2015年07月20日

第29講チベット仏教の幸せ論(2)

ネガティブ感情をなくすにはネガティブさを観察する

 メンタル・イメージは苦痛を変えるのに有効だが、仏教にもイメージを使って苦痛を消去する手法が古来から伝わっている。光り輝く聖なる命の水が痛みの中心部に染み込んでいって身体全体に浸透し、痛みが消滅し、次第に幸福感に変わっていくことを思いに描くイメージ法である(p96)

 第二は、ネガティブな感情が湧きあがってきたら、苦痛をもたらす出来事をくよくよと考えず、その感情そのものを熟視することである。するとその感情は太陽光線にあたって溶ける雪のように次第に溶け始める。感情のエネルギーが弱まれば、悲劇的に見えていた苦しみの原因がさして悲惨なものではないことが見え始め、ネガティブな思考の悪循環から抜け出せる(p130)

利他の心を持つとネガティブな感情が消えていく

 第二は、他者に対する思いやりを深めるアプローチである(p97)。自分が苦しいときに他人の苦しみに思いをはせることなどありえないし、自分の苦痛が増えるだけだと思われるかもしれない。けれども、自分のことに夢中になってまわりのことに無関心な状態になっていると、心は傷つきやすく、無力感や不安、混乱などの感情に捉われやすくなっている。逆に他人の苦しみに対して深く共感できれば、無力感が有機に、憂鬱は愛に、独りよがりは周囲への心の開放へと変わっていく(p98)

 これには理由がある。心を内観しているとネガティブな感情が一時的な束の間の心の出来事にすぎないことがわかる。そして、それと背中合わせに存在するポジティブな感情によって抹消できることがわかる(p157)。すなわち、愛と憎しみの二つの心の状態は交互には生じても同時に共存できない。そこで、憎しみを抑制するのではなく、正反対の思いやりや愛に心を向けていると最終的には憎しみの感情が消えていく (p159)。利他の愛が心の中で習慣化されると憎悪の感情は次第に弱まり(p158)、究極的にはポジティブな感情となり、自分の苦痛はそれほど過酷なものとは感じなくなり、なぜ、こうしたひどい目に遭うのだろうかと苦々しい問いを繰り返すこともなくなるのである(p98)

ネガティブ感情をなくすだけでなくポジティブ感情を高めることも必要

04barbara fredrickson.jpg 1969年に心理学者、ノーマン・ブラッドバーン(Norman Bradburn)は、快と不快の感情が異なったメカニズムから発生しており、個別に研究する必要があると提案した。悲しみと憂鬱を取り去るだけで、自動的に歓びや幸せが保障されるわけではない。また、苦痛の抑圧は必ずしも快楽にはつながらない。すなわち、ネガティブな感情を除去するだけではだめで、ポジティブな感情を促進することも重要なのである。ノースカロライナ大学のバーバラ・フレドリクソン(Barbara Lee Fredrickson, 1964年〜)教授も、ポジティブな感情が重要だと指摘する(p148)

 さらに、一連の研究から利他主義と幸せとの間には相関があることが明らかになってきている。最も利他的な人間は、最高に幸せだと感じてもいる(p259)

 例えば、マーティン・セリグマン教授の研究から私欲がない親切によって生じる喜びが深い満足感を与えることが実証されている。友人と映画を見たりアイスクリーム・デザートを食べるといった満足感よりも、社会奉仕活動から得られる満足感のほうが高い(p260)

 人は幸せなときには他者に向けて心が開かれる。アンドリュー・ソロモンは『真昼の悪魔:うつの解剖学』で鬱病とは愛の欠陥であると指摘する。このことは、利己主義が苦しみの原因であり、利他的な愛が本当の幸せの主成分であるとの仏教的な視点と合致する(p259)。すなわち、他者に害を加えることを自制するだけでは不十分で、他者を助けようとする利他主義の実践でさらに強化されなければならないのである(p148)

慈悲の瞑想では脳のガンマ波が激増する

 深刻な精神病が脳の病的な状態に関係していることやある脳の部位を刺激すると強烈な快楽が生じることは判明していた。けれども、幸せと脳機能との関係についてはずっと謎に包まれていた。

 また、20年前までは神経科学者たちのほとんどがニューロンの新生はありえず老化とともにゆっくりと衰えるだけだと考えてきた(p238)

 けれども、研究の進展によって脳には可塑性があることが判明してきた。例えば、カリフォルニア州のソーク研究所でフレッド・ゲージ教授らは、刺激がない箱に入れられていたラットを回し車や探検用のトンネル、遊び仲間がいる広い檻に移すという実験を行なってみた。するとたった45日間で大脳側頭葉の海馬のニューロン新生率が15%も高まった。海乳とは珍しい経験を処理する脳の領域だが、高齢のラットの脳でも新生していることが明らかになった。また、スウェーデンのピーター・エリクソン博士らはラットと同じく人間の脳でも海馬でニューロンの新生が起こっていることを発見した。すなわち、脳の神経細胞は死ぬまで変化し続けるのである(p239)

26Francisco Varela.jpg フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela Garcia, 1946〜2001年)博士は「認知科学と仏教の瞑想者が共同研究に従事することが今後向かうべき進路である。そうすることは、人間の心に対する理解を深めるだけでなく、実際の科学的実験によって無限の可能性を汲み取ることができるだろう」と述べている。博士は米国の実業家アダム・エングルと共に、「心と命の研究所(Mind and Life Institute)」を設立し、一流の科学者とダライ・ラマ14世との対話を実現させた(p16)

 ダライ・ラマ14世は、1985年以降、継続されてきたと科学者との対話を行なっている。この対話シリーズの10回目として、2000年の秋に、フランシスコ・ヴァレラ、ポール・エクマン、リチャード・デビッドソンらとダライ・ラマ14世との討議がもたれた。この対話が契機となり20年以上も修行してきた人々を対象とした研究プロジェクトがたちあがる。

 そして、2004年に画期的なリポート「長期的瞑想の実践が脳に及ぼす影響の研究」が報告される。長年チベット仏教の瞑想を実践してきた12名がウィスコンシン・マディソン大学でリチャード・デビッドソン(Richard J. Davidson, 1951年)教授らの実験台となったのである(p240〜241)

 29meditation.jpg256ものセンサーを取り付け、脳波の変化を正確に記録し、機能的磁気共鳴画像診断装置(fMRI)によって脳の各領域での血流の状態を画像化する。その結果、熟練の瞑想者たちが「利他と愛の思いやり」の瞑想を行なったところ、かつて一度も報告されたことがないレベルでのガンマ波の劇増が見られた(p243)。さらに、瞑想修行者たちは瞑想をしていないときでもガンマ活動がかなり高い一方、瞑想の初心者は心の動きをコントロールできなかった(p244)

感情は独立した神経回路ではない

 怒りや嫉妬等の強い感情は、特定の認識や概念がなくても生じるとフロイトは考えた(p141)。けれども、感情とは脳内のいくつかの部位の機能が相互作用した結果現れる複雑な現象である。したがって、「幸せ」や「不幸」の場所を見出そうとすることは意味がない(p245)。感情系の神経回路は認知系の回路と完全に織り合わさっている。すなわち、感情は行為や思考と関連して生じるのであり、他と切り離しては存在しない(p141)

 仏教には様々な精神事象を表現する用語が豊富に存在する。けれども、感情そのものを表現する言葉はひとつもない。仏教では感情と思考を区別しない(p140)。すなわち、認知科学の脳と感情についての学説や見解は仏教の見方と一致する(p140,P141)

左脳=ポジティブ脳、右脳=ネガティブ脳

 感情という言葉はラテン語の「動く」を意味する言葉「emovera」が語源となっており、ポジティブでもネガティブでもない。とはいえ、仏教では、どのタイプの精神活動が自分や他者の健全性につながり、どのタイプが有害であるかに関心を向ける。そして、愛や憎悪等の感情性が高い状態は、破壊的な思考と一緒に結びついていると考える。心の平安を強化し、他者のためになることを求める感情をポジティブ、心の静穏を乱し、他者に害を加える意図があれば、それをネガティブな感情と言えよう(p141)

29Daniel Goleman.jpg さらに、リチャード・デビッドソン教授らの20年もの研究から、歓び、興味、熱意、エネルギー、利他の心といったポジティブな感情を持つ人は、大脳皮質の左前頭葉の活動が活発である一方、憂鬱、不安、悲観、引き篭もりといったネガティブな感情を持つ人は、右前頭葉の活動が大きいことがわかってきた。事故や病気で左前頭葉にダメージを受けた人が鬱病になりがちなのも、右前頭葉との活動バランスが崩れるからであろう(p245)。ダニエル・ゴールマン(Daniel Jay Goleman, 1946年)は、愉しい映画や心温まる映画の場面を見たり、過去の愉快な出来事を思い出すと一時的にも左前頭葉の活動が盛んとなり気分が高揚すると指摘する(p246)

 脳の活動は性格にも現れる。2歳半児400人を対象とした研究から、不安げに母親にまとわり続ける幼児は右側の活動が活発である一方、のびのびと安心して遊ぶ幼児は左側の活動が活発であることがわかっている(p246)

利他的な思いやりを持つと幸せになれる

29Richard Davidson.jpg それでは、ポジティブ脳と瞑想とはどのように関係するのだろうか。リチャード・デビッドソン教授は、思いやりの瞑想を毎日数時間も続けてきた老チベット僧の前頭葉の左右の違いを調べたところ、左側の活動が圧倒的に活発であることがわかった(p246)。さらに、思いやりの瞑想を始めると直ちに、左前頭葉の活動が活発化し、ネガティブな感情や不安の部位である右側の活動を押さえ込んでしまった。これは、利他的な人ほど人生で最も幸せ感を味わうという心理学的な研究が裏付けられたことを意味している(p247)

瞑想者は心の平安を保ち、利他的行動を行なえる

 驚きは最も原始的な人間の反射行動である。恐れ、怒り、悲しみ、嫌悪といったネガティブな感情が心を支配していると「驚愕反射」が大きい。ネガティブ感情が高い人ほど、たじろいたり、ひるんだりする(p250)

 驚愕反射は最も原始的な脳の部位、脳幹がコントロールしており、意識的・自律的には脳幹の活動はコントロールできないとされている(p250)

28Paul Ekman.jpg カリフォルニア大学サンフランシスコ校のポール・エクマン博士は、一人の瞑想者に対して耳元で爆裂音を聞かせるという実験を行なってみた。警察の選り抜きの狙撃の名手を含め、これまで100名の誰も驚愕反射を制御できなかった。けれども、瞑想者はできた。「驚愕反射を押さえ込める人体がこの世に存在するなど考えたこともなかった」とエクマン教授は言う(p251)

 瞑想者は@一点意識集中法とA心の全開法という2種類の瞑想を行い、いずれもマディソン研究所で調査したところ、心の全開法のほうが効果が高かった。

 瞑想者は「心が散漫であれば爆裂音によって突然に現在に引き戻されるために驚く。けれども、心が全開放状態に入ってしまえば、いまこの瞬間に完全にリラックスしているため、どのような轟音も鳥が空を横ビル程度のほんのわずかの妨げにしかならない。驚愕を積極的に制御しようという努力は必要ない」と語っている。

 瞑想者も、脈拍、発汗、血圧等の生理的なパラメーターは、驚愕反射に伴い標準的なレベルに上昇した。つまり、爆発音のショックに身体は反応した。けれども、感情には一切のインパクトを与えていない。2000年以上も前から瞑想修行の成果として記述されている「平静さ」とはこのことなのである(p252)

 行動学の研究でも、感情が高い人は他者の苦しみよりも、自分が感じる心の痛みや恐れ、不安の方により関心が高く、他人の苦しみに直面しても、それを和らげるためにはどうすればよいのかの関心が低いことがわかっている。一方、感情を抑圧せず、うまくコントロールしてバランスが取れる人は、他人の苦しみを目にして、無私の心を示せることが証明されている(p155,Pp265)

ポジティブ感情は生物の進化にも有利

 進化の角度から感情を研究する心理学者たちは、生殖や子孫保護、競争者との関係でそれが有利に機能するかどうかで感情が進化してきたと考えてきた(p143)。短期的に見れば、敵意、貪欲さ、恨み等のネガティブな感情も自分が欲したり惹かれたりするものを手に入れる助けになるため効果はある。怒りや嫉妬も種族保全の観点から利点がある。けれども、長期的にみれば、自分や他者の成長や発展が妨げられてしまう(p151)

 29Elliot Sober.jpg例えば、無私無欲な人間集団が利用される一方ですぐに消え去るのは、利己的で暴力的な人間集団とだけ接触する場合だけである。利己的な人間は仲間同士が互いに闘争しゆっくりと消えていく運命にある。一方、利他的な人間集団は相互協力すれば利己的な集団よりも進化論的に有利である。米国ウィスコンシン大学の科学哲学者のエリオット・ソーバー(Elliott Sober, 1948年〜)教授はこう説明する(p262)

利他主義には本物と偽者とがある

 利他主義という言葉は1830年に社会学者オーギュスト・コント(Auguste Comte, 1798〜1857年)によってエゴイズムの反対語として新造された(p265)。とはいえ、利他主義にはいくつかのタイプがある。社会心理学者ダニエル・バットソン(Daniel Batson, 1943年〜)カンザス大学名誉教授は、「偽の利他主義」と「本物の利他主義」を区別する。他者の苦しさを見て自分が感じる苦痛に耐えられない。あるいは、自分自身の感情的な緊張を和らげたいとして他者を助けるタイプは「偽の利他主義」である(p263)。例えば、17世紀のイギリスの哲学者、トマス・ボッブス(Thomas Hobbes, 1588〜1679年)は「人間は基本的に利己的な生き物である。人間の行為の中に純粋な無私は存在しないし、利他主義は気分爽快の仮の姿にすぎない」と述べた。そして、ある日、乞食に施しをしている姿を見られると「乞食の苦痛は私を苦しめる。乞食の苦痛を和らげれば自分の苦痛も和らぐ」と答えたという。キリスト教文明の原罪の考え方は、こうした哲学思想と一致する(p261)。偽の利他主義者は、苦しむ人の姿を見なくてもすむ、あるいは、自分が非難される危険性がなくこっそりと立ち去れる状況であれば、利己主義者と変わらぬ頻度で、関わり合いを避けたがる(p263)

 29Daniel Batson.jpg本物の利他主義者とただ自尊心を満足させるために親切を装う人とを見分けるにはどうすればいいのだろうか。自分がしようとしていた親切な行為を誰か他の人が行なってしまったのを見ても、まったく同じように喜びを感じられるかどうかを見極めればいい。本物の利他主義者にとって価値あるのは結果であって、他者を助ける行為による個人的な満足は重要ではないからだ。そして、西欧では本物の利他主義者は全体の15%程度にすぎず、その利他主義は人格の延長と関係していることが明らかになってきた(p263)

長年の修行によって利他心を育むことが出来る

 西洋の心理学の研究の大半は、仏教でのマインドフルネスの教えに相当するものが欠落していた(p169)。けれども、瞑想者の研究から、利他的な愛や慈悲心は歳月をかげて磨かれるテクニックであることが実証されている(p265)。すなわち、苦痛を伴うネガティブな感情が人間の精神的な健康にとって有害であり、憎しみの解毒剤が愛情豊かな親切心であることを理解するレベルは第一ステップである。次には、憎しみがない状態が習慣化されることが最終段階である。チベット語の「Gom」は瞑想と訳されるが「習熟」であり、サンスクリット語のバーヴァナーも瞑想と訳されるが「修養」とか繰り返して身に付けることを意味する(p157)

 仏教では人間は完全ではないし、完全に幸せでもないと理解する。それは、自己憐憫や自信欠如、悲観論とは異なり、極めて健全な事実の容認である。そのうえで、何を優先すべきかの順位をはっきりさせることを仏教では、「出離」と呼ぶ。出離は禁欲主義や厳格な戒律でイメージされることが多いが、喜びや幸せがもたらす事物を自分で取り上げることでも、快適がすべて悪だと考えるマゾヒストとも異なる。これでもかこれでもかと押し寄せる苦の原因を取り除き、苦しみの根本的な原因を知らずに隷属してきた態度を勇気をもって改めることなのである(p205)

利他心が育まれた状態が究極の幸せである

 愛とは他者の幸せを願うことであり、憎しみとは他者の不幸を望むことに他ならない。愛する人が幸せになってほしいと願うのが真の愛である(p160)。人間は本来、他人の幸せを望むはずなのに、なぜ、他人の幸せに動揺するのであろうか(p198)。他人が幸せになったとしても自分から何かが奪われることはない。自分が落ち込んでいるときに聞こえてくる他人の喜びの声や自分が病気のときに他人が健康であることが許せず我慢できないのはエゴなのである(p199)。他人の幸せが自分の幸せとなり、他人が経験するどのような喜びに対してももろ手をあげて歓喜することが「羨望」と「嫉妬」の反対なのである(p198)。すなわち、本物の愛には自己愛が含まれない(p182)。セックスも利他の心が中心にある場合にのみ純粋な幸せが感じられる(p55)。この永続的な幸せは内なる本質と完全に調和しているときには持続する(p56)。そして、自由な状態で快楽が経験されれば、幸せに影を投げかけることもなく、かえって幸せを引き立てる(p57)。安らかで心地よいこうした幸せ感をサンスクリット語で安楽(スカ)と呼ぶ(p32)

利他心を他人や他の生命にまで広げることが仏教の理想

 そして、現実の世界では純粋な利他主義の事例は少なくない。例えば、多くの母親は子どものために真心で命を投げ出す容易がある。仏教では、こうした母親の利他心をさらに延長し、生きとし生けるものすべてに対して心配することが真の利他主義であると教えている(p264)

 マンチェスター大学の中庭で実験をしてみた。一人の若者が横に倒れていても助けようと立ち止まる人は15%にすぎない。けれども、フットボールクラブのジャージを着ているとファンの85%が仲間を助けようと立ち止まる。このことは、帰属意識と利他的行為との間にかなり相関があることを示す。人は見知らぬ人よりは友人等共通点を持つ人を助けようとするのである。こうした帰属意識を拡大し、最終的にはすべての生物を帰属させるというのが仏教のアプローチである(p258)。ダライ・ラマが口にする「普遍的な責任」という考え方である(p259)。まず、自分自身の幸せへの願望を認識することからはじめ、次にその願望を自分の愛する人に向け、最終的には友人、赤の他人、そして、敵を含めた全人類に向けるというステップをたどるのが仏教古来のトレーニングの方法なのある(p159)

感情よりも理性に基づく道徳が大事だと考えるカントの倫理学

 29kant.jpg倫理観は大きく2グループにわけられる。抽象的な原理を基礎にするものと、仏教に代表される実体験に裏打ちされた実践的な倫理観である(p316)。西洋の一神教では神から下される戒律を倫理の基盤におく。そのひとつが、善、悪、責任、義務等の普遍的かつ絶対的な概念を思想の規定におくものである。第二は「最大多数の最高幸福」を基本原理とする功利主義的思想である(p308)

 イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724〜1804年)は、あらゆる道徳問題を支配するものは義務感であって、共感や思いやりの利他主義に突き動かされて他者のために行動する考え方を否定した。倫理は普遍的で公平な道徳に基づきべきであり、思いやりというあやしげな感情は信頼性に欠けると考えたからである。カントは言う。

「人間があらゆる幸せの権利を求めることを断念すべきだと純粋理性は命じているのではない。義務が問題とされる瞬間には幸せを考慮に入れるべきではないと言っているのである」(p316〜317)

 例えば、人々は二者択一のジレンマに直面しなければならなくなるケースに置かれる。例えば、1000人を救出するために一人の無罪な人間の命を見捨てなければならないという選択の板ばさみにおかれたらどうするだろうか。カントは「正義が消滅すれば人間はこの世における存在価値を失う」として、これを否定する(p313)

 一方で、ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham, 1748〜1832年)は「最大多数の最高の幸福は、道徳や法律の基礎をなす」と述べた(p318)。この功利主義を最も手厳しく批判した一人が、米国哲学を代表するジョン・ロールズ(John Rawls, 1921〜2002年)である。ロールズは、最大多数の幸福説を否定し、それに代わるものとして、個人の権利を神聖なものとし、自由・平等・公正の原則を提唱した(p320)。正義は効率性や幸せよりも価値が高い。たとえ、最大多数の幸福のためであっても正義がそのために犠牲にされてはならないからである(p314)

 とはいえ、人間は頭の中で考えたドグマ的な非現実的な抽象観念や感傷的な考え方の餌食になりやすい。例えば、罪のない子どもの命を犠牲にするという無残な状況はありありとイメージできる。その一方で、犠牲にされる1000人は具体性が乏しく抽象的な存在イメージとしてしかイメージできない。すると罪のない1000人を何もしないまま殺してしまう可能性が高い。「一人の子どもの命を救うために、罪なき1000人を犠牲にできるか」と問題を再設定すれば、より多くの人の命を救えた可能性をカントは拒絶してしまったことになる(p314〜315)

善と悪の二分法は正しいか

 カントの絶対善は、宇宙を超越した存在としてそれ自身で存在するものであろう(p317)。そして、「善」と「悪」とを明確に区別できるというユートピア的理想主義とそのドグマによって、人類は、不寛容や宗教的迫害、全体主義を経験してきた。理想主義では多様なバリエーションが考え出されてきたが、その根底には常に「絶対善の名において、我々は誰しもを幸せな人間にするであろう。それを拒否するものは排除されなければならない」という原則がある(p324)

28Hans de Wit.jpg ハン・デ・ウィット博士は言う。

「この完全なる失敗の結果、道徳的な敗北主義が近代西洋文化の中核をなしはじめている」。

 神の命令からも遠ざかり、無数の哲学者や道徳家の相矛盾する倫理観に封じ込められ、現代人は完全に路頭に迷っているのである(p324)

 憎しみは、心の猛毒である。あらゆる暴力や殺戮、人間の尊厳に対する攻撃力の駆動力となる。エゴが脅かされ、傷つけられ、無視されたときに感じる恨みの感情は、憎しみほど暴力的ではないが、要注意である。ネガティブな怒りは憎しみへと芽生える前兆となっている(p186)

 危害を受けたら怒りと暴力で報復することが英雄的だと考えられがちだが、復讐は暴力の火種に油を注ぐだけで、決して幸せをもたらさない(p193)。復讐願望は、攻撃者が攻撃するときと同じ感情に由来する(p186)

 すなわち、憎しみは、不幸の主因であることから、思考から憎しみの感情を排除することが幸せへの決定的な第一歩となる。なればこそ、釈迦は「憎しみに対して憎しみをもって報いる限り、憎しみは消えることはない」と教えた(p186)。不正を目撃した人の中には、犠牲者を助けるよりも、不正者を攻撃し暴力的に対応することに関心を持つ人がいるが、それは利他主義ではなく単なる激情である(p266)。憎しみや怒りといったネガティブな感情に捉われた人は、敵としてよりも病人として哀れむべきであろう(p189)。心の内側での武装が解除されなければ世界の武装解除も起こらない(p196)

カントの倫理学は理性に基づくと言いながら実は原始的な感情に基づく

 29Joshua Greene.jpgそして、哲学者で神経科学者でもあるジョシュア・グリーン(Joshua Greene)ハーバード大学教授の研究から、倫理的ジレンマがある状況で意志決定をするときに、論理的な思考をする認知領域が活発に活動することがわかってきた。さらに、この領域は、感情的に反応する領域と優位性を競いあう。

 教授によれば、感情的な反応とは霊長類の祖先から受け継いで進化してきた領域である。それが、カントのような独善的でドグマ的な考え方の中核をなしていると推測する。一方、遅まきに進化してきた前頭葉には高度な認知制御機能ある。その構造のおかげで利他的な評価が可能となったという。

 グリーン教授は言う。

「この説が正しければ、カント派の道徳哲学の根底をなす『合理主義者』のアプローチは、心理学的には、純粋な実践の原則ではなく、一連の感情的反応を根拠としており、それが最終的に合理化されたという実に皮肉で風刺的なことになる」と述べている(p323)

最大多数の最高幸福は快楽と幸せを区別できない

 カントよりもより人間的なベンサムのアプローチの方が仏教により近い(p318)。とはいえ、最大多数の最高幸福は、幸せを評価するための適正な尺度がないため(p319)浅薄な快楽と深遠な幸福を同一視し混同している。そのため、幸せを快楽に降格させてしまうリスクがある(p318)。社会学者も、現世における人生をどれだけポジティブに評価できるかで幸せを定義する。けれども、この定義では人生に深く満足している状態と単なる外的条件を評価している状態との違いを区別できない(p23)

 最大化の原則が闇雲に採用されれば、ある社会の構成員が犠牲になりかねない。アリストテレスは「奴隷がいなければ、知識層はつまらない作業に従事することとなり、高尚で品格ある活動を断念しなければならない」として奴隷制度を容認していた。アリストテレスの考え方は、功利主義という言葉が発明される以前ものものだが、その変形とも言える。仏教では、こうしたまことしやかでもっともらしい理屈は想像もつかない(p319)

仏教では結果よりも心の状態を重視する

 そして、仏教では善は人間から独立した究極的絶対的な原理ではなく、すべては人間の内側に生じるものだと考える(p317)。ダライ・ラマは「苦しみと幸せの個人的経験と切り離された倫理体型には重要な意味があるとは考えられない」と述べている。ダライラマの観点からすれば、抽象的概念に基盤をおく倫理はほとんど役立たないことになる(p308)

 どのように行為の結果がどうなるのかをどれほど予想しようにも、外部から降りかかる出来事をコントロールする力は人間には備わってはいない。一方で、利他的な動機やポジティブな結果を生み出そうとする努力を選択することはできる(p310)。仏教では人を幸せにすることを意図する行為は倫理的で、他者を苦しませることを目的とした行為は反倫理的であると考える。他者を苦しめれば自分自身に苦しみが戻ってくる一方で、他者に幸せをもたらす行為は自分の幸せを保証する。仏教ではこれをカルマ(因果応報)と呼ぶ。すなわち、倫理観と精神的な健全性は直結している(p308)

 さらに、フランシスコ・ヴァレラ博士は「真に高潔な人は倫理観に基づいて行動するのではない。賢者は倫理的であり、特定の状況にはいつも自分がそうする傾向に沿って自然に行動する」と述べている(p309〜310)

 さらにこうも言う。

「伝統的な社会では、常人よりも専門性が高い人として選り抜かれた倫理の専門知識を備えた模範、賢人が存在していた。近代社会では、倫理に関する模範を探し出すことが難しい。これが近代倫理思考がニヒリズムの趣きを漂わせている原因のひとつである」(p321)

エゴを捨ててフローで生きる

 幸せの探求においては、最も貴重な財産は時間である。人生は長くはない。需要な物事を先延ばししてしまう人は多くを失う。もちろん、何を黄金の時間と受け止めるのかは人様々である。活発な人にとっては、創造や達成や他者の幸せに自分を捧げる時間となるであろうし、瞑想者にとっては、自分の内側を見つめる時間となる。その間は活動していないように見えても、今の瞬間の価値をはっきりと認識し、他者を助けられる自分へと内側の質を向上させている時間は黄金以外のなにものでもない(p292)

 06mihaly.jpg米国の哲学者、ウィリアム・ジェームズ(1842〜1921年)は、「経験とは自分が没頭することに同意することだ」と書いた。すなわち、生きた経験に対してどれだけ多くの「注意」を傾けられるかが決定的である(p301)。クレアモント大学院心理学部のミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi, 1934年〜)教授はこれをフローと呼ぶ(p300)。フローとはー精神が集中されているのに緊張がないという状態である。そして、ここではエゴの概念がほとんど完全といえるほど消滅している。フロー状態を経験することで、宇宙の相互依存性を大きな視点で捉えることができ、常に静寂で、生命観に溢れ、利他的なフロー状態にとどまれるのである(p304〜305)

【引用文献】

マチウ・リーカル『Happiness 幸福の探求』(2008)評言社

フレドリクソン教授の画像はこのサイトより
ヴァレラ博士の画像はこのサイトから
瞑想実験の画像はこのサイトから
ダニエル氏の画像はこのサイトから
デビッドソン教授の画像はこのサイトから
エクマン教授の画像はこのサイトから
ソーバー教授の画像はこのサイトから
ダットソン名誉教授の画像はこのサイトから
カントの画像はこのサイトから
ウィット博士の画像はこのサイトから
ミハイ教授の画像はこのサイトから
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2015年07月19日

第28講チベット仏教の幸せ論(1)

幸せになるための修行がなおざりにされている

 2007年にユニセフが発表した先進国の子どもたちの「幸福度」調査によれば、「孤独を感じる」と答えた日本の15歳の割合は29.8%とOECD加盟25カ国中ずば抜けて高く、2位のアイスランド10.3%、フランス6.4%、イギリス5.4%をはるかに引き離す。加えて、2006年の調査では自殺者数は9年連続で3万人を超えている。これは旧ソ連圏を除いて世界最悪の水準である。これは、日本人の倫理観の中に「他人に迷惑をかけない生き方」が重視されているからではないだろうか(p365)

 高校を出てからも大学や専門学校で学び、健康を維持するためにジムに通い、社会的地位や富を獲得するために膨大なエネルギーと時間を費やす(p45)。その一方で、人生の質を高めるための心の内側の状態を改善する修行はおざなりにされがちである(p45)

欲望のままに生きることが自由ではない

 現代人は孤独を心配するあまり、予定が入っていない休みは一切考えないようにしている。強迫観念に取り付かれたかのように年中猛烈に動き回り、毎日をおかしく過ごそうとしている(p59)。西洋では自分がやりたいことをして、衝動の赴くままに行動することが自由であると解釈されている。そして、無秩序な自由の目標は、欲望を達成することであろう。けれども、それは果たして幸せをもたらすのであろうか。心の中で渇望、嫉妬、驕慢、恨みといった狂犬を荒れ狂うままにさせておけば、心はいずれその狂犬に占拠さてしまうであろう(p202)

 そして、物的な欲望が満たされても、幸せにはなれない。例えば、宝くじで大当たりしたことによる喜びには長期的な効果がなく、1年後には普段の満足度に戻ってしまうとの研究結果がある(p60)

 ある24歳のイギリス女性が100万ポンドもの宝くじに当選したが、仕事も辞めて以前の友人たちとの縁を切った。そして、高級住宅地に家を買い、免許もないのに高級車を買い、洋服を買いまくり、フィッシュ・アンド・チップスが大好物なのに高級レストランで食事をするという生活をしたところ、1年もたたずに鬱病になってしまったという(p61)

快楽と幸せとの取り違え

 このことは、最も起こしやすい間違い、快楽と幸せとを取り違えたためだ。ヒンドゥー教には「快楽とは幸せの影に過ぎない」という教えがある(p54)。フランスの作家バルベー・ドールヴィイは「幸福は聖人の喜びだが、快楽とは狂人の幸せである」と書いている(p55)

 確かに、快楽は親身に応じてくれる上に、常に変わらずもてなし上手である。そこで、快楽への渇望が心に埋め込まれやすいが、快楽が永続的な幸せをもたらしてくれると期待するのはまったく非現実的である(p176)

 快楽は、本来不安定なものだ。五感が刺激を受けた結果の産物だが、快適な対処と接したときには生じてもそれがなくなれば消滅する(p56)。そのうえ、繰り返されるうちに退屈が頭をもたげ、ゆきすぎれば嫌悪感にすら変わる(p54)。 

 各種の研究から人間が何かを「欲する」ときと「好む」ときとでは、脳の神経回路や機能部位が異なることが判明してきている。特定の欲求を感じるのに慣れていると、それに依存しはじめる。そして、それを感じるときに喜びがなくなった後でも、要求を満足させる必要性を感じてしまう。すなわち、好ましくないのに欲するというレベルに達してしまう。例えば、ラットの脳に特定部位に刺激を受けると快感を生み出す電極を植え付け、ラットがレバーを押すと自分で刺激できる仕掛けを作って実験を行なうと、ラットは食事や性行動を含めた他のすべての活動を病め疲労困憊して死ぬまでレバーを押し続けた。これもあくなき快感の追求が抑制が効かない要求と化すことを明らかにしている(p181)

 快楽は、個人的で自己中心的なものであるため他者の幸せと矛盾することがある。残酷、暴力、傲慢、欲望ほかの信条と結びつくことがある。とりわけ、官能的な快楽は執着と結びつく(p55)。すなわち、快楽は幸せとは無関係である(p56)。もちろん、快楽そのものが問題であるわけではない。ただ、その所有に執着すると貪欲さや依存症が頭をもたげ、幸せが妨害されてしまうのである(p57)

西洋哲学は原罪思想の影響を受けて人間は幸せになれないと考えてきた

 ドイツの哲学者で悲観論者であるアルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788〜1860年)は「いかなる満足にも永続性はない。いたるところで、もがき苦しみ、苦悩に帰するのを目にする」と述べている。この指摘は正しい。けれども、完全ではなく、人間が欲望やそれが永続させる苦しみから絶対の逃れられないと想定している(p177)

Martin Seligman.jpg このように、幸せの可能性を否定する考え方は、この世界や人類が基本的に悪だと決めつける考え方、キリスト教的な原罪思想に由来し、それに影響されている。米ペンシルバニア大学心理学部のマーティン・セリグマン(Martin Seligman, 1942年〜)教授は言う。

「すべての文明は、幼稚な性衝動や攻撃性の基本的葛藤を巧みに防御するものにすぎないとの定義に基づき、20世紀の心理学に原罪を引っ張り込んだのはフロイトである。このため、多くの現代知識人は、寛大さや親切な行為は負の衝動から生じるという愚にもつかない結論に達してしまう」(p70)

苦難と不幸との取り違え

 例えば、四肢が麻痺した障害者は、その直後には大半が自殺を考える。自分がこの世からいなくなったほうがよいと信じることが自殺に共通する動機であり(p62)、サンスクリット語では、厭世観、生きることが無意味だと感じる苦しみを「ドゥッカ」と表現する(p61)。けれども、この障害者たちも1年後にも人生が惨めだと考え続ける人は10%しかおらず、残りは生きることがすばらしいと考えている(p62)。すなわち、外から被る苦難が不幸につながるわけではない。不幸は自らが作り出す(p61)。また、一時的にしか続かない一過性の不快感を不安感という。そして、外的条件が好ましくても心の底に恒常的に不満が潜む状態が「不幸」と呼べるであろう(p87)

 したがって、苦しみが避けられず、幸せが手に入らないというニヒリズム的な西洋哲学とは一線を画し、仏教では不幸の原因は確認でき、それを取り除く方法も確実に存在すると考える(p84)。快楽が幸せとは違うように、苦難と不幸も区別する必要がある。不幸の主な原因は、無知と心の毒にある(p70)。チベット密教の高僧、チュギャム・トゥルンパ(Chögyam Trungpa, 1939〜1987年)は、無知についてこう説明する。

「ある意味で非常に知性が高い。ただその知性があるがままの現実の姿を単純に捉えずに、専ら自分の固定観念に反応する方向に向いているとき、それは無知と呼ばれる」(p35)

幸せは心の持ちようで決まる

 20世紀初頭の心理学や精神病医学の関心のほとんどは、心理学的な障害や精神病の治療に向けられていた。精神的に健全でエネルギーに満ち溢れた状態の可能性についての研究はほとんど関心がもたれなかった(p216)。セリグマン教授は「精神分析がどれほど頑張っても、せいぜいマイナス10からゼロにまで引き上げるのが関の山だ」と語っている(p170)

 けれども、認知科学とポジティブ心理学の発展によってこの状況は変わりつつある(p216)。膨大な研究結果から明らかになったのは以下の三点である。

@富、社会的地位、教育といった外的要因が幸せにもたらす影響は付随的で10〜15%以下にすぎない(p217)

 28Richard Layard.jpg米国では1949年以降、実質所得が倍以上になっているにもかかわらず、幸福と答える人は増加していないどころか減っている。ロンドン大学LSE校のリチャード・レイヤード(Richard Layard, 1934年〜)教授は、その理由が誰かと比較することにあると指摘する。誰かが新車を手に入れれば、現在の車に飽き足らなくなり、新車を手に入れなければ満足できないし、周囲の誰かが最新車を乗り回している場合は余計そうなる。東ドイツでもドイツ統一以降、生活水準が飛躍的に向上したが、旧ソ連圏の国々とではなく西ドイツの人たちと比較することで不幸を感じてしまっている(p220〜221)

 また、感覚的な刺激、騒音や熱狂に伴う官能的な娯楽による興奮や快楽は、神経疲労や慢性的不満を引き起こすだけで終わる。外的活動へのあくなき専心こそが問題で人々を不幸にしている(p225)

 一方、ストレスに苛まれた富裕層が羨むような陽気で苦労知らずの「ハッピー・プア」と呼ばれる人々がいる。カルカッタのスラムの路上貧困層の多くを調べた結果、友情、食事、生活、喜びと幸せ感が、米国の大学生とほとんど変わらないことが判明したのである。い法で、サンフランシスコの路上生活者や保護施設生活者の大半は「非常に不幸だ」と答えている。この違いは、サンフランシスコの路上生活者が社会的・感情的な愛着をほとんど断ち切っているのに対して、カルカッタの貧困層は社会的・経済的な立場が向上する希望をまったく放棄している結果、ささやかな物資を手に入れることで簡単に満足している。同時に、非常に生活が苦しいものの、仲間とともに大笑いし、歌を歌う。その善良性と無頓着さが彼らを幸せにしているのである(p222)

A幸せになるか不幸になるかの25%は遺伝的な素因が関係するが、遺伝子は青写真のようなもので状況に応じて無視できる(p217)

28Michael Meaney.jpg 一卵性双生児の研究から、幸せの45%が遺伝性で、人格の50%が遺伝子で決まると力説されているが、話はそう簡単ではない。カナダのマニトバ大学のダグラス病院研究センターのマイケル・ミーニィ(Michael J. Meaney, 1951年〜)教授らは、ラットで興味深い研究を行なっている。遺伝子操作によって極端に不安に感じるようにしたラットを生後10日間、過保護な母親に育てさせる。母親はグルーミングとなめまわしよるスキンシップを繰り返す。すると、ラットのストレス反応に関与する遺伝子は、DNAメチル化による制御機構によって機能を停止、そのラットが死ぬまで発現しない。反対に、放任的な母親の子は高ストレスを示した。このことは、母親の育て方が違うと、成長した後のストレス抵抗性だけでなく、脳や認知力の発達まで大きく修正されるのである。このことは、幼児期における愛情や優しさが人間の人生観を大きく左右し、幼児は規則正しい愛情を必要とするという仏教の考え方と一致する(p226〜227)

B状況に対してどのように認識し反応するかが幸せや不幸に多大な影響を及ぼす(p217)

 20世紀初頭に生まれた178人のカトリック修道女の長寿の研究によれば、幸せなグループの90%は85歳で生存中であったが、幸せではないグループの生存者は34%にとどまった(p230)。また、65歳以上のメキシコ人2000人を対象になされた研究では、ネガティブな人々のグループの死亡率はポジティブなグループの2倍であった(p231)。1960年に米国の入院患者900名を対象に楽観主義のアンケート実験がなされたが、40年後、楽観論者のほうが平均して19%も長寿であることがわかった。セリグマン教授によれば、物事がうまくいかなくなった場合に、悲観論者は、憂鬱になる傾向が楽観論者の8倍も高く、学力、スポーツ、職場での成績も実力を下回る(p278)

28Ed Diener.jpg イリノイ大学の心理学部のエド・ディーナー(Ed Diener,1946年〜)名誉教授は「客観的な状況よりも本人の世界観のほうが幸せになるためには重要な要素だ」と述べている(p231)。

 この例をチベット人は極端な形で実証してみせる。ダライ・ラマの主治医テンジン・チョドラク(Tenzin Choedrak, 1922〜2001年)博士は1959年の中国政府の侵略後、100人の同胞とともにチベット北東部の強制労働収容所に送られた。20年後に生きて出られたのはわずか5人だけだったが、同医師を診察した外傷後ストレス症外専門の精神科医は驚愕した。恨みや怒りが微塵も感じられず、不安や悪夢といった心的外傷患者の問題がまったく示されなかった。

28ani pachen.jpg チベットの尼僧、反乱軍の戦士という激しい人生を生きたアニ・パチェン(Ani Pachen, 1933〜2002年)も21年の投獄生活を終えた後、また9ヵ月も独房に閉じ込められた。鳥のさえずりだけが昼夜を告げる暗黒の世界であった。それでも、パチェンは瞑想の習慣を忘れず、心が病むことがなかった(p99)

ネガティブ感情は病気である

 怒り、嫉妬、貪欲さ等の感情は人間にとってあたりまえのものだという議論がある。けれども、病気も自然現象である。その病気を望ましい人生の要素として歓迎する人はいない。苦痛の原因となる感情に対して何かの手を打つことは病気を治療するのと同じく筋道が通ったことではないか(p154)

 とはいえ、ネガティブ感情は本当に病気なのだろうか。病気とネガティブ感情を同一視するのは極端すぎるという人もいるであろう。けれども、よくよく考えてみれば、健全な心は、ポジティブな感情の結果生じてくる一方で、精神的な混乱や苦悩は免疫機能を弱めて障害を引き起こす(p154)

 感情の赴くままにさせておけば封じ込まれていた緊張が緩和されるという考え方は、心理学的な研究結果とは食い違っている。怒りを放置し、それが生じる度に爆発させていると心理的に不安定となり癇癪の症状が徐々に悪化する(p155)。すなわち、悲観論者は、常に災難を予想し、慢性的な不安症にかかっており、何をしても裏目に出て、生まれつき幸せとは縁がないと思い込んでいる(p279)。そして、困難に直面すれば、逃げ出すか、あきらめるか、何の解決にもならない一時的な気晴らしに陥り、必要な行動を常に後回しにして重要性の低い雑事ばかりに忙殺されてしまう(p283)

ネガティブでは客観的な判断が出来ない

 心の内側に目を向けると、もう存在しない過去やいまだに存在していない未来に「私」を存在させ、意識の流れを凍結させてしまっていることがわかる。また、事象や状況の特定の側面だけを取り出して、それに「良い」「悪い」のレッテルを貼りつけて本来の姿をみえなくさせている。すなわち、現実を正しく見ることができず、幸せを見つけ出し、苦しみを避けるためにはどう行動すればよいのかが判断できない。これは精神が錯乱状態に陥っているといえる(p104)

 心の平安を乱すネガティブな感情は、現実を歪めて理解させようとする。このため、あるがままの性質を知覚することを妨げる。愛着は対象を理想化し、憎悪は対象を悪魔にしてしまう。人間の判断力が曇らされると誤って行動することになる。一方、感情がポジティブであれば、現実をより正確に理解できるため論理的な考え方ができる(p149)。楽観主義者よりも悲観論者のほうが客観的で冷静で用心深く判断が適切なのではないかという以前の見解は各種の見解から否定されている(p277)

最悪の精神錯乱はアイデンティティというエゴの引きこもり

 こうした精神的な混乱の中でも最も破壊的なものが「個人的アイデンティティ」、すなわち、エゴへの執着である。どの瞬間でも身体は絶え間なく変化している(p106)。私とは刻一刻と変化する想念の流れの内容以上のなにものでもない(p118)。アイデンティティとはそれほど重要なものなのだろうか。そもそも個性(Personality)という言葉は、役者の仮面を意味するら言語のペルソナ(Persona)を語源としている(p122)。にもかかわらず、エゴ(自己)は、自立性、恒久性が備わっていると頑なに考えようとする(p106)

 そして、知的優秀さ、肉体的強さ、権力、成功、美といった自分や周囲が見る「自分のアイデンティティ」や自分のイメージといった実体がない属性の上に架空に築いた自信に立脚している(p112)。エゴは非常にもろいものだ。そのために、エゴを心地よくさせ喜ばせる対象には親密感を覚えるが、保護して満足させられずゴにとって脅威となる対象には嫌悪という相反する感情が働き始める(p106)。そして、物事がエゴの要求を満たせないと、どれもが脅威や障害となる(p128)。現実とエゴとのギャップが広まるとエゴは苛立ちを著目、自信を喪失し、欲求不満や苦しみだけを残す(p112)

28Hans de Wit.jpg さらに、エゴは死への不安、対人関係への不安、世の中に対する恐怖心から、エゴに閉じこもることで自分が守られると仮想する。このエゴに対する執着と強い自尊心が苦しみを引き寄せる最も強力な磁石なのである。仏教哲学者ハン・デ・ウィット(Han F. De Wit,1944年〜)博士はこう書く。

「エゴは経験に対する快感、不快感の感情的反応の場、不安を原因とする心の引きこもりの場である」(p107)

 すなわち、自分の思考をコントロールできないことが苦しみの主因なのである(p128)

自己中心的な人=精神病患者

 西欧世界では、エゴ(セルフ)こそが人格形成の基本だと考えるため、自己中心性をどうしたら弱められるのかという問題にまともに取り組んでいる心理学治療法はほとんどない(p110)。「エゴを排除したら個人として存在できなくなる」「エゴなしに個を保てるだろうか」「総合失調症に陥る危険性があるのではないか」という疑問は、この馴染みのない考え方に対する西欧人の防衛反応といえる(p111)

28Sant Kirpal Singh.jpg 謙遜という概念も、自分の能力に対する自信の欠如、無力感、劣等感、無価値観等と関連づけて考えられがちである(p270)。けれども、インドのキルパル・シン(Kirpal Singh,1894〜1974年)は『聖なる光と音の瞑想法』で「本当の謙遜は、エゴからの完全な解放によって獲得される」と述べている(p271)

 さらに、強力なエゴがなければ何も感動せず、人生が無味乾燥になるのではないかという考えもある(p112)。けれども、長年、卓越したヒューマン・クオリティの研究に携わってきたポール・エクマン(Paul Ekman,1934年〜)教授によれば事実は違う。エゴが極端に強い人の傍らにいると苛立ちを感じる。芝居がかったわざとらしい手法を使うこともある。他者に苦しみを負わせて悔やむことがなく、誰とも気持ちを共感できないのは、エゴ至上主義者の特徴であると同時に精神病の症状でもある。精神病患者は、極端に自己中心的な利己主義者で、他者よりも自分が優れていると感じ、とりわけ、自分には生まれつき備わった権利や特権があり、それが他者の権利に優先すると信じ込んでいる。一方、ヒューマン・クオリティが高い人には、カリスマ的なはったりがまったく見られない。親切でエゴがない状態を最大の特徴とし、自分の地位や名声などをまったく意に介さない。エクマン教授はこういう。

28Paul Ekman.jpg「こうした自己中心性の不在は心理学的には不可解としか言いようがない。周囲は本能的にこうした人たちとの交流を希望する。一緒にいると心が豊かになるからだ」

 すなわち、エゴへの執着と目標を達成しようとする高い志とはまったく別物なのである(p113〜114)

エゴをなくしてこそ本当の自信が産まれる

 ある意味では、エゴ(セルフ)の確立が文明の特徴となっている。けれども、そうだとしても、より強く、レジリアンスがあり、順応性のある人格や個性を育て上げるべきではないだろうか。問題は、エゴと自信とを混同していることにある(p111)。そのため、世の中で成功するためには強力なエゴが必要だと勘違いされているのである(p114)

 エゴは、不安、嫉妬、貪欲、拒絶など精神性を果てしなく脅かすネガティブ感情からターゲットにされる。そのため、エゴの重要性が低いほど精神力も強くなる(p114)。真に勇敢な人は自己陶酔への引きこもり、不安な感情を持続させる恐怖に満ちた反応の対極にある(p107)。

 仏教では、欲望、憎悪、妄想(現実を歪めた見方)を三毒とし、これに自惚れと羨望も加え、これらが60余のネガティブな心の状態に結びついていると考え(p151)、煩悩(サンスクリット語のクレシャ)と呼ぶ(p149)。そして、仏教では、逆説的に純粋に自信がある状態はエゴがない状態だと考える。錯覚から生まれた安定感ほど脆いものはないからだ。エゴをなくして初めて自信は産まれる。仏教ではこれを人間であれば誰もが備わっている「仏性」と呼ぶ(p112)。仏教ではエゴを完全に消滅させるところまで修行を極めた人のことを賢者と呼ぶ(p110)。それでは、エゴとネガティブ感情をなくすためにはどうしたらいいのであろうか。

【引用文献】
マチウ・リーカル『Happiness 幸福の探求』(2008)評言社

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posted by la semilla de la fortuna at 17:00| Comment(0) | 仏教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする