要である。相手を自分のために利用しようという気持ちがあると、それは必ず相手にも伝わる。そんな人を前にすれば誰もが一歩引いてしまうに違いない。何かワクワクするという自分の気持ちにしたがって行動するだけでよいのである(4p83)

フローで生きればシンクロニシティが起きる

 プランツ・ハップンスタンス理論は、フロー理論と重なるところがある。「幸運」や「ツキ」は単なる偶然ではなく、こちらの心の持ち方ひとつで引き寄せられる。これまで「幸運」という言葉で片付けられてきた捉えどころのない現象に初めて科学的なメスをいれたのが、フローの概念である(1p6〜7)。心理学者チャーリーン・ベリッツとメグ・ランドストロムは、フローがどのように機能するのかを知るため、弁護士、主婦、教師、牧師、ダンサー、学生等、50人もの多様な人々にインタビューを行う(1p15,4p91)。その結果、おしなべて開放的であり、自分に誠実に正直に生き、かつ、常に感謝の気持ちを忘れない人々であるという共通項が見えてきた(1p13)

 テレビを付けた瞬間に自分の仕事に重要なニュースが流れ込んでくる。バス停に着いた瞬間にバスが到着する。交通渋滞で15分遅れてレストランに到着するとちょうど約束した友人がその時間にやってきた。コーヒーを飲みながら気になっている人のことを思い浮かべていたら、目の前にその人がいた。こうした意味のある偶然をシンクロニシティと呼ぶ(4p89)

 心を開き、前向きに物事や他者を信頼すれば、シンクロニシティが至る所で出現し(1p14)、すべてのことがあらかじめ仕組まれていたかのように充実した人生が送れる(1P10)。一方、不信にかられて恐れを抱き、なにごともコントロールすればするほど、フローが減少し、シンクロニシティも起こらず、日々の生活は障害と要求不満だらけとなっていく(1P14)

 フローを達成している人々の行動パターンから、チャーリーン・ベリッツとメグ・ランドストロムは、以下の9つの心の持ち方の原則を抽出する。

 @物事に真剣にかかわる
 A自分に素直になる
 B勇気を持つ
 C情熱を忘れない
 Dいま、ここに生きる
 E心に壁を作らない
 F物事をあるがままに受け入れる
 G前向きに生きる
 H信頼する(1p15,4p91)

 そのうえで、鍵はシンクロニシティにある心安らかに生きるためには、凍えそうなヒマラヤの洞窟でマントラを唱えるヨーガ行者になる必要はないと示唆する(1p15)

 表を見て頂きたい。ハップンスタンス理論とフロー理論がほぼ重なることがわかるだろう。

キーワードハップンスタンス理論フロー理論
興味心と真剣さ好奇心物事に真剣に関わる
情熱と粘り強さ粘り強さ情熱を忘れない
心を閉ざさす素直に生きるオープン・マインド
自分に素直になる
心に壁をつくらない
物事をあるがままに受け入れる
信頼して楽観的に生きる
楽観性
リスクを恐れない
前向きに生きる信頼する
いまの瞬間を生きる いま、ここに生きる

 本当の幸せは自分のミッションに取組み魂が歓ぶ日々を送ることで得られる

 「この仕事が成功すれば幸せになれる」「この人と結婚すれば幸せになれる」
人はとかく目標を設定して、それに近づくことが幸せになる方法だと考える。けれども、そうした考え方では「本物の幸せ」はいつまでたっても手に入らない(4p158)

 高い地位に就いたり、多くのマネーを稼ぐよりも悔いのない人生、魂が喜ぶ毎日を生きることが、間違いなく重要である。いくら高い社会的な地位が得られたり、いくらマネーを稼いでも、それはあの世には持っていけないからだ(4p150〜151)

 本当の幸せは、自分が大切にしたい何かを大切にしたり、愛する人のために尽くしていたり、自分の人生で成し遂げるべき「使命」に取組み、我を忘れて夢中になっているときに、「ああ、私はいま幸せだ」と思えるものなのである(4p158)

幸せな人は暗黙の人生のシナリオを信じている

 人は偶然のようにしか思えない出来事をとおして「運命の人」と出会ったり、「天職」ともいえる仕事に出会ったりする。そして、知らず知らずのうちに運命の道へと誘われていく(4p164)。そして、人生の様々な出来事が単なる偶然ではなく、必然であったと気づくとき、人生にはまるで「暗黙のシナリオ」があり、そのシナリオを気づかずに生きているのではないかという不思議な感覚に捉われる。この人生を生きることで、魂に刻み込まれた「私の人生に与えられた使命」を果たすことができる。私がこの世に生れてきた意味と目的はここにある。心の深いところが満たされ、真に幸せな人生を生きている人は、誰しも同様の人生の「必然の感覚」を持って生きている(4p93)

ネガティブ思考は習慣である

 このように幸せになろうと思えば誰もがなれる。けれども、口では「幸せになりたい」のに、「自分は不幸である」という殻に閉じこもっている人が多いのはなぜであろうか。それは、幸せになるのが怖く、今のままでいる方が楽だからである(4p31)。幸せになると本気で決意しても失敗すれば傷つく。傷つくくらいならば、今の不幸のままでいい。いっときの幸せを手に入れてもそれが長続きするかどうかわからない。それならば最初から幸せを手に入れなくてもいいと考えてしまうのである(4p32)

16James Allen.jpg イギリスの哲学者ジェームズ・アレン(James Allen, 1864〜1912年)は「人間の心は庭のようなもので、思いは種子のようなものだ」と述べた(4p23)。何を考えるかがもたらす影響は大きい。昔の日本人も「言葉には物事を変える力がある」ことに気づき、これを「言霊」と呼んでいた(4p24)。それでは、なぜ言霊が機能するのであろうか。人間の脳にはいつも用いている「言葉」を頭の中で勝手に再生する「自動思考」という機能がある。ネガティブな言葉を用いる習慣がついていると、無意識でも自動的に「どうせ・・・〜できない」というネガティブな言葉が出てきてしまうのである(4p33)

いま、ここを全力で生きてみる

「今のままの自分」でいることは楽である。そこで、人は、変わられない理由、いまのようにしか生きられない理由を自分に対して言い訳をする(4p40)。いつまでも不幸にとどまり、人生を変えられない人は、自分の不幸を「過去」と「他人」のせいにすることが多い。けれども、過去も他人も変えることはできない。変えることができるのは、「いま」と「自分」だけである。自分の不幸の原因を過去や他人のせいにしていることが、人生の流れを淀ませ停滞させている最大の障害物なのだから、このブロックを解除しない限り、いい人生の流れをつくりだすことは難しい(4p45)

16Fritz Perls.jpg 1960年代に米国で活躍したカウンセラー、フレデリック・パールズ(Frederick Perls, 1893〜1970年)博士は「過去への捉われと未来への空想を口にすることが、いまの自分を変えずにいるために張り巡らした最大のバリアーだ」として、過去や未来に逃避するのではなく、「いま、ここを生きる」ためのゲシュタルト療法を産み出した(4p42)

 そして、『ゲシュタルトの祈り』という詩を作っている。

 私はあなたの期待に応えるために、この世に産まれてきたわけではない

 あなたも、私の期待に応えるために、この世に生まれてきたわけではない

 あなたはあなた。私は私。

 もし、ふたりが出会うことがあれば、それはそれで素晴らしいこと

 もし、ふたりがふれあうことがなくても、それはそれでいたしかたのないこと(3,4p44)

 あなたは、他の誰とも違うかけがえのない存在である。そして、私も他の誰かと交換不可能なかけがえのない存在である(3)。過去への捉われや未来への空想、他人への責任転嫁を止めよ。他人に期待に応えることも止めよ。そこからしか自分の人生は始まらない。なればこそ、私は私のことをして、あなたはあなたのことをするとパールズは唱える(4p47)

人生のミッションに気づくには深い智慧にアクセスする必要がある

13Mindell.jpg 自分の人生のミッションに気づくには、何か気になる出来事や夢を意識することが第一歩となる。けれども、それがどのような意味を持つのかを理解するには、意識の次元を超えて物事を見ることが必要である(4p177)。アーノルド・ミンデル(Arnold Mindell, 1940年〜)は、日常経験の背景には、大地や宇宙とつながり、時間や空間にも束縛されず、すべてを知っている「深い智慧」があると考える(4p180)。ミンデルはこれを「プロセスマインド」と呼ぶが、スピリッツ、内なるタオイストの賢人、システムマインド、万能の智慧、仏性、慈悲の心ともよばれる(4p120,180)

 アメリカやオーストラリアの先住民、とりわけ、シャーマンたちは地図を持たずにどの方向に進めばよいかがわかり広大な原野を縦横無尽に歩くことができた。それも「ミンデル」の言う「プロセスワーク」で使うスキルを身に付けていたからなのである(4p182)

【引用文献】
(1) チャーリーン・ベリッツ、メグ・ランドストロム『パワー・オブ・フロー』(1999)河出書房新社
(2) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(3) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(4) 諸富祥彦「自分に奇跡を起こす心の魔法40」(2013)王様文庫
(5) ソニア・リュボミアスキー『人生を幸せに変える10の科学的な方法』(2014)日本実業出版社

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2015年06月21日

第15講 贈与と仕事に向かう脱消費社会

 このブログ「幸せ探偵」の目指すものは「脱成長」、経済成長至上主義という国家や社会の有り様を、個人レベルの「幸せ」という切り口から捉え直してみようという試みた。そのキーワードのひとつに「フロー」がある。

 2015年06月12日「第6講 面白きこともなき世を面白く住みなすものは心なりけり」で書いたように、米国の心理学者ミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi, 1934年〜)によれば、「娯楽=快、労働=苦」という図式が崩壊し、仕事そのものが幸せになる可能性があるのであった。

 さて、現代ほど、幸せが切実な社会問題となっている時代はない。ローマやベネチアが滅んだのも、その根本原因は、人々が幸せの物語を見失ったからだった(p230)。電通チーム・ハピネスを立ち上げた袖川芳之は警告する。幸せの研究は、社会学、心理学、哲学がベースとなるだけではない。人々の消費ニーズを調査するのがマーケティングだが、経済学とマーケティングをもつなぐ(p228)。今回は、マーケティングや人々の消費動向のシフトから幸せを探してみよう。

1万ドルの所得まではモノを持つことで幸せになれる

15Bauman.jpg モノの豊かさと幸せとの関係について、ポーランド出身の社会学者、ワルシャワ大学のジグムント・バウマン(Zygmunt Bauman, 1925年〜)名誉教授は「一人当たりのGDPが一定水準に満たない場合は不幸だが、一定水準を超えるとGDPと幸せ度との間には関係が見られなくなる」と述べている。実際、各国の幸せ度調査の結果を見ても、マネーとの相関があるのは1万ドルまでで、それを越すと相関がみられなくなる(p21)

 それはなぜか。マズローの欲求段階説によれば、幸せになるためには、まず生理的要求が満たされなければならない。そして、飢えや寒さ、病気や重労働といった不快感は、ある程度GDPが増えれば多くの国民が逃れることができる(p23)

 けれども、生理的欲求を満たすことが幸せであるというモデルは、豊かな社会には当てはまらないからだ。このことは、日本のようにすでに豊かになった社会ではGDPがいくら増えても、それが直接幸せにはつながらないことを意味している(p21)

「モノの所有=幸せ」という物語は高度成長期には成立する

 そこで、バウマン教授は「近代社会では、幸せを産み出すと期待される商品を消費することが、幸せの基本である」と述べた(p25)

 幸せを産み出すと期待される商品とは何か。それは、「こうした商品を買えば幸せになるという物語」だ(p27)。「モノを持つこと=幸せ」という物語は、日本だけでなく、欧米やアジア等、どの社会においても、近代の成長期には成立する(p29)

 日本における消費の物語は二段階からなっていた。戦後から1980年までの家族消費の時代とそれ以降のブランド消費の時代である(p29)

最初の家族消費の物語には三つの特徴がある。

 第一は、家族が一緒にテレビを見る、家族でクルマをドライブする、デパートに買い物に行くというように、個人ではなく家族が共同で行う消費であることだ(p30)

 第二は、結婚し、住宅を購入し、家電新製品を買い続け、子どもを学校に入れ、子どもが結婚するのを見届けて死ぬというように、長期にわたる物語であることだ(p30)

 第三は、この物語がCMによって作られていたことだ(p32)

 家族消費の物語は、高度成長期には可能だった。稼ぎ手である男性の収入があがり、幸せを産み出すと期待される商品を買い続けられる期待があったからだ(p30,34)

 高度成長時代に作られた遊園地の象徴が、1952年に開園した千葉の「八津遊園」である。ジェットコースターと観覧車、メリーゴーランドとコーヒーカップを備えていたが、1982年に谷津農園はひっそりと閉園した。幸せな家族の物語がブランド消費の時代へとシフトしたからである(p33)

 家族消費の物語が終わると、ブランドを買い続ければ個人は幸せになれるという新たな物語が主眼となった(p44)。例えば、クリスマスに高級レストランにでかけ、高級ホテルに泊まることが流行し、イブの予約が何カ月も前から埋まるという現象が生じた。これもメディアがそうすれば幸せになれると吹き込み、信じ込ませた幻想にすぎなかった(p47)。それは、結婚して家族の物語をつくるという大きな物語の中で、まだ適切な相手がみつからない段階でのつなぎのてめのプチ幸福でしかなかった(p46)。要するに、人々は、実際にモノを買っていたのではなく、その商品を買うことでもたらすであろう幸せを買っていたと言える(p54)

脱成長時代にはモノを持つ=幸せモデルは破綻する

 労働することでマネーを稼ぎ、幸せをもたらすはずのモノを買い続けるという物語は、GDPが成長し続ける前提のものでのみ可能なものだった(p222)。要するに、経済消費社会の幸せのシステムは経済成長を前提としている。けれども、1990年代半ば以降、ほとんどの人はゼロ成長を迎えている(p55)。今は、就職も難しく、結婚できるかどうかもわからない時代である。将来への不安が高まれば、貧困に陥らないためという消極的幸福に回帰せざるをえないであろう(p49)。幸せをもたらす商品を買い続けること=幸せというモデルはもはや通用しない(p53)。すなわち、モノが買い続けられなくなった状態が、近代社会における貧困と考えることができる(p25)。そこで、モノを買わずに幸せになるのではなく、幸せそのものを直接得ることが必要となってくる。それは、関係性が鍵となる(p57)

自分とのつながり感を求めるオタク

 1980年代には、ファッションであれ、クルマのデザインであれ、高度な感性を持ち、一般人には見えない時代の潮流を見ぬいて、商品やサービスに敏感に反応する消費リーダーがいた。ところが、1990年代以降には、消費リーダーによるブランド消費のトリクルダウンは起こらなくなっていく。これにかわって出現したのが、自分の好きな分野にこだわってとことん踏み込んでいく一方で、関心がいのことにはほとんど金をかけない「オタク」である。自分が好きなことに没頭し、自分が好きな課題を見つけては解決することで手ごたえを得ている点で、オタクは天才がやっていることと同じことをしているとも言える(p125〜126)

 こうした新たな消費行動から見出されてきたのは「つながり」だ。人は自分が何かと「つながっている」ことで幸せを実感する。そして、つながりには二つある。第一は、自分内部とのつながりだ。「はまる」とはまさに自分が気づいてこなかった内部とつながった感覚であり、それが幸せ感をもたらす(p220)

マネーから解放されることによる幸せ

 作家の椎名誠氏は、料理と洗濯を趣味としており、原稿が進まないときの精神的な救いになるという。電通の調査でも家事が好きな若者が増えている。これは、身体感覚を取り戻すものとして家事が新たに着目されているためと言える(p148)。家庭菜園ブームも自分が食べる野菜を育てる手ごたえを感じようとしている現象だと言える(p145)

 こうした「下ごたえ消費」の究極の姿は、マネーから解放された生活であろう。多くの男性が理想とする生活は、誰にも指図されず、自分の畑を持ち、自給自足で田舎暮らしをすることだという。マネーから解放された生活を送るためには、どれだけマネーを使っても良いという一見矛盾したことすら夢見ている人も多い(p154)。自転車で京都の町を走りながら紅葉を見る。道の銀杏を拾って焼いて、近所の人におすそ分けをする。マネーを使わずに得られる幸せはかなり多い(p156)

手ごたえ消費だけでは人とのつながりが満たせない

 とはいえ、手ごたえ消費には限界がある。人はどれほどモノがあふれていても一人きりでは幸せにはなれない。そこで、仕事を通じて身近な他人とつながることでもたらされる幸せ感、ボランティア等で社会と自分とのつながりを作り出すことでもたらされる幸せ感も必要である(p220)。自分を極める物語の消費は、自分の満足感は高める。けれども、はまればはまるほど社会から離れていく疎外感がある。社会とつながりたいという気持ちを満たせない(p164)

 幸せには、自分で自分を承認する「自尊心」と他人から認めてもらい、自分も社会から承認される「相互承認」が欠かせない。そうなることで社会の中に自分の居場所が感じられる。けれども、手ごたえ消費のように自己を極める物語だけでは、社会の中での「居場所」が得られない(p184〜185)

自由になった個人はむき出しの個人としての自立を求められる

 家族モデル・システムが支えてきた幸せは、ゆるやかではあるが数十年かけて崩壊している(p232)。かつては、家族、会社、地域社会の中に人々は役割を持っていた。しかし、こうした役割に縛られることを嫌い、役割からの「解放」を目指した結果、安定した役割を人々は失ってしまった。役割というシールドを引きはがされ、むき出しの個人として、自分が何者なのか、自分がどのような能力があるのか、絶えず周囲を説得しなければならない高度なコミュニケーション能力を求められるようになってしまったのである。それは、何のトレーニングも受けていない人々にとってはきつい作業だ(p186)

贈与としての消費

 伝統的なつながりは失われていく。さりとて、孤独は耐えられない。こうした中で、出現してきた新たな動きが、前近代社会の伝統的なつながりとは異なり、自分から選んだつながりを育むために(P222)、相手に喜んでもらうためのプレゼントという消費行動である。プレゼントに価値があるのは、相手を幸せにできる自分を実感できることで「自尊心」が満たされると同時に、贈った相手が感謝してくれれば、相手の中に自分の居場所を作るという「承認」を手にいれられるからだ(p193)

 もちろん、自分のための消費がなくなるわけではない。けれども、コミュニケーション能力とは、相手が何を喜ぶのかを知っている能力であるとも言える。「贈与」のための消費は、さらに満足度が高い(p194)

仕事としての幸せ

14kahneman.jpg 経済学に心理学を導入したプリンストン大学のダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman,1934年〜)教授によれば、幸せには刹那的な「フローの幸せ」と精神的で持続性のある「ストックの幸せ」とがある(p81)。愛や幸せはマネーでは買えない(p3)。精神的な豊かさへの回帰現象は、近代社会が誕生して以来、繰り返し主張されてきた。1960〜70年代にかけてのヒッピームーブメント、見田宗介氏の紹介するカルロス・カスタネダへの憧れもその一つだ(p4)

 電通ハピネスが行った調査によれば、最もうらやましいと思える人は、マネーを持っている人をはるかにしのぎ、夢を持っている人であった(p76)。ただし、将来ビックなミュージシャンになるといったあてのない夢ではなく、自分がますます周囲の人から必要とされている人間となるという夢であった。とはいえ、人々から必要とされるという人間関係は何もないところから自然に発生したり維持できるものではない。人間関係が続くためには、互いを必要としあう場が不可欠だし、仕事はその恰好の舞台となる(p213)

 近代経済学は「効用=幸せ」、「労働=苦痛」と考えてきた(p25)。仕事は我慢しなければならない辛いもので、余暇時間が長いほど幸せだと想定してきた(p212)。確かに、従来の図式では、仕事は生活のための労働だった。さらに、幸せもたらすと信じられる「モノ」を売ることが企業の目的だった。けれども、これからは人々が幸せになることを直接サポートすることで利益を得るようになるであろう(p62)。マネーからの解放を願う人がますます増えていくにつれ、仕事の意味も、楽しむために行い、結果として収入が伴うものへと変化していくであろう(p208)

 自分の裁量で仕事ができ、作業そのものが楽しく「時間密度」が高く、熟練することでスキルが高まり、楽しんだうえで人から評価されれば、それは幸せそのものとなる(p197)。マルクスは、仕事からも幸せが得られるべきだと主張してきた。社会主義国家のイデオロギーとしてではなく、社会哲学者としてのマルクスの主張に耳を傾ければ(p212)、それは「フローな仕事=幸せ」と考えるミハイの主張と変らなかったのである。

【引用文献】
山田昌弘+電通チームハピネス『幸福の方程式』(2009)ディスカバー新書

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2015年06月20日

第14講 死を意識して今日を大切に生きる

2015年6月24日改正
人生はあきらめて生きていい

 「人生を半分あきらめて生きる」というフレーズを耳にしてどう思われるだろうか。大きくは次の三つの反応があるだろう。

 第一は、それを否定する人だ。そういう人は、これまで成功してきたし、仕事や恋愛や自分の未来にまだまだ希望を抱いている。ならば、無理してあきらめる必要はない。

 第二は、幼少期から家族関係がギクシャクしたり、受験に失敗したり、希望した職種に就職できなかったり、結婚しようと思っていた相手に突然ふられたり、人生の辛酸をなめてきたにもかかわらず、自分の努力が足りない、いまのままでは駄目だと思っている人だ。このタイプの人は実は最も生きるのが辛くなってしまう。理想が高いために、常に自分を責めてしまうからだ。

 第三は、「あきらめない」「がんばれ」といったポジティブな言葉を耳にすると辛くなり、「あきらめて生きる」という言葉を聞くと、どこかホッとする人だ。おそらく、この数年で最も増えているのがこの人たちだろう(4p66〜67)

苦労してためたお金が紙くずになる時代

 いま、私たちは、どのような時代を生きているのだろうか。経済が縮小して人口が減少する時代だ。どうみても、経済成長は望めない(4p28)

 安倍政権はアベノミクスを成功させ、1年で2%のインフレ率を目指している。これは、10年後には物価が2割も高まり、マネーの価値が2割も減ることを意味している(6p176)。モルガン銀行の伝説のディーラー、藤巻健史氏の予想は、さらに厳しい。苦労して貯金したマネーの実質価値が10分の1になるどころか、日本経済は数年後に破綻し、いまのマネーが紙切れ同然になる可能性が高いと警告している(6p185)。つまり、いまという時代は、長年苦労してきた貯金も一挙に紙くずになるリスクが高い「無力社会」なのだ(1)

最も大切なものはマネーではなく時間だ

 プリンストン大学のダニエル・カーネマン(Daniel Kahneman,1934年〜)教授は、経14kahneman.jpg済学と認知科学を統合して、行動ファイナンス理論やプロスペクト理論を提唱した行動経済学者だが、豊かになれば幸せかどうかをビジネス・ウーマンを対象に調査したところ、高収入で不幸だと思う人は20%と少なかったが、収入がかなり低い人たちも32%にすぎず、7割はそれなりに楽しく暮らしていた(4p133〜134)。つまり、収入の多寡が幸せに直結せず、幸せ・不幸を決めるのは、マネー以外の何かなのだ(6p184〜185)

 では、人生で何が取り返しがつかないものかを考えてみよう。マネーはたとえ失ったとしてもまた働けば増やせる。仕事で失敗して評価を落としたとしても、また努力すればそれは回復できる。けれども、人生で取り返しがつかないものがある。それは、時間だ。マネーは人生の時間を豊かなものにするための手段にすぎない(6p178)

 失業率が高く年収も日本よりも少ないヨーロッパ人たちは、ゆったりと時間をかけて食事を楽しみ、夏には1月以上リゾート・バカンスに出かける。経済的には日本よりもはるかに不安定であっても、手元に余裕のお金があれば、それを楽しんで使うことを知っている(6p177)。けれども、日本人はワーカーホリックとマネーホリックにかかっている(6p184)。ヨーロッパ人からすれば、楽しみもせず、あくせくと働いて人生を終えてしまう日本人は野暮そのものなのだ(6p177)

 つまり、本当の幸せを考えれば、限られた時間をどれだけ「魂が喜ぶ時間」にできるかが最も大切なことになる(6p178)。いま、どれだけマネーを儲けたかよりも、どれだけ多くの人たちを幸せにできたかに人生の価値があるというまっとうな価値観を持つ若者が増えているのは喜ばしい(6p188)

今一瞬を心を込めて生きる

 幸せになれる選択対象を手にできる人がごく少数に限られ、極度に予測不可能性が高いこのような時代に実現可能な希望に躍らせてはならない。こうした時代に長期的な人生展望を持つことは無益なばかりか危険ですらある。このような時代の中で、死の間際に「私は幸せだった」と心の底から思える人生を生きるには、本当の意味でクレバーでなければならない(4p38)

 そもそも、「真面目に頑張っていれば、人生はいつかいいことがあるはずだ」という思い込みは、人生はいつ想定外のことが突然起こるかわからないというリアルな事実を直視していないから成り立つ。

「こうなればよかった」と過去に思い描いた願望に逃避しても、「いつか、きっとこうなる」と未来に思い描く空想に逃げるのも止めるしかない。となれば、できることは、ただこの瞬間を心を込めて生きるしかない(4p196)

 エリザベス・キューブラー=ロス(Elisabeth Kübler-Ross, 1926〜2004年)が死にゆく人を見つめてきたその経験から学んだ最大のことは「いま、この瞬間」に心を込めて本当に生きることだった。例えば、愛する人と一緒にいても、心を込めてその一瞬一瞬をすごしていなければ、本当に一緒にいたことにはならない。

 すなわち、無力な私たち人間にできることは、「今日一日が人生最後の日になるかもしれない」とそんな思いを胸に刻んで一瞬一瞬心を込めて生きることしかない(4p95,8p142)。とりあえず、あと1年、さしあたりあと1年と一年単位で生きのびていくしかない(4p40)

 メキシコには骸骨の仮面を被って踊る「死者の日」という祭りがある。この祭りに込められているのは「メメント・モリ(死を忘れるな)」「カルペ・ディエム(その日をつかめ、いまを楽しめ)」という意味だ(4p96)。 米国の宗教哲学者、ポール・ティリッヒはこういう。

「明日、死す者のようにして生きよ」(4p98)

ジョブズは、日々、死を意識して好きなことを追求した

 スィーブ・ジョブズ(Steve Jobs, 1955〜2011年)が語るとき、そこには情熱と勢いと活気がある(3p65)。1983年、ジョブズはペプシコの社長、ジョン・スカリーを引き抜こうとしていた。その時、スカリーが忘れられない一言でこう説得した。

「一生、砂糖水を売り続ける気かい。それとも世界を変えるチャンスにかけてみるかい」(3p63)

 そして、ジョブズも、いまを楽しめ、好きなことをせよと述べている。

「仕事というのは一生のかなりの部分を占める。本当に満足するには、すごい仕事だと信じることをするしかない(3P65)。そして、すごい仕事をするには自分がすることを大好きになるしかない。だから、大好きなことを見つけてほしい。大好きなことを追求し、自分の使命を果たせ。どこにいきたいのかは心が知っている。今日はすてきなことができたと思いながら眠りにつく。僕にとってはそれが一番大事だ」(3p69)

 2005年6月12日にスタンフォード大学で行った卒業祝賀スピーチでも、ジョブズはこう述べた。

14jobs.jpg「誰も死にたい人はいません。天国に行きたい人も死を望んではいません。それでも、死は皆が向かう終着駅です。なぜなら死は生き物の唯一最高の革新だからです。それは生き物を循環させるものです。 死によって古いものが新しいものに道を譲るのです。今、新しいのはあなたたちです。しかし、いつか遠からず、あなた達も次第に古くなり、とって代わられるでしょう(略)。あなたたちの時間は限られているのです、他人の人生を生きて、時間を無駄にしないでください。他人の考えた結果に振り回されて、ドグマの罠に陥らないでください。他人の意見の雑音に、自分の内なる声の邪魔をさせないことです。そして、最も大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。あなたの心と直感は既にあなたが真に何になりたいかを、とにかく、とっくに知っています。それ以外のことは重要ではありません」

死ぬときに何を残したいのかを考えながら生きる

 心理カウンセラー、石井希尚氏は、こう述べている。

「人は見ている方向に近づいていく。あなたは、死んだときに墓碑銘になんと刻まれたいだろうか。最後に看取った人が『この人はこういう人だったなぁ』というその人々の言葉こそ、あなたが近づいていった人なのだ」(2)

 ソニア・リュボミアスキー教授も、「この世に去った後で自分が残したいと思うことを考えるといい」と示唆する(5p245)。

 末期癌のホリスティック医療に取り組む帯津良一博士は、やすらかに死んでいく人と後悔しながら死んでいく人との違いについてこう述べている。

「自分の人生でやりべきこと、やりたいと思うことをやりきったと思える人は、とてもいい顔をしてやすらかに死を迎える」

 そして、キューブラー・ロス博士も人が死の際に語る言葉は「ああっあれをしておけばよかった」という呟きだという(4p97〜98,8p143)

 こうしたことを踏まえ、諸富祥彦教授は「やりたいと思ったことをすぐ始めるひとは慎重さにかけると思われがちだ。けれども、いつかしたいという想いを先のばししているうちに、本当にしたいことをほとんどやらずじまいで終わってしまうことの方がよっぽど愚かな生き方であるとはいえないだろうか」(8p129)。「そのうちにやってみたいことがあれば前倒しでどんどんするしかない。また、伝えたい思いがあれば、いますぐ伝えるしかない。そして、一人の時間をつくり、自分が本当にしたいことはなにか。これをせずには死ねないと思うことは何かを考えることだ」とアドバイスする(4p202〜204)

 なぜ、やりたいことをやらずにいると後悔をするのか。これには、科学的な根拠がある。

 14Bluma.jpgソ連の心理学者ブリューマ・ヴリホヴナ・ゼイガルニク(Bluma Wulfovna Zeigarnik, 1901〜1988年)は、人は成し遂げた事柄よりも、成し遂げなかった事柄の方をよく記憶して思い出すことを実験的に見出した。

「ツァイガルニク効果」と呼ばれる現象が意味することは、人は行動した結果、たとえ失敗したとしても、その失敗を心理的に正当化して納得させることには長けている一方で、行動をしそびれたことに対する後悔は、後になってもやわらぐことはなく、時間が経つにつれ心の痛みになる傾向があることだ。大学時代にもっと勉強しておけばよかったとか、恋人に告白しておけばよかったという後悔は、つかみ損ねた二度とめぐってこないチャンスを伴うケースが多いからだ。やらなかったことを後悔しないことが幸せにつながるのであれば、多少のリスクを冒しても人生にはもっと挑戦したほうがいいことになる(7p285〜288)

たとえ思い描いた夢が実現できなくても人は幸せになれる

 多くの人は自分の夢や目標が達成できることが幸せの条件だと考えている。けれども、夢や目標が実現できなければ幸せにはなれないというのは「幸せの神話」にすぎない(7p59)。数多くの研究結果から、驚くべきことがわかってきている。幸せとは目標を追い求めることから産まれるものであって、目標の達成から産まれるものではないということだ。すなわち、人は目標に向かって努力し、その目標を追求する「プロセス」を楽しむことで幸せになれるのであって、結果としてその目標が達成できなかったとしても人は幸せになれるし、結果が実現されるかどうかは幸せとは無関係だったのである(5p253,7p58〜59)

【引用文献】
(1) 諸富 祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(2) 石井希尚『明けない夜はない』(2009)ディスカヴァー・トゥエンティワン
(3) カーマイン・ガロ『スティーブ・ジョブズ脅威のプレゼン』(2010)日経BP社
(4) 諸富 祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) ソニア・リュボミアスキー『幸せがずっと続く12の行動習慣』(2012)日本実業出版社
(6) 諸富 祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(7) ソニア・リュボミアスキー『人生を幸せに変える10の科学的な方法』(2014)日本実業出版社
(8) 諸富祥彦「自分に奇跡を起こす心の魔法40」(2013)王様文庫

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2015年06月19日

第13講 没落社会ではフローで生きよう

衰退する日本では社会的成功に幸せはおけない

 社会的に成功した人間は生きる意味を見出しやすい一方で、社会的に挫折した人間は生きがいを得られない。そう考えられがちである。けれども、今後、日本は人口が減少し、社会的な成功はごく少数の人しか手にできなくなっていく。経済成長や物質的な満足に左右される成功や失敗の次元だけを人生の尺度にしていれば、日本人の幸せは低下していかざるをえないであろう(2)

心理学は病んだ心を癒す学問ではない

 第二次大戦以前の心理学は、大きくは以下の三つの目的を目指していた。

 @心の病を治療する

 A日々の暮らしを向上させる

 B優れた才能を見極めて伸ばす(4,P26)

 けれども、第二次大戦後、後の二つの役割は軽視され、「心理学=心を病んだ人を治療する学問」と見なされるようになっていく。例えば、心理学者にカウンセリングを受けに行くと友人に告げてみて欲しい。「それは凄い。自分を向上させるためなんだね」という言葉はまず返ってこないであろう(4,P27)

 とはいえ、ヒンドゥ教や仏教も、思いやり、慈悲、喜び、愛といった感情を重視してきた。こうした古代の哲学思想は、ポジティブ心理学に大きく影響を与えた。例えば、カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875〜1961年)は1933年に「完全な人間」という概念を提唱した(4,P29)。また、1950年代に誕生し、1960年代に発展する「人間性心理学」は、ネガティブを重視する精神分析や外部から観察できる行動を重視した行動主義といった主流の心理学に意義を唱えた(4,P30,117)

 13Carl Rogers.jpgこの運動の重要人物を二人あげれば、「完全に機能する人間」という概念を導入し、人間には成長に向かう根源的なモチベーション、「自己実現傾向」があると主張したカール・ロジャーズ(Carl Ransom Rogers, 1902〜1987年) (4,P117)と、自己実現を重視し「ポジティブ心理学」という言葉を始めて用いたアブラハム・マズロー(Abraham Harold Maslow, 1908〜1970年)であろう(4,P30)

自己実現は社会的な成功とは無関係

 マズローの理論からすれば、自己実現という上位の欲求は、生理的・安全的欲求が満たされたうえで満たされるはずである。けれども、オーストリアの心理学者、ビクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905〜1997年)が、目にしたのは、悲惨な状況の中でも耐え抜いた人がいたことであった。フランクルは、様々な基本的な欲求が満たされなくても人は崇高に生きられるのではないかと考え、それをマズローに問いかけた。マズローの答えはイエスだった(2)

すべて人は未来からの可能性の呼びかけに応えるために存在している

 「私の人生は何をやってもうまくいかない。ただの一度もいい思いをしたことがない。誰にも必要とされていないこんな人生は、生きるに値しないのではないか」

 こう思い悩む人は、こうした思考法を止め、自分のことを待っている誰か、自分のことを必要としている何かに目を向けてみるといい。とかく、人は人生の意味を問いかける。けれども、ヴィクトール・フランクルは、「人生」の方が人間に問いを発していることから、人生の意味を問いかける必要はないと考えた。これは、人生の意味についての立ち位置を180度転換するものである(3)

13viktor.jpg「どんなにあなたが絶望していても人生の方であなたに絶望することはない」。フランクルのメッセージは数多くの絶望する人の魂を救ってきた(3)


 空虚感におそわれる人に対して、フランクルは「内側を見つめるのを止め、未来にあなたを待っているものに目を向けよ」と示唆する。自分の内側を見つめるのではなく、あなたに見出されるものを待っている「何か」を探せと外に目を開くことを促す(3)

 フランクルによれば、この世には、かならずあなたを必要としている「何か」や「誰か」が存在している。そのつながりの中で人は生きている(3)。すなわち、どの人にも絶えず実現されることを待っている「可能性」が存在している。その可能性は、絶えず、今に先行して、未来から可能性を呼びかけている。この未来からの可能性からの呼びかけに応えるために、私たちは存在しているとも言えるし(1)、誰も、この人生からの呼びかけに応える責任を持っているとも言える。フランクルによれば、答えなければならないのは、人生からの問いなのである(3)

見えない世界からの呼びかけに耳を澄ます

 それでは、いまに先行している未来の可能性は、どのようにして見つけ出せばよいのであろうか。

 一人静かな時間を持ち、人生全体からの呼びかけをからだ全体で受け止めてみよう。私たちを超えた何かの力。私を超えた向こうからの呼び声。妙に気になる夢。人間関係のトラブル。なぜか思い出す映画の一場面。たまたまつけたテレビドラマの登場人物が語る言葉。気づく必要のある大切なメッセージは様々な形でやってくる。沈黙すると、ひっそりと届けられる呼びかけの声、サイレント・コーリングに気づく(1)

 この人生や状況からの呼びかけに対して心を閉ざし、自分自身に関心を向けていくと、それは自己愛や自己執着につながる。昨今のスピリチュアル・ブームが危険なのは、こうした新たな自己執着や虚しさを産むからである。フランクルもマズローも自分から目を離せと言う(1)

13gendlin.jpg カール・ロジャースは「自分が自分を受容的に耳を傾けられるとき、自分自身になれるとき、私はよりよく生きることができる」と述べ、自分の心の声を他の誰かに聞いてもらう『傾聴』が大事だとした。さらに、ロジャースの弟子である、ユージン・T・ジェンドリン(Eugene T. Gendlin, 1926年〜)博士は「フォーカシング」を創設し(3)、人生からの呼びかけを「暗黙への生起(Occuring into implying)」と呼んだ(1)

二つの選択肢〜すべての出来事には意味がある

 人間は驕慢な生き物である。何事もなく平穏な日々を過ごしているとますます驕慢となり、自己中心的になっていく。つらく苦しい悩ましいできごとを経験しなければ、自分を深く見つめて人生を変えていくことはできない。思い出すことすら辛いできごとを含めて、すべてのできごとには意味がある。ある種の必然性をもって、起こるべくして起こっている。なぜならば、すべてのできごとは、気づきと学び、自己成長の機会であり、「それに対してどう答えるのか」を迫ってきているのである(3)

 ここで、二つの選択枝がある。ひとつは人生からの「問いかけ」に耳を貸さず、心を閉ざし続け、これまでと同じパターン化された日々を繰り返していくことだ。結果として、何を学ぶこともなく人生に大きな変化も生じない(3)

 もうひとつは、人生で起きた辛く苦しい体験に正面に向き合い、「できごと」が自分に何を学ばせようとしているのかを丁寧に振り返り、自分を深く見つめることだ(3)

 もちろん、この未来の可能性に対して、どのように応えるべきかは本人の自由である。けれども、この呼びかけを満たせる「最善の答え」はひとつしかない。その意味で、人生は半分は自由であり、半分は決まっているとも言える(1)

人は目的を持って生まれてくる

 実は、すべての人間は、この世で果たすべき「使命と課題」をもって産まれてきている(3)。この人生で果たすべき暗黙の「使命(ミッション)」を刻印されて、一人ひとりの「魂」はこの世に産まれてきている(バースディ・プロミス) (1,2,3)。逆に言えば、そのミッションを生きて、現実化し、使命を果たすために、人はこの世に産まれてきたのである(2)

 そして、この魂に刻み込まれたミッションを発見したとき、「ああこれだったのだ」「私の人生はこういうことになっていたのだ」「このことをなすために私は生まれてきたのだ」「私はこの人生を生きることになっていたのだ」という感慨を覚えることが多い(1,3)。自分の人生に課された使命を「暗黙の予感」として発見でき、これまで歩んできた道が運命の道であったことに気づく(3)

 何やら新手の宗教のように思える。けれども、心の深いところで満たされた人生を生きている人は、「私はなすべきことをなしている」という実感を抱いて生きていることが多い(2)。実際、諸富祥彦氏は、カウンセリングを通じて、そうした気づきに多く立ち会ってきた(3)

シンクロニシティとフローの人生

 不思議なことだが、この「人生」からの呼びかけに無心になって生きるとき、人生全体の隠れたミッションが顕在化していく。この流れに乗って生きていくとき、ミッションの実現に必要なものはすべて自ずから与えられはじめる。起こるべくしておきた偶然は、もはや偶然ではなく、「シンクロニシティ」であると言える。このシンクロニシティが頻繁に生じ始めると、自分を超えた大きな流れが人生で働き始める(1)

06mihaly.jpg 人生の決定的な場面では、シンクロニシティが顔を出すことが多い。ハンガリー出身の米国の心理学者ミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi, 1934年〜)は、この流れを「フロー」と名付けた(1)。

 自分の意志を超えた大きなフローが生じ始め、こうしたフローの中で生きているとき、適切な場所で適切なときに、適切なことをしているという感覚を抱く。マネーであれ、仕事のチャンスであれ、人生の流れを前進させるのに必要なものがちょうどよいタイミングで与えられる不可思議な出来事が頻発していく。また、心はウキウキしているが平静であり、自分自身を超えた偉大な何かとのつながりを感じ、人生は意味と目的に満たされ、生きる意味や目的への疑問はおのずから解消される(1)

 いま自分はこの人生を生きていて、共にいるべき人と共にいて、この人生で自分が行うべきことを行っているという感覚が持てるとき、私のことを必要としている誰かがいて、私のことを必要としている何かがあって、私はその何かや誰かとつながることが13Mindell.jpgできているという感覚を持てるとき、どれほど貧しく、どれほど孤独で、どれほどさみしく、どれほど健康を害していても、心の深いところで生きる意味を実感しつつ生きていける。すなわち、魂のミッション、生きる意味、精神の気高さという心の一番深いところで、生きる意味と使命感が満たされた生き方を得ることが大切なのである(2)。そうすれば、どのような挫折や失敗があっても幸せといえるギリギリの幸せが得られる(1)

 細かなことは別として自分の人生は、大筋は向かうべき方向に向かっている。この感覚を欠いていると何が本当に必要で、何が不必要かが見分けることができなくなる。「プロセス志向心理学」を確立したアーノルド・ミンデル(Arnold Mindell, 1940年〜)は「センシェント」と呼ばれる繊細な感覚を重視する。ミンデルのものの見方には、老荘思想のタオや量子力学、アニミズム的な気配が漂うが、ミンデルも偶然の積み重ねが人生の流れを産み出すと考える(1)

宇宙がつながっていると信じて愛することが幸せにつながる
 
 13Ken Wilber.jpgこの宇宙のすべてはつながっている。一見するとバラバラに思えるものも、すべては究極的な一の顕れである。これを仏教では「空」、ミンデルは「プロセス・マインド」、そして、ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は「スピリット」、と呼ぶ。すなわち、自己を超えた生命の流れがある。この偶然のつながりから、様々なシンクロニシティが産まれてくる。人生で劇的に大きな流れを創りだし、成功や幸せを手にできる人は、このシンクロニシティに対して開かれた心の姿勢を持っている人が少なくない。大切なことは、人との出会い、つながり、ご縁を大切にすることなのだ。幸せになれる人は、自分にあまり関心を注がない。逆説的だが、この世界を信じて愛することが、巡り巡って真の幸福を与えることにつながるのである(1)

【引用文献】
(1) 諸富 祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(2) 諸富 祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(3) 諸富 祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(4) イローナ・ボニウェル『ポジティブ心理学が1冊でわかる本』(2015)国書刊行会
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2015年06月15日

第9講 ホログラフィック・ユニヴァース 思考が現実を作っている

トランス状態に入ると身体が消える人間がいる

 幸せになるには経済成長は必要ではなくモノがなくても心の持ちようで幸せにも健康にもなれる。そして、ポジティブなマインドが人を健康にし、ネガティブなマインドが人を病気にすることの意味を掘り下げると、肉体そのものがマインドによって作られているのかもしれない結論にゆきついたのであった。

 身体の本質はホログラフィックで非物質的なものであることを際立たせるのが、1905年にアイスランド人の霊媒、インドリディ・インドリダソンに起きた現象である。インドリダソンは心霊現象とは無縁の素朴な田舎の人間であったが、優れた霊媒の能力を持っていた。即座にトランス状態に入れると同時に、深いトランス状態にはいると身体のいろいろな部分が完全に消滅してしまうのであった。アイスランドを代表する数人の科学者が超常現象を調査ことになったが、驚きで呆然とする科学者の目の前で腕や手がうっすらと消え、覚醒する前には再び出現し物質化するのであった(P214)

テレーゼ・ノイマンは物質化現象を引き起こしている

 09Therese Neumann.jpg奇跡的な出来事の一部が強い信念から引き起こされていることを示すひとつの事例が、磔にされたキリストの傷を再現させるキリスト教の奇跡、聖痕である。最初に聖痕を発現させたのはアッシジの聖フランシスコだが、以来、共通して聖痕は手の平に生じている。しかし、手に釘を打ったのでは体重を支えられない。ローマ帝国時代には手首に釘が打たれていた。8世紀以降、キリスト像の描いた傷がそうなっていたことから、彼らは手の平に釘が打たれたと生じたと信じるようになったのである。このことは、聖痕が心の産物であることを示している(P136〜137)

 サイ・サイババ(Sathya Sai Baba, 1926〜2011年)やテレーゼ・ノイマン(Therese Neumann, 1898〜1962年)は身体の周囲に目に見える光を放っていたとされる(P221)と述べたが、現在で最も有名な物質化現象の事例は、サティア・サイババによるものだが(P197)、物質化の驚くべき事例は、テレーゼ・ノイマンにもみられる。

 ノイマンは、1923年にある若い僧侶の喉の病を自分の身体に移したときから「不食生」がはじまり、その後、数年間、ノイマンは水分を摂取するだけで生きた。さらに、1927年からは水も飲まなくなってしまう。そして、その後も35年間、何も飲まず何も食べなかった。

 1927年7月14〜29日まで、医師の監督下のもと、フランスシスコ派の尼層看護婦4人がノイマンの一挙一動を監視した結果、ノイマンが2週間の間、一滴の水も飲まず何も食べていなかったことが確認されている。

 人間は食べなくても2週間は生きられるが、水なしではその半分も生きられない。さらに、平均的な人間は毎日、吐息で約400g、毛穴からもほぼ同量の水分を排出している。ところが、ノイマンはまったく脱水症状を示さなかった。毎週、聖痕の傷が開くと血液が流出するために4kg以上体重が減少したが、1〜2日のうちにそれが戻ってしまうのであった。このことから、ノイマンが聖痕の発言を繰り返すために必要な血液だけでなく、健康を保って生存するのに必要な水と栄養も物質化させていたことがわかる(P201〜202)

物質化現象はリアリティがホログラムであることを示唆する

 09Stanislav Grof.jpgモノを出現させる物質化現象は、現実が真の意味でホログラムであり、構築されたものであることを示唆する。問題は、こうしたホログラムが長時間にわたって安定したもので意識がわずかに手を加えるだけなのか。それとも、特定の状況下では限りなく姿を変えることが可能なのかである(P208)。メリーランド精神医療研究センターの研究部長、スタニスラフ・グロフ(Stanislav Grof, 1931年〜)は後者の立場を取り「世界は私たちが知覚しているほど堅固なものではない」と語っている(P209)

 ディヴィッド・ボームは、宇宙のあらゆるもの発生する源、内的秩序の眼に見えない精妙なレベルでイメージすることからすべてが始まると考える。その意図がいくつものレベルを通過して最終的に外在秩序に姿を現す。ボームにとっては、イメージと現実とは区別できないもので、心の中にあるイメージが物質的な存在として現れてくるのも驚くにはあたらない(P101)。

 スタンフォード大学物質科学部長でもある物理学者ウィリアム・ティラー(William Tiller)も、肉体だけでなく、宇宙そのものも精妙なエネルギーとして始まり、徐々に密度を増して物質化していったと考える(P255)

ノイマンは重力を無視する超能力者でもあった

 聖痕を出現させることができるテレーゼ・ノイマンは、同時に超能力者でもあった。ノイマンの足から血が流れ出るとき、血はキリストの傷から流れ出たのと同じく足の指先に向かって流れ、ベットに上半身を起こしているときには重力に逆らって上に向かって流れたのである(P153)

念力現象によって骨折を治療する

 ドイツのダルムシュタットに住むルーテル教会の尼層たちがチャペルの建設をしていた際、シスターの一人がコンクリートの床から落下した。すぐさま病院に担ぎ込まれたが、骨盤が複雑骨折していた。尼層たちは通常の治療を望まずかわりに世を徹して祈り続けた。さらに二日後にはシスターを連れ帰り、祈り続けると同時に手かざし療法を行った。その結果、2週間もかからず完全に回復した。

 7世紀にイギリスで同様の事件が起きている。ヘクサムの教会の建設中に、ボテルムという名の石工が落下して両腕と両足を骨折した。主教聖ウィルフリッドは瀕死のボテルムに祈りを捧げ他の作業員にも祈るよう依頼した。その結果、速やかに回復したのである。

 ハワイのシャーマン、「カフナ」にも数分の祈りと瞑想の後に骨折を治してしまったケースがみられる。

 骨折は自然治癒するのにかなりの時間が必要で、ルルドの泉でのミチェーリの骨盤の奇跡的再生ですら数カ月を要している。したがって、こうした事例は、無意識レベルでの念力が骨折を治していることを思わせる(P163〜164)

念力現象によって物質が沸騰する

 ナポリの大寺院ドゥオーモ・サン・ジェンナーロでは、毎年5月と9月に奇跡が起きる。小さな小瓶に入った茶色の粉末状の物質が泡だって深紅の液体に変わるのだ。

 この粉末状の物質は、伝説によれば305年にローマのディオクレティアヌス皇帝によって斬首の刑になった聖ヤヌアリウス、サン・ジェンナーロの血液であるとされている(P151)。粉末状の物質が本物の血液であることは1902年にナポリ大学の科学者が分光器を用いて分析したことから実証されているが、この科学的には説明不可能な奇跡も、奇跡を目にしたいと集まった人々の信念によって引き起こされている可能性が高い(P152)

物理法則は現実ではなく習性?

09William Tiller.jpg 現在の世界観では、こうした念力現象(サイコキネシス)は説明できない。けれども、ウィリアム・ティラー博士は「宇宙もある種のホログラフィックで、様々な体験をする手段として私たちは宇宙を創出し、それを司る法則も創造した」と論じる(P209)。物理法則すらも心が産み出したというのは驚くべき考えだが、意識が内在秩序に関与することが可能であれば、望みどおりの現実や物理法則を創造できることになる(P214)

09Red Spot.jpg 木星の大赤班は直径が4万kmを超える巨大な渦巻きである。300年前に発見されて以来、ずっとその形を保ち続けている。このように渦巻きには驚くほど安定するケースがある。ニューヨークの精神科医、ディビッド・シェインバーグ(David Shainberg, 1932〜1993年)は、思考が渦巻きのようなものだとのボームの考えに賛同する。ある特定の意見や考えが意識の中で固定化する原因は、思考の持つこの渦巻きの性質によると考える(P85)

 子どもたちの心は、束縛を受けず、世界をあるがままにしなやかに認める。けれども、同じ渦巻きが繰り返し形成されると思考が窮屈な壁をつくってしまう。自分の意見を正当化しようとし、新たな情報に接しても価値観を変えることはめったになく、会話を通じても本当の交流を深めることにほとんど関心を示さない(P86)

 物理学者、ディビッド・ピート(David Peat,1938年〜)博士も、繰り返しが多い性質を「宇宙神経症」と呼ぶ。神経症にかかると同じところにひ09David Peat.jpgっかかってしまったかのように、生活の中で同じパターンを繰り返したり、同じ行動を取ったりする(P177)

「椅子やテーブルもこれと同じなのではないかと思うことが多い。まさに物質の神経症とも言えるもので繰り返しの産物なのである。椅子やテーブルは絶え間ない流れの中でできた『習性』でしかなく、流れの方が真実なのである」(P178)

 深い確信を伴う信念がシェインバークのいう渦巻きのように思考内で固定されてしまうように、物理法則も石に刻まれたような絶対的なものではなく、ホロムーブメント内で固定されてしまった渦巻きでなのではないか。そして、物理法則が流れの産物であるとすれば、それは相当深く刻み込まれた習性ではあるが、上述した物質化や念力のように通常の現実を規定している物理法則の一部も、その効力を一時中断させることが可能であることが示されている(P178)。そして、信念が深ければ深いほど、強烈な感情を伴うものであるほど、現実に対して引き起こせる変化も大きい(P179)

 09yogananda.jpgパラマハンサ・ヨガナンダ(Paramahansa Yogananda, 1893〜1952年)も『あるヨギの自叙伝』で果物や金の板を産み出せるヒンドゥー教の行者との出会いを述べている。ただし、ヨガナンダは、そうしたシッディを持つことは、必ずしもその人が霊的・精神的に進んでいる証拠とは限らないと注意も促しているのである(P201)

【引用文献】
マイケル・タルボット『ホログラフィック・ユニヴァース』(1994)春秋社 第3章 ホログラフィック・モデルと心理学、第5章 奇跡がいっぱい
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2015年06月12日

第6講 面白きこともなき世を面白く住みなすものは心なりけり

仕事はマネーを稼ぐための苦痛な手段なのか

 ソニア・リュボミアスキー教授は、人間が働く理由として、大きく三つの見方をあげる。

 第一は、仕事は本質的に必要悪であって、ポジティブなものではないし見返りもない。生計という目標を達成するための手段であり、働くのは仕事から離れた時間を楽しむマネーを得るための労働と見る見方だ。

 第二は、自分が成長して、さらに高い社会的なステータス、権力、自尊心といった見返りを得るための手段、キャリアと見る見方である。

 第三は、金銭的な見返りや出世のためではなく、働くことそのものが愉しみであって、働きたいから働いている。すなわち、仕事そのものを「転職」と見る見方である。教師、芸術家、科学者、外科医等は、好きな仕事が出来ている。そこで、自分の仕事を天職と考えられることが多いであろう(3,P219)

 けれども、そうした恵まれた仕事だけが天職となるわけではない。ソニア教授が、ある病院の清掃担当者28人にインタビューしたところ、清掃がつまらないものだと考え最低限の仕事しかしていない人がいる一方で、患者や看護師がよい一日を送れるための意義ある重要な仕事だと考えている人もいた。彼らは清掃という仕事が好きでやっていた。すなわち、これまでと違う視点で仕事を見れば、仕事から生きがいを得る可能性があることがわかる(3,P220)

受動的なレジャーは苦痛な時間であって幸せではない

 06mihaly.jpg前述した第一の見方からすると、仕事は苦痛であり仕事から離れたレジャー時間こそが楽しいはずである。例えば、人々は自由時間の三分の一以上をテレビを見ることに費やしている。けれども、ハンガリー出身の米国の心理学者ミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi, 1934年〜)は、テレビは喜びを増やさず、退屈、能力低下、思考力の低下をもたらすだけだ警告する(4,P158)。ミハイは言う。

「私たちは作曲をするかわりに有名なミュージシャンの音楽を聴き、美術作品を描くかわりに絵を鑑賞し、マスメディアが作り上げた余暇を受動的に消費だけしている。このような時、自由時間は楽しいどころか倦怠感や不満を感じている。苦労して産み出した余暇時間なのに気分が低下しているのだ(1,P203)」。

 テレビはスキルが求められない受動的な体験であることから、量子力学のドキュメンタリー番組でも見ない限りは、後述する「最適経験」にはつながらない(4,P80)

 また、現代人はいつも時間不足に悩まされている。34%の人がせかされていると感じ、61%の人が時間に余裕がないと答え、40%はマネーよりも時間が不足していると感じている。けれども、物理的に余暇の時間が減っているわけではない。実際には労働時間は減り、自由時間が増えている。すなわち、多くの時間を手にしているのに、人々は主観的に少なくなったと感じている。問題はここにある(4,P156)

 それでは、なぜ現代人は、せかされた感覚を抱くのだろうか。第一は、ひとつのレジャーに専念せず、登山やセーリング等、あれもこれも一度にやろうとするため時間に縛られているように感じてしまうことだ。そして、第二は、前述したテレビを見ることのように受動的なレジャーが増え、他人との交流や野外活動といった能動的なレジャーが減っているためなのである(4,P158)

農業がはじまって人々は苦痛になった

 太古の採集狩猟時代には人々は一日3〜5時間しか働いていなかった。残りの時間は、休息や会話、ダンスに使っていた。さらに、狩猟や釣りはいまレジャーとなっているように非常に楽しい行為である。つまり、仕事と遊びの区別もなかった。この対局にあるのが19世紀の工業労働者であろう。彼らは、一日12時間以上も工場や鉱山で働くことを強いられていた。

 量だけではない。仕事の質にも違いがあった。イタリアには「仕事は人間を高貴にもし、動物にも変える」という古いことわざがある。熟練したスキルや能力が必要とされ、自発的に自由やれる仕事をすれば人間性を高めることができるが、能力を要さず人から強制される奴隷のような仕事からは何も得られず、自分の無力さ以外には何も感じられない。創世記第一節は「神はアダムに額に汗して耕すことを命じた」と書く。仕事が苦痛であるという世界観は、ほとんどの複雑化した文明に共通している(1,P179〜180)

仕事そのものを楽しむ伝統的なムラのおばあさん

 けれども仕事はほんとうに苦痛なのだろうか。レジャーよりも生活の中で仕事が一番楽しくなりうる事例がある。ミハイは、ファウスト・マシミーニ教授とアントネラ・デレ・ファーヴェ博士らイタリアの心理学チームが、イタリア北部のアルプス山脈の谷間の工業化されない伝統的なコミュニティ、ヴァル・ダオスタ(Val d'Aosta)州のポント・トレンタッス(Pont Trentaz)村で調査を行った事例をあげる。

06village.jpg 村人の一人、セラフィーナ・ヴィノンさん(Serafina Vinon,76歳)の暮らしを見てみよう。セラフィーナさんは毎日早朝5時に起き、多くの朝食を作り、家を掃除し、牛の群れを放牧し、果樹園の手入れをし、夕方には本を読んだり曾孫に物語を聞かせ、週に何回かは友人や親戚とのパーティーでアコーディオンを弾く。こうした暮らしで何が楽しいのかと聞かれると「外にいること。人と話すこと。家畜と一緒にいること。植物、鳥、花、動物とも話をする。自然のすべてが友達だ」と答えた。

 セラフィーナさんには都市的な生活を選択する機会もある。テレビを見ることもできる。けれども、村の66〜82歳までの老人たち10人全員は、近代的な都市生活に魅力を感じず、仕事を減らしたいと思っていなかった。仕事と家族生活とがやりがいがあり、かつ、環境と調和した生活が可能となっていたのだ(1,P181〜184)

自分が主人公となれば仕事を楽しい時間にすることができる

 農作業そのものは、採集狩猟活動に比べれば楽しみにくい。定住的で作業内容も反復的である。狩人は獲物の追い方を一日に数回も変えられるが、農民は穀物の栽培の仕方を年に数回しか決められない。さらに成果が出るまで数カ月もかかる(1,P190)。おまけに、アルプスの山での暮らしは厳しい。けれども、村人たちは、こうした強いられた仕事を楽しくすることに成功していた。

 その理由は三つある。

 第一は、村人たちは毎日16時間以上も働いているが、仕事と自由時間とをほとんど区別していないことである。

 第二は、自分が生活の主人公だと感じていることである。

 第三は、自然とつながっていることである。セラフィーナさんは木、石、山を友達のように知っており、家に伝わる物語は数世紀も前にさかのぼり土地の景観とも結びついている。1473年のペストで村で生き延びたたった一人の少女が、はるか谷を下った村のたった一人の男性と石の橋の上で出会い、二人は互いに助け合い、結婚し、彼女の家族の祖先となったのである(1,P181〜183)

 18世紀以前の家内工業の仕事も豊かであった。イギリスの機織り職人たちは、自分の家に機織り機を持ち、天気が良ければ機織りを止めて果樹園や野菜畑で働いた。気が向けば民謡を歌い、布が一反織れれば小さな祝宴を開いた(1,P190)。すなわち、自分が直面する活動に注意を集中し、対象との相互作用に没入すれば、与えられた仕事であっても、自分から自由に選びとられたもののように感じるのである(1,P189)

やりたいからしているとき人はフロー体験をしている

 バーバラ・フレドリクソン教授は、好きなことに情熱を傾けているとフロー体験が味わえると指摘する(2,P270)。スポーツ、ダンス、芸術的想像活動、セックス、人との交流、読書や勉強(4,P80)。何かをするのに夢中となってふと気がつくと数時間も立っていた。約90%の人々はそうした経験をしたことがあるという。アスリートはこの経験を「ゾーンに入っている状態」と呼ぶ(4,P74)。この現象を発見し「フロー」と名付けたのは、ミハイである(4,P75)。フローの概念は、ミハイが創造的なプロセスを研究していた1960年代に産まれた(3,P212)。ミハイはフロー現象を追求するため、登山家、テニス選手、バレエダンサー、外科医等数多くの人々に聞き取り調査を行った。その結果、ミハイが達したのは、フローは普遍的な現象であり、次のような特徴を持つということだった(4,P76)

@その瞬間にやっていることに集中し、一切の雑念が生じない

Aギター奏者が楽器と一体となり奏でている音楽そのものとなるように、なんの努力もなく行動と意識が融合している

B体験中に自意識が喪失する(4,P77)。感情も欠落し感情を超越した状態となっている(4,P78)。けれども、フロー体験後には自意識は強められ以前よりも自分が大きな存在となったように感じる(4,P77)。また、ポジティブな感情が増加している(4,P78)

C自分がしていることをコントロールできている感覚があり失敗する不安がない

D時間間隔が歪んで思っている以上に早く時間が経過する

E行動そのものに本質的な価値が見出せ、行動することそのものが目的となり、やりたいからしている。もし、やるための理由があるとしてもそれは後付の口実にすぎない(4,P78)

フロー体験は能力に見合ったことに挑戦することで産まれる

 それでは、こうしたフロー体験は、どのようにすれば体験できるのであろうか。フローが体験できるためには、まず、自分の能力が試される努力目標に出くわす必要がある。そして、その課題に立ち向かうのに自分のスキルや能力がちょうどよいレベルにある条件でしか生じない(4,P76)。課題が自分の能力を上回っていて、自分の能力を超えたことに挑戦すれば人は不安を感じるだそうし、逆に能力の方が課題を上回っていて挑戦のしがいがなければ飽きてしまう(2,P213,4,P76)。逆に、不安と退屈のバランスがちょうどとれた課題に挑戦すれば、どれほど単調で退屈に思える仕事でさえも、人はフローを体験できることになる(2,P213)。すなわち、日常でなされている活動のほとんどは、条件を満たせばフロー体験となる可能性がある。これをミハイは「最適経験」と呼ぶ(4,P80)

 すなわち、「フロー理論」によれば、どのような仕事でも、理論的には楽しくやれる。本当に楽しんで仕事をすれば、効率的に仕事ができるし、計画されている以上の目標を達成することも可能になる(1,P192〜193)。完全に集中して行動しているときには、消費されるエネルギー量も少ないから、多くの労力を要する課題を、少ない努力で解決でき、大きな成果をあげられることから、経済的に見ても効率的である(4,P79)

 けれども、ほとんどの体験はフローにはつながらない。その理由として、ミハイは、短期的に生産性が最優先することで、フローを産み出す条件と不一致が生じてしまうことだと指摘する(1,P192〜193)。その結果、フロー体験につながらない行動ばかりが選ばれることになる。前述したように、仕事の方がレジャーよりも高いスキルを求められるためフロー体験が起きやすいのだが、人々は、仕事で喜びを得られないため、テレビを選びがちなのである(4,P81〜82)

フロー体験を通じて人は幸せな人生を実現できる

 フロー体験を増やす第一歩は、日々の生活の中でまず目の前の課題に関心を向けることであろう。ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842〜1910年)は「私の経験とは私が関心を向けることに同意したものだ」と述べた(2,P216)。まさに、自分が関心を向けるものがあなたの経験であり人生となるのである(2,P217)

 外的な目標の達成よりも自分自身のために物事を行う人のことをミハイは「自己目的型の人格」と呼ぶ。こうした人物はフローを多く体験できる(4,P83)。そして、フロー体験を体験すると、次のように人生をさらに有意義に感じることができる。

@人生に対して無関心となるのではなく関心を持てる

A人生に対して退屈となるのではなく、活動を楽しめる

B自分を無価値とは思わず、自信を感じる

C物事に対して無力感を覚えるのではなく、物事をコントロールしている感覚を持てる(3, P215)

フローは老荘思想の「遊」につながる

 『荘子』の「養生主篇」には、魏の恵王の御前で、見事な刀捌きで牛一頭を素早く解体して見せ、王を感銘させる身分が低い包丁という使用人の寓話が登場する。関心する恵王に対して、料理人は「私が心がけているのは技を超えた道でございます」と答え、これが「包丁」の語源となった。荘子は、「逍遥する」や「遊」、という自発的な自己目的な概念を提唱する。「遊」とは、進路、すなわち、道に正しく従うことを意味する。これはまさにフローの概念であろう(1,P187)

 アブラハム・マズローは最高の喜びに満ちた刺激的な瞬間のことを「至高体験」と呼んだ。フロー体験と至高体験には多くの共通点がある。けれども、フローと比較して至高体験はめったに起こらない。至高体験の特質はまだ多くの謎に包まれている(4,P87〜88)。とはいえ、ミハイは「自分がやっていることに完全に没頭することで人は幸せな人生を実現できる」と主張する(3,P213)。チクセントミハイの著作『フロー体験・喜びの現象学』がベストセラーとなり、ハワイで偶然セリグマンとミハイが出会わなければポジティブ心理学運動は産まれなかったであろう(4,P75)

 確かに、幸せを感じながら人生を生きられた方がよいに決まっている。そして、幸せは、忍耐力や好奇心や粘り強さを高め、身勝手さを弱め、幸せな人の方は、楽しくない仕事も長時間継続でき、同時に複数の作業も手際よくこなせるのである(4,P83, P95)

【引用文献】
(1) ミハイ・チクセントミハイ『フロー体験喜びの現象学』(1996)世界思想社
(2) バーバラ・フレドリクソン『ポジティブな人だけがうまくいく3:1の法則』(2010)日本実業出版社
(3) ソニア・リュボミアスキー『幸せがずっと続く12の行動習慣』(2012)日本実業出版社
(4) イローナ・ボニウェル『ポジティブ心理学が1冊でわかる本』(2015)国書刊行会

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2015年06月11日

第5講 人生を半分はあきらめて生きる

幸せになれる人はごく少数しかいない無力社会

「ただ生活費のためだけに、やりたくもない仕事に何十年も費やし、いつのまにか人生が老いていく。正社員には一生なれず、年収400万円以上は絶対に稼げず、どれほど結婚したくてもいい人とは一生めぐり合えないかもしれない。まわりを見てもうまくいっている夫婦は少ない。たいして愛してもいない人と結婚してひたすら我慢の連続のような人生を生きることはたまらない。されど、孤独死することもたまらない。努力したところでその見返りがあるとは思えない。婚活や就活に励んでみても、幸せになれるかどうかの確信はない(1)

『人生を半分あきらめて生きる』で諸富祥彦明治大学教授はこう書く。確かにこれが、今の時代の気分ではないだろうか。コツコツと真面目に頑張れば、いつかは必ず報われる。そういう社会は確かにいい社会だ。けれども、努力すれば報われるというのは真っ赤な嘘だ。残念ながら今の日本社会はそれとはほど遠い。いまの時代に不安を抱かずに生きられる方が神経がまともではない(1)

無限に選択が強いられる社会

 現代は自分探しの時代だと言われる。学校においても会社においても、個性を発揮する自分らしさが尊重されている。けれども、これほどまでに自分探しや個性が求められることそのものが、現代社会の病理だ。そもそも複雑化した現在社会の中で、自分らしく生きることそのものが難しいではないか(2)

 恋愛や仕事にしても8割方が運や勢いだ。にもかかわらず、人生の選択肢の幅は極めて幅広く、仕事や結婚をはじめとして、自分がどのような人生を歩むのかが絶えず問われ続けている(1)

 アルビン・トフラーは『未来への衝撃』(1970)で、選択肢が多すぎると自由が奪われることを警告してみせた。この懸念は現実となった。商品ひとつとっても1950年から1963年にかけて、米国のスーパーで販売される石鹸や洗剤は65から200に増えた。2004年には、地域のスーパーには360種ものシャンプーやコンディショナー整髪料が置いてある。スワースモア大学のバリー・シュワルツ(Barry Schwartz,1946年〜)教授は、選択肢が多いことがむしろ生活を悪化させていると主張する(4)

ベストな選択を追い求めれば人は絶望する

 05BarrySchwartzHires.JPG教授は『なぜ選ぶたびに後悔するのか』(2004)で、過剰な選択肢を前に、世の中の人は大きく二通りの人がいること気づいた。ある最低基準を満たせれば満足してあとはもう選択しない「サティスファイサー(満足者)」と、常に最高の条件を満たすものを手に入れようとすべての選択枝を検討して追い求める「マキシマイザー(追及者)」だ(3,4)

 マキシマイザーの方が客観的には経済的に成功し、マキシマイザーの平均初任給はサティスファイサーよりも年7000ドル、20%も高い。けれども、人生や職業に対する満足度は低い(3,4)。これには理由がある。マキシマイザーは、常に、いい大学に進学し、いい職を確保し、いい車を所有し、いい服を着ようと考える。さらに良いモノを期待し続ける。この満たされることがない高い期待は人を絶望に導く(4)

選択と自己責任を強いる冷たい社会

 西洋社会では、自由や自主的な選択が健全な精神の条件とされている。けれども、すべての情報を得ることは困難だし、選択肢が増えれば判断も誤る。さらに、「別の選択肢の方が良かったのではないか」という後悔の念に常に捉われる。同時に、失敗して高い期待が満たされなければ、自分の判断が誤ったという自己責任感に苛まれる(4)

 人生はなんともならないことだらけだなのだが、自分の人生の幸・不幸のすべては「自分の選択の結果」なのだと思い込まされている。つまり、いま不幸なのは自分の選択の誤りのためだ、結局自分が悪いのだという思いを抱かざるを得ない自己責任社会なのである(1)。だから、若者たちの間では驚くほど鬱病や自殺が増えている(4)

他人との比較の幸せモデルにこだわる異常な日本社会

 さらに、日本社会が求める「自分らしさ」や「個性」は、絶えず他者と比較することで評価されるものだ。世間体、学歴、収入等、他者との比較で生きていれば、どこまで自分を高めたところで、それは、自分と同じ能力を持った他の誰かと交換可能な存在でしかない。効率がすべてに優先され、自分は交換可能な歯車のような存在でしかないことを多くの人たちが実感している(2)

 そこで、人は相手や世間から受け入れられる「匿名の誰か」という仮面を演じるようになっている。その背景にあるのは、集団から排除される不安、孤独への不安だ。世間の価値観や物事の見方にあわせることで、自分を失う人のことをマルティン・ハイデガーは『ダス・マン(頽落した人)』と呼んだが、モノやマネーはあっても夢はなく、上辺の人間関係はあっても深いつながりはない。こうした閉塞感に包まれた時代に生きている(2)

選択がない社会の方が豊かだ

 選択はあるレベルまでは自由を増やす。けれども、あるレベルを超えればむしろ不自由にしてしまうのである(4)。このジレンマを逃れる方法は、比較するのを止めることだ(3)。さらに、選択をあきらめてみよう。無限の自由がなく制約が科されていたとしたらどうなるだろうか。制約は選択肢の数を減らす。さらに、一度した選択に対しては心変わりしない方が不安感を減らせる。そして、期待しなければ、後悔もせず、すでに手にしている恩恵に感謝することができる(4)

【引用文献】
(1) 諸富 祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(2) 諸富 祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(3) ソニア・リュボミアスキー『人生を幸せに変える10の科学的な方法』(2014)日本実業出版社
(4) イローナ・ボニウェル『ポジディブ心理学が一冊でわかる本』(2015)国書刊行会
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