はじめに
フロイトはユングを唯一の後継者として認めていたが、十年も経たずにユングはフロイトと袂を分かつことになる。それは、フロイトがエゴ、ペルソナ、シャドウに研究を限定していたのに対して、ユングはトランスパーソナルな領域まで問題を広げ探求した最初の心理学者だったからだ(1p211〜212)。
ユングはまず世界の神話の研究に膨大な時間を費やした。そして、原始的な神話のイメージが現代ヨーロッパ文明人の夢や空想の中にも現れる事実に驚愕した。ユングはこの魂の深層を「集合的無意識」と命名した(1p213)。けれども、正統派心理学は、人間の真の自己をエゴと定義したため、統一意識を意識の異常、変性意識としてしか描けなくなってしまった(1p128)。
『かもめのジョナサン』を発表した米国の作家リチャード・バック(Richard Bach,1936年〜)はこう書いている。

「ぞくぞくするような歓喜の感覚がやってきた。その直後に言葉に言い表せないほどの知的な悟りがやってきた。宇宙は生命のない物質からできているのではなく、生命ある存在からなっていることがわかった。自分自身の内にある永遠の生命にも気づいた。私はすべての人々が不死であることを知った。宇宙の秩序にはいかなる偶然もなく、すべてのものが互いのため、すべてのために一緒に働いている動きなのだということもわかったのだった」
バックはこうした意識状態を「宇宙意識」と名づけた(1p10〜12)。
世界中のあらゆる神秘的な伝統では、こうした対立の幻想を看破した人が「解脱した人」とされてきた。ヒンドゥ教の聖典『バガヴァッド・ギーター』は解脱とはネガティブからの解放ではなく、ネガティブとポジティブという双方からの解放だと説いた。
仏教の経典のひとつ『楞伽経(りょうがきょう=ランカーヴァターラ・スートラ)』もこう述べている。
「光と影、長と短、黒と白などが別個のもので区別されなければならないというのは偽りである。それらは互いに独立してはいない。同じものの異なった側面であり、関係性を語る言葉なのだ。本質において物事は二つではなくひとつなのだ」
キリスト教でも天国はネガティブがなく完全にポジティブな状態だと安易に理解されているが、『トマス福音書』ではヒンドゥー教の「アドヴァイタ(非二元)」や大乗仏教と同じく対立がない状態のことを指している。
「イエスは彼らにいわれた。あなたがたが二つのものをひとつにするとき、内部を外部、外部を内部、上を下とするとき、男と女をひとつにするとき、あなたがたは天国に入るだろう」(1p55〜56)。
すなわち、二元性が克服されてこそ、進歩が幸せを産むという幻想を抱かなくなることができる(1p58)。
宇宙意識に到達する方法

「幸せを探してはいけない。探したら見つからない。探すというのは、幸せのアンチテーゼだ」(2p110)。エックハルト・トール(Eckhhart Tolle, 1948年〜)が提案するエゴから抜け出す方法には、まさに「幸せ探偵」というこのブログの題名そのものを否定する。けれども、その初歩的なスキルのいくつかは、ソニア・リュボミアスキー教授が提唱する『幸せになるための科学的方法』と共通するものがある。その一つが感謝と小さなことに喜びを見出すことである。
人に親切にする
自分は尊敬されないし、関心も持たれず、認められず、評価もされていない(4p207)。そう思っている人は、自分が与えてくれないと思っていること―賛辞、感謝、援助、愛情をこめた気遣い等―を自分から相手に与えてみてほしい。出力が入力を決める。イエスはこれを「与えなさい。そうすれば自分も与えられます」(ルカの福音書6章38節)と述べた。そうすれば、豊かさは向こうからやって来る。イエスはこのことを「持っている人はさらに与えられ、もたない人は持っているモノすら取り上げられる」(マルコの福音書4章25節)と述べた(4p208〜209)。
内なる身体を感じて小さな幸せを大切にする
歴史を通じて賢者や詩人は、本当の幸せが一見ささやかなものにあることを見抜いていた。フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844〜1900年)は『ツァラトゥストラはかく語りき』で「幸せになるためには、ほんのささやかなことで十分なのだ。小さなものが幸せをもたらす。静かであれ」と書いている。けれども、小さなものに気づくためには、自分の内側が静かでなければならない(4p254〜255)。
「目に見えない世界」と「目に見える世界」の中間に位置して、物質とつなぐパイプ役を果たしているのが、生命エネルギー、「気」である(2p176)。内なる身体は、物質と形のないものとの懸け橋の生命エネルギーである。それを確認するには、両手のかすかなチリチリ感を感じることから始めると良い(4p62)。
太極拳、気功、ヨガ等の実践は身体とスピリットを分離させない。だから、ペイン・ボディを弱めるのに役立つ(4p173)。また、多くの人の呼吸は浅い。けれども、ドイツ語の呼吸という言葉、「atmen」は、古代インドのサンスクリット語のアートマンに由来する。呼吸はささいな現象だが、これも、ニーチェが言う幸せをもたらす、小さなものなのである(4p264)。
このあたりまでは、まさにケン・ウィルバーの言う「ケンタウロス(心身一如)意識」にあたると言える。けれども、トールはさらに「究極の統一意識」へのレベルを目指す。トールが提案するエゴから抜け出す方法は、自分の思考と自分の同一化を止めることである。それには、自分が思考していることを「観察」すること。そして、今の瞬間を意識することの二つがある。
無意識の思考や感情に溺れることを抜け出るひとつが客観的に観察すること
「なぜ人生はかくもむごたらしいのか」というネガティブな感情にひたっているときに、人は「無意識状態」に陥っている。「見張り人」が不在の状態で、ある種の感情や思考そのものと一体となってしまっている(2p61)。そして、この感情を退治しようとしても心に葛藤が生じて、さらに痛みを産むだけで終わる(2p60)。この感情に踊らされないためには、感情そのものになるのではなく、感情をあるがままに放置して、感情を観察することが必要である(2p43)。いま、この瞬間に自分がネガティブな状態でないか。うんざりした気分等、低レベルの不幸がないかどうかを観察してみる(4p130)。悲嘆、自己憐憫、憤慨等の感情の「愚痴こぼし」になっていないかどうかをチェックしてみる(2p162)。すなわち、どれだけ感情を意識の表層部にあげることができるかがカギになる(2p161)。そして、自分にネガティブな状態があることに気づくことは失敗ではなく、成功である(4p130)。なぜならば、「気づき」とエゴは共存できず、気づきはいまの瞬間に秘められた力だからである(4p90)。
そして、ジル・ボルト・テイラー博士も、脳生理学から、感情を観察することの重要性を指摘する。
人間には、感覚系を通じて入ってくる刺激に反応する能力がある。大脳辺縁系のプログラムのひとつが誘発され化学物質が体内に満ちわたる。血流からその物質がなくなるまで90秒ほどかかる。例えば、怒りという感情が引き起こされると、怒りの化学成分は最初の誘発から90秒でなくなる(5p237)。それでも、なお怒り続けているとすれば、それはその回路が機能するように無意識に選択をしたからである(5p238)。したがって、この生理的なループがやってきたときには、それがもたらす感情にまかせる。90秒、その回路にやりたいようにやらせればいい(5p254)。
個人的な懸念や関心を手放し始め、その感覚に対して嫌悪感が生じてもただそれを目撃していく。いかなる苦悩もそれに執着している限り、それを操作しようとする動きが存在してしまう。苦悩から逃れようとすると苦悩を永続化させてしまう。苦悩そのものではなく、苦悩に対して執着し、苦悩と同一化してしまうことが問題なのだ。
ウィルバーも観察の重要性を指摘し、次の荘子の言葉をあげている。
「完璧な人は自らの心をひとつの鏡とする。それはなにものもつかまず、何も拒絶せず、受け止めはするが保とうとはしない」〔荘子内篇第七応帝王篇〕 (1p224〜225)。
すなわち、思考の「声」に耳を傾け、思考を「見張る」り、思考を客観的に眺めれば、この思考の束縛から解放され、その行為をしている「ほんものの自分」に気づき、意識は新たなレベルに達する(2p33)。思考を客観的にながめることができれば、高次の意識が活動を始める(2p31)。
今という瞬間に集中する
「無心状態」に達するもうひとつの方法は、意識を100%、「いま」という瞬間に集中させ、思考活動を遮断することである(2p34)。エゴは常に、いまというこの瞬間に抵抗している(2p53)。エゴは決して瞬間と仲良くはできない(4p219)。したがって、「いま」という習慣を友人にする決意をすることは、エゴの終わりを意味する(4p219)。
「いま」という瞬間に背を向けてしまうのは、他の何かの方が重要だと思っているからだ(4p287)。けれども、今に心を込めれば、本のページをめくる作業も部屋を横切ることにも「質」が伴ってくる(4p286)。例えば、階段の上り下り等、日常活動で「手段」として行っている動作に全意識を集中させてみよう。すると「手段」が「目的」となる(2p35)。したがって、時間から解放されれば、アイデンティティを求めて過去にしがみつくことを止める(2p101)。時間から解放されれば、目標達成を求めて未来にしがみつくことは終わる(2p101)。そして、時間概念が取り払われると、思考活動はぴたりと止む(2p72)。
「無意識的な思考活動」を終わらせれば、意識は「無心状態」に達する。この無心状態はほんの数秒しか続かない。けれども、心がけ次第でだんだんと長く続くようになっていく(2p33)。絶え間なく流れている「思考」に「すきま」を作るたびに「意識の光」が輝き始める(2p35)。そして、いまという瞬間に集中していれば、普段は思考の雑談によってかき消されている「大いなる存在」との一体感が味わえる(2p26,p33)。
アイデンティティが崩壊するとエゴが消える
自分がスピリット(霊)であるという信念は、ひとつの思考にすぎず、スピリチュアルな目覚めではない(2p90)。スピリチュアルな考えは良くも悪くも方向を指示するだけでしかない。エゴを解体する力はほとんど持っていない(4p204)。思考は真理を指し示すことができるが、真理そのものではない(4p90)。そこで、仏教では「月を指す指は月ではない」と述べた(4p82)。
自分が体験し、考え、感じている対象はつきつめれば自分ではない。常に移ろう事物の中に自分自身を発見することはできない。このことをはっきりと見ぬくことが目覚めであり、これを最初に見抜いたのはゴータマ・シッタルダ(Gautama Siddhartha)であった。ブッタの教えの核心のひとつが「アナッター(無我)」であるのはそのためである(4p90)。
「佛」という文字のつくりの左側は「人間」で右側は「非ず」、すなわち、否定を意味している(4p239)。禅でも「真理を求めるな。ただ思念を捨てよ」という。これは、心との同一化を捨てよということなのである(4p135)。
古代ギリシア人たちは、自分の運命を知りたく、予言を聞きにデルフォイのアポロ神殿を訪れたその入口には「汝自身を知れ」という言葉が掲げられていた(2p203)。
イエスは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイの福音書5章3節)と語った。ここでイエスの言う「心の貧しい者」とは、心に何も持たず、何もモノとアイデンティファイ、同一化していない状態にいる人のことを指す。そして、「天の御国」とは「大いなる存在」の歓びのことを指している(4p53)。イエスが「あなた自身を捨てなさい」と言ったのも自己(エゴ)という幻想を解体せよという意味であった(4p90)。
そして、アイデンティティを思考から切り離すことができれば、自分が正しいかどうかはどうでもよくなる。負けたからといって、アイデンティティが揺らぐことはなくなるからである(1p66)。自分を同一化していた形が崩壊するとエゴは崩壊する。何かの対象に同一化する意識ではなく、意識そのものとしての自分のアイデンティに気づく(4p66)。思考は意識と同じではない。意識がなければ思考は産まれないが、思考は意識活動の一側面にすぎず、思考がなくても意識は存在できる(2p38)。この絶対的な心理を、キリスト教では「内なるキリスト」と呼び、仏教では仏性、ヒンドゥー教ではアートマン(真我)と呼ぶ(4p83)。
抵抗せず、あるがままを受け入れる
「思考」は良いと悪い、好き嫌い、愛と憎しみを作らずにはいられない。アダムとイブが「善悪の知恵を授ける木の実」を食べたために天国に住めなくなったという創世記の記述は、まさに思考の決めつけのことを言っている(4p237)。
すなわち、物事は「思考」によってのみ規定され、思考は、状況や出来事をバラバラの存在としてひとつひとつ抜き出して善悪を判断する。このため現実は断片化していく。このことを、コリント人の手紙1、3章19節は「この世の知恵は神の前では愚である」と表現した(4p214)。
エゴは現実を恨むことを好む(4p129)。つまり、不幸の第一の原因は状況にはなく、その状況についてあなたがどのように考えるのかの思考にある(4p109)。いわゆる悪は自分で作り出している(2p240)。シェークスピアの言葉を借りれば「ものごと自体には良いも悪いもない。良いか悪いかは考え方ひとつ」なのである(4p124)。

ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti, 1895〜1986年)は、人生も後半にさしかかたったある時、「私の秘密を知りたいと思いますか」と問いかけ聴衆を驚かせた。人々は「ついに師は教えを理解する鍵を与えてくれるのか」と期待した。そして、クリシュナムルティはこう語った。
「これが、私の秘密です。私は何が起ころうと気にしない」。
シンプルではあるが、これは、外側で起きた出来事と自分の内面とが調和していることを意味している(2p216)。欲望は、自分たちがバラバラで、すべての創造の源である力と切り離されているというエゴの妄想から生じている。したがって、抵抗せずにいれば安らぎが得られる(4p319)。ただ、難しいのは、努力をすると「かまえない自然な私」という役割を演じてしまうからだ。ここでも役割を演じるよりも今にいることが大事になってくる(4p122〜123)。
いまの瞬間をあるがままに受け入れることは「許し」もある(2p240)。エゴを乗り越えるには、他者のエゴに反応しないことである。反応しないことは相手を許すということである。それは、一見弱さに思えるが実は強さである。自分自身のエゴが乗り越えられるだけでなく、人間集団のエゴを解体するために最も有効な手段のひとつである(4p74)。許さなければ憤りなどのネガティブ性は雪だるま式に大きくなってしまう(2p238)が、すべてをあるがままに受け入れると物事をポジティブな極とネガティブな極に分類しなくなる。つまり、許しは不可欠な要素なのある(4p238)。
執着を捨てれば今を楽しめる
モノに対する執着を手放すためには、まず、モノに執着し、モノに自分を同一化していることに気づくことだ。そうすれば、モノへの執着は自然に消えていく(4p55)。
執着しないことは、この世からもたらされる良いモノを楽しめなくなることではなく、さらに楽しむことができる。すべてが無常で変化が避けられないことを受け入れることができれば、未来には楽しいことが失われるのではないかと恐れることなく、楽しいことが続いている間はそれを楽しめるからだ(4p244〜245)。いま、楽しまなければ楽しめる明日などは決してやってきはしない(4p320)。
ただ雨や風の音を楽しみ、空を流れる雲を美しいと眺め、一人でも寂しくなく、娯楽という精神的な刺激物も必要としなければ、古代インドの聖賢が「アナンダ」と呼んだいまあることへの歓喜が味わえよう(4p253)。
活動と行動は目的ではなく愛を原動力とした手段そのものになっていく
ゴータマ・シッタルダ(Gautama Siddhartha)は、あるがままの人生を「タタータ」と呼んだ(4p129)。あるがままでいることは、活動をしないことではない。活動の動機がエゴイスティックな欲望や恐怖からではなく、より深いレベルに移ることだ(4p296)。受け入れるとは、たったいまのこの瞬間に、それが自分がしなければならないことだからしようと思うことだ。その安らぎは微妙な振動のエネルギーとして行動に流れ込む。受入れは表面的には、受け身に見えるが、実際には、新たな何かをもたらす積極的で創造的な状態なのである(4p318)。
いまにある意識でいるとき、どのようなささいな行動も、高潔さ、思いやり、愛が原動力となる。そして、行動の結果にこだわらず、行動そのものに意識を集中することだ。そうすれば、結果として、成果は自ずからついてくる。バガヴァッド・ギーターは、行動の結果に執着しないことをカルマ・ヨガと名付け、神に捧げる行動と表現した(4p96)。
行動とその行動を楽しむ状態との関係は、目的の手段として行動するのではなく、いま瞬間に全身全霊を込めて行動することなのである(4p320)。
宇宙の創造力と共鳴したときに楽しく情熱が産まれる
米国の思想家、ラフル・ワルド・エマーソン(Ralph Waldo Emerson, 1803〜1882年)は「情熱なしに偉業が成し遂げられたことはない」と語った。情熱(Enthusiasm)という言葉は、ギリシア語の「en」と「theos」から発している。「theos」は神で、派生語の「Enthousiazein」は「神に憑かれた」という意味である。すなわち、情熱が燃えているときに、人は自分だけで行動しているのではないと感じる。ただ波に乗っていけばいい(4p324)。
宇宙から切り離されていると感じるとき、孤独を感じ、何かを相手に苦闘したり、あれこれを成し遂げようと必死になる(4p287)。宇宙の創造的な力から切り離されると、エゴの力とストレスしかない(4p323)。エゴは欲望をもって常に奪おうとする(4p324)。だから、がんばって働かなければならない(4p323)。エゴは自分が他者を包み込めば包み込むほど物事が円滑に流れ、仕事がやりやすくなることを認めない(4p137)。そこで、利益や権力に関心が集中して、仕事は目的のための手段となっている(4p136)。けれども、行動とその行動を楽しむ状態との関係は、目的の手段として行動するのではなく、いま瞬間に全身全霊を込めて行動することである(4p320)。創造的な人は、その行動によって何かを達成しようとか、何かになろうとかではなく、それが楽しいからやっている(4p322)。
情熱は惜しみなく与える。情熱による活動には勝者も敗者もない。情熱は、基本的に排他的ではなく他者を包み込む(4p324)。そして、ストレスとは違い、情熱はエネルギー振動数が高いため、宇宙の創造力と共鳴する(4p323)。情熱を通じて宇宙の創造原理と調和しているが、その創造と自分を同一化するエゴがない。つまり、自分の行動を楽しみ、それが目指す目標やビジョンとうまく組み合わされれば情熱が産まれるということだ(4p325)。
宇宙の創造力〜大きな力とつながる
「偉大だ」とか「立派だ」とかは精神的に抽象的な概念で、エゴが好む幻想だが、いまこの瞬間を自分自身と調和させるときに、逆に大きな力にアクセスできる(4p287)。
ひとかどの人間になろうとか、目立とうと思わなければ、宇宙の力と自分を調和させることができる。老子は「天下の深い谷間であれ」「すべてに満たされるだろう」と述べる(4p234)。
イエスも「誰も自分を高くするものは低くされ、自分を低くされる者は高くされる」(ルカの福音書14章11節)と述べた(4p235)。
その力にふれたことがない人は、その成果を脅威と賛嘆の目で見るであろう。けれども、その力は、ただあなたにアクセスし、あなたを通じて世界にアクセスしている(4p324)。並みはずれたパワーは、あなたを通じてこの世界に流れ込む(4p322)。イエスが「私は自分では何もできない」(ヨハネの福音書5章30節、14章10節)といったのはそういう意味であった(4p287, 4p324)。
14世紀のペルシアの詩人、スーフィー教の賢者ハフィズは『贈り物』でこう述べた。
「私はキリストの息が通るフルートの穴だ。さあ、この音楽を聞いておくれ」(4p322)。
エゴ的な頭の活動を止めると創造性が高まる
アインシュタインをはじめ、多くの偉大な科学者は、思考が止まった瞬間にアイデアが閃いたと語っている。多くの人が創造的でないのは、「頭の使い方を知らない」からではなく、「頭の活動の止め方を知らない」からなのである(2p39〜40)。
エゴがなくフローで生きればシンクロニシティが起きる
私は、教師、芸術家、看護師、医師、科学者、ウェイター、セールスマン等、自分探しをせず、その瞬間瞬間に求められることに十分にこたえ、賞賛すべき仕事を成し遂げている人に会ってきた(4p135)。こうした人たちの影響は、その仕事を超えてさらに遠くまで広がっていく。彼らと出会う人たちのエゴも軽減されるからである。こうした人々と関わると、重いエゴを抱えた人たちでさえも緊張を解いていく。つまり、エゴに邪魔されず、自分がしていることに一つになれる人は、成功を治めることができる(4p136)。
知能、技能、才能等、各人の持つ知識や肉体的な能力、エネルギーレベルは人によってさまざまである(4p104)。形の上ではあなたはだれかよりも劣っているし、誰かよりは優れている。けれども、あなたの本質は誰よりも劣っていないし、優れてもいない。そのことを認識したときに、真の自尊心とつつしみ深さが産まれる(4p123)。
どの状況でも役割に自分を同一化せず、しなければならないことをやっていく。これが、この世に産まれた私たちが学ぶべき基本的な人生の教訓である(4p120)。役割を演じないとは、行動にエゴがでしゃばならないということだ。自分を守ろうとか強化しようという下心がない。完全に状況に焦点を合わせている。このとき、完璧に自分自身である時、かまえない自然な私であるときに非常に力強い(4p122)。自分を実際異常に見せようとせず、ただ自分らしくある人は、際立った光彩を放ち、こういう人たちだけがこの世界を本当に変えることができる(4p121)。
世界は、大いなる存在によって形として現れたものと、現れないもの、この世界と神から成り立っている。全体と調和することとは、この世界に意識を出現させるための一部になる。するとどこからか助けがあらわれ、まさかの出会いや偶然があり、シンクロニシティと言われる不思議な一致が頻繁に起きる(4p297)。
人生も世界も、一見混沌としたわけのわからない出来事の奥にはより高い秩序や目的が隠されている。より高い秩序は普遍的な知性から生じている。禅ではこれを「好雪片々として別所に落ちず(舞い落ちる雪のひとひらは落ちるべきところに落ちている)」と表現した(4p212)。
ここが生と死が発生する場でもある。意識を外に向けると思考と世界が現れ、過去、未来、そして、身体のアイデンティティを身にまとう。意識を内に向けると目に見えない世界へと帰っていく(2p177)。
大いなる存在とつながると本当の平安、愛と憐れみが得られる
こうして、思考活動が停止し、心が「空」の状態となれば、常に、愛、歓び、そして、心の平安を体験できる(2p33,1245, 4p66)。「いまある」ことによって、初めて深い安らぎと恐怖から完璧に逃れることができる。聖パウロはこれを「人のすべての考えに勝る神の平安」(ピリピ人への手紙4章7節)と表現した(4p65)。所有という概念も死が近づけば、まったく無意味であることが暴露される(4p53)。すべてのモノが不安定だと気づき、それを受け入れれば、安らかな気持ちが沸き起こる。これをイエスは「永遠の生命」と呼んだ(2p93)。
感情で経験される「喜びのようなもの」は、永遠に移り変わる「痛み=快楽」のサイクルのつかぬまの「快楽」であることがほとんどである。それは、感情が「思考」の仲間であり、両極性の法則に左右されるからである(2p46)。すなわち、「快楽」は外側からもたらされ、感情は二項対立の領域にある。けれども、歓びは自分の内側からもたらされる。愛、歓び、平和は、大いなる存在とつながっているため、対極に位置する反対のものはない(2p46, 4p152)。
すなわち、愛、歓び、平和は、感情よりもさらに奥深いところから産まれる。逆に言えば、自分の感情を完全に自覚できなければ、愛、歓び、平和も感じることができないことを意味している(2p45)。すべての成功と幸せの秘訣は「生命」とひとつになることなのである(4p129)。
左脳活動が弱まると宇宙と一体になる
トールは、愛は、すべてがひとつだとの気づきの結果として表れる(4p182)。そして、万物と自分との間のつながりに気づくことが憐れみであると指摘する(4p261)。

ケン・ウィルバーは、神秘家が強調してやまない普遍的な慈悲がトランスパーソナルな直感から生じる理由をこう説明する。「環境と身体との境界が取り払われた超越的な自己となると、環境のなかの全対象を自分自身として扱い始める。すなわち、超個体レベルでわれわれが他を愛するのは、相手が自分を愛したり安心させてくれるからではなく、相手が自分自身だからである。自分の腕や足を世話するように周囲を思いやるようになるのは、世界とは自分の身体であり、また身体として扱わなければならないからなのである。キリストの第一の教えは、『自分自身を愛するように隣人を愛せ』ではなく『隣人を自分自身として愛せ』と言う意味なのである
(p228)。
ジル・ボルト・テイラー博士は、脳の働きから、なぜ宇宙意識が体験できるかを書いている。
右脳と左脳はそれぞれ特徴を持つ。常に分析し批判的である左脳状態か、上の空の状態の右脳状態で過ごしている。左脳は実際に何かのデータに空白があると埋めてしまう能力を持ち、明確にモノの間に線を引き認識する能力が高い(5p223)。このため、間違った。あるいは悪い判断をした他人や自分を見下し非難することに多くの時間とエネルギーが費やされている(5p224)。
一方、右脳は生理機能に耳を傾けるよう生物的に設計されている(5p232)。右脳の意識の中核には、静かで豊かな感覚と直接つながる性質が存在している。右脳は世界に対して平和、愛、歓びを表現し続けている(5p216)。右脳は、いまの瞬間に豊かさを感じる。人生や自分に関係するあらゆる人々に対する感謝の気持ちで満たされ、情け深く、歯止めなく熱狂し、フレンドリーである(5p225〜226)。右脳ではあらゆるものは相対的なつながりの中にあり、ありのままをそのまま受け取る。ある人が背が高い、金持ちだと観察してもその結果を判断はしない(5p226)。世界は安全に感じられ、常にその時を生きていて時間を失っている(5p227)。さらに、右脳には、新たなことにもトライしようとする意欲があり、創造的でもある。カオスさえも創造的なプロセスとして評価する(5p228)。右脳は自分の身体だけでなく、社会の健康、母なる地球との関係すらも気にする。境界についての知覚がないため、すべてが一部で世界がより平和で暖かい場所にすることを手伝っていると感じる(5p229)。生けとし生けるものがひとつに調和することを思い描いている(5p230)。

さて、体内に注入した放射性同位体から出るガンマ線を用いて脳の輪切り映像を撮影するSPECT(単一光子放射断層撮影法)という技術がある。アンドリュー・ニューバーグ博士とユージーン・ダキリ博士は、2001年からこの技術を利用して、スピリチュアルな神秘体験をもたらす神経構造を探究してきた。チベットの僧侶が瞑想しフランシスコ会の修道女が祈るとまず左脳の言語中枢活動が減少した。次に、肉体の境界を判別する左脳後部頭頂回の方向定位連合野の活動が減少した。この結果、意識は個人から離れて宇宙と一体となるニルヴァーナ体験をするのである
(5p220)。
西洋社会は、左脳の「する」機能を右脳の「ある機能」よりも高く評価してきた(5p260)。けれども、人間は、思考を選ぶことができる。現在の瞬間に引き戻し、右脳の愛と平和のマインドに戻せば束縛から解放される(5p239)。
テイラー博士によれば、宇宙意識とはゆきすぎた左脳の働きを抑え本来ある右脳の働きを蘇らせることだったのである。
【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) エック・ハルト・トール『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』(2002)徳間書店
(3) ジェームズ・レッドフィールド他『進化する魂』(2004)角川書店
(4) エックハルト・トール『ニュー・アース』(2008)サンマーク出版
(5) ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(2009)新潮文庫