2016年07月10日

トランスパーソナル心理学入門D〜日常を生きる

スピリチュアル・レボリューションとトランスパーソナル心理学

 20160710David N. Elkins.jpgいま米国では何百万もの若者たちが伝統的な宗教から離れつつある。たとえ、教会に通わなくても自ら魂を養えることに人々が目覚めつつあるためである。『宗教を超えて』の著者、ディヴィッド・エルキンス(David N. Elkins)博士によれば、宗教とスピリチュアリティの乖離は現代の主な社会現象である。そして、エルキンス博士はこのスピリチュアル・レボリューションは、大きく三つの波で進められたと分析する(2p82)

20160710Thomas Moore.jpg 第一は、1960年代のヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントである。第二は、1980年代のチャネリング、前世療法等の流行である(2p83)。そして、第三の波は、1990年代のジェイムズ・ヒルマン(James Hillman, 1926〜2011年)博士の『魂のコード』やトーマス・ムーア(Thomas Moore, 1940年〜)博士の『魂のケア』の流行である(2p84)

 けれども、ニューエイジ運動には、チャネリング等怪しげなものが含まれている(2p84)。そこで、ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は、ニューエイジはナルシスティックな自己中心主義に陥っていると批判する(2p85)。こうした中、最も良質で信頼できるアカデミックな部分を支えてきたのがトランスパーソナル心理学と言える(2p84)

 ただし、トランスパーソナル心理学は最初から確固たる学問領域を確立するというよりも、従来の心理学を超えた様々な「超常体験」への人々の探究心があり、それに答えて産まれたという面がある(2p70)

 例えば、トランスパーソナル心理学の誕生には、カリフォルニアのエサレン研究所を中心に展開されたヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントの影響も大きい(2p69)。また、既成のキリスト教に反発した多くの米国の若者たちは東洋宗教にオルタナティブを求め、禅、ヨーガ、チベット仏教、テーラワーダ仏教、イスラム神秘主義がファッションのように流行していた。同時にメキシコのヤキ族のシャーマン、ドン・ファンの教えを紹介したカルロス・カスタネダの著作が圧倒的な人気を得て、先住民のシャーマニズムへの関心も高まっていた(2p71)

魂を心理学位置づけ自己進化のビジョンを描く

 「何のために私はこの世に生まれて来たのか」

 こうした問いかけは、心理学ではなく、哲学や宗教の問いかけであるとされてきた。けれども、この人生の究極の問いかけに正面から初めて向き合ったのがトランスパーソナル心理学である(2p11)。従来の心理学とトランスパーソナル心理学の最大の違いは、心理学の枠内に明確にスピリチュアリティ(魂)と呼べる次元を中心に据えたことにある(2p78)。そして、いま、WHOも健康にスピリチュアルを含めている(2p81)

水平にも垂直にもつながる壮大なビジョン

 トランスパーソナル心理学はつながりを重視する。ただし、「トランス」には垂直次元を超越するという意味と、水平次元での横切るという二つの意味がある。トランスパーソナル心理学の「個を超えて」は、とかく、自己の深層無意識を突き抜けて真実の自己につながるという垂直次元に超えていくイメージがあるが、これは誤解である。大自然とのつながりなど水平次元のつながりも関わる(2p46〜47)


 2016020701.jpgケン・ウィルバーは自己進化の途上で運み出された心・魂・スピリッツを含む真の意味での全宇宙を大文字のKで始まる「コスモス(Kosmos)」と呼ぶ(2p87)。そして、この世に生れてきた意味、生死の意味は、この真の全宇宙であるコスモスの働きの一部であることを自覚し、コスモスの中で自分がどういう役割を果たすべきなのか、その「天命」を知り尽くしていく中で実現されると考える(2p87)。このウィルバーの思想は奇抜なものではなく、フランシスコ・ヴァレラ(Francisco Varela Garcia, 1946〜2001年)博士のオートポイエーシス理論やヴァレラ博士の理論を社会学に当てはめ、個人の心と社会は「共進化」するというビーレフェルト大学のニコラス・ルーマン(Niklas Luhmann,1927〜1998年)教授の主張や複雑系の科学等、現代科学の新たな方向性とも一致する(2p88〜89)

心身一如を取り戻すことは、いまをフローで生きることにつながる

 エゴが時間の中に住み、利益を求めて未来へと首を伸ばし、過去の損失を嘆いているのに対して、ケンタウロスは常にいまのフローの中に住んでいる。未来に要求することも、過去にしがみつくこともなく、永遠のいまの贈り物に充足感を見出している(1p203)

エゴが消滅するとき、死の恐怖は消滅する

 真理を探究していくプロセスでは、どこまでも登っていくことから「上昇の道」と言われる。また、他の一切を否定し、ひたすら真理を求めていくことから、『臨済録』では「仏に会ったらその仏を殺せ」と説かれ『否定道』とも言われる(2p121)。そして、この自己探求における決定的な体験は、同時に死生観をもひっくり返す(2p112)

13Ken Wilber.jpg
 ウィルバーによれば、普通の人は、ペルソナ、エゴ、ケンタウロスのレベルで存在している。このため、個としての自己が永遠に生き続けることを心から願う。けれども、残念ながらその身体は不死ではなく、死ぬ運命にある(1p230)

 「私が生きている」「私が命を持っている」と考えるならば、「私」とは、結局のところは、いつかは死んでしまう存在でしかない(2p112)

 けれども、「いのちの働き」がまずあって、そのいのちが「私という形をとっている」と考えれば、「私という形」は肉体の死とともに消え去るにしても、私を私たらしめているものは、まさに不生不滅であり、いつまでもあることになる(2p113)

 事実、ウィルバーによれば、分離した自己は幻想である。したがって、分離した自己の死も幻想なのである。となると、分離した自己がなくなれば、死の恐怖もなくなることになる(1p136)。この肉体に包まれた私は、いつか死んで消えゆくとしても、いのちの輝きそのものは永遠に存在し続ける。本当の自分は死なず、ただ本来の姿、空に還っていくだけである(2p112)。最も、輪廻転生していくのはエゴではなく、シャンカラ(Shankara,700年頃〜750年頃)が言うように、唯一転生するのは超越した自己なのだが、トランスパーソナルな「体験」には不死という直感が伴う(1p230)。つまり、観念的にではなく「体験」としてそれに目覚めれば、この世に生まれてきた意味、私たちの死生観をひっくり返すことになる(2p112)

 20160710井筒.jpg宗教哲学者、慶応大学の井筒俊彦(1914〜1993年)名誉教授は、瞑想修行に伴い、表層意識が深層意識へと深まり、そのよく極限の地点を「意識のゼロ・ポイント」と呼んだ。その段階では自我意識が消滅し、言語による存在の分節化からの解放された「無分節態」であると解いた(2p93,2p114)。諸富祥彦教授は、井筒名誉教授の『意識の本質』は、ウィルバー顔負けで日本生まれのトランスパーソナル心理学たりうる、と評価する(2p93)

命は四つの存在で輪廻転生する

 プラユキ・ナラテボー氏によれば、タイの葬式には、日本のような深刻さがない。それは、「死」を今生における終着地点ではあるとはいえ、同時に来世に向けての新たな出発地点だと考えるからである(7p172)

 仏教思想では、誕生から死、輪廻転生までのプロセスを同じひとつの「いのち」がとる四つの存在のあり方として捉える。母体から誕生するのが「生有」、この世の人生が「本有」、その後の死が「死有」で、肉体から離れたいのちが次に別の肉体の形をとって生れ変わるまでが「中有(バルド)」である。この考え方を京都大学大学院の西平直(1957年〜)教授は「円環的ライフサイクル」と呼ぶ(1p104)

再び日常生活に戻る

 ブッダの教説をまとめた初期仏教の論蔵(アビダルマ)では、未訓練の凡夫の心を「遍在するする心の作用」として「思、作意、触、受、想」の五要素からなる「遍行」と呼ぶ。そして、ある程度のトレーニングを経て、この要素が変化した心の作用は「求、勝解、念、定、慧」の五要素からなる「別境」と呼ぶ(7p221)。自己中心的な心は、学びを得ようとする敬虔で純粋な想い「求」へと育てることができ、外の世界や心の世界と触れ合う「触」もあるがままの気づき「念」へと変化する(7p225)。すると、快や不快という感情に無自覚に反応することなく、懐深くあるがままに受け入れられるようになる(7p226)

20160706ブッダ.jpg 土台部に戒律があり、そのうえに禅定、さらにそのうえに智慧がある。つまり、戒律を守って行動を整え(7p232)、あるがままに現象を子細に観察して智慧を得る。この智慧を得ることによって、解脱が起こり、苦しみが滅し尽くされていく(7p233)。その結果、「ピティ(喜)」や「スッカ(楽)」が生じてくる(7p230)

 とはいえ、世界の一切が空であるという真理を頭でわかるだけでなく、身を持って体感したとしても、日常世界に戻らなければならない(2p121)。けれども、これはトランスパーソナルからパーソナルへの退行を意味してはいない。これは、ヒルマンやミンデルが重視する段階である(2p122)。そして、ウィルバーも、上昇だけでなく、下降のプロセスもかなり詳しく論じている(1p102)

 禅の悟りへの道を示した「十牛図」がある。ここでも、第八図の「人牛倶忘」で人も牛も消え去った完全なる「空」があり、絶対無を体験した後、第九図では、川の流れとその岸辺に花咲く木が描かれ、平凡な街への往還のプロセスが示されている(2p114)

悟りで育んだ心を慈悲として外に拡充していく

 プラユキ・ナラテボー氏は、こうして育てられた心は、さらに外側に拡充していくべきだと主張する。例えば、「慈悲」は、衆生慈しみ、幸せを与えようとする心、「メッター(慈)」と衆生の悩みや苦しみを取り除きたいという心、「カルナー(非)」からなるが(7p227)、こうした慈悲心の本当の出所は「智慧」にある。ナランボー氏は、サマタ瞑想の一種である「慈悲の瞑想」よりも「智慧」の方が、効果があり、逆に慈悲心が自ずから湧いてこない「智慧」は本物ではないと考える(7p228)

 一時期、流行した自己啓発セミナーは、心理学に基づく強力な方法を用いて参加者を一時的に興奮・感動した状態に導く。そのため、その場では大きく自分が変化したように感じる。けれども、現実には変化していない。セミナーでの感動体験が大きかっただけに現実生活でのギャップに苦しむ(7p184)。そこで再び実感を求めてセミナーへということでビジネスが成り立つことになる(7p185)。セミナーで条件付けられた場でしか自己実現が図れなければ、セミナーや道場でしか自分らしく生きられないという本末転倒的な状況になっていく(7p210)

 けれども、井筒俊彦名誉教授によれば、この段階の日常意識はかっての日常意識と同じではなく、分節と無分節とが同時に成立する(2p114)。いったん究極の真理を体験すれば、日々の何気ない出来事ひとつひとつにも魂を砕き、心を込めて生きられるようになる(1p122)。このため、この段階は「肯定道」と呼ばれる(2p121)。地に足がついたごく普通の日常生活をしながらも、自分を超えた「向こう」からの呼び声を聴きながら生きることができるようになるのである(2p122)

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【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ
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2016年07月09日

トランスパーソナル心理学入門C〜いま、ここを生きると死の恐怖は消える

死を意識して生きる

魂が喜ぶ時間をどれだけ持てるかが大切

 人生で何が取り返しがつかないものかを考えてみよう。マネーはたとえ失ったとしてもまた働けば増やせる。仕事で失敗して評価を落としたとしても、また努力すればそれは回復できる。けれども、人生で取り返しがつかないものがある。それは、時間である。マネーは人生の時間を豊かなものにするための手段にすぎない(5p178)

 本当の幸せを考えれば、限られた時間をどれだけ「魂が喜ぶ時間」にできるかが最も大切なことになる(5p178)。いま、どれだけマネーを儲けたかよりも、どれだけ多くの人たちを幸せにできたかに人生の価値があるというまっとうな価値観を持つ若者が増えているのは喜ばしい(5p188)

死ぬときに何を残したいのかを考えながら生きる

 末期癌のホリスティック医療に取り組む帯津良一(1936年〜)博士は、やすらかに死んでいく人と後悔しながら死んでいく人との違いについてこう述べている。

「自分の人生でやりべきこと、やりたいと思うことをやりきったと思える人は、とてもいい顔をしてやすらかに死を迎える」

20160709ross.jpg そして、エリザベス・キューブラー=ロス(Elisabeth Kübler-Ross, 1926〜2004年)博士も人が死の際に語る言葉は「ああっあれをしておけばよかった」という呟きだという(4p97〜98,8p143)

 こうしたことを踏まえ、諸富祥彦教授は「やりたいと思ったことをすぐ始めるひとは慎重さにかけると思われがちだ。けれども、いつかしたいという想いを先のばししているうちに、本当にしたいことをほとんどやらずじまいで終わってしまうことの方がよっぽど愚かな生き方であるとはいえないだろうか」(6p129)。「そのうちにやってみたいことがあれば前倒しでどんどんするしかない。また、伝えたい思いがあれば、いますぐ伝えるしかない。そして、一人の時間をつくり、自分が本当にしたいことはなにか。これをせずには死ねないと思うことは何かを考えることだ」とアドバイスする(4p202〜204)

 メキシコには骸骨の仮面を被って踊る「死者の日」という祭りがある(4p96)。この祭りに込められているのは「メメント・モリ(死を忘れるな)」(4p96, 7p170)「カルペ・ディエム(その日をつかめ、いまを楽しめ)」という意味である(4p96)

 上座仏教では、死の瞑想(モラナサティ)がある。代表的なものは、「九墓地観」で、死んだばかりの遺体が、変色、腐敗し、蛆が湧いて、骨や土になっていくまでの様子を9段階にわけて順々に観想していくものである。タイには、多数のエイズ患者を受け入れている「エイズ寺」があるが、そこでは、エイズで亡くなった人のホルマリン漬けの遺体が展示されている(7p173)

 死を自覚することには、人間精神を本質に立ち返らせる大きな力がある(7p171)。マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger,1889〜1976年)は「気づくために死を自覚せよ」と述べており、アップルのスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs, 1955〜2011年)も死を日々意識していた(7p170)。米国の宗教哲学者、ハーバード大学のパウル・ティリッヒ(Paul Johannes Tillich, 1886〜1965年)教授は、こう語っていた。

「明日、死す者のようにして生きよ」(4p98)

今一瞬を心を込めて生きる

 幸せになれる選択対象を手にできる人がごく少数に限られ、極度に予測不可能性が高いこのような時代に実現可能な希望に躍らせてはならない。こうした時代に長期的な人生展望を持つことは無益なばかりか危険ですらある。このような時代の中で、死の間際に「私は幸せだった」と心の底から思える人生を生きるには、本当の意味でクレバーでなければならない(4p38)

 そもそも、「真面目に頑張っていれば、人生はいつかいいことがあるはずだ」という思い込みは、人生はいつ想定外のことが突然起こるかわからないというリアルな事実を直視していないから成り立つ。

「こうなればよかった」と過去に思い描いた願望に逃避しても、「いつか、きっとこうなる」と未来に思い描く空想に逃げるのも止めるしかない。となれば、できることは、ただこの瞬間を心を込めて生きるしかない(4p196)

 キューブラー=ロス博士が死にゆく人を見つめてきたその経験から学んだ最大のことは「いま、この瞬間」に心を込めて本当に生きることだった。例えば、愛する人と一緒にいても、心を込めてその一瞬一瞬をすごしていなければ、本当に一緒にいたことにはならない。

 すなわち、無力な私たち人間にできることは、「今日一日が人生最後の日になるかもしれない」とそんな思いを胸に刻んで一瞬一瞬心を込めて生きることしかない(4p95,8p142)。とりあえず、あと1年、さしあたりあと1年と一年単位で生きのびていくしかない(4p40)

エゴが誕生し環境との切り離されると死の恐怖が湧いてくる

瞬間の「いま」が存在するだけで未来も過去も存在しない

13Ken Wilber.jpg 「永遠」という言葉は一般的には何億、何百億年と果てしなく続いていく非情に長い時間だとされている(1p109)。けれども、ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は、一遍(1239〜1289年)が「あらゆる瞬間は最後の瞬間であり、あらゆる瞬間は再生である」と語っているとして(p136)、永遠とは果てることのない時間ではなく、時間がないという自覚が永遠であると述べる(1p111)。確かに、仏教によれば「無常」とは瞬間瞬間の生滅で、ある意味では誕生と死である(7p172)

 現在の瞬間には始まりはない。同じ理由で、現在の瞬間に終わりもない。すなわち、現在の瞬間には、過去もなければ未来もない。時がないのである。そして、時がないものは永遠であろう。ウィルバーによれば、現在こそが唯一のリアリティであって、果てしなく続く時間という概念の方がある種の奇形なのである(1p111)

環境と自己が切り離されることで死の恐怖が生れる

 それでは、なぜ、「時間」という奇妙な概念は作り出されたのであろうか。ウィルバーによれば、強烈な時間感覚は、環境と身体とが切り離されたことによって生じた死の恐怖が創り出したものである(1p136)

 動物にも死はある。けれども、年老いたネコは来るべき死の恐怖にさいなまれているわけではない。静かに木の根元にうずくまり死んでいく。瀕死の駒鳥も柳の木にやすらかにとまり日没を見つめ、もはや光がみえなくなったとき目を閉じて静かに地面に落ちる。人間の死に際となんと違うことか(1p36)

articles_009_image1.jpg ウィルバーによれば、エゴが作り上げるあらゆる境界で、最も基本となるのは、自己と非自己との境界である。すなわち、自己と非自己との境界は最初に引かれた原初の境界で、エゴが最も明け渡したがらず、最後まで消え去さらないのは、この境界である(1p83〜84)

 そして、この原初の境界が発生すると、人は自分の身体と環境にアイデンティティをもたなくなり、自分が知覚する世界と一体ではなくなる。皮膚を境にして身体は自己であっても、環境は非自己となり、環境と対立した自分の身体だけにアイデンティティを持つようになる。すなわち、自分が孤立した有機体として生きているとイメージするようになり、身体と環境との対立が作り出される(1p132)

 そして、この原初の境界の発生によって、「統一意識」は孤立した自己の「個人の意識」となる。そして、「真の自己」が特定の身体の中にだけに閉じ込められているとイメージすると、その有機体の死の不安が頭から離れなくなる。死に直面するのは部分だけであって全体ではないのだが、自己が環境から切り離される瞬間に死の恐怖が意識の中に生じてくるのである(1p132〜135)
死の恐怖によってまず未来という時間が作り出された

 それでは、過去と未来とではどちらが先に生じたのであろうか。ウィルバーによれば、それは、未来である(1p137)。死とは「未来」がなくなる状況である(7p175)。死を受け入れるということとは、未来を持たなくなることを受け入れることに他ならない。逆に言えば、死を拒絶することとは、未来を持たずに生きることを拒絶することに他ならない。こうして、時間が最も貴重な持ち物となり、かつ、未来が唯一の目標となるのである(1p137)。けれども、未来とは思考が作り出すイメージにすぎない(7p175)
いま、ここを生きられれば死の恐怖は消える

 過去も現実には存在していないし、過去とは「記憶」にすぎない。けれども、前方に未来を求めれば、それとセットで後方には過去が登場することになる(1p139)。要するに、未来も過去も現在に境界の線を引かれた幻想の産物にすぎない(1p116)。すなわち、未来への心配も、過去への後悔も、思考の物語によって、「いまここ」で構築されつつある概念にすぎない(7p142)。そこで、ただ「いま、ここを生きる」ことに安住できれば(7p175)、死は問題ではなくなり、過去や未来の考えにとらわれることも少なくなり、良寛(1758〜1831年)の「死ぬときは死ぬがよろしき候」という境地になれる(7p176)

エゴが消滅し環境との統合されると慈悲のエネルギーが湧いてくる

空を体験する

「心身一如」の意識が達成されると、意識はさらにトランスパーソナルな領域へと入ってゆく。そして、究極の統一意識、宇宙との一体感の回復を目指すものがヴェーダンタや大乗仏教、道教、秘教的な回教、秘教的なユダヤ教、そして、秘教的なキリスト教ということになる(3p109〜110)
 ウィルバーは、トランスパーソナルなレベルの内部で、以下の三つのサブレベルを設定している。

 @マインド(心霊の段階)
 Aソウル(魂の段階、微細な段階)
 Bスピリット(コーサルの段階) (2p107)
20160707shunryu suzuki.jpg ウィルバーは『初心善心』で知られる鈴木俊隆(1905〜1971年)老師の下でかなり熱心に座禅を学んだ(2p91)。このこともあって、神秘体験や超常現象(体外離脱体験、ESP、透視、念力、テレパシー、過去生体験等)は一番下のレベルに位置づけられている(2p107)

 ウィルバーの関心はそれを突き抜けた東西の宗教の伝統で、空、無、ブラフマン、神等と呼ばれてきた絶対者との合一体験、さらに、それさえも消え去る「無境界」の状態、西田哲学でいう「絶対矛盾の自己同一」、般若心経で言う「色即是空」「空即是色」の世界にある(2p108)

エゴの構築のためのエネルギーが不必要になればそのエネルギーを慈悲にまわせる
 動物は身体的な痛みを恐れるが、人間はそれ以上に、心が傷つくことや自我の死を恐れている(7p177)。自我が苦しみのもとになるのは、認知され構築された自我イメージが執着の対象となり、その維持のために膨大なエネルギーが浪費されるからである(7p167〜168)。けれども、ヴィパッサナーでの洞察を深めていくと、「私」や「自我」と称されるものが、様々な感覚や認識作用から構成された概念にすぎないとの理解が深まる(7p140)。消耗的な心のアクションが次第に減り、過去の習慣パターンの奴隷にならずにすむようになっていく(7p134)。そして、自我への執着が緩んでくると、自我の消滅に脅えていた感情エネルギーや自我を維持するために投入されてきた行動エネルギーが浪費されなくなる。そして、生きのびるために必死でいる人間存在を慈しむ思いがわいてくる(7p140)

 ウィルバーは、神秘家たちが強調してやまない普遍的な慈悲は、トランスパーソナルな直感から生じるとして、その理由をこう説明する。
「環境と身体との境界が取り払われた超越的な自己となると、環境のなかの全対象を自分自身として扱い始める。すなわち、超個体レベルでわれわれが他を愛するのは、相手が自分を愛したり安心させてくれるからではなく、相手が自分自身だからである。自分の腕や足を世話するように周囲を思いやるようになるのは、世界とは自分の身体であり、また身体として扱わなければならないからなのである。キリストの第一の教えは、『自分自身を愛するように隣人を愛せ』ではなく『隣人を自分自身として愛せ』と言う意味なのである」(1p228)

観音菩薩はエゴから解放されたパーソナリティのシンボルである

 求めるものが得られない苦しみを仏教では「求不得苦(ぐふとっく)」という。この苦がはっきりと観ることができたとき、ある種の畏怖感とともに深い洞察智が生じる(7p219)。これを「サンヴェーガ(samvega)」と呼ぶ。そして、人間存在のかかえる根源的な切なさが得心でき、深い慈悲が生まれるとしている(7p219)

 2016010901.jpg自分の心の傷をごまかすことなくしっかりと見つめていると、他者の心の傷にも優しい気持ちになれる。そして、宮沢賢治のように世界全体が幸せにならない限りは私の幸せもありえないという心境になってくる(2p226)。こうして自我から解放され、理想のパフォーマンスを行うパーソナリティを象徴しているのが観音菩薩なのである(7p141)

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【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ
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2016年07月08日

トランスパーソナル心理学入門B〜人生のミッションを知るプロセス・ワーク

基本的な欲求が満たされなくても人は自己実現を目指す

13viktor.jpg マズローの理論からすれば、「自己実現」という上位の欲求は、生理的・安全的欲求が満たされたうえでのみ満たされるはずである。けれども、オーストリアの心理学者、ビクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905〜1997年)博士が、目にしたのは、悲惨な状況の中でも耐え抜いた人がいたことだった。フランクル博士は、「基本的な欲求が満たされなくても人は崇高に生きられるのではないか」と考え、それをマズローに問いかけてみた。マズローの答えはイエスだった(4)

すべて人は未来からの可能性の呼びかけに応えるために存在している

 「私の人生は何をやってもうまくいかない。ただの一度もいい思いをしたことがない。誰にも必要とされていないこんな人生は、生きるに値しないのではないか」

 こう思い悩む人は、こうした思考法を止め、自分のことを待っている誰か、自分のことを必要としている何かに目を向けてみるといい。とかく、人は人生の意味を問いかける。けれども、フランクル博士は、「人生」の方が人間に問いを発していることから、人生の意味を問いかける必要はないと考えた。これは、人生の意味についての立ち位置を180度転換するものである(5)

 フランクル博士によれば、この世には、かならずあなたを必要としている「何か」や「誰か」が存在している。そのつながりの中で人は生きている(5)。すなわち、どの人にも絶えず実現されることを待っている「可能性」が存在している。その可能性は、絶えず、今に先行して、未来から「可能性」を呼びかけている。この未来からの可能性からの呼びかけに応えるために、私たちは存在しているとも言えるし(3)、誰しもが、この人生からの呼びかけに応える責任を持っているとも言える。フランクル博士によれば、答えなければならないのは、人生からの問いなのである(5)

 そこで、空虚感におそわれる人に対して、フランクル博士は「未来にあなたを待っているものに目を向けよ」と示唆する。あなたに見出されるものを待っている「何か」を探せと外に目を開くことを促す(5)

実存的不安はトランスパーソナルへの発展の悩み

「どんなにあなたが絶望していても人生の方であなたに絶望することはない」

 フランクル博士のメッセージは数多くの絶望する人の魂を救ってきた(5)

 プレパーソナルなレベルでは、自分を殺してしまい自分の人生が無内容であると空虚感をいだくと述べた。けれども、健全な自我が確立されていたとしても、自分はあっても、あるべき「つながり」から切り離されてしまっているがために抱く空虚感もある。これは、自己発展の途上にある人がさらに成長していくための空虚感である(2p173)。パーソナルな自己実現の段階から、トランスパーソナルな高次の段階へと進むための苦しみといえる(2p175)。フランクル博士によれば、人生の意味を疑うことは、最も人間的な表現なのである(2p176)。そこで博士はこれを「実存的空虚感」と呼んだ(2p173)

 それでは、この実存的空虚さを乗り越えるにはどうしたらよいのだろうか。諸富祥彦教授によれば、方法は二つある。ひとつは、フリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844〜1900年)のように人生の無意味さを直視することである。世界には何の目的も終わりもなく、一切はただ永遠に意味もなく「永劫回帰」しているというニヒリズムを徹底することである。すると、哲学者、京都大学の西谷啓治(1900〜1990年)名誉教授の言う、すべてを肯定する地平が逆に開けてくる(2p176)

 もうひとつは、ひたすらこの世に生れてきた意味を求めていくことである。すると、エゴの働きが次第に弱まり、消え失せ、それと同時に自分ではない何かが自分の内側にあることに気づく(2p177)。古い自分であるエゴは死に、これまで自分であると思っていた自分が、「内なるいのちの働き」によって生かされている自分のほんの一部でしかないことに気づく。エゴが死んで無我になり、真の自己に目覚める。この「死と再生」ともいうべき深い自己変容体験の中から、本当の自分とは何かという答えを「向こう」から告げられるのである(2p178)

人生の出来事には意味がある〜ヒルマン博士の「魂のコード」

20160707James Hillman.jpg『魂のコード』の著者、米国の心理学者、ジェイムズ・ヒルマン(James Hillman, 1926〜2011年)博士は、子ども時代の心の傷によって人生が決定づけられると考える「トラウマ理論」を厳しく批判する(2p185)。トラウマ理論では、人生そのものが、安っぽい心理学的な物語に矮小化されてしまうからである。その代わりに、人生には理屈では説明できない「何か」があり、その運命の守護霊(ダイモーン)によって、自分がやらなければならないある道に呼び込まれて行くのだと運命の感覚の復権を説く(2p186)。ヒルマン博士は、日々の出来事には意味があるとして、人生の使命、摂理といった古い観念を蘇えらす(2p187)。そして、フランクル博士と同じように、毎日のささいな出来事に「向こうからの呼び声」を聴くことの大切さを強調する(2p183)

 どのような仕事であれ、たまたま与えられた仕事だとみなしていては心を込めてすることはできない。逆に、どんなささいな仕事であっても、そこに眼に見えない「ご縁」を感じることができれば、ひとつひとつの仕事に慈しみを感じて、丁寧に取り組むことができる(2p189)。自分の仕事を「天職」として受け取る感覚が育まれる(2p188)

 仕事と同じように人間関係や出会いも、自分の意図を超えた運命、ご縁の力が働いていると感じれば、様々な出会いがすべてかけがえなき慈しむべきものに思えてくる。

「たまたま適性があったからこの仕事に就いたのだ」とか「たまたま適齢期で条件があったから結婚したのだ」と割り切って生きていくと、心を込めて人生を生きて行くために必要なとても大切な何かを失ってしまう(2p190)

 ヒルマン博士の『魂の心理学』は単なる運命論ではない。人生には意図を超えた運命の力が働いているが、ほとんどの人はそれに気づかず、人生を粗末に扱う習慣が身に付いてしまっている。そこで、人生に働いている運命の力を思い出して、自覚的に生きよ、と説く(2p191)

シンクロニシティが続くとフローの人生を生きられる

06mihaly.jpg 自分の意図や努力を超えて働いている力を自覚することは、ハンガリー出身の米国の心理学者、クレアモント大学院大学のミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi, 1934年〜)教授の言う「フロー」の概念とも合致する(2p191)

 テレビをつけた瞬間に自分に重要なニュースが流れてくる。バス停に着いた途端にバスが到着する。コーヒーを飲みながら気になる人を思い浮かべていたら、自分の目の前にその人がいた。こうした偶然をシンクロニシティと呼ぶ(6p89)

 不思議なことだが、「人生」からの呼びかけに無心になって生きるとき、人生全体の隠れたミッションが顕在化していく。この流れに乗って生きていくとき、ミッションの実現に必要なものはすべて自ずから与えられはじめる。起こるべくしておきた偶然は、もはや偶然ではなく、「シンクロニシティ」であると言える。そして、人生の決定的な場面では、シンクロニシティが顔を出すことが多い。シンクロニシティが頻繁に生じ始めると、自分を超えた大きな流れが人生で働き始める。チクセントミハイは、教授はこの流れを「フロー」と名付けた(3)

フローの人生を生きていると人生への疑問も解消される

 自分の意志を超えた大きなフローが生じ始め、こうしたフローの中で生きているとき、適切な場所で適切なときに、適切なことをしているという感覚を抱く。マネーであれ、仕事のチャンスであれ、人生の流れを前進させるのに必要なものがちょうどよいタイミングで与えられる不可思議な出来事が頻発していく。また、心はウキウキしているが平静であり、自分自身を超えた偉大な何かとのつながりを感じ、人生は意味と目的に満たされ、生きる意味や目的への疑問はおのずから解消される(3)

 いま自分はこの人生を生きていて、共にいるべき人と共にいて、この人生で自分が行うべきことを行っているという感覚が持てるとき、私のことを必要としている誰かがいて、私のことを必要としている何かがあって、私はその何かや誰かとつながることができているという感覚を持てるとき、どれほど貧しく、どれほど孤独で、どれほどさみしく、どれほど健康を害していても、心の深いところで生きる意味を実感しつつ生きていける。すなわち、魂のミッション、生きる意味、精神の気高さという心の一番深いところで、生きる意味と使命感が満たされた生き方を得ることが大切なのである(4)。そうすれば、どのような挫折や失敗があっても幸せといえるギリギリの幸せが得られる(3)

 何やら新手の宗教のように思える(4)。けれども、心の深いところで満たされた人生を生きている人は、「私はなすべきことをなしている」という実感を抱いて、人生を意味あるものとして感じ生きていることが多い(2p192,4)。実際、諸富祥彦教授は、カウンセリングを通じて、そうした気づきに多く立ち会ってきた(5)

二つの選択肢〜すべての出来事には意味がある

 人間は驕慢な生き物である。何事もなく平穏な日々を過ごしているとますます驕慢となり、自己中心的になっていく。つらく苦しい悩ましいできごとを経験しなければ、自分を深く見つめて人生を変えていくことはできない(5)

13Mindell.jpg そこで、思い出すことすら辛い出来事や、慢性の病、障害や死といった否定的なことも含めて、「人生のすべての出来事には意味がある」、「ある種の必然性をもって、起こるべくして起こっている」とアーノルド・ミンデル(Arnold Mindell, 1940年〜)博士は考える(2p162,5)。それとしっかりとかかわることで私たちの魂は耕され人生は豊かになっていく(2p219)。なぜならば、すべてのできごとは、気づきと学び、自己成長の機会であって、「それに対してどう答えるのか」を迫ってきているからである(5)

 ここで、二つの選択枝がある。ひとつは人生からの「問いかけ」に耳を貸さず、心を閉ざし続け、これまでと同じパターン化された日々を繰り返していくことだ。結果として、何を学ぶこともなく人生に大きな変化も生じない(5)

 もうひとつは、人生で起きた辛く苦しい体験に正面に向き合い、「できごと」が自分に何を学ばせようとしているのかを丁寧に振り返り、自分を深く見つめることだ(5)

 もちろん、この未来の可能性に対して、どのように応えるべきかは本人の自由である。けれども、この呼びかけを満たせる「最善の答え」はひとつしかない。その意味で、人生は半分は自由であり、半分は決まっているとも言える(3)

人間は目的を持って生まれてくる

 人は偶然としか思えない出来事を通じて「運命の人」と出会ったり、自分の「天職」とも言える仕事に出会ったりする。そして、偶然の出会いを通じて知らず知らずのうちに「運命の道」へと誘われていく(2p164,6p164)

 実は、すべての人間は、この世で果たすべき「使命と課題」をもって産まれてきている(5)。この人生で果たすべき暗黙の「使命(ミッション)」を刻印されて、一人ひとりの「魂」はこの世に産まれてきている(バースディ・プロミス) (3,4,5)。逆に言えば、そのミッションを生きて、現実化し、使命を果たすために、人はこの世に産まれてきたのである(4)。そして、この自分の魂に刻み込まれたミッションを発見したとき、「ああ、これこそが、私が生きることになっていた人生だ」「このことをなすために、私はこの世に生まれて来たのだ」という感慨を覚えることが多い(2p165,3,5, 6p93)。自分の人生に課された使命を「暗黙の予感」として発見でき、これまで歩んできた道が運命の道であったことに気づく(5)

ミンデル博士のプロセスワーク

 この人生における大切なメッセージに気づくうえで最も優れた方法が、ミンデル博士の確立した『プロセス志向の心理学』である(2p193,3)。ミンデル博士によれば、人は誰も自分がどう生きればよいのかの深い心の知恵を持っている(6p118)。それが、ささやきの声、静かな沈黙の呼びかけ、サイレント・コーリングである(6p170)。そこで、博士も「センシェント」と呼ばれる繊細な感覚を重視する。この感覚があれば、何が本当に必要で、何が不必要かが見分けることができるようになっていく(3)

13Ken Wilber.jpg この宇宙のすべてはつながっている。一見するとバラバラに思えるものも、すべては究極的な一の顕れである(3)。ミンデル博士は、人生の流れや人生の方向性を作り出している源の力を人知を超えた「プロセス・マインド」だと考える(3,6p119)。ミンデル博士のものの見方には、老荘思想のタオや量子力学、アニミズム的な気配が漂う。そして、これをケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は「スピリット」と呼ぶ(3)

 普段目にしている現実の次元とは別に、それは、スピリットや内なるタオイストの賢人、仏性、慈悲、システムマインド等と多くの哲学や宗教で呼ばれてきたより深い次元、エッセンスの次元がある(3,6p119〜120,6p180)。それは、時空間に束縛されず、すべてを知っている深い知恵である(6p180)。米国の先住民やオーストラリアのアボリジニたち、とりわけ、シャーマンは、ミンデル博士が「プロセス・ワーク」で使う「心の魔法」を身に付けていたと言える(6p182)

魂が喜ぶ人生を生きることが幸せにつながる

 フランクル博士は、幸福は決して目標ではなく、結果にすぎないと述べているが(6p156)、本当の幸せを手に入れるためには、幸せを求めるのではなく、何か自分が大切にしたいものを大事にしたり、自分の人生で成し遂げるべき「使命」に取り組んだり、愛する人のために尽くしたりすることなのである。そして、我を忘れて何か夢中になっているときに、幸せだと感じられる状態がやってくる(2p158)

 自己を超えた生命の流れがある。この偶然のつながりから、様々なシンクロニシティが産まれてくる。人生で劇的に大きな流れを創りだし、成功や幸せを手にできる人は、このシンクロニシティに対して開かれた心の姿勢を持っている人が少なくない。大切なことは、人との出会い、つながり、ご縁を大切にすることなのである。幸せになれる人は、自分にあまり関心を注がない。逆説的だが、この世界を信じて愛することが、巡り巡って真の幸福を与えることにつながる(3)

 日々魂が喜ぶ毎日、悔いのない人生を生きるためには、収入よりも、ただそれをしているだけで魂が喜ぶ仕事をする。あるいは、勤務時間が一定で残業等がなく、残りの時間でできるだけ魂が喜ぶことのために時間を使うしかない(2p150)。もちろん、魂が喜ぶ仕事は人によって違う。とはいえ、魂が喜ぶ仕事に就くことは、間違いなく、多くのお金を稼いだり、高い社会的地位に就くよりも大切なことなのである(2p151)

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【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ
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2016年07月07日

トランスパーソナル心理学入門A〜身体と心を調和させるフォーカシング

シャドウに向き合うことがエゴを健全なアイデンティティへと広げる身体の感覚を取り戻す

 『創世記』によれば、アダムがしたことは、モノに名前を付ける、すなわち、あるグループとグループの間に境界線を引くことであった(1p38)。生と死、善と悪、愛と憎悪、自己と他者。私たちは境界の世界に住んでいる。そのために争いと対立の世界に住んでいる。私たちが抱えている問題の大半は、「境界」とそれが生み出す対立の問題だといえる(1p42)

 対立は、ゲシュタルトの知覚理論によってよりはっきりする。ゲシュタルト心理学によれば、私たちは対照をなす背景との関係性なくして、モノや出来事を知覚できない。例えば、夜空に星が見えるのも、個別の星が見えているからではなく、暗い背景に明るい光が認識されるからである。一方の闇なくして他方の光を知覚することは絶対にできない。同じく、快楽も苦痛なくして自覚できない。快楽と苦痛が交互にやってくるように思えるのもそのためである。互いのコントラストと交代をとおしてしか、互いの存在を確認できない(1p47〜49)

死の恐怖が身体と心(エゴ)の分離を生んだ

 20160707Alexander lowen.jpgペルソナからシャドウが投影されるように、「有機体」の中に境界が引かれ、身体は「非自己」として投影されてしまっている。米国の精神科医アレクサンダー・ローエン(Alexander Lowen, 1910〜2008年)博士は、この状態を霊的領域と身体とをブロック(封鎖)していると表現する(1p182)

 肉体が罪と同義語になるのはそのためだ。確かに、身体は苦痛の源である。けれども、同時に快楽の源でもある(1p185)。病による衰弱、癌の苦しみを感じるのは身体だが、同時に、エロティックなエクスタシーから、美食の味、日没の美しさを感じるのも身体の諸感覚である(1p20)。だから、エゴは苦痛もないかわりに喜びもないという大きな代償を支払っていることになる(1p185)

13Ken Wilber.jpg それでは、なぜ、身体と心は分離したのだろうか。ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)によれば、この身体と心(エゴ)の分離を産んだのは、死の恐怖である。人は、自分の肉体が必ず死ぬことを知っている。そこで、エゴは死をイメージさせる身体を押しやって、自分の観念を中心にアイデンティティを確立し、エゴとしてだけ生きのびようとする(1p137)。こうして、身体と心に境界が発生し、身体はエゴである「騎手」にコントロールされる「馬」の役割に格下げされてしまう(1p140)

 こうして多くの人は、身体と心との間に無意識に深い境界線を引いて、身体感覚を喪失している。健全なエゴがペルソナとシャドウに切り離されているように、誰も「頭」だけが私となっていて、「身体」は「私」に所有される「私のモノ」となっていて「私」ではなくなっている(1p181)。頭の中の自己のイメージとそれに関連した知的・感情的なプロセスにアイデンティティを抱いている(1p21)

 投影していたシャドウに向き合い、それを再び所有しなおせば、貧困なペルソナから健全なエゴへとアイデンティティを広げることができる。ペルソナとシャドウとの分裂が癒され、境界が消え失せれば、より大きく安定したアイデンティティの感覚を味わえる。閉塞したアパートから心地よい家に移るようなものである。そして、心地よい家からさらに広々とした邸宅に移るためには、身体を再び所有しなおせばよい(1p180)

身体の感覚を取り戻す

 そこで、ウィルバーは、身体と心とが完全に統合され調和している「心身一如」の状態を表すものとして「ケンタウロス」の状態と呼ぶ。ケンタウロスとは半身半馬の伝説的な動物で、騎手は自ら馬を監督するではなく馬と一体化しているからである(1p140)

 エゴは現状が幸せではないと感じて、モノで身のまわりを取り囲むことで喜びを産みだそうとする。けれども、これは、喜びや幸せは外から呼び寄せられるという幻想を強めるだけである。そのうえ、エゴが意識的に対応できることはせいぜい二つか三つにすぎない(1p202)

 例えば、エゴは自分がコントロール可能な随意行動だけに自分を同一化させ、それ以外の自発的な不随意な行動は非自己的なものとしている。例えば、「わたしは腕を動かす」とは言う。けれども「わたしは心臓を脈打たせている」「わたしは血液を循環させている」「わたしは食べ物を消化させている」「わたしは髪の毛を伸ばしている」とは言わない。つまり、身体が、無意識に行なっている消化、代謝、成長・発達等の不付随な活動を自分とは認めない(1p184)。一方、身体はエゴの助けも借りずに、消化作用、神経伝達等、何百万ものプロセスをいまこの瞬間にも調整している(1p202)

 そこで、ケンタウロスのレベルに立ち返り、心身一如を取り戻すことは、身体そのものから喜びが湧き出ていることに気づくことになる(1p202)

自我の確立や自己実現を超えた実存的自己の心理学

 従来の心理学は、人間の心の成長を自我の確立(フロイト)や自己実現(人間性心理学)までしか描いてこなかった(2p98)。個人の幸せや自己実現だけを追求してきた(2p226)

 確かに、人生にエゴ的な意味を見出すことは、ある時点までは適切なことである。けれども、例えば、健全なエゴを発達させ、車や家を手に入れ、仕事で認められ、モノを買い集めた後にはどうなるのだろうか。外に物質的な欲望を追求することに魅力がなくなったとき、待っているものがただ死だけであることが明らかになったとき、どうすればよいのであろうか(1p205〜206)

 仏教では「マナ」、日本語の「慢」は煩悩のひとつとされている。プライドやセルフ・エスティームは低次元の段階では持つことが望ましいが(7p209)、最終的には卒業する必要がある(7p210)

 人生はいつ突然に最後の日がやってくるのかどうかわからない。もし、明日死ぬとしたら今日の朝ごはんが最後の朝ごはんとなるのである(6p141)。いくらお金を稼いでも、いくら高い社会的地位に就いたとしても、そんなものはあの世には持っていけない(6p152)。とすれば、今日が人生の最後の日になるかもしれない。そんな思いを胸に刻んで一瞬を心を込めて生きるしかない(6p142)

 20160707E. E. Cummings.jpg人生の真の意味を見出すことは死を受け入れることであろう。米国の詩人、画家、随筆家、E・E・カミングス(Edward Estlin Cummings, 1894〜1962年)は、エゴを超えたところには、「すること」が減り、「ただ在ること」が増えることがあると指摘する。そして、意味はモノを所有することではなく、友人や社会との関係性、自分自身の存在という光輝く内なるフローに見出される(1p205〜206)

20160707rollo may.jpg すなわち、ケンタウロスのレベルを復活させることは、アブラハム・マズロー(Abraham Maslow, 1908〜1970年)の「自己実現」、あるいは、米国の心理学者、ハーバード大学のロロ・メイ(Rollo May, 1909〜1994年)教授の言う『人生の意味』が関わってくる(1p204)。エゴだけの狭いアイデンティティを手放し、ケンタウロスのレベル、エゴと身体を同一化し、心身が統一されたアイデンティティを確立することは、実存的自己の発見を意味する(1p186,206)。 

人間性心理学がトランスパーソナル心理学のベースとなった

 トランスパーソナル心理学が誕生する以前には、心理学には三つの流れがあった。第一は、行動主義心理学、第二はフロイトの精神分析から生れた心理学(2p62)、第三が、この二つを批判する形で産まれてきた人間性心理学(実存心理学・現象学的心理学)である(2p63)

 マズローも晩年には「自己実現欲求」のさらに先に自己実現を超えた心理学「自己超越欲求」がある考えていた(2p66,7p210)。このマズローの呼びかけを受け、カリフォルニアのパロアルトのグループが、自我を超えた体験の研究を始める。そして、1960年代後半にマズローとメリーランド精神医療研究センターのスタニスラフ・グロフ(Stanislav Grof, 1931年〜)研究部長とが話し合った結果、この新たな心理学に「トランスパーソナル」という名前が付けられる(2p66)

 それ以前にはトランスパーソナルという言葉は、1905年にウィリアム・ジェイムズが使い始め、1916年にはカール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875〜1961年)が「集合無意識」の意味で用いている。また、イタリアの精神科医、ロベルト・アサジョーリ(Roberto Assagioli, 1888〜1974年)もハイヤー・セルフという言葉をかなり古くから使っていた(2p67)

 1969 年、マズロー、グロフを中心に、オーストリアの心理学者、ビクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905〜1997年)博士、ロベルト・アサジョーリ、アーサー・ケストラー(Arthur Koestler,1905〜1983年)、イギリスの哲学者、アラン・ワッツ(Alan Watts,1915〜1973年)らが賛同し、トランスパーソナル心理学会が創設された。そして、その翌年、1970年にマズローは心臓発作で急逝している。その死が一年早かったならばトランスパーソナル心理学はこの世に誕生しなかったかもしれない。おそらく、トランスパーソナル心理学会の創設がマズローのいのちに与えられた最後の使命だったのであろう(2p68)

 13Carl Rogers.jpgそして、トランスパーソナル心理学の発展には、アブラハム・マズローだけでなく、カール・ロジャーズ(Carl Ransom Rogers, 1902〜1987年)博士のクライエント中心療法、ユージン・T・ジェンドリン(Eugene T. Gendlin, 1926年〜)博士のフォーカシング、フレデリック・パールズ(Frederick Perls, 1893〜1970年)博士のゲシュタルト療法、フランクル博士のロゴセラピー等が大きく貢献する(2p44,2p63)

エゴと身体の分裂を回復するフォーカシング

 ウィルバーの自己成長論の意義は、人間の自己成長を最後のトランスパーソナルなレベルまで描き切ったことにある(2p115)。パーソナルからトランスパーソナルへのこの段階は、自分の人生を生きられるようになった人が、さらに進んでいく段階で、トランスパーソナル心理学がこれまで最も強調してきた段階である(2p120)。そして、エゴと身体に分裂したエゴ意識を身体も含めた人間として全体性の回復を目指すのが「フォーカシング」等の「人間性心理学」で(3p109〜110)、自分を離れたところから見る「眼」を養ううえで最も優れた方法が「フォーカシング」である(2p154)

 フォーカシングの専門家、関西学院大学の池見陽教授のイメージ図に意識のスペクトルを書き込んでみたものを作ってみた。

ウィルバー.jpg カール・ロジャーズは「自分が自分を受容的に耳を傾けられるとき、自分自身になれるとき、私はよりよく生きることができる」と述べ、自分の心の声を他の誰かに聞いてもらう『傾聴』が大事だとしていたが(5)、フォーカシングは、ロジャースとその弟子であるユージン・T・ジェンドリン(Eugene T. Gendlin, 1926年〜)博士が、カウンセリングの中から作り上げた方法である。カウンセリングが成功する場合と失敗する場合との違いを研究した結果、自分の内側のまだ言葉になる以前の漠然とした感覚にふれ、そこから言葉を語っているときに、カウンセリングは成功していた。そこで、このエッセンスを取り出し体系化・技法化したのである(2p166)

 フォーカシングは向こうからやってくるものに心を開き、それを受動的に受け止める(2p160)。ジェンドリン博士は、この人生からの呼びかけを「暗黙への生起(Occuring into implying)」と呼ぶ(3)。このため、ネガティブな自己イメージをポジティブな自己イメージへと変える「認知療法」とは正反対度の態度で(2p160)、正も邪も、明も暗も、等しく認め、そのまま受け入れ、離れたところから自分自身を見る「眼」、高次元の自分を育む(2p170)

20160707Ann Weiser Cornell.jpg『やさしいフォーカシング』(星雲社)の著者、アン・ワイザー・コーネル(Ann Weiser Cornell,1949年〜)博士は、すべてをあるがままに認め、許し受け入れる自分へのまなざしを「より大きな私」と呼び、それは慈悲に満ちたブッダのようなものだと語る(2p168)

見えない世界からの呼びかけに耳を澄ます

 フォーカシングでは、何かを伝えたがっている内なる私がいると考える。それが、「あいまいで重たい感じ」として感じられる。これを「フェルト・センス」と呼ぶ(2p157)。とかく、「小さなことにくよくよするな」と自分の内側にある漠然とした違和感を無視しがちである。けれども、フォーカシングからすれば、それは気づく必要のある大切なメッセージをゴミ箱に捨ててしまうような粗雑な生き方なのである(2p159)

 一人静かな時間を持ち、人生全体からの呼びかけをからだ全体で受け止めてみよう。私たちを超えた何かの力。私を超えた向こうからの呼び声。妙に気になる夢。人間関係のトラブル。なぜか思い出す映画の一場面。たまたまつけたテレビドラマの登場人物が語る言葉。気づく必要のある大切なメッセージは様々な形でやってくる。沈黙すると、ひっそりと届けられる呼びかけの声、「サイレント・コーリング」に気づく(3)

13gendlin.jpg この人生や状況からの呼びかけに対して心を閉ざし、自分自身に関心を向けていくと、それは自己愛や自己執着につながる。昨今のスピリチュアル・ブームが危険なのは、こうした新たな自己執着や虚しさを産むからである(3)

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【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ

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2016年07月06日

トランスパーソナル心理学入門@〜神秘体験よりも健全な自我の確立を

日本社会はなぜ生きづらいのか

選択と自己責任を強いる冷たい社会

 現代は自分探しの時代だと言われる。学校においても会社においても、個性を発揮する自分らしさが尊重されている。けれども、これほどまでに自分探しや個性が求められることそのものが、現代社会の病理といえる(5)

 そもそも複雑化した現在社会の中で、自分らしく生きることそのものが難しい(5)。しかも、人生の選択肢の幅はますます広くなっている。仕事や結婚をはじめとして、自分がどのような人生を歩むのかが絶えず問われ続けている。そして、人生の幸や不幸のすべてはこの「自分の選択の結果」だと誰もが思い込まされている(4)

 すなわち、いま不幸なのは自分の選択の誤りのためだ、結局、自分が悪いのだという思いを抱かざるを得ない自己責任社会なのである。そして、この自己責任社会の背景にあるのは、冷たい新自由主義的な考え方である(4)

他者との能力比較で評価される自分は歯車でしかない

 また、日本社会が求める「自分らしさ」や「個性」は、絶えず他者と比較することによって評価されるものである。けれども、学歴や収入等、他者との比較によって生きていれば、どこまで自分を高めたところで、自分は常に自分と同じ能力を持つ他の誰かと交換可能な存在でしかない。そして、多くの人たちが、日本社会とは、効率性がすべてに優先され、自分は交換可能なただの歯車のような存在でしかないことを実感している(5)

日本の個を殺す「つながり主義」が人々を閉塞させている

 『戦争論』において、小林よりのり氏は「公共性から切り離された個人主義はエゴイズムと変わりなく、日本人は倫理も美意識も失った」と個を殺した滅私的なつながり、「公偏重」の立場を主張してみせた(2p55,2p57)。小林氏の指摘は、ある意味で正鵠を射ている。けれども、限定され、閉ざされた「つながり至上主義」ほど、危険なものはない(2p57)

 日本では、親の過干渉でアダルトチルドレンが生れる等、個を窒息させる「つながり主義」が根強い(2p55)。とりわけ地方では「個を殺したつながり」を良しとする風潮が残っている(2p58)。これに対して、誰もが極端に孤独を恐れるあまり、まわりにあわせることに過敏になっている(2p31)。「いつも元気で明るくでいよ」という親の過剰な要求が子どもたちを苦しめている(2p33)

日本は誰もが自分を殺し匿名の誰かを演じる閉塞社会である

 すなわち、日本は「普通」から外れることに大きな不安を覚える社会である。大半の日本人は人並み教、「ふつう教」の信者である。そこで、「普通」から外れることに対して多くの人が自己否定感を募らさざるをえない。これは異様な社会といえる(4)

 このため、誰もが相手や世間から受け入れられる「匿名の誰か」という仮面を演じるようになっている。その背景にあるのは、集団から排除される不安、孤独に対する不安である(5)。自分の人生は自分が主人公のはずである。けれども、他者に服従したり、迎合したりして、他の誰かのために生きていると虚しさを覚えてくる(2p173)。他の誰かからの愛を失うことを恐れてひたすら相手に迎合し続けていくと、自分の人生が自分のものではなくなっていく。これは、日本人が陥りがちな自己喪失の典型的なパターンなのである(2p126)

 世間の価値観や物事の見方にあわせることで、自分を失う人のことをマルティン・ハイデガー(Martin Heidegger,1889〜1976年)は『ダス・マン(頽落した人)』と呼んだ。モノやマネーはあっても夢はなく、上辺の人間関係はあっても深いつながりはない。こうした閉塞感に包まれた時代を私たちは生きている(5)

個を賛美する相対主義にはニヒリズムが伴う

 そこで、他者の期待に応え、他者を喜ばせる「偽の自分」を演じるのを止め、自分が自分の主人公になる必要がある(2p123,3p46)。こうした日本の状況に対して、首都大学東京の宮台真司教授は、ポストモダンの相対主義を提唱し(2p52)、バラバラの個人主義を重視する(2p55)。これは、「腐ったつながり」を断ち切る意味では、大きな意味がある(2p58)。けれども、つながりを欠いた個人主義は抑圧的な人間関係や集団への埋没から個を解放することに役立っても、その先がない(2p59)

 日本では1980年代にポストモダンが流行した。ポストモダンは、フリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844〜1900年)の「パースペクティビズム(遠近法主義・観点依存性)」を源流とし、誰にとっても普遍的な真理はないと考える(2p51)。けれども、ポストモダンは大きな無力感を与える思想でもある(2p52)。宮台教授は「人生には意味もクソもない」と主張するが、そこでは個人の成長や真善美といった価値の一切が否定され、この世界は極めて荒涼としたフラットランドに化してしまう(2p90)。「私はここにいてもいなくてもかまわない」という相対主義には虚しさの感覚が伴う(2p215)

「個が生きる」つながりを目指すトランスパーソナル心理学

現代社会の問題の根底には物質主義と個人主義がある

 13Ken Wilber.jpgこうした相対主義に対して、トランスパーソナル心理学、とりわけ、ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は、壮大なスケールで「生と死の物語」を提示してみせる(2p85,2p90)

 トランスパーソナル心理学は、現代社会の様々な問題は、近代的なバラバラ思考の産物である物質主義と個人主義のゆきづまりによってもたらされたと考える(2p51)。「個を超えたつながり」を回復するしか、現代人の歪んだ生き方の根本からの改革は成し遂げられないと考える(2p225)。このため、トランスパーソナル心理学は、つながりを重視する(2p51, 2p224)

 けれども、そのつながりは、カルト集団のような閉鎖的・排他的なつながりでなく、開かれたつながりでなければならないし、ある種の全体主義的な抑圧的なつながりではなく、個が生きるつながりでなければならない(2p225)。すなわち、トランスパーソナル心理学が目指す、個が個として生きながら、同時につながることもできる「個が生きるつながり」が必要なのである(2p59)

個人主義が克服されたとき社会問題と環境問題も解決する

 そして、個人の心の問題である「私の癒し」を「世界の癒し」、「地球の癒し」と不可分のものとみなす(2p224)。ひとり一人を生きづらくしているもの、社会に歪みをもたらしているもの、地球を破滅に追い込んでいるもの。それは、同じものだからである。こうした、私はどう生きるべきかという自己探求の問題と、この世界はどこに向かうべきかという社会変革の問題と、傷つけた地球生命をどう癒すかというエコロジーの問題がひとつに溶けあう(2p227)

意識のスペクトルでレベルに応じた癒しを整理する

カウンセリングはペルソナとシャドウに分離した心を健全化する

 ケン・ウィルバーは若干24歳で書き上げた『意識のスペクトル』で、人間の意識を「ペルソナ意識」、「エゴ(自我)意識」、「ケンタウロス(心身一如)意識」、「究極の統一意識」という4レベルからなる階層構造として捉えて見せた。さらに、意識を階層構造化することによって、心理カウンセリングから霊的・宗教的な諸伝統が、各意識のレベルに応じて互いに相補的な関係にあることを整理してみせた。図をご覧いただきたい(3p108)
articles_009_image1.jpg 
 ウィルバーによれば、シャドウを意識化することで、ペルソナとシャドウに分裂した意識を健全なエゴ(自我)意識へと統合するのが「カウンセリング」である(3p109〜110)

 エゴが最も憎むのは自分である。すなわち、頭の中で勝手に理想とする「ペルソナ」を作り出し、自分が受け入れられない部分を非自己としてシャドウの側に追いやっていく。残されるのは、痩せ細って、ますます貧困化するペルソナである(1p153)。このため、自分が見たくなかったシャドウに向き合い、それを再び所有しなおせば、エゴはより健全なエゴとなり、ペルソナとシャドウとの分裂が癒され、自分で引いたその境界が消え失せれば、より広く安定したアイデンティティ感覚が味わえる(1p180)

西洋心理学と合致する、個としての自分の健全なエゴを確立する仏教の教え

 すなわち、きちんとした自己を確立することが、トランスパーソナル心理学の自己成長の第一段階であり(2p127)、それは、カール・ロジャーズ(Carl Ransom Rogers, 1902〜1987年)らの人間性心理学が強調する段階である(2p123)
 20160706ブッダ.jpgそして、興味深いことに、仏教はただ「我を捨てよ」と主張しているわけではない。自我を苦しみの原因とはせず、有効に再活用するため、ブッダは、法の実践を助ける7要素「七具足(善友性、戒具足、志欲具足、我具足、見具足、不放免具足、如理作意具足)」のひとつとして、「我具足(atta-sampada)」を説いている。文字通り「我を備えよ」という教えである(7p165)。また、極端な自己嫌悪や自我否定はある種のとらわれである。そこで、ブッダは、健全な人間関係を築くためには、しっかりとした自我を確立することが重要であるとみなしていた(7p166)

 これは西洋心理学でいう「自己確立」や「自己実現」に相当する(7p166)。そして、この健全な自我のまとまりが失われたときの認知モードが、総合失調症や境界性障害、離人症だと言える(7p162)。すなわち、自我確立を重要だとみなす西洋心理学とブッダの教えは矛盾しないのである(7p166)

ネガティブ思考は習慣で人は不幸になることを自分から願っている

 それでは、健全な自我を確立するためにはどうすればよいのだろうか。

 幸せになれるかどうかは、めぐってきたチャンスを捉まえる心構えがあるかどうかに尽きる(6p23)。「どうせ私は」と世界に自分を閉ざしてしまえばチャンスがめぐってきてもそれをうまくつかめない。この世界は自分の味方だという実感が持てなければもって産まれた自分の才能も十分に生かせない(2p149)
 けれども、口では「幸せになりたい」のに、「自分は不幸である」という殻に閉じこもっている人が多いのはなぜであろうか。それは、幸せになるのが怖く、今のままでいる方が楽だからである(6p31)。幸せになると本気で決意しても失敗すれば傷つく。傷つくくらいならば、今の不幸のままでいい。いっときの幸せを手に入れてもそれが長続きするかどうかわからない。それならば最初から幸せを手に入れなくてもいいと考えてしまうのである(6p32)

 16James Allen.jpgイギリスの哲学者ジェームズ・アレン(James Allen, 1864〜1912年)は「人間の心は庭のようなもので、思いは種子のようなものだ」と述べた(6p23)。何を考えるかがもたらす影響は大きい。昔の日本人も「言葉には物事を変える力がある」ことに気づき、これを「言霊」と呼んでいた(6p24)。それでは、なぜ言霊が機能するのであろうか。人間の脳にはいつも用いている「言葉」を頭の中で勝手に再生する「自動思考」という機能がある。ネガティブな言葉を用いる習慣がついていると、無意識でも自動的に「どうせ・・・〜できない」というネガティブな言葉が出てきてしまうのである(6p33)
 そして、人間の脳には、いつも考えていることを自動再生する「自動思考」という働きがある。このため、ネガティブな思考は意識してやめない限りずっと続いてしまう(6p33)。 深い心の傷を抱えた人は、自分の人生における最悪の出来事を何度も繰り返してしまい、不幸になってしまう人がいる。それは、客観的な過去のつらい事実ではなく、自分が作り出した物語を自分で確認したがっているからなのである(2p137,2p139)

マインドフルネスを活用したハコミセラピー

20160706Ron Kurtz.jpg このトラウマから解放するセラピーの一つに、ネーティブ・アメリカンのホピ族の言葉で「あなたは誰か」を意味する「ハコミ」という言葉から産まれた「ハコミセラピー」がある。創始者のロン・クルツ(Ron Kurtz)博士のワークショップではマインドフルネスを活用する(2p142)

 例えば、多くの人は「〜ができない」と考えがちだが、これを「〜しない」と言いかえることによって、「〜ができない」と思い込んでいたのは、したくないからしていなかっただけにすぎないという事実に直面する(2p133)。すべての行為は自分が選んでいるのだ、という主体性の感覚を取り戻せる(2p134)

いま、ここを全力で生きてみる〜ゲシュタルト療法

 「今のままの自分」でいることは楽である。そこで、人は、変わられない理由、いまのようにしか生きられない理由を自分に対して言い訳をする(6p40)。いつまでも不幸にとどまり、人生を変えられない人は、自分の不幸を「過去」と「他人」のせいにすることが多い。けれども、過去も他人も変えることはできない。変えることができるのは、「いま」と「自分」だけである。自分の不幸の原因を過去や他人のせいにしていることが、人生の流れを淀ませ停滞させている最大の障害物なのだから、このブロックを解除しない限り、いい人生の流れをつくりだすことは難しい(6p45)

16Fritz Perls.jpg 1960年代に米国で活躍したカウンセラー、フレデリック・パールズ(Frederick Perls, 1893〜1970年)博士は「過去への捉われと未来への空想を口にすることが、いまの自分を変えずにいるために張り巡らした最大のバリアーだ」として、過去や未来に逃避するのではなく、「いま、ここを生きる」ためのゲシュタルト療法を産み出し(6p42)、『ゲシュタルトの祈り』という詩を作っている。
 私はあなたの期待に応えるために、この世に産まれてきたわけではない

 あなたも、私の期待に応えるために、この世に生まれてきたわけではない
 あなたはあなた。私は私。
 もし、ふたりが出会うことがあれば、それはそれで素晴らしいこと
 もし、ふたりがふれあうことがなくても、それはそれでいたしかたのないこと(5,6p44)
 あなたは、他の誰とも違うかけがえのない存在である。そして、私も他の誰かと交換不可能なかけがえのない存在である(5)。過去への捉われや未来への空想、他人への責任転嫁を止めよ。他人に期待に応えることも止めよ。そこからしか自分の人生は始まらない。なればこそ、「私は私のことをして、あなたはあなたのことをする」とパールズは唱える(6p47)

神秘体験よりも健全な自己の確立が大切

プレパーソナルとトランスパーソナルな意識状態の区別が大切

 ここで、重要なことは、ウィルバーが、「プレパーソナル」というレベルを設け、これを「トランスパーソナル」と明確に区別したことである(2p99)

 ウィルバーは『アートマン・プロジェクト』(1980年)において、ゲーテやシェリングに由来するロマン主義に立ち、「乳幼児は神と一体化した天国状態にある」と書こうとしていた(2p99)。確かに禅においては「悟りとは赤ん坊のようになることだ」と表現され、聖書でも「幼な児のようにならなければ天国に入ることはできない」と書かれている(2p99, 3p114)。けれども、個としての「自分(エゴ)」が確立される以前の「プレパーソナル」な自他が未分化な幼児的意識状態の段階へと退行していくことと、個が確立されたうえで、さらにそれを超えていく「トランスパーソナル」な段階、悟りの状態とを同一視してよいのであろうか。『アートマン・プロジェクト』の執筆中に、この問題に直面したウィルバーは、「プレとトランスの混同」という概念を提起する(3p115)
 確かに、赤ん坊の未分化な意識状態も、成長の極限である「無境界」の意識状態も、「非エゴ的体験」である点では変わらないし、同一視されやすい(2p99,3p116)。けれども、悩んだ末に「両者には違いがある」とウィルバーは結論づけた(2p100)

20160617-CharlesT.Tart.jpg このウィルバーの区別には大きな意義がある。例えば、正常な人間の神秘体験も精神病患者の体験も「非自我的・非合理的な体験」である点からすれば違いはない。そして、フロイトは、非自我的・非合理的な体験をすべて「プレパーソナル」な領域だと見なす。このため、フロイトによれば、ブッダやキリストでさえプレパーソナルな幼稚な状態に貶められてしまう。逆に、ユングは幼児的な神話的思考や古代のイメージといったプレパーソナルな状態を過度に賛美してトランスパーソナルと同一視するという過ちを犯しているのである(2p101)
 ただ「頭を捨てよ」と理性的な判断を放棄させ、個人の成長を妨げる「似非スピリチュアリティ」と、理性を保持したまま「超合理」の段階を目指すトランスパーソナルな意識状態は、区別しなければならないと、ウィルバーは警告する(3p116)

 他者に盲目的に尽くしたり、集団に埋没するつながりは、「個の確立」以前という意味で「プレパーソナル」なつながりといえる(2p58)。下手をすればオウム真理教のようになりかねない(2p57)。プラユキ・ナラテボー氏によれば、ブッダは「カーラーマ経」で「師が言ったからといって鵜呑みにしてはならない」とグルイズムを明確に否定している。理にかなった思考「如理作意(にょりさい)」や「中道」を重視して、盲目的な行動や極端な苦行を戒めていたのである(7p70)

超常体験よりもきちんとした自己確立が大切

 20160706Arthur hastings.jpgカリフォルニア大学デービス校のチャールズ・タート(Charles T. Tart,1937年〜)教授やパロ・アルト(Palo Alto)のソフィア大学のアーサー・へスティング(Arthur Claude Hastings, 1935〜2014年)教授らの研究によって、通常の意識とは異なる「変性意識状態」があることがわかってきた(2p72)。けれども、どれだけ素晴らしい超越的な神秘体験をワークショップ等でしたとしても、日常生活はなにも変わらないことが多い(2p74)。そして、オウム真理教の信者のように、神秘的な体験によって自分の宗教的な格が上がってしまったと思い込んでしまいがちである(7p101)。そこで、トランスパーソナル心理学では、個の確立という人格の基礎ができなければその人は人間的に成長しないし(2p127)、日々の生活の中で、個を超えた力をどう生かし、心を豊かにしていくかのほうが神秘体験よりもはるかに重要だと考える(2p74)

 ブッダも瞑想中に生じてくる「光の体験」や「歓喜体験」等(7p137)、10の特殊の体験についてふれ、これを「ヴィパサヌーッパキレー(瞑想随煩悩)」と称して、とらわれてはならないと述べていた(7p138)
 すなわち、自分や周囲の人の苦しみが軽減され、楽が増えている。「抜苦与楽(ばっくよらく)」な状態であれば正しい方向に進んでみるとみなしてよいが(7p101)、たとえ、神秘体験をしていても周囲の人の苦しみが増えているのであれば、それは正しい方向には進んでいないのである(7p102)

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【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ
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2016年04月19日

シューマッハーの人生論C〜記述する科学と指示する科学

死んだ自然に依存する指示的科学

 科学は大きく2グループにわけられる。物理化学のように、一定の成果を出すためには何をすべきかを答えて指示する「指示的科学」(p152)と、植物学のように現実に見えるものや経験されるものを記述する「記述的科学」である(p151)。指示的科学はプラグマティズムで(p155)、それを発展させる手段は数学である(p153)

20160419Northrop.jpg 科学のほとんどは「指示的科学」に関わることから、この二つの違いに気づいている人は少ない(p152)。例えば、米国の哲学者、フィルマー・ノースロップ(Filmer Stuart Cuckow Northrop, 1893 〜1992年)はこう述べている。

「どのような科学も正常かつ健全に発展しているときには、帰納的な研究方法から出発し、形式論理と数学が最も主要な役割を演じる演繹的に定式化された理論をもって成熟に達する」(p152)

 確かに、ノースロップの指摘は指示的科学については正しい(p152)。そこで、物理学や化学は最も成功した学問であるのに対して、生命科学は社会科学や人文科学と並んで不確実性に満ちた未成熟な学問だと考えられている(p151)。記述的科学をいまだに未熟な段階にある指示的科学だと見なす傾向はデカルト以降、ますます強まっている(p171)。けれども、記述的科学と指示的科学との違いは成熟や発展にあるのではない(p152)

事実を記載する記述的科学

 記述的科学のミッションは、自分が自然界の主人であり所有者であるというデカルト的な態度ではなく、謙虚な態度で自然を記述することにある(p159)

 オッカムの剃刀(Ockham's razor)とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする指針である。14世紀の哲学者・神学者のオッカムが多用したことから有名になったが、オッカムの剃刀のような限定は、真実を貴ぶ記述とは両立しえない(p158)。指示的科学の方法論は、動植物学や地理学のような記述的な科学的の方法論には適応できない(p152,p157)

死んだ対象だけを扱うときに実験は有効となる

 例えば、実験が有効な研究方法でありえるのは、研究対象がそれによって破壊されない場合に限られる。無生物は破壊されないから、実験を行うことが可能である。けれども、生命、意識、自覚は簡単に破壊されてしまう。そこで、実験が不可能となる(p150)

 すなわち、指示的科学は自然の死んだ側面にだけ依拠している。数学には、ある種の荘厳なまでの美や魅惑的な真理の表徴ともとれる魅惑的な優美さがあるが、生や死の猥雑さ、希望や絶望、歓喜や苦悩がない。それは、数学や物理学を始めとする指示的科学は、その研究対象を生命がない面に限定しているからである(p154)

死んだ対象を扱う物理科学の世界観は荒涼としたものとなる

「生となんぞや」という疑問に指針を与えるのが哲学であるとすれば(p154)、そうした哲学はこうした指示的な科学からは生れてこないし、生き方の指針も与えない(p154,p155)。そこから導き出される技術を生活に生かすことはできるが、それが善に帰結するのか悪に帰結するのかは科学が関知するところではない。したがって、指示的科学が倫理的に中立であるというのは正しい(p155)。西洋文明はより低い次元での能力は圧倒的に協力だが、人間の問題を扱うことになれば、無知で無能なのである(p112)

記述的科学には意味を認めるものと偶然しか認めないものがある

 記述的科学も事実が際限なく積み上げられていくと理解・把握できなくなるため、どうしてもこれを分類し、一般化し、事実に筋道をつける必要性が生じてくる。この場合に記述的科学の包括的な理論は2グループにわけられる。

@ 記述された対象の中には理性や意味が働いている

A 記述された対象の中に偶然しか認めない(p160)

 この区別は、進化論を考察する際に重要となってくる(p161)。進化論においてチャールズ・ダーウィンは以下の二つのことをしたといわれる。

@創造についての聖書の伝説を否定した

A進化の原因、自然淘汰は神の導きや創造ではない自動的なものであることを明らかにした

 20160419Karl Stern.jpg動植物を育ててみれば、自然淘汰を含めて「淘汰」が変化を産むことは明らかである。したがって、淘汰が進化という変化の要因であることが証明されたということは科学的に正しい。けれども、進化が神とは無関係の自動作用であることは証明されない(p162)。精神科医カール・スターン(Karl Stern, 1906〜1975年)はこう述べている。

「歴史のある時点で生命の発生にきわめて適切な構造を持つ分子群が生れ、その時点から膨大な時間が流れ、自然淘汰のプロセスが進み、憎しみを抑えて愛が、不正を排して正義が選びとられ、ダンテのような誌を書き、モーツアルトのような音楽を作曲し、ダ・ヴィンチのような絵を描ける人間がついに生れた。このような宇宙生成論は狂気の沙汰である。まったくこのような考え方は精神分裂病患者の考え方とある面で良く似ているのである」(p164)

進化論は人類が偶然の産物だと考える宗教である

 「創造主」「宇宙の設計者」といった直接的に観察できない原因を想定せず、観察できる事実から現象をどこまで説明できるのか試みることは、方法論としてははなはだ実りが多い(p165)。けれども、進化論は、逆に人類を含めたすべての自然が適応と生存のための自然淘汰による功利主義的なメカニズムによる偶然の所産であるとする。これは、19世紀の唯物論的な功利主義の最も極端な産物である。すなわち、進化論は、人類を向上させる高次の意義を排除して、人類を堕落させる科学的根拠がない宗教と言える(p165,166)

 イギリスの作家、マーチン・リングス(Martin Lings, 1909〜2005年)はこう警告している。

「近代世界で宗教的信仰心が失われた原因を探っていくと、進化論がなににもまして直接的な原因であることがわかる。驚くべきことと思われるかもしれない。けれども、論理的に考えれば、進化論と宗教のいずれか、つまり、人間の堕落の教義をとるか、人間向上の教義をとるかしか道はない。そして、何百万人という現代人が「科学的に証明された真理」だとの理由で進化論を選んでいる。その理由は現代人の多くが進化論を学校で教えられたからである」(p167)

人は宗教なしには生きられない存在である

 19世紀の物理学から見出されたのも、生命とは宇宙の偶然であり、意味も目的もないことであった(p154)。すなわち、こうした科学的な世界像は荒廃したものとなり、文明も同様に死滅するであろう(p171)。そして、この偽りの思想を脱却しえなければ、それは文明の崩壊すら来しかねない。なぜならば、いかなる文明といえども、安楽と生存のための功利主義を超えた意味や価値への信仰、すなわち、宗教的信仰心がなければ生き延びられないからである(p166)。宗教なしに生きるという現代の実験は失敗に終わった。人は宗教なしに生きることは不可能なのである(p198)

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【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社


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2016年04月18日

シューマッハーの人生論B〜内なる自分を探ることが大切なわけ

人間関係がまずければ人生は傷つく

 ジョン・ダン(John Danne, 1571〜1631年)は、「誰もがそれ自体で自足した島ではない」と語った(p125)。私たちの人生は、他人との関係性によって育まれもすれば、傷つけられもする。他人との人間関係がうまくゆかなければ、どれだけ健康で、財産があって、権勢に恵まれていたとしても幸せとは言えない。誰もが忘れたがっているとはいえ、そのことをよく承知している(p121)

良好な人間関係は他人をどれだけ理解できるかにかかっている

 それでは、この人間関係は何によって作られるのであろうか。それは、私たちの他人を理解する能力、そして、他人が私たちを理解する能力に依存している。

 ここには次の4ステップがある。

@ 話し手は自分が伝えたいと望んでいる考えの内容を知らなければならない

A 話し手は自分の内なる考えを正確に「表現」しなければならない。これを第一の翻訳と呼ぶ(p121)

B 聞き手は話し手のシンボルを正しく受け取れなければならない(言語が理解できる)

C 聴き手は受け取ったシンボルを統合して、自分の考えにまとめあげなければならない。これを第二の翻訳と呼ぼう(p122)


 問題は、この二つの翻訳で多くの間違いが起きることである(p122)。例えば、知識には四つの分野がある。

第一分野:内なる自己:私は何を感じているのか

第二分野:内なる他者:あなたは何を感じているのか

第三分野:外なる自己:私は他人からどのように見えているのか

第四分野:外なる他者(外なる世界):あなたはどのように見えているのか(p91)

 このうち、我々が直接ふれることができるのは、第一分野と第四分野の知識だけである(p94)。すなわち、他者が何を感じているのかを直接知る手立てはできない(p123,p172)。おまけにたいていの人は、自分の内側のことを他人に知られたくないと思っている(p120)。それでは、人生を共にしている人々の心の中のことをよく理解できるようになるためにはどうしたらよいのだろうか(p123)。 

古代の教えによれば自己を深めるほど他人を理解できる

 注目すべきことに、すべての古来の教えは、この問いかけに対して同じ答えを出している。すなわち、自分について知る度合いが深いほど、他人のこともよく理解できるということだ(p123)

 例えば、肉体の痛みをはっきりと経験したことがない人には、他人の痛みはわからない。要するに「知識の第一分野」自分が何を感じているのかを深めれば深めるほど、第二分野の知識、自分以外の存在、他者の内的な体験に対する洞察力も身に付けられるのである(p124)

 自分自身を理解しない限り隣人も理解しえない。自己認識という基盤を欠いていれば、相手のことも知り得ない。他人の内的生命を尊重するためには、まず自分自身の内面生活を大切にする必要があるのである(p125)。逆に言えば、自己認識をひきあげ、自分をコントロールする努力を怠れば、必要な時に他人を助けるための他人への理解能力も失われてしまうことになる(p127)

内に引きこもる人が社会性がないと非難されるのは伝統的な知が失われた証

 にもかかわらず、こうした基本的な真理を宗教の専門家ですら忘れてしまっている(p125)。世界で危機が広がる中、誰もが「賢者」や私心なき指導者、信頼のおける助言者がいないことが嘆かれる一方で、念処、ヨーガ、イエスの祈り等を通じて内面の旅路を辿って、内的修行を積んでいる人たちは、利己的で社会的な義務に反していると批難されている。そして、人間の行動やその動機を説明するために、安っぽい心理学や経済学が流行しているのは、近代化によって、知識の第一分野、自己認識が無視されたために、知識の第二分野の能力が失われてしまっているという恐るべき証左なのである(p126)。すなわち、他者を知るための唯一の道は自己認識であり、その道を求める人を「社会に背を向けている」との理由で批判することは大きな誤りなのである(p172)。逆に自己認識の追及を怠る人は、他人の言動をすべて誤解し、自分自身がしていることもお幸せなことにほとんど知らないままに終わる傾向があるため、こうした人こそ社会にとって危険なのである(p173)

他人の目に自分がどのように映っているのかがわからなければ人間関係はうまくゆかない

 自分は他人に対してどのような印象を与えているのだろうか。誰もが興味は持つ(p142)。そして、自分が他人に対して与える影響がわからない限り「己の欲せざるところは人に施すなかれ」という戒めも意味をもたないし、他人と調和が取れた関係を構築することも望めない(p140)。健全な自己認識を持つためには、自分の内的世界を知る(第一分野)と同時に、他者が私をどのように見ているのか(第三分野)の知識を持たなければならない(p139)

 けれども、これも大変に難しい(p140,p142)。なぜならば、自分が間違いだらけな存在であることを思い知らされるのは苦痛だし、そうした不快感から身を守るために人間は数多くの防御機能を備えている。とかく、人は自分の欠点には目をつぶり、他人の欠陥をほじくり出すことになりがちだからである。それでは、どうすればこの課題を遂行できるのだろうか(p142)

客観的に評価せずに自分を観察する

 20160418Maurice Nicoll.jpgイギリスの心理学者モーリス・ニコル(Maurice Nicoll,1884〜1953年)博士によれば、それは意識を自覚のレベルまで拡大することである(p143)。すなわち、いま、起こりつつあることに善悪の色づけをすることなく、感情を一切排除して評価せずに客観的に自己観察することである(p140,p144)。他人が私を眺めるように、自分自身を眺めることである(p140)

 我々は社会的な存在である。誰もがただ一人で生きているわけではなく、他者とともに生きている。そして、他者とはあるがままの自分を映し出す一種の鏡である(p145)。自分の矛盾は他人には気づけても自分にはわからない。これは、逆に言えば、第三分野の知識を身に付けられれば、他人の眼で自分自身を眺めることができ、自分の矛盾も発見できることになる(p143)

慈悲と利他主義という特性によって身に付けられる知識

 第二分野の知識も第三分野の知識も、自分の観察によって直接的にふれることはできない。そこで、知識の第二分野は「同情」、第三分野は「利他主義」という最高の徳性によって初めてその分野に分け入ることができる(p146)。第一分野を探求していくと自分を重視する思いが高まるが、第三分野を探求していくと、虚栄心が少なくなり、自分の卑小さに気づく(p145)。自己認識は最も価値あるように思われがちだが、内的経験を深めることだけを追求すれば無益であるどころか有害である。第一分野の知識と第三分野の知識は混同されがちだが、自己認識を第三分野の深い探究によってバランスを保つことで、他人が知るように自分自身を知ることができるのである(p172)

ニコル博士の画像はこのサイトから

【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社
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2016年04月17日

シューマッハーの人生論A〜人間は身体・心・魂から形成されている

世界は鉱物・植物・動物・人間の四分野から構成されている

 それでは、階層的な世界の構造を研究してみよう。つい最近、100年前までは、鉱物、植物、動物、人間の四分野に世界をわけるというのが最も一般的な世界の見方であった(p32)

 生物学者によれば「生命力」のようなものは存在しない。けれども、最も次元が低く死んだ存在、すなわち、無生物の鉱物と生きた植物との間には明確な違いが存在する(p33)。無生物や鉱物はまったく受動的で何も利用することができない。けれども、植物は光に向かって成長したり、水分や養分を求めて土壌中に根を伸ばすように環境に対する適応力がある(p46)。そこで、この生命力を「x」と呼ぼう(p33)

 次に植物と動物との間にもある種の飛躍が見られる(p34)。概して植物が受動的であるのに対して、動物は食料を獲得したり危険を避けたり敏速な動作を行なうことができる(p47)。動物には植物には及びもつかないことを成し遂げる力が備わっている。そこで、植物に付け加わる要素を「y」と呼ぼう。「y」は意識とも呼べよう(p34)。期待と不安、幸せと不幸といった意識によって動物の行動はより自律的となり、資源を利用する力は格段に高まる(p47)

 さらに、人間には動物と異なり、神秘的な力、自分を意識する「自覚(Self-awareness)」がある。これを「z」と呼ぼう(p35)

すると、四次元は次のように整理できる。

 鉱物=「m」

 植物=「m+x」

 動物=「m+x+y」

 人間=「m+x+y+z」(p33〜35)

 「x」に相当するものを「生命体」、「y」に相当するものを「精霊体(アストラル体)」、「z」に相当するものを「自我(精神)」とすれば、よりわかりやすくなる。物質としての身体(m)と生命「x」をセットとして生命としてみれば、人間は身体(m+x)、魂(y)、精神(z)から構成される三重の存在であることになる(p60)

近代科学は鉱物・無生物だけを対象に研究している

 物理学や化学は最低の次元である鉱物だけを取り扱う。したがって、そこには生命、意識、自覚は存在していない(p37)。近代の生命科学が異常なことは、生命そのものの要素「x」をほとんど考慮せず、生命の容器にすぎない物理的・化学的な肉体の研究と分析にだけ関心を払っていることである(p38)。すなわち、近代の唯物的科学主義では、生命や意識、自覚は、分子の複雑な配列による化学現象でしかない(p70)

 また、自然科学とは異なり、人文科学はなんらかの形で要素「y」を扱う(p38)。けれども、近代的な考え方では動物の意識である「y」と人間の自覚である「z」との間に区別があるとはされていない。このため、物理学を研究することで生命を明らかにしようと試みるのと同じように、動物を研究することで人間を明らかにしようと試みられている(p39)

世界はレベルに応じてしか認識できない

 これには理由がある。生きているものと生きていないものとの違い、生命が存在するかどうかを識別することはさして困難ではない。けれども、生命と意識との違いを識別することは難しい。そして、意識と自覚との違いを識別して認識することはさらに難しい。次元が高いものほど包括的で、より高い水準がなければ、高い水準は認識できないからである。そこで、自覚「z」の力が十分に開発されていないと、それを意識「y」の延長として受け取る傾向がある。そこで、人間は知的な動物だとかの解釈が生まれる(p40)

 それでは、人間はどのようにして周囲の世界を知ることができるのだろうか。世界が「大宇宙」であるとすれば、人間は「小宇宙」であり、自分を知ることで世界を理解することもできる。非常に古くからこう考えられてきた(p64)

 ネオプラトニズム(新プラトン主義)の創始者といわれるプロティノス(205年? 〜270年)は「知るためには対象に適した器官を必要とする。知る者の理解は知られる事柄に相応するものでなければならい」と述べた(p73)

 聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354〜430年)は「この人生における我々の一切の仕事は、神を見ることができる心の目の健康を取り戻すことである」と主張した。

 スコットランドの神学者、聖ビクターのリチャード(Richard of Saint Victor, 1173年)は「外部の感覚のみが見えるものを知覚し、心の目のみが見えざるものを見る」と語った(p73)

 ペルシアのスーフィ教の詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミー(Mevlânâ Celaleddin-i Rumi, 1207〜1273年)は「心の目は70の層をなしており、うち二つの層である肉体の視覚は断片的な知識を集めるだけに過ぎない」と述べた(p73)

 17世紀のイギリスの哲学者、ジョン・スミス(John Smith, 1616〜1652年)は「神に関する事柄を我々に正しく知らせ、理解させるものは、我々の内部に生きている神聖さの原理に違いない。我々は資格としての眼を閉じ、哲学者が知的能力と呼ぶ魂の目を開かなければならない。それは誰もが持っているのだが、活用する人は少ない」と語った(p63)

 すなわち、世界が「低次元のもの」や「高次元のもの」で階層構造をなしているように、人間が世界を認知する感覚器官や能力も階層構造をなしている(p68)。外に向かうものは「より低次元のもの」に対応し、感覚は最も外側の器官である(p70)。そこで、五感は、最低の存在の次元、無生物に対応する(p64)。感覚的な情報だけではいかなる洞察も理解も生まれない(p75)。五感はより高い次元の情報をもたらさない(p76)。これは普段は眠っている認識器官を充分に陶冶して完成させれば、これまで手がとどかなかった新しい世界、新しい意味や豊かさを発見できるが、認識器官が充分に使われなかったり、故意に無視されると、世界は、実際に持っている豊かさを減殺したカタチでしか認識できない(p91〜92)。近代科学は客観性や精緻さを求めながら、人間の認識手段を働かせることを限定してきたが、それは、黒白の非立体的なレンズで量的な観察しか行なってこなかった。こうした方法で得られる世界像は、最も下位の無生物の現象に限られてしまうのである(p92)

生命・意識・自覚の各要素は壊れやすく自覚は最も希である

 こうした上向きの分類よりも、実際の経験を元にした下向きの分類の方が理解しやすい。三要素、「x」「y」「z」は弱められて消え去るし、意図的に破壊することもできる(p36)。鉱物はどこにでもあるが、生命は地表上に薄い膜としてしか存在せず、意識は稀で、自覚はさらに稀少である(p68)。すなわち、生命、意識、自覚と上に進むにつれて稀少で脆弱なものとなる(p42)。物質「m」は破壊できないが、生命は稀少で不安定で、「x」を取り去れば地に帰り、生命のない物質「m」、すなわち、遺体だけが残る。同じように、生命はいたるところに存在するが、意識は非常に稀少で、かつ、壊れやすい。さらに、自覚となると最高に不安定である(p42)

鉱物・植物・動物・人間と統合度と自由度が高まっていく

 鉱物、植物、動物、人間と進むにつれて、統合に向けた変化が見られる。無生物は統合されていないため簡単に分割できる。植物も内的統一が非常に弱いため、一部を切り離しても別個の存在としていき続けることができる。けれども、動物は高度に統合された存在であるためバラバラに切り離されては存在できない(p51)。とはいえ、精神面の統合はほとんど見られず、記憶力も弱く知性もぼんやりしている(p52)

 そして、統合は自由を創造することも意味する(p52)。無生物や鉱物はあるがままであり、それ以外のものに発達していくことはできない(p50)。けれども、鉱物、植物、動物、人間と進むにつれて、受動的な行動から能動的行動への変化が見られる。これは、自由とも密接に関係している(p49)。統合が高まるにつれて、存在は外的力によって動かされる単なる「客体」であることから、自ら外側の世界に働きかける「主体」となっていく(p52)

自覚していない人間は機械であって自由ではない

 とはいえ、もっとも自主的で自律的な人間であっても多くの場面で環境条件に左右され、受動性が強く残っている(p47)。人間の行動を綿密に観察すれば(p50)、人生のほとんどが何らかの形の隷属状態下におかれ(p102)、人間特有の「自覚」という力が眠っていて(p50)、動物と同じように外からの影響に対応して機械的なプログラムどおりにふるまっているだけであることがわかる(p50,p102)。人間はプログラムに従って働いているという自覚はない(p112)。けれども、どれだけ自分が洗練され、法をよく守る良き市民だと考えていたとしても、普段はただ決められたプログラムを実行しているだけである(p126)

 古代の教えをコンピュータを用いて現代流の言葉で表現すれば、人間の行動は二つの要素、コンピュータのプログラマーとコンピュータからなっている。プログラマーがいなくてもコンピュータが機械としては円滑に作動するのと同じように意識の要素「y」も、自覚の要素「z」がなくても完全に働くからである(p112)

20160417P.D.Ouspensky.jpg ロシアの神秘思想家、ピョートル・デミアノヴィッチ・ウスペンスキー(Pyotr Demianovich Ouspenskii,1878〜1947年)は著作『人間に可能な進化の心理学』で、人間は三つの異なる状態のいずれかにあると考えた。

@注意力を失っていたり注意が散漫な状態になっていれば、機械的な状態となっている

A注意力が観察する対象に集中してふらつかない状態になっていれば、情緒の状態にある

B注意力が意志によって制御されて対象に没入している状態になっていれば、理知の状態にある(p102)

 人間がその力を奪われ惨めな状態となって、人間的存在以下のものになるのは、その注意力が集中せず、たえずさまよっているからなのである(p103)。つまり、常に自覚していなければ、人間は自分が自由な意志を持ち、自分が意図したことを実行できると思っていても、それは空想にすぎず、実際には(p104)過去から蓄積されてきた習慣の影響によってその行動は規定されている(p50)

 そして、ウスペンスキーは、こう述べている。

「我々が知っている人間は完結した存在ではない。人間は一定のところまでは自然に成長するが、そこで放り出されてしまう。そこからは、人間自身の努力と知恵でさらに成長していくか。生まれたままの状態で生き、そして、死んでしまうか、あるいは、堕落し成長の能力を失ってしまうかのいずれかである。人の進化とは、普段は開発されないままでひとりでには伸びることができない内的な性質を伸ばすことなのである」(p98)。それでは、どうすれば、この人間の能力は開発させることができるのであろうか(p100)

人間は注意して自覚している瞬間だけ自由である

 内に向かうことは「より高次元のもの」に対応し、より自覚的な努力が求められる(p70)。人間に追加された「z」は自覚と深くつながっている。そして、自覚は「注意」をどこに向けるのかと深く関係してくる(p100)。たいがい「注意」は外的な音や色に捉われているか、自分自身の内部にある期待や関心、恐れや悩みのとりこになっている。こうした状態でいるとき、人間は非常に機械に類似している(p100)

 逆に言えば、人間は「自覚」の力を働かせ、「注意」を自分に向けているときに初めて、「生かされている」のではなく自ら「生きている」のであり、自由の次元に達することができると言える(p50,p100)。自覚のある瞬間にだけ、人間には自由が訪れると言える(p104)

 これは古代の様々な教えの中でも最も重要視されてきた問題である。同時に、近代世界でほとんど無視され歪曲されている問題である(p100)。実は、古代の各宗教は、どうすれば、この自覚を継続させ、かつ、制御できるかの様々な方法を発展させてきた(p104)

普段のシンキング・マインドを除外したときに真我は出現する

20160417walter stace.jpg その方法を真剣に考察した近代哲学者はほとんどいない。そのごく稀な例外がプリンストン大学のW.T,スティス(Walter Terence Stace, 1886〜1967年)教授であろう。教授は『神秘主義と哲学』で、世界各国の文化、宗教、地域、時代とまったくかかわりなく内的な体験が共通していることを指摘する(p115)。教授はこう問いかける。

「一切の感覚、次には抽象的な想念、思惟、意思、概念を排除していったら意識には何が残るであろうか。一切が失われただ空、虚のみとなるであろう。ア・プリオリには意識がまったくなくなり、眠りに陥るか無意識状態になるは、と思われよう。ところが、世界中に何千人といる内的神秘家たちが異口同音に語るところによれば、空の境地に達した後に起きるのは無意識状態とはおよそ異なり、まったく反対の純粋意識状態が生まれてくるのである」(p116)

「我々の日常意識はつねに対象やイメージを持っている(p117)。そのすべての心理的な対象が排除され、自己が対象を捉えていないときには、自己は自己自身を意識するようになる。すなわち、自己が示現してくるのである。普段は隠れていた純粋な自己が前面に出てくるのである」(p118)。要素「z」は、意識という要素「y」が舞台の中央から去ったときに初めて姿を現すと言える(p117)

内なる自己を探求する心理学

 心理学はおそらく最も古い学問分野である(p98)。そして、古来の心理学は、「正常」に戻さなければならない病人を対象とするのではなく、普通の人間を対象としてきた。そして、人間を「救い」「悟り」「解脱」という山の頂にたどり着くためのこの世の「巡礼」であると見てきた。キリストは「われは道なり」と語ったが、中国の道教にも「タオ(道)」とい考えがあり、仏教の教えは「中道」と言われてきた。すなわち、多くの宗教の教えの中心には「道」という考え方がある(p99)

 この人生を生きていくために、ブッダの最後の言葉は「怠らず努めよ」であった。そして、チベットの祖師たちはこう教える。十分に幅広い哲学が必要であり、精神を集中させる瞑想が不可欠であり、生活の技術が不可欠である(p23)。

身体を安定させることが心の内側を探す第一歩

 米国の心理学者ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842〜1910年)は、情緒が身体感覚以外の何ものでもないとしてこう述べている。

「私たちは悲しいから泣き、怒るから打ち、恐れるから震えるのではなく、泣くから悲しく、打つから怒り、震えるから恐ろしいのである」(p127)

 身体が制御されずにふらついていると心も落ち着かない。自己認識を得るために、古代のどのメソッドも姿勢や身振りに多くの注意を払っているのはこのためである。一方、内的な落ち着きと静けさが達成されれば「コンピュータ」は姿を消して、プログラマーが真価を発揮し出す。身体を制御することが思椎の働きを制御するための第一歩なのである(p128)

シンキング・マインドを落ち着かせるためのヴィッパサナー

 環境は常に直面する現実だけにとどまらない。自分の心の内側からわきあがってくる想念も統御しなければならない。あらゆる宗教が説く、最も大切な教えによれば、「明視」、観(ビッパサーナ)を手に入れるためには「シンキング・マインド」を落ち着かせなければならない(p108)

20160417Nyanaponika Thera.jpg ドイツ出身でスリランカのテーラワーダ仏教の僧侶となったニヤナポニカ・テーラ(Nyanaponika Thera, 1901〜1994年)は、仏教の核心は「サティ」にあるとしてこう述べている。

 「ブッダが念処経(Satipatthana)の中で説いた正しい精神集中を体系だてて涵養することが最も効果のある方法である(p104)。そして、正しい精神集中を身に付ける要諦は、とらわれない注意力にある。とらわれない注意力とは、内側から起こってくるものを認めた瞬間にはっきりと意識することである。そして、観察される事実に対して、行動や言葉で反応せず、好悪の感情や判断、反省といった心の中での反応も一切加えないことである。この捉われない注意を実践しているときに、何らかの反応が心の中で起こってきたとしても、その反応そのものが注意力の対象として拒否も追求もされず、しばしの間、心にとどめられた後に、捨てられるだけなのである」(p105)

シンキング・マインドを脱落させるための内なる祈り

 西洋科学の方法はそれを学んだ誰もが使えるが、ヨーガの科学的方法を駆使できるのは、規律と系統的な内面作業によって自分を整えた人だけである(p132)。そして、インドの手法がヨーガであるとすれば、キリスト教の手法は「祈り」である(p108)。内なる祈りの要諦は、精神を没入して神の前に立つことだが、ギリシアとロシア正教によって完成される(p109)。キリスト教の伝統において発達したこの方法は仏教とは違う言葉や表現となっているが、帰するところはまったく同じである(p106)。仏教ではヴィッパサナー(止観)、明視を呼ぶものをキリスト教では高い次元の存在との邂逅と呼ぶ(p128)。そして、自己本位の自己中心的な「我」が立ちふさがっている限りは、何ごとも達成されず何ごとも成就しない。そして、我から離れるためには「飾りなき心」で神に注目しなければならない(p106)

 ハーモンズワース『不可知の雲』(1951)現代思想社はこう語る。

 「想念の干渉が敵である(p106)。良い想念か悪しき想念かは問題ではない。なぜならば、シンキング・マインドは意識の存在の次元に属し、自覚を持った存在という一段と高い次元のものではないである。仏教ではその種の想念を「戯論」と呼んでいる。シンキング・マインドから「観想」へのシフトが受容なのである(p107)

20160417theophan recluse.jpg 正教会の主教、聖人、隠遁者フェオファン(Theophan the Recluse, 1815〜1895年)はこう述べる(p110)

「祈りによって精神を集中するには、注意力を心の中に注ぎ込まなければならない。頭の中では絶えず様々な想念がひしめいているので、ひとつのことに集中する暇がない。ところが、注意力が心に降りて来ると、魂と身体の一切の力が心の中の一点に集中してくる(p110)。直ちにある感動が心の中に現れてくる。最初はほんのりとではあるけれども、まもなく暖かい感情となってゆき、注意力はそれにひきつけられて行く。やがては注意力そのものによって心の中に暖かみが生まれてくるようになる(p111)

オカルト体験とスピリチュアルなものとの区別が必要

 最近では、別の意識状態への関心が高まっている。けれども、人類の英知の偉大な伝統、宗教に対する深い畏敬からではなく、「水瓶座のフロンティア」や「意識の進化」のように人生の倦怠感を逃れるための目新しい刺激を求めるものになってしまっている。すなわち、オカルトとスピリチュアルなものとの区別がまったくされていない(p129)

20160417mahasi.jpg 仏教のアナパナ・サティ(念処的瞑想)の優れた教師、マハシ・サヤドー(Mahasi Sayadaw,1904〜1955年)師は、内面に集中する努力を行えば、ほとんど例外なしにありとあらゆるオカルト的な異常体験が起きるが、それを求めてはならないと警告している(p129)

「明るい光が訪れる。ある人にはランプの光に見え、他の人には稲妻の閃光や月や太陽の輝き等に見える。ある人の場合はそれは一瞬のうちに消え去るが、他の人の場合はもっと長時間続き、恍惚状態が訪れる。そうした輝かしい光を伴った恍惚や幸福を感得するや『我こそはまさに現世を超えた成道に到達したに違いない』と信じる。これは、道ではないものを道とあやまり見たものであり、洞察力の堕落なのである」(p130)

 16世紀のスペインのカトリック司祭、十字架のヨハネ(Juan de la Cruz, 1542〜1591年)もこう述べている。

「こうしたことは神の道を求める過程で肉体的感覚として起こるものであるが、それに頼ったり、それを受け入れたりしてはならず、常にその善悪を判断しようとせずにそれから逃れるべきである(p130)

人はプログラマーとプログラムで動いている機械の二要素からなっている

 20160417Wilder Penfield.jpg世界的に著名な神経生理学者、ワイルダー・ペンフィールド(Wilder Penfield, 1891〜1976年)マギル大学教授は、死の直前にその所見を『脳と心の正体』としてまとめた。そして、教授は「心は脳から独立して働きを営むと考えられる。コンピューターのプログラマーが特定の目的のためにどれほどコンピュータに依存していても、それから独立して働くのとおなじである」と述べ、脳の神経作用で心は説明できないと述べている(p113)。ペンフィールド博士の考えは、スティス教授の考えは同じである(p118)

プログラマーとして目覚めるためにはヨーガ・念処・祈りが欠かせない

 目覚めたならばもうその人はプログラムで動かすことはできない。自分自身がプログラムを組むからである(p112)。世界の宗教の教えは、純粋な自己に目覚めることなのである(p118)。プログラマーがコンピュータよりも高い次元であるように、自覚と呼ばれるものも意識よりも高い次元である。そして、プログラマーに必要なのは、洞察力である。けれども多くの人は知識と洞察力の違いがわからない(p114)。目に見えないものの方が見えるものよりも大きな力と意義を持っていることを教えることが古来の宗教の役割であったが、西洋文明が宗教を捨て去ったためにこの教えは忘れられてしまっているた(p112)。ヨーガや念処や絶えざる祈りといった訓練方法が迷信に近い無意味なことに思えてしまうのはそのためなのである(p114)。

ウスペンスキーの画像はこのサイトから
スティス教授の画像はこのサイトから
テーラ師の画像はこのサイトから
フェオファン師の画像はこのサイトより
サヤドー師の画像はこのサイトから
ペンフィールド教授の画像はこのサイトから

【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社

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2016年04月16日

シューマッハーの人生論@〜近代科学と哲学では幸せにはなれない

はじめに

Schumacher.jpg 『スモール・イズ・ビューティフル』で知られるエルンスト・フリードリヒ・シューマッハー(Ernst Friedrich Schumacher, 1911〜1977年)は、『仏教経済学』を提唱したが、シューマッハーの理論や実践の背景にある哲学的・宗教的な側面はあまり注目されてこなかった。シューマッハーは「宗教なき近代の人生の実験は失敗である」と警告しているが、その透徹した文明批判の背景には、人間を精神面から見た深い反省がある。

  デカルト以来、過去300年にわたる西洋文明は、人間の最も大切な精神的営為を片隅においやってしまったとし、迷える人々に対して人生の案内書を提示することが哲学の義務だと主張する(p6)

 シューマッハーの死後2週間目の1977年に発刊された本書は、1980年に小島慶三・斉藤士郎氏のコンビで翻訳出版された。いまから36年前に出版されたこの本を私は1988年の7月に購入し、一度読んだ。けれども、ほとんどその内容を咀嚼できなかった。「スモール」のような他のシューマッハーの著作が知的に頭で理解できるのに対して、本書はまさに「叡智」について書かれた著作であり、心が充実しなければ理解できない内容となっていたからである。

 けれども、いま、改めて本書を読み直し、その要旨をまとめておく必要性を感じた。例えば、驚くなかれ。本書の最後で、シューマッハーは、解決されていないのは「欲望」という「心の問題」だけであって「経済」の問題はすでに解決されていると述べている。それでは、心の問題と社会問題(他者との問題)を解決するためにはどうすればよいのだろうか。

 シューマッハーは内なる感覚に敏感になるほど他者の心もわかるようになると提案する。これは最新の神経生理学の見解と合致する。そして、内なる感覚に敏感になるためにシューマッハーが推奨するのがテーラーワーダ仏教による四念処(サティパッターナー)なのである。いまから39年も前にマインドフルネスに着目していたとは。シューマッハー恐るべし。ということで、はじめよう。

近代哲学はどのように人生を生きるべきかに答えてくれない

13viktor.jpg 人生とはなにか。私はこの人生で何をすべきなのだろうか。そのことを知るにはマップがいる(p21,p22)。けれども、西洋哲学はまさにこれが決定的に欠落している(p22)。人間は何のために存在しているのか、何が善で何が悪なのか。人間の絶対的な権利と義務とは何なのかという問いかけが欠落しているため(p84)、「人生をどのように生きるべきなのか」という問いかけに対して「再大多数の最大幸福」という功利主義的な回答しか提示できていない(p28)。そして、どれだけ生活水準が高まろうと、どれだけ寿命を延ばす医療サービスが充実しようとも、ますます健康と幸せを失い、文明は苦悩と絶望と自由喪失へと陥らざるをえない。なぜならば、これは「人間はパンのみによって生きるものにあらず」という問題だからである(p84)。
 ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl, 1905〜1997年)博士は、現在の危機についてこう述べている。
「300年にわたる科学帝国主義の経験が、若者たちに大変なまごつきと困惑をもたらしている。今日の真のニヒリズムとは還元主義である」(p19)

伝統的な叡智は「神を見ること」が究極の幸せだと考えてきた

 けれども、伝統的な叡智は、人生はどう生きるべきかについて納得ができる明確な回答を持っていた(p29)。古代の科学、叡智は、至高の善、すなわち、真・善・美を探究することを目指し、それを知ることが幸せと救いをもたらすものとされてきた(p82)。例えば、聖トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225年頃〜1274年)はこう論じている。「神の摂理によって、かよわき人間は、現在の人生で達成できるものよりも、一層、高次元の善なるものに導かれる」(p29)

 動物と同じように人間には快楽を享受したいという欲望がある。そして、官能的な生活を送ることによって快楽を追求しようとする。そして、節度を失うことによって自制を失っていく(p30)。すなわち、人間が、より低いところに堕ちて、動物と同じような低い能力しか開発できないまま終われば、それは不幸であって絶望に陥る。けれども、より高いものを目指して、最高の能力と最高の知識を得られれば幸せになれる(p29)。感覚的な喜びよりもさらに完璧な喜びとは『神を見る』という知性的な喜びでありそれが幸せなのである(p29,p30)

「低い存在」「高い存在」の次元を考えなければ功利主義以上の幸せ論はでてこない


29kant.jpg すなわち、西洋も非西洋世界と同じく伝統的な叡智を豊かにもってきた。けれども、過去300年、それを故意に無視されてきた(p86)。伝統的な叡智は、世界が「低い存在の次元」と「高い存在の次元」があるとしてきたが、これをルネ・デカルト(René Descartes, 1596〜1650年)は、数学的な量的要素だけを重視して平板化した(p26,p81)。これはあまりにもやりすぎであった。そこで、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724〜1804年)は、これをやり直そうとしたた(p26)。けれども、このカントにしても不十分であった、とフランスの哲学者、エティエンヌ・アンリ・ジルソン(Étienne Henri Gilson,1884〜1978年)は言う。

「カントは数学から哲学へではなく、数学から物理学への方向転換を行なっていたのである。『形而上学の真実の方法とはニュートンが自然科学に導入しその分野において実り多き成果をもたらした方法と基礎においてまったく同一である』とカント自身が結論付けている」

 数学と同じく物理学にも「低い次元」「高い次元」という「質的な概念」を欠いている(p27)。高い存在の次元へとレベルをあがるにつれて、量の重要性が減って質の重要性が高まるが、数学物理モデルでは質的な要素は失われてしまう(p81)。そして、「低い次元」「高い次元」という「質的な概念」なくしては、個人的な功利主義、集団的な功利主義、利己心を超えた人生の指針を考えることは不可能である。現代人が完璧な幸せを得られるとは信じられなくなったのはそのためなのである(p31)

手段はあっても目的を欠落した西洋科学はカタワである

20160417Etienne Gilson.jpg デカルトの数学モデルをして、オランダの数学者、物理学者、天文学者、クリスティアーン・ホイヘンス(Christiaan Huygens, 1629〜1695)は「この世の中にはそれよりも望ましく有用な知識はなにもない」と語ったが、西洋人は質的知識から量的知識へと関心が変化した。この結果、人間の啓蒙と解放を目指す「理解のための科学」、すなわち『叡智』から、力を得るための「操作のための科学」への変化も起きる(p81)。ティエンヌ・アンリ・ジルソンはこう警告する。

「叡智が対象とするものは、理解であって悪用はできない。けれども、科学が対象とするものは物質である。したがって、強欲の手中に陥る危険性が常にある。科学は、至高の善を目指す叡智に従属するのか、それとも、欲望に従属するのかによって二つの名前を与えてよいであろう」(p82)

 これは決定的に重要なポイントである。「操作のための科学」が叡智、すなわち、「理解のための科学」に従属するのであれば、なんら害がなく極めて価値の高いツールとなる。けれども、人々が叡智の追求への関心を示さなくなり、叡智が消え去ると、「操作のための科学」は物質的な力だけを目指すことになる(p82)。そこで、フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561〜1626年)は「知識はそれ自身、力である」と語った(p81)

 従来の理解のための科学は、自然を神の創造物であり、人間の母であると見なしてきた(p82)。そして、伝統的な叡智では、人間は神のイメージによって作られた最高のものであるとしてきたため、高貴なる人間には義務、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)があり、世界を「預かっている」とみてきた(p83)。けれども、操作のための科学では、人間は進化による偶然の産物にすぎないため、客観的に研究される対象物とみなされる(p83)。このため、自然も征服されるべき対象物とみなす(p82)。事実、デカルトは「人間は自然界の主人にして所有者の如き者となる」と述べた(p81)。その結果、西洋文明は手段においては豊かであっても目的においては貧しいという方輪的な発展をしてきた(p87)。これがデカルト以降の西洋思想の歴史なのである(p82)

力としての科学の危険性は信仰が否定されること

 核融合が開発できればエネルギー問題は解決される。石油タンパクが完成すれば食料問題が解決される。新たな薬が開発されればどのような健康の危機も回避できる。こうした科学技術の万能感への信念は薄れつつある。人々は宗教なしに生きるという「現代の実験」が失敗に終わったことを知り始めている。

 人間は巨大なエネルギーで自分を地上に閉じ込めようと試みた。けれども、もはや地球は持続可能性がない状態になっている。人は宗教なしに生きることはどうやら不可能なのである(p198)

 けれども、科学の努力を物質的なものに限定することは、結果として世界を空虚で意味がないものとしてみることにつながる(p70)。知性をより高い次元への理解に導く案内役が信仰であるとは見ないため、信仰そのものが否定され、伝統再生へのすべての道が閉ざされてしまうのである(p84)

シューマッハーの画像はこのサイトから
フランクル博士の画像はこのサイトから
カントの画像はこのサイトから
ジルソンの画像はこのサイトから
【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社
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2015年10月11日

第49講 霊としての人間

はじめに

 古代インドでは「科学的知識」「世俗の知識」を「ヴィジュナーナ」と呼んでいた。したがって、科学も超心理学もすべて「ヴィジュナーナ」に入る。古代インドの聖賢は瞑想によってヴィジュナーナの限界を既に見極めていた。このため、ウパニシャッドなどの聖典は「霊的知恵」である「ジュナーナ」でなければ理解できないと言い切っていた(5)

「スピリチュアル・精神世界」分野に興味をもつ人ならば「超心理学」を一度は耳にする。この9月に世を去ったが、本山博(1925〜2015年)は、この超心理学研究の先駆的人物の一人であった(5)。経絡や気の流れなどの微弱な電流をとらえる事で、それぞれの人の魂の質や状態を明らかにする研究をおこなっていた(6)

 本山は、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、ヒンドゥー、仏教、密教、禅、神道、科学にも深い洞察を持つ研究者で(2)、科学者として国際的に知られている人物である(6)。同時に、霊的能力も有する宗教家という肩書も持つ(5,6)。このため、世界的に著名な超心理学者J.B.ラインからも認められていた(5)

本山は霊能力者である

10motoyama.jpg 本山博は、幼少期から霊的能力を持つ養母から厳しい修行を受けてきた(1p29)。隠れてはいるが、日本には、神道の霊能巫女・霊媒巫女がかなりいる。古くは教派神道大本(おほもと)の出口なお師がそうであったが、本山博の御母堂、本山キヌエ師も木村藤子さんと同じような神道系の霊能巫女・霊媒巫女であった(3)

 このため、幼い頃からアストラル次元の霊も見えた(1p30)。24歳のときからはヨーガ、チャクラへの精神集中をはじめ、幽体離脱やクンダリーニの覚醒経験もした(1p31)。ただ、本山博は『スピリチュアリティの真実』(PHP研究所)で「チャクラ」とかはあまり意識しない方が良いと付け加えている。ダスカロスも東洋的なクンダリニー系のヨガは危険なので薦めていなかったが、本山も初心者がチャクラを意識し始めてヨガを行うとバランス崩すと述べている(2)

 とはいえ、それ以降は、光輝く神の姿が見え、信者が困っていることも聴かなくてもわかるようになった。信者の祖先の姿や前世で冒した罪や善行も映画をみるように一瞬でわかるようになった(1p33)。三昧に入って超意識で何百例も人々の前世を見てきた(1p23)。本山はチャムという可愛い利口なネコを飼っていたが、玉光神社から1kmほど離れた井の頭公園の池の橋の上から「お宮の門のところまで迎えにおいで」と念じてネコとつながることができた(1p25)

48玉光.jpg また、病気もレントゲンを見るようにわかるようになり、アジナチャクラから力を送ってその病気を治せた(1p32)。超心理学の国際学会がメキシコシティで開催された折には、神の助けを受けて心霊治療で癌の手術も成功させている(1p34)。これは、ヨーガでいうカラーナの次元へと霊的に成長を遂げたためである(1p33,1p74)。本山も、ダスカロスと同じく、鍼を使ったり、遠隔ヒーリングをしていたヒーラーでもあった(6)

 スピリチュアル・ラボのTeru Sun氏は、本山を稀有な霊能者でヒーラーとして生きていたダスカロス(4,6)や葉室宮司、ダライラマ、シュリ・ラマナ・マハリシ、ヨガナンダと同じ域に達しているのではないかと評価する(4)。Teru Sun氏は、本山博の『愛と超作―神様の真似をして生きる』はスピリチュアル・ビギナーにもベテランにも納得できる「人生を無駄にしないための有益なスピリチュアル」がよくまとめられているし、『祈りと救い』もおそらく現代の日本では唯一の、祈り方の技術書である。また、『神秘体験の種々相―自己実現の道』も類い稀なる名著であると評価する(4)。そして、本山は講演では「魂は在る」という考えを淡々と述べるが、同時に独特の言葉遣いで聴衆をドッと笑わせたりしていたという(6)

 以下は、1999年の著作『宗教とは何か』のまとめである。

宗教の本質とは聖なるものとの出会いである

 宗教学者、ギュンター・ランツコフスキーは著書『宗教現象学入門』で「宗教の本質を規定するものは聖なるものである」と語っている(1p17)。宗教史学者として有名なミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade,1907〜1986年)は著書『宗教の歴史と意味』で「宗教とは聖なるものと人間との出会いである」と語っている(1p3)

完全な人間は人間が身体・心・魂からなることを自覚している

 この聖なるものとの出会いは普遍的なものである。とはいえ、聖なるものとの出会いは、霊的存在の次元で行なわれる(1p5)。エリアーデは「完全な人間は聖なるものの経験をその意識構造の一部として持つ」とも述べている。すなわち、多くの人間は現在は忘れてしまっているが、人間は、身体・心・霊からなるホリィスティックな存在であり、霊的次元の存在を自覚していることが、エリアーデに言わせれば完全な人間なのである(1p18)。採集狩猟時代の人々は、身体・心・魂をもった一体的な存在として自然とともに生きており、現代人のように物欲に心を奪われることはなかったであろう(1p26)

聖なるものを経験した人=聖人

 聖なるものを経験した人間は、宇宙・自然・人間についての知恵を啓示される。この宇宙観・自然観・人間観を教え、人々を助けるために使うのが聖者の役目である。一方、内なる霊にまだ目覚めず、聖なるものとの出会いを経験していない人々は、聖者の教えにしたがって、眼に見えない聖なるものを信仰し、自分の個性を確立し、人々と共存する社会性を身に付けることが人間として成長していくために重要である(1p19)

アストラル次元

 魂(霊界)の最下位に存在するのは、アストラルの霊界である(1p70)。アストラル次元の霊もカルマの法則下にあり、存在するためには肉体を必要とする(1p67)。ただし、霊界の身体は物理法則の制約を受けず(1p69)、そのイメージ力で霊界の物質を創造・変化させることができる(1p69,1p71)。このため、霊の心がある想念に捉われて沈んだ状態になると、その周囲は黒い雲、ベールがかかったようになり、他の霊との交渉ができず自閉状態となる。これは何百年も続くこともある。これが地獄である(1p71)

 アストラル次元の霊は、空間の物理的制約を受けず超心理学の対象であるESPで知覚しあう。そして、心が開かれ他の霊と共存・協調できるようになると、想像力が協働して大きな創造力となり、想念どおりのモノを創造したり破壊できるようになる。この想念の力がこの世の霊能者の能力と協働すると、物質化現象が生じる(1p71)

 アストラル次元の霊界では、心は感情と想念(想像力)として働いているが(1p70,1p73,1p130)、物質に強く支配され、独善的で物への執着も強く(1p73)、理性、良心、愛は従属的である(1p130)。アストラル次元の霊に支配された霊能者が利己的で良心に乏しく、人格的に歪みがある人が多いのはこのためである(1p73)。この数千年は人類は、この世の時間でいえば200から300年の周期で死と再生を繰り返している(1p70)

カラーナ次元

 アストラル界でも上界になると、理性や良心が働き、個別的な感情と社会的理性とが両立する(1p130)。さらに、カラーナ界へと霊的に成長すると、いまだにカルマの法則を脱してはいないとはいえ、霊の心の内容はESPに頼らず直感できるようになる(1p72)。また、アストラル次元での例のように感情に左右されて利己的になることもなく、他の霊、人間への愛の働きが中心となる。こうして、魂は個別的な感情と理性による判断と行動とで社会性を両立させることができる(1p73,1p130,1p131)

プルシャ次元

 宗教者が断食や瞑想を通じた自己否定、神へ自己の存在のすべてを託すという全託を続け、自己への執着を離れると、神の次元から宗教者の存在次元へと流入が起こり、カラーナ次元から純粋精神(プルシャ)の次元へと霊的に成長することができる。純粋精神は無条件の愛と彼岸の智恵を持ち、単なる霊能者や超能力者を越え、聖者になることができる(1p75)

 聖なるものとの出会いは、修行者の霊的次元にまで降りてきたものであって、相対的なものである。霊的修行が繰り返されると最終的には神、絶対との出会いが生じるが(1p6)、人間よりも大きな存在である神への絶対的な帰依と神の力の流入、それに伴う人間存在の空化が生じなければ、想念のイメージからは抜け出ることができない(1p112)

唯物論と世俗化への反動でスピリチュアル運動は生じた

 人間は、身体・心・霊からなる存在である(1p132)。しかし、共産主義は人間をモノとして扱い、肉体と社会面だけでしか評価しなかった(1p105,1p132)。一方、資本主義は個人主義的な傾向が強く、心よりもモノに偏り、社会性を忘れている(1p133)

 こうした唯物化と宗教の世俗化の傾向に対して、19世紀前半からイギリスを中心に起こったのが、魂、聖なるものを求めるスピリチュアル運動、心霊研究であった(1p106)。日本では、1800年代前半から1920年代にかけ、天理教、大本教、人の道教団等が出現した(1p106,1p109)

 けれども、1970年代以降は、超能力を前面に掲げた閉鎖性、独善性、反社会的、商業主義のオカルト宗教集団が多く生じるようになる。資本主義社会の競争に敗れた人々がこうした新主教に引かれていった(1p108)。例えば、米国ではカリフォルニア州サンディエゴにあるマーシャル・アップルホワイト(Marshall Applewhite,1931〜1997年)を教祖とする、ヘヴンズ・ゲート(Heaven's Gate)教団の教祖と信徒38人が1997年3月に集団自殺した。能力主義や競争社会についていけない下層階級の人々が、汚れた世界を極度に嫌悪し、肉体は魂の容器にすぎず、性欲と物欲を捨て、神の聖なる国へと帰るのが人類の目的であるとの教えに従ったのであった(1p110)。日本でも瞑想法の技術をビデオとして販売している教団があるが、観想法は禅で魔境と呼ぶアストラルのイメージ世界から抜け出ることが難しい(1p111)

 神経生理学の研究によって、脳部位での細胞の電気活動や血流量の変化、脳伝達物質の動きもわかってきたが、霊的次元の心や魂の働きは、物理的な次元の脳からはわからない。したがって、科学は、身体・心・霊からなる人間存在に対して、どのように生きるべきかの指針を与えることはできない(1p123,1p124)。人間を身体・心・霊からなる存在として、かつ、個人の存在と社会性とを両立させるためには、科学ではなく、独善的・閉鎖的・物質化した宗教でもなく、真の宗教が必要である(1p133)

【引用文献】
(1) 本山博『宗教とは何か』(1999)宗教心理出版

本山博博士の画像はこのサイトから
玉光神社の画像はこのサイトから

posted by la semilla de la fortuna at 10:39| Comment(0) | 魂の人生論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする