2016年07月07日

トランスパーソナル心理学入門A〜身体と心を調和させるフォーカシング

シャドウに向き合うことがエゴを健全なアイデンティティへと広げる身体の感覚を取り戻す

 『創世記』によれば、アダムがしたことは、モノに名前を付ける、すなわち、あるグループとグループの間に境界線を引くことであった(1p38)。生と死、善と悪、愛と憎悪、自己と他者。私たちは境界の世界に住んでいる。そのために争いと対立の世界に住んでいる。私たちが抱えている問題の大半は、「境界」とそれが生み出す対立の問題だといえる(1p42)

 対立は、ゲシュタルトの知覚理論によってよりはっきりする。ゲシュタルト心理学によれば、私たちは対照をなす背景との関係性なくして、モノや出来事を知覚できない。例えば、夜空に星が見えるのも、個別の星が見えているからではなく、暗い背景に明るい光が認識されるからである。一方の闇なくして他方の光を知覚することは絶対にできない。同じく、快楽も苦痛なくして自覚できない。快楽と苦痛が交互にやってくるように思えるのもそのためである。互いのコントラストと交代をとおしてしか、互いの存在を確認できない(1p47〜49)

死の恐怖が身体と心(エゴ)の分離を生んだ

 20160707Alexander lowen.jpgペルソナからシャドウが投影されるように、「有機体」の中に境界が引かれ、身体は「非自己」として投影されてしまっている。米国の精神科医アレクサンダー・ローエン(Alexander Lowen, 1910〜2008年)博士は、この状態を霊的領域と身体とをブロック(封鎖)していると表現する(1p182)

 肉体が罪と同義語になるのはそのためだ。確かに、身体は苦痛の源である。けれども、同時に快楽の源でもある(1p185)。病による衰弱、癌の苦しみを感じるのは身体だが、同時に、エロティックなエクスタシーから、美食の味、日没の美しさを感じるのも身体の諸感覚である(1p20)。だから、エゴは苦痛もないかわりに喜びもないという大きな代償を支払っていることになる(1p185)

13Ken Wilber.jpg それでは、なぜ、身体と心は分離したのだろうか。ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)によれば、この身体と心(エゴ)の分離を産んだのは、死の恐怖である。人は、自分の肉体が必ず死ぬことを知っている。そこで、エゴは死をイメージさせる身体を押しやって、自分の観念を中心にアイデンティティを確立し、エゴとしてだけ生きのびようとする(1p137)。こうして、身体と心に境界が発生し、身体はエゴである「騎手」にコントロールされる「馬」の役割に格下げされてしまう(1p140)

 こうして多くの人は、身体と心との間に無意識に深い境界線を引いて、身体感覚を喪失している。健全なエゴがペルソナとシャドウに切り離されているように、誰も「頭」だけが私となっていて、「身体」は「私」に所有される「私のモノ」となっていて「私」ではなくなっている(1p181)。頭の中の自己のイメージとそれに関連した知的・感情的なプロセスにアイデンティティを抱いている(1p21)

 投影していたシャドウに向き合い、それを再び所有しなおせば、貧困なペルソナから健全なエゴへとアイデンティティを広げることができる。ペルソナとシャドウとの分裂が癒され、境界が消え失せれば、より大きく安定したアイデンティティの感覚を味わえる。閉塞したアパートから心地よい家に移るようなものである。そして、心地よい家からさらに広々とした邸宅に移るためには、身体を再び所有しなおせばよい(1p180)

身体の感覚を取り戻す

 そこで、ウィルバーは、身体と心とが完全に統合され調和している「心身一如」の状態を表すものとして「ケンタウロス」の状態と呼ぶ。ケンタウロスとは半身半馬の伝説的な動物で、騎手は自ら馬を監督するではなく馬と一体化しているからである(1p140)

 エゴは現状が幸せではないと感じて、モノで身のまわりを取り囲むことで喜びを産みだそうとする。けれども、これは、喜びや幸せは外から呼び寄せられるという幻想を強めるだけである。そのうえ、エゴが意識的に対応できることはせいぜい二つか三つにすぎない(1p202)

 例えば、エゴは自分がコントロール可能な随意行動だけに自分を同一化させ、それ以外の自発的な不随意な行動は非自己的なものとしている。例えば、「わたしは腕を動かす」とは言う。けれども「わたしは心臓を脈打たせている」「わたしは血液を循環させている」「わたしは食べ物を消化させている」「わたしは髪の毛を伸ばしている」とは言わない。つまり、身体が、無意識に行なっている消化、代謝、成長・発達等の不付随な活動を自分とは認めない(1p184)。一方、身体はエゴの助けも借りずに、消化作用、神経伝達等、何百万ものプロセスをいまこの瞬間にも調整している(1p202)

 そこで、ケンタウロスのレベルに立ち返り、心身一如を取り戻すことは、身体そのものから喜びが湧き出ていることに気づくことになる(1p202)

自我の確立や自己実現を超えた実存的自己の心理学

 従来の心理学は、人間の心の成長を自我の確立(フロイト)や自己実現(人間性心理学)までしか描いてこなかった(2p98)。個人の幸せや自己実現だけを追求してきた(2p226)

 確かに、人生にエゴ的な意味を見出すことは、ある時点までは適切なことである。けれども、例えば、健全なエゴを発達させ、車や家を手に入れ、仕事で認められ、モノを買い集めた後にはどうなるのだろうか。外に物質的な欲望を追求することに魅力がなくなったとき、待っているものがただ死だけであることが明らかになったとき、どうすればよいのであろうか(1p205〜206)

 仏教では「マナ」、日本語の「慢」は煩悩のひとつとされている。プライドやセルフ・エスティームは低次元の段階では持つことが望ましいが(7p209)、最終的には卒業する必要がある(7p210)

 人生はいつ突然に最後の日がやってくるのかどうかわからない。もし、明日死ぬとしたら今日の朝ごはんが最後の朝ごはんとなるのである(6p141)。いくらお金を稼いでも、いくら高い社会的地位に就いたとしても、そんなものはあの世には持っていけない(6p152)。とすれば、今日が人生の最後の日になるかもしれない。そんな思いを胸に刻んで一瞬を心を込めて生きるしかない(6p142)

 20160707E. E. Cummings.jpg人生の真の意味を見出すことは死を受け入れることであろう。米国の詩人、画家、随筆家、E・E・カミングス(Edward Estlin Cummings, 1894〜1962年)は、エゴを超えたところには、「すること」が減り、「ただ在ること」が増えることがあると指摘する。そして、意味はモノを所有することではなく、友人や社会との関係性、自分自身の存在という光輝く内なるフローに見出される(1p205〜206)

20160707rollo may.jpg すなわち、ケンタウロスのレベルを復活させることは、アブラハム・マズロー(Abraham Maslow, 1908〜1970年)の「自己実現」、あるいは、米国の心理学者、ハーバード大学のロロ・メイ(Rollo May, 1909〜1994年)教授の言う『人生の意味』が関わってくる(1p204)。エゴだけの狭いアイデンティティを手放し、ケンタウロスのレベル、エゴと身体を同一化し、心身が統一されたアイデンティティを確立することは、実存的自己の発見を意味する(1p186,206)。 

人間性心理学がトランスパーソナル心理学のベースとなった

 トランスパーソナル心理学が誕生する以前には、心理学には三つの流れがあった。第一は、行動主義心理学、第二はフロイトの精神分析から生れた心理学(2p62)、第三が、この二つを批判する形で産まれてきた人間性心理学(実存心理学・現象学的心理学)である(2p63)

 マズローも晩年には「自己実現欲求」のさらに先に自己実現を超えた心理学「自己超越欲求」がある考えていた(2p66,7p210)。このマズローの呼びかけを受け、カリフォルニアのパロアルトのグループが、自我を超えた体験の研究を始める。そして、1960年代後半にマズローとメリーランド精神医療研究センターのスタニスラフ・グロフ(Stanislav Grof, 1931年〜)研究部長とが話し合った結果、この新たな心理学に「トランスパーソナル」という名前が付けられる(2p66)

 それ以前にはトランスパーソナルという言葉は、1905年にウィリアム・ジェイムズが使い始め、1916年にはカール・グスタフ・ユング(Carl Gustav Jung, 1875〜1961年)が「集合無意識」の意味で用いている。また、イタリアの精神科医、ロベルト・アサジョーリ(Roberto Assagioli, 1888〜1974年)もハイヤー・セルフという言葉をかなり古くから使っていた(2p67)

 1969 年、マズロー、グロフを中心に、オーストリアの心理学者、ビクトール・エミール・フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905〜1997年)博士、ロベルト・アサジョーリ、アーサー・ケストラー(Arthur Koestler,1905〜1983年)、イギリスの哲学者、アラン・ワッツ(Alan Watts,1915〜1973年)らが賛同し、トランスパーソナル心理学会が創設された。そして、その翌年、1970年にマズローは心臓発作で急逝している。その死が一年早かったならばトランスパーソナル心理学はこの世に誕生しなかったかもしれない。おそらく、トランスパーソナル心理学会の創設がマズローのいのちに与えられた最後の使命だったのであろう(2p68)

 13Carl Rogers.jpgそして、トランスパーソナル心理学の発展には、アブラハム・マズローだけでなく、カール・ロジャーズ(Carl Ransom Rogers, 1902〜1987年)博士のクライエント中心療法、ユージン・T・ジェンドリン(Eugene T. Gendlin, 1926年〜)博士のフォーカシング、フレデリック・パールズ(Frederick Perls, 1893〜1970年)博士のゲシュタルト療法、フランクル博士のロゴセラピー等が大きく貢献する(2p44,2p63)

エゴと身体の分裂を回復するフォーカシング

 ウィルバーの自己成長論の意義は、人間の自己成長を最後のトランスパーソナルなレベルまで描き切ったことにある(2p115)。パーソナルからトランスパーソナルへのこの段階は、自分の人生を生きられるようになった人が、さらに進んでいく段階で、トランスパーソナル心理学がこれまで最も強調してきた段階である(2p120)。そして、エゴと身体に分裂したエゴ意識を身体も含めた人間として全体性の回復を目指すのが「フォーカシング」等の「人間性心理学」で(3p109〜110)、自分を離れたところから見る「眼」を養ううえで最も優れた方法が「フォーカシング」である(2p154)

 フォーカシングの専門家、関西学院大学の池見陽教授のイメージ図に意識のスペクトルを書き込んでみたものを作ってみた。

ウィルバー.jpg カール・ロジャーズは「自分が自分を受容的に耳を傾けられるとき、自分自身になれるとき、私はよりよく生きることができる」と述べ、自分の心の声を他の誰かに聞いてもらう『傾聴』が大事だとしていたが(5)、フォーカシングは、ロジャースとその弟子であるユージン・T・ジェンドリン(Eugene T. Gendlin, 1926年〜)博士が、カウンセリングの中から作り上げた方法である。カウンセリングが成功する場合と失敗する場合との違いを研究した結果、自分の内側のまだ言葉になる以前の漠然とした感覚にふれ、そこから言葉を語っているときに、カウンセリングは成功していた。そこで、このエッセンスを取り出し体系化・技法化したのである(2p166)

 フォーカシングは向こうからやってくるものに心を開き、それを受動的に受け止める(2p160)。ジェンドリン博士は、この人生からの呼びかけを「暗黙への生起(Occuring into implying)」と呼ぶ(3)。このため、ネガティブな自己イメージをポジティブな自己イメージへと変える「認知療法」とは正反対度の態度で(2p160)、正も邪も、明も暗も、等しく認め、そのまま受け入れ、離れたところから自分自身を見る「眼」、高次元の自分を育む(2p170)

20160707Ann Weiser Cornell.jpg『やさしいフォーカシング』(星雲社)の著者、アン・ワイザー・コーネル(Ann Weiser Cornell,1949年〜)博士は、すべてをあるがままに認め、許し受け入れる自分へのまなざしを「より大きな私」と呼び、それは慈悲に満ちたブッダのようなものだと語る(2p168)

見えない世界からの呼びかけに耳を澄ます

 フォーカシングでは、何かを伝えたがっている内なる私がいると考える。それが、「あいまいで重たい感じ」として感じられる。これを「フェルト・センス」と呼ぶ(2p157)。とかく、「小さなことにくよくよするな」と自分の内側にある漠然とした違和感を無視しがちである。けれども、フォーカシングからすれば、それは気づく必要のある大切なメッセージをゴミ箱に捨ててしまうような粗雑な生き方なのである(2p159)

 一人静かな時間を持ち、人生全体からの呼びかけをからだ全体で受け止めてみよう。私たちを超えた何かの力。私を超えた向こうからの呼び声。妙に気になる夢。人間関係のトラブル。なぜか思い出す映画の一場面。たまたまつけたテレビドラマの登場人物が語る言葉。気づく必要のある大切なメッセージは様々な形でやってくる。沈黙すると、ひっそりと届けられる呼びかけの声、「サイレント・コーリング」に気づく(3)

13gendlin.jpg この人生や状況からの呼びかけに対して心を閉ざし、自分自身に関心を向けていくと、それは自己愛や自己執着につながる。昨今のスピリチュアル・ブームが危険なのは、こうした新たな自己執着や虚しさを産むからである(3)

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【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ

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2016年07月06日

トランスパーソナル心理学入門@〜神秘体験よりも健全な自我の確立を

日本社会はなぜ生きづらいのか

選択と自己責任を強いる冷たい社会

 現代は自分探しの時代だと言われる。学校においても会社においても、個性を発揮する自分らしさが尊重されている。けれども、これほどまでに自分探しや個性が求められることそのものが、現代社会の病理といえる(5)

 そもそも複雑化した現在社会の中で、自分らしく生きることそのものが難しい(5)。しかも、人生の選択肢の幅はますます広くなっている。仕事や結婚をはじめとして、自分がどのような人生を歩むのかが絶えず問われ続けている。そして、人生の幸や不幸のすべてはこの「自分の選択の結果」だと誰もが思い込まされている(4)

 すなわち、いま不幸なのは自分の選択の誤りのためだ、結局、自分が悪いのだという思いを抱かざるを得ない自己責任社会なのである。そして、この自己責任社会の背景にあるのは、冷たい新自由主義的な考え方である(4)

他者との能力比較で評価される自分は歯車でしかない

 また、日本社会が求める「自分らしさ」や「個性」は、絶えず他者と比較することによって評価されるものである。けれども、学歴や収入等、他者との比較によって生きていれば、どこまで自分を高めたところで、自分は常に自分と同じ能力を持つ他の誰かと交換可能な存在でしかない。そして、多くの人たちが、日本社会とは、効率性がすべてに優先され、自分は交換可能なただの歯車のような存在でしかないことを実感している(5)

日本の個を殺す「つながり主義」が人々を閉塞させている

 『戦争論』において、小林よりのり氏は「公共性から切り離された個人主義はエゴイズムと変わりなく、日本人は倫理も美意識も失った」と個を殺した滅私的なつながり、「公偏重」の立場を主張してみせた(2p55,2p57)。小林氏の指摘は、ある意味で正鵠を射ている。けれども、限定され、閉ざされた「つながり至上主義」ほど、危険なものはない(2p57)

 日本では、親の過干渉でアダルトチルドレンが生れる等、個を窒息させる「つながり主義」が根強い(2p55)。とりわけ地方では「個を殺したつながり」を良しとする風潮が残っている(2p58)。これに対して、誰もが極端に孤独を恐れるあまり、まわりにあわせることに過敏になっている(2p31)。「いつも元気で明るくでいよ」という親の過剰な要求が子どもたちを苦しめている(2p33)

日本は誰もが自分を殺し匿名の誰かを演じる閉塞社会である

 すなわち、日本は「普通」から外れることに大きな不安を覚える社会である。大半の日本人は人並み教、「ふつう教」の信者である。そこで、「普通」から外れることに対して多くの人が自己否定感を募らさざるをえない。これは異様な社会といえる(4)

 このため、誰もが相手や世間から受け入れられる「匿名の誰か」という仮面を演じるようになっている。その背景にあるのは、集団から排除される不安、孤独に対する不安である(5)。自分の人生は自分が主人公のはずである。けれども、他者に服従したり、迎合したりして、他の誰かのために生きていると虚しさを覚えてくる(2p173)。他の誰かからの愛を失うことを恐れてひたすら相手に迎合し続けていくと、自分の人生が自分のものではなくなっていく。これは、日本人が陥りがちな自己喪失の典型的なパターンなのである(2p126)

 世間の価値観や物事の見方にあわせることで、自分を失う人のことをマルティン・ハイデガー(Martin Heidegger,1889〜1976年)は『ダス・マン(頽落した人)』と呼んだ。モノやマネーはあっても夢はなく、上辺の人間関係はあっても深いつながりはない。こうした閉塞感に包まれた時代を私たちは生きている(5)

個を賛美する相対主義にはニヒリズムが伴う

 そこで、他者の期待に応え、他者を喜ばせる「偽の自分」を演じるのを止め、自分が自分の主人公になる必要がある(2p123,3p46)。こうした日本の状況に対して、首都大学東京の宮台真司教授は、ポストモダンの相対主義を提唱し(2p52)、バラバラの個人主義を重視する(2p55)。これは、「腐ったつながり」を断ち切る意味では、大きな意味がある(2p58)。けれども、つながりを欠いた個人主義は抑圧的な人間関係や集団への埋没から個を解放することに役立っても、その先がない(2p59)

 日本では1980年代にポストモダンが流行した。ポストモダンは、フリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844〜1900年)の「パースペクティビズム(遠近法主義・観点依存性)」を源流とし、誰にとっても普遍的な真理はないと考える(2p51)。けれども、ポストモダンは大きな無力感を与える思想でもある(2p52)。宮台教授は「人生には意味もクソもない」と主張するが、そこでは個人の成長や真善美といった価値の一切が否定され、この世界は極めて荒涼としたフラットランドに化してしまう(2p90)。「私はここにいてもいなくてもかまわない」という相対主義には虚しさの感覚が伴う(2p215)

「個が生きる」つながりを目指すトランスパーソナル心理学

現代社会の問題の根底には物質主義と個人主義がある

 13Ken Wilber.jpgこうした相対主義に対して、トランスパーソナル心理学、とりわけ、ケン・ウィルバー(Kenneth Wilber, 1949年〜)は、壮大なスケールで「生と死の物語」を提示してみせる(2p85,2p90)

 トランスパーソナル心理学は、現代社会の様々な問題は、近代的なバラバラ思考の産物である物質主義と個人主義のゆきづまりによってもたらされたと考える(2p51)。「個を超えたつながり」を回復するしか、現代人の歪んだ生き方の根本からの改革は成し遂げられないと考える(2p225)。このため、トランスパーソナル心理学は、つながりを重視する(2p51, 2p224)

 けれども、そのつながりは、カルト集団のような閉鎖的・排他的なつながりでなく、開かれたつながりでなければならないし、ある種の全体主義的な抑圧的なつながりではなく、個が生きるつながりでなければならない(2p225)。すなわち、トランスパーソナル心理学が目指す、個が個として生きながら、同時につながることもできる「個が生きるつながり」が必要なのである(2p59)

個人主義が克服されたとき社会問題と環境問題も解決する

 そして、個人の心の問題である「私の癒し」を「世界の癒し」、「地球の癒し」と不可分のものとみなす(2p224)。ひとり一人を生きづらくしているもの、社会に歪みをもたらしているもの、地球を破滅に追い込んでいるもの。それは、同じものだからである。こうした、私はどう生きるべきかという自己探求の問題と、この世界はどこに向かうべきかという社会変革の問題と、傷つけた地球生命をどう癒すかというエコロジーの問題がひとつに溶けあう(2p227)

意識のスペクトルでレベルに応じた癒しを整理する

カウンセリングはペルソナとシャドウに分離した心を健全化する

 ケン・ウィルバーは若干24歳で書き上げた『意識のスペクトル』で、人間の意識を「ペルソナ意識」、「エゴ(自我)意識」、「ケンタウロス(心身一如)意識」、「究極の統一意識」という4レベルからなる階層構造として捉えて見せた。さらに、意識を階層構造化することによって、心理カウンセリングから霊的・宗教的な諸伝統が、各意識のレベルに応じて互いに相補的な関係にあることを整理してみせた。図をご覧いただきたい(3p108)
articles_009_image1.jpg 
 ウィルバーによれば、シャドウを意識化することで、ペルソナとシャドウに分裂した意識を健全なエゴ(自我)意識へと統合するのが「カウンセリング」である(3p109〜110)

 エゴが最も憎むのは自分である。すなわち、頭の中で勝手に理想とする「ペルソナ」を作り出し、自分が受け入れられない部分を非自己としてシャドウの側に追いやっていく。残されるのは、痩せ細って、ますます貧困化するペルソナである(1p153)。このため、自分が見たくなかったシャドウに向き合い、それを再び所有しなおせば、エゴはより健全なエゴとなり、ペルソナとシャドウとの分裂が癒され、自分で引いたその境界が消え失せれば、より広く安定したアイデンティティ感覚が味わえる(1p180)

西洋心理学と合致する、個としての自分の健全なエゴを確立する仏教の教え

 すなわち、きちんとした自己を確立することが、トランスパーソナル心理学の自己成長の第一段階であり(2p127)、それは、カール・ロジャーズ(Carl Ransom Rogers, 1902〜1987年)らの人間性心理学が強調する段階である(2p123)
 20160706ブッダ.jpgそして、興味深いことに、仏教はただ「我を捨てよ」と主張しているわけではない。自我を苦しみの原因とはせず、有効に再活用するため、ブッダは、法の実践を助ける7要素「七具足(善友性、戒具足、志欲具足、我具足、見具足、不放免具足、如理作意具足)」のひとつとして、「我具足(atta-sampada)」を説いている。文字通り「我を備えよ」という教えである(7p165)。また、極端な自己嫌悪や自我否定はある種のとらわれである。そこで、ブッダは、健全な人間関係を築くためには、しっかりとした自我を確立することが重要であるとみなしていた(7p166)

 これは西洋心理学でいう「自己確立」や「自己実現」に相当する(7p166)。そして、この健全な自我のまとまりが失われたときの認知モードが、総合失調症や境界性障害、離人症だと言える(7p162)。すなわち、自我確立を重要だとみなす西洋心理学とブッダの教えは矛盾しないのである(7p166)

ネガティブ思考は習慣で人は不幸になることを自分から願っている

 それでは、健全な自我を確立するためにはどうすればよいのだろうか。

 幸せになれるかどうかは、めぐってきたチャンスを捉まえる心構えがあるかどうかに尽きる(6p23)。「どうせ私は」と世界に自分を閉ざしてしまえばチャンスがめぐってきてもそれをうまくつかめない。この世界は自分の味方だという実感が持てなければもって産まれた自分の才能も十分に生かせない(2p149)
 けれども、口では「幸せになりたい」のに、「自分は不幸である」という殻に閉じこもっている人が多いのはなぜであろうか。それは、幸せになるのが怖く、今のままでいる方が楽だからである(6p31)。幸せになると本気で決意しても失敗すれば傷つく。傷つくくらいならば、今の不幸のままでいい。いっときの幸せを手に入れてもそれが長続きするかどうかわからない。それならば最初から幸せを手に入れなくてもいいと考えてしまうのである(6p32)

 16James Allen.jpgイギリスの哲学者ジェームズ・アレン(James Allen, 1864〜1912年)は「人間の心は庭のようなもので、思いは種子のようなものだ」と述べた(6p23)。何を考えるかがもたらす影響は大きい。昔の日本人も「言葉には物事を変える力がある」ことに気づき、これを「言霊」と呼んでいた(6p24)。それでは、なぜ言霊が機能するのであろうか。人間の脳にはいつも用いている「言葉」を頭の中で勝手に再生する「自動思考」という機能がある。ネガティブな言葉を用いる習慣がついていると、無意識でも自動的に「どうせ・・・〜できない」というネガティブな言葉が出てきてしまうのである(6p33)
 そして、人間の脳には、いつも考えていることを自動再生する「自動思考」という働きがある。このため、ネガティブな思考は意識してやめない限りずっと続いてしまう(6p33)。 深い心の傷を抱えた人は、自分の人生における最悪の出来事を何度も繰り返してしまい、不幸になってしまう人がいる。それは、客観的な過去のつらい事実ではなく、自分が作り出した物語を自分で確認したがっているからなのである(2p137,2p139)

マインドフルネスを活用したハコミセラピー

20160706Ron Kurtz.jpg このトラウマから解放するセラピーの一つに、ネーティブ・アメリカンのホピ族の言葉で「あなたは誰か」を意味する「ハコミ」という言葉から産まれた「ハコミセラピー」がある。創始者のロン・クルツ(Ron Kurtz)博士のワークショップではマインドフルネスを活用する(2p142)

 例えば、多くの人は「〜ができない」と考えがちだが、これを「〜しない」と言いかえることによって、「〜ができない」と思い込んでいたのは、したくないからしていなかっただけにすぎないという事実に直面する(2p133)。すべての行為は自分が選んでいるのだ、という主体性の感覚を取り戻せる(2p134)

いま、ここを全力で生きてみる〜ゲシュタルト療法

 「今のままの自分」でいることは楽である。そこで、人は、変わられない理由、いまのようにしか生きられない理由を自分に対して言い訳をする(6p40)。いつまでも不幸にとどまり、人生を変えられない人は、自分の不幸を「過去」と「他人」のせいにすることが多い。けれども、過去も他人も変えることはできない。変えることができるのは、「いま」と「自分」だけである。自分の不幸の原因を過去や他人のせいにしていることが、人生の流れを淀ませ停滞させている最大の障害物なのだから、このブロックを解除しない限り、いい人生の流れをつくりだすことは難しい(6p45)

16Fritz Perls.jpg 1960年代に米国で活躍したカウンセラー、フレデリック・パールズ(Frederick Perls, 1893〜1970年)博士は「過去への捉われと未来への空想を口にすることが、いまの自分を変えずにいるために張り巡らした最大のバリアーだ」として、過去や未来に逃避するのではなく、「いま、ここを生きる」ためのゲシュタルト療法を産み出し(6p42)、『ゲシュタルトの祈り』という詩を作っている。
 私はあなたの期待に応えるために、この世に産まれてきたわけではない

 あなたも、私の期待に応えるために、この世に生まれてきたわけではない
 あなたはあなた。私は私。
 もし、ふたりが出会うことがあれば、それはそれで素晴らしいこと
 もし、ふたりがふれあうことがなくても、それはそれでいたしかたのないこと(5,6p44)
 あなたは、他の誰とも違うかけがえのない存在である。そして、私も他の誰かと交換不可能なかけがえのない存在である(5)。過去への捉われや未来への空想、他人への責任転嫁を止めよ。他人に期待に応えることも止めよ。そこからしか自分の人生は始まらない。なればこそ、「私は私のことをして、あなたはあなたのことをする」とパールズは唱える(6p47)

神秘体験よりも健全な自己の確立が大切

プレパーソナルとトランスパーソナルな意識状態の区別が大切

 ここで、重要なことは、ウィルバーが、「プレパーソナル」というレベルを設け、これを「トランスパーソナル」と明確に区別したことである(2p99)

 ウィルバーは『アートマン・プロジェクト』(1980年)において、ゲーテやシェリングに由来するロマン主義に立ち、「乳幼児は神と一体化した天国状態にある」と書こうとしていた(2p99)。確かに禅においては「悟りとは赤ん坊のようになることだ」と表現され、聖書でも「幼な児のようにならなければ天国に入ることはできない」と書かれている(2p99, 3p114)。けれども、個としての「自分(エゴ)」が確立される以前の「プレパーソナル」な自他が未分化な幼児的意識状態の段階へと退行していくことと、個が確立されたうえで、さらにそれを超えていく「トランスパーソナル」な段階、悟りの状態とを同一視してよいのであろうか。『アートマン・プロジェクト』の執筆中に、この問題に直面したウィルバーは、「プレとトランスの混同」という概念を提起する(3p115)
 確かに、赤ん坊の未分化な意識状態も、成長の極限である「無境界」の意識状態も、「非エゴ的体験」である点では変わらないし、同一視されやすい(2p99,3p116)。けれども、悩んだ末に「両者には違いがある」とウィルバーは結論づけた(2p100)

20160617-CharlesT.Tart.jpg このウィルバーの区別には大きな意義がある。例えば、正常な人間の神秘体験も精神病患者の体験も「非自我的・非合理的な体験」である点からすれば違いはない。そして、フロイトは、非自我的・非合理的な体験をすべて「プレパーソナル」な領域だと見なす。このため、フロイトによれば、ブッダやキリストでさえプレパーソナルな幼稚な状態に貶められてしまう。逆に、ユングは幼児的な神話的思考や古代のイメージといったプレパーソナルな状態を過度に賛美してトランスパーソナルと同一視するという過ちを犯しているのである(2p101)
 ただ「頭を捨てよ」と理性的な判断を放棄させ、個人の成長を妨げる「似非スピリチュアリティ」と、理性を保持したまま「超合理」の段階を目指すトランスパーソナルな意識状態は、区別しなければならないと、ウィルバーは警告する(3p116)

 他者に盲目的に尽くしたり、集団に埋没するつながりは、「個の確立」以前という意味で「プレパーソナル」なつながりといえる(2p58)。下手をすればオウム真理教のようになりかねない(2p57)。プラユキ・ナラテボー氏によれば、ブッダは「カーラーマ経」で「師が言ったからといって鵜呑みにしてはならない」とグルイズムを明確に否定している。理にかなった思考「如理作意(にょりさい)」や「中道」を重視して、盲目的な行動や極端な苦行を戒めていたのである(7p70)

超常体験よりもきちんとした自己確立が大切

 20160706Arthur hastings.jpgカリフォルニア大学デービス校のチャールズ・タート(Charles T. Tart,1937年〜)教授やパロ・アルト(Palo Alto)のソフィア大学のアーサー・へスティング(Arthur Claude Hastings, 1935〜2014年)教授らの研究によって、通常の意識とは異なる「変性意識状態」があることがわかってきた(2p72)。けれども、どれだけ素晴らしい超越的な神秘体験をワークショップ等でしたとしても、日常生活はなにも変わらないことが多い(2p74)。そして、オウム真理教の信者のように、神秘的な体験によって自分の宗教的な格が上がってしまったと思い込んでしまいがちである(7p101)。そこで、トランスパーソナル心理学では、個の確立という人格の基礎ができなければその人は人間的に成長しないし(2p127)、日々の生活の中で、個を超えた力をどう生かし、心を豊かにしていくかのほうが神秘体験よりもはるかに重要だと考える(2p74)

 ブッダも瞑想中に生じてくる「光の体験」や「歓喜体験」等(7p137)、10の特殊の体験についてふれ、これを「ヴィパサヌーッパキレー(瞑想随煩悩)」と称して、とらわれてはならないと述べていた(7p138)
 すなわち、自分や周囲の人の苦しみが軽減され、楽が増えている。「抜苦与楽(ばっくよらく)」な状態であれば正しい方向に進んでみるとみなしてよいが(7p101)、たとえ、神秘体験をしていても周囲の人の苦しみが増えているのであれば、それは正しい方向には進んでいないのである(7p102)

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【引用文献】
(1) ケン・ウィルバー『無境界』(1986)平河出版社
(2) 諸富祥彦『トランスパーソナル心理学入門』(1999)講談社現代新書
(3) 諸富祥彦『生きづらい時代の幸福論』(2009)角川ONEテーマ
(4) 諸富祥彦『人生を半分あきらめて生きる』(2012)幻冬舎新書
(5) 諸富祥彦『あなたがこの世に生まれてきた意味』(2013)角川SSC新書
(6) 諸富祥彦『自分に奇跡を起こす心の魔法40』(2013)王様文庫
(7) プラユキ・ナラテボー、篠浦伸禎『脳と瞑想』(2014)サンガ
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2016年07月04日

A贈与の生物学〜国家を作らなかった人々の論理

権力なき首長

 新石器時代には、政治があったとしても、呪術師や占い師たちのご神託で物事が決められる非合理きわまりないものにちがいない。それが、これまでのイメージだった。けれども、人類学の研究が進んだ結果、意外なほど「民主的」なやり方で政治が行われて来たことがわかってきた(3p138)

 20160704lowie robert.jpg例えば、米国の人類学者、カリフォルニア大学バークレー校のロバート・ハリー・ローウィー(Robert Harry Lowie, 1883〜1957年)教授は、南北のネーティブ・アメリカン社会を元に、「首長(titular)」の三つの特徴を以下のように整理してみせたが(3p136)、そこにはまさに根源的な「政治」の姿が表れている(3p137)

交渉と調整の人

 首長の役目は、部族内や他部族ともめ事がおきたときに、緊張をやわらげ、戦争や殺人といった最悪の事態に突入することを防ぐことにある(3p137)。ただし、「威信」はあっても、政治権力は持たなかった。したがって、気長にネゴシエーションを行いながら、緊張を取り除き、平和をもたらすため、自分の利害を離れ客観的な立場に立てる「正しい心」の持ち主であることが求められた(3p138)。首長の権威を支えているのは「理性」といえる(3p200)

物惜しみしない

 20160704PierreClastres.jpgケチであることは自分を否定することに等しいため、首長は、物惜しみしなかった(3p137)。フランスの人類学者、ピエール・クラストル(Pierre Clastres, 1934〜1977年)の『国家に抗する社会』によれば、誰よりも所有物が少なく見栄えのしない装身具しかもっていない者が首長である。求めるものをすべて与えてしまうのが首長の役割だからである。レヴィ=ストロースも『悲しき熱帯』において「首長の人気の程度では、気前のよさが大きな役割を果たす」と述べている(3p141)。首長は、「貪欲」に対立する作法、文化を身に付けていたといえる(3p142)

弁舌がさわやか

 ためになる話や教訓となる話を聞きたいという人々の欲求には根深いものがある(3p144)。このため、多くの部族の首長には、毎朝や日暮れ時に、何かためになる話をして人々を喜ばせる義務があった。とはいえ、人々が飽きてしまわないように話さなければならない。このため、首長は誰よりも弁舌が巧みで、かつ、うまく踊り歌えなければならなかった(3p143)。踊りと歌で人々に深い感銘を与えた後、おもむろに正しい生き方を諭す。これはまさに文化的な行為といえる(3p144)。なお、現代でも若者たちに最も影響力を持っているのがミュージシャンであることはこれと無関係ではない(3p145)

戦争時には戦争のリーダーが登場する

 けれども、首長の交渉や調停がいつも成功するとは限らない。その場合には、首長とは別に戦時のリーダーが選ばれ、男たちを率いて戦争にでかけることになった。ここでリーダーに求められる能力は勇気である。したがって、二つのリーダーは完全に分離されていた(3p139)

熊楠と折口は対称性の思考を模索していた

20160704Orikuchi.jpg 南方熊楠(1867〜1941年)は傑出した対称性の思考能力を持っていた(7p91)。熊楠が粘菌の研究に没頭したのも、動物と植物、生と死との間の高次元領域を発見することを求めたからであった(7p4,7p93)。また、民俗学者の折口信夫(1887〜1953年)も、表面的には違って見えるものの間に共通性や同質性を見出し、ひとつのものとして捉える能力に長けていた。これもまさに「対称性の思考」といえる(7p90)

幸福という言葉は異界を表す言葉から作られた

 例えば、幸福という言葉は明治時代に英語の「hapiness」やフランス語の「bonheur」を翻訳するため、それまでのやまと言葉にあった「さち」と中国語由来の「福」を組み合わせ作られた(6p176,7p208)

 折口信夫によれば「さち」は、新石器時代の狩猟社会使われていた言葉である。「さ」は古代語で境界を表し「ち」は霊力を意味する(6p177,7p211)。すなわち、森の守護神である熊が境界を超えて人間に贈与する狩猟の豊かさを意味していた(7p211)

 「福神」も、折口信夫の言う、海の彼方にある他界「常世」が関係していた(6p177)。記紀や万葉集、風土記に見られる「常世」は、この世とは時空間の尺度が違い、生命力が溢れた豊穣な世界だとされてきたが(6p208)、オーストラリアのアボリジニの言う「ドリームタイム」に類似する(6p178)。「福神」は、そうした空間や死霊の世界と深くつながり、無限の富や生命を貯蔵し、人間世界に豊かな富をもたらす神と考えられて来た(7p213)。ここには対称性の原理が働いている(7p211)。とりわけ、「さち」は、空間的に対称性の原理を作動させている(7p212)。したがって、人間の幸せは対称性と切り離しては考えられないのである(7p214)

冬は霊力が高まる聖なる時間である

 折口信夫は、霊魂や神の概念がどのようにして誕生したのかを探る中で「古代」という概念を提示する(3p164)。折口は「たま」が極めて古い時代から生き残って来た言葉だと考える。そして、長く寒い「ふゆ」に「たま」が増えると考えた(3p165)。日本の冬は聖なる時間であり、霊力が増える意味を持っていた(3p172)

20160704FranzBoas.jpg 折口が独創的な「霊魂論」を着想したヒントには(3p26)、北西インディアン部族、クワキトゥル族、トリンギット族、ツィムシアン族が行っていた祭りについて、コロンビア大学のフランツ・ボアズ(Franz Boas, 1858〜1942年)教授の研究がある(3p168)

無文字社会のイニシエーションと怪物

 国家を持たない無文字社会では、イニシエーションの儀式が盛んに行われて来た。若者がこれを通過してはじめて大人社会に迎え入れられることになる(7p45)。共同体の長老たちが厳重に保管し、資格ありと認められた若者が、厳しいイニシエーションの儀式を通過した末にようやく体験できる「特別な知恵」が最も大切にされてきた(7p138)

 例えば、北米北西海岸に住む先住民、クワキトゥル族は、夏には協同で漁撈や狩猟採集を行い、首長がリーダーとなっているが(3p170)、冬になると家族中心の社会構造が一変し、人々は「アザラシ組」「ワタリガラス組」といった秘密結社に属し、霊力を発動させるための祭り「ツェツァイカ」を行うのである(3p172)

 うち、最も権威ある秘密結社、アザラシ組の一員になるためには、「ハマツァ(人食い)」の儀式を経験する。その中で志願者は「パブバクアラヌフスィイェ」という強力な人食いの怪物に食べられる体験をしなければならない(3p174,7p46)

20160704Kwakwakawakwgirl.jpg 人類の古いイニシエーションの儀式の主題は、真っ暗の小屋や洞窟に若者が長時間放置し、これから怪物に喰われるのだぞと脅されるというものである。そして、闇の中で若者を待ち受けている怪物は、ほとんどが半人・半獣の怪物なのである(p130)

 夏は狩猟の季節であり、人間が動物を殺す。けれども、冬にはこの関係が逆転し、森を住処とする自然の王「パブバクアラヌフスィイェ」に人間が食べられるのである(3p175)

自らを犠牲にすることで幸をもたらすアリクイ

 中央アフリカのバンツー系の一部族「レレ族」は、動物/人間、女/男、左/右と二項論理によって自分たちの生きる世界を構築しているが(7p122)、1970年代に人類学者、ノースウェスタン大学のメアリー・ダグラス(Mary Douglas, 1921〜2007年)教授は、男たちだけが参加するある特別な儀式ではこの秩序が崩壊することを報告している(7p123)

 20160704douglas.jpg若者が長老からレレ族伝承の「特別の知恵」を授けられるイニシエーションの儀式では、全員でアリクイを食べる(7p124)。そして、彼らの二項論理では分類できない「怪物」、アリクイを食べることで女性たちが妊娠し、狩人は獲物をたくさんしとめられると考える(7p125)。さらに、アリクイは自らの内部から世界に幸せをもたらす能力を解放しようとして、自ら進んで死を選んだと解釈される。怪物的な動物は聖者のような利他心をもって自分を犠牲に捧げようとしていると考えることによって、アリストテレス型の論理が解体され(7p126)、生と死の対立を超えた高次元な世界が追求されているのである(7p127)

人間に変身するシャチやヤギ

 クワキゥトゥル族は、人間とシャチとが入れ替る「トランスフォーム・マスク」を作っているが、こうした仮面は北西海岸のインディアンやイヌイットに至るまで広範な地域で発見されている。東京帝国大学の金田一京助(1882〜1971年)教授の「山の思考」によれば、明治の東北盛岡でも春田打ちの舞に出てくる芸人が、美しい女性の田の神と醜い山の神の顔を交互に入れ替えるマスクで芸を演じていた(7p42)

 北米北西海岸に居住するトンプソン・インディアンの神話「狩人と山羊」では、山羊も人間となる(7p26)。そこには、山羊と人間を切り離す非対称の原理と、山羊と人間との間に絆を作り出す「対称性の原理」のバランスとがよく考え抜かれている(7p30)

冬には逆に人間が食べられる〜対称性の論理でバランスをとる

ポイエーシス(贈与)からテクネー(開発)へ

 例えば、ドイツの哲学者、マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889〜1976年)は、近代技術の本質を明らかにするため、古代ギリシア人がテクノロジーについて、どのように考えていたのかに着目した。テクノロジーの語源は、ギリシア語の「テクネー」だが、この言葉は「ポイエーシス」と対比的な意味を持っていた(3p121)

 すなわち、ギリシア人は、自然に花が咲くように、自然が隠し持っていた豊かなものを自発的に持ち出す「贈与」を「ポイエーシス」と呼ぶ一方、岩山を砕いて鉄鉱石を取り出したり、鉄鉱石を熱して純度が高い鉄を作る等、自然の中に隠れている豊かなものを挑発的に引き出す行為のことを「テクネー」と呼んでいた。そして、ハイデガーは、近代社会では技術が「テクネー」としての性格を強め、自 然を開発の対象として見るようになってしまったことに危機感を抱いていた(3p121)

 確かに、人間は技術を手にすることによって動物よりも圧倒的に有利な立場に立てたし、自然の富も無尽蔵に手に入れられるように見える。けれども、人間が動物に対して「非対称的」な関係を打ち立ててしまえば、いずれ非道な仕打ちに怒った自然が、人間に豊かな富を贈与しなくなるに違いない。先住民たちは、そう考えていた(3p176)

夏には人間が獣を食べ、冬には獣に人間が食べられる

 夏の狩猟の季節には、世俗的な季節を指導する首長は、法律家であり、道徳家であり、理性と弁舌をもって社会に平和をもたらすため、威信を保っていた(3p182)。そして、こうした社会においては、シャーマンはいつも社会の周辺部にいて、権力の中心には近づけないようにされていた(3p135)。ただし、冬の祭りの時には、戦士、シャーマン、秘密結社のリーダーが中心となった(3p183)。戦争も祭りとよく似た行為である(3p180)。ただし、伝統社会での戦争は、失われたバランスを取り戻すことが目的であり、報復が完了すればそれで終わり、大量虐殺や全面戦争には至らなかった(3p182)

 要するに、二つの異なる原理をバランスさせることで、無文字社会、国家を持たない社会は3万年以上も比較的つつましくこの地球上で生きて来た(7p118)。人間と動物との間には対称性の思考があるため、狩猟民は乱獲を起こさなかったのである(7p154)

 1920年代には、フランツ・ボアズ教授による北米西海岸の先住民の姿が紹介されていた時代だった。彼らの生業も日本の縄文時代も、いずれも、狩猟と漁撈に依存し、熊とサケが重要な動物となっていた点で類似していた(3p155)。このため、宮沢賢治(1896〜1933年)は『氷河鼠の毛皮』(大正12年、1923年)という作品で、節度をもって生きることの大切さを格調高く童話で描いて見せている。

20160704賢治2.jpg『おい、熊ども。きさまらのしたことは尤もだ。けれどもなおれたちだつて仕方ない。生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから今度はゆるして呉くれ』

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【引用文献】
(1) 中沢新一『宗教入門』(1993)マドラ出版
(2) 中沢新一『人類最古の哲学・カイエ・ソバージュ1』 (2002)講談社選書メチエ
(3) 中沢新一『熊から王へ・カイエ・ソバージュ2』 (2002)講談社選書メチエ
(4) 中沢新一『愛と経済のロゴス・カイエ・ソバージュ3』 (2003)講談社選書メチエ
(5) 中沢新一『神の発明・カイエ・ソバージュ4』 (2003)講談社選書メチエ
(6) 中沢新一・河合隼雄『仏教が好き』(2003)朝日新聞社
(7) 中沢新一『対称性人類学・カイエ・ソバージュ5』(2004)講談社選書メチエ
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2016年07月03日

贈与の生物学@ 脳神経の配線変化による人類の誕生

はじめに

 先住民、シャーマニズム、脳神経科学、仏教、慈悲、脱成長経済、贈与といったキーワードが気になっている。これが、中沢新一明治大学特任教授が2001年から2003年にかけて行った講義をベースとした『カイエ・ソバージュ』シリーズのテーマとなっていることを知った。脱成長経済の鍵となる贈与経済は、脳神経科学や慈悲、仏教思想とどのように絡んでくるのだろうか。ついては、中沢氏の著作の内容をここで再整理しておきたい。

ユーラシアには中石器時代から続く神話が残されている

 ケルト文明の伝承が色濃く残るフランスのブルターニュやイギリスのウェールズ地方とアジアには、「燕石」についての瓜ふたつの神話が残されている(2p40)。この事実に着目したのは南方熊楠(1867〜1941年)で(2p41)。「燕石」は日本では9世紀に書かれた『竹取物語』に登場するが(2p48)、柳田國男(1875〜1962年)によれば、燕の古い名称は「ツチハミクロメ(土喰黒女)」であり、燕は闇と湿気、すなわち、死の領域にかかわる動物なのである(2p77)

 また、世界最古のシンデレラの物語は9世紀に中国の『酉陽雑俎』に記録されたもので(2p133)、この事実を発見したのも南方熊楠である(2p132)

 ユーラシア大陸の両端に類似した神話があることは、中石器時代に共有されていた思考が残っているからではないだろうか(2p41)

 日本の『古事記』や『日本書記』は8世紀にある政治的な意図をもって編纂されたものだが、その中には、中石器時代や新石器時代の文化に属する驚くほど古い神話が保存されている。これは世界の文明の中でも類例をみない(2p11)

環太平洋には国家を作らなかった人々の文化圏がある

 中国西南部の雲南地方には、イ族、ナシ族、リース族等、多くの少数民族が居住する。現在は山岳地帯に居住しているが、以前は、揚子江に近い平原部で生活していたらしく、縄文人ともかかわりが深い(3p150)。例えば、上述した最古のシンデレラの物語は、唐末期に南中国の少数民族「荘族」の伝承を記録したものらしい(2p133)

20160703map2.jpg 中国では漢民族によって国家が作られるが(3p150)、中沢特任教授は、中国南西部から、日本の東北と北海道、サハリン島、アムール川流域、北米西海岸、そして、南米にまで国家を作ろうとはしなかった環太平洋の人々の文化が辿れると主張する(3p151)

 北海道とサハリンにはアイヌ、サハリンの北方には、ウィルタやギリヤークがおり、オホーツ海に面したアムール川流域には、オロチやウリチ等の狩猟民がいる(3p27)。さらに、北方にはコリャークやチュクチがおり(3p28)、カナダではバンクーバー島を中心に、トリンギット族、ハイダ族、クワキウトゥル族、トィムシアン、サリッシュ族等が居住している(3p28,3p154)

 もちろん、こうした社会が平等であったわけではない。富は蓄積され、貴族、平民、戦争で負けて捕虜になった奴隷と社会の階層化は生じていた(3p160)。けれども、王や国家が出現するあらゆる条件が整っているにも関わらず、彼らは、王や国家を作ることを拒否していた。このことから、中沢特任教授は、社会が発展進化するにつれて、首長が王になり、国家が誕生するわけではないと考える(3p159,5p17)

3万年前にシベリアから移動し、1万年前にアメリカに進出

20160703map1.jpg ホモ・サピエンスは、約10万年前にアフリカを出発し、ヨーロッパやオーストラリア大陸には4万年前、シベリアを超えてバイカル湖周辺には3万数千年前に出現した(7p74)。そして、シベリアからアメリカ大陸への移住は大きく三波にわたってなされた(3p66)

 第一波として、バイカル湖の東のほとりに住んでいた「古モンゴロイド」が、マンモスを追って今から1万年前にベーリング海峡をわたり、ローレンタイドとコルディエラ氷床の間を抜けて中央平原地帯へと進んだ(3p67,3p157)

 移住の第二波は、やはりバイカル湖周辺に居住していたが、その後に、アムール川流域にかなり長期間滞在する中で、独自の文化を身に付けた「北西海岸インディアン」たちである(3p158)

 さらに、南米大陸にたどりついた集団は、アンデス山麓にしばらく滞在した後、あるグループは最南端を目指して南下し、別のグループはオリノコ川流域にそって北上を続け太平洋に到達した。そして、もうひとつのグループはアマゾン川流域の森林地帯に散会していった(5p26)

3万年前に最古の哲学、神話が登場した

 地球上の各地では、いまから1万年前に農業が始まり、動物が家畜化される。これを「新石器革命」と呼ぶ(2p13)。けれども、中沢特任教授は、上部石器時代、3万数千年前に、ホモ・サピエンスの大脳組織に飛躍的な変化が起きたことが重要であると考える(2p12,7p2,7p24)。世界中に残されている神話的な思考の痕跡を探ってみると、ある深いレベルで働いている一貫性のある「論理」が存在していることがわかる(7p14)。これをクロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908〜2009年)にならって「人類最古の哲学」と呼ぼう(2p20,7p14)。すなわち、この脳組織の変化によって、中石器時代に人類は最初の「哲学」を作り出す(2p13)。そして、人類が文字を作り出したのは「神話」を語り始めてから2万年以上も後のことなのである(2p17)

ネアンデルタールとホモ・サピエンスの違いは無意識にある

 ネアンデルタール人は、高度な技術的才能を持ち優れた石器を作り出した。間違いなく言語も話していた(7p67)。ネアンデルタール人は妊娠期間が1年近くもあった(7p65)。そして、ネアンデルタールは、子ども時代が非常に短く、3歳でも新人の成人並の脳を持っていた(7p64)。けれども、ネアンデルタール人の脳は言語的認識を行う部分、社会的認識を行う部分がバラバラに別れて発達し、それぞれが独立して作業をしており、その間のスムーズな連携網は発達していなかったらしい(2p12,5p57)。けれども、象徴的思考、メタファーの能力が欠如していた(3p78,7p69)

 一方、ホモ・サピエンスでは、脳内の結合組織が横断的につながれ、これまでなかった流動的知性が発達する(3p78,5p57)。このことで、人類は「記号」ではなく「意味」として物事を理解できるようになり、そこから「言語」もいまある形へと組織化される(3p78)

 あらゆる言語は、異なる領域を重ねて圧縮する「隠喩(パラディグマ軸)」と異なる領域をずらす「換喩(シンタグマ軸)」からできている(3p78,5p58)。言語は人間の象徴だとされるが、より正確にいえば、言語を可能としている比喩能力、そして、それを可能としている流動的知性の働きこそが人間の証なのである(3p78)。この比喩的思考能力によって、言葉で表現する世界と現実とは必ずしも一致しなくてもよくなり、現実から自由な思考が可能となる。このため、人類は、言葉をしゃべり、歌を歌い、神話という最初の哲学を作り出し、複雑な社会を作り出すことが可能となった(3p58)

 カナダのユーコン川に住むアタパスカン族の神話は、最も古く、コリャーク、チュクチ族等の古モンゴロイドの間でも知られているのと同様の内容を持つ(3p66)。それは、人間が熊になるという神話である(3p74)。ネアンデルタールは、人間は人間、熊は熊と認識していたが、ホモ・サピエンスのように人間が熊になるという思考はできなかった(3p76)

統合失調症は無意識が生で表れた症状

 レヴィ=ストロースはことあるごとに「神話は無意識の行う思考である」と語っているが(7p59)、象徴的思考には、圧縮や置き換えによって意味を横断的につなぎあわせていく流動的な知性活動が不可欠である。それは、豊かな無意識が必要である(p68)。そして、フロイトによれば、「無意識」は、ホモ・サピエンスは妊娠期間が短く、未熟なままに子どもが産まれてくるという「未熟さ」のため発達する(7p65)。「夢」は「無意識」が語る言葉と言われるが、夢は、イメージを圧縮する隠喩とイメージをずらす換喩からできている。「無意識は言語のように構造化されている」とジャック・ラカンが語ったのはそのためなのである(3p58)。すなわち、人類とは初めて無意識を持ったヒトであると定義できる(7p76)

 20160703Blanco.jpgフロイトは、無意識の活動として圧縮や情動の混乱、置き換え等をあげたが(7p59)、チリの精神科医イグナシオ・マッテ・ブランコ(Ignacio Matte Blanco, 1908〜1995年)は『無限集合としての無意識−バイロジックの試み』(1975)で、カオスのように見える総合失調症の背後には、フロイトが無意識の特徴としてあげたのと完全に一致する論理があることを見出す。このことから、ブランコは、統合失調症とは、無意識活動が「生の形」で表面に浮上した現象であると主張する(7p53)

無意識は個を認識しない

 この神話的思考を動かしている最も基本的な思考プロセスは、現在の科学的思考とまったく同じ「二項論理」であり(7p15,7p24)、それ以来、人類の知的能力は進歩していない(7p24)。けれども、神話と科学には大きな違いがある。科学は二項論理を用いてアリストテレス型の論理を働かせる(7p25)。うち、最も重要なのがAという命題があり、非Aという命題があるとき、Aと非Aとは両立しえないという「矛盾律」である(7p25)。

 けれども、無意識も神話と同じくアリストテレスの論理に従わない。アリストテレスの論理は「個」を認識することから出発する(7p53)。けれども、無意識は「個」には関心を示さず、「個」を日本国民や人類のように一般化して扱おうとする。これを哲学者、京都大学の田邊元(1885〜1962年)名誉教授は「種の論理」と呼ぶ(7p54)。すなわち、フロイトが見出した無意識では自己と他者との区別をせず、個を認識しない(7p164)

無意識は非対称の関係性を対称的に扱う

 無意識は非対称の関係を対称的に扱おうとする。これをブランコは「対称の原理」と呼ぶ(7p54)。そして、時間は消失し、部分と全体との差異もなくなる(7p55)。例えば、統合失調症の患者は情動に障害があるが、ブランコによれば、それは、非対称の関係にある愛と憎しみが同質の情動として扱われてしまうためなのである(7p56)

対称性原理の復興が必要

 神話的思考では「対称性の論理」が働いていたが(7p15)、近代以降の科学や哲学は、「非対称の原理」によって成り立ち、対称性の論理を極力排除しようとする(7p32,7p15)。形而上学、資本主義の経済活動、国家権力のすべてが非対称性の論理と関係している。それが、無意識の働きに抑圧や歪みをもたらしている(7p119)

 そこで、神話の対称性の論理を復活させることには今日大きな意義がある。交換が贈与となり、言語は詩となり、人間が宇宙の一部にすぎない倫理的思考が生命を取り戻すからである(7p15)

 とはいえ、現代人がもはや神話の思考に戻ることは不可能である(7p119)。「野生の思考」だけでこの状況に立ち向かうことはできない(7p147)。したがって、流動的知性=無意識の中から出現する新たな智、「対称性人類学」を作り出して行くしかない(7p120)。「対称性人類学」とは抑圧されていない無意識をできるだけ純粋な形で取り出そうとする試みなのである(7p146)

北米西海岸の先住民の図はこのサイトから
ホモ・サピエンスの移動図はこのサイトから
マッテ・ブランコの画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) 中沢新一『宗教入門』(1993)マドラ出版
(2) 中沢新一『人類最古の哲学・カイエ・ソバージュ1』 (2002)講談社選書メチエ
(3) 中沢新一『熊から王へ・カイエ・ソバージュ2』 (2002)講談社選書メチエ
(4) 中沢新一『愛と経済のロゴス・カイエ・ソバージュ3』 (2003)講談社選書メチエ
(5) 中沢新一『神の発明・カイエ・ソバージュ4』 (2003)講談社選書メチエ
(6) 中沢新一・河合隼雄『仏教が好き』(2003)朝日新聞社
(7) 中沢新一『対称性人類学・カイエ・ソバージュ5』(2004)講談社選書メチエ
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2016年06月21日

彼岸の生物学D 狩猟採集社会の脱魂型シャーマンから農業祭司社会の憑依型シャーマン

狩猟採集部族社会から農耕社会へ

 20万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンス型人類が5万年前の出アフリカ以降、長き放浪のライフスタイルを捨て、定住を始めるのは、1万5000年前のことである。人類史上においては、定住の方が農業の始まりよりも約5000年も早かったし、はるかに重要だった(9)

 狩猟採集民たちは私有財産を持たず、冨の格差もなく、だれもが平等な社会だった。だが、定住化と農耕社会の発展によってこれが変わる(3)

 狩猟採集の部族社会では、シャーマンたちが「聖なるもの」と直接交流し、その豊穣な世界を話し言葉でコミュニティの構成員とわかちあうことで、誰もが密接なつながりを感じることができた(2p48)。各個人が「聖なるもの」に直接的にコンタクトすることも認められていた(2p49)。こうした狩猟採集民の社会におけるシャーマンの権力は、個人的な能力に依存していた。マックス・ヴェーバーの支配類型では「カリスマ支配」にあたる(1p77)。けれども、定住的な農耕社会では、祭司宗教が中央集権的な政治権力と結びつく。神主や神父等は、個人的な霊能力ではなく、世襲的な儀礼執行権であり、ヴェーバーの論理では伝統支配になっていく(1p77)

農耕社会では儀式が日常化する

 これには理由がある。社会の規模が拡大し、社会制度が複雑化すると、狩猟採集社会においては適応的であった脳の情報処理は適応できない(1p81)。例えば、播種した種がやがて実りをもたらすことを信じなければ農業はやれない。数字を記した紙切れや円盤が食料と交換できることを信じなければ貨幣経済は成立しない(1p82)。このため、シャーマン的な意識はより社会の周辺に追いやられてしまうことになる(1p56,1p82)

 狩猟採集社会における儀式は、必要に応じて不定期になされるものである。けれども、農耕社会、とりわけ、雨季や乾季が周期的にめぐる社会では農耕儀礼が大きな役割を果たすようになっていく(1p55)

 農耕社会の日常では収穫を期待して禁欲的に労働する「俗なる」時間が流れているが、収穫を祝う祭りでは日常的な社会秩序が呈しし、「聖なる」時間が出現する。こうして共同体全体がリセットされ、再び俗なる時間のサイクルが始まる。けれども、こうした円環的な時間が支配する社会においては、過剰な欲望は祭りによって蕩尽されるが、差し迫った必要性がなく定期的になされる儀礼は形骸化しやすく、現在の日本の盆踊りのようにトランスを伴わないものに変容してしまう。このため、原初のシャーマニズムが持っていた日常性を破壊する力強いエネルギーは形骸化して衰える(1p56)

変性意識を伴わない祭司を憑霊型シャーマニズムがサポート

20160203Michael Winkelman.jpg アリゾナ州立大学の人類学者、マイケル・ウィンケルマン(Michael Winkelman)教授の調査では、17社会では「憑依型」のシャーマニズムが見出されたが、南北アメリカを除いて、すべてが、アフリカ、ユーラシア、オセアニアとの農耕・牧畜社会で(1p70,1p216)、かつ、ほとんどの場合が祭司とセットになっていた(1p70)。中南米先住民の農耕社会では、男性の脱魂型シャーマンが祭司的な役割も兼ねながら、社会の中心的な地位を占めているのだが(1p84)、それ以外の農耕・牧畜社会においては、祭司が社会の中心に位置し、シャーマニズムは憑霊型シャーマニズムという形で社会の周辺に追いやられていることがわかる(1p70)

神の統合と神話の形成

 事例を見てみよう。例えば、紀元前3500年前から古代メソポタミアでは、シュメール人たちが20余りの都市国家を建設するが、それぞれの国家にはそれぞれの守護神があった。けれども、紀元前1700年前に、バビロンのハムラビ王が全土を統一する。同時に、バビロンの守護神マルズクが各都市国家の守護神の中での最高神となる。その後、前1350年頃からアッシリアがオリエントを統一する。すると、今度は、都市国家アッシュルの守護神であったアッシュルが最高神にひきあげられた(2p52)

 横並びの諸部族が民族国家として統一されていくにつれて(2p51)、神々の間にヒエラルキーが生じ、武力で勝利した部族が自分たちの神を権威化し、他の部族の神をその下に据えたことがわかる(2p52)

 国家の誕生によって社会の規模が巨大化すると、従来の「手づくり」の方法はできなくなる(2p48)。ここで、話し言葉から書かれた文字への変化が起き、「神話」が意図的に編集される。すなわち、文字の発明によって、人々の抽象化能力が高まり、巨大集団に対する帰属意識を持てるようになる(2p49)。民族神話によって王権は正当化され、祭司が宗教的権威を独占してゆく(2p85)

祭司を補完する憑依型のシャーマンの登場

 キリスト教や仏教等の超越性宗教は、根源的な世界観を与えることで、救済や解放をもたらす。とはいえ、人間が生きるなかでぶつかるドロドロとした現実的な問題には手が届かないことが多い。高尚な哲学が生活者の生々しい悩みにうまく応えられないのと同じである。祭祀型宗教も形式的な教義や儀式も個々の人の悩みに答えることが弱い(2p15)

 そこで、憑依型のシャーマンが、これを補完し、人々の切実な悩みに憑依霊の助けを借りて答える(2p16)。なお、完全に自我が霊にのっとられる場合には、別の一人の人物が審神(さにわ)として媒介の役割を果たすこともある(2p15)

 戦闘集団の長である男性が部族長となる。戦争の果てに古代初期に王国が誕生すれば、その武装勢力を率いてきた部族長が王となっていく。こうして、元々は祭祀長が部族長であったのが、戦闘隊長が部族長へと昇格し、その下や横並びに祭祀長(シャーマン)が控えるという形に逆転した(7)。すなわち、より社会の分業化が進むにつれ、政治を行なう首長、公的儀礼を司る祭司、占いや病気治療等の私的領域をサポートする憑霊型シャーマンへと役割が分化する(1p50)

シャーマニズムと祭司宗教は対立する

 国家の祭祀による宗教儀式には「変性意識」を伴う必要がない。それどころか、国家神話を再現する形式的な神話儀式を安定的に行うためには、変性意識はノイズになりかねない(2p50)。そこで、草の根のシャーマニズムは「国家宗教」によって抑圧されてゆく。祭祀権力を一極集中させ、「天につながれるのは我だけだ」とする必要があったからである(2p49,2p85)。そこで、「宗教性」の名のもとに「宗教性」を抑圧するというパラドックスが生じる。脱魂体験を有していたシャーマンたちが、儀礼的な祭祀を行う祭司へとかわるにつれて「シャーマニズム」は死んでいくことになる(2p50)

 もはや、各個人が「聖なるもの」に直接つながることは許されない(2p85)。もちろん、祭司が権力を持つ社会においても、シャーマン的な人物は出現する。イエスやムハンマドもシャーマン的なカリスマと言えるが、異端として弾圧されることが多い(1p79)。シャーマン的な能力を持つ人々は邪教によって人々を惑わすとして処刑された(2p85)。この状況は、とりわけ、西洋で顕著だった。古代国家から中世にかけて武力戦争の皆殺しにより、共同体が完全に解体され、国家をまとめるための観念(宗教)が構築され、大衆まで浸透していったからである(7)

モンゴルではシャーマンは弾圧された

 モンゴルではシャーマンのことを「ボー」と呼ぶ。古来からのシャーマニズム文化は、辺境の森林地帯タイガ、最北端のフブスグル県に居住するダルハト・モンゴル人たちが最もよく継承してきた(1p162)。モンゴルのボーたちは、鳥の羽飾りを付けて儀式を行い、その中で天界(テンゲル)へと飛翔し霊(オンゴット)たちと出会い、知識を得て戻ってくる(1p164)

 けれども、シャーマニズムはモンゴル史の繰り返し排斥されてきた。チンギス・カーンの時代にはまだ社会的に重要な地位を占めて来たが、13世紀にチベット仏教が伝わり、その後、国教とされると、土着のシャーマニズムは政治権力と結びついた仏教勢力から排斥された。仏教僧は貴族階級と結びついて特権を享受してきた。政治権力と結びついた祭司宗教とシャーマニズムの対立という図式がここには見られる(1p162)

 けれども、1930年代には、スターリンの後押しを受けたチョイバルサン政権下で「共産主義」が「国教」となる。シャーマニズムも仏教も、人民に非科学的な迷信を流布するものとして弾圧された。この時期に粛清された僧とボーの数は2万人とも3万人とも言われているが、その正確な数はわかっていない(1p162)

アニミズムが残る沖縄とユタ

 日本社会は、もともと女性的なものを抑圧して周辺化することがあまりない社会であった(1p72)。本土では男性中心主義的な仏教が浸透し、それに対抗する形で「神道」が整備されていったが、沖縄はそうした宗教的な影響をさほど受けなかった(1p73)。だから、沖縄には古き良き日本の文化が残されている(1p72)。山や森は御獄(ウタキ)、鍾乳洞はガマと呼ばれアニミズム的な信仰対象となっている(1p73)。沖縄のガジュマルの木には、赤い神の子どもの姿の「キジムナー」という精霊が住む(4p30)

臨死体験と類似したシャーマンのユタ

 沖縄本島や周辺離島、奄美諸島等に古来から存在する民間の祈祷師「ユタ」は、日本の伝統的なシャーマンである。神とつながる霊的な資質、霊能力を持ち、沖縄の言葉では「カミンチュ(神の人)」と称されている(5)。沖縄のユタも東北のイタコと同じで、別の霊的な存在が取りついてメッセージを告げる「憑依型」である(2p16)。沖縄のユタは、「カンカカリャー(神懸かり屋)」「カミダーリ(神垂り)」「カンダーリィ(神ダーリィ)」「カミブリ(神触れ)」という様々な心身異常「巫病」を経験する(1p72,1p210,5)。神の姿を見たり神の声を聞くといった神秘体験をする(1p210)。「巫病」とは、熱にうなされたり、寝込んだり、錯乱状態になる等の精神疾患状態を一定期間体験することである。これはユタとなるための通過儀礼で(5)、守護霊的な存在が特定され、それを拝むようになるとカミダーリはおさまり、霊能力が覚醒し、必要に応じて先祖や神のメッセージを受け取ったり病気を治したりできるようになる(1p211,5)。統合失調症では、幻聴が多く被害妄想等ネガティブな体験が多いが、カミダーリは幻視が多く、かつ、崇高な体験を伴うことが多く(1p211)、臨死体験と類似する。治癒能力が高まることも、シャーマンとの類似性をうかがわせる(1p212)

イタコやユタは右脳が活発化している

 脳波測定装置でイタコの脳波を測定してみると驚くべきことがわかる。依頼者の話を聞いているときには左側の前頭葉が活発に活動して、右半球の活動は目立たないが、死者がのり移って語りだす「口寄せ」が始まると、右半球の前頭葉の活動が優勢になる(8)

 イタコほど急激ではないものの、日本古来のシャーマン、ユタの脳波も、歌が始まると30秒ほどで左半球の前頭葉の活動が抑えられ、右半球の前頭葉では、ベータ波(活発な思考や集中と関連する脳波)が高まり、神様と話しているときには、右半球の前頭葉がはっきり優位となっている。通常ではまったく見られないベータ波の20〜30ヘルツで強いピークが認められ、通常では深く寝入っているときにしか認められない非常に低い周波数のデルタ波が、歌が始まり4〜5分が経過すると右脳で強く出はじめる(8)

ユタを補完するノロと支配

 沖縄の巫女は、ユタと別にノロ(祝女)、ツカサ(司)と呼ばれる祭司系の人たちもいる(1p72)。いずれも、超自然的な世界に関わることから、その起源は同じであり、いまも離島部では両方を兼ねている人が少なくない(1p74)

 けれども、ノロは、その後、王権の支配組織に積極的に組み込まれる。琉球王国は王の姉妹である聞得大君(きこえおおきみ)を頂点とするヒエラルキー的な神女組織を整備し、末端の村々への中央集権的な支配体制を確立した(1p74)。沖縄には男性よりも女性の方が強い霊力を持ち、男性を霊的に庇護するという観念があるが、聞得大君は王の姉妹から選ばれ王を霊的にサポートする役割を担っていた(1p139)。その一方で、琉球王国は、ユタを危険なサブカルチャーとして弾圧した(1p74)

 大日本帝国も特高警察を使って片っ端から検挙していった。ユタは自分の他界的な経験から新たな神話を勝手に作り出してしまうからである。その後、琉球王国を併合した大日本帝国は、ウタキに鳥居を建て、神女組織を国家神道の下請け組織に改組しようとした(1p75)

日本の神道は国家宗教である

 さて、最近、ニューエイジ思想等では、縄文以来として「神道」を過剰評価する動きがある(2p55)。ラフカディオ・ハーン、アーノルド・トインビー、レヴィ・ストロース等の学者もエキゾチズム的にこうした捉え方をしている。けれども、これは部族シャーマニズムと国家宗教である「神道」を混同した誤りである。「神道」はよくも悪くも、部族シャーマニズムではなく、民族国家宗教である(2p56)

 民族国家宗教では「聖なるもの」への個人的な回路を抑圧し、祭司が宗教的権威を独占し、国王の祭司を正当化する「書かれた民族神話」が有され、血縁を離れた抽象的な大集団への帰属意識が生まれている。この三条件のすべてが神道では満たされている(2p57)。そのことを踏まえないと、アイヌや琉球、北米ネーティブ・ピープルの復興運動と天皇制に本のナショナリズムが結びつくという奇怪な現象まで起きうる(2p56)

日本神話は男性優位・障害者差別を含んでいる

 農耕の成立、富の蓄積、国家の台頭によって、聖なる対象は動物から人間の女性、豊穣の女神へ、そして、男性へと移り変わっていく(2p26,2p61)。『古事記』には、猿の要素、サルタヒコや女神アマテラスが登場する。このため、世界の神話の中では比較的古層を多く残存させているとの見方も可能である。けれども、きちんと分析すれば、男性的な天空神の支配という典型的な国家宗教としての役割を備えている(2p61)。例えば、『古事記』の冒頭では、イザナギとイザナミが交わることで国が産み出されるが、イザナミが先に声をかけて交わった結果、蛭子が誕生したため葦船に乗せて流す下りがある(2p62)。すなわち、日本神話は、男性優位思想と障害者差別から始まっている(2p63)

日本は7世紀に国家統一イデオロギーとして誕生した

「神道」というタームは8世紀に成立した『日本書記』において文献上初出する。「神道」とはもともと道教の用語である。同じく、「天皇」という用語も登場する。「天皇」も北極星を神格化するための道教の用語で、宇宙の最高神を指す。また、「天孫が天上世界から地上世界へと降臨する」という概念も中国の『詩経』に原型が見られ、その後道教に取り入れられている(2p59)

 すなわち、7世紀の天武朝の時期に、強力な中国の影響力の下、各部族間の争いを抑え、強力な神話によって国家を統一することが求められていた(2p58)。そこで、中国思想をベースに「天皇を中心とした神の国=日本」という古代国家デザインが誕生した(2p59)。「神話」「天皇」「日本」は、国家統一のためのセット理念として発明されたイデオロギーなのである(2p59,2p76)

 この7世紀以前には、「大王」はいたが「天皇」は存在しなかった(2p74)。さらに、日本も存在しなかった。網野善彦は「『日本』とはなにか」で、このあたりまえの事実を次のように述べている。

「日本が地球上にはじめて現れ、日本人が姿を見せるのは、ヤマトの支配者たち、『壬申の乱』に勝利した天武朝廷が「倭国」から『日本』へとその国名を変えた時である」(2p75)

 すなわち、それ以前には、オホーツク文化圏、東北文化圏、日本海文化圏、太平洋文化圏、朝鮮九州文化圏、南西諸島文化圏等があっただけであった(2p76)

 平城京後の奈良文化財研究所には発掘された「隼人の盾」が展示されている。征服された異民族である「隼人」たちは、天皇の前でこの盾を持って整列させられ、服属儀礼としての「土人の踊り」をさせられたという。また、犬の遠吠えの真似もさせられたという。もともと「まつり」とは天皇への服属儀礼を意味する言葉である。天皇への服属を拒否し続ける部族が「まつろわぬ民」と言われるのはそのためなのである(2p58)

復活するシャーマニズム

 19世紀の米国の人類学者、ルイス・ヘンリー・モーガン(Lewis Henry Morgan, 1818〜1881年)は『古代社会(en:Ancient Society)』』(1877)において、人類は、野蛮(狩猟採集)、未開(自給農業)、文明へと進歩していくと主張した。モーガンによれば、人類の目標はヨーロッパのような先進型文明に到達することであった(9)。このモーガンの理論を受け継いだエンゲルスの社会進化論によれば、狩猟採集経済は最も原始的な社会形態であり、共産主義社会が最も進んだ社会形態のあるはずである。シャーマニズムや呪術は、宗教に取って代わられ、宗教も唯物論的な科学思想に取って代わられるはずである。けれども、21世紀の地球では、エンゲルスの理論と逆方向の変化が起きているように見える(1p169)

20160621mongolia12.jpg その後、モンゴルでは人民革命党による一党独裁が終わり、国立中央図書館前に立っていたスターリン像が撤去された。1997年には、ソ連が持ち去り行方不明になっていた、モンゴル仏教総本山ガンダン寺の「大観音像」が再建される(1p168)

 現在のモンゴルでは、コミュニズムとキャピタリズム、シャーマニズムとブッディズムという四つのイデオロギーが交錯している。そのような中で、街を捨てて遊牧生活に戻っていく人も少なくない。モンゴルよりもさらに北のロシアのサハでは、昔ながらの狩猟が再び盛んになりつつあるという(1p169)

ウィンケルマン教授の画像はこのサイトから
ガンダン寺の「大観音像」の画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) 蛭川立『彼岸の時間〜意識の人類学』(2002)春秋社
(2) 長澤靖浩『魂の螺旋ダンス』(2004)第三書館
(3) ニコラス・ウェイド『5万年前』(2007)イースト・プレス
(4) 蛭川立『精神の星座』(2011)サンガ
(5) 2011年10月27日「君もシャーマンになれるシリーズ2―シャーマンとは?予言者とは?」生物史から自然の摂理を読み解く
(6) 2011年11月17日「君もシャーマンになれるシリーズ3〜シャーマンとは?予言者とは?」生物史から自然の摂理を読み解く
(7) 2011年11月25日「君もシャーマンになれるシリーズ4―シャーマンの誕生の背景」生物史から自然の摂理を読み解く
(8) 2011年12月15日「君もシャーマンになれるシリーズ5〜南米のシャーマンは何を見ているのか?」生物史から自然の摂理を読み解く国家神話と祭司の登場
(9) スペンサー・ウェルズ『パンドラの種』(2012)化学同人
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