2016年02月22日

番場一雄のヨーガB 実践

道元の非思量は誰もが体験できるわけではない

 道元禅師は、座禅中に考えることを止めること。すなわち、「非思量」を力説していた(1p172)。普通の催眠状態におかれると人間の批判力が低下して被暗示性が強まってしまう。けれども、坐禅においては雑念がない明晰な意識状態が表れてくる。意識を失わずに意識が空白である状態が「非思量」なのである(1p121)

20160208内山.jpg 佐保田博士によれば、ヨーガの本命は瞑想である。瞑想は、動き回る心の動きを止めることであり、それが内側に潜在している仏性、真我(プルシャ)を目覚めさせる唯一の方法である(1p62)。そして、佐保田博士は「ヨーガ禅」と述べ、ヨーガが禅と密接に関係があるとしていた(1p64)。そこで、番場一雄氏はほぼ2年にわたって、ヨーガをやりながら、吉田山の麓にある換骨堂という曹洞宗の寺で、内山興正(1912〜1998年)老師の下、参禅をした(1p65)

 内山老師の弟子である、弟子丸泰仙(1914〜1982年)老師は「全存在の生成枯衰に人間の思量が介入できる余地は一切ない。坐禅によってエゴのかわりに仏教でいわれる『仏性』そのものに自然になりきる。それは他の異なる振動が、私たちの汚れで重苦しい振動と入れ替って、それらを粉砕し、一掃し、すべてのエゴの悪いものを変容させるといってもよい」と述べている。すなわち、万物と我とが一体という直感智、すなわち、「般若の智慧」が表れてくると述べている(1p73)

 さらに、こうした「非思量」の意識状態を偶然に体験してしまう人もいる。例えば、ジャン・ジャック・ルソー(Jacques Rousseau, 1712〜1778年)は『孤独な散歩者の夢想』の中で、サンピエール島で美しい湖に対面したときに、自然と自己とが融合し、永遠のいまという感覚を味わったことを書いている(1p79)

 そこで、番場一雄氏は、眉間に意識を集中してみた。けれども、次々と想念が浮かんで集中できなかった(1p62)。ヨーガを始めて数年を経てみても「無心」や「見性を得る」ことはできなかった(1p70)

内山老師の下で瞑想を試みる

 内山興正老師は道元禅師の「非思量」を「思いの手放し」と表現されていた(1p70)。内山老師によれば、「非思量」とは、様々な煩悩・妄想を弱めていって石のように生命がないものにするものではない(1p71)。ひとつの生命風景としてそれを「思いの手放し」にしておくことなのである(1p72)

 番場一雄氏は、内山老師のアドバイスにしたがって、この「思いの手放し」を試みてみた。すると、想念がエスカレートするのをコントロールでき、車窓から見る風景として想念を眺めることがうまくできるようになった(1p73)。そして、ほんの少しだが、ある種の三昧状態が現れ、なんともいえないリサックス感、恍惚感、生命との一体感を感じたという(1p74)

イメージ瞑想が難しい人のためにはマントラを

 仏教の経典『観無量寿経』は『大無量寿経』や『阿弥陀経』とあわせて『浄土三部経』と呼ばれ、浄土信仰の経典として重視されてきた。日本で、これを最も重視したのが天台宗である。

 『観無量寿教』の瞑想メソッドとは、無量寿仏(阿弥陀仏)や極楽浄土を瞑想対象としてイメージしていくものである。このイメージ瞑想は『定善観』と呼ばれ、日没する太陽を見て、その後そのイメージを頭に焼付ける「日想観」、きれいな水をイメージする「水想観」等、13もの連続した瞑想メソッドから構成されている。とはいえ、道元禅師の「非考量」と同じく、誰もが簡単にイメージ瞑想を実践できるわけではない。瞑想の資質が乏しければ、いくらイメージしようと試みてもなかなかイメージできない。

 こうした人のためにより優しくした瞑想メソッドが「南無阿弥陀仏」と繰り返しマントラを唱える『散善観』で、法然上人(1133〜1212年)や親鸞上人(1173〜1263年)が重視した(1p181)

ヨーガは新脳の思考活動を抑えることで直観力を養う

 池見酉次郎(1915〜1999年)九州大学名誉教授によれば、リズミカルに同じ言葉、すなわち、念仏やマントラを繰り返すことは、新皮質の活動を抑えて、情動の坐である旧皮質を安定させるという。旧皮質が安らげば、それが脳幹、視床下部に伝わり、それが自律神経やホルモンの働きを整え体調が好転されていく(1p83)。すなわち、マントラには意味があるのである。

 これまで述べてきたように、ヨーガは、分析過多で疲労困憊している左脳をリラックスさせ、素直な自然の脳である右脳を活性化する(2p219)。右脳と左脳とを協調させることの重要性は、仏教でも知られている。例えば、仏像は右に「慧」の象徴、普賢菩薩が、左には「智」の象徴、文殊菩薩が置かれ、その中央に両者の和としての中道の智慧、釈迦如来が配置されている(2p216)

20160208番場.jpg ヨーガを続けると、健康になれる。番場一雄氏は、新陳代謝の乱れによるおできもなくなり、精神集中力、忍耐力が高まったと述べている(1p102)。そして「私は50歳をすぎたが、健康でいられて人よりも10歳以上も若く見られ申し訳ないように思うことがある」と語っている(2p186)

 さらに、身体と心との対話が深まり、自分の意識が次第に消えてゆけば、頭で考える思考とは次元が異なる全身思考、非思量ともいうべき意識状態が表れる(1p99)。このため、ヨーガを続けていると、何が自然で何が不自然なのかの直感的な感知能力が養われて来るのである(1p102)

頭よりも身体を重視する「作務」によって悟りは体得される

 対象を分析的に捉えるのが「分別智」だが、存在全体を直感的に把握するのが「般若の智慧」、「無分別智(ニルヴィカルパ=nirvikalpa)」である(1p206)

 けれども、こうした智慧は、言葉、知性・思惟によっては得られない。ヨーガや座禅の身体的な修行によって得られる。このため、東洋的な修行では頭で理解する「知解(ちげ)」よりも身体が理解する「体解(たいげ)」を重視する。すなわち、身体よりも頭を上位におく常識的な考え方を逆転して、身体の方を頭よりも上位におく。ヨーガには、このような八枝の体系があり、仏教でも、ほぼこれと同じ戒、定、慧の三学が設けられている(1p85)

 例えば、禅宗では禅院の規則である「清規(しんぎ)」にしたがって、洗面、手水、食事、精巣といった日常の作務にしたがって座禅を実践していく。道元禅師は『学道用心集』で仏法を学ぶ者の心構えを説いているが、この背景には、心が身体のうえにあってそれを支配する「我天法」ではなく、身体のあり方が心のあり方を支配する「法転我」との考え方がある(1p86)。芸道等の修行では「体得」という言葉があるが、智慧の目覚めは心と身体の逆転のプロセスにおいてのみ可能であるとの考え方があるのである(1p87)

バクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガ

 ヨーガには、神々への絶対的な帰依を重視する信仰的なヨーガもある(1p15,1p25)。インドでは、現在でも破壊や死を司るシヴァ神とシヴァ神の妃神であるカーリー神、ブラフマー神が創造した宇宙を維持するヴィシュヌ神とヴィシュヌ神の妃神であるラクシュミー神が熱く信仰されている(1p25)。また、欲を離れた本来のミッションを社会の中で遂行していくのがカルマ・ヨーガである(1p26)

ハタ・ヨーガのクンダリニー

 10世紀以降に発展したハタ・ヨーガはヒンドゥ教の中の密教、タントリズムである(1p7, 1p24)。ハタ・ヨーガの「ハ」は太陽、「タ」は月を意味し(1p208)、『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』では「ハタ・ヨーガはラージャ・ヨーガに登らんとするものにとって、すばらしい階段に相当する」と述べられている(1p24)

 さて、人間は煩悩によって汚されている。けれども、心を清浄無垢にする自浄清浄心が本来備わっている。すなわち、「根本識」から電流のごとく他意識に向けて「自浄正常心」が発源されることによって解脱するという考え方があると述べたが、この考え方はハタ・ヨーガにおけるクンダリニー思想とも共通するものがある(1p147)

 クンダリニー思想とは、尾骶骨に眠るクンダリニーという女性原理、シャクティを背骨のなかを通っている「スシュムナー管」内で上昇させ、その中にあるチャクラを順次打ち破り、最終的に、サハスラーラー・チャクラに鎮座する男性原理、シヴァとの合一させることを目指している。まず、本能的な情動エネルギーを目覚めさせ、次に慈悲、博愛等の精神的な領域を目覚めさせ、最終的にそれが頭頂に到達するとき、法悦(エクスタシー)が訪れて、解脱すると考えているのである(1p163,1p208,1p210)

禅に取り入られなかったクンダリニーを覚醒させるためのバンダ

 そして、根源的な生命エネルギーを覚醒させ、プラーナを引き上げるためになされるのが、ムーラ・バンダ(肛門の引き締め)、ウディーヤーナ・バンダ(腹部の引き締め)、ジャーランダラ・バンダ(喉の引締め)を行なう「ムドラー」という修行である(1p223)。ムドラーはヨーガ行法の中でも秘法とされるため、「封印(ムドラー)」とされてきたが、これは禅には取り入れられなかった(1p225)

 このクンダリニー思想は、空海(774〜835年)にも脈打っている。空海は千年も前に「瑜伽(ヨーガ)」という言葉を用いて、その重要性を指摘している。さらに、淳和天皇の命を奉じて、天長年間(824〜833年)に『秘密曼荼羅十住心論』十巻を執筆しているが、その中で異生羝羊心という欲望に駆られた段階からスタートし、最終的な即身成仏に到達するまで、人間存在のあり方を十段階にわけている(1p211)

 なお、番場一雄氏もクンダリニーの覚醒体験を持っているが、ヨーガへの誤解を招くためあえて具体的に触れないと述べている(1p237)

ヨーガで得られる超能力

 ヨーガや仏教では、その修行が深まると、様々な超能力(シッディー)が表れるとそれぞれの文献に記載されている。玄奘三蔵(602〜664年)の高弟、慈恩大師(632〜682年)は以下の十種類の自在力をあげている。

1寿自在(寿命に際限がない)

2心自在(とらわれがない)

3財自在(欲しいものが手に入る)

4業自在(よいことが自由自在にできる)

5生自在(思うように行動できる)

6勝解自在(自在に変身して人を導く)

7願自在(思うままに成し遂げられる)

8神力自在(最高の超能力)

9知自在(言葉を自由自在に操る)

10法自在(経典を自由自在に読む) (2p221)

また、『ヨーガ・スートラ』にも、事物の過去や未来がわかる。前世がわかる。他人の心がわかる。死期を知ることができる。神霊に会うことができる等、霊性能力、シッディが生じてくると書かれている(1p40)。番場一雄氏はこれを右脳が開発されることによる両脳の調和によって引き出された相乗的能力だとしている(2p221)

内山老師の画像はこのサイトから
番場一雄氏の画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) 番場一雄『ヨーガの思想』(1986)NHKブックス
(2) 番場一雄『一億人のヨーガ』(1988)人文書院
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2016年02月20日

番場一雄のヨーガ 瞑想A

ほんとうの自分とつながっていないから人生は苦しい

5000年前から心の動きを止めることをインド人は考えてきた

 発掘されたインダス文明の坐像から、インドにおいては、巨大な樹木の下や清流のそばに静かに坐って瞑想する修行法が紀元前2000〜3000年前から存在していたことがわかっている。紀元前800〜700年前からは、特定対象に心を集中させることで、心や感覚の動きを止め、奇跡的な能力を獲得できることが文献上からも明らかにされている(1p173)

 パタンジャリによって編纂された『ヨーガ・スートラ』に代表されるように、心のコントロールによって解脱できると考えるのが瞑想中心のヨーガで(1p15,1p23)、『ヨーガ・スートラ』は心の作用を抑滅させることがヨーガであると定義する。語源的にみれば、ヨーガは馬に「馬具を付ける」や「車に馬をつなぐ」を意味するサンスクリット語の「yuj」から発生しており、暴れ馬のように動き回る心の動きをある対象にしっかりとつなげることを意味していたことがわかる(1p21)

無常という制約を受けた不自由な人間

 人間存在の姿をつぶさに見ていけば、そこには本当の自由などないことがわかる(1p14)。人間だけでなく、動植物を含めて、ありとあらゆるものは、社会的な拘束や物理的な拘束だけでなく、時間法則とも拘束されている(1p15)

 ヒンドゥ教の宇宙観によれば、ありとあらゆるものは、ブラフマー神によって創造され、ヴィシュヌ神によって維持され、シヴァ神によって破壊されるという無限のサイクルを繰り返している。これを「無常」と言う。そして、この「無常」は人間は「苦」として経験される。なぜならば、どのような経験もたえず変化し不安定なもので、相対的なものでしかないからである(1p16)

ほんとうの自分とつながっていないから人生は苦しい

 とはいえ、古代インドの偉大なリシたちは、こうした人間存在の姿から、悲観論的な宿命論を打ち出しはしなかった。ルーマニア出身の宗教学者、ミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade,1907〜1986年)は、ヨーロッパ人としてヨーガの経験を積んだ貴重な実践者だが、この普遍的な「苦」を「ペシニズム哲学」へと展開しなかったと指摘する(1p17)

 私たちは日常生活において「自分が、自分が」と考えている。けれども、この「自我」と称するものは、ほんとうの自分ではなく虚妄の自我でしかない(1p17)。サーンキャ哲学によれば、精神、肉体、物質をはじめとして、あらゆる現象世界は、「自性(プラクリティ)」が展開することによって産み出されている。けれども、これとは別に、人間の内奥は永遠不滅の本当の「自我(プルシャ=purusa)」が存在している。そして、このプルシャそのものは、時空間の制約を受けず、常に平和と光明に満ちた存在である。けれども、プラクリティから展開された客観的な器官のうえに、プルシャの純粋な意識性・照明性が投影された結果、さまざまな心理現象が生じる(1p40)

 そして、人間は本来は絶対的に自由なのだが(1p18)、本来の自己の姿を見失い、いろんな苦しみを現実に受けているとの錯覚を起こす(1p40)。こうして自己中心的なエゴをほんとうの自分と同一視してしまうという誤りを犯した結果、人は苦しまなければならなくなってしまったのである(1p18)

心を静め本当の自分とつながれば幸せになれる

 となれば、このプラクリティからプルシャを引き離し、プルシャの独存、「真我独存(カイヴァルヤ=kivalya)」を実現してやればよい(1p17,1p40)。散漫な心の動きが静止すれば、雲が晴れて輝き出すように「プルシャ」が表れるであろう(1p22)。そして、こうした拘束された状態から人間が解放された状態をウパニシャッドでは『梵歓喜(聖なる喜ぶ)』、ブッダは「涅槃寂静(ねはんじゃくしょう)」と称した。そして、内なる歓喜の充実感や幸せ感は、人間社会で想定される最高の幸せを100の8乗倍した大きさだと考えた(1p17)。これがヨーガの「解脱(サンスクリット語:モークシ=moksa)」なのである(1p40)

 正式な静坐瞑想は、ウパニシャッドの時代から行なわれるようになる(1p174)。そして、悟りの状態は、「三昧(サンスクリット語:サマディ=Samadhi)」、「止(サンスクリット語:サマタ=samatha)」、サンスクリット語でディヤーナ(dhyana)、パーリー語でジャーナ(jhana)とも表現されるようになる。そして、この音写語が禅なのである(1p172)

 ブッダが悟りを開くために行なったヨーガの修行も「禅定」と表現され(1p174)、ブッダは菩提樹のもとで初禅定(離生喜楽地)、二禅定(定生喜楽地)、三禅定(離喜妙楽地)、四禅定(捨念清浄地)を経て(1p206)、最高の智慧、無上正等覚(むじょう-しょうとうがく)、『阿耨多羅三藐三菩提(あのくたら-さんみゃくさんぼだい=anutara-samyak-sambodhi)』を獲得した(1p85)

本当の自分とつながると幸せになれるわけ〜阿頼耶識論

唯識派によれば心は8つの意識から形成されている

 それでは、本当の自分とつながるとなぜ幸せになれるのであろうか。存在するものには実体や我は存在しないと考える思想を「空思想(サンスクリット語:シュニアター=sunyata)」と呼ぶ。空の思想はブッダの時代からあったが(1p167)、ナーガールジュナ(Nagarujun=龍樹,紀元前150〜250年)の中観派の哲学思想によって体系化された。そして、空を「観法」、サンスクリット語でいう「ヴィッパサーナ(Vipasyana)」と呼ばれるメソッドを通じて、これを解明しようとしたのが、「ヨーガ行唯識派」である(1p143)

 唯識派は数ある仏教の学派の中でも最も徹底的に心の世界を解明しようとしたグループで、心は以下のように8つ種類からなっていると考えた(1p144)

@〜D 五感
E 「六識」:自我意識の主体である
F 「末那識(サンスクリット語:マナス=Manas)」:エゴのベースとなり、その背後にある深層心理
G阿頼耶識(サンスクリット語:アラヤ= Alaya)」:この1〜7までの意識のバックとなる深層心理(1p144)

阿頼耶識には善と悪の両方の経験がストックされている

 ヨーガによれば、人間の心の奥底に過去の様々な経験を記憶として残されている(1p151)。「阿頼耶識」は、無限の輪廻転生を通じて蓄積されてきた過去の経験や記憶が蓄えられている「蔵」を意味し(1p146)、あらゆる現象世界が展開していく種子が蔵されているため「種子識」と考えられている(1p145)

 この潜在的な種子因子を「行(サムスカーラ=samskara)」と呼ぶが、ここには心の発動が生み出される衝動となる「業(カルマ)」、仏教でいう三毒、「貪(とん)」、「瞋(じん)」、「痴(ち)」という悪い記憶だけでなく、不殺生、布施、慈悲等の望ましい行為もストックされている(1p146,1p151)。すなわち、阿頼耶識には「煩悩」と「菩提心」とが共に共存していることがポイントである(1p146)。まず、煩悩からみていこう。

阿頼耶識内の煩悩が「無明」を産み出す

 怒ったり、イライラしたり、クヨクヨしたりといったネガティブな感情を持ち続けているとそれがストレスとなって病気を引き起こすことは心身医学の立場から知られている。仏教では、このようにこだわりや執着を持った心の状態を病んでいると見なし、「ほんとうの自分」、すなわち、自我の真にあるべき姿「真我(プルシャ)」が、「煩悩(サンスクリット語:クレーシャ=Klesa)」によって見失われているこれを「無明(サンスクリット語:アヴィドヤー=avidya)」と呼ぶ。ことを言う(1p18,1p153,2p154)。すなわち、人間が上述した束縛条件によって苦しめられているのは、煩悩による「無明」のためなのである(1p18)

阿頼耶識の菩提が悟りを産み出す

 けれども、「阿頼耶識」には、同時に望ましい意識悟りの智慧を求めて仏道を行じる心、「菩提(サンスクリット語:ボーディ=bodhi)」も含まれている(1p145)。鎌田茂雄(1927〜2001年)氏は「入楞伽経(にゅうりょうがきょう)」、第七の「仏性品」で、阿頼耶識とは如来蔵のことであり、煩悩の根源であると同時に、如来蔵としてあるべき理想的な魂の根源、自性清浄心が同時に共存していると述べている(1p153)。如来蔵とはサンスクリット語のタターガルーガルパのことで、迷いに覆われてはいるものの凡夫の心の中にも存在する如来になりえる可能性、すなわち、清らかな如来法身のことである(1p152)。大乗起信論では、無限の生命だとしている(1p153)

悟りの脳科学

阿頼耶識は旧皮質と関係している

 密教では、「空」に帰した境地として、さらに「阿摩羅識」も掲げている(1p147)。それでは、「阿頼耶識」や「阿摩羅識」を脳神経系から考えてみよう。

 大脳生理学者、時実利彦(1909〜1973年)東京大学名誉教授は『脳と人間』で、阿頼耶識の働きは、本能的な古皮質の働きと対応すると指摘している(1p151)。脳にある古皮質は相手を殺してまで自分のエゴや欲求を果たそうとはしない。知性や理性がなくても動物たちが殺し合うことなく個体や種族をうまく保っているのはこのためである(1p152)

脳幹・古皮質・前頭葉が調和をすると「阿摩羅識」が生まれる

 2016011704池見.jpg一方、大脳新皮質の働きは時には相手を抹殺してしまう危険性がある(1p152)。池見酉次郎(1915〜1999年)九州大学名誉教授は、前頭葉には他の存在を否定・抹殺することで自分のエゴを満たそうと限りなく増長させていくと同時に、他の存在を認める慈悲を生み出す諸刃の剣の働きがあると指摘する(1p155)。すなわち、阿頼耶識は、本能的な欲求の根源である煩悩を産み、かつ、前頭葉もマイナスに働く危険性がある一方で、普遍的な個人を超えたものもある(p158)

 脳生理学者によれば、人間の潜在的な知的能力の90%以上は使われないまま眠っているという。アーサー・ケストラー(Arthur Koestler, 1905〜1983年)も『ホロン革命』の中で「人類は約100億もの神経細胞とほぼ無限のシナプス結合の中に潜む未開発の能力の一部を、いまようやく利用し始めているにすぎない」と述べている(2p207)。フランスの神経生理学者、ポール・ショシャール(Paul Chauchard, 1912〜2003年)は「現代人は悪しき合理主義、知性、言語主義という左脳に閉じ込められてしまっており『愛の脳』という非常に大切な自然の生命活動と深い関わりのある右脳の働きを忘れてしまっている」と述べている(2p216)。ショシャールによれば、前頭葉の働きがコントロールされ身体感覚が最も鋭敏になったときに脳の働きは宇宙の流れと調和する」と述べている(1p163)。そして、「坐禅をすると前頭脳が静かとなり、非思量の状態となって宇宙秩序と一体となる」と述べている(1p79)

 要するに、脳幹、古皮質、新皮質、前頭葉の調和が大切なのである(1p163)。仏法の真理を繰り返し聞くことでそれを全身に染み込ませていく行為を聞燻習(もんくんじゅう)と呼ぶが(p158)、番場一雄氏は、八識の迷いを捨てた九識の働き「阿摩羅識」は、脳幹と深く関係し(1p153)、脳幹は背骨と深く関係しており(1p154)、このため「般若の智慧」も背骨と密接に関係していると考える(1p155)

脳が調和すると四無量心・慈悲心が発信される

 唯識説では、一〜九識までの意識が「三昧」状態になったとき、九識は「法界体性智」という根源的な智慧に転化し、そのエネルギーが生命活動の根源として八識にたどり着き、その結果、「大円鏡智」が実現される。そして、この智慧の力とエネルギーが七識を「平等性智」という大慈悲に転化させ(p158)、相手の存在を抹殺しようとする前頭葉の働きは抑制され、生きとし生けるものを平等にしようとする智慧が表れて来る。そして、六識は「妙観察智」という事象を察する深い智慧へと変わり、一〜五識までは「成所作智(じょうしょさち)」に転化し、現実にすべきことを実施していく智慧になるのである(1p159)

 すなわち、エゴがなくなると自分が幸せになるというメリットがあるだけではなく、ヨーガと仏教の根本精神である高次元の利他心「四無量心」が発動され、あらゆる生きとし生けるものに向かって光のように放射されていく。

@ 慈(マイトリー) 生けとし生けるものすべてに友情の心を持つ

A 非(カルナー)  生けとし生けるものすべての苦しみに対する同情を苦を除こうとする哀れみ

B 喜(ムディター) 生きていることへの歓びと感謝、人の幸せを見て喜ぶ心

C 捨(ウペークシャ) とらわれや怨親等差別を捨ててすべて平等に利する心

 すなわち、ヨーガとは、自分が完成されるだけでなく、すべての生命に至福をもたらすための魂の道なのである(1p18)


池見酉次郎の画像はこのサイトから

引用文献
(1) 番場一雄『ヨーガの思想』(1986)NHKブックス
(2) 番場一雄『一億人のヨーガ』(1988)人文書院

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2016年02月08日

番場一雄のヨーガ―ハタ・ヨーガ@

はじめに

 番場一雄氏(1938〜2003年)の著作のまとめを紹介する。これも、1987年といまから29年も前に購入した著作だが、改めて読み直してみるとヨーガや仏教の理解に非常に役立つことがわかったからだ。番場氏は心不全のために66歳と師の佐保田博士よりも早く他界するが、とりわけ、番場氏がヨーガをやりながら内山興正(1912〜1998年)老師の下、参禅をしていたことは改めて気づいた。脳生理の部分についてはいささか古いことを免れないが、仏教とヨーガとの関係についてはいまも有効である。そこで氏の著作内容をまとめておく。

身体が病弱であるためハタ・ヨーガを始める

 番場一雄氏(1938〜2003年)は、小中学校から病弱で三分の一月は学校に通えなかった。17歳では肺結核を患う。35歳前後まで、抗生物質の副作用によって、胃腸障害、耳鳴り、慢性的な疲労感、慢性蕁麻疹に悩まされていた。このため、25歳からヨーガを始める(2p151)

佐保田01.jpg 佐保田鶴治(1899〜1986年)博士のヨーガ研修会は、京都東山連邦の宝塔寺のひとつ、大雲寺でされていた。博士と秋山陽文老師とがインド哲学と仏教を通じて懇意だったからである(1p41)。当時は月1回だけ研修会がもたれ、参加者も数十名だった(1p42)。アーサナが1時間。調気法20〜30分、瞑想法20分と全部で2時間のコースであった(1p44)

 佐保田博士は、@ゆっくり行い一定の時間保つ、A部位に意識を向ける、B動作と呼吸を合わせる、C緊張と弛緩を交代させる(1p45,2p22)。この四原則を守らなければ形だけアーサナに似ていても、実質的にはアーサナにはならず、期待する効果が得られないと言われた(1p44)。そして、心身が調和すると「梵歓喜」と呼ばれる至福の境地が表れてくると言われていた(1p45)。そこで、番場氏は、佐保田博士と石井祐雄氏の指導の下でアーサナを始めた(1p46)

 番場氏は、佐保田鶴治博士から、人の心を受け止める寛容心、生きとし生けるものへの慈しみ、人の心を見抜く直感力、物事にこだわらない大海のような心を直に感じて、大きな感動を受けた、と語っている(2p149)

正しい呼吸法で健康になる

ストレスから息が浅くなるため胸が狭まり腹が出てくる

 現代人は色々なストレスから呼吸が小さくなり、胸郭が萎縮している。肋骨が開くチャンスも少ない。息が浅いため、いつも汚れた息の上に新たに入ってくる息を混ぜて吸っていることになる(2p108)。石井祐雄氏によれば、いつもの呼吸は肺から出されない空気が2〜3割あるという(1p59)。そこで、普通の人間は25歳前後に肺活量が最大となり、その後は徐々に落ちていく(1p58)。番場氏は、長年のヨーガの経験から、呼吸の微妙な動きによって、その人の身心のレベルがわかるという。病んでいる人の息はスムーズに流れていないからである(2p155)。また、人間は若いときには内臓が引き締められているが、年とともに下垂気味になる。そのため、胸が貧相になり、腹が出てきて内蔵を骨盤で支えるようになる(2p99)

腹の引き締めを行なって息を吐き切る

 このため、ヨーガでは老化防止のために「調気法」を行なう前提として、腹をへこます練習を行なう。これを「ウディヤーナ(気をあげる)」と「バンダ(締め付け)」と呼ぶ(2p99,2p102)。この結果、内臓は刺激を受けて若々しさを取り戻す。心臓も下からマッサージを受けるため、心筋梗塞になったとしても後遺症を起こさず完治させることができるという(2p102)

20160208番場.jpg そして、アーサナやプラーナヤーマの練習によって胸郭が発達して肺活量が増えてゆく(2p107)。健康な男性の肺活量は3500〜4000ccだが、番場一雄氏は2800ccしかなかった。けれども、20年もヨーガを続けた結果、6470ccに増えたのである(1p101,2p114)

吐く息を長くする自然な呼吸で心臓の負担が小さくなる

 呼吸は自律神経によってコントロールされている。けれども、呼吸だけは自分の意志でもコントロールすることができる(1p57)。ヨーガはそこに着目した(1p58)。そこでは、ヨーガでは、入息、保息、出息を1:4:2で行い、吸うよりも出す方を長くする(1p120)。『ヨーガと医学』(1980)紀伊国屋書店の著者、スティーブン・F・ブレナ(Steven.F.Brena)博士によれば、肺にとって生理学的に最も楽な状態とは息をゆっくりと吐いている時であり、その時には、心臓の右心室からの静脈と、酸素供給を受けて左心房へ出て行く血液とが最もバランスが取れた状態にあると述べている(1p120,2p109)

 ジョギング等によって無理をして筋肉を堅くすると、心臓に負担がかかり心臓肥大を進行させるが、ヨーガで肺活量が多くなるとエネルギーのバランスが良くなるため、心臓が次第に小さくなる(1p112)。事実、番場一雄氏も肺機能が目覚ましく向上し心臓が小さくなったという(1p101)

 そして、このヨーガの呼吸を練習すると交感神経が緩んで副交感神経が優位になるために、高血圧であっても血圧が10〜30mmも下がる(2p115)

保息することで血管を緩めスムーズに血液を流す

 普通の成人では、息を止めていられるのは1〜1分半が限度である(2p111)。番場一雄氏もヨーガを始めた頃には、カパーラ・パーティ浄化法やバストリカーといった調気法が苦しく(1p60)、保息(クンヴァカ)も1分もできなかった。けれども、いまでは3分以上できるようになった(1p60,2p111)

 そして、血液中の酸素が飽和状態になると、倦怠感や恐怖心が起こり、頭の働きが低下し、脳動脈も収縮する。保育器の中の未熟児が酸素の過剰供給で失明するのもそのためである(2p112)。一方、血液中に含まれる二酸化炭素には脳血管を緩め拡大させる。そのため、血管は柔らかくなり血液がスムーズに流れる。クンヴァカに意味があるのはそのためだったのである(2p113)。さらに、ヨーガではプラーナを取り入れている。そこで呼吸法のことを「プラーナ・ヤーマ」と呼んでいる(1p58)

ハタ・ヨーガのアーサナをすれば身体の姿勢が美しくなる

 ハタ・ヨーガでアクロバットのようなアーサナをすることは不自然に思える(1p126)。けれども、基本的なヨーガのアーサナを毎日30分前後、食事をするように行なっていくと美しい姿が現れてくる(2p158)。身体の動きが次第にスムーズに背骨は張りを持つようになり、全身のバイタリティが高まってくる(2p14)。いつも背骨が伸びやかにまっすぐ立ち、誰でも歩く姿勢が美しくなる。不思議なことに、歩行の度に脚は動いても、上半身は手や腕の動き以外はシーンと静止している感じである。あたかも高級乗用車に似ている(2p166)。ブッダの修行法「三十七菩提分法」に「軽安(きょうあん)」と呼ばれる修行法があるが、これは、ヨーガの心身統一による禅定力によって、身も心も春のそよ風のように軽やかになることを言う(2p15)

 また、現代人は立っているときの重心がカカトの方にきているが、古代人は立った時の重心の位置が現代人よりも前方にあったという(1p139,2p160)。京都の三十三間堂の千体の千手観音がしている「立禅」のような姿になる(2p160)。すなわち、実践すればするほどその姿勢は仏像のように美しくなり活力が満ちてくる(1p127)。それは、人間の身体には美しい姿勢を築こうとする設計図があるからである(2p159)

 16〜17世紀のインドのハタ・ヨーガの文献、『ゲーランダ・サンヒサー』によれば、シヴァ神は太古に8400万もの対位法を説かれ、うち84が優れ、さらに人間社会では34のアーサナが素晴らしいと記されている(1p127)。けれども、20年の実践から番場氏は、背中を伸ばす体位、背中をそり上げる体位、背骨をねじる体位の三つにアーサナが集約できると述べている(1p128)

アーサナは身体で唱えるマントラで動く瞑想である

 番場氏は、本当に体が心と一体となって、相互に情報が交換できれば、身体に異変があれば直ちにそれが意識できるはずである、と述べる(2p176)。確かに、普段の意識では、身体のことが感じられない。けれども、ヨーガの実習が進むと、身体感覚が目覚め、身体への意識化が進む。随意筋だけでなく、不随意筋や内蔵までが意識対象になってくる(1p95,2p180)。いままで鈍感であった腰や背骨が力強く活き活きとしてくるのがわかり(2p165)、内臓感覚が目覚めて、疲労やストレスで胃腸が腫れていると、それが手に取るようにわかるようになるのである(2p102)。このため、番場氏は「ヨーガは身体で唱えるマントラである」と述べる(2p18)

坐禅では安楽の法門なのだろうか?

20160208内山.jpg 生活に伴う過度なストレスを解消して、心の安らぎや健康を得たい。こうした人々のニーズを反映して、瞑想や座禅がブームになっている(1p169)。佐保田博士は「ヨーガ禅」と述べ、ヨーガが禅と密接に関係があるとしていた(1p64)。そこで、番場氏はほぼ2年にわたって、ヨーガをやりながら、吉田山の麓にある換骨堂という曹洞宗の寺で、内山興正(1912〜1998年)老師の下、参禅をした。ともに参禅していたのは心理学者の牧康夫氏であった(1p65)。ちなみに、牧康夫氏はフロイト研究で著名な研究者である。神経症に陥って、研究所の地位を捨て婚約まで辞退する。けれども、ヨーガを実践した結果、結婚し、愛児を設け再び大学の教壇に立つ(1p7)。とはいえ、その後不可解な死を遂げている(1p8)。それは、自殺である。

 番場氏は、禅堂で座禅をしたが、それは楽ではなくいろいろな想念が去来した(1p68)。道元禅師は「坐禅は安楽の法門である」と述べたが、本当にそれができるのであろうか(1p68,1p119)

 一般の修行者にとっては坐禅をするだけでも大変な緊張をもたらす。禅宗は意志宗と言われるほど強固な意志が必要である。佐々木雄二医学博士によれば脚や膝の痛みを訴えるものが89%にも登ったという。また、江戸時代前期の臨済宗の僧、盤珪永琢禅師(1622〜1693年)は胸部疾患、江戸中期の臨済宗の僧、白隠慧鶴禅師(1686〜1769年)は禅病に陥った。いずれも生理を無視して過酷な修行をしたためであろう。そこで、健康が維持されて瞑想ができればその方が望ましい、と番場氏は考える(1p119)

 座禅では結跏趺坐だが、ヨーガでは蓮華坐(パドマ・アーサナ)である(1p67)。『ハタヨーガ・プラディーピカー』には、パドマ・アーサナを行うことであらゆる病気がなくなると書かれている(2p35)。確かに、自律神経が集まった腹部の太陽神経業が、活性化し、臍の下の丹田に精気が充実した感じを覚える(2p35)。けれども、ヨーガではさらに、達人坐(シッダ・アーサナ)をより重視している(1p67)

 ヨーガではまず身体の歪みをアーサナで意識的に筋肉を緊張させて緩めるやり方をする(1p69)。つまり、正しく座るための身体の条件が整えられないまま坐禅の姿勢をするとむしろ身体を悪くするのではないかと番場氏は言う(1p70)

ハタ・ヨーガは弛緩と緊張のリズムによって自然に瞑想に入る

 ヨーガをベースにドイツの医師シュルツ(Johannes Heinrich Schultz,1884〜1970年)が創案した「自律訓練法」では手足の温感は得られても、それ以降の太陽神経叢の温感まではなかなかいけない。けれどもヨーガのシヴァ・アーサナを行えば、ほとんど誰もが上腹部に温感を確実に感じられる。それは、弛緩をするためにまず意識的に緊張をさせるからである(1p115)

 また、静のままの坐禅では生命の根本が感じられないが、動から静のヨーガに瞑想の秘密が隠されていると番場氏は体験的に感じた(1p75)。瞑想が深まって心が統一され、三昧の境地に入っていくと、通常とは異なる意識状態が表れる。脳生理学の研究からはα波やθ波が出現することが知られている。けれども、こうした脳波はヨーガのアーサナや調気法のなかでも現れる(1p170)。正しい呼吸と一体となった緊張と弛緩のリズムが身体の感覚として外界の対象から心の動きを引き離してしまう。こうして、意識は「非思量」を経験できる(1p77)。このことから、座禅が「静」の瞑想であると同時に、ヨーガのアーサナや調気法も「動」の瞑想であることがわかるのである(1p170)

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内山老師の画像はこのサイトから

引用文献
(1) 番場一雄『ヨーガの思想』(1986)NHKブックス
(2) 番場一雄『一億人のヨーガ』(1988)人文書院
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2016年01月22日

佐保田鶴治のヨーガ禅 サットサンガとカルマヨーガE

サット・サンガ=僧はもともと集団であった

 仏教ではマントラのことを「陀羅尼」と言う(4p152)

「ナモー タッサ バガヴァトー、アラハトー サンマーサンブダッタ」(阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に敬礼し奉る)は、南方の仏教徒が礼拝時に唱える文句で、もともと人間ではあったが、その人間性を極限にまで発展させたブッダを手本として賛美するものである(2p137)

 南方仏教で、仏、法、僧の三宝に帰依する丁寧な礼拝の仕方を三宝礼という(3p37)

 ブッダン サラナン ガチャーミーはその仏が説かれた教えに帰依することで(2p137,3p37)、ダンマン サラナン ガチャーミーは法に、そして、サンガハ サラナン ガチャーミーは僧に帰依することである。

 一人一人の僧のことをパーリー語で「比丘」と言うのに対して、ここで言う「サンガハ」とは僧侶の集団のことである。「サンガハ:は漢字では「僧伽」と書く。「僧」という言葉は、ここから「伽」を取ったもので、本来の僧は、ひとり一人の坊さんではなく、坊さんの団体を意味していたのである(3p37)

自分の心を清めることを誓った人々の集まり

 人々の中には「神性」があるが(3p36)、この内なる魂が汚されてしまっている。そこで、自分の内なる魂をできる限り浄めてから死のう。そのように考える人、覚悟を持った立派な人を善人、中国では君子、ヨーガでは「サット」と呼ぶ(3p14)

 ヨーガは本来、一人で瞑想するもので、この形は禅に残されている(3p35)。けれども、そういう人の集まりを「サット・サンガ」(3p14,3p37)、仏教ではサンガハと呼ぶ(3p37)

集団でお祈りすると波動効果がある

 華厳哲学は最も深い哲学だが、そこでは一人一人が「相入する」という「一切即一」や「一多相入」が重視されている。一人の力は微弱だが、50人が集まれば50倍になる(3p39)。ひとり一人からでる良いバイブレーションが混じり合う(3p41)。そして、観世音菩薩を拝むと、そこに宇宙の良い念力が集まり、それが私どもにも波動を及ぼす。その大きなバイブレーションの海の中でヨーガをやることが大切なのである(3p42)

 キリストの十字架も木造の仏像も、そのものには力はない。しかし、お参りしてお祈りする心が、十字架や仏像に力を与える。すなわち、自分の力を一度外側にプロジェクトし、そこから再びその力を戻してもらう手段が仏像といえる。この自分の力を念力と呼ぶがそれは神秘的なものではない(3p121)

慈悲的な生き方をしよう〜カルマ・ヨーガ

 根本の覚悟ができている人は、金や名誉や権力があっても邪魔にはならない。けれども、多くの人にとっては、それによって人間が駄目になり悲惨な死に方をする(3p12)

 小乗仏教では修行者は「比丘」と言われる。これに対して、大乗仏教では戒律も少なく、出家も不必要で、基本的には在家集団である。その俗人集団で最も大切とされるものは「布施」である。布施は物質的なものに限らず、精神的なものもある。したがって、人に喜びを与える「慈悲」も重要である(3p38)

 本物のヨーガはラージャ・ヨーガである(3p79)。この道を徹底して修行するには社会から離れなければならない(2p95)、「サンニャーシー」といって(2p96)、家を捨ててしまわなければならない。100建のビルを作るようなものである(3p79)。多くの人はそこまではやれないし(2p95)、日本人では誰もできない(3p79)。そこで、社会の中で行動することがそのままヨーガの修行になるやり方をカルマ・ヨーガと言う(2p95)。自分がやる仕事に対して自分の私利私欲を念頭におかず(2p97,3p80)、自分はこういう仕事をするべき使命・運命があると考え、結果に期待せずに行なう(2p97)。仕事の結果、いくら儲かるとか、ただ与えられた仕事を一生懸命やっていく。すると、人間存在の最も奥の価値ある、実質が表面に出てくる(2p97)。マハトマ・ガンディーがその模範的実例であろう(3p82)

 ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda, 1863〜1902年)によれば、世界一のカルマ・ヨーガの修行者は、釈迦である(2p99)。カルマ・ヨーガ型ではないと結局は生活に破綻を来たす(1p103)。自分に与えられた仕事を一生懸命行い、そこに生きがいを感じ、その仕事そのものに歓びが感じられるカルマ・ヨーガ的な生き方ができれば、その人は幸せだといえる(2p104)

インドで仏教が滅びたのはヒンドゥ教と違いがなくなったから

 インドにおいてなぜ仏教が滅びたのかに関しては、仏教がインドの階級思想「カースト制度」を否定したためだという見解が多い。けれども、佐保田博士は、大乗仏教はカースト制度を寛大に認めていたことから、そうだとは考えない。佐保田博士は、仏教が滅びたのは、ヒンドゥ教が大乗仏教とあまりにも似てしまい、見分けがつかなくなり、インド人には在来のヒンドゥ教の方が仏教よりも親しめるために、消え失せたのだと解釈する(3p164)

ヨーガと仏教とは一体のもの

 龍樹(りゅうじゅ, ナーガールジュナNāgārjuna,150〜250年頃)の「中論」は、論理学的な思想でけっして心理学的とはいえない。それが、なぜ世親(せしん, ヴァスバンドゥvasubandhu,300〜400年頃)の超心理学的な思想である「唯識論」へと発展していくのか。仏教史だけから見ていると、その理由がわからない。けれども、ヒンドゥ教の側からこの問題を見てみると、ヨーガの独自の心理学思想が仏教に影響を及ぼしていることがわかる。ヨーガは瞑想の修行法だが、心理学的な分析を行なう。すなわち、このヒンドゥ教の影響を考えなければ説明が付かない。そして、逆に、バラモン系のヒンドゥー教も仏教、とりわけ、大乗仏教によって影響を受けた。

 すなわち、インドにおいては、ヒンドゥ教と大乗仏教は互に影響しあいながら発展し、最終的には仏教は密教的な「真言宗」となり、ヒンドゥ教も密教的な傾向を持つようになったのである(3p162〜163)

 もとからして、仏教はヨーガの一派である。釈迦はヨーガを修行していたし、それまでのバラモン・ヨーガの欠点を直したのが仏教だからである(1p116)

【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院
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2016年01月21日

佐保田鶴治のヨーガ禅 マントラとお祈りの効用D

日本では仏教は滅んだ―念仏には意味がないと考えるのは近代仏教学の罪

 昔の日本の本当に信心深い仏教徒は輪廻転生を信じていたが、今ではお寺はあっても仏教の心はなくなってしまった(2p200)。佐保田博士は、ある真宗の若い僧侶が信者から「位牌の前でお経を読んで下さったが、人間死んでから先はあるのですか」と聞かれ「そんなものはない。来世がないのにお経を読むのも、親鸞上人が念仏を唱えよといったのも教訓のためだ」と答えたことに驚き「こんな僧侶がいるのは近代仏教学の罪である」と述べている(2p181)

 佐保田博士は、田舎の小さなお寺で偉いお坊さんが仏教を守り続けているかもしれないが、全体としては仏教は滅んだ、と語る(2p201)。ただ現代人の宗教に対する要求が消えたわけではない。お寺にしても教会にしても、人々の要求に応えられないために人が集まらなくなったにすぎない(2p118)。佐保田博士によれば、心の病気が救えなければ身体の病気も治らず、結果として患者を救えない。本当に病気を治そうと思ったら、宗教と医療が結びつかなければならないのである(2p185)

チベットのマントラは内なる魂、女神への呼びかけ

 インドでは瞑想は基本的に一人で行なうが、多数が集まって瞑想をするときには、マントラを20分位唱えて、瞑想は10分位しかしない。それほど、マントラを大切にしている(4p149)。それでは、マントラにはいったいどのような意味があるのであろうか。

 チベット仏教、密教で最高のマントラ、「オーム・マニー・パドメー・フム」を考えてみよう(4p148)。最初の「オーム」と最後の「フム」は聖なる言葉である(2p75,4p149)。「マニー」は中国語では「摩尼」と書き、打出の小槌のようにどのようなものも出す力を持つ宝、宝珠のことを言う。「パドメー」は「蓮華であるパドマの中にある」という意味である(2p75,4p149)。仏教では、昔から心臓を八葉の蓮華だと考えている(2p75)。したがって、これは、蓮華の中にある宝物、すなわち、「アストラル体や幽体の心臓の中にある魂よ」と呼びかけているのである(2p75,4p150)

 インドでは女神は非常に偉く、女神信仰は、密教の根本でタントリズムとも呼ばれる(4p151)。したがって、このマントラは真言のマントラなのである(4p152)。女神はサンスクリット語では「シャクティ」と言うが、これと同じく「マニー」も女神を表す(4p151)。また、「パドメー」も蓮華を表す女性名詞「パドマ」の呼びかけ言葉で、女神を表している。すなわち、「マニー・パドメー」は「蓮華であるところのシャクティ女神よ」という呼びかけにもなっている。内なる心臓と同時に女神への呼びかけという二つの意味を持っているのである(4p152)

神とつながる祈り=バクティ・ヨーガ

 神霊教では、観音様他多くの神仏をお祭りしてある(2p72)。宇宙最高の自在神(イーシュヴァラ)を信仰して、自分自身の生涯を捧げるつもりで生きていく。これをバクティ・ヨーガと言う。キリスト教や真宗はまさにバクティ・ヨーガである(3p82)。アーメンやオームと同様に般若心経も非常にいい優れたマントラで、宗教的なモノを出すには非常に便利な方法といえる(2p120)

 また、「オン・アロリキヤ・ソワカ」と観音様の名前を唱えることも(2p73,4p162)、宇宙の神々に呼びかけていることであって(2p73)、その意味を何も考えなくても良い(4p162)

観音菩薩マントラによって実際に人は幸せになれる

 さて、ヨーガの道徳律は、殺傷をしない、人のものは取らない、道ならぬ恋をしない、嘘をつかない、モノをむやみと欲しがらない(不貪)という5つの禁戒と以下の5つの勧戒からなっている(2p189,2p191)。さらに、身も心もきれいにする。雑念を持たないようにする「清浄」(2p192)、もがかないで現在与えられた境遇に満足し、ベストを尽くす「知足」(2p193)、「苦行」、「読誦」、「自在神祈念」と続く(2p193)。『ヨーガ・スートラ』によれば、不貪の戒律を守ると自分の転生を知ることができ(2p191)、「苦行」をすれば超能力が得られ、マントラや般若心経を唱えれば観音様に会え、天地の一番高い神様に祈ると三昧に達するとされている(2p193)

 仏には法身・報身・応身の三体がある。「報身」とは、長い間の苦労が功労として報いられることで、宇宙いっぱいにまで広がった身体である。阿弥陀如来がそれにあたる(4p147)。阿弥陀如来は修行して知恵を磨くことによって仏(如来)になっており、菩薩よりも格としては上である(3p17)。けれども、観世音菩薩は慈悲に重きをおく。自分が仏になってしまうと衆生に対して慈悲を施すことができない。そこで、自分は菩薩のままでよいと留まっている(3p17)。すなわち、観世音菩薩も、もともとは「報身」を持った仏なのだが、衆生を救うため相手に応じて便宜的に一段下の姿、「応身」を現したものなのである(2p157, 4p147)

 けれども、マントラや般若心経を唱えると観音様に会うことができ(2p193)、佐保田博士によれば、マントラを唱えたり、聞いたりするだけで、現実に不幸であった人がだんだん幸せになっていくことがあるという。マントラが深層心理や潜在意識に影響することは知られているが、なぜ、そのようなことが可能なのであろうか。佐保田博士は、その理由を潜在意識の世界がマントラによって変わることによって、外的環境も変わるためだからだと考える(4p156,4p161)

人間は自分で運命を作っている

 人間は作られた環境を受身で受け入れるしかないという考え方と環境はわれわれ自身が作っているという考え方とがある(3p189)。ヨーロッパ思想では宇宙を支配するのは、絶対的な人格神である。したがって、人格を持つ自分と神とが対立する。このため、神が我々を審判するという考え方につながっていく。一方、インド思想では自分の意志によって世界が作られていると考える。これは、逆に言えば、運命は自分の自由意志によって変えられるということでもある(3p191)

 2016011803ルイス.jpgバラ十次会日本支部が翻訳したスペンサー・ルイス(Harvey Spencer Lewis, 1883〜1939年)の『ライフ・マップ』によれば、宇宙にはリズムがあり、そのリズムをよく理解し、それに乗っていけば人間の運命も自分で支配できるという(3p188)。すなわち、環境は人間が作るのであって、運命も自分で作っているという考え方がルイスの宇宙バイオリズム思想である(3p189)。人間はキリスト教で言う人格的な神によって運命を決められているのではなく、自由意志で自分の行為を決めている。したがって、この自分の選択に対する責任を非人格的な宇宙の法則によって負わされているとルイスは述べる。これはインドの考え方とまったく同じである(3p190)

自分で自分の環境を決めている=自業自得

 自業自得と言う言葉は、不幸な人に対する冷淡で無常な批評として受け取られがちである。けれども、それは誤解である(3p190,4p64)。自分がやった行いの結果は必ず自分が受け取る。すなわち、どのような環境が自分にもたらされるのかは自分の自由意志によって決定したというのが、自業自得の本当の意味である(3p190)。すなわち、環境は自分が作っており、心の中にネガティブな傾向が強ければ、周囲もネガティブになってしまう(2p83)

前世を含め過去の経験はチッタに格納される

 瞑想の修行が盛んであったインドでは、心の内側が信じられないほど詳細に観察されてきた。その結果、産み出された「行(ぎょう)」と「業(ごう)」の観念にはとりわけ、驚かされる、と佐保田博士は述べている(4p57)

 近代心理学でも一度経験された印象はすべて潜在意識に残され消えずに機会ある毎に記憶として心の表面に浮かんでくることが知られている。インドでも同じことが考えられていた(4p57)

 ヨーガの心理学では、前世の記憶を含めて、すべての経験の残存印象が貯蔵されている記憶の貯蔵場所を「チッタ」と呼ぶ。チッタは神経細胞ではなく、今日で言うエーテル体やアストラル体のように、眼に見えない精妙な物質からできているとされる(4p58)。すなわち、過去に経験された心の印象は「チッタ」と呼ばれる心の土の中にいわば種子として保存されている(4p159)。この集積された膨大な経験のトータルな残存印象のことを「行(サンスカーラ)」あるいは「薫習(くんじゅう)」と言う(4p59, 4p160)

 普段の日常での心の働き、想念も、このチッタから「発現」している。『ヨーガ・スートラ』では、この発現を「転変」と表現する(4p58)

過去の印象、業が現在の外部環境を作っている

 けれども、過去の経験からの残存物は、過去からの記憶「チッタ」だけではない(4p59)。個人が過去において行なった善や悪の行為の残存印象である(4p61)「業(ごう)」や「煩悩」もある(4p59)

 記憶の残存印象である「行」の中には外部環境を作らない記憶もあるが、外部環境を作り上げる種子もある。これを「業」と呼ぶ(4p60,4p159)。「業」はチッタに貯蔵されている「行」の一種だが、心理的な内容に「転変」せず、外界を「転変」する原因となってしまう(4p60)。ただし、「業」は自然世界の設計図のようなもので、そのまま世界を創り出すわけではない。この設計図にしたがって、宇宙を作る根源的な力である、天地のエネルギー源、自性(プラクリティ)が流れ込むことによって、世界が作られていく。要するに、過去に行なった無数の残存印象が種子として植え付けられることで、世界を作る神的な力によって畑が作られていくのである(4p61)。そして、記憶に外界の力を作る力があるのは、無意識の世界が環境を作っているからである(4p161)。外界、すなわち、自分の周囲の環境世界は、個々の瞬間毎に各個人の心によって「発現」されているものだと考えれば、心の操作によって、外界も変わっていくことになる(4p61,4p64)

 よく、ヨーガを正しく習得した人から「このごろ不思議にツキが良くなった」ということを耳にする。これは、守護神の恩加護のためだと考えることも間違ってはいないが、このように考えれば、その理由も理解できるし、ヨーガの神秘性を強調する必要もなくなる(4p64)

運命とは自分が過去に行った行為の結果である

 要するに、インドでは、この世に生まれる前、何千年前、何万年前に考えたり行動した記憶すらも心の奥底に残っており、その記憶が心の動きや運命すらも決定すると考える(1p142)。すなわち、自分が過去に行ったことの結果がカルマ、すなわち「運命」であると解釈する(3p89)。不幸な人、幸せな人、金持ちの人、貧乏の人。こうした現在の外部環境は、前世で行なった行為の結果が自分によって作られている(4p159)。人生には不幸もあれば幸福もあるが、それはすべて過去の蓄積だと考える。これを仏教では因果という(2p199)。ひどい境遇に陥ったりひどく不幸になる人がいるが、それは、前世から持ち越した借金の支払いをしているのである(3p13)。このように考えれば、この世に生まれてくることそのものが運命であって、すべてが自分の責任、自業自得である(3p92,3p108)

煩悩に流されなければ今のカルマを逃れられる

 したがって、仏教流にいえば、人はカルマによって生きている。そして、この借金を返すことが、この世での一番の使命なのである(3p13)。また、こうしたカルマから逃れることが一番立派なことだといえる(3p92)。例えば、つまり、自分の中から湧き起こる激情や怒りや憎しみや欲望等によって悪い意志決定をしてしまうのも運命である。そして、この意志決定に対して、自分が作った運命が実現するように自然の力が働く。そこで、自分で支配できるようにならなければ、外から来る力に操られてしまい、運命の支配を超えることができない(3p85,3p86)

カルマを逃れば功徳が積める

 さらに、肉体が死んでも心が残るとすれば、自殺したからといってすべてから逃れられるわけではない。未来も生まれ変わると考えれば軽率に自殺等はできない。また、自殺をするとその心に悪いものが付くために再び生まれたときには不幸な運命を送ることになる(2p199,2p200)。例えば、エマーヌエル・スヴェーデンボルグ(Emanuel Swedenborg, 1688〜1772年)の『天国と地獄』には、あたかも自分で進んで地獄にいく霊が登場する。神様が悪いことをした霊を地獄に投げ込むことはなく、霊そのものが地獄が好きなために落ちていくのである(3p90)

目に見えない守護霊の世界とつながる

 人間は社会的な動物であって、精神的にも人から恵みをもらい、人に恵むという関係性がなければ生きてはいけず気が狂ってしまう(3p21)。社会的本能から人との交際がなければ生きて生けない(2p145)。けれども、ヒマラヤの山中で仙人が孤独でいられるのは、なぜなのだろうか。佐保田博士は、周囲の植物や岩石とも精神的に交流ができているからだと主張する(3p21)

 最近の心霊科学では、誰にもその人に好意を持つ神様、守護霊が必ずいると考えている。けれども、本人がその神様とうまくコンタクトができないと神様は支援することができない。そこで、神様と連絡をつけるためには「祈る」ことが必要となってくるという(2p135)。眼に見えないものを信じない合理主義者は、左の前頭葉が発達していても右の前頭葉が発達していないが、神仏を拝むと右脳が発達していく(2p136)

 そして、ヨーガをやっていると、自分の死んだ祖先の霊を含めて神様がいつも自分を保護しているとの感じがしてくる。このため、偉い人は狭いところに閉じ込められ外界との交渉を絶たれても孤独のために病気になることはない(2p146)

 要するに、インドでは死んでからも残るものがあり、それを「ダルマ」、「功徳」と考えている(3p106)。良いことをすればこの世でいい結果を受け取り、たとえこの世で受け取れなくてもあの世でいい結果を受け取る(3p107)。すると、来世の運命も保証されてくる。それがヨーガの最高の理想なのである(3p94)

【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院

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2016年01月20日

佐保田鶴治のヨーガ禅 瞑想C

瞑想=自分がいなくなること

 2016011702.jpg佐保田博士が三高時代に師事した岡田虎二郎(1872〜1920年)氏は、自分の奥底の根底にある「ゼロ人称」をつかむのが最高の目的であると言っていた(2p113)。すなわち、瞑想の目的は、「ゼロ人称」を掴むことにある。普通、瞑想をするときには、瞑想している自分は一人称で「私」という観念があり「私の考え」もそこにある(2p114)。けれども、こうしたものは時間的存在で、時とともに絶えず変化していく。インドでは、それをマーヤ(迷い)と捉える(2p115)。そして、これは幻の世界であり、それとは別に時間を越えたゼロ人称の自分があると考える(2p116)

すべてがマーヤだと考えると苦しみは消える

 ブッダは、その根本において人生は苦しみであると考えた。なぜ、人生が苦に満ちているのかというと、この世のあらゆるものには実体があって、それが動かすことができないものだと信じ込むからである。けれども、あらゆるものが実体がないものだとわかれば悩みはことごとく消えてしまう。このようにブッダは考えた(2p123)

 ブッダが悟りを開いたときには、「生まれてきて良かった」、そして同時に「死んでもいい」という大変な満足感が生まれたという。この境地を仏教では「般若」の「智」と呼ぶ。ブッダが悟ったときの喜びは、感情に近いものではなく、智慧であったからである。そして、その内容を仏教では「空」と呼んでいる(4p77)。そして、『ヨーガ・スートラ』も、この境地にまでゆけば、人生をすべて解決でき、恐れることも悲しむこともなく、天地とひとつになれる状態が続くとしている(4p79)

瞑想でシンキング・マインドをなくすと対象がリアルに感じられる

 『ヨーガ・スートラ』には八部門あるが、道徳や戒律から始まり、座法や呼吸法が続き、最後が凝念、瞑想、三昧となっている(2p162,4p81)。そして、この『ヨーガ・スートラ』に書かれているように、たえず動き回る心の動きを止め、雑念をなくしていくことが瞑想の目的である(2p161,4p75,4p141,4p143)

 たいていの人の背骨は曲がってまっすぐになっていないが、禅の僧侶で長年熱心に修業された人は背骨がまっすぐである。すなわち、瞑想で大切なことは背骨をまっすぐにすることである(2p170)。とはいえ、コロコロと動く心の動きをいきなりなくすことは難しい(4p144)。雑念を払うためには、心を一定の方向に向けていく必要がある。仏教ではこれを「心一境性」と呼ぶ。「境」とは対象のことである(2p169)。そこで、ひとつのことをずっと思い続ける(4p144)。すると考える想念が消える(4p145)

 あるいは、数を数える「数息観」や結論がでない公案を念じる「公案禅」を行なっていく。このようにしても、いつのまにか想念は消えてしまう(4p146)

抽象的概念もリアルに掴む=リアリゼーション

2016011801.jpg ボンベイにサンタクルス(Santacruz)に世界的に有名な道場がある。ここを開いたスリ・ヨーゲンドラ(Sri Yogendra, 1897〜1989年)は、ヨーガの目的はリアリゼーションとトランスフォーメーションであると述べている(2p148)

 画家はたとえ目の前に花がなくても、実際に花を見ているかのように心に花のイメージを描くことができる。こうした能力をさらに磨いていくと、平和や愛といった抽象的な概念も花を見るように実感として捉えるようになれる。すなわち、普通の人にとっての抽象的な思想が生き生きと実感できるようになる。これがリアリゼーションである(2p149)

 そして、次の瞑想(ディアーナ)とは、花や抽象的な愛や平和について考え抜くことである。考えに考え抜くと、もう考えられなくなってしまい、考えていた自分が突如としていなくなってしまい、考えていたことが目の前にあらわれてくる(2p162,4p81)。すなわち、抽象的な概念にすぎないものが花のように具体性をもってあらわれてくる(2p163)。自分が消えて、自分が考える対象が具体的に感じられる(2p164)。桜であれば、自分がなくなり、桜の花だけが存在している。これが三昧であると『ヨーガ・スートラ』は説明している(4p82)。これは、意識を失った状態になるのではなく、非常に充実した状態になる。これが「三昧」である(4p145)。「定(じょう)」とも言う(4p76)

田毎の月

 けれども、さらに、先がある。本当の瞑想の対象は自分である。そこで、三昧に入ると本当の自分があられてくる(4p82)。江戸中期の禅僧、白隠慧鶴(はくいん えかく、1686〜1769年)は「衆生本来仏なり」と語ったが、これは、人間はもともと仏であり、一人ひとりの内側には神様がいるということに他ならない(4p146)。これが観念ではなく、事実としてあらわれてくる(4p146)

 私たち一人ひとりの心を田圃のようなものだと考えてみよう。風が吹いて波が立てば、そこに写っている月も揺れる。けれども、田圃の表面が静まってくると天の月と同じように美しい月が映し出される(2p169)

 瞑想によって妄念をなくしていくと真我に近い美しい自我として、自分の生活の中に自我があらわれてくる(2p169)

 そして、この段階がさらに深まると田圃の水がひあがったように自我の影も消えてしまい、空に月が浮かんでいるかのように真我そのものだけがあらわれる(2p169)

道元禅師の境地=三昧

 仏教も同じで、考えて考えて考え抜くことを道元禅師は「仏法を習うは自己を習うなり」と表現している(3p208)。その結果、道元禅師(1200〜1253年)は「仏法を習ふといふは、我を忘るるなり」。すなわち、エゴをなくすことが修行だと述べている(2p164)。さらに、道元は「我を忘るるといふは万法に証せらるるなり」と述べている。この意味は難しいが、インドでは「証」のことをサークシャートカーラ、本当に自分の目でまじまじと見るように感じることを言う(2p164,3p209)。したがって、普通の知性はモノを間接的にしか見ることができないが、「証」とは直接、対象をつかむことであり(2p165)、ヨーガ・スートラが言う三昧の状況と一致する(2p164)。対象と自分とが区別されず、この世界にあるすべてのものがまじまじと自分を見ている、ということになろう(2p165,2p166)

シンキング・マインドをなくすと出てくる般若の智慧は高次元の思想

2016011802疎石.jpg つまり、考える働き、シンキング・マインドがまったくなくなったときに、道元禅師や夢窓疎石(1275〜1351年)が言ったように、新たな力、「般若(プラジュニャ)」の「智慧」が出てくる(3p170)。普通の心は、概念や言葉を媒介として働いている。けれども、三昧の状態になると言葉がなくなってしまうため、これを言葉で表現することは難しい(4p76)。したがって、仏教の真理を客観主義の立場で理解することはできない(3p168)。道元禅師の言葉も、夢窓疎石の『夢中問答』(1344年)も、高次元のものである(3p167)。高次元の思想から仏教を見なければ、仏教はわからない(3p167)

アーサナを通じて私をなくすことがハタ・ヨーガの目的

 知性が働くためには「私」と対象とが対立し、エゴがなければならないが、アーサナをやっているうちに、「私」の意識が薄まり、「対象」だけが浮かんでくる(1p153)。そこで、まず、身体をリアライズしてはっきりとつかみ、さらに人間の一番奥にある聖なる性質とも一体化することがヨーガの目的である(2p151)。そして、自分の身体と心と魂とが統合されると本当の魂が生かされるようになる。さらに、層が統一されていくにつれて、その人はトランスフォーメーションしていく。これがヨーガの目的なのである(2p152)

【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院

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2016年01月19日

佐保田鶴治のヨーガ禅 本当の自分とつながるためにエゴを手放すB

現代人は小学校の優等生

2016011901WILSON.jpg 秀才でも頭が悪い人はたくさんいる。学問ができることと智慧があることは別だからである(3p130)。現代人は知識があっても知恵がない(2p11)。それが、知能だけが発達していて、感情と身体が備わっていないからである(2p10)。知能が優れていても、感情生活の豊かさと身体の完全に健康な状態にはない。小学校の優等生にすぎない(2p8)。コリン・ウィルソン(Colin Wilson, 1931〜2013年) によれば知恵は感情と身体の双方が備わらないと出てこない(2p9)

 自分の中で様々な欲望、怒り、嫉妬といった汚い感情が取りまいていると透明な智慧は出てこない(3p157)。そこで、ヨーガをやっていると物事の善悪や良し悪しがはっきりと判断できるようになる。このため、将来の難を逃れ失敗することがなくなる(3p130,3p157,4p198)

ヨーロッパ哲学は見かけは立派でも本当の哲学はない

 ウィルソンによれば、17世紀以降のヨーロッパの哲学者は、非常に深い哲学を説いているように見えても、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724〜1804年)も含め、半人前、小学生の優等生にすぎないと言う(2p10)

 佐保田博士によれば、現代ヨーロッパの哲学は、みかけは立派だが内実はつまらなく、あまりたいしたものではないと考えている(2p196)。唯物論は哲学ではないし、米国の新論理学も哲学ではない(3p167)。かろうじて哲学らしいものは実存哲学だが(3p115,3p167)、キルケゴールにしても、サルトルにしても、主体性の面がはっきりしていない(3p168)。コリン・ウィルソンは『アウトサイダーを越えて』で、その実存哲学を批判して乗り越えようとしたが、結局は、自分が目指す哲学を生み出すことができなかった(3p115,166)

キリスト教によってヨーロッパの哲学は発展しなかった

 佐保田博士によれば、西洋哲学が駄目になったのは、キリスト教神学が哲学を抑えてしまったからである(2p197)。キリスト教は瞑想中心の宗教ではなく(1p116,2p160)、ギリシア文化がキリスト教に圧倒されてから、ヨーロッパには瞑想の伝統がなくなってしまった(2p160)。すなわち、ヨーロッパには瞑想の伝統がなく、それがヨーロッパ文明の弱みとなっている(2p160)

 ヨーロッパでは宗教はキリスト教、哲学はギリシア・ローマ系思想として区別されている。けれども、これは、ヨーロッパだけの特殊事情である(3p165)。高次元の宗教は哲学であり、宗教ではない哲学は本物ではない(3p165)。ヨーロッパでは紀元前7世紀から始まったギリシア・ローマの哲学が一度途絶えて今日まで伝わっていない(3p116)。したがって、ヨーロッパには本当の哲学はいまだにできていない(3p165)

客観主義のヨーロッパ思想は虚しくニヒリズムにつながる

 西洋思想の根底には客観主義がある。すべての対象を「客体」として外から捉える(4p68)。どれだけ精密に発展しても、科学思想も客観性から離れることはない(3p167)。したがって、心理学も人間を外から研究対象としている(4p68)

 とはいえ、客観的にみれば、一個の人間は、大宇宙に較べて、比較にならないほど哀れである。こうした世界観では悲観主義にゆきつき、人生の喜びは得られない(4p79)。また、ウィルソンは「現在のヨーロッパでもてはやされている合理的な思想は、20年もすれば通用しなくなる」と述べている。現代思想がゆきずまっている以上、より高い次元に飛躍しなければならない(3p167)

ヨーロッパはようやくはるか昔のインド哲学にたどり着いた

 一方、東洋では3000年前からの哲学や世界観が伝わっている(3p116)。哲学と宗教とが対立することなく、哲学が宗教そのものとして進歩していった(2p197)。例えば、インドは紀元前5〜6世紀も昔から心の内部を探求してきた(4p56)。釈迦よりも200年前、紀元前700年にはすでに完成していたヴェーダンダは、人間を内側から捉えようと考えた(4p69)

 ヨーロッパで人間を内側から見ることの重要性が認められたのはようやく200年前からにすぎない(4p70)。したがって、心の探求の面ではヨーロッパよりもインドの方がはるかに進んでいる(4p56,4p71)。最近になってようやくインドが大昔に到達していた地点に近づいているような状況である(4p56)。そのひとつが実存主義だが、マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889〜1976年)やカール・ヤスパース(Karl Jaspers, 1883〜1969年)は東洋哲学、とりわけ、禅をよく学び(2p198)、ヤスパースは瞑想に興味を持ち、毎日座禅をしていた(4p70)

自分の外に神を求める神霊教と自分の内側に神を求める神秘教

 宗教は大きくわけて、自分の外にいる神を信仰する「神霊教」と自分の内側にいる神を信仰する「神秘教」、ミスティズムとにわかれる(1p64)。神霊教は外側に神がいる。このため、その神に対する信仰、お祈りや儀式が伴う(2p66)。神霊教には一神教と多神教があるが(2p64)、日本の神道は多神教の神霊教に相当し(2p66)、キリスト教は一神教の神霊教といえる(1p64)

 一方、神秘教は自分の中には本当の立派な神がいると考える。ただし、一般に我々が「自分」だと思っているものは、エゴであって、神様でもなんでもなく、影にすぎない。しかし、その「自我」の奥には「ほんとうの自分」がいる。すなわち、我々の中にいる魂は私の魂ではあるが、同時にそれは宇宙の魂の分身でもある(2p65)。この神秘教は神を自分の内側に求めるため、儀式がない代わりに瞑想を伴う(2p66)。瞑想して、自分の中に深く入り、自分の中に神を見る宗教である(1p117)

 道徳は他律的なものだと考えるとやりたくなくなる。ヨーガでは自分の奥に神がある。このため、神の命令といっても、自分が自分の命令に従うことになり他律的ではなくなる。一方、クリスチャンは偽善者が多いと言われるが、それは道徳を神の命令だとして受け取るからではないだろうか(2p189)。最も西洋でもスピリチュアル・サイエンスは魂の根本は神様であると考えている(4p16)

主観主義のインド思想は幸せにつながる

 インドでは本当の自分、真我のことをアパラ・アートマンと言う。一方、宇宙最高の魂のことをパラマ・アートマン、ブラフマン、梵と言う(2p70)。では、本当の自分はどうすればわかるのであろうか。インドの聖者が考え出したひとつは「これは本当の自分ではない」「これも本当の自分ではない」とひとつひとつ自分を否定していく修行である(4p138)。すると、最終的には、本当の自分と出会え(4p139)、それは宇宙の広さにまで広がり、宇宙と自分とが同一になる。これをヴェーダンタの思想では「ブラフマ・アートマ・アイキヤム(brahma-atoma-aikyam)」「梵我一如」と言う(2p70,4p84,4p139)。この最初の哲学書ウパニシャッドの考え方は、インド哲学の主流、ヴェーダンタ哲学として続いている(4p139)

 すなわち、客観的に見ていくと自分は哀れな存在でしかない。けれども、主観的に見ていて三昧の境地に達すると自分は哀れな存在ではなくなる(4p83)。そのときの喜びは無限の歓びであり、たとえ、三昧から目覚めた後でもその余韻が続く。瞑想をする価値はそこにある。おそらく、釈迦はそうした人生を送られたのであろう(4p84)

 仏教では禅はとりわけ内向的だが、外面的な要素もある。また、キリスト教は外面的な面が強いが瞑想の要素もある(2p66)。パウロも「もはや我、生きるにあらず。キリスト、我によって生きるのである」と延べ、自分がなくなっていて、私の中ではキリストが生きていると述べている(4p139)。すなわち、自分は神と独立した存在ではなく、神の容器、あるいは神のお宮なのだと考えている(4p140)

エゴのやりたいようにやらせることが自由ではない

 戦後日本は三つの悪の原理がはびこっている。第一は、すべてを物質で割り切る唯物思想である。第二は、欲望の肥大である(3p9)。第三は個人主義エゴイズムである(3p10)

 現代人は、自分がこうやりたいと思えることができれば、それが自由だと考える。けれども、それは外部的な自由にすぎない(3p87)。わがままにやれる。自分がやりたいように自由にやれるということは、エゴが自分の主人公になっているにすぎない(3p193)。本来は、自分の自由意志で行為をしているはずなのだが、その自由意志の選択は、自分の中にある迷い、すなわち、煩悩、エゴに支配されているからである(3p192)。そして、我とつきつめると、我と我との間の対立、矛盾が強くなる。だから、現代人は孤独なのである(3p22)

 けれども、自分だけの力で自分が生きていると考える人は無智な人間である(3p19)。人はたくさんの他人のおかげ、さらに、自然の様々なもののおかげで生かされている存在である(3p20)。仏教では、私は我という考えで厳然と立つのではなく、他人のお陰で我があると考える。これを「四衆の恩」という(3p23)。したがって、「我」が独立して存在するという、ヨーロッパで発達した近代人の考え方はあまりたいしたものではないことがわかる(3p22)

 けれども、ヨーロッパにはエゴの思想しかない(3p133)。ルネ・デカルト(René Descartes, 1596〜1650年)以降、エゴ(自我)は絶対に消すことができない最も大切なものだと考えられている。そして、現代の日本人はヨーロッパ流の考え方をするようになっている(4p131)。だから、現代人は、エゴの観念をだんだんと弱めていくと、生きがいもなくなり、頼りない人間になるのではないかと考える(4p140)

 けれども、実際には逆で、瞑想をすることでエゴの観念がだんだん減っていくと(2p168)、本当の自分がだんだんとはっきりして、生きることに対して非常に力強い信念が出てくる(4p141)。心の悩みはエゴの概念と密接に結びついているため、心の悩みも減っていく(2p168)。我をなくして無我になったときには、天地自然の真理、「法」がでてくる。その真理に依存していると絶対に強い(3p23)

本当の自由は欲望を抑えることにある

 何かをやろうとするのは欲望である。そして、やろうとする欲望を抑えられるところに人間の自由はある(3p86)。イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724〜1804年)は「汝の格率が一般の法則になるように行為せよ」と述べたが、これも同じことである(3p87)

 インドでは、エゴがあるために人間は苦しむのであり、エゴを消すことに人間の理想を求めてきた(4p132)。エゴの観念が強ければ、欲望、怒り、悲しみと自分を中心とした感情がはびこり、一番苦しむのは自分となるからである(3p133)。エゴは本当の自分ではなく、嘘の自我である(3p133,4p136)。それに捉われている限り、われわれは不自由で不幸なのある(4p136)

 インド的に考えれば、この世の人間は自由がなく牢獄につながれた罪人のような存在である。けれども、縛られていて不自由だからこそ生きていられるともいえる(4p132)。とはいえ、こうした不自由な世界から逃れたいという要求も持っている(4p134)。そして、この不自由な世界から逃れるためにはエゴの観念は邪魔である(4p135)。エゴを離れて本当の自分に帰るときに自由になれる(4p136)

東洋哲学のもうひとつの柱は輪廻転生

 東洋哲学には二つの柱がある。ひとつは、一人ひとりの存在の真髄は神であるという考え方である。仏教ではこれを「仏性」があるという。もうひとつは、人間が生まれ変わり、輪廻転生するという思想である(2p198)

インドでは輪廻転生が信じられているが、佐保田も理論上、そう考えざるをえないと思っている。わずか50年、100年程度の短い人生ではなにもできない。この世でやり残したことは次の世でやると考えないと生きていく勇気や本当の意味での生きがいは感じられない(2p180)

 この世に本当に生まれた目的を知るためには、自分が何かを理解しなければならない(4p80)。輪廻転生をひとつの礎として、その上で人生を考えると、人生観が非常に深くなる。同時に自分の人生を慎むようになる(2p199)

 ヨーロッパのキリスト教は生まれ変わりを否定したが、ドイツの詩人ゴットホルト・エフライム・レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729〜1781年)は来世があることを信じていた。自分の仕事はこの一生だけでは完成せず、生まれ変わりがなければ仕事が完成しないことから、仕事を完成したい強い希望がある以上は生まれ変わりを信じないわけにはゆかないと考えたのである。同じことをヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe, 1749〜1832年)も考えていたという(2p181)。いま、ヨーロッパでは輪廻転生が次第に認められるようになってきた。そう考えなければ理解できない現象が数多くあるからである(2p201)

【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院
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2016年01月18日

佐保田鶴治のヨーガ禅 フロー・ライフ「預流果」A

現代人は心が健康でないから人に愛を与えられない

2016011701.jpg 明治時代に活躍した僧侶、伊藤証信(1876〜1963年)は仏教の愛は菩薩の「慈悲」「無我の愛」であるとの教えを説き(3p16)、川上肇(1879〜1946年)を感動させている(3p18)。仏教の慈悲は無我の愛でなければならない。これを「無想三昧に住して慈悲を行う」と言う(3p17)。エゴが強い愛は本当の愛ではなく、仏教では「愛欲」と言う(3p18)

 すなわち、本当の愛は与えるものであって求めるものではない。けれども、現代人は誰もが愛を求めるばかりで与えようとはしない。一人一人が他人に愛されたいとは思っていても、愛がない。そのために誰も愛を得られずに絶望していく。では、なぜこのようになってしまったのかというと、それは現代人のほとんどが本当に健康ではないからである。本当に健康であれば、人は人に愛を与えることを喜びとする存在だからである(3p66)。けれども、この状況を変えるには頭から入るだけでは難しい(3p67)

身体から心が健康になると病気にもかからない

 ヨーガは体操ではなくライフスタイルである(4p189)。そして、心と呼吸と身体とが結びついたヨーガ体操を行なっていると性格が自然に変わってくる(1p163,3p68)。自律神経が調和すれば、自律神経の中枢が大脳皮質にまで影響し、心がまさに変わってくる(1p152)。例えば、気に入らないことをされても腹が立たなくなり、憎むことがなくなっていく(1p123)。感情が豊かで穏やかで静かになれば、どれだけ忙しい職場にいたり、嫌な上司がいてもストレスがたまらない(4p203)。そして、心が変われば、世の中の不幸や幸いも当人にはいままでのように痛切に感じられなくなる(1p164)

 お釈迦さまが語っているように心身が非常に安定している。これを寂静(じゃくじょう)という(2p37)。そして、心が非常に安定し、感情の起伏が少なくなって安定し、心の動きが穏やかな波を描くようになると、病気になることも減っていく(1p125)。この人間の心の成長は年齢に制約されない。年を重ねるほど進歩する(1p129)

聖書が読めるようになる

 人を憎んだり、イライラしている人が読むのと、心が安定して宗教性が表れてきた場合とでは、聖典を読んでもそのわかり方が違ってくる(1p125)。こうして昔の偉人が言ったことや書かれたことが自分の細胞のはしはしにまで染み込むようになってくると、先人が言った立派なことが身体に備わってくる(1p126)

歓びが出てくるから明るくなる

 涅槃とは空漠たる状態ではなく、心が非常に澄んでいて安定し、かつ、歓びに満ちている状態を言う。世俗的な財産、名誉、権力からではなく、別の歓びが溢れている状態を言う(2p37)

 ヨーガを長く続けていくと心が安定し、朗らかになるだけでなく、心の中に説明ができない歓びが出てくる。いつも明るく、非常に透き通って、歓びの心が心の中に満ちてくる(1p127,3p156, 3p64,4p29,4p198)。毎日が楽しくいい日である。禅宗で言う「日々是好々」の気持ちがあらわれてくる(1p127)

 さらに、ヨーガでは瞑想が入ってくる(3p63)。瞑想が入るとますます楽しくなり、気分が明るく愉快になっていく(3p68)。たとえ、ハタ・ヨーガであっても、瞑想と同じ効果が次第に出てくる。逆に言えば、心の中に歓びが湧かなければその瞑想をやった甲斐はない(4p199)。禅の修業も本当に成功すれば、心の中に無限の歓びが湧いてくるはずである。歓びが湧かず、しょっちゅ癇癪を起こしているようであれば、ニセモノであろう。本当の禅僧ならば周囲に雰囲気も非常に明るくなる(2p184)

慈悲の心が出てくる

 初めはかすかであっても、自分の心の中に嬉しさがあれば人に不親切はできない(3p68)。こうなれば、人を恨んだり、妬んだり、癇癪を起こすといった悪い部分が希薄になっていく(3p64,3p73)。敵と味方の区別も減って相手に同情心を持つようになってくる(3p73)

 すなわち、自分に喜びが湧くだけではなく、あらゆる人、あらゆる生き物にも優しい心が出てくる(4p201)。心が変わりその人の心に慈悲が芽生える。慈悲とは人と歓びを共にし、悲しみを共にすることである(1p167)。つまり、何も言わなくても周囲に向かって愛の光を出している(4p201)。どんな人に対しても、その人が幸せになることを望み、その人が幸せになるためにできるだけ何かをしてあげたいという気持ちが出てくる(3p156)。あらゆる動物に対して愛情が出てくる(4p89)。傲慢にならず、慢心も起こらず、他人に好意が持て、スズメやアリ等の虫にも温かい心がもてるようになる(4p90)。大乗仏教の修行者である菩薩の根本の動機は慈悲である。それを動機としないものは仏教徒ではない(3p157)

一隅を照らす

 見たところは相変わらずくだらない人間であってもだんだんその人の実質が変わっていく(2p61)。その人、独特の雰囲気が生まれてくる(3p45)。自分の内なる歓びが皮膚を通じて外にあふれ出す(1p127)。つまり、ヨーギをしていると、その心境がだんだん表れ、そういう人はその周囲に明るい光を撒き散らしていく(2p37)。そういう人がいるところは必ず明るく愉快になる(3p15)

 これを伝教大師(767〜822年)は「道心ある人は一隅を照らす」と語った(2p37,2p184)。そうすると、周囲の人もそれを感じる。そして、周囲が変われば自分も影響され、よいフィードバックが始まりだす(1p127,2p61)。ヨーガが習慣となると、他人に不愉快な感じを与えない(1p162)。自分にとって好ましいだけではなく、他人からもいい人だを思われる人間になることがヨーガの最終目的である(1p144)。こういう人があちらこちらにでてくると、社会全体が明るくなる(2p184)。そして、ヨーガを毎日する人が何十万にもなれば日本社会は変わる(1p144)。その結果、社会も幸せになるのである(4p91)。エゴイズムがなくなり、他人のことも考えなければならないと思えば、孤独で寂しい生活をしていた人も変わる(3p10)。個人が救われれば社会も救われる(3p11)

岡田虎二郎先生は愛が出ていた

 2016011702.jpg病弱であった佐保田博士は、中学生のときから『静坐法』によって丈夫になりたいと考えていた(2p106)。そして、第三高等学校の学生のときに『静坐法』を開発した憧れの岡田虎二郎(1872〜1920年)氏に会えたが、今でも思想の中心に枠組みを作っている(2p108)

 明治時代の文豪、高山樗牛(たかやま ちょぎゅう, 1871〜1902年)は30代で日本最高のジャーナリストとなり、京大の教授にもなるはずの天才だった(2p183)。東大の学生のときに雑誌『太陽』に次々と論文を出していた(2p107)。けれども、肺病で早く死ぬ(2p107,2p183)。その娘が今日で言う鬱病にかかった。これを治したのが、岡田虎二郎であった。岡田はただ座っているだけで治した。ただ静座しているだけで身体からやわらかい愛のような香りがいつも漂っていた(2p183)

 佐保田博士は、先生からは宗教的な愛を感じたという(4p102)。そして、それまで聖書を退屈な書物だと考えていたが、岡田氏に会ってから宗教的なことに興味を持つようになり、聖書が面白く読めるようになってきた(2p110)。聖書の後で『論語』も読んでみたが、これも非常に面白い(2p111)

 偉大な宗教家は、その人と接するだけで、あるいは、その人と一緒に座るだけで人格の一番深いものが引き出されてくる。その人自身の存在が心の根底から振動を与える。岡田寅二郎はそうした人物であった(2p110)。こうした宗教的な愛がある人が一人いれば、周りの人は皆、幸せになる(4p103)

ヨーガは宇宙意識に近づくこと

2016011703bucke.jpg 米国の心理学者リチャード・モーリス・バック(Richard Maurice Bucke, 1837〜1902年)によれば、宇宙意識(Cosmic Consciousness)に近づくと次のような変化が見られるという。

 @ 光のイメージが目をつぶっていても見えてくる

 A 無理に腹を立てなくするのは偽善者だが、自然に腹が立たなくなり、道徳的に不道徳なことができなくなる

 B 智慧が表れてくる

 C 生の不滅を感じ、死への恐怖がなくなる(1p165)

 D 罪悪感が消える

 E 霊的に目覚め回心が得られる(1p166)

 F 他人から見てもその人が変化している(1p167)

自分の内なる宗教性を目覚めさせることがヨーガの目的

 人間の心の働きの中で一番深いところにあるのは、宗教的な働きである(2p155)。人間にとって最後の力になりうるものは宗教である。宗教がなければ人は最後の力を失ってしまう(2p143)。本当の宗教を持った人は自分の一番に底にある力を発揮できる(2p144)

2016011704池見.jpg したがって、人間が持つ可能性のうち、最も貴重なものは宗教性である。宗教的な素質まで開発できた人は、この世に生まれた最高の目的を達成した人と言える(1p120)。九州大学の池見酉次郎(1915〜1999年)博士によれば、人間の内側には非常に立派な価値あるものがある。それが表面にでてくることを自我実現、セルフ・リアリゼーションと呼ぶが、それが人生で最も大きな目的なのである(2p98)。すなわち、自分の内側にある神様を表面化することが本当の宗教の特徴である(2p146)。

 ヨーガの目的も、この自分の内側にある神様をだんだんと浄めていくことにある(3p11)。そこで、そして、ヨーガをしていると人間の心の中に宗教性が出て宗教的になってくる(1p125,4p98)。ここでいう宗教とは、念仏を唱えたりすることではなく、自分の心の一番深いところにある神様を呼び覚まし目覚めさせることにある(2p155)

 すべての生物の中心には神があり、それをリアライズする。その思想がインドでは紀元前7〜8世紀にはできていた(3p165)。けれども、これは瞑想以外にはできない(2p155)。そして、ハタ・ヨーガはそのひとつの手段である。すなわち、体操の中に瞑想が入っていると言える(2p156)

どのような宗教も、立派な宗教であれば、最終的にはキリスト教で言うような愛が湧いてくる(4p205)。それを目的としないものは、宗教という名前がついていても偽物である(3p12)。したがって、自分だけがよくなるためにヨーガをやるのは、ヨーガの精神に反する。ヨーガは人のため、人を幸せにするために行なうのである(3p132)

ヨーガが充実するとフローライフ「預流果」が誕生する

 さらに、ヨーガを4、5年やっていると、自分の感情や欲望に支配されず、自分がやるべきことがはっきりと見え、それをやっていくようになっていく(3p93)。幸せ感が出て、人間が生まれてくる意味がわかってくる(4p29)

そして、心と身体が健康なだけでなく、それ以上のものが出てくる。例えば、色々なことをするのに向こうから条件が整ってくるツキが出てくる。人生がだんだんと楽になってくる(3p46)

 船やイカダでガンジス河の中ほどの川の流れに乗るところまでいくと、後はほっておいても自然に流れていく。ヨーガを続けていくとこうした状態になる(2p186)。川の真ん中の流れのように人生をおくれる。これを原始仏教では「預流果」といった(2p186,3p74)。なぜ、そうなのか。これは、科学では説明できないが、それは、科学がまだ不十分だからである(3p45)

【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院

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2016年01月17日

佐保田鶴治のヨーガ禅 ハタ・ヨーガ@

はじめに

 佐保田01.jpg佐保田鶴治(1899〜1986年)の著作のまとめを紹介する。1988年といまから28年も前に購入した著作だが、改めて読み直してみるとヨーガと仏教の理解に非常に役立つことがわかったからだ。日本に始めて正統的なヨーガを導入したことで知られ、日本ヨーガ禅道友会の創設者として、没後16年を経た現在でも多くの教え子たちの手によって継承されているという(5)。「ヨーガ禅」を提唱し、ヨーガが健康体操ではなく宗教であり、かつ、仏教の禅とも重なるという点でも興味深い。反省も込めて、佐保田博士の著作をまとめておく。

インド人からヨーガを教わることで健康になる

 佐保田博士は、1899年に福井に生まれ、第三高等学校を経て、1922年に京都帝国大学文学部哲学科卒業。その後、立命館大学、大阪大学で30数年間教授生活を送るが、若い頃から虚弱体質で、第三高等学校時代には結核にもなった(4p6,4p96)。その後も、あらゆる健康法を試してみたが効果がなく満足な健康感を味わったことがなかった(1p161,4p7,4p96)

 佐保田博士は61歳の時に京大図書館で英語で書かれたヨーガのテキスト見つけ、それを元に独習する。頭で立てるようにもなったが効果がなかった(4p7,4p97)。しかし、大学を退官する前年、62歳の夏にクリヤンという素人のインドからの留学生にヨーガのやり方の手ほどきを受け、試みてみると効果があった(1p161,3p164,4p7,4p97)。それまでは、70歳までしか生きられないと思っていたのに、65歳の時にはいままでにはない爽快感を覚え、70歳になると50歳に若返るような気がしてきた。そこで、健康になった佐保田に周囲が関心を持ち(4p8)、それ以降、88歳で世を去るまでヨーガを広めることになるのである(5)

 1967年69歳ではインドに4ヶ月ほど滞在してヨーガ道場を訪ねたり、いろんな人の意見を聞いた。1973年75歳ではにはヨーガ道場を作り宗教法人にした(4p11)。1974年の正月にはインド南部のポンディチェリーにあるシュリ・オーロビンド・ゴーシュ(Sri Aurobindo Ghose , 1872〜1950年)のアシュラムで瞑想をした。その後継者であったマザーこと、ミラ・アルファサ(Mirra Alfassa,1878〜1973年)の墓の前で瞑想をして気持ちよかったと語る(3p7)。その後も80歳をすぎてからNHKのヨーガ番組に出演し、80歳すぎでレギュラーとなったのは初めてだといわれたりしている(3p126)。佐保田博士は、神様の命令によってヨーガを広めているのだと語っている(4p9)

自律神経を整えるためのハタ・ヨーガの四原則

 我流のヨーガには、効果がなかったのに、インド人から教わったヨーガにはなぜ効果があったのだろうか。佐保田博士は、形は同じでもやり方が違っていた。四つの原則を踏まえたところ、効果があったという(4p97)

 @ できるだけゆっくりやる。

 A 呼吸と動作を結びつける。

 B 意識と動作を結びつける

 C 緊張よりも弛緩の方を重視する

 この4条件が守られなければ何年やっても期待する効果は得られない(1p146,1p149,3p159,4p176,4p191)。例えば、シャバ・アーサナは13分以上続けないと役に立たないという人もいるほどである(1p146)。また、ひとつのポーズを20秒から1分、呼吸をしながら持続することは普通の体操にはない(4p177)。インドにも普通の体操はあり、「ヴィヤーヤーマ」といわれている(4p176)

 けれども、普通の体操とヨーガの目的は正反対である(4p95)。普通の体操は筋肉を鍛錬するため緊張の方が主だが、ヨーガは身体を緩めるために緊張するのである(4p95,4p191)。例えば、インドの本にはコブラのポーズで反ったときには「背の緊張が首から尾骶骨にまで伝わることを考えながら行なう」と書かれている。運動神経だけでなく、身体を動かすことで起きた興奮、「気持ちよい」とか「痛い」とかが頭に戻る知覚神経の興奮をじっくりと味わうのがアーサナなのである(4p181)

瞑想のための準備として誕生したハタ・ヨーガ

 ヨーガは歴史的には紀元前5〜6世紀にはひとつの行法として成立しているが、最初のヨーガはディヤーナ、瞑想を中心としたラージャ・ヨーガであった(1p115,1p149)

 その後、10世紀に呼吸とアーサナを中心としたハタ・ヨーガが成立する(1p149)。人里離れた山奥で一日何十時間も座ったままで瞑想するためには健康でなければならない(1p150)。日本の禅宗の僧侶も若いときから猛烈に修行したひとはたいがい結核にかかって若死にしてしまう(1p118,1p150)。このため、ハタ・ヨーガが作られた(1p118,1p150)。すなわち、ハタ・ヨーガはラージャ・ヨーガの準備とされていて(1p124,1p150,1p154,4p99)、本来の教育を受ける準備として幼稚園にはいったようなものである(4p99)

 けれども、瞑想だけで解脱するにはかなりの才能が必要でたいがい失敗する(1p150)。一般に心を変えるため、言葉を使って知性に訴え、納得させることで生活を変えようとしてもほとんどの場合成功しない(1p162)。人からいい話を聞いたり、聖書を読んだりするだけでスパッと変われる人は千人に一人もいない(3p68,4p99)。坐るだけで瞑想ができる人は本当に偉い人で凡人にはできにくい。初心者は身体を動かしながら瞑想をした方がよい(4p178)。頭から入ったものはすぐに抜けていくが身体から入ったものは身体が覚えてしまうために抜けない(3p75)。そこで、ハタ・ヨーガを発明したゴーラクシャ・ナータ(Gorakshanath)は、ヴェーダーンタにも精通していたが(4p86)、普通の人でもやれることを考えた(4p87)

ハタ・ヨーガは宗教であって健康体操ではない

 日本人は、ヨーガを単なる美容体操や健康体操と考えるが、ヨーガは宗教である(1p114)。健康になるとか、美人になるとかだけをモットーとしているヨーガ教室はいかがわしい(3p69)。ハタ・ヨーガのアーサナは、体操ではなく、実は座禅なのである(4p176)

 ハタ・ヨーガもヴェーダーンタの思想を基礎としているため、三昧の境地に達することを目的としている(4p85)。そして、ハタ・ヨーガだけでも悟りに近いところに行けると書いてある(4p100)。体操だけで宗教的な悟りにまでいけるのかと佐保田博士は非常に驚いた(4p100)。世界の宗教の中で体操を取り入れているのはヨーガだけであろう(2p39)。すなわち、ハタ・ヨーガが身体の重要性に気づいたことは大変に偉大な仕事といえる(2p40)。肉体を使うことで宗教性を開発できると気づいたことが重要なのである(1p120)。ハタ・ヨーガは健康になったり美容のためではなく、宇宙に偏在する神と自分の身体を通じて心を通じさせることなのである(4p142)

身体を重視するのはヨーガだけ

 キリスト教は身体と心のうち、心を重んじて身体を軽蔑する。つまり、身体に対する認識が足りない(2p39)。儒教では「知行合一」とし、仏教では「行学ニ道」と述べて来た(2p12)。仏教は身体を軽蔑したりはせず、両方を同等に見ている。とはいえ、とくに身体に注意することはない(2p40)

 例えば、禅の修業では、調身、調息、調心の三つがあげられているが、実際には調心と瞑想だけが行なわれ、調身と調息の方法は放置されている。ヨーガでは調身にあたる体操、調息にあたる呼吸法が瞑想とともに三位一体で溶け合っている(3p154,4p95)。したがって、肉体と感情と頭をよくするのにはヨーガが最も優れている(2p13)

 ハタ・ヨーガはまず、身体を整え、呼吸によって神経を整え、さらに、心を整える(1p140)。すなわち、精神面ではなく生理面から心を整えていく(1p151)。このため、自律神経を調和させることがポイントとなる(1p151,4p96)

道元禅師も身体の重要性を指摘している

 道元禅師(1200〜1253年)が語った言葉を弟子の孤雲懐奘(こうんえじょう, 1198〜1280年)が記録した『正法眼蔵隋聞記』では、道元は「人間は心で悟るのではなく身体で悟るのだ」と述べている。言葉や心を使って悟ったのではなく、身体を使って悟ったと道元も言っているのである(1p120)。けれども、いま、禅宗の僧侶に身体の使い方を聞いてもわからない。そこで、佐保田博士は禅からこの伝統がなくなったのだと考えている(1p121)

小食が大切だが、ヨーガは断食を勧めていない

 意外なことだが断食はヨーガでは禁止事項になっている(2p52)。断食はうまくすれば非常に良い効果がある。けれども、ヨーガとは無関係なのである(2p53)。ヨーガが重視するのは節食である(2p52,2p53)

 取り入れたものを全部消化できれば健康になるが、あまった栄養は身体を害するからである(2p53)。たくさん栄養を取ったからといってスタミナが出てくるわけではない(2p56)。動物性のものは植物性のものの半分以下にし(4p196)、空腹感があってから食べる。そして、腹がいっぱいにならない、満腹感が起こらないうちに腹八分目で止める。これが健康を維持するための秘訣である(2p54,2p57,4p196)。玄米を食べ、野菜を食べていると便の太さも変わってくる(4p185)。そして、栄養を消化するためには酸素も必要である(2p56)。そして、ヨーガの体操は酸素の心身代謝を非常に高める(2p57)

ハタ・ヨーガをやれば健康になり癌にもかからない

 ヨーガを続けると、身体が非常に軽快になって病気をせず、風邪もひかず(4p197)、姿勢がよくなり血色もよく、脂肪が減って動作がなめらかになる(1p162,4p197)。20歳からヨーガを始めれば、50歳になっても普通の人の35歳、60歳になっても40歳くらいである(2p184)。65〜70歳で恍惚の人になってしまうのは病気であって、ヨーガをやっていれば、90歳までは持つ。それもさほど人様に迷惑をかけることはない(1p129)。お釈迦様も病で死んだため、人間は死ぬ。けれども、癌は悲惨な死に方である。けれども、インドのヨーガの文献を読むと癌が治ったという実例もたくさんある(3p123)。ハタ・ヨーガがうまくできれば癌なにかにはかからない(4p96)。ヨーガの真髄を極めれば癌になっても直ることができると佐保田博士は考えている(4p176)

 そもそも、健康とはなにか。人間は絶えず外界から病気の原因に脅かされている(3p195)。瞬間、瞬間、外からもたらされる死の原因を打ち伏せている。これが、健康な状態といえる。すなわち、内外から押し寄せる死に対抗してそれを打ち伏せる力が絶え間なく働いている。そして、この力が弱まると死の原因となる力が相対的に強くなり病に伏せることになる(3p196)


 そして、ヨーガも太極拳と同じで「気」が大切である(3p63)。ハタ・ヨーガはみかけは体操だが、身体のプラーナを養う方法ある(3p110)。そして、ハタ・ヨーガで心と身体とが調和した状態となると、生命エネルギーである「生気(プラーナ)」が入りやすい状態となる(4p181)

本当の健康とは心も健康であること

  WHOによれば、健康とは病気でないだけでなく、何事にも前向きの姿勢で取り組む意欲の状態だとしている。引っ込み事案で社会的な適応性がない人は本当に健康とはいえない(2p153)。けれども、精神科医が医薬品を用い、精神分析等のカウンセリングを行なったとしても、80%しか健康は回復しない(2p154)

 健康とはもりもりとした健康感があり、社会的に活躍し、家庭でも機嫌が良く家族に対して優しく、生きがいを感じるところまでいかないと本当に健康とはいえない(1p123,2p154)。そこで、残りの20%の最後の部分はヨーガしかないと多くの精神科医が認めている(2p154)

ハタ・ヨーガは幸せな人生を作る

 精神と肉体とのバランスが取れ、食事もバランスが取れ、生活全体で調和した状態が持続する(3p44)。そして、毎日ヨーガを続けていると、ヨーガ的なライフ・スタイルができてくる(3p49)。ヨーガをやる以上は、ライフ・スタイルが変わるところまでやらなければいけない(3p44)。すなわち、身体を健康とし、精神を安定させ(1p104,1p154)、それによって幸せな人生を作るものである(1p154)

【引用文献】
(1) 佐保田鶴治『般若心経の真実』(1982)人文書院
(2) 佐保田鶴治『ヨーガ禅道話』(1982)人文書院
(3) 佐保田鶴治『続ヨーガ禅道話』(1983)人文書院
(4) 佐保田鶴治『八十八歳を生きる』(1986)人文書院
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2015年06月26日

第19講 想念が現実を作る

はじめに

19 Chidananda.jpg このブログ「幸せ探偵」は、経済成長に依拠しない国家や社会の有り様を、個人レベルの「幸せ」という切り口から捉え直してみたいと思っている。第18講では思考のパワーを探ってみた。ネガティブ思考の問題については、第3講 ネガティブ思考とレジリアンスでも扱ったが、ことネガティブ思考の取り扱いに関しては、インドのヨーガ思想をおいて右に出るものはないであろう。ということで、23年も前に一度読んだ「ヨーガといのちの科学」を読み直してみた。スワミ・チダナンダジ(Swami Chidananda, 1916 〜2008年)は、スワミは2008年8月28日に92歳で入滅されたのだが、慈愛に満ちた言葉は、まさに「幸せな心のための科学」というにふさわしい。以下は、スワミが1988年に来日されたときの講和をまとめた著作の要旨である。

マネーとモノでは人は幸せになれない

 何が好きかと聞かれて、不幸や悲しみや苦しみが好きだという人は誰もいない。不幸や苦しみを求めている人は誰もいない。ただし、問題がある。幸せになるために、誰もが一生懸命、マネーを稼いでいることだ。マネーがあれば、自分の欲望を満たしてくれるモノが買える。そこで、幸せになれる手段になると考えているのである(p167)

 目標をもって生きるのはいい。けれども、教授になる、医学博士になる、あるいは、大金持ちになる、実業家になることが、果たして人間の最終目標なのだろうか。どのような種類の職業に就いたとしても、できればより楽に贅沢に暮らしたいという欲望から来ているとすれば、それで満足できるのであろうか(p81)。何かに頼ることは最終的に悲しみや痛みの原因になってしまう(p171)

エゴによる悲しみと恐怖が社会問題の根底にある

 人間の最も弱いところは私利私欲である(p164)。利己主義の人は、利己的な考えに自分が縛られ、スケールの小さい不幸で面白くない人生を送ることになってしまう。わがままであってもいけない。わがままは無知からもたらされる。そして、意識を心の小さなところへと押し込め、エゴ的にしてしまう。わがままな人が持つ幸せや喜びは小さく取るにたらないものでしかない(p169)

 そして、エゴが大きくなり、自分が中心になるほど、なぜか怒りがこみ上げ、悲しみも増えていく。これは非常に危険だ(p59)。矮小な人間となると欲望に走り、憎しみが起こり、嫉妬し、自己中心的になっていく。すると恐怖心が湧き、不安定な心の状態に圧倒され、自分が創り出した問題の蜘蛛の巣に閉じ込められ、他人にも迷惑をかけはじめる。世界中に大きな戦争や暴力が引き起こされていく。これが現在、社会に様々な問題を引き起こしている根本原因である(p37)

 ヨガを通じて奇跡的な力を得ることもできる。けれども、それは個人的なエゴを満たすにすぎない。不可思議な力を得たヨギは個人のエゴが強くなり、そのエゴの巣の中に自分自身を縛りつけることになる。神を求めないヨガは、家が留守のような空虚なヨガになってしまう(p39)

真実の本質とつながることが究極の幸せ

 要するに、人間には利己的なところがある。また、他人をいじめたり傷つけたりして喜ぶ性質もある。けれども、美しい歓びに惹かれる性質もある。つまり、三つの性質を持っている。このため、ブラフマンは、自己統制し、寛容であれ、他に尽くせとアドバイスをした(p164)

 そして、人間の心の奥底には純粋な歓び、平和を望んでやまない本質がある(p170)。普通に生活している以外の、ただそこに存在している状態だけを意識する状態がある。それが、あなたの真実の姿なのである。いま、経験している過去、現在、未来を超越したあなたが、最も基本となるあなたなのだ(P183)。超自然的な宇宙の存在を知り、それとつながることが究極の幸せなのである(p127)

ハタヨーガで健康になる

 健康は一番大切な富である。ハタヨガは他に類を見ない科学的なアプローチの方法である(p17)。脳からは脊髄が伸び、脊髄からは自律神経が横に広がっている。昔のヨギは脊髄が通っている脊椎が柔軟で健康であることが重要であることをしっていた。そこで、ヨガのアーサナでは自律神経網を健康にしておくため、脊椎を中心とした前かがみ、後ろへの反り、そして、ねじりのポーズを重視している(p45)

 また、各臓器から分泌されるリンパ液や胆汁、消化液等の内分泌活動も健康には欠かせない。ヨガのアーサナを行うと、身体の適切な場所にプラーナを送り込まれ、正常化する(p46)

 肉体と心はつながっている。そこで、アーサナを通じて肉体が整えば、プラーナ(気)も安定し、プラーナが安定すれば心も安定する。心理的な安定した状態が得られるのである(p41)。ある容器に水を入れ、水面の真ん中にバラの花を一本置いてみよう。入れ物が動いていなければ水もバラも静かだ。けれども、入れ物をゆり動かせば水もバラも動く。容器はあなたの肉体、バラはあなたの心だ。そして、水は身体の中にあるプラーナ、気だ。すなわち、身体が静かであれば、心も平衡を保って静かなのである(p43)。けれども、健康になって五感を楽しむのは消極的な目的である(p35)。幸せになるためには、五感が楽しむことを控えなければならない(p168)。そして、健康になる目的は他者に対して何か有益な奉仕をするためのものである(p35)

パタンジャリのヨガ

 ラージャ・ヨガは、紀元前2世紀にパタンジャリ・マハリシによって提唱されたものである。パタンジャリ・ヨガは、8部門に分かれることから、アシタンガ・ヨガ(八つのヨガ)とも言われる(p32〜33)

 パタンジャリは、ヨガの第一歩として、ヤマ(悪いことをしない)、第二段階としてニヤマ(良いことをする)を提案した。ヤマとは

 @人を傷つけない
 A嘘をつかない
 B考え方を浄化する
 C欲張らない
 D人生をシンプルにする

 この原則を守るだけでかなり理想的な人間になれる(p20〜21)

人は必ず死ぬ〜今日一日を大切に生きる

 インドのベーダンタ思想からすると人生は四段階にわかれる。

 第一は、学生時代。人生に対して自分の肉体的、精神的にトレーニングしていく時期である。

 第二は、修得した知識を最大限に生かして大人として周囲のために尽くしていく時期である。

 第三は、現職から離れ、知識や経験をさらに豊富にしていく時期である。第三の時期では、家庭や社会の義務が終わり、自己をなくして社会のためにすべてを捧げる時期である。

 第四は、水平線の向こうに一日の太陽が沈みかけている時期に似ている。すべての仕事から引退し、すべての社会的な責任を果たして、より深い精神的な祈りと神への近づきを個人として求める修行の時期である。夕焼けを待ちながら沈んでいく太陽と同じく、人生の終わりに向けて静かに神とともにある日々を過ごす(p53〜54)

 今日はあなたの人生にとっての一部だ。けれども、人生とは今日という日がずっと連続してできている。過去はひとつの記憶にすぎない。過去のことを云々しても何事も起こらない。それはもう存在しない。では未来とはなにか。未来とは自分の心の中にある期待にすぎない(p147)。だから、今日こそが最も大事な日なのである。そして、今日一日を大切に過ごせば、明日もうまく素晴らしい日になっていく(p148)

 人間は、この地球上に産まれ、いつの日にか去っていく。すべての人類はこの地球の巡礼者なのである(p130)。この地球上での滞在時間は限られている。その考えも行動も限ら時間の中で行わなければならない(p133)。死は確実なものだ。死は突然にやってくる。いつお呼びがくるかまったくわからない。つまり、そんなにのんびりしている時間はない。やりたい、やらなければならないと思うことは死が訪れるまでに成し遂げなければならない(p83,p219)。そして、いつか死が訪れることを念頭から離さなければ、すべてのことにあまりこだわったり執着しなくなる。いつも死を頭の中においておけば死は怖くなくなる(p220)

理想的な毎日の送り方

 第一は、良い人とつきあうこと、間違っている友人を避けることだ(p19,p87)。世の中の人は大きく4タイプに分けられる。ヨガはタイプに応じたつきあい方を提案している。

 @自分よりも地位、権利、マネー等で上の人
 A自分と同じくらいの人
 B自分よりも年齢、知識、権利等で下の人
 Cトラブルメーカー

  自分よりも上の人とのつきあいは神経質にする。上の人に対しても惑わされないようにしてほしい。自分よりも下の人に対しては、思いやりと同情心をもって接 すること。貧しい人や教育のない人には常に親切で思いやり深くあれば、心は平安である。逆に下の人に対いて利己的に高圧的に押さえつけると相手もイライラ して自分もイライラしてくる。同じ立場の人には嫉妬心がわく。競争心もでる。そこで、友情心をもって接して欲しい。最後の人は、君子危うきに近寄らず。な るべく無視するか、煩わされたり巻き込まれないようにすることだ。嫌だなという想いで見ているとその人の邪念が自分の心にも入ってくる。そして、神に「あ の人をいい人にしてください」と祈り、もう忘れてしまうのが一番いい方法である(p223〜225)。

 第二は、高い魂について書かれている本や経典を読むことだ(p19,p87)。多くの聖典を読めば、何が正しいのかが見分けが付くようになる(P244〜245)

 第三は、高貴な精神状態を作る修行の時間を持つことだ(p87)。これをスワディヤという。祈りは心を浄化するために非常に大切なものだ(p88)。すなわち、ハタヨガを行い、何か経典を読み、自分の中からネガティブなものを取り去る。神に祈り、瞑想する生活をするとよい(p94,p222)。ちなみに、マントラは古代の指導者たちが考え出したものではない。瞑想中に神から呼びかけられて感じた音である。したがって、マントラを唱えることで神に至ることができる。これを『ジャパヨガ』という(p122)

悲しみがあることを認めてあきらめて生きる

 人は人生での経験のひとつひとつが意味がないように思っている。けれども、そうではない(p62)。例えば、大変な苦しみにさいなまれる悲惨を持つことから、他人に対する同情心や優しさや愛を成長させていく。自分が体験しなければ、他人がどれだけ苦痛なのかつらいのかわからないではないか(p79)。人間が他の動物よりも優れているユニークな点は、他人の痛みを感じ、他人の役に立とうと考え行動できることである(p69)

 この現実の世の中には必ず悲しみや苦しみがつきまとうことを認めよう。そうすれば、それに対して期待や希望をもたなくなる。欲望につかまってもがくことも五感の奴隷になることもなくなる(p220)

エゴをなくし人のために尽くす

 人に暴力を振るうことはいけない。他人に対してしたことは必ずあなたに戻ってくるからだ(p168)。そこで、自分はエゴ的でなくても、周囲の人のエゴには寛大であってほしい。他人のエゴを嫌って攻撃すれば、その分、あなたのエゴは増えていく。逆に他人のエゴに対して寛大であればあるほど、あなたのエゴは減っていく。エゴのない奉仕がどれだけ大切かを自覚することだ(p247)。そして、意志力をもって質素な規則正しい生活をしていると、心のなかに「善」が起きてくる(p64)。自分をなくして人のために働くことが最も人間の美しい姿である(p169)

思考パターンは習慣の産物

 我々は毎日、50くらいの事柄についての考えを馳せている。そして、いつも周囲にあるものに気を取られて生きている(p14)。心とは、思想と感情と記憶からなっているが(p86)、ある考え方を繰り返ししていると、それがその人の思考パターンとなる。繰り返された考えは、次には行動となって繰り返し現れるようになる。これを繰り返すと、それが習慣化し、そのものが性格となり生き方となる(p18〜19)。自分が考えた世界が自分が見ている世界となる。そして、自分の考えの質があなたを作る。あなたの性格はすべてあなたが造ったものだ(p88)。すなわち、朝から晩までどのような質の思考を行うかどうかが、発する言葉や行動として現れてくる。私の行動は私の思考と感情から作られている。したがって、どのような「質」の「思考」を行うかが、どのような「質」の「行為」を行うかの結果となる(p149)

人間にはポジティブとネガティブ思考がある

 さて、ヨガは人間を心理的に観察することから、人間は一定方向に考える癖があることを発見した(p86)。あなたの心の中には二つの考えがある。正しいポジティブな方向に向かうものとネガティブな方向に向かうものだ(p85)。そこで、心を常に観察して、どちらの方向に向かっているのかを認識することが大事である(p86)。もし、ポジティブな方向に向かっていればそれを広げ、間違った方向に向かっていれば、大急ぎで捉まえて手前に引き戻し、良い方向に移し変えることが必要である(p85)。内的な心のトレーニングを行い、常に正しい考え方をすることが必要である(p18〜19)。心は微細で外に出てこないものだ。けれども、二つ目の心、心をつかんでもとに戻せばいい。この心の中にある力をブッディと呼ぶ(p175)。心の中に住んでいる古い習慣を捨てなければいけない。何が心を休ませず活動をさせ続けるのかの原因を探らなければならない。この実践をアッビアサと言う。そして、心を煽り立てるものを取り除いていくことをバイラニヤと言う(p174)

 前に述べたように、外に表れる行為のすべては、心の内側にあるものが表面化したものである。したがって、心の中から誤ったが考えが湧き出て心を占拠して続けると行為も間違った方向に進んでいく。心のマスターになることが必要なのである(p172)。ブッダは「自分の内側を制覇したものが一番偉大な勝利者だ」と語ったのもそのためである(p129,p172)。怒り、恐怖、エゴといった感情的なものはすべて思考から生じる。このため、湧き起こる想念、思考を停止し、自分のことを静める。パタンジャリは、これがヨーガであるとした(p32〜33)

 いったい、誰が他人の心を監視してくれるであろうか。この作業は自分自身でやるしかない(p86)。バガバット・ギータで、アルジュナが「心をコントロールすることは無理だ」といったときも、クリシュナ神は「忍耐強く自分の心に言ってきかせる。地道な努力を続けよ。そうすれば可能だ」と述べた(p173)。この作業が未来を変える(p85)

人間の構造と産まれてくる理由

 人間は5つの鞘(コーシャ)に包まれている(p91)。これは、2000年以上も前に書かれた『ヨーガ・スートラ』よりもさらに古く4000年以上も前に書かれたヨーガの思想の源『ウパニシャットの聖典』に登場する概念である(2,3)

 名 前鞘の種類内 容改善方法
第一鞘アンナ・マヤ・コーシャAnnamayakosya食物鞘一番粗雑なレベル。食物(アンナ)から出来ている肉体食養、アーサナ
第二鞘プラーナ・マヤ・コーシャPranamayakosya生気鞘生命エネルギー、プラーナからできている呼吸法(プラーナヤマ)
第三鞘マナス・マヤ・コーシャManomayakosya意志鞘思考、欲望、感覚等心(マインド・マナス)からできていて外界への五感情報によってコロコロと変化するモンキーマインド集中法(プラティアハーラ、ダラーナ)
第四鞘ヴィジナーナ・マヤ・コーシャVijinanamayakosya理智鞘記憶を用いて心を分析したり判断する。自我瞑想法(ディヤーナ)
第五鞘アーナンダ・マヤ・コーシャAnandamayakosya歓喜鞘至福の鞘。自我を越えて無限の宇宙とつながる魂。さとりの境地三昧(サマーディ)

(1p91〜94,2,3)

プラーナについて

 この宇宙は大変に粗雑なタマス、活動的でイライラしたラジャス、繊細なサットバの三つのグナから形成されている。この三つを超えたものがニルバーナ、悟りである(p120)

 また、霊的、魂のレベルで見ると、人間は、粗雑なグロス体(肉体)、目には見えない繊細なプラーナからなるサトル体(精妙体)、分子や電子よりもさらにさらに小さいコーサル体(原因体)から出来ている(p89,p157,p244)

 我々の身体の中には隠された力が眠っている。けれども、精細な力、プラーナを使わなければこの力を開くことはできない(p152)。プラーナは、プラーナ層、メンタル層、インテレクト層からなっている(p89)。そして、プラーナは二つのチャンネルを通じて働いている。一つが左側、月、もうひとつは右側、日を通っている。そこで、これを「ハ」片方を「タ」と呼ぶ。両方の力を合一させることが「ハタ・ヨーガ」となる。そして、下部の力がすべての階層を突き破って上昇していく。これをクンダリーニでチャクラを開くという(p152)。チャクラは、どのヨガをしても、心が純化して、落ち着いた状態、サットバになれば、目覚めるときには自動的に目覚める。チャクラを目覚めさせるために無理に瞑想することは薦められない(p154)

コーザル体について

 我々の心は自分が作り上げてきた過去のカルマに縛られている(p83)。こうした繊細なカルマによって現在を左右する傾向が産まれる。これをヴァーサナと呼ぶ。この隠れていて目に見えていない部分がいまのあなたを作り上げている(p89)。また、コーザル体は何千何万という種子から出来ているが(p244)、この種子の中に、以前の経験やその経験を通じて残された印象、サムスカーラが刻み込まれている。この印象が自分の考えの中にひとつの思想を作っている(p89〜90,p244)

 サムスカーラはさほど力を持っていないが、ヴァーサナは、過去からのカルマとして働きかける力が大きい(p89〜90)。人間は死ぬと、サトル体とコーザル体を乗せて宇宙に戻るが、コーザル体にはまだやり残しやり遂げられていない多くの要素、やり残したことをしたいという愛着心が残されている。このもう一度生まれ変わる原因を作ることから、コーサル体と呼ばれている(P244〜245)。要するに、過去から残された印象、体験のカルマ、満たされなかった欲望がもとに、人はそれぞれの使命を果たすために、人間は生まれてくる(p90, p125)。自己中心的な行動から抜け出て他人に尽くすこと。質素な生活を送り、他者に対して謙虚さを保つこと(p59)。より高い自己を目指して進化していくこと。それが人生の目的であり、何度も輪廻転生する理由なのである(p61)

【引用文献】
(1) スワミ・チダナンダ『ヨガといのちの科学』(1992)東宣出版
(2) 島田美映『パンチャコーシャ〜5つの鞘〜 』Yoga Room Luxury
(3) 上野玄春『第1章 ヨーガとは何か』生命の輝きを描き続ける

チダナンダジの画像はこのサイトから
posted by la semilla de la fortuna at 22:17| Comment(0) | ヨーガの科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする