2017年10月21日

脳を超える心〜仏舎利の謎@

悟りの証とされた未知なる物質仏舎利

Buddha-Statue-BodhGayaS.jpg ゴータマ・シッタールダ(Siddharta Gautama)の遺体を荼毘に付すと、遺灰の中から数kgものビーズ状の物質が見つかった。弟子たちはそれを集めた(2)。インド北部のビハール州のガヤー県にあるボード・ガヤー(Bodh Gaya)に建てられた45mのブッダの銅像内にはそれが納められているという(4)。そして、一部は中国、韓国、日本へも送られた(2)。これが、いわゆる「仏舎利(sarira)」、あるいは、チベット語で「リンセル(ringsels)」と称されるものである(2,3)。「Sarira」は、本来は「身体」を意味するサンスクリット語だったが、その後に「遺骨」を意味するようになった(3)

 けれども、シッタールダの遺骨だけが仏舎利なわけではない(2)。チベットの高僧は、死後も腐敗しない。呼吸も止まり心臓も止まっているが、皮膚の色は赤みを帯びたままで数日から数週間にわたって、瞑想のポーズが保たれ、この状態が、数日、人によっては数週間つづく。この現象は、チベット語で「真実の心」、あるいは「聖なる心」という意味で「トゥクタム(thugs dam)」と呼ばれているという(6p189)

 「トゥクタム」だけでも十分に驚くべき現象だが、さらに摩訶不可思議な現象がある。ある一人のラマがトゥクタムに入ったとの報告を受けたダライ・ラマ14世は、仏塔と同じかたちの小さな構造物、「プルカン」を造って、その中で弱火で1週間以上かけてゆっくりと遺体を焼き上げるようアドバイスをした。そして、一週間後、建物を空けてみると、白い骨片と遺灰の中から五色の仏舎利が出て来たというのである(5p228)

 仏教では、悟りを開いた高僧は、凡人ではとうてい蓄えることができない物質をこの世以外の領域から体内に蓄積することができるとされてきた(3)。そして、トゥクタムに入れるほどある程度、高い悟りを得た人の場合では、荼毘に付されれば、ブッタと同じように遺灰の中には真珠や宝石のような仏舎利が残される(2,3,6p202)。確かに、普通の人たちの火葬では、そうした物質は残されない(3)。そして、その美しさは、僧侶の魂が存命中に到達した純粋さを表し、ニルヴァーナの証とされてきた(2)。中国の仏典に出てくる仏舎利は白いものだが、密教修行で高い境地にまで達すると五色の仏舎利が出るとされている(6p203)

 浄土教徒(Many Pure Land Buddhists)は、阿弥陀仏(Amitabha)の力によって、仏舎利が出現すると信じている。また、鳩摩羅什(くまらじゅう、クマーラジーヴァ、Kumārajīva、344〜413年)は、約300巻もの仏典を漢訳し仏教普及に尽力したが、その翻訳が間違っていなかった証として、火葬のされた後も鳩摩羅什の舌は無傷のまま残されたとの伝説も残されている(2)

仏舎利の成因を科学的に考える

 仏舎利はどのようにして生じるのか。その理由を科学的に説明するためいくつかの成因説が提唱されている。

 まず、仏舎利は、体内で生理的に形成されたとの説がある。僧侶たちは長時間瞑想するため代謝が低い。厳格な菜食主義に従うためその食事の内容もふつうと違う。そして、ビタミンの欠乏は腎結石につながる。つまり、瞑想習慣や食生活によって形成された腎結石が仏舎利だというのである。

 けれども、運動不足や低代謝で結石が作られるとすれば、その僧侶たちは生前にかなりの苦痛を感じていたことになる。けれども、ブッダが胆石や腎結石の痛みで苦しんでいたとはどうも思えない。さらに、胆石であれば、その色は通常、暗茶色か黒色なのだが、仏舎利の色はこれとは違う。

 さらに、胆石や腎結石はコレステロールが過剰に蓄積したときに形成される。肉食をしない僧侶たちの脂肪摂取量は平均よりもかなり少ない。また、タンパク質はマメから摂取されるが、マメにはコレステロール値を下げる働きがある。つまり、現実の僧侶たちの食生活は腎結石にかからないことにつながっている。

 第二は、僧たちが禁欲生活を送っているため、精子が体内に蓄積し、その精液が硬化したものが仏舎利であるとの説がある。けれども、この説も、比丘尼が死後に荼毘に付されたときにも仏舎利が見つかったことから誤りであることがわかっている。

 第三に、仏舎利は、真珠貝が形成する真珠と同じようなものではないかという説もある。タンパク質や炭水化物といったふつうの有機物は荼毘に付されれば燃えてしまう。そこで、仏舎利は無機物であるに違いない。そして、軟体動物は、身を守るために、アラゴナイト(aragonite)やタンパク質コンキオリン(conchiolin)を分泌する。そして、真珠貝では、砂粒やバクテリアといった異物が刺激となって、真珠が形成される。そして、ある状況下では、人間の骨が結晶構造を作れるとの証拠もある。確かに、化学分析をしてみると仏舎利の化学成分は骨に近い。けれども、髪、肉、血からなる仏舎利もある(2)

常識を超えた仏舎利の異常な物理化学特性

 1993年に、韓国の仁荷大のイム・ヒョング・ビン(Lim Hyoung Bin)博士は、仏舎利の成分を化学分析している。そのリポートによれば、仏舎利からは、カルシウム、リン酸、酸化アルミニウム、フッ素、二酸化ケイ素、ナトリウム、クロム、マグネシウム、リチウム、チタン等12種類の成分が特定された。それは骨と類似しているが、奇妙なことに放射性元素のプロトアクチニウム(Pa= Protactinium)も含まれているのである(2)

 さらに、チベットの密教経典『燃え上がる遺骨』によれば、仏舎利にも普通の白い仏舎利と青いラピスラズリやサファイア、緑の球、ルビーのような鮮やかな色彩に輝く仏舎利の2タイプがあり(5p231,6p203)。後者は金床の上に置いてハンマーでたたいても壊れないという(5p231)

 実際、仏舎利はダイヤモンドよりも硬いことが知られている。スチールですら12000lb/m2で壊れるのだが、イム博士の試験でも仏舎利は15000 lb/m2でも無傷のままであった。さらに3000度でも無傷なほど高熱にも耐える。その不可解な起源に加えて、その信じ難いほどの物理化学的特性を理解する多くの試みは、実を結ばなかったのである(2)

 さらに、『燃え上がる遺骨』によれば、仏舎利は遺灰の中に残されるというよりも、頭蓋骨のところから小さな球が次々と出て来てそれが増殖していくという(6p203)。根っからの合理主義者で、ひどく疑り深い京都文教大学の永沢哲准教授はこの様子を確認にいく。そして、准教授が目にしたのは、ラマのものと思しき真っ白な頭蓋骨だった。そして、その中からは直径2cmほどの白い球のような球状の無数の骨が溢れ出し、時間が経つに連れて透明な真珠へと姿を変えているのであった(6p229)

仏舎利からは聖なるエネルギーが放出されている

Amma.jpg インターネットオークション、Ebayには、わずか10ドルで仏舎利が売り出されているし、組織を維持するため仏舎利のコレクションを4000ドルで販売しているグループもある(3)。けれども、本物の仏舎利は、弟子たちが崇拝できるように、生前の師の意志によって意図的に残されたものであり(2)、その中には他界した僧侶の意識が刻印されていると言われる。実際、仏舎利には、聖なるパワーがあり、信心深い者も、信仰心が薄い者も、そこから発せられる静寂感(The sense of serenity)によって魅了するとされるという。中には、聖母アマチ(Amma=Hugging Nun)と同じエネルギーを感じると述べる人もいる(4)

 けれども、現実の仏舎利は希少で、かつ、聖なるものと考えられて来たため、この現象に関しては、ほとんど研究がなされてこなかった(3)。けれども、スタンフォード大学のウィリアム・A・ティラー(William A. Tiller)名誉教授とメイヨー・クリニック(Mayo Clinic)の医師、ニシャ・J・マネック(Nisha J. Manek)博士は、仏舎利に関する研究を行い、2012年にアリゾナ大学で開催された『意識科学に向けた会議(Toward a Science of Consciousness Conference)』でその結果を発表した(3,4)。そして、仏舎利には生前の僧の意志が刻印されていると述べ、多くのファンを喜ばせた(4)

 マネック博士は、スタンフォード大学で学んだ後、長年、メイヨー・クリニックで働き、現在は、ティラー名誉教授の「心霊エネルギー科学研究所(Institute for Psychoenergetic Science)」で研究を行っている(3)。博士は、仏教徒ではなかったが、2009年9月にミネソタ州のミネアポリス(Minneapolis)で開催された仏舎利の展示会に参加したところ「私の世界観はひっくりかえってしまいました。人生が変わる経験をしてしまいました」と博士は語る(1)

Nisha-Manek.jpg「お堂に入ると同時に、すぐさま、強力な意識が存在している状態を感じたのです。まるでブッダ自身がそこにいるかのようでした。その状態は言語化できず、深遠なものでした。このうえなく穏やかで、無限のように思える平和と静寂さがありました。時間が存在しなくなり、私の心は静まっていきました。普段の心の中でのおしゃべりがなくなったのは驚きでした。驚きながらも好奇心から身をまかせました。そして、洗練されたエネルギーが仏舎利から心臓センターへと流れているのを感じました。ワンネス(Oneness)の巨大な感覚、誰しもやすべてと調和している感覚をそれは伝えていたのです。通常の体験でそれに匹敵するようなモノはありませんでした」(1)

 2010年7月30日。ロサンゼルスのヒンズー教徒寺(Los Angeles Hindu Temple)でまた別の仏舎利の展示会が開催されるが、マネック博士は9ヵ月前の体験を再確認する。そして、数千人の展示会への参加者からのメッセージや電子メールから、やはり認識のシフトが生じていたことが判明する。

 参加者たちがどのような宗教を信じているのか、瞑想の習慣があるのかどうかは重要ではなく、多くの人々が深い平和な感覚を報告して涙を流した。病気が快復してしまった人もいた。ある初老の男性は重い糖尿病で腎臓透析をしていたが、それさえ治ってしまった。そして、展示会に参加した1年半後もまだ健康だという。

Fig6S.jpg この写真をご覧いただきたい。これは、仏舎利が展示される前の7月25日にカリフォルニアのサンタ・アナ(Santa Ana)で、プロのカメラマンが普通のキヤノンのカメラで撮影した画像である。写真の左下には祭壇からアーチ状に伸びる金色の半透明の光が明らかに映っているが、これは肉眼では見えなかった。

 2011年7月には、ケニアのナイロビで3日間、やはり仏舎利の展示会が開催され約5000人が訪れたが、この展示会でも、様々な信仰や経験を持つ誰もが平和と落ち着きを感じ、人生において何をすべきかについて最高の直観を得たと報告している(1)

geshe-lama-konchogS.jpg 2014年の11月にはアイルランドでも展示会がなされた。噂によれば、その一部は2500年前のブッダ本人のもので、ダライ・ラマ法王から提供されたものだという。中国によって破壊された僧院から確保された者や、25年も山中の洞穴で瞑想をしたゲシェ・ラマ・コンチョグ(Geshe Lama Konchog, 1917〜2001年)の仏舎利もあった。従来の科学からは理解できないが、すでに68カ国で約230万人が、仏舎利展示会でこうした体験をしている。あらゆる会場で再現されるエクスタシーや涙、そして、静けさによって仏舎利の持つパワーは明らかなのである(4)

脳を越える肉体なきマインド

 自然を理解するための従来の科学的な研究方法とは、科学的な事実として認められることを『ボトムアップ』で構築していくアプローチである。けれども、仏舎利展示会に参加したごく普通の人たちのスピリチュアルな経験は神経科学的な従来の意識モデルが瓦解することを意味する。

 神を信じることと実際に神に接した経験をすることとはまったく違う。仏舎利は、言葉や文字を介さずに「無条件な慈悲」のエネルギーを人々に直接与えている。高いスピリチュアルな状態についての知識ではなく、インスピレーション体験を強力に伝播する能力がある(1)

 これは、仏舎利に意識、生来の知性(innate intelligence)があることを意味する。そして、この異常で奇跡的に見える仏舎利現象を理解するためには、物理的に存在しない『肉体』や『神経系』を研究するという事実に直面せざるをえなくなる。なぜならば、物理的な『肉体』や『神経系』に一切依存することなく、どうしたわけか仏舎利からは「無条件な慈悲」といった高められた意識(evolved consciousness)が発せられているからである(1)

william-a-tiller.jpg つまり、仏舎利には何かのエネルギーがあり、それは崇拝者にインパクトを与えることができる。同時に、そのエネルギーは崇拝者によっても仏舎利へとある程度映されるかもしれない(3)。というのは、仏舎利を保管している人たちによれば、仏舎利は明るくなったり、虹をもたらすことができ、敬虔な環境におかれれば増えることもあるが、逆に、ズボンのポケットのように『聖ではない環境』に置かれると、姿を消してしまうと指摘されているからである(1)

 それでは、「無条件の慈悲」のような意識は、いかにして、仏舎利の形で存在できるのであろうか。この謎に答えるには「精神エネルギー科学(Psychoenergetic science)」が役立つ(1)。マネック博士は「仏舎利からある種のエネルギーが放射され、それが自分の心臓に流れていると感じた。このような経験ができるものはなかった」と説明するが、博士が主観的に感じたエネルギーを客観的に測定するための方法をティラー名誉教授は開発してきたからである(3)(続)。

【画像】
ブッダの銅像の画像はこのサイトより
永沢哲准教授の画像はこのサイトより
聖母アマチの画像はこのサイトより
ニシャ・J・マネック博士の画像はこのサイトより
光の写真は文献(1)より
ゲシェ・ラマ・コンチョグ師の画像はこのサイトより
ウィリアム・A・ティラー名誉教授の画像はこのサイトより

【引用文献】
(1) Nisha J. Manek and William A Tiller, The Sacred Buddha Relic Tour: For the Benefit of All Beings Presented at the Annual Toward A Science of Consciousness Conference: Forum on Eastern Philosophy Symposium University of Arizona Center for Consciousness Studies, Tucson, Arizona, April 9th, 2012
(2) Biochemical Mysteries, Last Assignment: Solution?, Hypotheses/Theories relating to the Mystery,April 2013.
(3) Tara MacIsaac, What Are the Pearl-Like Objects Found in Monks’ Ashes After Cremation?, The Epoch Times, Feb28, 2014.
(4) Manchán Magan, Do Buddhist relics have powers? See foryourself, Irishtimes, Nov 14, 2014.
(5) 永沢哲「骨の宝石〜ブッダの境地の証」『チベット仏教』(2016)サンガジャパン
(6) 永沢哲・藤田一照『禅・チベット・東洋医学』(2017)サンガジャパン


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2015年07月10日

第27講 出現する未来から学ぶ(2)〜伝統的叡智の復興

はじめに

『ピーター・センゲのU理論を再解釈してみた』というブログの中で、谷藤友彦氏はこう書いている。

「ピーター・センゲは『最強組織の法則』で有名になった人物である。それだけに、『出現する未来』(2006)講談社BIZを書店で初めて見た時に「何と胡散臭いタイトルの本だろう。どこで歯車が狂ったのか」と思ったものだが、狂っていたのは私の思考の方だった」(2)。

 幸せ探偵は、中土井僚氏の『人と組織の問題を劇的に解決する U理論入門』(2014) PHP研究所を読み、『U理論』がよく理解できなかったのだが、センゲの『出現する未来から学ぶ』を読むことで、ブライアン・アーサー博士の複雑系の理論やディヴィッド・ボームの「内在する秩序」、マインドフルネス瞑想、さらには、伝統的な先住民の叡智とのつながりが見えてまことに得心がいった。センゲらは、ミハイの「フロー理論」に直接、言及はしてはいない。けれども、「深い目的のソースとつながったとき、驚くほどのシンクロニシティが起きて楽に生きられる」というのは、まさにフローな生き方そのものではないか。今回は、「出現する未来」の後半を紹介する。

人は偏見によって創造力を失っている

27Gardner.jpg ハーバード大学教授のハワード・ガードナー(Howard Gardner, 1943年〜)博士は、プロジェクト・ゼロで、赤ん坊の知能の発達と年長者の知能水準を調べてみた。すると空間能力、運動感覚能力、音楽能力、対人能力、論理数学能力、内省的能力等で4歳までの子どもはほぼ天才的な水準にあった。けれども20歳ではその割合は10%、20歳以上では2%にまで低下した(1p45)

 才能はなぜ低下するのか。スタンフォード大学ビジネス・スクールのマイケル・レイ(Michael Ray)博士は「才能が失われたのではなく、分別の声に隠されているのだ」と言う。「できるわけがない。そんな馬鹿な考え方をという分別を保留する能力を高めることで、日常で創造性を高めることができる」とレイは言う。レイのビジネスにおける個人の創造力の開発講座は、次の三つを前提としている。

 @創造性は健康や幸せやビジネス等、人生のあらゆる分野での成功に欠かせない

 A創造性は誰にもある

 B創造性は誰にもあるが分別の声に隠されている(1p45)。

 27michael Ray.jpg恐怖や不安を感じるとき、人は習慣的な行動に戻る。集団も例外ではない(1p24)。分別の声は、個人と同じく集団の創造性の芽を摘む(1p46)。生命体には異物への偏見がある。既存システムは「他者」や「部外者」「異邦人」を敵視する。そのため、組織でも免疫システムが働くと、新しいことを取り入れるのはさほど重要ではないと自分に言い聞かせてあきらめる。そして、イノベータ―は敵視され、レッテルを張られ、酷い扱いを受ける(1p51)

 ブライアン・アーサー(Brian Arthur, 1945年〜)博士はプリゴジーンに触発された2年後の1982年にこの考え方をまとめたが、論文が掲載されるまで6年がかかった。さらに、スタンフォード大学の教授の地位を追われることになった(1p52〜53)。これも偏見のためであろう。

第1ステップ〜保留 見るためには思考を止める必要がある

 偏見を捨てて、新鮮な目でモノを見るためには、習慣的な考え方やモノの見方を止めなければならない(1p44)。多くの改革プロセスでは、状況について自分の想定を裏付ける情報だけを集めている。すなわち、過去の経験と記憶を反映して、あらかじめ、見ているつもりのものだけを見ている(1p111)

07bohm.jpg 物理学者のデイヴィッド・ボーム(David Bohm, 1917〜1992年)は「ふつうは人間は思考を支配しているのではなく、思考が人間を支配している」と語る。そして、この既存のメンタルモデルを破壊することはできない。そこで、ボームは、現実についての無意識の想定を目の前に掲げてみることが必要だと指摘する。それによって自分の心がどのように動いているのか、自分のメンタルモデルに気づくようになる。自分の思考を意識できれば、自分の思考によって見るものを左右されることも少なくなる。すなわち「見ることがどういうことかがわかる」ようになるのである(1p44)

 認知科学者フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela Garcia, 1946〜2001年)によれば、この能力を開発するには習慣的な思考の流れから自分自身を切り離す―保留―を学ばなければならない(1p44,218)

 人は自分の考え方にしがみついている。しがみついているのを止めたとき、自分の考え方に気づく。思考はすぐになくなるわけではないが、しがみついていた時ほどのエネルギーはなくなる。これが保留なのである。ヴァレラはこの「保留」こそが意識を高める第一の基本動作だと言う(1p44)

思考の流れを止めなければ適切な判断ができない

27老師.jpg 香港で非常に著名な学者、南懐瑾(ナン・カイキン,1818〜2012年)は、現代最高の禅僧であるとともに、道教の師でもあり、最高の儒学者でもあった(1p214)。南老子によれば従来の『大学』の解釈は間違っている。リーダーになるためには、意識、停止、平静、静寂、静寂、安穏、熟考、到達の7ステップを経なければならないとされているが、これは伝統的な瞑想の7段階と類似すると指摘する(1p216)。すなわち、停止は「思考の流れを止める」ことを意味する。思考停止がリーダーに重要なのは、欲望や怒りや恐れや不安といった感情に邪魔されて「的確な判断」ができないからである(1p217)

 仏教でも、素早く動く思考を滝のようなものだと考える。けれども、意識して思考を止めることができれば、思考は水滴と同じようなものであるとわかる。普通の人には思考の隙間が見えないが、修練すれば思考が瞬間、瞬間に変ることに気づく(1p218)

偏見を捨ててモノを見るためには瞑想が役立つ

 27mindfulness.jpgマサチューセッツ大学医学大学院教授で同大マインドフルネスセンターの創設所長として、瞑想と苦しみの軽減の関係を研究するジョン・ガバット・ジン(Jon Kabat-Zinn,1944年〜)博士は、瞑想を二つのレベルに分けて説明するが、その第一段階が集中である。集中しはじめると、心そのものがひとつの生き物であり、どこにでもいくことがわかる(1p69)。不安、判断、心のおしゃべりが途端に現れる。これをマイケル・レイ博士は「分別の声」と呼ぶ(1p44)。けれども、注意力を研ぎ澄ますことによって、過敏に反応したり苛立ったりすることがなくなっていく(1p69)。この集中は「保留」にあたる(1p70)

第2ステップ〜転換 背景にある生成プロセスを理解する

関心が対象から本源に移すことで生成パターンが浮かび上がる

 習慣的なモノの見方の「保留」が最初の基本動作であるとすれば、二番目の基本動作は「転換」である。ヴァレラはこの「転換」について「対象ではなく根源に向けることだ」と説明する(1p61)。ヴァレラは言う。

「保留してもたいしたことが起きないと言う人が多い。けれども、最初に何も起きないのには理由がある。保留した後に何も起こらない状態に耐えることが重要だからだ。保留によって、生成する出来事やコンテンツ、パターンが浮かび上がる。その時になって、初めて関心をそれらに向け直すことができる。そこが新しいことがある場所なのだ」(1p61)

27henri.jpg 物理学者、哲学者ヘンリー・ボルトフト(Henri Bortoft, 1938〜2012年)博士は、デイヴィッド・ボームの弟子で共同研究者だが(1p239)、博士によれば、人間の関心は本来、個別で具体的なものに向かう傾向がある。大きなシステムを見ようとするときには、各部分が他の部分とどのように関係しているのかを見て、大きなパターンを類推しようとする。けれども、大きなシステムはなかなか見えない。そこで、全体を見るのをあきらめて部分に戻る(1p65)。大きなシステムを頭でわかろうとしても、せいぜい概念を理解できるにすぎない。これをボルトフトは「偽りの全体」と呼ぶ(1p66)

 けれども、部分を見ることによって全体を理解する方法があるとして、博士は、ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749〜1832年)の『植物観察法』を例にあげる。一枚の葉を見てそのイメージを頭の中で正確に再現する。この作業を何枚も重ねていくと、当然一枚の葉だけでなく、全体のダイナミックな動きが見えてくる。葉を作り出している植物の生きている場が見えてくる。

 ふつうは葉(客体)が前面にあって、その葉を生み出している形成の場、ダイナミックな生成プロセスは背景にあって目に見えにくい。それが入れ替わり、背景が突然に前面に出てくると、真の全体に出会い「全体が見える」ようになる(1p65〜66)

「保留」から「転換」へのシフトに必要なことについて、ボルトフト博士は「あらゆるものの中には全体がある。自然は部分が全体を具現化する場なのだ」と述べる(1p20)

二元論が解体すると受け身の観察者から積極的な創造の参加者に変る

 主体と客体の二元論が解体すると、観察者として超然と「外から世界を見る」のではなく、見られている対象を「内側から見る」ようになる。意識を「源」に転換すれば、共感が起きるだけではなく、「見る側」と「見られる側」との境界が消滅する。境界が消滅したとき、深い一体感が得られるだけでなく、変化の感覚が研ぎ澄まされる。固定されていたものがずっとダイナミックなものだと思え、自分自身がその創生に関わっているとの自覚が産まれる(1p61)。頭でわかろうとしていては決してなしえないが、受け身の観察者から積極的な参加者に変るのである(1p67)

二元論を超えて全体からモノを見るためには瞑想が役立つ

 すなわち、既存の見方を保留する次には、見えるものの背後にある生成プロセスへと意識を転換する能力を磨くことにある。これが全体から見る鍵となる(1p60)。そして、「転換」することによって全体から見る能力を開発するには、主体と客体という二元論を超える能力を磨くことが必要である。この精神的なトレーニングを目的としているのも「瞑想」である。

 不快であってもそれに囚われて追い出そうとするのではなく、判断をせずに、ただ瞬間、瞬間に意識を向けていると、客体と主体をわける限定的な意識の表面の奥にあるものを見通せる意識を開発でき、それ以前にみえなかった「つながり」が見えてくる。つながりは、見ようと思って見えるわけではない。ただ、静寂の中から自ずから生れる」。この第二のレベルの『気づき(マインドフルネス)』が「転換」にあたる(1p70)

転換が訪れ静寂の境地に至ると真のコミュニケーションが可能となる

 南懐瑾によれば、思考を止めると、心が穏やかとなり、静寂に至る。次には心に平和が訪れ、真の思考が訪れる。すると人生をあるがままに見られるようになる。これも「転換」にあたる(1p219)

27Martin Buber.jpg オーストリア出身のユダヤ系宗教哲学者、社会学者のマルティン・ブーバー(Martin Buber, 1878〜1965年)は、これを「我とそれ」の関係から「我と汝」への関係の転換と呼ぶ。「我とそれ」の関係では目に見えるすべては「それ」であって、自分から切り離された外部の対象である(1p59)。それに対して、「我と汝」の関係では、意識にのぼるすべては自分と密接な関係のある全体なのである(1p70)

 ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895〜1986年)は「静寂のあるところでのみ真のコミュニケーションが成立し、真のコミュニケーションがないのは静寂がないからだ」と語っている。静寂が訪れたとき、誰もが起ころうとしているのに普段は気づかない何かが聞こえ、眼に見え、理解できるのである(1p101)

第3ステップ 出現する未来を感じてフローで生きる

 ヴァレラは、保留と転換に続く三番目の基本動作を「執着を手放す」ことだと指摘する(1p120)。転換によって主体と客体の二元論的思考を乗り越えることで意識の新たなレベルが開かれたとしても、人はこの新たなレベルにこだわりやすい。それに執着すると、いま、この瞬間から切り離される。そのため、常に執着を手放さなければならない(1p121)

 仏教では、「ヴィタルカ」と「ヴィチャーラ」という二つの言葉で微妙な心の執着状態を表現する。ヴィタルカとは自分が実現しようとしていることを求めている執着である。ヴィチャーラとは自分が何かを実現していることを「見ている」状態である。けれども、ヴィチャーラも望む結果に執着しているという点では、執着している。このため、これを克服することが必要なのである1(p121)。己を手放すことで、さらに大きな気づきの道が開かれ、いま出現しつつあることを感じられるようになる(1p122)

出現する未来とつながると意志決定は不要となる

 一般の改革では、カリスマ性のあるリーダーがビジョンへのコミットメントを一方的に求める(1p112)。多くの改革プロジェクトは「計画」に固執する(1p115)。問題はあくまでも外にあり、ビジョンも問題に対応するための変革戦略にすぎない(1p160)。リーダーや企業幹部は組織と自分が切り離されたものであるとし、組織を「改革」しようとする。「変革イニシアチブを推進する」という言葉そのものが、現実を外部にあるものと想定している。そして、変革に抵抗されると苛立つ(1p116)。経営幹部が策定するビジョンの多くが表面的なものにとどまるのは一人や二人の考えを全体に押し付けたものだからだ(1p161)

26w-brian-arthur.jpg けれども、ブライアン・アーサー博士によれば、「出現する未来」とつながり、「内なる知」とつながったときには、意思決定は必要はない。何をすべきかは自ずから明らかになり、何を達成できるかも自分が何者かによって決まるからである(1p112)。リアライジングでは、行動は理性ではなく、より深いソースから起きている。行動している自分を眺めるように没頭しながら同時に離れている(1p115)。自分たちが何を産み出したいのかは、出現する未来に対する責任に気づくことから自ずから生れる(1p160)。何をすべきかは考えるまでもなく明白になる。何が正しいのかがわかれば決断する必要もない。ただ、それをやればいいのである(1p167)

エゴをなくして、出現する未来とつながると人生の目的も見えてくる

27rosch.jpg カリフォルニア大学バークレー校の認知心理学のエノレア・ロッシュ(Eleanor Rosch,1938年〜)教授は、これを「行動は全体から自然に生まれる」と表現する(1p167,173)。2500年前に老子は「無為にして為さざるなし」と表現していた(1p173)。

 マルティン・ブーバーは『我と汝』でこう語っている。

「自由な人間とはエゴなくして意志を持つひとである。運命を信じ、運命が自分が必要としていることを信じている。運命がどこで待ち受けているかはわからない。物事は思い通りにならないかもしれない。けれども、来るべきものは来る」(1p174)

 ささいなことで悩んだり、自分が勝ち組か負け組かと考えているのは、間違っている声に耳を傾けているからである(1p171)。自分の仕事が何なのかを大いなる意思が教えてくれるとき、自分が誰なのかというアイデンティティと何のために生きているのかという人生の目的が仕事と重なりあう(1p170)。そして、自分の意志を通そうとしないときに、自分の意志だけでは喚起できない大きな力が働く(1p115)。深い目的のソースとつながったとき、驚くほどのシンクロニシティが起きてくる(1p191)

U理論の世界観の背後には新たな世界観がある

27Otto Scharmer.jpg マサチューセッツ工科大学上級講師、C・オットー・シャーマー(Claus Otto Scharmer, 1961年〜)博士は「今の経営学でもリーダー論でもほとんど手が付けられていない分野がある。盲点になっているのは、自分が何者か。行動を産み出す心のソースは何かなのだ」と言う(1p18)

 グローバル経済によって競争が激化する環境で生き抜くための戦略を探るべく、マッキンゼー&カンパニーから、世界でもトップクラスのリーダーにインタビューを行うプロジェクトをオットー博士は依頼された。依頼を受けたオットー博士は、学者、企業家、ビジネスマン、発明家、科学者、教育者、芸術家等、多岐に渡る領域において革新的な業績を残している150人のリーダーにインタビューを行う。

 そして、多くのリーダーの口から、創造の重要性として「内面の状況」の重要性が繰り返し語られたのである。 このため、オットー博士はイノベーションが起きる時のリーダーの「内面の状況」がどのようなものなのかに興味を抱く。そこから産まれたのが「U理論」なのである(3)。そして、この「U理論」の世界観も、20世紀初頭の相対性理論や量子理論以来、生物学、医学、認知心理学といった現代科学の発展によって起きている世界観の革命とは切り離すことができない(1p225)

エゴが消え、境界がなくなったとき、自ずから慈愛が生じる

 ボームによれば、現代社会が直面する社会、政治、そして、環境危機の隠れた原因は、物事を分離して見る「断片化」にある(1p227)。なればこそ、ボームは「意識を高め、全体の一部となること、世界との一体性を感じることが重要だ」と語り(1p242)、「ベルの定理は『分離なき分離』が人間の自然な状態であることを示している。今後、最も重要なことは、人と人との垣根を取り払い、ひとつの知性として機能できるようにすることである」と述べている(1p226)

 26Humberto Maturana.jpgヴァレラとともに、先駆的な認知理論、サンティアゴ認識理論を提唱した、ウンベルト・マトゥラーナ(Humperto Maturana,1928年〜)博士も「愛は人と人とを結びつける。他者を認める愛こそが、知性を磨く唯一の感情である」と述べている(1p235,287)。不安は人と人とを離れさせるだけだからだ(1p287)

 エノレア・ロッシュ教授も『心の奥底の源』にユニークな知があると語る(1p74)。ロッシュによれば、仏教では独立した自己という概念はない。そして、根源知は孤立した部分ではなく密接に関連した全体から生起し、こうした意識から産まれる行為は自然に生まれるもので、意思によって決められたものではない(1p123)。そして、自己よりも大きな全体に基づいているため慈悲がある(1p124)

 ヴァレラも、自己が主体であると感覚が脆くなるほど共感性が増し、他者を受け入れ築かう余裕が生まれ、他者が近くなり、連帯感、共感、慈しみ、愛、共にいるあらゆる感情が自己が周辺に退いたときに現れるという。この瞬間が宇宙からの大切な贈り物だと感じられ、本来の姿になれるという」(1p127)

最先端の科学は伝統科学の世界観に追いついてきた

27RosevonThater-Braan.jpg 伝統文化が、自然と人間が一体であると認識してきたことに着目し、伝統的な叡智や科学を研究する総合学習センターを設立した、ローズ・フォン・タータブラン(Rose von Thater-Braan)は言う。

「伝統科学と西洋科学との違いは目的にある。西洋科学はおしなべて自然支配を目的とし、自然を商品化するために理解しようとする。これに対して伝統科学の基本的な目的はより人間らしくなり、自然と人、人と人とが調和の中で暮らす方法を学ぶことにある。伝統科学でも生活を楽にするための技術を発明することがあるが、それは常に人間としての成長よりも重要性が低い」(1p242)

 もともと古代の先住民たちは、自分たちを宇宙の一部だと考え会てきた。古代アナサジ族が、宇宙内部のバランスを保つためにダンスと儀式を行わなければならないと考えていたのもそのためだったのである(1p285)

【引用文献】
(1) ピーター・センゲ他『出現する未来』(2006)講談社

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2015年07月08日

第26講 出現する未来から学ぶ(1) 

デカルト・ニュートンモデルは崩壊している

 07bohm.jpg1950年代半ばに物理学者デヴィッド・ボーム(David Jose1ph Bohm, 1917〜1992年)は、量子理論の新たなアイデアをロンドンのユニバーシティ・カレッジで講演する。ボームは素粒子が二つに分裂したとき、片方のスピンを変えれば、たとえどれほど距離が離れていても、もう片方のスピンも即座に変ると予想した。この講演に魅了された若き物理学者ジョン・スチュワート・ベル(John Stewart Bell, 1928〜1990年)は、それを証明する実験方法を精緻化する。そして、この実験の結果、20世紀最大の衝撃のひとつとされる「非局所性」が示される(1p232)。ベルによって明らかにされた非局所性は、ニュートン的世界観の基礎となる原因と結果という一般通年に反するし(1p232)、ボームが提唱する分割できない「全体性」は3世紀以上も以前にデカルトが打ち出した西洋科学の基礎に意義を唱える(1p234)

生命には自己組織化する力がある

 バックミンスター・フラー(Buckminster Fuller, 1895〜1983年)は、人に手を見せて「これはなんですか」と良く問いかけた。当然ながら相手は「手」だと答える。けれども、手は絶えず変化し手の細胞は1年足らずで完全に入れ替わる。フラーは言う。

26Buckminster Fuller.jpg 「見ているのは手ではない。宇宙が手をつくる能力『パターン統合』である」(1p19)

 このように生命体には自己組織化する力がある。生物学者のルパート・シェルドレイク(Rupert Sheldrake,1942年〜)博士は、この組織化のパターンを『形態形成場』と呼んだ(1p19)。細胞は同じ遺伝子情報を持っているが、成長するにしたがって、眼や心臓、肝臓の細胞へと分化していく。これが可能なのは、各細胞が周囲の状況にしたがってある種の社会的なアイデンティティを確立するからである。この社会的アイデンティティを失えば、細胞は、有機体の生命を脅かしかねない。事実、これが癌細胞なのである(1p20)

  さらに、シェルドレイク博士は、形態形成場そのものが進化すると考え、これを「形態共鳴」と呼んだ。どの形態システムも過去のシステムと共鳴する。キリンの胎児ならば、それ以前に成長したキリンに共鳴し、このプロセスでキリンはキリンという種の集団的記憶を呼び起こし、記憶の形成に貢献していく。これは、カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875〜1961年)のいう集団的無意識に似ている(1p238)

複雑系の理論は自己組織化・創発・認識を明らかにした

 20世紀の物理学の基本的な考え方を一言でいえば、物質よりも関係性の方が本質だということだ。フルシチョフ・カプラ(Fritjof Capra, 1939年〜)によれば、細胞内の代謝ネットワークから、生態系の食物連鎖、人間社会のコミュニケーションに至るまで、生命体の構成要素もネットワークの形でつながっている(1p232)

26Francisco Varela.jpg そして、複雑系理論は、イリア・プリゴジン(Ilya Prigogine, 1917〜2003年)による化学反応の自己組織化、チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナ(Humberto Maturana, 1928年〜)とフランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela Garcia, 1946〜2001年)による自己創発や認知の研究がベースとなり、生命が持つ以下の三つの基本的な特徴を明らかにしてきた。

 自己組織化(オートポイエーシス)

 創発 過去から予想できない方法で新たなパターンを産み出す

 認知 環境と相互作用をうまく進めていく意味での意識を持つ(1p237)

 こうした新たな世界観の際立った特徴は「一体性」にある。外に顕れる現象と内なる世界の経験の一体性、人と人、そして、人と世界との一体性である。それは、従来のニュートン力学の世界観とは根本的に異なっている。

 とはいえ、ガリレオやニュートン以来、科学パラダイムが西洋科学の柱となるのには2世紀以上の歳月がかかり、その基本的な概念が技術や公教育を通じて社会に浸透し、リーダー論や経営に科学的な手法として取り入られるまでには1世紀以上がかかっている。したがって、こうした新たな世界観がいまだにコンセンサスを得られていないのも無理がない(1p225〜226)

経済学は複雑系理論を理解できていない

26prigogine.jpg 経済学者ブライアン・アーサー(Brian Arthur, 1945年〜)博士の収益逓増理論の概念は、イリア・プリゴジンのポジティブ・フィードバックの論文に触発されて誕生した。アーサーはこう語る。

「プリゴジーンはシロアリの巣のつくり方から、言語が優勢になる現象まであらゆる自己組織化の構造について語っている。世界中で英語を話す人が増えれば増えるほど英語を習得することは有利になる。つまり、成功したものはさらに成功する傾向がある。この考え方は経済でも重要であることに気づいた」

 アーサー博士は、小さな出来事の積み重ねで経済構造が固定化されると考えるようになった。すなわち、市場は万能ではないし、経済は完全ではない。資本主義であれ、他の形態であれ、経済は小さな出来事が積み重なることによって、最善ではない構造にもたどり着いてしまう(1p52〜53)

 アーサー博士は経済を自己組織化システムと見るようになったのと同じく中国の導師について道教を学ぶようになる(1p54)。博士本人はこの道教の師との出会いを『人生最大の出来事』と語っている(1p56)

未来から学ばなければ経営も成り立たない時代

 米国の思想家、ジョン・デューイ(John Dewey, 1859〜1952年)が提唱したのは、「観察」「発見」「新たな行動の発明」「新たな行動の創出」という4プロセスだった。そして、組織の改革モデルもいまだにプラン、ドゥー、シーである(1p109)。こうした変革のプロセスの大半は表面的なものにとどまっている(1p110)

 けれども、技術開発のペースが加速化する中、ジョセフ・シュンペーターの言う「創造的破壊」のペースも加速化している(1p106)。グローバル経済が発展することで競争が激化し、付加価値はすぐに模倣され、ますます差別化しにくくなっている(2)。昔の製造業とは異なり、企業ももはや同じ製品を作り続ける場ではなくなっている(1p106)。こうした経営環境で生き抜くために必要な真の競争優位の源泉は何なのだろうか(2)

 「過去からの学習」は、因果関係が比較的シンプルで、ある程度未来が予測可能な状況で効果を発揮する。現在のようにニーズが多様化せず、効率性が競争の優位の鍵であった大量消費大量生産の時代には非常に効果的である。けれども、いま私たちが直面しているのは、「環境の持続可能性」「少子高齢化」「新興国の台頭」等、過去に経験したこともなく、問題の全貌すら明らかになっていない「複雑な問題」である。

 かつて、アインシュタインは「問題を作り出したのと同じレベルの思考では、その問題を解決することができない」と語った。このような複雑な問題を「過去からの学習」だけで解決していくのには限界がある(2)

「過去の経験に基づいて意思決定を行うことは最適でも賢明でもない。『出現する未来』を感知できなければ経営課題に対処できない」とブライアン・アーサー博士は言う(1p106)

イノベーションは予測の中では生まれない?


 2015年06月20日の「第14講 死を意識して今日を大切に生きる」では、スティーブ・ジョブズ(Steve Jobs, 1955〜2011年)の発言を紹介した。

 米アップル社の創業者で、2011年10月5日に惜しまれながら逝去した故スティーブ・ジョブズが2005年6月12日にスタンフォード大学で行った卒業祝賀スピーチでは、波乱万丈の人生の中で培った興味深い洞察が紹介されている。

「先を予測して、点と点をつなげることはできない。あとで振り返って点のつながりに気付けるだけだ。だからこそその点が、将来何らかのかたちで必ずつながっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ……何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつにつながっていく、そう信じることで他の人と違う道を歩いていたとしても、君たちは自信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。それが人生に違いをもたらすことになる」

 ビジョナリーな人、イノベーションを起こせる人ほど、未来が見通せて、そこに向かって一直線に猪突猛進しているように見える。けれども、まるで未来を見通していたかのように数々の偉業を成し遂げてきたスティーブ・ジョブズが、先を予測して点と点をつなげることができないと言及しているのだ。

14jobs.jpg けれども、ジョブズはこのスピーチの中で、次のようにも語っている。

「他の人の意見という雑音に自分自身の内なる声をかき消されないようにしよう。そして最も重要なことは、自分の心と直感に従う勇気を持つことだ。心と直感は本当になりたい自分をどういうわけか既に知っている。その他のことはすべて二の次だ」

 点と点が必ずどこかでつながっていくと信じ、心と直感に従って生きる。そして、その結果としてイノベーションが生まれていく(2)

 ブライアン・アーサー博士によれば、科学者も同じである。ほとんどの科学者は既存のパラダイムを状況にあてはめるだけだが、超一流の科学者は違う。型通りの理解とは別に深いレベルの『知』がある。

 アーサー博士によれば、このプロセスは三つにわかれる。

分類ブライアン博士U理論
@ひたすら観察することで世界と一体となる段階センシング
A後ろに引いて内省することで内なる知が浮かびあたる段階プレゼンシング
B流れにそって素早く動く段階リアライジング

(1p110)

 「過去からの学習」と「出現する未来からの学習」スティーブ・ジョブズが、あの演説で語ろうとしたことは正にこの「出現する未来からの学習」のことであった(2)。スティーブ・ジョブズが成功したのも、型どおりの反応を避けるやり方を知っていたからである(1p106〜107)

内なる心にしたがうことで思い通りの人生を生きられる

 もちろん、誰もがジョブズのようになれわけではない。けれども、ジョブズのように自らの心の声に従いながら変化や創造を起こしていく生き方に挑戦していこうとする人にとっては、その旅路を歩む上での心強いコンパスとして「出現する未来からの学び」は役立つ(2)

 26w-brian-arthur.jpg何をすべきかは「感じ取らなければならない」。そして、論理的に考えて行動はせず、感じるままに動きその場と一体となる(1p110)。武術で何をすべきか考えていては命はない。とアーサー博士は言う(1p107,115)

 アーサー博士は、イノベーションに伴う「内側からの知」について「内なる知」はここから来ると言い、心臓を指す(1p74,108)。アーサー博士のように内側から全体が見られるようになったことを心臓のイメージを説明する人が多い(1p74)

 人間には主要な神経ネットワークが、脳の他に、心臓と腸にある。「賦に落ちない」とか「心でわかる」というのは生理学的な裏付けがある。世界中のどの文化も、心臓を深い知と結びついているとしてきた。象形文字である漢字の『心』も「心臓の形」に由来するのである(1p75)

【引用文献】
(1) ピーター・センゲ他『出現する未来』(2006)講談社

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2015年07月05日

第24講 ニュー・アース(5) 大いなる存在に近づく方法

はじめに

 フロイトはユングを唯一の後継者として認めていたが、十年も経たずにユングはフロイトと袂を分かつことになる。それは、フロイトがエゴ、ペルソナ、シャドウに研究を限定していたのに対して、ユングはトランスパーソナルな領域まで問題を広げ探求した最初の心理学者だったからだ(1p211〜212)

 ユングはまず世界の神話の研究に膨大な時間を費やした。そして、原始的な神話のイメージが現代ヨーロッパ文明人の夢や空想の中にも現れる事実に驚愕した。ユングはこの魂の深層を「集合的無意識」と命名した(1p213)。けれども、正統派心理学は、人間の真の自己をエゴと定義したため、統一意識を意識の異常、変性意識としてしか描けなくなってしまった(1p128)

 第22講 ニュー・アース(3) 死の恐怖が作り出した未来と過去では「境界による二元論を克服しない限りは「進歩=幸せ」という幻想が続く」と述べた。

 『かもめのジョナサン』を発表した米国の作家リチャード・バック(Richard Bach,1936年〜)はこう書いている。

24richard bach.jpg「ぞくぞくするような歓喜の感覚がやってきた。その直後に言葉に言い表せないほどの知的な悟りがやってきた。宇宙は生命のない物質からできているのではなく、生命ある存在からなっていることがわかった。自分自身の内にある永遠の生命にも気づいた。私はすべての人々が不死であることを知った。宇宙の秩序にはいかなる偶然もなく、すべてのものが互いのため、すべてのために一緒に働いている動きなのだということもわかったのだった」

 バックはこうした意識状態を「宇宙意識」と名づけた(1p10〜12)

 世界中のあらゆる神秘的な伝統では、こうした対立の幻想を看破した人が「解脱した人」とされてきた。ヒンドゥ教の聖典『バガヴァッド・ギーター』は解脱とはネガティブからの解放ではなく、ネガティブとポジティブという双方からの解放だと説いた。

 仏教の経典のひとつ『楞伽経(りょうがきょう=ランカーヴァターラ・スートラ)』もこう述べている。

「光と影、長と短、黒と白などが別個のもので区別されなければならないというのは偽りである。それらは互いに独立してはいない。同じものの異なった側面であり、関係性を語る言葉なのだ。本質において物事は二つではなくひとつなのだ」

 キリスト教でも天国はネガティブがなく完全にポジティブな状態だと安易に理解されているが、『トマス福音書』ではヒンドゥー教の「アドヴァイタ(非二元)」や大乗仏教と同じく対立がない状態のことを指している。

「イエスは彼らにいわれた。あなたがたが二つのものをひとつにするとき、内部を外部、外部を内部、上を下とするとき、男と女をひとつにするとき、あなたがたは天国に入るだろう」(1p55〜56)

 すなわち、二元性が克服されてこそ、進歩が幸せを産むという幻想を抱かなくなることができる(1p58)

宇宙意識に到達する方法

Sonja Lyubomirsky.jpg「幸せを探してはいけない。探したら見つからない。探すというのは、幸せのアンチテーゼだ」(2p110)。エックハルト・トール(Eckhhart Tolle, 1948年〜)が提案するエゴから抜け出す方法には、まさに「幸せ探偵」というこのブログの題名そのものを否定する。けれども、その初歩的なスキルのいくつかは、ソニア・リュボミアスキー教授が提唱する『幸せになるための科学的方法』と共通するものがある。その一つが感謝と小さなことに喜びを見出すことである。

人に親切にする

 自分は尊敬されないし、関心も持たれず、認められず、評価もされていない(4p207)。そう思っている人は、自分が与えてくれないと思っていること―賛辞、感謝、援助、愛情をこめた気遣い等―を自分から相手に与えてみてほしい。出力が入力を決める。イエスはこれを「与えなさい。そうすれば自分も与えられます」(ルカの福音書6章38節)と述べた。そうすれば、豊かさは向こうからやって来る。イエスはこのことを「持っている人はさらに与えられ、もたない人は持っているモノすら取り上げられる」(マルコの福音書4章25節)と述べた(4p208〜209)

内なる身体を感じて小さな幸せを大切にする

 歴史を通じて賢者や詩人は、本当の幸せが一見ささやかなものにあることを見抜いていた。フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844〜1900年)は『ツァラトゥストラはかく語りき』で「幸せになるためには、ほんのささやかなことで十分なのだ。小さなものが幸せをもたらす。静かであれ」と書いている。けれども、小さなものに気づくためには、自分の内側が静かでなければならない(4p254〜255)

「目に見えない世界」と「目に見える世界」の中間に位置して、物質とつなぐパイプ役を果たしているのが、生命エネルギー、「気」である(2p176)。内なる身体は、物質と形のないものとの懸け橋の生命エネルギーである。それを確認するには、両手のかすかなチリチリ感を感じることから始めると良い(4p62)

 太極拳、気功、ヨガ等の実践は身体とスピリットを分離させない。だから、ペイン・ボディを弱めるのに役立つ(4p173)。また、多くの人の呼吸は浅い。けれども、ドイツ語の呼吸という言葉、「atmen」は、古代インドのサンスクリット語のアートマンに由来する。呼吸はささいな現象だが、これも、ニーチェが言う幸せをもたらす、小さなものなのである(4p264)

 このあたりまでは、まさにケン・ウィルバーの言う「ケンタウロス(心身一如)意識」にあたると言える。けれども、トールはさらに「究極の統一意識」へのレベルを目指す。トールが提案するエゴから抜け出す方法は、自分の思考と自分の同一化を止めることである。それには、自分が思考していることを「観察」すること。そして、今の瞬間を意識することの二つがある。

無意識の思考や感情に溺れることを抜け出るひとつが客観的に観察すること


「なぜ人生はかくもむごたらしいのか」というネガティブな感情にひたっているときに、人は「無意識状態」に陥っている。「見張り人」が不在の状態で、ある種の感情や思考そのものと一体となってしまっている(2p61)。そして、この感情を退治しようとしても心に葛藤が生じて、さらに痛みを産むだけで終わる(2p60)。この感情に踊らされないためには、感情そのものになるのではなく、感情をあるがままに放置して、感情を観察することが必要である(2p43)。いま、この瞬間に自分がネガティブな状態でないか。うんざりした気分等、低レベルの不幸がないかどうかを観察してみる(4p130)。悲嘆、自己憐憫、憤慨等の感情の「愚痴こぼし」になっていないかどうかをチェックしてみる(2p162)。すなわち、どれだけ感情を意識の表層部にあげることができるかがカギになる(2p161)。そして、自分にネガティブな状態があることに気づくことは失敗ではなく、成功である(4p130)。なぜならば、「気づき」とエゴは共存できず、気づきはいまの瞬間に秘められた力だからである(4p90)

 そして、ジル・ボルト・テイラー博士も、脳生理学から、感情を観察することの重要性を指摘する。

 人間には、感覚系を通じて入ってくる刺激に反応する能力がある。大脳辺縁系のプログラムのひとつが誘発され化学物質が体内に満ちわたる。血流からその物質がなくなるまで90秒ほどかかる。例えば、怒りという感情が引き起こされると、怒りの化学成分は最初の誘発から90秒でなくなる(5p237)。それでも、なお怒り続けているとすれば、それはその回路が機能するように無意識に選択をしたからである(5p238)。したがって、この生理的なループがやってきたときには、それがもたらす感情にまかせる。90秒、その回路にやりたいようにやらせればいい(5p254)

 個人的な懸念や関心を手放し始め、その感覚に対して嫌悪感が生じてもただそれを目撃していく。いかなる苦悩もそれに執着している限り、それを操作しようとする動きが存在してしまう。苦悩から逃れようとすると苦悩を永続化させてしまう。苦悩そのものではなく、苦悩に対して執着し、苦悩と同一化してしまうことが問題なのだ。

 ウィルバーも観察の重要性を指摘し、次の荘子の言葉をあげている。

「完璧な人は自らの心をひとつの鏡とする。それはなにものもつかまず、何も拒絶せず、受け止めはするが保とうとはしない」〔荘子内篇第七応帝王篇〕 (1p224〜225)

 すなわち、思考の「声」に耳を傾け、思考を「見張る」り、思考を客観的に眺めれば、この思考の束縛から解放され、その行為をしている「ほんものの自分」に気づき、意識は新たなレベルに達する(2p33)。思考を客観的にながめることができれば、高次の意識が活動を始める(2p31)

今という瞬間に集中する

「無心状態」に達するもうひとつの方法は、意識を100%、「いま」という瞬間に集中させ、思考活動を遮断することである(2p34)。エゴは常に、いまというこの瞬間に抵抗している(2p53)。エゴは決して瞬間と仲良くはできない(4p219)。したがって、「いま」という習慣を友人にする決意をすることは、エゴの終わりを意味する(4p219)

「いま」という瞬間に背を向けてしまうのは、他の何かの方が重要だと思っているからだ(4p287)。けれども、今に心を込めれば、本のページをめくる作業も部屋を横切ることにも「質」が伴ってくる(4p286)。例えば、階段の上り下り等、日常活動で「手段」として行っている動作に全意識を集中させてみよう。すると「手段」が「目的」となる(2p35)。したがって、時間から解放されれば、アイデンティティを求めて過去にしがみつくことを止める(2p101)。時間から解放されれば、目標達成を求めて未来にしがみつくことは終わる(2p101)。そして、時間概念が取り払われると、思考活動はぴたりと止む(2p72)

「無意識的な思考活動」を終わらせれば、意識は「無心状態」に達する。この無心状態はほんの数秒しか続かない。けれども、心がけ次第でだんだんと長く続くようになっていく(2p33)。絶え間なく流れている「思考」に「すきま」を作るたびに「意識の光」が輝き始める(2p35)。そして、いまという瞬間に集中していれば、普段は思考の雑談によってかき消されている「大いなる存在」との一体感が味わえる(2p26,p33)

アイデンティティが崩壊するとエゴが消える

 自分がスピリット(霊)であるという信念は、ひとつの思考にすぎず、スピリチュアルな目覚めではない(2p90)。スピリチュアルな考えは良くも悪くも方向を指示するだけでしかない。エゴを解体する力はほとんど持っていない(4p204)。思考は真理を指し示すことができるが、真理そのものではない(4p90)。そこで、仏教では「月を指す指は月ではない」と述べた(4p82)

 自分が体験し、考え、感じている対象はつきつめれば自分ではない。常に移ろう事物の中に自分自身を発見することはできない。このことをはっきりと見ぬくことが目覚めであり、これを最初に見抜いたのはゴータマ・シッタルダ(Gautama Siddhartha)であった。ブッタの教えの核心のひとつが「アナッター(無我)」であるのはそのためである(4p90)

「佛」という文字のつくりの左側は「人間」で右側は「非ず」、すなわち、否定を意味している(4p239)。禅でも「真理を求めるな。ただ思念を捨てよ」という。これは、心との同一化を捨てよということなのである(4p135)

 古代ギリシア人たちは、自分の運命を知りたく、予言を聞きにデルフォイのアポロ神殿を訪れたその入口には「汝自身を知れ」という言葉が掲げられていた(2p203)

 イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイの福音書5章3節)と語った。ここでイエスの言う「心の貧しい者」とは、心に何も持たず、何もモノとアイデンティファイ、同一化していない状態にいる人のことを指す。そして、「天の御国」とは「大いなる存在」の歓びのことを指している(4p53)。イエスが「あなた自身を捨てなさい」と言ったのも自己(エゴ)という幻想を解体せよという意味であった(4p90)

 そして、アイデンティティを思考から切り離すことができれば、自分が正しいかどうかはどうでもよくなる。負けたからといって、アイデンティティが揺らぐことはなくなるからである(1p66)。自分を同一化していた形が崩壊するとエゴは崩壊する。何かの対象に同一化する意識ではなく、意識そのものとしての自分のアイデンティに気づく(4p66)。思考は意識と同じではない。意識がなければ思考は産まれないが、思考は意識活動の一側面にすぎず、思考がなくても意識は存在できる(2p38)。この絶対的な心理を、キリスト教では「内なるキリスト」と呼び、仏教では仏性、ヒンドゥー教ではアートマン(真我)と呼ぶ(4p83)

抵抗せず、あるがままを受け入れる

 「思考」は良いと悪い、好き嫌い、愛と憎しみを作らずにはいられない。アダムとイブが「善悪の知恵を授ける木の実」を食べたために天国に住めなくなったという創世記の記述は、まさに思考の決めつけのことを言っている(4p237)

 すなわち、物事は「思考」によってのみ規定され、思考は、状況や出来事をバラバラの存在としてひとつひとつ抜き出して善悪を判断する。このため現実は断片化していく。このことを、コリント人の手紙1、3章19節は「この世の知恵は神の前では愚である」と表現した(4p214)

 エゴは現実を恨むことを好む(4p129)。つまり、不幸の第一の原因は状況にはなく、その状況についてあなたがどのように考えるのかの思考にある(4p109)。いわゆる悪は自分で作り出している(2p240)。シェークスピアの言葉を借りれば「ものごと自体には良いも悪いもない。良いか悪いかは考え方ひとつ」なのである(4p124)

24Krishnamurti.jpg ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895〜1986年)は、人生も後半にさしかかたったある時、「私の秘密を知りたいと思いますか」と問いかけ聴衆を驚かせた。人々は「ついに師は教えを理解する鍵を与えてくれるのか」と期待した。そして、クリシュナムルティはこう語った。

「これが、私の秘密です。私は何が起ころうと気にしない」。

シンプルではあるが、これは、外側で起きた出来事と自分の内面とが調和していることを意味している(2p216)。欲望は、自分たちがバラバラで、すべての創造の源である力と切り離されているというエゴの妄想から生じている。したがって、抵抗せずにいれば安らぎが得られる(4p319)。ただ、難しいのは、努力をすると「かまえない自然な私」という役割を演じてしまうからだ。ここでも役割を演じるよりも今にいることが大事になってくる(4p122〜123)

 いまの瞬間をあるがままに受け入れることは「許し」もある(2p240)。エゴを乗り越えるには、他者のエゴに反応しないことである。反応しないことは相手を許すということである。それは、一見弱さに思えるが実は強さである。自分自身のエゴが乗り越えられるだけでなく、人間集団のエゴを解体するために最も有効な手段のひとつである(4p74)。許さなければ憤りなどのネガティブ性は雪だるま式に大きくなってしまう(2p238)が、すべてをあるがままに受け入れると物事をポジティブな極とネガティブな極に分類しなくなる。つまり、許しは不可欠な要素なのある(4p238)

執着を捨てれば今を楽しめる

 モノに対する執着を手放すためには、まず、モノに執着し、モノに自分を同一化していることに気づくことだ。そうすれば、モノへの執着は自然に消えていく(4p55)

 執着しないことは、この世からもたらされる良いモノを楽しめなくなることではなく、さらに楽しむことができる。すべてが無常で変化が避けられないことを受け入れることができれば、未来には楽しいことが失われるのではないかと恐れることなく、楽しいことが続いている間はそれを楽しめるからだ(4p244〜245)。いま、楽しまなければ楽しめる明日などは決してやってきはしない(4p320)

 ただ雨や風の音を楽しみ、空を流れる雲を美しいと眺め、一人でも寂しくなく、娯楽という精神的な刺激物も必要としなければ、古代インドの聖賢が「アナンダ」と呼んだいまあることへの歓喜が味わえよう(4p253)

活動と行動は目的ではなく愛を原動力とした手段そのものになっていく

 ゴータマ・シッタルダ(Gautama Siddhartha)は、あるがままの人生を「タタータ」と呼んだ(4p129)。あるがままでいることは、活動をしないことではない。活動の動機がエゴイスティックな欲望や恐怖からではなく、より深いレベルに移ることだ(4p296)。受け入れるとは、たったいまのこの瞬間に、それが自分がしなければならないことだからしようと思うことだ。その安らぎは微妙な振動のエネルギーとして行動に流れ込む。受入れは表面的には、受け身に見えるが、実際には、新たな何かをもたらす積極的で創造的な状態なのである(4p318)

 いまにある意識でいるとき、どのようなささいな行動も、高潔さ、思いやり、愛が原動力となる。そして、行動の結果にこだわらず、行動そのものに意識を集中することだ。そうすれば、結果として、成果は自ずからついてくる。バガヴァッド・ギーターは、行動の結果に執着しないことをカルマ・ヨガと名付け、神に捧げる行動と表現した(4p96)

 行動とその行動を楽しむ状態との関係は、目的の手段として行動するのではなく、いま瞬間に全身全霊を込めて行動することなのである(4p320)

宇宙の創造力と共鳴したときに楽しく情熱が産まれる

 米国の思想家、ラフル・ワルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson, 1803〜1882年)は「情熱なしに偉業が成し遂げられたことはない」と語った。情熱(Enthusiasm)という言葉は、ギリシア語の「en」と「theos」から発している。「theos」は神で、派生語の「Enthousiazein」は「神に憑かれた」という意味である。すなわち、情熱が燃えているときに、人は自分だけで行動しているのではないと感じる。ただ波に乗っていけばいい(4p324)

 宇宙から切り離されていると感じるとき、孤独を感じ、何かを相手に苦闘したり、あれこれを成し遂げようと必死になる(4p287)。宇宙の創造的な力から切り離されると、エゴの力とストレスしかない(4p323)。エゴは欲望をもって常に奪おうとする(4p324)。だから、がんばって働かなければならない(4p323)。エゴは自分が他者を包み込めば包み込むほど物事が円滑に流れ、仕事がやりやすくなることを認めない(4p137)。そこで、利益や権力に関心が集中して、仕事は目的のための手段となっている(4p136)。けれども、行動とその行動を楽しむ状態との関係は、目的の手段として行動するのではなく、いま瞬間に全身全霊を込めて行動することである(4p320)。創造的な人は、その行動によって何かを達成しようとか、何かになろうとかではなく、それが楽しいからやっている(4p322)

 情熱は惜しみなく与える。情熱による活動には勝者も敗者もない。情熱は、基本的に排他的ではなく他者を包み込む(4p324)。そして、ストレスとは違い、情熱はエネルギー振動数が高いため、宇宙の創造力と共鳴する(4p323)。情熱を通じて宇宙の創造原理と調和しているが、その創造と自分を同一化するエゴがない。つまり、自分の行動を楽しみ、それが目指す目標やビジョンとうまく組み合わされれば情熱が産まれるということだ(4p325)

宇宙の創造力〜大きな力とつながる

 「偉大だ」とか「立派だ」とかは精神的に抽象的な概念で、エゴが好む幻想だが、いまこの瞬間を自分自身と調和させるときに、逆に大きな力にアクセスできる(4p287)

 ひとかどの人間になろうとか、目立とうと思わなければ、宇宙の力と自分を調和させることができる。老子は「天下の深い谷間であれ」「すべてに満たされるだろう」と述べる(4p234)

 イエスも「誰も自分を高くするものは低くされ、自分を低くされる者は高くされる」(ルカの福音書14章11節)と述べた(4p235)

 その力にふれたことがない人は、その成果を脅威と賛嘆の目で見るであろう。けれども、その力は、ただあなたにアクセスし、あなたを通じて世界にアクセスしている(4p324)。並みはずれたパワーは、あなたを通じてこの世界に流れ込む(4p322)。イエスが「私は自分では何もできない」(ヨハネの福音書5章30節、14章10節)といったのはそういう意味であった(4p287, 4p324)

 14世紀のペルシアの詩人、スーフィー教の賢者ハフィズは『贈り物』でこう述べた。

 「私はキリストの息が通るフルートの穴だ。さあ、この音楽を聞いておくれ」(4p322)

エゴ的な頭の活動を止めると創造性が高まる

 アインシュタインをはじめ、多くの偉大な科学者は、思考が止まった瞬間にアイデアが閃いたと語っている。多くの人が創造的でないのは、「頭の使い方を知らない」からではなく、「頭の活動の止め方を知らない」からなのである(2p39〜40)

エゴがなくフローで生きればシンクロニシティが起きる

 私は、教師、芸術家、看護師、医師、科学者、ウェイター、セールスマン等、自分探しをせず、その瞬間瞬間に求められることに十分にこたえ、賞賛すべき仕事を成し遂げている人に会ってきた(4p135)。こうした人たちの影響は、その仕事を超えてさらに遠くまで広がっていく。彼らと出会う人たちのエゴも軽減されるからである。こうした人々と関わると、重いエゴを抱えた人たちでさえも緊張を解いていく。つまり、エゴに邪魔されず、自分がしていることに一つになれる人は、成功を治めることができる(4p136)

 知能、技能、才能等、各人の持つ知識や肉体的な能力、エネルギーレベルは人によってさまざまである(4p104)。形の上ではあなたはだれかよりも劣っているし、誰かよりは優れている。けれども、あなたの本質は誰よりも劣っていないし、優れてもいない。そのことを認識したときに、真の自尊心とつつしみ深さが産まれる(4p123)

 どの状況でも役割に自分を同一化せず、しなければならないことをやっていく。これが、この世に産まれた私たちが学ぶべき基本的な人生の教訓である(4p120)。役割を演じないとは、行動にエゴがでしゃばならないということだ。自分を守ろうとか強化しようという下心がない。完全に状況に焦点を合わせている。このとき、完璧に自分自身である時、かまえない自然な私であるときに非常に力強い(4p122)。自分を実際異常に見せようとせず、ただ自分らしくある人は、際立った光彩を放ち、こういう人たちだけがこの世界を本当に変えることができる(4p121)

 世界は、大いなる存在によって形として現れたものと、現れないもの、この世界と神から成り立っている。全体と調和することとは、この世界に意識を出現させるための一部になる。するとどこからか助けがあらわれ、まさかの出会いや偶然があり、シンクロニシティと言われる不思議な一致が頻繁に起きる(4p297)

 人生も世界も、一見混沌としたわけのわからない出来事の奥にはより高い秩序や目的が隠されている。より高い秩序は普遍的な知性から生じている。禅ではこれを「好雪片々として別所に落ちず(舞い落ちる雪のひとひらは落ちるべきところに落ちている)」と表現した(4p212)

 ここが生と死が発生する場でもある。意識を外に向けると思考と世界が現れ、過去、未来、そして、身体のアイデンティティを身にまとう。意識を内に向けると目に見えない世界へと帰っていく(2p177)

大いなる存在とつながると本当の平安、愛と憐れみが得られる

 こうして、思考活動が停止し、心が「空」の状態となれば、常に、愛、歓び、そして、心の平安を体験できる(2p33,1245, 4p66)。「いまある」ことによって、初めて深い安らぎと恐怖から完璧に逃れることができる。聖パウロはこれを「人のすべての考えに勝る神の平安」(ピリピ人への手紙4章7節)と表現した(4p65)。所有という概念も死が近づけば、まったく無意味であることが暴露される(4p53)。すべてのモノが不安定だと気づき、それを受け入れれば、安らかな気持ちが沸き起こる。これをイエスは「永遠の生命」と呼んだ(2p93)

 感情で経験される「喜びのようなもの」は、永遠に移り変わる「痛み=快楽」のサイクルのつかぬまの「快楽」であることがほとんどである。それは、感情が「思考」の仲間であり、両極性の法則に左右されるからである(2p46)。すなわち、「快楽」は外側からもたらされ、感情は二項対立の領域にある。けれども、歓びは自分の内側からもたらされる。愛、歓び、平和は、大いなる存在とつながっているため、対極に位置する反対のものはない(2p46, 4p152)

 すなわち、愛、歓び、平和は、感情よりもさらに奥深いところから産まれる。逆に言えば、自分の感情を完全に自覚できなければ、愛、歓び、平和も感じることができないことを意味している(2p45)。すべての成功と幸せの秘訣は「生命」とひとつになることなのである(4p129)

左脳活動が弱まると宇宙と一体になる

 トールは、愛は、すべてがひとつだとの気づきの結果として表れる(4p182)。そして、万物と自分との間のつながりに気づくことが憐れみであると指摘する(4p261)

 13Ken Wilber.jpgケン・ウィルバーは、神秘家が強調してやまない普遍的な慈悲がトランスパーソナルな直感から生じる理由をこう説明する。「環境と身体との境界が取り払われた超越的な自己となると、環境のなかの全対象を自分自身として扱い始める。すなわち、超個体レベルでわれわれが他を愛するのは、相手が自分を愛したり安心させてくれるからではなく、相手が自分自身だからである。自分の腕や足を世話するように周囲を思いやるようになるのは、世界とは自分の身体であり、また身体として扱わなければならないからなのである。キリストの第一の教えは、『自分自身を愛するように隣人を愛せ』ではなく『隣人を自分自身として愛せ』と言う意味なのである(p228)

 ジル・ボルト・テイラー博士は、脳の働きから、なぜ宇宙意識が体験できるかを書いている。

 右脳と左脳はそれぞれ特徴を持つ。常に分析し批判的である左脳状態か、上の空の状態の右脳状態で過ごしている。左脳は実際に何かのデータに空白があると埋めてしまう能力を持ち、明確にモノの間に線を引き認識する能力が高い(5p223)。このため、間違った。あるいは悪い判断をした他人や自分を見下し非難することに多くの時間とエネルギーが費やされている(5p224)


 一方、右脳は生理機能に耳を傾けるよう生物的に設計されている(5p232)。右脳の意識の中核には、静かで豊かな感覚と直接つながる性質が存在している。右脳は世界に対して平和、愛、歓びを表現し続けている(5p216)。右脳は、いまの瞬間に豊かさを感じる。人生や自分に関係するあらゆる人々に対する感謝の気持ちで満たされ、情け深く、歯止めなく熱狂し、フレンドリーである(5p225〜226)。右脳ではあらゆるものは相対的なつながりの中にあり、ありのままをそのまま受け取る。ある人が背が高い、金持ちだと観察してもその結果を判断はしない(5p226)。世界は安全に感じられ、常にその時を生きていて時間を失っている(5p227)。さらに、右脳には、新たなことにもトライしようとする意欲があり、創造的でもある。カオスさえも創造的なプロセスとして評価する(5p228)。右脳は自分の身体だけでなく、社会の健康、母なる地球との関係すらも気にする。境界についての知覚がないため、すべてが一部で世界がより平和で暖かい場所にすることを手伝っていると感じる(5p229)。生けとし生けるものがひとつに調和することを思い描いている(5p230)

21Taylor.jpg さて、体内に注入した放射性同位体から出るガンマ線を用いて脳の輪切り映像を撮影するSPECT(単一光子放射断層撮影法)という技術がある。アンドリュー・ニューバーグ博士とユージーン・ダキリ博士は、2001年からこの技術を利用して、スピリチュアルな神秘体験をもたらす神経構造を探究してきた。チベットの僧侶が瞑想しフランシスコ会の修道女が祈るとまず左脳の言語中枢活動が減少した。次に、肉体の境界を判別する左脳後部頭頂回の方向定位連合野の活動が減少した。この結果、意識は個人から離れて宇宙と一体となるニルヴァーナ体験をするのである(5p220)

 西洋社会は、左脳の「する」機能を右脳の「ある機能」よりも高く評価してきた(5p260)。けれども、人間は、思考を選ぶことができる。現在の瞬間に引き戻し、右脳の愛と平和のマインドに戻せば束縛から解放される(5p239)

 テイラー博士によれば、宇宙意識とはゆきすぎた左脳の働きを抑え本来ある右脳の働きを蘇らせることだったのである。

【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) エック・ハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(2002)徳間書店
(3) ジェームズ・レッドフィールド他『進化する魂』(2004)角川書店
(4) エックハルト・トール『ニュー・アース』(2008)サンマーク出版
(5) ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(2009)新潮文庫

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2015年07月04日

第23講 ニュー・アース(4) エゴの人間関係

意識のスペクトル

13Ken Wilber.jpg ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は若干24歳で書き上げた『意識のスペクトル』で、人間の意識を「ペルソナ意識」、「エゴ(自我)意識」、「ケンタウロス(心身一如)意識」、「究極の統一意識」という4レベルからなる階層構造として捉えて見せた(4p108)

 さらに、意識を階層構造化することによって、心理カウンセリングから霊的宗教的な諸伝統が、各意識のレベルに応じて互いに相補的な関係にあることを整理してみせた。ウィルバーによれば、シャドウを意識化することで、ペルソナとシャドウに分裂した意識を健全なエゴ(自我)意識へと統合するのがカウンセリングである。エゴと身体に分裂したエゴ意識を身体も含めた人間として全体性の回復を目指すのがゲシュタルトセラピーやフォーカシング等の人間性心理学である。心身一如意識が達成されると、意識はトランスパーソナルな領域に入っていく。そして、究極の統一意識、宇宙との一体感の回復を目指すものがヴェーダンタや大乗仏教、道教、秘教的な回教、秘教的なユダヤ教、そして、秘教的なキリスト教ということになる(4p109〜110)

 禅では「悟りとは赤ん坊のようになることだ」といわれ、聖書でも「幼子のようにならなければ天国に入ることはできない」と書かれている。個としての「自分(エゴ)」が確立される以前の「プレパーソナル」な段階、自他が未分化な幼児的意識へ退行することと、個が確立されたうえで、さらにそれを超えていく「トランスパーソナル」な段階、悟りの状態とを同一視してよいのであろうか。『アートマン・プロジェクト』(1980年)の執筆中に、この問題に直面したウィルバーは、「プレとトランスの混同」という概念を提起する。確かに、赤ん坊の未分化な意識状態も、成長の極限である「無境界」の意識状態も、「非エゴ的体験」である点では変わらない。けれども、トランスパーソナルな意識状態は、エゴや理性を保持したまま「超合理」の段階を目指すものである。ただ「頭を捨てなさい」と理性的な判断を放棄させ、個人の成長を妨げる「似非スピリチュアリティ」とは区別しなければならないと警告する(4p114〜116)。このウィルバーの分析を踏まえたうえで、ニュー・アースの4回目は、エックハルト・トール(Eckhhart Tolle, 1948年〜)のエゴの人間関係観をまとめてみた。

エゴ的な人間は未来と過去の時間概念に捉われ「いま」を生きられていない

 エゴイスティックな人間は、周囲の世界や他者だけでなく、自分自身からも疎外されている。疎外とは自分自身に対してさえ、気持ちを楽にできない状態を言う。関心がすべて思考に吸い取られ、過去や未来に関心が集中していまを生きていない(2p146)。恐怖、不安、期待、後悔、罪悪感、怒り等は、意識が時間に縛られて機能不全に陥っていることを示す(2p220)

エゴ的な人間は健全な人間関係を育むことができない

 あなたには、あなた自身が考える観念的なイメージであなたという人物が、あなたが考える相手という人物とつきあっている。つまり、二人の人間のエゴが向き合う関係では4つの観念的なアイデンティティが絡み合っていることになる。そこには真実の関係はない(2p107)。このような思考を「ほんものの自分」だとみなしていると、レッテル、決めつけ等の曇りガラスを通じて世界を眺めることになる。するとすべてが歪んで見えるため、万物との真の関係が築けなくなってしまう(1p29)

人間関係が破綻するのはエゴの愛が執着だからである

 エゴが自分の不安をごまかそうとしてすがるのが親密な人間関係。すなわち、「私を幸せにしてくれる」男性あるいは女性である(2p267)。恋愛関係も互いに夢中になっているバラ色のときには何もかもがパーフェクトに思える(1p199)。恋愛関係も最初のうちは心が満たされる(1p202)。けれども、一般に「愛」と呼ばれているものも、ほとんどが中毒症状に似た相手に対するしがみつきである(1p46)。すなわち、恋に落ちるのも、エゴイスティックな欲求と必要性の強化であることが多い(2p102)。実際、恋に落ちたつもりが、補完的なペインボディに惹かれあっているカップルもいる(2p164)

 エゴが愛と呼ぶものには独占欲や執着心が含まれている(2p152)。従来の愛に対して最も正直なのはスペイン語である。「テ・キエロ」は「あなたを愛しています」と「あなたが欲しい」という二つの意味があり、もうひとつの愛の表現「テ・アモ」はあまり使われることがない。真の愛がめったに存在しないからであろう(2p102)

 このため、エゴの期待はほとんどの場合に、簡単にその反対の落胆や失望に変わる(2p152,2p267)。相手があなたのもとを去るのではないかという不安が頭をよぎっただけで、嫉妬、独占欲がわき上がり、脅迫、非難等の手段で相手を操ろうという想いに駆り立てられる。これも、相手を失うことへの恐れに起因する(1p202)。すなわち、エゴの不安が再び甦ると、人はたいていパートナーを責める(2p267)

 要するに、相手に対する依存性が非常に高いため、最初の頃の幸せな期間をすぎれば、スイッチひとつで逆の状況に一転し(1p46)、ほとんどのカップルは数カ月から数年のあいだに、「愛=憎しみ」と「優しさ=攻撃」のはざまを振り子のようにいったりきたりすることになる(1p46, 1p200)。中には、この快楽と痛みのサイクルを相手を変えて延々と繰り返している人もいる(1p210)

毒親は自分のエゴを満たすために子どもを支配しようとする

 子どもは親に対して、親という役割を演じるよりも人間であって欲しいと願っている。けれども、子どもに関心を持っていても、それが「形」に基づく場合には「宿題はやったの。さっさと食べなさい。部屋を片付けなさい。歯を磨きなさい」と常に行動や評価と関係してしまう(2p117)

20EckhartTolle.jpg 子どもが40歳をすぎてもまだ子どもを支配したがる親がいる。子どもの生き方を批判したり、否定したりして、子どもに罪悪感を抱かせようとする。これもすべて、親としての役割を維持しよう、アイデンティティを確保しようとする無意識の試みである(2p111)

 こうした親は、自分の役割、アイデンティティを維持したいために、子どもをコントロールしようとする親の無意識を言葉にすればこうなるであろう。どれほど、とんでもない要求をしているのかがわかるだろう。

「あなたは私が実現できなかったことを実現してもらいたい。世間の注目を浴びる立派な人になってもらいたい。そうすれば、私もあなたを通じてひとかどの人物になれる。私を失望させないでほしい。私はあなたのためにたくさんの犠牲を払った。あなたの行動を否定するのは、あなたのためではなく、あなたを罪悪感で落ち着かない気持ちにさせ、私が望むとおりに動かしたいからだ。何があなたのためになるのかは私が一番良く知っている。あなたが私の言うとおりにすべきことをするならば、これからも愛してあげる」(2p112)

ネガティブ性は伝染性があり世の中を不幸にしていく

 こうしたネガティブな感情をひっくるめて言い表せばそれは「不幸」だ。そして、ネガティブ感情は、その感情を抱いている当人だけでなく、その人と出会う人の潜在的なネガティブ性も刺激する。そのため、高い意識レベルで生きていて免疫ができている人を除いて、不幸は連鎖反応を通じて無数の人々に影響し、病気のように簡単に伝染していく(1P109, 2p151)。不幸はエゴが創り出した精神的な病であり、それは、伝染病になっている(2p124)

統一意識とつながった真の愛がないエゴの人間関係は破綻する

 ポジティブな感情は身体に良い効果を及ぼす。免疫システムを活性化し、身体を癒して元気にする。けれども、エゴが生み出すポジティブな感情と「大いなる存在」とつながった本来の状態から生じるもっと深い感情とは区別しなければならない(4p151)。エゴは、親密な人間関係や新たな所有物、あれこれの勝利で、せいぜいこの不安を一時的に紛らわすことしかできない(2p92)

 すなわち、どのような人間関係であれ、とりわけ、親密な人間関係である場合には、「大いなる存在」につながっていない場合には、亀裂が生じて機能不全に陥ってしまう(1p199)。これは、健全な愛ではない。愛することとは、ただ相手を見つめ、ふれあい、話を聞き、その瞬間以外、何も望まず、相手を認めることである。そして、誰かがあなたを認めてくれた時に、認め認められた二人を通じて「大いなる存在」の次元が豊かに導きいれられることになる。これは、どの人間関係にも当てはまる(2p118〜120)

 けれども、軽いペイン・ボディを持った子どもが重い子どもよりもスピリチュアルに進歩した大人になるとは限らない。むしろ、重いペインボディを持った人のほうが、スピリチュアルな目覚めに達する可能性が大きい(2p158)。挫折、喪失、病気等は、偽の自分や薄っぺらなエゴの欲望を手放させ、人間としての深み、謙虚さ、思いやりを教えてくれる(1p236)。一見、ネガティブと称される出来事にも深遠なレッスンが含まれている。より、高い視点から見れば出来事はみなポジティブなのである(1p237)

【引用文献】
(1) エック・ハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(2002)徳間書店
(2) エックハルト・トール『ニュー・アース』(2008)サンマーク出版
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川Oneテーマ21

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2015年07月03日

第22講 ニュー・アース(3) 死の恐怖が作り出した未来と過去

境界による二元論を克服しない限りは「進歩=幸せ」という幻想が続く

 生と死、善と悪、愛と憎悪、自己と他者。私たちは境界の世界に住んでいる。そのために争いと対立の世界に住んでいる。我々が抱えている問題の大半は、境界とそれが生み出す対立の問題だからだ(1p42)

 生物物理学者ルードウィヒ・フォン・ベルタランフィ(Ludwig von Bertalanffy, 1901〜1972年)は「リアリティとは、クサのニコラスが対立の一致と呼んだものである。究極のリアリティとは対立の統一なのだ」と述べた。哲学者アルフレッド・ホワイトヘッド(Alfred Whitehead,1861〜1947年)は「究極の要素は本質的に振動である」と述べた。原因と結果、過去と未来、主体と客体のように不可分なものは、実際には波の峰と谷のように単一の振動なのである。

 対立の内なる統一は、ゲシュタルトの知覚理論でよりはっきりする。ゲシュタルト心理学によれば、私たちは対照をなす背景との関係性なくして、モノや出来事を知覚できない。例えば、夜空に星が見えるのも、個別の星が見えているからではなく、暗い背景に明るい光が認識されるからである。一方の闇なくして他方の光を知覚することは絶対にできない。同じく、快楽も苦痛なくして自覚できない。快楽と苦痛が交互にやってくるように思えるのもそのためだ。互いのコントラストと交代をとおしてしか、互いの存在を確認できないからだ。ホワイトヘッドならば、快楽と苦痛とは単一の波の不可分な峰と谷だというであろう(1p47〜49)

 進歩も、ネガティブなものから離れ、ポジティブなものに向かって進んでいくことだ。すなわち、進歩の背景には「現在」に対する「不満」がある。となれば、進歩は不幸の同一のコインの裏表であろう。進歩を求めれば求めるほど不満がつのることになる(1p43〜44)

最初の境界、環境と身体の分離が死の恐怖を産んだ

 自然界にも生死はある。けれども、年老いたネコは来るべき死の恐怖にさいなまれているわけではない。静かに木の根元にうずくまり死んでいく。瀕死の駒鳥も柳の木にやすらかにとまり日没を見つめ、もはや光がみえなくなったとき目を閉じて静かに地面に落ちる。人間の死に際となんと違うことか(1p36)

 『創世記』によれば、アダムがしたことは、モノに名前を付ける、すなわち、あるグループとグループの間に境界線を引くことであった(1p38)

人間がつくりあげたあらゆる境界の中でも、最も基本となるのは、自己と非自己の境界である。それは、最初に引かれた境界であり、我々が最も明け渡したがらないもので、最後に消え去るのもこの境界である。すなわち、自己と非自己との境界は最初に引かれた原初の境界である(1p83〜84)

 この原初の境界が発生すると、人は自分の身体と環境にアイデンティティをもたなくなり、自分が知覚する世界と一体ではなくなる。皮膚を境界に身体は自己であっても、環境は非自己となり、環境と対立した自分の身体だけにアイデンティティを持つようになる。すなわち、自分が孤立した有機体として生きているとイメージするようになり、身体と環境との対立が作り出される(1p132)

 この原初の境界の発生によって、「統一意識」は孤立した自己の「個人の意識」となる。すると死の恐怖があらわれる(1p133)。死に直面するのは部分だけであって全体ではない。けれども、「真の自己」が特定の身体の中にだけに閉じ込められているとイメージすると、その有機体の死の不安が頭から離れなくなる。このため、自己を環境から切り離す瞬間に死の恐怖が意識の中に生じてくるのである(1p135)

死の恐怖が身体と心(エゴ)の分離を生んだ

 半身半馬の伝説的な動物、ケンタウロスは、自ら馬を監督する騎手ではなく馬と一体化した騎手である。心と身体が完全に統合され調和している「心身一如」の状態を表すものとして「ケンタウロス」の状態と言おう(1p140)。けれども、人が自分の身体が死ぬことを知っている。そこで、死を思わせる身体を取り払い、自分自身の観念を中心にアイデンティティを確立し、エゴとしてだけ生きのびようとする。こうして、身体と心に境界が発生し、こうして、身体は間抜けな獣、騎手にコントロール、管理される馬の役割に格下げされる。ケンタウロスの状態は崩壊し、エゴとしての騎手の自己イメージ、心理的な人格へとアイデンティティは狭められていく(1p140〜142)

 肉体が罪と同義語になるのはそのためだ。確かに、身体は苦痛の源である。けれども、同時に快楽の源でもある(1p185)。病による衰弱、癌の苦しみを感じるのは身体だが、同時に、エロティックなエクスタシーから、美食の味、日没の美しさを感じるのも身体の諸感覚である(1p20)。だから、エゴは苦痛もないかわりに喜びもないという大きな代償を支払っていることになる(1p185)

エゴは自分が認めない心を分離させペルソナだけを演じていく

 情緒不安定でカウンセリングを必要とする人の訴えで最も多いのが、誰も自分を好んでくれない。誰も気にしてくれないと感じる拒絶感である(1p168)

 心には、怒り、自己衝動、性的衝動等がある。エゴは次に自分が持つこうした好ましくない傾向を除外しようとして自ら境界を狭める(1p155)。すなわち、あるペルソナを作り出し、受け入れがたいすべてを自分ではない非自己の側においていく(1p145)。こうして、疎外された傾向はシャドウとして投影され、本人は狭められ痩せ細った不正確な自己のイメージであるペルソナだけと同一化する(1p155)

 要するに、境界が構築される度に、自己の感覚は制限、制約、矮小化され、アイデンティティは、宇宙、有機体、エゴ、ペルソナの順に移行し、自己はますます小さくなり、一方で非自己がますます大きくなっていく(1p153)

シャドウに向き合うことがエゴを健全なアイデンティティへと広げる

 投影していたシャドウに向き合い、それを再び所有しなおせば、貧困なペルソナから健全なエゴへとアイデンティティを広げることができる。ペルソナとシャドウとの分裂が癒され、境界が消え失せれば、より大きく安定したアイデンティティの感覚を味わえる。閉塞したアパートから心地よい家に移るようなものだ。そして、心地よい家からさらに広々とした邸宅に移るためには、身体を再び所有しなおせばよい(1p180)

身体の感覚を取り戻す

 前述したように、多くの人も身体と心との間に無意識の深く境界線を引いていて、身体を喪失している。誰もが「頭」が私であって、私は「身体」を所有しているを思っている。つまり、身体は「私のモノ」であって、「私」ではなくなっている(1p181)。頭の中の自己のイメージとそれに関連した知的・感情的なプロセスにアイデンティティを抱いている(1p21)。ペルソナからシャドウが投影されるように、「有機体」の中に境界が引かれ、身体は「非自己」として投影されてしまっている。米国の精神科医アレクサンダー・ローエン(Alexander Lowen, 1910〜2008年)は、この状態を霊的領域と身体とをブロック(封鎖)していると表現する(1p182)

 エゴは自分がコントロール可能な随意行動だけに自分を同一化させ、それ以外の自発的な不随意な行動は非自己的なものとしている。例えば、「わたしは腕を動かす」とは言う。けれども「わたしは心臓を脈打たせている」「わたしは血液を循環させている」「わたしは食べ物を消化させている」「わたしは髪の毛を伸ばしている」とは言わない。つまり、身体が、無意識に行なっている消化、代謝、成長・発達等の不付随な活動を自分とは認めない(1p184)

 そこで、まず、絨毯やマットの上に仰向けに寝て、深く呼吸をしながら身体感覚を探り始めてみよう。どれだけ、自分の意識が身体にとどまることが難しいかがわかるだろう(1p190)。そして、どれだけ、身体に緊張のブロックがあるかどうかをチェックしていく。例えば、首や肩の凝りは、抑圧された怒りや敵意を表す(1p193)。そして、身体のブロックのあちらこちらがコントロールできないことに気づくであろう。この気づきが重要だ。不随意があることを受け入れることは、髪を伸びを速めたり、血液を逆流させたり、身体を自分でコントロールできるようになることではない(1p201)

 エゴは現状が幸せではないと感じて、モノやおもちゃで自分を取り囲むことで喜びを生み出さなければならないと勘違いしている。これは、外から喜びと幸せを呼び寄せられるという幻想を強めるだけだ。けれども、高慢なるエゴが意識的に対応できることはせいぜい二つか三つにすぎない。これに対して、身体はエゴの助けも借りずに、消化作用、神経伝達等、何百万ものプロセスをいまこの瞬間にも調整している。ケンタウロスのレベルに立ち返ることは、すでに身体そもののから喜びが湧き出ていることに気づくことにある(1p202)

心身一如を取り戻すことは、いまをフローで生きることにつながる

 ケンタウロスのレベルを復活させることは、アブラハム・マズローの自己実現、あるいは、米国の心理学者ロロ・メイ(Rollo May, 1909〜1994年)の言う『人生の意味』が関わってくる(1p204)。エゴだけの狭いアイデンティティを手放し、ケンタウロスのレベル、エゴと身体を同一化し、心身が統一されたアイデンティティを確立することは、実存的自己の発見を意味する(1p186,206)。 

 確かに、人生にエゴ的な意味を見出すことは、ある時点までは適切なことである。けれども、例えば、健全なエゴを発達させ、車や家を手に入れ、仕事で認められ、モノを買い集めた後にはどうなるのだろうか。外に物質的な欲望を追求することに魅力がなくなったとき、待っているものがただ死だけであることが明らかになったとき、どうすればよいのであろうか。人生の真の意味を見出すことは生命の死を受け入れることであろう。米国の詩人、画家、随筆家、E・E・カミングス(Edward Estlin Cummings, 1894〜1962年)は、エゴを超えたところには、「すること」が減り、「ただ在ること」が増えるといった意味を超えたものがあると指摘する。

 そして、意味はモノを所有することではなく、友人や社会との関係性、自分自身の存在という光輝く内なるフローに見出される(1p205〜206)。そして、この喜びは今の瞬間に内側から生じるものだ。エゴが時間の中に住み、利益を求めて首を未来へと伸ばし、過去の損失を嘆いているのに対して、ケンタウロスはつねにいまのフローの中に住んでいる。未来に要求することも、過去にしがみつくこともなく、永遠のいまの贈り物に充足感を見出しているのである(1p203)

現実には瞬間のいまが存在するだけで未来も過去も存在しない

 私たちは一般に「永遠」という言葉を何億、何百億年と果てしなく続いていく非情に長い時間だと誤解している。けれども、神秘主義者によれば、永遠とは果てることのない時間ではなく、時間がないという自覚が永遠なのである。永遠の瞬間とは、過去も未来もなく、時のない瞬間瞬間で生きることが統一意識の中で生きることなのである(1p109)。一遍(1239〜1289年)は「あらゆる瞬間は最後の瞬間であり、あらゆる瞬間は再生である」と語る(1p136)

 現在こそが唯一のリアリティであり、他に何かがあるわけではない。そして、現在の瞬間には始まりはない。同じ理由で、現在の瞬間に終わりもない。すなわち、現在の瞬間には、過去もなければ未来もない。時がないのである。そして、時がないものは永遠であろう。果てしなく続く時間という概念の方がある種の奇形なのである(1p111)

 古来より数多くの宗教指導者は、「いま」の重要性を指摘してきた。聖書は「明日のことを悩んではならない。明日のことは明日になればどうにかなる」と述べて来た(2p76)

 13世紀のドイツの神秘主義者、マイスター・エックハルト(Meister Eckhart, 1260年頃〜1328年頃)は「我々から光を遮るのは時間である。神の道(統一意識)を歩むうえで時間ほど神を妨げるものはない」と述べている(1p109,2p77)。過去や未来に縛られる必要はなく(1p124)、キリスト教神秘主義者は、これを「いまの姿勢(ヌンク・スタンス)」と呼ぶ(1p123)

 イスラム神秘主義スーフィズムの指導者、ジャラール・ウッディーン・ルーミー(Jalāl ad-Dīn Muḥammad Balkhī-e-Rūmī; 1207〜1273年)も「過去と未来は、神を覆い隠して私たちの目をくらます。過去と未来を炎で焼き尽くせ」(2p77) 、「スーフィーはこの瞬間の息子である」と呼びかけた(1p112)。スーフィズムでも「いま」が根幹をなす要素なのである(2p77)

エゴは未来と過去という時間概念によって生きている

 にもかかわらず、いまだけの瞬間に完全に生きている人はほんとうに少ない。現在の瞬間をおそらく1〜2秒しか続かない過ぎゆく過去、痩せ細った現在として感じている(1p113,121)。これをキリスト教の神秘主義者は「いまの流れ(ヌンク・フルーエンス)」「過ぎゆく現在」と呼ぶ(1p121)。そして、欠如しているものを未来がもたらしてくれることを期待して生きている(1p113)

 米国の思想家、ラフル・ワルド・エマーソン(Ral1ph Waldo Emerson, 1803〜1882年)は、こう指摘する。

「人間は未来をあてにしたり、思い出したりする。人は現在を生きてはおらず、振り向いては過去を嘆き悲しみ、周囲の豊かさには無頓着で、背伸びして未来を予見する。時間を越えた現在のなかで、自然と共に生きるまでは、人は幸せにもなれなければ強くもなれない」(1p115)

 悩みとは常に未来や過去に関係している。すなわち、未来の結果を恐れ過去の行いを嘆くことから生まれている(1p113)。例えば、私が幸せになるためには、これから、あることが起きる必要がある。それが起きていないから不満だ。そして、不満に思っていれば、そのうちそれが起きるかもしれない。あるいは、過去に起こってはならないことが起こった。それを私は恨んでいる。あれが起こらなければ私はいま安らかな気持ちでいられたのに、というわけである(4p127〜128)

 これは、エゴが時間の中で生きているためだ(4p220)。エゴにとっては、未来と過去とがすべてであり、いま、この瞬間は存在しない(2p37)。未来と過去、いう時間概念なくしてはエゴは機能できない(2p53)。すなわち、エゴの思考とひとつになることは、時間の罠にはまることでもある(2p72)。自己実現は未来に依存し、自分がどのような人間は過去から規定する(4p220)。したがって、ほぼ自動的に、未来への期待と不安と過去の記憶とだけを糧に人生を送るようになる(2P72)

死の恐怖が未来という時間概念を作り出し、未来に期待することからストレスが産まれる

 あらゆるユートピアのビジョンには、すべてがうまくいき、すべてが守られ、平和と調和が実現し、すべての問題が解決する未来が描かれている。その核心には、構造的な機能不全の古い意識が横たわっている。救済を未来に求めているのである(4p329)

 現在という瞬間に対してエゴは、未来が重要だと考える(4p220)。エゴは「いつの日にか○○が実現したら、その時、はじめて私は幸せになる」と未来をいつも気にかけている(2p38)。けれども、その未来は頭の中の思考としてしか存在していない。そして、「現在」という瞬間は、あるべき未来のための克服すべき障害となっていく。このため、苛立ちや欲求不満、ストレスが生じていく(4p220)。不安、緊張、ストレスは、いずれも恐れの一種だが「いま」が欠落し、未来に関係している(2p86)。すなわち、ストレスは、「現在」にいながら、「未来」にいたいと思うことから産まれる(2p116)。人生は問題だらけとなり、問題を解決しなければ幸せになれず、本当に生きられないと思い込む(4p220)

 それでは、なぜ、未来の概念が作り出されたのであろうか。それは、死の恐怖が強烈な時間感覚を生み、未来を探求し、未来に向かって進む原因となっているからだ(1p136)。スーフィーの神秘主義者、ハズラット・イナヤット=カーン(Hazrat Inayat Khan, 1882〜1927年)は「死などというものは幻想以外存在しない。人が生涯の間、恐怖としていだき続けるのはその幻想の印象である」と語っている(1p136)。けれども、人は死の幻想を追い払うために、時間と言う幻想を用いる。死を拒絶することが、未来を持たずに生きることを拒絶することとなり、時間が最も貴重な持ち物となり、未来が唯一の目標となるのである(1p137)

過去は記憶にすぎないが、未来を求めることが過去の物語を作り上げている

 そして、前方に本物の未来を要求するために、後方には本物の過去を見たがる。こうして、記憶に執着し、無条件に過去と同一化する(1p139)。けれども、過去は実は存在していない。私たちが過去だと思っているものは、頭に記憶として保存された、かつての「いま」の断片にすぎない(2p74)。すなわち、過去とは「記憶」である。そして、記憶そのものは問題ではない(1p126,4p155)。それどころか、記憶のおかげで私たちは過去の過ちから学ぶことが出来る(4p155)

 けれども、問題なのは、記憶を実際の過去の経験と思ってしまい(1p126)、思考が「過去」に支配され、それが重荷になるからである(4p155)。エゴは「現在」に注目しているように思えても、実は「過去」というフィルターを通じて「現在」を眺めているのである(2p38)。すなわち、時間概念の境界が「内側の小さな自己」という幻想を生んでいる。ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895〜1986年)は「この内なる小さな人間はすべて記憶によって構成されている」と語った(1p125)

 すなわち、心は過去によって条件づけられている。だから、過去に反応し続けるしかない。東洋ではこれをカルマと呼ぶ(4p145)。すなわち、罪悪感、後悔、怒り、不満、悲しみ、恨み等の許せない心は、「いま」が欠落し、過去の記憶から産まれているのである(2p86)

 要するに、未来も過去も現在に境界の線を引かれた幻想の産物にすぎない(1p116)。まず、現在の瞬間に境界を設けて、過去から「過ぎゆく現在」をとおって未来へと流れる動きと捉えるとどうなるであろうか。過ぎゆく現在は、自分の後ろにある現実的な実体を持った「過去」と、過去よりは少々不確かではあるがやはり実態のある「未来」によってはさまれるように思えてくる。この過去と未来とがあまりにも現実に思えるために、サンドイッチの中身である現在の瞬間は、薄いスライスにされ、我々のリアリティは中身のない両側のパンだけになってしまうのである(1p122〜123)

時空間の境界がなくなるときエゴの死は消滅する

 ほとんどの人たちは恐怖のために死から顔を背けようとしている(3p183)。とりわけ、西洋文化では、死を忌むべきものとする風潮が寝ずよく、老いさらばえた人の大半は養老院に閉じ込められ、死体は人目に付かないところに隠される。けれども、死を否定するとき、生命の奥深さや神秘は失われてしまう。古い文明を伝える場所ではすべて死体は開放されている。仏教の宗派によっては、死体安置所での瞑想を習慣にしている(3p184,4p306〜307)

 我々は誰もが「物事の終わり」に不快感を抱く傾向がある。仲間同士の集いでも、子どもの巣立ちでも、ある経験が終わりを迎えるときには、それはある程度は死を意味するからだ。多くの言語が「さようなら」の挨拶に「また会いましょう」の言葉をあてているのもこのためだ(3p185)

 私と命が別物であることから、大切な宝物である命が失うことがありえ、死が現実の恐怖となる。けれども、私の命という言い方ことが分離という妄想でのエゴの源泉といえる(4p141)。生命の対極に位置するものは死ではなく、誕生である(3p181)。死はこの世の中で最も自然な現象で誕生と切り離すことができない(1p194)。分離した自己は幻想であるから、分離した自己の死も幻想なのである(1p136)

 普通の人は、ペルソナ、エゴ、ケンタウロスのレベルで存在している。このため、個別な自己が永遠にいき続けることを心から願う。けれども、心もエゴも身体も不死ではなく、死ぬ運命にある。一方、トランスパーソナルな体験には不死の直感が伴うが、輪廻転生するのは自分のエゴではない。シャンカラ(Shankara,700年頃〜750年頃)が言うように、唯一転生するのは超越した自己なのである(1p230)

【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) エック・ハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(2002)徳間書店
(3) エックハルト・トール『世界でいちばん古く大切なスピリチュアルの教え』(2006)徳間書店
(4) エックハルト・トール『ニュー・アース』(2008)サンマーク出版
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2015年07月02日

第21講 ニュー・アース(2) エゴの構造

はじめに

 エックハルト・トール(Eckhhart Tolle, 1948年〜)の分析によれば、諸悪の問題は「エゴ」にある。エゴ(思考と感情)は、ペインボディ(潜在意識下のカルマ)から生じるが、トールは、エゴがなぜ生じ、かつ、ネガティブになってしまうのかを分析する。

20EckhartTolle.jpg エゴは、自分がネガティブ思考に陥っていることを自覚する場合には、自分を悲劇の主人公にしたてあげるが、ネガティブ思考に陥っていることに無自覚な場合には、モノや身体、思考等と自分とを同一視することで、その虚しさを埋め合わせようとする。それは、エゴがアイデンティティを求めるからなのである。第20講では「エゴがモノを求め続けるのは、『大いなる存在』との一体感を感じられない欠乏感をモノで代用しようとしているからだ」(2p60)と書いた。トールによれば、エゴこそが消費社会を成立させている。したがって、脱消費社会・脱経済成長社会を実現するには、エゴとは何かを理解しなければならないであろう。今回は、『奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき』(新潮文庫)の著者、ジル・ボルト・テイラー(Jill Bolte Taylor,1959年〜)博士とトールの分析から、このエゴの構造をさらに掘り下げてみよう。

エゴはなぜ生じ、ネガティブに陥ってしまうのか

エゴの発見

 ルネ・デカルトは、常に自分が考えているという事実は疑いないとした。そして、「われ思う。ゆえにわれ在り」と述べた。けれども、デカルトは、「存在」と「思考」を同一化した。究極の真実を発見するかわりにエゴの根源を発見した。けれども、それに自分で気づいていなかった。

 デカルトが誤っていると気づかれるまでには300年がかかった。ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre, 1905〜1980年)は「われ思う、ゆえにわれ在り」という言葉を吟味し、「『われ在り』と言う意識が考えている意識とは別だ」ということに気づいた。その洞察は深かった。けれども、サルトルも依然として自分を思考と同一化していたために、自分が発見した意味を理解できなかった(2p64〜65)

感情とは恐怖に対する身体からの反応である

 生命は脅威や挑戦にさらされると、「知性」が働くことによって反応する。例えば、ある危機に直面して、その生命体の生存が脅かされれば、戦うか逃げるかの選択を迫られ、呼吸も速くなる。これが原初的な「恐怖」である。また、追い詰められれば大きなエネルギーが突然に湧き上がる。これが現象的な「怒り」である。こうした外的状況に対して、身体は直接的に反応する。これを「本能」と呼ぶ。同時に、外的状況に対して身体から神経系に対してもフィードバック反応がなされる。これが「感情」である(2p148)。すなわち、「感情」とは、身体と思考との接点から産まれる(1p41)

 不安や恐怖は「私はいま危険だ」という感情による情報である(2p149)。ネガティブな「痛み」の感情には、それ以外にも怒り、悪意、嫌悪、憎悪、自己憐憫、悲しみ、罪悪感、憂鬱、嫉妬、羨望等がある(1p48, 2p151)。こうした感情は比較的たやすく認識できる。その一方で、なんとなく落ち着かない、気が重い、胸が締め付けられるといった簡単に捉えられない感情もある。これらは、身体的な感覚と感情との中間に位置するものである(1p161)。いずれにせよ、こうしたネガティブな感情は、身体を流れるエネルギーを撹乱する。心臓や免疫システム、消化やホルモン生成を妨げ、身体に害を及ぼす(2p151)

左脳での思考がネガティブな物語を産み出している

 さて、たいていの人の、頭の中では、「感情」だけでなく、絶え間なく「思考」の流れが続いている(2p71)。トールによれば、情報の収集、分析を得意とし、評価を下し、比較し、文句を言うといった活動を休みなく行っているこの思考力は、人間がサバイバルするために産み出されたツールである(1p32,1p39)。けれども、トールは、これが、状況に適しているかというと必ずしもそうではなく、むしろ、思考は、たいがいは「何か良からぬことが起きるのではないか」という悲観的な見方をし、これが不安を産み出しているという(1p32)

21Taylor.jpg ジル・ボルト・テイラー博士によれば、過去に学んだことに基づき、良い悪い、正しい間違っているというこの決断を下しているのは左脳である(3p226)。さらに、左脳の言語中枢が「物語」を機能させるため、ネガティブ思考が作られるという(3p246)。そして、ほとんどの人の思考活動の80〜90%は堂々めぐりである。それは無駄なだけでなく、ネガティブな性質のためにむしろ有害で、生命エネルギーを流出させている(1p36)

 すなわち、私たちは普通の状態の思考や感情をほんとうの自分だと思い込んでいる。けれども、この状態では、不安、不満、退屈、心配といった低レベルの意識、思考にコントロールされている(1p102)。思考活動を「ほんとうの自分」とみなしているほど、エネルギーの消費量は大きくなる(1p41)

 さらに、身体は実際の状況と「思考」とを区別できない。そこで、すべての思考に対してそれが事実であるかのように反応してしまう。そこで、たとえ、温かく快適なベットに寝ていても、不安や恐れが産まれれば身体は反応し、筋肉が緊張し、呼吸が速くなる(2p149)。例えば、攻撃的な思考は、怒りのエネルギーを身体に蓄積させる(1p41)

 テイラー博士は、左脳は、真実だと信じ込んだ「物語」を繰り返し心にこだまさせ、思考パターンのループを作り、知らず知らずのうちに最悪の事態を考えるようにしていくと指摘する(3p234)。心は探しているものに集中するようにできているため、特定の神経ネットワークの回路に意識を払えば払うほど、特定の思考に多くの時間を費やすほど、そうした回路や思考パターンはわずかの刺激で容易動くようになるからだ(3p225)。すなわち、身体は頭の中の声が語る「物語」を信じて反応し、「感情」を生み出す。そして、この感情を生み出した思考に、また感情がフィードバックでエネルギーを供給していく(2p150)

ネガティブな感情がネガティブな思考と物語を創り出す

 そして、ほとんどの人々は、過去の感情的な苦痛を抱えている。このエネルギー場を「ペイン・ボディ」と呼ぼう(2p155)。さて、思考には思考内容毎の周波数帯があり、ポジティブな思考は高い周波数で振動しているが、ネガティブな思考は低い周波数で振動している(2p161)。そして、ペイン・ボディは、それと同種のエネルギー、すなわち、同じ低い周波数で振動しているネガティブなエネルギーだけを糧として消化する(2p159)。前述したように、普通のパターンでは思考によって感情が産み出されているが、ペイン・ボディの場合では、ペイン・ボディから発した感情が思考を乗っ取り、思考がネガティブとなって物語を作り出していく。あとの残されたのはへとへとになって弱って病気にあっかりやすくなった身体だ(2p162)。そして、物語の感情がネガティブな内容であればあるほど、その物語は重く強固になっていく(2p189)

エゴはネガティブ思考のエネルギーの塊

 要するに、たいていの人は、頭の中で絶え間なく続く「思考」の流れとそれに付随する「感情」、しつこく反復される精神・感情のパターンの塊と自分とを完全に同一化している(2p63,71)。この肉体や物質よりもさらに精妙で密度も薄いが、意識の場から常に生起する思考の形をエゴと呼ぼう(2p63)。思考と不可分なエゴの次元が感情であり(2p148)、特定の状況に対するエゴ思考の産物が感情といえる。例えば、誰かの車が盗まれたと聞いてもふつう何の感情もわかない。けれども、それが自分の車であるとわかった時点で、とてもあわてるし苛立つ。これひとつとっても「私の〜」というエゴの観念がどれだけ大きな感情を産むのかがわかる(2p149)。前述のペイン・ボディとエゴは密接に関係して、両者は互いに必要としているし(2p188)、エゴは病気すら引き起こす(2p60)

ネガティブに無自覚なエゴは何かと同一化することでアイデンティティを維持する

 それでは、なぜ、そのような不健康な思考活動に絶えず人が溺れているのかというと、この思考によって自分のアイデンティティが確立されているからである(1p37)。アイデンティティという言葉は、ラテン語の「同じ」という意味の「idem」と「作る」という意味の「facere」が語源となっている。すなわち、「それを私と同じだとする」ことが、アイデンティティなのである(2p44)

エゴは心の隙間を埋めるためマネーや肩書きを求める

 エゴは、私たちが他の存在とは切り離されて存在し、敵だらけの世界の中で孤立した「かけら」だと考えている(1p241)。このため、エゴ思考には「私は不十分である」という根強い気持ちが常に伴う。この感覚が自覚されていない場合は、何かに対する渇望という間接的な形を取り、心にぽっかりと空いた隙間を埋めるために、金、成功、権力、賞賛等、あくなき欲望にのめり込む(1p67)。エゴが自己証明として利用する典型的なものには、所有物、肩書き、職業、知識、学歴、ルックス、家柄、信念体系、人からの評価等である(1p68)。すなわち、エゴは承認、賞賛、賛美等を外部に求める(2p99)

 すなわち、エゴは外的なモノと自分とを同一化することでアイデンティティを確立しようとする。けれども、エゴは他人との比較で生きている。このため、誰もが豪邸に住んでいれば、豪邸も富も自分のアイデンティティを高めることには役立たない。そこで、あえて粗末な小屋に住み、富を放棄してみせることで、自分は他人よりもスピリチュアルな存在なのだと思うことでアイデンティティを取り戻そうとすることすらある(2p54)

エゴは心の隙間を埋めるため職業的な役割を求める

 部族文化が古代文明へと発展するにつれ、人々には支配者、聖職者、戦士、農民、承認、職人、労働者等の役割機能が割り当てられるようになった(2p102)。生まれつき決められた仕事がそのアイデンティティとなり、他者の眼に映る自分が自分が何者かを決定した(2p103)。軍隊や教会、役所や大企業等の階級組織の機能は、役割としてのアイデンティティとなる。中流社会の主婦、誘惑する女性、タフなマッチョ、反体制的な芸術家、知識をひけらかす文化人等の普遍的な役割もある(2p105)。けれども、現代社会は昔ほど社会構造が硬直的ではない。このため、自分がどこにおさまればいいのか。生きる意味がなになんか、自分が何者なのか、混乱が増すばかりとなっている。こうしたカーストや社会階級の無意味さを見抜いていたのは、ブッダやイエス等極稀な人物だけであった(2p103)

エゴは心の隙間を埋めるため身体と自分とを同一化する

 さらに、エゴは身体と私とを同一化することによってアイデンティティを得ている。伝統社会では男性も性的能力の欠陥、女性も未婚や不妊が低く評価される。欧米では、他人と比較した強弱や美醜が自尊心に大きく影響する。けれども、肉体的な力や美しい容貌、能力等と自分を同一化している人は、そうした資質が衰えていけば苦しみを味わうことになる(2p59)

エゴは心の隙間を埋めるため国家や集団と自分とを同一化する

 満足しない自己から逃れる方法のひとつとして、エゴは、国家、政党、徒党等に自分を同一化することによって強く、大きくなったつもりになることもある。集団の大きな目的のために生涯を捧げ、個人的なエゴが完全に溶解しているように思える。けれども、それが本当にエゴから解放されたのか。エゴが個人から集団にシフトしただけなのかが問題である(2p139)

不安に駆られたエゴの望みは永久に満たされない

 けれども、欲しかったモノを手に入れ、欲望が満たされた直後というほんの短い瞬間を除いて、満足感は失われていく(1p67, 2p226)。すなわち、エゴ的な思考が人生をコントロールしている限り、真の心の平安を手にすることはできない(1p67)。エゴに支配されている限り、望みがかなわないという不幸と望みがかなうと言う不幸が襲う(2p226)。この不安感を除くため、多くの人は、テレビ、ショッピング、仕事、セックス、ドラッグ、酒等を麻薬代わりに使っている(1p103)

ネガティブを自覚したエゴは悲劇の主人公を演じることで心の隙間を満たそうとする

 エゴ的思考には「わたしは不十分である」という根強い気持ちが伴う。この感情を自覚している場合には「私は価値がない」という不安な感情が常に表面化する(1p67)。すなわち、エゴには、自分はダメな人間であるというネガティブな自意識が常に伴う(2p99)。このネガティブ思考の根源は、子ども時代に条件付けられることが多い。例えば、親や兄弟との信頼関係が築けなかった人は、無意識に人を信用できないと想定する。そして、「誰も私を評価してくれない。感謝もしてくれない。闘わなければ生きのびられない。私は豊かになる価値がない。愛されなくてもあたりまえだ」と想定(2p150)し、不幸な自分というイメージを抱くことで独特の満足感を得ている(1p63)。すなわち、思考は暴走し、不安や苦しみを産み出す「偽の自分」エゴをでっちあげる(1p28)

ネガティブな状態にいればエゴは欲しいものが手に入ると信じ込んでいる

 奇妙なことだが、エゴはネガティブな状態に喜びを感じ、ネガティブな状態を作り出せば、現実がコントロールでき、それによって欲しいものが手に入ると信じ込んでいる(1p251, 2p125)

 そこで、同情や憐みという形で他人の関心を求める被害者役は、非常にありふれたエゴが演じる役割のひとつである。セラピストの誰もが知っているように「問題」が、アイデンティティの一部になっているために、エゴは問題の終結を望まない。私の悲しい物語を何度も自分に語り聞かせて憐憫にふけることで、他人や運命や神によって不公平な目にあわされている自分というアイデンティティを守れるからである(2p101)

ネガティブなエゴは、他人から関心をもたれたいという自尊心を内心で求めている

 パーソナリティが分裂しているという面から見れば、エゴは「統合失調症」である(2p141)。精神病の多くは誰にでもあるエゴが極端になったものである。嘘を付くのは自分を特別に大きく見せようとするための虚構の構築物である(2p132)

 妄想型総合失調症は、常につきまとう不安を理屈づけるため、心が虚構の物語をつくりあげる。その一つが、自分を誰かが陥れたり、殺そうとしているという物語である。国家や組織にもこうした妄想症的な信念体系があることがある。また、自分が迫害されている、監視されている、脅かされているという妄想もある。自分が迫害されていると思えば思うほど、これほど多くの人から関心の対象となるだけ自分が特別な存在なのだと感じることができる(2p133)。エゴの妄想的な物語の中では、自分は被害者であると同時に、悪の軍隊を打ち負かし、世界を救済する力を秘めた英雄なのである(2p134)

ネガティブなエゴは、自分は正しいと主張し敵を求める

 目立ちたい、特別でありたい、支配したい、力が欲しい、関心をもってもらいたいとエゴに隠された動機(2p91)、「自分が特別だ」という感覚を得るためには、「他者」の存在が必要である。そして、その他者は、私が「敵」とみなしたときに最も確かな存在となる(2p72,73,92)。このため、エゴは心の中で相手に否定的なラベルを張り付け、悪口雑言を言う習慣が産まれる(2p72,73)

 すなわち、自分が正しく他者が間違っているという考えは、エゴの心のパターンのひとつである(2p53)。自分が正しいという思いほどエゴを強化するものはいない(2p78)。これが、個人間の暴力や国家間の戦争になっていく(2p72)。すなわち、それは、自分の痛みの感情を相手を攻撃するやり方で投影している(1p205)。そして、他者を批判したり非難していると自分が大きく優れていると感じられる(2p72)

 これまで、自分こそが正しいという主張をめぐって幾多の闘争が起こり、数知れない人間関係が破綻してきた背景には、絶対に自分が正しくなければ、アイデンティティが保てないという感情的暴力があるのである(1p66)

エゴは怒りと恨みと不満を抱き続けていることを求める

 他人に対する不満は無意識であるため気づけないことが多いが(2p73)、不満も自分だけが正しく、不満の対象である人や状況が間違っているとと暗黙のうちに想定している(2p78)。真実だと知っていることを淡々と述べるだけであればエゴは介入しないが、どうして私を信じないのかと言えばエゴが既に介入している(2p79)

 他者との分離意識を強め、「正義」という難攻不落の砦のような精神状態を産み出すことから、怒りや恨みには(2p125)、一時的だが、強烈にエゴを拡大する効果がある(2p125,2p233)。そして、これが、エゴのエネルギーになっていく。このため、エゴは他人だけでなく状況に対しても不満や恨みを持つことを好む(2p75)。エゴは常に自分が小さくなるのではないかと警戒している(2p232)。このため、エゴはこの状況が変化することも好まない。それは、不満を言い続けることができるからである(2p75)

ネガティブなエゴは、他人を攻撃することで優越感を感じるが、その根には不安がある

 要するに、エゴ的な関係で最も多い三つの状況は、@欲望、A欲望の挫折(恨み、怒り、非難、不満)、B無関心である(2p96)

 このネガティブな自意識の背後には必ず、エゴ他者よりも優れて偉大でありたいという願望が隠されている。そして、優越感を感じたいというエゴのさらに奥には、自分が劣っているのではないかという無意識の恐れが存在する(2p100)。何かを失うことへの恐れ、何かを失敗することへの恐れ、傷つくことへの恐れ。これらは、すべて、つきつめるとエゴの恐れに帰着する(1p65)。エゴの底流にあってすべての行動を律しているのは不安である(2p92)。すなわち、エゴは他者の関心を求めながら、同時に、深いところで他者を憎み、恐れているという矛盾したジレンマを抱えている(2p99,133)

【引用文献】
(1) エック・ハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(2002)徳間書店
(2) エックハルト・トール『ニュー・アース』(2008)サンマーク出版
(3) ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(2009)新潮文庫

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2015年07月01日

第20講 ニュー・アース(1) 古代の二つの叡智

はじめに

20EckhartTolle.jpg エックハルト・トール(Eckhhart Tolle, 1948年〜)は、2008年にニューヨーク・タイムズが「米国で最も人気のある精神世界分野の著者」と評し、2011年には、ワトキンス・レビュー(atkins Review)が世界で最も精神的に影響力のある人物と位置づけた人物である。

 トールは、29歳まで人生の大半を落ち込んで過ごしてきた。けれども、1977年のある夜、人生を変えるような至福を味わう。自殺を考えるほどの抑鬱に悩まされた後、「内なる変革」を経験したのだ(3)

「翌朝、小鳥のさえずりに目を覚ました。生まれてはじめて聞くかのような美しいさえずりだった。目を開けると力強い朝日が部屋に降り注いでいた(略)。すべてのものが新鮮で、あらゆるものに息づく生命とその美しさにただたた驚くばかりだった(略)。それから、五カ月間はなにものにもゆらぐことのない深い平和と幸せに包まれた日々を送った」(1p16〜17)

 トールは博士号取得のための勉強を辞め、ほぼ二年間に渡って、ほとんどの時間を「深い祝福に満たされた状態で」、ロンドン中心部のラッセル・スクウェアの公園のベンチに座って、「世界が移ろいゆくのを見て」過ごした。友人のところに居候になったり、仏教寺院に泊まったり、ホームレスとして野宿もした(3)。トールは自分自身でこう書いている。

「私は前途有望と言われていた学者としてのキャリアを捨てた。スピリチュアルな指導者としての人生が始まった。また、その後も突然の衝動でイギリスを去り、北米の西海岸に移住した。ここから『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』が生れた。収入もなく預金も切り崩して暮らしていた。けれども、本を書きあげたころ、ちょうど金が底をついたとき、たまたま買った宝くじで1000ドルが当たった(2p295)

 まさに、シンクロニシティとフローそのものの人生ではないか。

 トールは、個人レベルで幸せになるための具体的な「スキル」を提示することによって、社会、ひいては、世界、そして、地球全体を再生することを提案する。その「スキル」とは、ネガティブ思考、すなわち、エゴから抜け出すために、「いま」という瞬間に生きることだ。

 では、本の抜粋と再編集をご覧いただきたい。

北米先住民の驚き

10Carl Gustav Jung.jpg カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875〜1961年)は、ある米国の先住民の族長と交わした会話をこう記述している。

「ほとんどの白人はピリピリした面持ちで人を刺すような目つきをし残酷なふるまいをする。白人はいつも何かを欲しがっている。しかも、いつも不安でそわそわしている。我々には、白人たちがいったい何をそんなに欲しがり、なにをそんなに恐れているのか、全然理解できない。彼らの頭は、どうにかなっているんじゃないかね」(1p105)

 フロイトも、この不安を認識し、『文化への不満』を著したが、フロイトはこの不安の真の原因を発見することはできず、不安から自由になれる方法も解明できなかった(1p106)。フランツ・カフカ、アルベール・カミュ、T・S・エリオット、ジェームズ・ジョイスらもこの不安による疎外こそが人間の普遍的なジレンマであるとして、その窮状を映し出して見せた。けれども解決策は示していない(2p147)

 確かに、人間以外のどの生物もネガティブ性を知らない。気が滅入ったイルカ、自尊心に問題を抱えたカエル、リラックスできないネコ、憎悪の念を抱いた鳥等と出会いはしないではないか(1p252)

ほとんどの人間は精神病である

20Ramana.jpg 古い宗教やスピリチュアルな伝統には、二つの共通する洞察が見出せる。第一は、ほとんどの人間の普通の精神状態には機能不全、あえて言えば、狂気と呼べる要素が含まれているということだ。ヒンドゥー教の伝統は手厳しく、この機能不全を集団的な精神病と見なし、マーヤーを呼ぶ。インドの賢者の一人、ラマナ・マハリシ(Ramana Maharshi, 1879〜1950年)は「心は妄想だ」とまで言い切っている(2p18)。2600年前にゴータマ・シッタルダ(Gautama Siddhartha)は人間の存在の本質は苦であると見抜いていた(2p124)。仏教では、普通の人間の心は苦、不満、惨めさを生み出す「ドゥッカ」の状態にあるとする(2p18)

 キリスト教では、人間集団の普通の状態は「原罪」だとみなす。ただし、この「罪」という言葉は誤って解釈されてきた。新約聖書が書かれた古代ギリシア語を文字通りに訳せば「罪」とは射手の矢が標的からそれて的を外すこと、すなわち、罪とは的外れな生き方をを意味している。不器用に苦しみ人を苦しませる生き方が「罪」なのである(2p18)

 確かに知性は狂気を帯びている。機関銃、潜水艦、毒ガス、火炎放射器が登場して1000万人が殺されたた第一次世界大戦。スターリンの粛清で殺された2000万人。ナチス・ドイツによるホロコースト。クメール・ルージュの惨劇等、犠牲者は限りない(2p19〜21)。ベトナム戦争では57000人以上の米国の若者、300万人以上のベトナム人が犠牲となった(2p106)。米国の刑務所の収容人員は1980年には30万人以下だったが、2004年には210万人にまで増えている(2p87)。恐怖、貪欲さ、権力欲は、民族や国家、宗教、イデオロギー間の戦争や暴力の心理的な動機になっているだけでなく、個人の人間関係の絶え間なき葛藤の原因にもなっている(2p19〜21)

人々の欲望が満たされずもっと求めるおかげで消費社会は成立している

 北米の先住民たちは、土地所有という概念を理解できなかった。自分たちが土地を所有しているのではなく、自分たちが大地に所属していると感じていたからである(2p54)。例えば、ニューヨークの摩天楼のひとつを指差して「このビルは私のものだ」とある人が叫んだとしたら、おそらく、妄想を抱いているとして精神科医のもとに送られるであろう。このことからも、所有の概念がどれほどばかげたものであるかが確認できる(2p52)

 けれども、私たちは他人との比較でどれだけモノを所有しているかでほぼ自尊心が決まる社会で暮らしている(2p55)。広告業界も、ほんとうは必要ではないモノを売るために、それを所有すれば自己のイメージが変えられると消費者に思い込まさなければならないことを熟知している。そこで、有名人を活用して「この製品を買えば不思議なパワーが働いて彼らのようになれますよ」というメッセージを送り続けている(2p45)。そのため、モノの所有が集団妄想であると見抜かない限り、絶えず自尊心を求め、アイデンティティを充足させようとしてモノを追い求めることになる(2p55)

 けれども、自分のアイデンティティを物を通じて見出そうとすることは、モノを手段として使っているため、ほんとうにモノを大切に尊重していることではない(2p46)。過食症、苛立ち、退屈、不安、焦燥感、不満はすべて欲望が満たされない結果である(2p57)。これは、モノに対して自分のアイデンティティを見出そうと努力する人々の努力がいつも失敗してくれるからこそ、人々がモノを買い求め続け、消費社会が成り立つことを意味している(2p46)。そして、「もっと多く」を求める欲求が、工業式農場での動物虐待や河川や待機、海の汚染、森林や動植物の破壊等、他の生命体や地球そのものに暴力をふるっている。人類の歴史は大まかに言えば狂気の歴史なのである(2p19〜21)

人間の機能不全、エゴに着目しなければ理想主義も失敗する

 多くのスピリチュアルな教えは、恐怖と欲望を捨てよという。けれども、恐怖と貪欲さと権力欲は究極の原因ではない。それぞれの人間の心の中に深く根を下ろした集団的妄想という機能不全、エゴの結果なのである(2p21)。エゴはそれ自体が病的である。病気(pathological)という言葉のギリシア語の語源は、苦しみや悲しみを表す「pathos」に由来する(2p124)

 アイデンティティのよすがをモノに求めるのは「エゴ」の最も基本的な働きだが(2p45)、エゴの満足は長続きはしない。さらに消費し続けなければ満足できない(2p46,56)。良い人間になろうとする努力も、エゴイスティックな高揚感、自意識を強めるエゴでしかない。さらに、良い人間にはなろうとしてなれるものではない。もともと高潔な理想から始まった共産主義も、このすべての人間が持つ機能不全を考慮せずにただ外部的な現実を変えるための行動計画を立てた。このため、この試みも失敗に終わった(2p21)

自分たちが正しいという正義が犠牲を産む

 真理とは信じるべき物語、思考の産物だが、真理は自分たちの側だけに存在し、自分たちが正しいという信念は、行動やふるまいを狂気のレベルにまで堕落させる(2p81)

 エゴは他人を糾弾する。そして、自己正当化のために事実を歪曲する。個人もそうだが、企業や政府もそうである(2p130)。冷戦やマッカーシズムのように、部族や国家、宗教組織の集団的なエゴは、我々体邪悪な奴らという妄想的な要素を有していることが多い(2p134)。多くの宗教も、人々をまとめるどころかむしろ分断させ、異なる宗教間、さらには、同じ宗教内部ですら分裂を繰り返し、自分が「正しく」相手が誤っていると断定して、敵を「異端」「間違った思想の持ち主」と呼んだ。そして、対立者の殺害すらも正当化した(2p23)。このことを考えれば、十字架上のイエスの「彼らをお許しください。自分で何をしているのかわかっていないのです」という言葉がどれだけ深い智慧から発せられていたかがわかる(2p130)

エゴが小さい女性を火あぶりにした教会

 女性は男性に比べて直観能力の発生源であるインナーボディとよくふれあい、女性は男性よりも自分を心と同一化する度合が低いため、女性にもエゴがあるとはいえ、男性のエゴほどは根深くない。シュメールやエジプト、ケルト等のキリスト教以前の古代文明の多くでは女性が敬われ、女性原理は尊重されてきた(2p170〜171)

 この女性に対して、男性のエゴは集団妄想としての恐怖を抱き、女性たちがただ動物をかわいがったり、薬草を集めただけで魔女の烙印をおされ、ローマカトリック教会の異端審問では300年に300〜500万人の女性が(2p170〜171)拷問にかけられ、火あぶりにされて殺害された(2p81,2p134, 2p170〜171)。この2000年の女性原理の抑圧によって、人類の集団的心理でエゴは圧倒的に優位となった(2p170〜171)

エゴの欠乏感による消費社会に終止符を打つには内なる幸せを求めるしかない

 古い宗教やスピリチュアルな伝統は、人間存在のこの本質的への洞察から、二番目の洞察を生み出した。すでに自分の中にある「善」を発見し、その善を引き出すことでしか良い人間になれないということだ。この機能不全を最初に絶対的な明晰さで見抜いていたのは、2600年前のゴータマ・シッタルダだった。そこで、仏教では、「苦滅諦」「解脱」と言う。ヒンドゥー教の教えではこれを「悟り」という。老子はこれを『道徳経』でタオと述べた。イエスの教えでは「救済」と呼んだ(2p22)

 エゴがモノを求め続けるのも、「大いなる存在」との一体感を感じられない欠乏感をモノで代用しようとしているからだ(2p60)。したがって、生命の生存を脅かす根源的な危機に対応するには、自分がすべての他者と生命の源と本質的に結びつき、全体とつながっていることを認識するしかない。この結びつきを忘れたことが、苦しみであり、妄想であり、原罪なのである(2p28〜30)

【引用文献】
(1) エック・ハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(2002)徳間書店
(2) エックハルト・トール『ニュー・アース』(2008)サンマーク出版
(3) ウィキペディア

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2015年06月25日

第18講 身体をコントロールする思考

はじめに

 このブログ「幸せ探偵」は、経済成長に依拠しない国家や社会の有り様を個人レベルの「幸せ」という切り口から捉え直してみたいと思っている。第17講では、八木啓代氏の「ラテンの生き方」を紹介してみた。キューバが医療大国であることは八木氏の著作にも書かれているが、カーニバル評論家の白根全氏によるとキューバの自殺率は中南米では意外に高く、方や世界最貧国とされるハイチの自殺率はほぼ皆無なのだという。

 自殺を不幸の指標と考えれば、幸せは国家の経済状況や社会制度と無関係なこととなり、格差ゼロの理想社会を築こうとしたフィデル・カストロの努力は空しいこととなる。

 それはともかく、ラテンの南の陽気が人間を陽気にすることは間違いあるまい。事実、1985年、ウィスコンシン大学医学部の解剖学准教授という終身在職権を落ち込んで止めることとなり、カリブ海に浮かぶ島、モンセラット島にある医科大学で教鞭をとり始め、島のジャングルや珊瑚礁の生物たちを見ているうちに、「生命は遺伝子に支配されているのではない」というインスピレーションを受けてしまった生物学者がいる(p12〜13,p34)。今回は、生物学のアプローチから「幸せ論」に一石を投じたブルース・リプトン博士の著作を内容を紹介してみよう。

DNAや遺伝子は生命をコントロールする脳ではなく生殖器

 bruce lipton.jpg遺伝のメカニズムを研究するためには、細胞から核を取り出し、核膜を開いて内部の染色体を取り出す。染色体の半分はDNAで残りの半分はDNAの働きをコントロールするタンパク質である。従来の研究はDNAだけに着目し、このタンパク質を捨てていた。けれども、現実の染色体ではDNAを芯に、このタンパク質がカバーをしている。カバーがかかったままでは遺伝子情報を読み取れない。そして、このカバーがはずれるのは、環境から信号情報を受けることによってである。すなわち、環境からの信号を受けた、調節タンパク質のコントロールによって、遺伝子が働くかどうかが決まる。従来のDAN優位という図式はもはや時代遅れなのだ(p109〜110)

 そもそも細胞は遺伝子がなければ分裂できない。そして、細胞内のタンパク質は細胞活動によって劣化していく。核を除外したからといって細胞は遺伝子がないから壊れたタンパク質を補充できない。だから、その細胞は最終的には死ぬ。けれども、その細胞が死ぬのは脳を失ったからではなく、再生産能力を失ったからだ。このことは、核が細胞の脳ではなく、細胞の生殖腺であることを意味している(p106〜107)

細胞膜こそが細胞の「脳」である

バクテリア等の原核生物は最も原始的な生物だ。原核細胞には核やミトコンドリアのような細胞小器官すらない。けれども、食料を摂取消化し、呼吸し、老廃物の排出も行っていく。食料がある地点まで移動し、毒や捕食者が存在すれば逃げようとする「知性」すら持つ。とすれば、原核生物の「脳」の候補は、細胞膜だとしか考えられないではないか(p122)

 細胞膜は、親水性のリン酸からなる「リン脂質」の頭部に疎水性の脂質部分「リン脂質脚部」がはされまれた半透過性の三層からなっている(p129)。20種類のアミノ酸には親水性(極性)のものと疎水性(非極性)のものがある。そして、タンパク質はアミノ酸が数珠つなぎになってできている。このため、タンパク質の分子で、疎水性のアミノ酸がつながっている部分は、安定性を求めて脂溶性の膜の中央部に埋まり込む。これを「内在性膜タンパク質(IMP=Integral Membrane Proteins)」と呼ぶ。内在性膜タンパク質は、働きによって「レセプタータンパク質」と「エフェクタータンパク質」にわかれる(p130)

 ヒスタミンレセプターはヒスタミン分子と、インスリンレセプターはインスリン分子と結合する。このため、レセプタータンパク質は、眼や耳等、細胞の感覚器として働く(p132)。一方、細胞はレセプターから受け取った情報に反応し、働くのがエフェクタータンパク質である(p133)

 核とは違って細胞膜を破壊すると細胞は死ぬ。また、膜をそのままにしておいて、消化酵素を用いて「レセプタータンパク質」だけを破壊すると細胞は、昏睡状態のいわば「脳死状態」に陥って、環境からの情報を受け取れず活動ができなくなる。同じく、「エフェクタータンパク質」の形が変えないようにしても細胞は昏睡状態に陥る(p138)。要するに、環境から刺激を受け取り、細胞が生命を維持するための適切な反応を引き起こすのは細胞膜である(p205)。要するに、細胞膜が細胞の「脳」と言えるのだ(p120,p205)

エフェクタータンパク質が細胞をコントロールしている

 遺伝子を超えたコントロールという意味での(p108)「エピジェネティクス」という新たな分野の進展によって、染色体内に存在するタンパク質の役割が着目されるようになったように、「内在性膜タンパク質」の働きを研究する「シグナル伝達」という新たな分野が誕生したことによって、細胞膜が重視されるようになった(p134)

 前述したように染色体中のDNAに調節タンパク質が結合するとDNAにカバーがかぶさるようなもので、DNAの読み取りが制約を受ける。そして、この調節タンパク質がDNAに結合するかどうかの信号を出しているのは「内在性膜タンパク質」である。要するに、実際にコントロールしているのはDNAではなく、エフェクタータンパク質なのである(p136)。このことから、細胞レベルでの「知性」のメカニズムは、内在性膜タンパク質のレセプタータンパク質とエフェクタータンパク質から構成されていることがわかる(p206)

単細胞生物はシグナル分子を用いて多細胞化した

 多細胞生物は以前に考えられていたよりもはるかに少ない遺伝子しか持っていない。ヒトゲノム計画が始まる前はヒトの遺伝子は10万個以上あると考えられていたが、実際に解読が終わってみると2万数千個の遺伝子しかないことが判明した(p170)。一方、原始的なセンチュウは969個の細胞から構成され、脳の細胞はたった302個しかないが、2万4000個もの遺伝子を持つ。約50兆個の細胞からなるヒトの遺伝子は、センチュウよりも1500個多いだけにすぎないのだ。そして、ショウジョウバエにいたっては1万5000個とセンチュウよりも9000個も少ない(p103〜104)。このことも、遺伝子がさして重要ではないことを思わせる。

 単細胞生物が多細胞生物となったのはわずか7億年前のことだが(p208)、単細胞生物が多細胞生物という共同体を作り上げたのも、環境中のシグナル分子の働きによる。単細胞の粘菌アメーバは通常は単独で食料をあさっているが、環境中の食料が不足すると代謝副産物であるサイクリックAMP(cAMP)を外部に放出し、それが環境に蓄積していく。このcAMPがシグナル分子としてcAMP細胞膜表面のレセプターに結合するとアメーバ―は集合して多細胞となり、生殖を行う。cAMPは進化史では最も古くから用いられてきた分子である(p207)

 サイトカイニン、神経ペプチド等の人間の体内で働くシグナル分子も以前には複雑な多細胞生物の誕生とともに出現したと考えられてきたが、最近の研究からは、原始的な単細胞生物がすでに人間と同じシグナル分子を用いていたことがわかっている(p208)

ヒトの身体は同一のタンパク質を使いまわす複雑系だ

 従来の医学では、ある医薬品になぜ副作用が生じるのかよく説明できなかった。けれども、2004年、細胞内で働くタンパク質の相互作用のマップが作成される。このことから、体内でうまく機能していないあるタンパク質を調整しようとして薬剤を服用すると、ターゲットとなるタンパク質だけでなく、それ以外の多くのタンパク質に相互作用を引き起こすことがわかった(p167〜169)。すなわち、同一の遺伝子産物、タンパク質が様々な場面で使い回しすることで複雑な体を維持している(p170)

心とは多細胞間の化学伝達物質である

 さて、単細胞生物は、細胞膜を取り囲むごく近場の環境情報を「肌」で得ることができる。けれども、多細胞生物は、生物個体の外側で何が起きているのかを認識できない。このためその情報をキャッチするため、神経ネットワークや脳を発達させた(p209)

 さらに高等な生物は脳内部でも特殊化を進めた。そのひとつが大脳辺縁系だ。神経系は化学物質のシグナルを放出することによってすべての細胞が「感情」として経験できるようにしたのである。この細胞間の連絡に用いられる化学物質のシグナルが「情動」だ。

 キャンディ・パート(Candace Pert)は『化学物質が情動をつくる』で、ほとんどの細胞にニューロン性のレセプターが存在することを明らかにしている。パートの実験から、感情が脳内に留まるだけではなく、シグナル分子として身体全体に分配されることが明らかになった。同時に、自ら「意識」することで、脳は「感情をつくる化学物質」を生成していることもわかった。このことは、意識によって身体を健康にもできるし、病気にもできることを意味している(p210〜211)

心からの指令は身体よりも優先される

 漆にかぶれると手が腫れてかゆみが続くのはヒスタミンが放出されるからである。ヒスタミンは、身体が緊急警報として局所的に放出するシグナル分子である。けれども、ヒスタミン分子に反応するレセプターにはH1とH2の二種類がある。H1レセプターは、毒物を培地に加えたように防御反応を始める。漆のアレルゲンに炎症反応を起こす。けれども、同時に脳内の血管では、H2 レセプターが反応し、ニューロンへの栄養分を増やし、ニューロンの成長を促す(p171,217)

 アドレナリンに反応するレセプターも二種類があり、アルファレセプターは防御反応を引き起こし、ベータレセプターは増殖反応を起こす。それでは、培地にヒスタミンとアドレナリンの両方を加えたらどうなるのであろうか。アドレナリンの方が優先され、ヒスタミンの効果を打ち消した。この細胞レベルでの実験は、中枢神経系が送り出すアドレナリンのような指令が、局所的なシグナルであるヒスタミンのような指令よりも優先され、身体システムでは心(中枢神経系)からの指令が肉体よりも優先されることを意味している(p218)

人の健康は心で左右される〜プラシーボ効果とノーシーボ効果

 1952年、イギリスの医師、アルバート・メイソンは先天性魚鱗癬という遺伝病を催眠療法で治療することに成功した(p196)。医学の歴史を見渡せば、瀉血、砒素を用いた治療、万能薬としてのガラガラヘビの油等、有効な治療がなされていなかったことがほとんどであることがわかる。おそらく、患者の三分の一はプラシーボ効果によって改善したのであろう(p222)。喘息やパーキンソン病、鬱病にもプラシーボ効果があることがわかっている(p224)

 一方、ネガティブな思考が病気を引き起こす「ノーシーボ効果」もある。2003年に放映された番組『プラシーボ―心は薬よりも力がある』には、医師クリフトン・ミーダーが1974年にサム・ロンドを診察した結果が紹介されている。ロンドは食道癌を患いあとは死を待つばかりだと診断され、実際に診断後数週間で亡くなったのだが、解剖後に食道癌がまったくみあたらなかったのである(p228〜229)

ストレスによる防衛反応が病気を起こす

 ひとつひとつの細胞を観察していると深く考えさせられることが多い。例えば、ヒト血管内皮細胞は、培地に有害物質を入れると「毒」から逃げ出し、養分を与えると引き寄せられた。このように、生物の反応は大きくは、有害物質から離れる「防衛反応」と養分に向かっていく「成長・増殖反応」に大別できる。ただし、重要なことは両反応が同時に発動はできないことだ(p235)

 多細胞生物も数多くの細胞からなる共同体で、「成長・増殖反応」と「防衛反応」が行われているが、それは、神経系が環境からのシグナルをモニターすることによってコントロールされている。

 環境に脅威がキャッチされなければ、視床下部・脳下垂体・副腎が連携して働くHPA(Hypothalamus Pituitary-Adrenal Axis)系は作動せず、体内では成長・増殖活動が行われる。けれども、脅威が知覚されると、レセプタータンパク質と同じように視床下部がHPA系を発動させる。副腎皮質刺激ホルモン放出因子(CRF)を放出し、これが脳下垂体に届く。「内分泌線」の総元締めである脳下垂体は、エフェクタータンパク質と同じように体の各種機関の活動を促進させる。CRFは脳下垂体の特定のホルモン分泌細胞を刺激し、副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)が血液中に分泌される。ACTHが副腎に届くと、副腎からは、闘争や逃走反応を引き起こす副腎皮質ホルモンが分泌される(p238〜239)

 同じように、危険から逃げ出すためには四肢の力が必要である。そこで、内臓に集中していた血液が四肢に送られ、内臓の活動が低下する(p240)。アドレナリン等のストレスホルモンが分泌され続けると、成長・増殖のプロセスを阻害するのはそのためである(p244)

 身体に備わっているもうひとつの防衛システムは免疫系である。免疫系も発動されるとかなりのエネルギーが消費される。HPAシステムが発動され分泌される副腎皮質ホルモンは免疫系の活動も抑制してエネルギーを確保しようとする(p240)

鬱病もストレスによる海馬の活動低下が原因

 大脳の情報処理スピードは延髄等、反射的な反応をコントールする脳よりもかなり遅い。緊急時には情報処理スピードが速いほど生存率が高まる。このため副腎のストレスホルモンは大脳の血管を収縮させ機能を抑制する。さらに、自発活動を司る前頭葉の活動も抑える。このため、HPA系が活性化されると意識が低下して思考力が低下し、頭もうまく働くなる(p242)

 従来、鬱病は脳内のモノアミン、とりわけ、セロトニンの生産が疎外されることで生じるとされてきた。しかし、2003年のサイエンスに掲載された研究結果は、このセロトニン仮説に反するものであった。鬱病患者は、海馬の細胞分裂が抑制されている。けれども、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)タイプの抗鬱剤、プロザックやゾロフトを投与しはじめると、海馬の細胞の分裂が再開し、それと時期を同じくして患者の気分は変化する(p245)。慢性鬱病患者は海馬と前頭葉が物理的に委縮している。このため、HPA系が働き過ぎ、ストレスホルモンによるニューロンの成長・増殖疎外が鬱病の原因ではないかと考えられている(p246)

本能の潜在意識は意識の数百万倍も強力

 けれども、ポジティブな思考だけで病気が治療できるというのは誤りである。ポジティブ思考が見落としているのは、潜在意識が意識の数百万倍も強力なことである。癌がどんどん小さくなっているとか、自分が魅力的だということを繰り返し自分に言い聞かせることはできる。けれども、どれだけ、意識的に人生を変えようとしても、「お前はつまらない人間だ」というメッセージが潜在意識に刷り込まれていれば、その潜在意識が帳消しにしてしまうのである(p203〜204)

 意識が1秒に40もの刺激しか扱えないのに対して、潜在意識は2000万もの環境刺激を処理することが可能である(p271)。潜在意識内のプログラムは特定の刺激に対して特定の反応を起こすための行動プログラムである。風が吹けば目を閉じ、膝の下を叩けば足があがるのもそのためである。潜在意識には感情はない。そして、動物の脳機能は、チンパンジーやクジラやイルカ、人間等、意識が進化するまでは潜在意識によるものだけであった(p269〜270)。蛾は光に向かって飛び、ウミガメは適切な時期に浜で産卵する。こうした能力は本能と呼ばれるが(p261)、意識は「手動」でコントロールされるのに対して潜在意識による「自動操縦」なのである(p271)。そして、意識は過去の経験を見直すことができるし、未来への空想にふけることもできるが、潜在意識は常にいまの瞬間で作動している(p274)

子どもの脳は低周波で潜在意識が作られやすい

 リーマ・レイバウ博士の『脳波の定量とニューロフィードバック』によれば、生誕から2歳までの子どもの脳は、主に0.5〜4ヘルツの低周波のデルタ波が優位である。2〜6歳では4〜8ヘルツのシータ波が増える(p265)。そして、歳を取るにつれて、8〜12ヘルツのアルファ波が増え、外部からのプログラミングの影響を受けにくくなる。12歳ごろからは、12〜35ヘルツのベータ波が持続的にあらわれ始める。さらに、飛行機が着陸態勢に入るときのパイロットやプロのテニス選手では、さらに高い35ヘルツ以上のガンマ波もみられる(p268)

 アルファ波はリラックスした覚醒状態で現れる脳波だが(p268)、催眠療法では脳波をデータ波からシータ波に落とす。低周波数の脳波がでると暗示を受けやすくなる。そして、 この低周波の状態にある脳波は、取り巻く環境の情報を信じられないほど大量に取り込むことができる。子どもが親が提供する情報を潜在意識に記憶していくのはこの力による(p265)。京都大学霊長類研究所の研究によれば、チンパンジーの子どもも母親を観察するだけで学習することができるが、人間も同じで、基本的な行動や信念は両親を観察することを通じて潜在意識に組み込まれていく(p266)

「おまえなんか何の価値もない」「生まれてこなければよかった」というネガティブなメッセージは絶対的な「真実」として子どもの脳にダウロードされてしまう(p267)

超常現象は細胞がエネルギー波にも反応すると考えれば説明できる

 灼熱の石炭の上を火傷ひとつ負わずに素足で渡る能力、心霊現象等は、ニュートン物理学の世界観では説明が不可能である。自然治癒、鍼灸、カイロプラスティック、マッサージ療法等で病気が治癒することも理解できない(p159)

1960年にノーベル賞の受賞学者、アルバート・セント=ジェルジ(Szent-Gyoregyi)は『分子生物学入門〜電子レベルからみた生物学』を出版している。この重要性は認識されていない(p177)。レセプターは分子に反応するだけではない。光、音、ラジオ波等、振動エネルギーに共鳴して「音叉」のように振動する「エネルギーレセプター」もある。エネルギーレセプターは、振動によってレセプタータンパク質の電荷が変化して形態が変化する。すなわち、細胞は物質分子だけに影響されるという考え方は時代遅れである(p133)。さらに、1974年に、オックスフォード大学の物理学者、C・W・F・マックレア(McClare)は、生体システムの情報転送の効率をエネルギー・シグナルと化学シグナルのそれぞれの場合で計算して比較した。その結果、ホルモンや神経伝達物質による場合よりも、電磁周波数の伝達が100倍も効率が良いことを明らかにした(p179)

 要するに、人間を含めて、すべての生物はエネルギー場を認識することでも環境から情報を読み取っている。オーストラリアのアボリジニは砂の奥底に埋まる水脈を感じ取れるし、アマゾンのシャーマンも薬用植物とエネルギーを用いてコミュニケーションが取れる(p191)。そして、思考を含めた目に見えない力によっても影響される(p133)

個人の意識は死後も空間に波として保存される

 1980年のイギリスの神経科学者ジョン・ローバー博士による論文は、脳と知性の関係に疑問を投げかける。ローバー博士は水頭症の症例を多数研究してきた。その中で知能指数126がシェフィールド大学で数学を首席と取った学生が登場する。けれども脳をスキャンしてみると頭蓋は脳脊髄液でいっぱいで事実上大脳がなかったのである(p263)

 それでは、個人の意識はどこにあるのだろうか。一人ひとりの生物的なアイデンティティは、一人ひとり異なる細胞表面のタンパク質レセプターによって定まっている。ただし、各個人にアイデンティティを与えているのは、タンパク質のレセプターではなく、細胞膜の外表面に位置して「アンテナ」のように作用して、アイデンテティのレセプターが「読み取る」細胞内ではなく細胞外の環境からもたらされる「自己」のシグナルである(p310〜311)

 人間の身体をテレビに例えれば、あなたは画面に映っているイメージである。けれども、あなたはテレビの内部にはなく、環境からアンテナが受信した「放送」である。あなたというアンデンティティの「放送」は、空中に存在しているため、テレビが壊れたとしても、新たなテレビを買ってくれば、再び出現する。

 ニュートン物理学の世界観に捉われているために、細胞にあるタンパク質レセプターが「自己」であると考えがちである。けれども、わたしというアンデンティティは、身体があろうがなかろうが環境内に存在している。テレビの事例のように、たとえ、肉体が死んだとしても、放送は存在している。

 このことを示唆するのが、移植後に行動や心理が変化したと語る患者がいることである。例えば、クレア・シルヴィアは著者『記憶する心臓―ある心臓移植患者の手記』で、オートバイに熱中し、ビールとチキンナゲットが好物であった18歳の若者の心臓を提供されたのち、保守的な性格が変わり、オートバイとビールとチキンナゲットを好むようになったと語る。ポール・ピアソールも『心臓の暗号』で同様の事例を数多くあげている(p311〜312)。つまり、あなたも私も環境にある魂(スピリット)から除法を得ている。そして、この世で経験した事柄は、魂に送り返される。このような相互作用は「カルマ」の考え方と一致する(p315)。先住民文化では、岩や空気にも、眼に見えないエネルギーが息吹いていると考えてきたが、最新の科学の世界観は、すべての物質に魂があると考えてきたこの先住民の世界観に似てきているのである(p302)

【引用文献】
ブルース・リプトン『思考のすごい力』(2009)PHP研究所

リプトン博士の画像はこのサイトから

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2015年06月18日

第12講 ホログラフィック・ユニヴァース 心が未来を創造するからシンクロが起きる

 ミハイ・チクセントミハイのフロー理論や自己実現論をより深く理解するためには、世界とは何か、時間とは何か、未来とは何かという深い理解が欠かせない。そこで、マイケル・タルボットの「ホログラフィック・ユニヴァース」を20年ぶりに読み直し、まとめなおしてみるという作業を第7講からやってきた。

夢を通じて未来も予知できる

 第11講では、過去の情報にアクセスできる人間が存在することをみてきたが、過去のみならず、未来に起きる出来事の一部も過去と同じほど簡単にアクセスできるとの膨大な証拠がある(P277)。例えば、タイタニック号の沈没を予知するヴィジョンを見た人は、記録されているだけでも19もある(P285)

 過去透視と同じく、予知情報も立体画像の形で現れることが多い。例えば、キューバ出身の超能力者、トニー・コルデロは、キューバ全土に赤い旗が立ち、キューバが共産主義者に征服されるヴィジョンを子どもの頃に目にした(P281)

 そして、未来余地の60〜68%は夢の最中に起きるとされている。このことは、誰もが本来予知能力を持っているが、それが無意識の領域に追いやられていることを意味する。そして、夢を見ている状態では意識が深いため、未来の情報にもアクセスしやすい。伝統部族の文化はこのことをよく知っている。このため、各地のシャーマンの伝統では、未来を占う際に夢の果たす役割が重視されている(P283)

人は数多く存在する未来の中からあるものを選択することで未来を創造している

 未来が予知できるとすると、未来とは固定されたもので、すべては事前に決められてしまっているもののように思える(P285)

12David Loye.jpg プリンストンとUCLA両大学の医学部教授であるデイヴィッド・ロイ(David Loye)博士は、現在、未来予測研究所の所長だが、「予知能力の謎を解くには、プリグラム=ボーム・ホログラフィック意識理論が役立つ」と述べている(P281)

 ホログラフィックな領域では過去も未来もない。カール・プリグラムは、波動領域にあるホログラフィックな宇宙では4000年前は明日かもしれないと語っている(P272)。そして、ロイ博士の見解によれば、ひとつのホログラフィックなユニヴァースの未来は前もって決まっている。未来が予知できるのも、そのホログラムに波長を合わせることによってだ。けれども、同時に未来は変えることができ、未来の予感を感じて行動を変えるとき、あるホログラムから別のホログラムに跳躍する。そして、それこそが自由になる力をもたらすものだと考える(P286)

 様々な未来が数多く存在し、それを選択しているとのロイ博士の見解は、意識が未来創造に一役買っていることを意味する。すなわち、人間は自分の運命を自分で決めていることになる(P288)

退行催眠と臨死体験によれば人は成長するために自分の運命を決めて産まれてくる

 12Joel Whitton.jpgトロント大学医学部のジョエル・ホイットン(Joel Whitton,1945年〜) 博士は、退行催眠を用いて過去世の記憶をたどる研究を進めてきたのだが、その結果、共通する点として以下のことが明らかになってきた。

 @原始人以前の前世まで退行するとそれが限界点となり、ある前世が他の前世と区別がつかなくなった

 A魂には男女の性別がなく、少なくとも過去には別の性として生きた経験を持っていた

 B学び進化していくことが人生の目的であり、何度も生まれ変わるのはその機会を与えられている(P290)

 C生と生との中間には光に満たされたまばゆい領域があり、時空間が存在せず、誰もが倫理的・道徳的に高い意識を持ち、過去の過ちを認め自分の行為を償うため、ここで人生が計画される(P292〜293)

 12Ian Stevenson.jpgヴァージニア大学医学部の精神医学の教授、イアン・スティーヴンソン(Ian Stevenson, 1918〜2007年)博士も、前世とおぼしき記憶を思い出した子どもたちの聞き取り調査から、以下の結論を見出している。

 @愛おしさ、罪悪感、義務感から過去世で知っていた人間と一緒に生まれ変わることが多い

 A因果応報的なカルマはなく、運命も偶然ではなく、人としての責務から自ら選んでいる

 B人生で最も重要なことは、外面ではなく、人間としての内面的な成長である(P294〜296)


 このホイットン博士やスティーヴンソン博士の見解によれば、無意識の心は、自分の運命の大枠をつかんでいるだけでなく、自らその方向付けすら行ない、人生の計画を立てていることになる(P292〜293)

予想される四つの未来〜破局か調和か

 サンフランシスコ在住の心理学者、故ヘレン・ウォンバック(Helen Wambach, 1925〜1986年)博士は、小規模なワークショップで退行催眠をかける調査を29年も行なってきた。輪廻転生では、誰もが有名人が歴史的な人物の過去世ばかりを思い出しているとの批判がなされるが、ウォンバック博士の調査では被験者の90%以上が小作人や農民、労働者、狩猟採集民としての過去世を呼び起こし、貴族としての前世は10%にも見た図、有名人であった記憶を持った人は一人もいなかった(P304〜305)

 12helen wambach.jpgそして、ウォンバック博士は、未来へと人々の人生を進められることも発見した。その研究の完了を見ることなく彼女は他界したが、同僚の研究者であったチェット・スノウ(Chet Snow)が、研究を続行し、2500人の未来をまとめ上げた。『未来の集合夢』によれば、地球の人口が激減している点で一致していた。また、肉体として存在していないと語る人も多かった。さらに、被験者が描いた未来は次の四つに見事に分かれた。

 @宇宙ステーションの住み、銀色の服を着て、人工食品を食べているという味気ない未来

 A人々が地下都市やドームのような都会に住む殺伐とした機械的な未来

 B大災害を生きのびた人々が都市の廃墟や洞窟、孤立した農場で毛皮を着て狩猟に依存して生きている未来

 C自然環境に恵まれた中で霊的な進化をするため自然や互いに調和した暮らしを営む未来

 スノウは、この調査結果は、運命の霧の中に起きる可能性がある未来が存在しているのだと考える。そして、来るべき破局を逃れるために核シェルターを作るよりも、良い未来を信じて、それを想い浮かべることに時間を費やすべきだと説いている(P305〜306)

シンクロニシティとは本来は意識と現実がひとつであることを垣間見せる亀裂現象

10Carl Gustav Jung.jpg ここで、やっと、シンクロニシティについて語る準備ができた。カール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875〜1961年)が、治療をしていたある女性は、何度か治療を受けた後に、スカラベ(フンコロガシ)が登場する夢を見た。エジプト文化ではスカラベが輪廻転生の象徴であることをユングは知っていた。そこで、この女性の無意識が心理的に生まれ変わろうとしていることを夢が象徴的に伝えようとしているのだと考えた。そして、この話を女性にしようとした瞬間に何か窓をたたく音がした。ユングが顔をあげると窓の外側には玉虫色のスカラベがとまっていたのだった(P91〜92)

 ユングは従来の科学ではまだ知られていない物事を結びつける非因果的な原理が働いていると考えた。当時、このユングの考え方を真剣に受け止めたのは、物理学者ウルフガング・パウリだけだった(Wolfgang Pauli, 1900〜1958年)。けれども、非局所的な結合性の存在が証明されたことから、ユングの考え方を改めて見直そうとする物理学者も一部出てきている(P93)。その一人が 物理学者、ディビッド・ピート(David Peat,1938年〜)博士である。

 ディヴィッド・ボームの見解によれば、意識と物質が別々の存在に見えるのは錯覚にすぎない。あらゆるものが湧き出す内在秩序のレベルでは意識と物質との間には境界はない。

 だとすれば、深層での結びつきの痕跡が日常の現実にあらわれたとしてもおかしくはない。ピート博士は、シンクロニシティとは、現実という織物にできた「裂け目」、あらゆる本質の根底にある巨大な秩序、物質と意識とに境がないことを垣間見せてくれる主観的な亀裂だと考える。

09David Peat.jpg そして、ピート博士の考えによれば、日々の生活でシンクロニシティ体験が比較的稀であることは、一人ひとりの意識が意識フィールドからどれほど切り離され、孤立して、断片化し、深遠なる秩序が持つ無限の可能性に目を閉ざしているのかを示していることにほかならない(P94)。シンクロニシティが不可解で説明が付かない現象に思えるのは、ほとんどの人は、主観的現実と客観的な現実とはまったく別のものであるとの大前提に立っているからなのである(P95)

想い描くことで未来は創造できる

 無意識の心の深い部分、霊的な部分は、時間の境界を越えるところまで及んでおり、自分の運命を決めているのもこの部分だとする考え方は、数多くのシャーマンの伝承と合致する。例えば、インドネシアのバタック族は、人間が体験することはその人の魂(トンディ)によって決められると考える。オジブウェー・インディアンによれば、人生は成長を促すように目に見えない魂によって筋書きが書かれている、必要な教訓を学ばずに死んだ人間は再び生まれ変わる(P299)

 チベット密教でも、宇宙はすべて心の産物であり、すべての存在は思考物質「ツアル」の集合によって創造されると考える。そして、望むものが創造される姿を繰り返し思い浮かべる視覚化の訓練、「サーダナ」が重要であるとした(P300)

 12世紀のペルシアのスーフィたちは、瞑想を利用して霊的なことを教える導師イマームがいる次元「精霊の棲む地」を訪れていた。彼らは、これを「隠されたイマームの地」と呼んだ(P357)。スーフィたちは、思考の精妙な物質を「アラム・アルミタル」と呼び、自己の運命を変えて新たなものをもたらすためには「創造的な祈り」、すなわち、視覚化重要で、それは胸のチャクラ「ヒンマ」をコントロールすることが前提条件であるとしていた(P301,358)。このことは、ホイットン博士の被験者が、イメージすることでモノを作り出せ、なぜ、イメージすることが健康に影響を及ぼすのかに新たな解明の光をあてる(P358)

 また、ハワイのカフナは、思考は、影の身体(キノ・メア)というかすかなエネルギー物質で出来ており、希望、夢、恐れ、罪悪感等は心を去った後も消滅せず、想念として高次の自己「アウマクア」が未来を織り成す糸の一部となっていくと考える。そして、高次の自己とつながれるカフナは、人の未来を作り変える手助けができ、人は頻繁に立ち止まっては自分の人生について考え、自分の希望を具体的な形で思い浮かべることが大切だと考える(P299)。カフナによれば、未来は流動的ではあるものの、様々な「結晶化」の可能性から成り立っており、世界の重大な出来事や結婚や事故、死といった個人の人生での重要な出来事も早い時期に結晶化すると考えた(P287)

 09yogananda.jpgパラマハンサ・ヨガナンダ(Paramahansa Yogananda, 1893〜1952年)が、自己が望む未来を思い浮かべ、集中した正しい視覚化をするよう人々に勧めていたのは、そのためだったのである(P301)

【引用文献】
マイケル・タルボット『ホログラフィック・ユニヴァース』(1994)春秋社 マイケル・タルボット『ホログラフィック・ユニヴァース』(1994)春秋社 第3章 ホログラフィック・モデルと心理学、第7章「時を越えて」、第8章 スーパーホログラムの旅、第9章 夢時間への回帰

ロイ博士の画像はこのサイトから
ホイットン博士の画像はこのサイトから
スティーヴンソン博士の画像はこのサイトから
ウォンバック博士の画像はこのサイトから
ユングの画像はこのサイトから
ピート博士の画像はこのサイトから
ヨガナンダの画像はこのサイトから
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