2016年07月03日

贈与の生物学@ 脳神経の配線変化による人類の誕生

はじめに

 先住民、シャーマニズム、脳神経科学、仏教、慈悲、脱成長経済、贈与といったキーワードが気になっている。これが、中沢新一明治大学特任教授が2001年から2003年にかけて行った講義をベースとした『カイエ・ソバージュ』シリーズのテーマとなっていることを知った。脱成長経済の鍵となる贈与経済は、脳神経科学や慈悲、仏教思想とどのように絡んでくるのだろうか。ついては、中沢氏の著作の内容をここで再整理しておきたい。

ユーラシアには中石器時代から続く神話が残されている

 ケルト文明の伝承が色濃く残るフランスのブルターニュやイギリスのウェールズ地方とアジアには、「燕石」についての瓜ふたつの神話が残されている(2p40)。この事実に着目したのは南方熊楠(1867〜1941年)で(2p41)。「燕石」は日本では9世紀に書かれた『竹取物語』に登場するが(2p48)、柳田國男(1875〜1962年)によれば、燕の古い名称は「ツチハミクロメ(土喰黒女)」であり、燕は闇と湿気、すなわち、死の領域にかかわる動物なのである(2p77)

 また、世界最古のシンデレラの物語は9世紀に中国の『酉陽雑俎』に記録されたもので(2p133)、この事実を発見したのも南方熊楠である(2p132)

 ユーラシア大陸の両端に類似した神話があることは、中石器時代に共有されていた思考が残っているからではないだろうか(2p41)

 日本の『古事記』や『日本書記』は8世紀にある政治的な意図をもって編纂されたものだが、その中には、中石器時代や新石器時代の文化に属する驚くほど古い神話が保存されている。これは世界の文明の中でも類例をみない(2p11)

環太平洋には国家を作らなかった人々の文化圏がある

 中国西南部の雲南地方には、イ族、ナシ族、リース族等、多くの少数民族が居住する。現在は山岳地帯に居住しているが、以前は、揚子江に近い平原部で生活していたらしく、縄文人ともかかわりが深い(3p150)。例えば、上述した最古のシンデレラの物語は、唐末期に南中国の少数民族「荘族」の伝承を記録したものらしい(2p133)

20160703map2.jpg 中国では漢民族によって国家が作られるが(3p150)、中沢特任教授は、中国南西部から、日本の東北と北海道、サハリン島、アムール川流域、北米西海岸、そして、南米にまで国家を作ろうとはしなかった環太平洋の人々の文化が辿れると主張する(3p151)

 北海道とサハリンにはアイヌ、サハリンの北方には、ウィルタやギリヤークがおり、オホーツ海に面したアムール川流域には、オロチやウリチ等の狩猟民がいる(3p27)。さらに、北方にはコリャークやチュクチがおり(3p28)、カナダではバンクーバー島を中心に、トリンギット族、ハイダ族、クワキウトゥル族、トィムシアン、サリッシュ族等が居住している(3p28,3p154)

 もちろん、こうした社会が平等であったわけではない。富は蓄積され、貴族、平民、戦争で負けて捕虜になった奴隷と社会の階層化は生じていた(3p160)。けれども、王や国家が出現するあらゆる条件が整っているにも関わらず、彼らは、王や国家を作ることを拒否していた。このことから、中沢特任教授は、社会が発展進化するにつれて、首長が王になり、国家が誕生するわけではないと考える(3p159,5p17)

3万年前にシベリアから移動し、1万年前にアメリカに進出

20160703map1.jpg ホモ・サピエンスは、約10万年前にアフリカを出発し、ヨーロッパやオーストラリア大陸には4万年前、シベリアを超えてバイカル湖周辺には3万数千年前に出現した(7p74)。そして、シベリアからアメリカ大陸への移住は大きく三波にわたってなされた(3p66)

 第一波として、バイカル湖の東のほとりに住んでいた「古モンゴロイド」が、マンモスを追って今から1万年前にベーリング海峡をわたり、ローレンタイドとコルディエラ氷床の間を抜けて中央平原地帯へと進んだ(3p67,3p157)

 移住の第二波は、やはりバイカル湖周辺に居住していたが、その後に、アムール川流域にかなり長期間滞在する中で、独自の文化を身に付けた「北西海岸インディアン」たちである(3p158)

 さらに、南米大陸にたどりついた集団は、アンデス山麓にしばらく滞在した後、あるグループは最南端を目指して南下し、別のグループはオリノコ川流域にそって北上を続け太平洋に到達した。そして、もうひとつのグループはアマゾン川流域の森林地帯に散会していった(5p26)

3万年前に最古の哲学、神話が登場した

 地球上の各地では、いまから1万年前に農業が始まり、動物が家畜化される。これを「新石器革命」と呼ぶ(2p13)。けれども、中沢特任教授は、上部石器時代、3万数千年前に、ホモ・サピエンスの大脳組織に飛躍的な変化が起きたことが重要であると考える(2p12,7p2,7p24)。世界中に残されている神話的な思考の痕跡を探ってみると、ある深いレベルで働いている一貫性のある「論理」が存在していることがわかる(7p14)。これをクロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908〜2009年)にならって「人類最古の哲学」と呼ぼう(2p20,7p14)。すなわち、この脳組織の変化によって、中石器時代に人類は最初の「哲学」を作り出す(2p13)。そして、人類が文字を作り出したのは「神話」を語り始めてから2万年以上も後のことなのである(2p17)

ネアンデルタールとホモ・サピエンスの違いは無意識にある

 ネアンデルタール人は、高度な技術的才能を持ち優れた石器を作り出した。間違いなく言語も話していた(7p67)。ネアンデルタール人は妊娠期間が1年近くもあった(7p65)。そして、ネアンデルタールは、子ども時代が非常に短く、3歳でも新人の成人並の脳を持っていた(7p64)。けれども、ネアンデルタール人の脳は言語的認識を行う部分、社会的認識を行う部分がバラバラに別れて発達し、それぞれが独立して作業をしており、その間のスムーズな連携網は発達していなかったらしい(2p12,5p57)。けれども、象徴的思考、メタファーの能力が欠如していた(3p78,7p69)

 一方、ホモ・サピエンスでは、脳内の結合組織が横断的につながれ、これまでなかった流動的知性が発達する(3p78,5p57)。このことで、人類は「記号」ではなく「意味」として物事を理解できるようになり、そこから「言語」もいまある形へと組織化される(3p78)

 あらゆる言語は、異なる領域を重ねて圧縮する「隠喩(パラディグマ軸)」と異なる領域をずらす「換喩(シンタグマ軸)」からできている(3p78,5p58)。言語は人間の象徴だとされるが、より正確にいえば、言語を可能としている比喩能力、そして、それを可能としている流動的知性の働きこそが人間の証なのである(3p78)。この比喩的思考能力によって、言葉で表現する世界と現実とは必ずしも一致しなくてもよくなり、現実から自由な思考が可能となる。このため、人類は、言葉をしゃべり、歌を歌い、神話という最初の哲学を作り出し、複雑な社会を作り出すことが可能となった(3p58)

 カナダのユーコン川に住むアタパスカン族の神話は、最も古く、コリャーク、チュクチ族等の古モンゴロイドの間でも知られているのと同様の内容を持つ(3p66)。それは、人間が熊になるという神話である(3p74)。ネアンデルタールは、人間は人間、熊は熊と認識していたが、ホモ・サピエンスのように人間が熊になるという思考はできなかった(3p76)

統合失調症は無意識が生で表れた症状

 レヴィ=ストロースはことあるごとに「神話は無意識の行う思考である」と語っているが(7p59)、象徴的思考には、圧縮や置き換えによって意味を横断的につなぎあわせていく流動的な知性活動が不可欠である。それは、豊かな無意識が必要である(p68)。そして、フロイトによれば、「無意識」は、ホモ・サピエンスは妊娠期間が短く、未熟なままに子どもが産まれてくるという「未熟さ」のため発達する(7p65)。「夢」は「無意識」が語る言葉と言われるが、夢は、イメージを圧縮する隠喩とイメージをずらす換喩からできている。「無意識は言語のように構造化されている」とジャック・ラカンが語ったのはそのためなのである(3p58)。すなわち、人類とは初めて無意識を持ったヒトであると定義できる(7p76)

 20160703Blanco.jpgフロイトは、無意識の活動として圧縮や情動の混乱、置き換え等をあげたが(7p59)、チリの精神科医イグナシオ・マッテ・ブランコ(Ignacio Matte Blanco, 1908〜1995年)は『無限集合としての無意識−バイロジックの試み』(1975)で、カオスのように見える総合失調症の背後には、フロイトが無意識の特徴としてあげたのと完全に一致する論理があることを見出す。このことから、ブランコは、統合失調症とは、無意識活動が「生の形」で表面に浮上した現象であると主張する(7p53)

無意識は個を認識しない

 この神話的思考を動かしている最も基本的な思考プロセスは、現在の科学的思考とまったく同じ「二項論理」であり(7p15,7p24)、それ以来、人類の知的能力は進歩していない(7p24)。けれども、神話と科学には大きな違いがある。科学は二項論理を用いてアリストテレス型の論理を働かせる(7p25)。うち、最も重要なのがAという命題があり、非Aという命題があるとき、Aと非Aとは両立しえないという「矛盾律」である(7p25)。

 けれども、無意識も神話と同じくアリストテレスの論理に従わない。アリストテレスの論理は「個」を認識することから出発する(7p53)。けれども、無意識は「個」には関心を示さず、「個」を日本国民や人類のように一般化して扱おうとする。これを哲学者、京都大学の田邊元(1885〜1962年)名誉教授は「種の論理」と呼ぶ(7p54)。すなわち、フロイトが見出した無意識では自己と他者との区別をせず、個を認識しない(7p164)

無意識は非対称の関係性を対称的に扱う

 無意識は非対称の関係を対称的に扱おうとする。これをブランコは「対称の原理」と呼ぶ(7p54)。そして、時間は消失し、部分と全体との差異もなくなる(7p55)。例えば、統合失調症の患者は情動に障害があるが、ブランコによれば、それは、非対称の関係にある愛と憎しみが同質の情動として扱われてしまうためなのである(7p56)

対称性原理の復興が必要

 神話的思考では「対称性の論理」が働いていたが(7p15)、近代以降の科学や哲学は、「非対称の原理」によって成り立ち、対称性の論理を極力排除しようとする(7p32,7p15)。形而上学、資本主義の経済活動、国家権力のすべてが非対称性の論理と関係している。それが、無意識の働きに抑圧や歪みをもたらしている(7p119)

 そこで、神話の対称性の論理を復活させることには今日大きな意義がある。交換が贈与となり、言語は詩となり、人間が宇宙の一部にすぎない倫理的思考が生命を取り戻すからである(7p15)

 とはいえ、現代人がもはや神話の思考に戻ることは不可能である(7p119)。「野生の思考」だけでこの状況に立ち向かうことはできない(7p147)。したがって、流動的知性=無意識の中から出現する新たな智、「対称性人類学」を作り出して行くしかない(7p120)。「対称性人類学」とは抑圧されていない無意識をできるだけ純粋な形で取り出そうとする試みなのである(7p146)

北米西海岸の先住民の図はこのサイトから
ホモ・サピエンスの移動図はこのサイトから
マッテ・ブランコの画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) 中沢新一『宗教入門』(1993)マドラ出版
(2) 中沢新一『人類最古の哲学・カイエ・ソバージュ1』 (2002)講談社選書メチエ
(3) 中沢新一『熊から王へ・カイエ・ソバージュ2』 (2002)講談社選書メチエ
(4) 中沢新一『愛と経済のロゴス・カイエ・ソバージュ3』 (2003)講談社選書メチエ
(5) 中沢新一『神の発明・カイエ・ソバージュ4』 (2003)講談社選書メチエ
(6) 中沢新一・河合隼雄『仏教が好き』(2003)朝日新聞社
(7) 中沢新一『対称性人類学・カイエ・ソバージュ5』(2004)講談社選書メチエ
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2016年06月21日

彼岸の生物学D 狩猟採集社会の脱魂型シャーマンから農業祭司社会の憑依型シャーマン

狩猟採集部族社会から農耕社会へ

 20万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンス型人類が5万年前の出アフリカ以降、長き放浪のライフスタイルを捨て、定住を始めるのは、1万5000年前のことである。人類史上においては、定住の方が農業の始まりよりも約5000年も早かったし、はるかに重要だった(9)

 狩猟採集民たちは私有財産を持たず、冨の格差もなく、だれもが平等な社会だった。だが、定住化と農耕社会の発展によってこれが変わる(3)

 狩猟採集の部族社会では、シャーマンたちが「聖なるもの」と直接交流し、その豊穣な世界を話し言葉でコミュニティの構成員とわかちあうことで、誰もが密接なつながりを感じることができた(2p48)。各個人が「聖なるもの」に直接的にコンタクトすることも認められていた(2p49)。こうした狩猟採集民の社会におけるシャーマンの権力は、個人的な能力に依存していた。マックス・ヴェーバーの支配類型では「カリスマ支配」にあたる(1p77)。けれども、定住的な農耕社会では、祭司宗教が中央集権的な政治権力と結びつく。神主や神父等は、個人的な霊能力ではなく、世襲的な儀礼執行権であり、ヴェーバーの論理では伝統支配になっていく(1p77)

農耕社会では儀式が日常化する

 これには理由がある。社会の規模が拡大し、社会制度が複雑化すると、狩猟採集社会においては適応的であった脳の情報処理は適応できない(1p81)。例えば、播種した種がやがて実りをもたらすことを信じなければ農業はやれない。数字を記した紙切れや円盤が食料と交換できることを信じなければ貨幣経済は成立しない(1p82)。このため、シャーマン的な意識はより社会の周辺に追いやられてしまうことになる(1p56,1p82)

 狩猟採集社会における儀式は、必要に応じて不定期になされるものである。けれども、農耕社会、とりわけ、雨季や乾季が周期的にめぐる社会では農耕儀礼が大きな役割を果たすようになっていく(1p55)

 農耕社会の日常では収穫を期待して禁欲的に労働する「俗なる」時間が流れているが、収穫を祝う祭りでは日常的な社会秩序が呈しし、「聖なる」時間が出現する。こうして共同体全体がリセットされ、再び俗なる時間のサイクルが始まる。けれども、こうした円環的な時間が支配する社会においては、過剰な欲望は祭りによって蕩尽されるが、差し迫った必要性がなく定期的になされる儀礼は形骸化しやすく、現在の日本の盆踊りのようにトランスを伴わないものに変容してしまう。このため、原初のシャーマニズムが持っていた日常性を破壊する力強いエネルギーは形骸化して衰える(1p56)

変性意識を伴わない祭司を憑霊型シャーマニズムがサポート

20160203Michael Winkelman.jpg アリゾナ州立大学の人類学者、マイケル・ウィンケルマン(Michael Winkelman)教授の調査では、17社会では「憑依型」のシャーマニズムが見出されたが、南北アメリカを除いて、すべてが、アフリカ、ユーラシア、オセアニアとの農耕・牧畜社会で(1p70,1p216)、かつ、ほとんどの場合が祭司とセットになっていた(1p70)。中南米先住民の農耕社会では、男性の脱魂型シャーマンが祭司的な役割も兼ねながら、社会の中心的な地位を占めているのだが(1p84)、それ以外の農耕・牧畜社会においては、祭司が社会の中心に位置し、シャーマニズムは憑霊型シャーマニズムという形で社会の周辺に追いやられていることがわかる(1p70)

神の統合と神話の形成

 事例を見てみよう。例えば、紀元前3500年前から古代メソポタミアでは、シュメール人たちが20余りの都市国家を建設するが、それぞれの国家にはそれぞれの守護神があった。けれども、紀元前1700年前に、バビロンのハムラビ王が全土を統一する。同時に、バビロンの守護神マルズクが各都市国家の守護神の中での最高神となる。その後、前1350年頃からアッシリアがオリエントを統一する。すると、今度は、都市国家アッシュルの守護神であったアッシュルが最高神にひきあげられた(2p52)

 横並びの諸部族が民族国家として統一されていくにつれて(2p51)、神々の間にヒエラルキーが生じ、武力で勝利した部族が自分たちの神を権威化し、他の部族の神をその下に据えたことがわかる(2p52)

 国家の誕生によって社会の規模が巨大化すると、従来の「手づくり」の方法はできなくなる(2p48)。ここで、話し言葉から書かれた文字への変化が起き、「神話」が意図的に編集される。すなわち、文字の発明によって、人々の抽象化能力が高まり、巨大集団に対する帰属意識を持てるようになる(2p49)。民族神話によって王権は正当化され、祭司が宗教的権威を独占してゆく(2p85)

祭司を補完する憑依型のシャーマンの登場

 キリスト教や仏教等の超越性宗教は、根源的な世界観を与えることで、救済や解放をもたらす。とはいえ、人間が生きるなかでぶつかるドロドロとした現実的な問題には手が届かないことが多い。高尚な哲学が生活者の生々しい悩みにうまく応えられないのと同じである。祭祀型宗教も形式的な教義や儀式も個々の人の悩みに答えることが弱い(2p15)

 そこで、憑依型のシャーマンが、これを補完し、人々の切実な悩みに憑依霊の助けを借りて答える(2p16)。なお、完全に自我が霊にのっとられる場合には、別の一人の人物が審神(さにわ)として媒介の役割を果たすこともある(2p15)

 戦闘集団の長である男性が部族長となる。戦争の果てに古代初期に王国が誕生すれば、その武装勢力を率いてきた部族長が王となっていく。こうして、元々は祭祀長が部族長であったのが、戦闘隊長が部族長へと昇格し、その下や横並びに祭祀長(シャーマン)が控えるという形に逆転した(7)。すなわち、より社会の分業化が進むにつれ、政治を行なう首長、公的儀礼を司る祭司、占いや病気治療等の私的領域をサポートする憑霊型シャーマンへと役割が分化する(1p50)

シャーマニズムと祭司宗教は対立する

 国家の祭祀による宗教儀式には「変性意識」を伴う必要がない。それどころか、国家神話を再現する形式的な神話儀式を安定的に行うためには、変性意識はノイズになりかねない(2p50)。そこで、草の根のシャーマニズムは「国家宗教」によって抑圧されてゆく。祭祀権力を一極集中させ、「天につながれるのは我だけだ」とする必要があったからである(2p49,2p85)。そこで、「宗教性」の名のもとに「宗教性」を抑圧するというパラドックスが生じる。脱魂体験を有していたシャーマンたちが、儀礼的な祭祀を行う祭司へとかわるにつれて「シャーマニズム」は死んでいくことになる(2p50)

 もはや、各個人が「聖なるもの」に直接つながることは許されない(2p85)。もちろん、祭司が権力を持つ社会においても、シャーマン的な人物は出現する。イエスやムハンマドもシャーマン的なカリスマと言えるが、異端として弾圧されることが多い(1p79)。シャーマン的な能力を持つ人々は邪教によって人々を惑わすとして処刑された(2p85)。この状況は、とりわけ、西洋で顕著だった。古代国家から中世にかけて武力戦争の皆殺しにより、共同体が完全に解体され、国家をまとめるための観念(宗教)が構築され、大衆まで浸透していったからである(7)

モンゴルではシャーマンは弾圧された

 モンゴルではシャーマンのことを「ボー」と呼ぶ。古来からのシャーマニズム文化は、辺境の森林地帯タイガ、最北端のフブスグル県に居住するダルハト・モンゴル人たちが最もよく継承してきた(1p162)。モンゴルのボーたちは、鳥の羽飾りを付けて儀式を行い、その中で天界(テンゲル)へと飛翔し霊(オンゴット)たちと出会い、知識を得て戻ってくる(1p164)

 けれども、シャーマニズムはモンゴル史の繰り返し排斥されてきた。チンギス・カーンの時代にはまだ社会的に重要な地位を占めて来たが、13世紀にチベット仏教が伝わり、その後、国教とされると、土着のシャーマニズムは政治権力と結びついた仏教勢力から排斥された。仏教僧は貴族階級と結びついて特権を享受してきた。政治権力と結びついた祭司宗教とシャーマニズムの対立という図式がここには見られる(1p162)

 けれども、1930年代には、スターリンの後押しを受けたチョイバルサン政権下で「共産主義」が「国教」となる。シャーマニズムも仏教も、人民に非科学的な迷信を流布するものとして弾圧された。この時期に粛清された僧とボーの数は2万人とも3万人とも言われているが、その正確な数はわかっていない(1p162)

アニミズムが残る沖縄とユタ

 日本社会は、もともと女性的なものを抑圧して周辺化することがあまりない社会であった(1p72)。本土では男性中心主義的な仏教が浸透し、それに対抗する形で「神道」が整備されていったが、沖縄はそうした宗教的な影響をさほど受けなかった(1p73)。だから、沖縄には古き良き日本の文化が残されている(1p72)。山や森は御獄(ウタキ)、鍾乳洞はガマと呼ばれアニミズム的な信仰対象となっている(1p73)。沖縄のガジュマルの木には、赤い神の子どもの姿の「キジムナー」という精霊が住む(4p30)

臨死体験と類似したシャーマンのユタ

 沖縄本島や周辺離島、奄美諸島等に古来から存在する民間の祈祷師「ユタ」は、日本の伝統的なシャーマンである。神とつながる霊的な資質、霊能力を持ち、沖縄の言葉では「カミンチュ(神の人)」と称されている(5)。沖縄のユタも東北のイタコと同じで、別の霊的な存在が取りついてメッセージを告げる「憑依型」である(2p16)。沖縄のユタは、「カンカカリャー(神懸かり屋)」「カミダーリ(神垂り)」「カンダーリィ(神ダーリィ)」「カミブリ(神触れ)」という様々な心身異常「巫病」を経験する(1p72,1p210,5)。神の姿を見たり神の声を聞くといった神秘体験をする(1p210)。「巫病」とは、熱にうなされたり、寝込んだり、錯乱状態になる等の精神疾患状態を一定期間体験することである。これはユタとなるための通過儀礼で(5)、守護霊的な存在が特定され、それを拝むようになるとカミダーリはおさまり、霊能力が覚醒し、必要に応じて先祖や神のメッセージを受け取ったり病気を治したりできるようになる(1p211,5)。統合失調症では、幻聴が多く被害妄想等ネガティブな体験が多いが、カミダーリは幻視が多く、かつ、崇高な体験を伴うことが多く(1p211)、臨死体験と類似する。治癒能力が高まることも、シャーマンとの類似性をうかがわせる(1p212)

イタコやユタは右脳が活発化している

 脳波測定装置でイタコの脳波を測定してみると驚くべきことがわかる。依頼者の話を聞いているときには左側の前頭葉が活発に活動して、右半球の活動は目立たないが、死者がのり移って語りだす「口寄せ」が始まると、右半球の前頭葉の活動が優勢になる(8)

 イタコほど急激ではないものの、日本古来のシャーマン、ユタの脳波も、歌が始まると30秒ほどで左半球の前頭葉の活動が抑えられ、右半球の前頭葉では、ベータ波(活発な思考や集中と関連する脳波)が高まり、神様と話しているときには、右半球の前頭葉がはっきり優位となっている。通常ではまったく見られないベータ波の20〜30ヘルツで強いピークが認められ、通常では深く寝入っているときにしか認められない非常に低い周波数のデルタ波が、歌が始まり4〜5分が経過すると右脳で強く出はじめる(8)

ユタを補完するノロと支配

 沖縄の巫女は、ユタと別にノロ(祝女)、ツカサ(司)と呼ばれる祭司系の人たちもいる(1p72)。いずれも、超自然的な世界に関わることから、その起源は同じであり、いまも離島部では両方を兼ねている人が少なくない(1p74)

 けれども、ノロは、その後、王権の支配組織に積極的に組み込まれる。琉球王国は王の姉妹である聞得大君(きこえおおきみ)を頂点とするヒエラルキー的な神女組織を整備し、末端の村々への中央集権的な支配体制を確立した(1p74)。沖縄には男性よりも女性の方が強い霊力を持ち、男性を霊的に庇護するという観念があるが、聞得大君は王の姉妹から選ばれ王を霊的にサポートする役割を担っていた(1p139)。その一方で、琉球王国は、ユタを危険なサブカルチャーとして弾圧した(1p74)

 大日本帝国も特高警察を使って片っ端から検挙していった。ユタは自分の他界的な経験から新たな神話を勝手に作り出してしまうからである。その後、琉球王国を併合した大日本帝国は、ウタキに鳥居を建て、神女組織を国家神道の下請け組織に改組しようとした(1p75)

日本の神道は国家宗教である

 さて、最近、ニューエイジ思想等では、縄文以来として「神道」を過剰評価する動きがある(2p55)。ラフカディオ・ハーン、アーノルド・トインビー、レヴィ・ストロース等の学者もエキゾチズム的にこうした捉え方をしている。けれども、これは部族シャーマニズムと国家宗教である「神道」を混同した誤りである。「神道」はよくも悪くも、部族シャーマニズムではなく、民族国家宗教である(2p56)

 民族国家宗教では「聖なるもの」への個人的な回路を抑圧し、祭司が宗教的権威を独占し、国王の祭司を正当化する「書かれた民族神話」が有され、血縁を離れた抽象的な大集団への帰属意識が生まれている。この三条件のすべてが神道では満たされている(2p57)。そのことを踏まえないと、アイヌや琉球、北米ネーティブ・ピープルの復興運動と天皇制に本のナショナリズムが結びつくという奇怪な現象まで起きうる(2p56)

日本神話は男性優位・障害者差別を含んでいる

 農耕の成立、富の蓄積、国家の台頭によって、聖なる対象は動物から人間の女性、豊穣の女神へ、そして、男性へと移り変わっていく(2p26,2p61)。『古事記』には、猿の要素、サルタヒコや女神アマテラスが登場する。このため、世界の神話の中では比較的古層を多く残存させているとの見方も可能である。けれども、きちんと分析すれば、男性的な天空神の支配という典型的な国家宗教としての役割を備えている(2p61)。例えば、『古事記』の冒頭では、イザナギとイザナミが交わることで国が産み出されるが、イザナミが先に声をかけて交わった結果、蛭子が誕生したため葦船に乗せて流す下りがある(2p62)。すなわち、日本神話は、男性優位思想と障害者差別から始まっている(2p63)

日本は7世紀に国家統一イデオロギーとして誕生した

「神道」というタームは8世紀に成立した『日本書記』において文献上初出する。「神道」とはもともと道教の用語である。同じく、「天皇」という用語も登場する。「天皇」も北極星を神格化するための道教の用語で、宇宙の最高神を指す。また、「天孫が天上世界から地上世界へと降臨する」という概念も中国の『詩経』に原型が見られ、その後道教に取り入れられている(2p59)

 すなわち、7世紀の天武朝の時期に、強力な中国の影響力の下、各部族間の争いを抑え、強力な神話によって国家を統一することが求められていた(2p58)。そこで、中国思想をベースに「天皇を中心とした神の国=日本」という古代国家デザインが誕生した(2p59)。「神話」「天皇」「日本」は、国家統一のためのセット理念として発明されたイデオロギーなのである(2p59,2p76)

 この7世紀以前には、「大王」はいたが「天皇」は存在しなかった(2p74)。さらに、日本も存在しなかった。網野善彦は「『日本』とはなにか」で、このあたりまえの事実を次のように述べている。

「日本が地球上にはじめて現れ、日本人が姿を見せるのは、ヤマトの支配者たち、『壬申の乱』に勝利した天武朝廷が「倭国」から『日本』へとその国名を変えた時である」(2p75)

 すなわち、それ以前には、オホーツク文化圏、東北文化圏、日本海文化圏、太平洋文化圏、朝鮮九州文化圏、南西諸島文化圏等があっただけであった(2p76)

 平城京後の奈良文化財研究所には発掘された「隼人の盾」が展示されている。征服された異民族である「隼人」たちは、天皇の前でこの盾を持って整列させられ、服属儀礼としての「土人の踊り」をさせられたという。また、犬の遠吠えの真似もさせられたという。もともと「まつり」とは天皇への服属儀礼を意味する言葉である。天皇への服属を拒否し続ける部族が「まつろわぬ民」と言われるのはそのためなのである(2p58)

復活するシャーマニズム

 19世紀の米国の人類学者、ルイス・ヘンリー・モーガン(Lewis Henry Morgan, 1818〜1881年)は『古代社会(en:Ancient Society)』』(1877)において、人類は、野蛮(狩猟採集)、未開(自給農業)、文明へと進歩していくと主張した。モーガンによれば、人類の目標はヨーロッパのような先進型文明に到達することであった(9)。このモーガンの理論を受け継いだエンゲルスの社会進化論によれば、狩猟採集経済は最も原始的な社会形態であり、共産主義社会が最も進んだ社会形態のあるはずである。シャーマニズムや呪術は、宗教に取って代わられ、宗教も唯物論的な科学思想に取って代わられるはずである。けれども、21世紀の地球では、エンゲルスの理論と逆方向の変化が起きているように見える(1p169)

20160621mongolia12.jpg その後、モンゴルでは人民革命党による一党独裁が終わり、国立中央図書館前に立っていたスターリン像が撤去された。1997年には、ソ連が持ち去り行方不明になっていた、モンゴル仏教総本山ガンダン寺の「大観音像」が再建される(1p168)

 現在のモンゴルでは、コミュニズムとキャピタリズム、シャーマニズムとブッディズムという四つのイデオロギーが交錯している。そのような中で、街を捨てて遊牧生活に戻っていく人も少なくない。モンゴルよりもさらに北のロシアのサハでは、昔ながらの狩猟が再び盛んになりつつあるという(1p169)

ウィンケルマン教授の画像はこのサイトから
ガンダン寺の「大観音像」の画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) 蛭川立『彼岸の時間〜意識の人類学』(2002)春秋社
(2) 長澤靖浩『魂の螺旋ダンス』(2004)第三書館
(3) ニコラス・ウェイド『5万年前』(2007)イースト・プレス
(4) 蛭川立『精神の星座』(2011)サンガ
(5) 2011年10月27日「君もシャーマンになれるシリーズ2―シャーマンとは?予言者とは?」生物史から自然の摂理を読み解く
(6) 2011年11月17日「君もシャーマンになれるシリーズ3〜シャーマンとは?予言者とは?」生物史から自然の摂理を読み解く
(7) 2011年11月25日「君もシャーマンになれるシリーズ4―シャーマンの誕生の背景」生物史から自然の摂理を読み解く
(8) 2011年12月15日「君もシャーマンになれるシリーズ5〜南米のシャーマンは何を見ているのか?」生物史から自然の摂理を読み解く国家神話と祭司の登場
(9) スペンサー・ウェルズ『パンドラの種』(2012)化学同人
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彼岸の生物学C 先住民社会はパラダイスか

貧しい未開人から豊かな原初人へのイメージチェンジ

 人間の社会のあり様については、大きくわけると二つの見解がある。ルソーの『気高い未開人』とホッブズの『不潔で、残酷で、短い自然状態』である(6,7)。ボッブスによれば、未開人たちのこの悲惨な生活は、国家という人工装置によって初めて軽減できることから、社会にはある種の人工的な統制が必要だとの見解になる(6)

 したがって、ボッブスの言う「万人の万人との戦い」の理論は、進歩主義思想へとつながる。19世紀の米国の人類学者、ルイス・ヘンリー・モーガン(Lewis Henry Morgan,1818〜1881年)は『古代社会(en:Ancient Society)』』(1877)において、人類は、野蛮(狩猟採集)、未開(自給農業)、文明へと進歩していくと主張した。モーガンによれば、人類の目標はヨーロッパのような先進型文明に到達することであって、それ以外の生活は原始的で望ましくはない(6)

 木の実や草の根を探し求めてジャングルやサバンナをさまよう。一日の大半が食べ物探しに費やされ、ようやく生きていけるだけの粗末な食べ物を口にできる。夜にはへとへとに疲れ切り、動物のように地面に転がって寝る。絶対的な貧困。それが、長い間信じられ、今も信じられている未開社会に対するイメージだろう(1p33)。事実、ザイールの部族、ムトゥフ族のある草ぶき小屋には、枯れ草のベットや水を入れるヒョウタンなど家財道具はたった35しかなかった(1p20)

 一方、これとは正反対の見解を提唱してみせたのが、ジャン=ジャック・ルソーである。ルソーは、未開人は高潔に生きており、本来善であった人間が堕落したのは、社会システムのせいであり、自然状態に戻れば、一切の問題がなくなると考えた(6)

 1960年代には、カウンターカルチャーの影響もあって、ルソーの見解が人気を博していた(6)。しかも、1960年代に入ると、貧しい未開人という偏見的を根本からくつがえす事実が次々と明らかにされていく。構造人類学者レヴィ・ストロースが指摘するように、農業をまったく知らないか、あるいは知っていても農業にはあえて目を向けず、狩猟や採取だけに依存して暮らしを営んでいる人々が、生きるためにはほとんど働かないですんでいるという事実が発見されてきたのである(1p35)

クン・サン族は働かずに豊かな暮らしを享受する

bushwoman.jpg ボツワナのカラハリ沙漠で狩猟採集生活を営むクン・サン族の成年男子の平均労働時間は約6時間で、しかも週に二日ほどしか働いていなかった。週労働時間に換算すると、わずか1時間半〜2時間であった(1p37)。サン族の場合は、食料生産に従事していたのは男性では23.6%、女性では30.2%と53.8%でしかなかった(1p90)

 クン・サン族とともに4週間を過ごし、その生活を記録した人類学者リチャード・リー(Richard Lee,1937年〜)によれば、クン族たちは食料を確保するために週に平均20時間ほどしか働いておらず、道具や衣服づくりの時間を含めても40時間であった。カラハリ砂漠の気候条件は世界でも最も厳しいにも関わらず、クン・サン族の栄養状態はよく、ゆとりある暮らしを享受していた(7)

 タンザニアのエアシ湖畔にすむハザ族も、食料獲得には日当り平均2時間以下しか費やしていない(1p37)

 1960年に米国とオーストラリア科学調査団が行なったオーストラリアのアボリジニに研究結果でも、狩猟採集、食事の支度、道具の手入れ等をすべて入れても、食べ物を得るのに必要な時間は3〜5時間であった。しかも、食料を確保するための活動は、散発的、断続的で、おまけに必要なだけ採れたら、そこで活動を止めてしまうのであった(1p35)

 南米のベネズエラ・アマゾンの先住民、料理用バナナ、ヤシの実、虫等食生活に関しては充実なライフスタイルを送っている(4)。ヤノマミ族も一日1時間40分(1p38)。道具づくりや準備を入れても、3時間以下だ(1p38,4)。ヤマノミ族は、苦労せずに生きていけ(4)、生活の四分の三はハンモックに横たわって暮らしていた。生涯のほとんどが日曜日であった(1p38)。 

 クン・サン族の暮らしは例外ではなく、さらに環境が恵まれた地域での暮らしはもっと容易であった。しかも、自給のために費やされる20時間の「仕事」の多くは、決して辛く骨が折れるものではなかく、男性たちの自給のための仕事の大半は狩猟であって、それは、今、レクリエーションとしてなされている活動なのである(7)

 20160620Marshall Sahlins.jpg現実の石器時代の暮らしは、不快でもなければ、残酷でもなく、短くもなかった。石器時代の狩猟採集民や近代以前の農民たちの研究からは、「未開人」たちが不安に駆り立てられることなく、余暇に恵まれた豊かな暮らしを享受してきたことがわかっている(7)。1966年にシカゴで開かれた人類学の会議においてマーシャル・サーリンズ(Marshall Sahlins, 1930年〜)シカゴ大学教授は「原初の豊かな社会」というフレーズをつくりあげた(6)

女性が食料生産の柱を担っていた

 狩猟採集社会に関してどのようなイメージを持たれるだろうか。男性が一家の糧を得るため狩猟に出かけ、その間、女性が子どもの世話をしながら、家を守り、男性の帰りを待つ、というのが一般的なイメージではなかろうか。けれども、これは、近代「会社社会」の性差分業を過去に投影したロマンティシズムに過ぎない(2p222)

 多くの未開社会においては、男女がともに仕事をわかちあい、妻が夫に経済的に従属することはなかった(1p80)。確かに、狩猟採集社会では、男性が動物を狩り、女性が植物を採集するという分業がなされているが、とりわけ、低緯度地帯では、女性の採集活動に生活の多くがかかっている(2p222)。暮らしを支えているのは女性であり、女性の自主性や自立性が強かった(1p80)

 例えば、クン・サン族の社会では、女性が週に2〜3日行なう採集活動で得られる植物性の食料が、全体の60〜80%を占め、男性が狩猟で採ってくる獲物の2〜3倍の食料を供給していた。女性が植物性食物を見つけられる確率はほぼ100%だったが、狩猟で獲物を捕獲できる確率は23%にすぎず、時間あたりのエネルギー効率では、採取は狩猟の2.5倍も高かった(1p81)。消費カロリーやタンパク質の約三分の二を女性たちは供給していたため、女性の経済的地位は高く、離婚することで女性が経済的ダメージを受けることはなかった(2p221)

 ハザ族やアボリジニにおいても、植物性食料への依存度が重量でもカロリーでも約67%を占めていたことから、女性が一家の大黒柱であった(1p81)

 女性が大黒柱であれば、社会的地位もそれにふさわしく高かった。エディンバラ大学の人類学者のアラン・バーナード(Alan Barnard,1949年〜)教授とロンドン大学のウッドバーン(James Woodburn)教授はこう述べている。

「何を生産するか。収穫物をどうするのかを女性たちは自分で決めていた。夫の支配下にはなかった。離婚しても、子どもは普通は母親のもとにとどまり、その後どっちで暮らすかを自分で決めていた」(1p83)

女性の恋人ネットワークが集団をまとめあげていた

 未開社会においては、バンドは流動的で堅固な社会組織を構成していなかったし、メンバーもしょっちゅう入れ替わり、家族や親族のネットワークもゆるやかなものだった。現代的に言うならば、自立した諸個人の自発的な連携によるコミューンであったと言える(1p84)

 例えば、伝統的なクン・サン族の社会も、一夫一婦婚に基づく核家族が単位となる数十人のバンドからなってきたが、そのメンバーは固定的ではなく離合集散を繰り返していた。社会生活の基礎単位となる夫婦関係も安定したものではなく、離婚と再婚とが繰り返され(2p221)、だいたい平均で一生の間に三回結婚していた(2p222)

 多くの未開社会では、血縁関係がない人々をつなげるため、婚姻は重要である。とりわけ、非定住の狩猟採集社会においては、核家族を超えた親族関係があまり発展していないため、繰り替えされる離婚と再婚、そして、網の目のように広がる恋人のネットワークがゆるやかな共同体の統合を可能としていた(2p222)

 例えば、クン・サン族の社会では、男性が狩りに行っている間に女性たちは、仲間たちと木の実を採りに行ったり、これがチャンスとばかり、夫の目を盗んで恋人と密会したりしていた。クン・サン族では、婚外性活動が盛んで、恋人関係のネットワークが網の目のように発展している。すなわち、一個の女性の中には、特定の相手との長期にわたる交換と多様な相手との交換という二つの戦略が共存していた。これが、後には、婚姻と売春とに二極分化してゆく。また、男女の恋人関係は非対称で、たいがい男性が女性に贈り物を送ることで成立していた(2p223)

 とはいえ、クン・サン族の社会をなんの秩序もない「乱婚社会」と見るのは間違いで、公式な制度の婚姻を恋人関係が補完していたと言える。そして、女性は平均して四人の子どもを産むが、成人するのは半数なので人口の増減もなかった(2p222)

先住民社会は平等である

 クン・サン族の集団のカリスマ的リーダーとなっているのは、男性のシャーマンであったが、彼も大きな権力を握ることはなく、平等主義的な社会である(2p222)

 アマゾン上流の先住民社会でも、アヤワスカは誰でも飲むことができ、シャーマンだけに秘密にされているわけではない。エクアドルのヒバロ社会では4人に1人がシャーマンである。ペルーのシピボ社会でもひとつの社会に何人もシャーマンがいる。多くの人がシャーマンにならないのは、そのための修行が大変だからだにすぎないという(2p26)

20160617-Michael Harner.jpg ネオ・シャーマニズムの中心人物である文化人類学者マイケル・ハーナー(Michael Harner,1929年〜)博士は、こうした状況をシャーマニズムの持つスピリチュアル・デモクラシー(霊的民主主義)と呼ぶ(2p26)

部族社会は平和ではなかった?

 未開人たちは、労働時間をなるべく少なくし、必要なだけ手に入れたら、あとは生産を打ちきって、お互いに訪ねあっておしゃべりをしたり、昔話や神話を子どもに聞かせたり、昼寝を楽しんだり、ダンスや歌で夜をあかしていた。つまり、多くの社会主義者が未来の理想として掲げてきた半日労働や半週労働が、未開社会では実現していた(1p65)

 そこで、部族社会に対して過剰なロマンを抱く人たちは、ネガティブな面を無視しがちである。けれども、部族社会が平和で豊かなユートピアであったというのは幻想である(3p41)

 最近明らかになってきた様々な知見からすると、過去を賛美するルソーの見解も甘いことがわかっている(6)

 イリノイ大学のローレンス・キーリー(Lawrence H. Keeley)教授は『文明化以前の戦争』で、未開社会においては戦争が日常茶飯事であることを突き止めた。国家以前の社会で平和な社会は稀であった。牧歌的に思えていた先住民世界では闘争が日常茶飯事で(6)。狩猟採集民たちは、絶えず戦争状態で生活していた(7)

 平和でわかちあう民族、クン・サン族でも、稀に殺人行為が発生した。それは、たいがいは愛人をめぐる嫉妬心が口火を切り、何十年にも及ぶ血の復習戦に帰着した(7)

 サウス・カロライナ大学の人類学者カール・ハイダー(Karl G. Heider)名誉教授によれば、ニューギニアのダニ族では男性の3人に1人が戦争で死んでいる(6,7)

 アマゾンの先住民たちもラブとピースではなく、絶えず戦争が絶えることがなかった(2p271)。ヒバロ族は首狩り族でもある(2p272,2p286)。ちなみに、日本もほんの200、300年前までは首狩り族であった。忠臣蔵のような首狩り報復戦争の物語がいまでも多くの日本人を感動させている(2p273)

20160620Yanomami.jpg カリフォルニア大学サンタバーバラ校の人類学者、ナポレオン・シャグノン(Napoleon Chagnon,1938年〜)名誉教授の著作『ヤノマミ:猛烈なる人々(Yanomamo: The Fierce People)』によれば、ヤマノミ族も戦闘にあけくれ(4,7)、成人男性の死因の30%が暴力で、40歳以上では57%が殺害が原因で2人以上の肉親を失っている(4)

 シャグノンの師にあたる遺伝学者ジェームズ・ニール(James Van Gundia Neel, 1915〜2000年)はこう主張する。

「近代文化は、弱者を支援するため『非優生学的』」である。それは、人類のオリジナルの「集団構造」からはるかに逸脱している。孤立した小規模な部族集団は、女性にアクセスするため、男性たちは互いに暴力で競争していた。こうした社会においては、最良の戦士が最も多くの妻や子どもを持ち、次世代に彼らの遺伝子の多くを伝承でき、それが遺伝子プールの質を連続的にアップグレードすることにつながる」(8)

チンパンジーには闘争本能がある?

 豊かであるにもかかわらず、人類が闘争するのはなぜなのか。そのヒントをチンパンジーに求める見解がある(4)

20160620Jane Goodall.jpg 動物が初めて道具を使うことを明らかにしたイギリスの動物学者ジェーン・グドール(Jane Goodall, 1934年〜)博士は、アフリカのゴンベの森のチンパンジーたちが楽しく暮らしていると想定していた。けれども、実際は正反対だった。チンパンジーたちは、定期的に近くのコミュニティを急襲しては、死ぬまで攻撃していた。この発見に生物学者や社会学者は仰天した(4)

 意外に思えるかもしれないが、4000種もいる哺乳動物やそれ以外の1000万種以上の動物の中で、急襲・殺害という行動パターンを取るのは、たった2種。チンパンジーとヒトだけしかいない。ヤマノミ族やダニ族と同じように、チンパンジーの成熟した雄も約30%が攻撃活動に参加することが原因で命を落としている。すなわち、人類の闘争本能は、はるか類人猿の時代から継承されたものだといえる(4)

ヤノマミ族の戦争もチンパンジーの闘争も西洋人のコンタクトが引き起こした

 ルソー的なアナーキズム社会が牧歌的な平和な社会ではなく、チンパンジー的な残虐性が伴うとすると、やはり複雑化した統制社会は避けられないのだろうか。文化を通じて支配的な「悪魔の遺伝プログラム」を克服するまで、人類は戦争を避けられないのであろうか(8)

 けれども、シャグノン教授が目にしたヤノマニ族の暴力のほとんどは、皮肉なことにシャグノン教授、すなわち、西洋社会とコンタクトしたことで始まった混乱から生じたとの見解もある。シャグノン教授とともに研究を行ったケネス・グッド(Kenneth Good)博士は、どの米国の人類学者よりも長く12年もヤノマニ族の中で暮らしたが、グッド博士によれば、シャグノン教授は、研究に協力させるため武装して村に入り、ゆく先々で対立関係を作りあげていたという。

 20160620Ferguson Brian.jpgラトガーズ大学の人類学者、ブライアン・ファーガソン(Brian Ferguson,1951年〜)教授は、1995年の著作『ヤノマニの戦争:政治史(Yanomami Warfare: A Political History)』で、シャグノン教授の見解に反論し、ヤノマニの戦争のほとんどが、外部から鉄器や新たな病気がもたらされた撹乱によると主張する。ファーガソン教授の説明によれば、1950年代に宣教師たちがやってきて、キリスト教に改宗させるために軽率にも斧や刀を提供したことで、その地域は戦争へと突入してしまったのである。

 したがって、「コンタクト以前」のほんとうの社会がどうであったのかを知ることは極めて難しい。最も僻地においてさえ、人類学者が訪れるよりも先行して、西洋テクノロジー、細菌、通商の影響で、社会的な崩壊が引き起こされている。

 同じことは人間以外にも言える。人類の本能的な悪の証拠とされる野生のチンパンジーの殺人行為も、研究者がアクセス可能な撹乱された群れでのみ発生することを霊長類学者マーガレット・パワー(Margaret Power)は実証している(8)

 霊長類や原始人の軍事闘争的な性格を目にするとき、私たちはほとんど私たち自身のシャドゥを目にしているのかもしれない(8)

アヤワスカを利用して死者と出会う

 西洋人たちは、アヤワスカによって「人生の意味を知った」というめくるめく体験をすることが多い(2p270)。アヤワスカではどのような体験ができるのだろうか。明治大学の蛭川立准教授は実際にアヤワスカ体験をしている。

 30分をすぎると蛍光色の万華鏡のような幾何学模様が見えてきた(5p78)。さらに、次の第二段階では、臨死体験と似て死の世界に引きずり込まれていく感覚があった(5p80)。蛭川准教授はすでに他界した祖母に会った。そして、相手の方がびっくりし「まだこんなとこ来たらあかんで。ここは死んだ人が来るところや」と言われたという(5p83)

 また、知り合いの父親が金色に光る存在に吸い込まれて消えて行った光景を見た。あまりにリアルであったため、1月後に帰国した後で確認したところ、その日に他界したという(5p84)。シャーマンによれば、アヤワスカの精霊は、人が死ぬことをあらかじめ教えてくれるという(5p85)。さらに、天使のような存在とも出会った。けれども、それは、よれよれのスーツを着た冴えない日本の中年の営業マンの姿であった(5p89)

カルマの概念は格差社会において意味を持つ

 カリフォルニア大学の人類学者、G・スワンソン(Guy E. Swanson, 1922〜1995年)教授は、全世界からサンプリングした46社会の世界観を比較してみた。死後の霊魂の観念を持たない文化は皆無だったが、生前の行いによって死後に罰を受けるとする文化は13社会、28%しかなく、かつ、エジプトやインドのように社会的ヒエラルキーが発達した社会でしか見いだされなかった。インドのようなヒエラルキー社会においては、高いカーストに生れた人は、「前世のカルマが良かったからだ」と自分の立場を正統化し、特権を行使できるメリットがある(2p19)。このことから、地獄という観念は、階層化された社会が、その秩序を守り人々を統制するために考えだしたものともいえる(2p20,2p22)

臨死体験から神は誕生した

 一方、社会的な階層が発達していない社会においては、こうした観念そのものが意味をもたない(2p19)。事実、アイヌやシベリア、台湾、アマゾンの先住民たちは、死後の世界は現在の生活と変らないか、むしろさらに楽になると考えてきた(2p20)

 20160620michael sabom.jpg救命医療が飛躍的に進歩した結果、臨死体験の経験者が増えているが、エモリー大学のマイクル・B. セイボム(Michael B. Sabom)教授の『あの世からの帰還』(1986)によれば、臨死体験は信仰の強さとは無関係に起きている。むしろ、あらかじめ知識をもっていなかった人の方が体験率は高い(2p21)。体外離脱を体験し、いままでの自分の人生を走馬灯のように早送りでながめ、お花畑のような美しい世界にたどりつき、ご先祖様に出会う(2p16)。しかも、臨死体験では、地獄のような体験をする人は少なく、美しい世界に行く体験が多い(2p21)。したがって、天国という観念は、臨死体験がベースとなって地獄よりも先に生れたと蛭川准教授は考える(2p22)

「いま、ここ」の体験がアヤワスカの真骨頂

 けれども、アヤワスカの意味は、極彩色のビジョンが見えることではなく、狭い自我の崩壊と精神の拡大にある(2p271)。例えば、アヤワスカを飲んだ後、2〜3時間が経過すると効果はピークを過ぎるが、その後の第三段階では愛さえ意味を失う(5p96)

 自分を犠牲にして相手に尽くすという自己犠牲にしても、自分と他人とが区別されていることが前提である。けれども、すべてが一体となれば、愛と言う概念そのものが意味を失う(5p97)。そして、自分という存在が消滅してしまっている状態を観察している自分だけがいる(5p99)。さらに、流れる時間も意味を失ってしまっている。ゲシュタルト崩壊が起こり、「いま、ここ」に過去と未来の全宇宙が一体化し、完全な調和に包まれているという感覚がいだかれる(5p100)。臨死体験者が日常のさりげない風景がきらきら輝いてとても美しく感じられるというのと同じである(5p102)

 このことから、硬直化した時間観念を脱構築するうえで、アヤワスカは有効なツールであると蛭川准教授は結論づける(2p286)

 さらに「あの世」に行って戻ってきた人は、死への恐怖を減らす(2p21,2p212)。そして、物質的な成功や他人に注目されたいという資本主義的な競争原理への関心を低下させ、他人への寛容性や共感性が高まり、ごく普通の生活がすばらしいと思うようになる。また、人生の内的な意味や本当の目的、神秘的な経験への関心を深める。かといって、既成宗教への信仰に回帰することはなく、組織宗教への信仰心はむしろ減少してしまう(2p212)

西洋人と違いアヤワスカは先住民では深い人生哲学を産み出さない

 こうしたことから、アヤワスカへの関心は高まり、2000年3月にはサンフランシスコでカリフォルニア総合学研究所(CIIS)が、世界初のアヤワスカに関する国際会議「アヤワスカ―アマゾンのシャーマニズム・科学・スピリチュアリティ」を開催している(2p269)

 けれども、先住民たちは『マリアシオン』と呼ぶ変容意識でいろいろな精霊や蛇、ジャガーと出会うが、バッド・トリップもしないし、自分自身の人生を内省的に考えるという体験談を聞かない(2p270)

 蛭川准教授は、西洋人たちには、フーコーが言う意味で抑圧された本能の解放こそが人間の解放だというイデオロギーが埋め込まれており、アヤワスカを用いて、化学的に壊さなければならない堅い自我がある一方、先住民には、崩壊するような硬い自我がないからではないかと考える(2p271)。西洋人たちがサイケディック体験を通じて東洋思想への理解を深めることが多い一方で、サイケディック・シャーマニズムからはさほど深い思想は産み出されてきてはいない(2p273)

部族社会には地球的な視野はなかった

 長澤靖浩氏も部族社会に自然に対する一定程度の節度があったことは確かだが、それはエコロジー思想に基づくと考えるのは、現代のロマンの投影かもしれない。技術不足のために自然の支配を否応なく受けていたにすぎないともいえる(3p42)

 また、部族社会の人々は狭い世界でしか生きてこず、部族社会には全地球的な視野はなかった(3p42)。地球的なビジョンがなければジョン・レノンの「イマジン」は誕生しえない(3p44)。マジック・マッシュルームを崇拝していた古代アステカ人は生きた人間の心臓を神に捧げていた(2p286)

サーリンズ教授の画像はこのサイトから
ハーナー博士の画像はこのサイトから
グードル博士の画像はこのサイトから
ファーガソン教授の画像はこのサイトから
セイボム博士の画像はこのサイトから
ヤノマニ族の画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) 山内 昶『経済人類学への招待』(1994)ちくま親書
(2) 蛭川立『彼岸の時間〜意識の人類学』(2002)春秋社
(3) 長澤靖浩『魂の螺旋ダンス』(2004)第三書館
(4) ニコラス・ウェイド『5万年前』(2007)イースト・プレス
(5) 蛭川立『精神の星座』(2011)サンガ
(6) スペンサー・ウェルズ『パンドラの種』(2012)化学同人
(7) Charles Eisenstein” The Ascent of Humanity” (2013) EVOLVER EDITIONS; Reprint edition
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2016年06月19日

彼岸の生物学B 危機回避のためのOSアップデート


どの宗教のベースにも変性意識がある

 20160618-Williams2.jpgデヴィッド・ルイス=ウィリアムス(James David Lewis-Williams,1934年〜)教授は、どの宗教にもその基盤には変性意識状態があると主張する。私たちの祖先は「幻覚」を価値あるものとして位置づけ、同じリズムを繰り返すドラムや踊り、過呼吸、飢餓、自傷行為、幻覚植物を用いることで「幻覚」を体験してきた。幻覚植物の利用は後期石器時代にまで遡る。そして、狩猟採集社会においては、幻覚体験をする役割を担うのがシャーマンであった(2p56)。狩猟採集社会においては、シャーマンはコミュニティのリーダーであり、死者の魂の導き手であり、予言者であり、病気の治療者だった(1p50)

20160619krippner.jpg 米国の心理学者スタンリー・クリップナー(Stanley Krippner, 1932年〜)セイブルック大学教授は、進化心理学の立場から、変性意識に入る能力は、全人類が狩猟採集生活を送っていた時代に適応進化させたものだと主張する(1p28)。現代の都市化社会では、この能力が抑圧されて社会的に開発されていないだけであって、誰もが潜在的にはシャーマンになれる能力を持っていることになる(1p29)。けれども、超越的な変性意識に入る能力をホモ・サピエンスが適応進化させてきたとすれば、それにはどのような意味があったのだろうか(1p50)

リスク回避のために生物は感覚器官を進化させた

 どの生物も外部から情報をキャッチすることで行動している。単細胞生物は特定の物質濃度を「受容体」で感知して、その濃度勾配によって行動する。これを「走化性」と呼ぶ。けれども、走化性に見られるようなシンプルな行動だけでは絶滅するリスクが高い。そこで、多くの情報をキャッチし、それに応じて多様な行動が取れるように感覚回路を進化させてきた(10)

 まず、生きていくのに安全な食べものかどうかを「毒見」する接触刺激器官として「味覚器」が発達した。一方、遠方にある敵や獲物を感知する「遠隔刺激」の「感覚器」が嗅覚器である。もともと味と臭いを感知する器官は分化せず、ひとつの化学受容器で感知していた。その後、眼を獲得することで、動物は遠方から敵や餌をはっきりと認識できるようになっていく(10)

左脳はパターン化された補食行動を調整している

 長らく、言語や利き腕、空間関係等の脳内での処理能力の偏りは、人間だけに見られる特徴であって、それ以外の動物では右脳や左脳の機能には差がないと考えられてきた。けれども、数々の観察や実験から、かなり初期の段階から右脳と左脳の機能分化が始まっていることがわかってきた(7)

 脊椎動物の多くは神経回路が左右で交叉しているため、右半身を左脳が、左半身を右脳がコントロールしているが、左脳が日常的な行動の制御に特化していることを裏づける証拠として、魚類、爬虫類、両生類、鳥類、哺乳類等、すべての脊椎動物が、日常的な摂食行動を右側に偏って行っていることがあげられる(7)

 音声言語や非音声言語も、人類が出現するはるか以前から存在していた動物に生じた大脳半球の機能差に由来し、鳥類の研究からは、左脳が歌を制御していることが明らかになっている。また、アシカやイヌ、サルでも、左脳が同種の仲間の泣き声を認知している。そして、サルの一種であるコモンマーモセットは、仲間に向けて友好的な鳴き声を出すときには、口の左側よりも右側を広く開ける。ヒトも話すときには口の右側を左側より大きく開く傾向がある。日常行動のひとつである発声機能や言語では、身体的な右側、すなわち、左脳の優位性が認められる(7)

リスクを回避する右脳の機能は魚類段階から進化した

 生物の脳は、一塊の神経節から発生しており、いわゆる「中枢神経」が誕生した段階では、脳の左右分化はまだ見られない(8)。けれども、約5億年前に脊椎動物が出現した時点では、右脳と左脳の分化が既に認められ(6,7)、脳の基本構造や右脳左脳の機能差の原型が誕生する(7)。魚類は、視覚、聴覚、側線感覚をたよりに、振動や音といった外部刺激をキャッチして、逃避行動を起こすことができるが(10)、明確な左右分化が始まるのは、この魚類の段階からである。そして、爬虫類、両生類、哺乳類、霊長類へと進化して「新しい脳」が塗り重ねられる毎に左右分化が進んでいく(8)。魚類、両生類、鳥類、哺乳類と、いずれも左視野(脳の右側)に捕食者(天敵)が入った方が、右視野(脳の左側)に入ったよりも大きな回避反応を示すことが、様々な動物の捕食反応を調べた研究からわかってきた(8,12)

 このことから、想定外の刺激を感知し、それに反応する機能は、かなり古い時期から脳の右半球が受け持つようになってきたことがわかる。人間でも、即時的な行動が必要となる想定外の刺激に対しては、右利きでも左手(右脳)の方が早く反応する。ワシントン大学のフォックスらは、こうした研究から、ヒトの警戒システムは右脳にあり、想定外のリスクを回避する機能は右脳が担っていると結論づけている(8,12)

顔を見分けて仲間を認識するのも右脳の力

 けれども、魚類は、危機に対応してただ反射的な逃避行動をするだけではなく、さらに、高度な進化形態である「群集行動」をとることもできる(10)。想定外の天敵から逃避する以外に、初期の脊椎動物が反応する必要があったのは、同種の仲間との出会いであった(8,12)

 20160619Keith kendrick.jpg魚類や鳥類では仲間の群れを認識し、すぐに反応する社会行動が見られるが、これをコントロールしているのも右脳である。ケンブリッジ大学のケイス・ケンドリック(Keith Kendrick)教授は、ヒツジも顔の記憶から他のヒツジを認識でき、この認識は右脳がかかわっていることを明らかにした。すなわち、相手の顔を認識する右脳の能力は、比較的初期の脊椎動物が手にした同種の仲間の外見を認識する能力に由来する。人間でも、相手の顔を認識できなくなる「相貌失認」は右脳の障害に原因があることから、顔を認識する機能は右脳にあることがわかっている(8,12)

左脳は部分に着目し、右脳は全体のパターンを認識している

 20160619David Navon.jpgイスラエルのハイファ大学のナボン(Emeritus David Navon)教授は、脳にダメージのある患者に、約20個の小さなAが大きなHを形づくるように並べた図を見せ、その図を描かせるという実験を行ってみた。このことから、全体と部分の認識力に関する驚くべき事実が明らかになった。左脳にダメージがあり右脳が正常な患者は、小さなAの文字をまったく含まない単純なHを書くことが多い。一方、右脳にダメージがあり左脳が正常な患者は、小さなAの文字を紙全体にばらばらと書いたのである。このことから、左脳が部分に着目する一方で、右脳は詳細な個々の要素にはあまり注目せず、全体状況に注意を向け、つながりの全体パターンとして空間を捉えていることがわかる(8,12)

右脳は、全体把握、危機回避力、仲間認識力を司る

 以上のように、長い生物の進化史を見れば、脳がない時代から、生物たちは身体感覚を用いて情報を得て判断してきたことがわかる(9)。また、多くの生物実験の研究結果から、「パターン化した日常的な行動」を担うのが左脳で、「天敵に出くわすなど突然の場面での行動」をコントロールするのが右脳と役割分化してきたことがわかってきた(6,7,8)

 すなわち、「右脳」の役割は、@危機回避機能、A全体把握機能、B顔認識機能(同類認識)であることがわかる(8)

 危機を察知して対応するための感覚回路との結びつきは、右脳の方が左脳よりも強い(5)。直感力は一般的に右脳の特徴とされるが、右脳と強く結びついた感覚回路が危機察知のために働くからだ(6)

日常性のシンキング・マインドでは危機対応ができない

 人類は急速に大脳新皮質、とりわけ、前頭葉が発達させることで「観念機能」を進化させてきた(5,10)。さらに、250万年前に言語が発明され、言語情報が共有されることで、環境適応度はさらに高まり、人類は逆境を生き延びることができてきた(5,9)。けれども、急速な進化を遂げた大脳新皮質が脳をコントロールすることで、それ以前の脳(脳幹、小脳、大脳辺縁系)の機能が制御・抑制されてしまっている(5)。すなわち、このことで、逆に無意識から情報を引き出す能力は弱まった。脳内の顕在意識だけを処理する、言わば「観念病」に侵されているともいえる(9)。これは、逆にいえば、大脳新皮質の思考機能を抑えることで、脳の基底的役割(生命維持、運動機能、情動)を開花させ、無意識の領域から情報を引き出し、観念レベルを超えた判断が得られることを意味する(5,9)

 コンピュータのOSがコンフリクトを起こしてフリーズしてしまったときには、リセットしてシステムを再起動する必要がある(1p55)。これと同じように、日常的なものの見方の枠組みでは解決できない問題に直面したときには、自動処理されてきた常識的な情報処理を一旦中断し、作業を再点検する必要がある(1p54)

自動化したシンキング・マインドを抜け出ればシンクロする?

 20160619Deikman.jpg変性意識状態というと、日常的な意識状態よりも覚醒水準が下がるイメージがある。けれども、逆なのだ。カリフォルニア大学デービス校のチャールズ・タート(Charles T. Tart,1937年〜)教授によれば、むしろ日常の方が、自分自身が所属する文化からの反復的な暗示によって文化的な催眠状態・自動運転状態におかれている(1p54)。そして、カリフォルニア大学サンフランシスコ校の心理学者アーサー・ダイクマン(Arthur J. Deikman, 1929〜2013年)教授は、変性意識状態を認知の「脱自動化」として捉える(1p54)

イギリスの社会人類学者、ジェームズ・ジョージ・フレイザー(James George Frazer, 1854〜1941年)卿は、大著『金枝篇』において、正しいものを科学、誤ったものを呪術と定義した。以来、誤った認識に基づく実践が「呪術」と称され、なぜ、人々は誤った因果関係を信じるようになるのかを文化人類学者や社会心理学者たちは研究するようになった(1p53)

 けれども、正しい因果関係といった時点において、そこには科学的思考が伴っている。近代社会は因果性の原則に基づいて科学技術を高度に発展させてきたが、それは因果性の原理が正しいからではなく、近代社会のイデオロギーには因果性の原則の方が親和性があっただけにすぎない。また、「呪術」は共時性という因果性とは独立した原理に基づく実践かもしないのである(1p注10)

本能、情動、知性が統合されたシャーマンの変性意識が意識を進化させる

 シャーマンの脳は、左半球の前頭葉・大脳新皮質(=言語野)の働きが抑えられ、言語以前の空間把握を司る右半球の働きが活発化している。思考の集中時に見られるベータ波に、通常では見られないピーク波が現れる一方で、通常眠っている時にだけ見られるデルタ波も現れる(4,9)。いずれも、通常の脳の活動状況には見られない現象だが、シャーマンの脳は、デルタ波が示す睡眠時と同じ無意識下で情報を処理すると同時に、ベータ波が示す無意識領域から何らかの情報をゲットしていると考えられる(9)。ここにシャーマン脳のヒントがある(5)

20160203Michael Winkelman.jpg 哺乳類の旧脳、とりわけ、記憶の海馬や快楽に関わる海馬―中隔、視床下部が、情動や自律神経のバランスを制御する領域が活性化し(3p55)、旧脳からの徐波で前頭葉両半球でも徐波のコヒーレンスの増大が起きることで、認知と情動、直観と分析的知性の高次な統合がもたらされる(3p56)

 アリゾナ州立大学の人類学者、マイケル・ウィンケルマン(Michael Winkelman)教授は、この変性意識状態を「統合意識モード」と呼び、この統合こそが、宗教や人類の進化において決定的な役割を担ったとウィンケルマン教授は考える(3p54,3p55)

松果体から分泌されるジメチルトリプタミンの働きで臨死体験が起きる

 松果体は、脳の中心付近の脳幹や小脳上部に位置し、2つの視床体が結合する溝にはさみ込まれた約8mmの赤灰色の内分泌器官である。扁桃体が形成される以前から存在する古い器官で、脳幹等の古い脳とより密接に関係している(11)

 松果体は、ヨガのチャクラ、神に通じる「第三の眼」としてスピリチュアリズムが重視してきた。松果体は、超心理学の分野でも研究が進められているが、その本当の機能がほとんどわかっていない謎の器官である。ヨガでは、アジナ・チャクラ、仏教では、釈迦の額にある白毫(びゃくこう)として知られ、古代エジプトでは、精神の覚醒の象徴のシンボリズムとして使われ「万物を見通す目」のデザインもこの松果体の形を表している(13)

 スピリチュアルなカルチャーの多くは、この松果体が「悟り、啓蒙、霊性」で重要な役割を果たし、その機能が発揮されることで宇宙意識とつながると考えている(13)

33Rick Strassman.jpg アヤスワカの有効成分は脳内の神経伝達物質セロトニンと類似した構造を持つ「ジメチルトリプタミン(DMT)」だが、生死に関わる危機にさらされると、松果体からも、幻覚を引き起こす幻覚物質「DMT」が分泌されることがわかっている(11,14)。未開部族らが祭りや踊りを通じてトランス状態に陥り、非日常的世界を経験するのは、ある種のリズムや運動でDMT等の脳内物質が放出されるためだとも言われる(11)。ニューメキシコ大学の精神医学者リック・ストラスマン(Rick Strassman, 1952年〜)教授は、宗教的な神秘体験や臨死体験は、松果体で生産されるDMTが関係すると考えている(14)

ジメチルトリプタミンは集合無意識から情報を引き出す

 けれども、危機や死に直面するとDMTが放出されるのは、危機や死に対する恐怖心を和らげるためではない。DMTは、神経細胞であるニューロンの感受性や反応に影響を与え、例えば、電磁波のように普段は認知できない外界刺激を感知できる可能性もある。すなわち、日常的にはフィルターがかかった情報を認識し、危機に対処するための過去の記憶を呼び起こし、危機に対する突破口を切り開くためなのである(14)

 DMTで目にされる幻覚が誰しも似た内容であることは、こうした幻覚が、人類が過去に経験して蓄積して共通に持つ古い記憶『集団的記憶(集団無意識)』に由来する可能性が高いことを示唆する(9)

「未来予測」は最も高度な能力が必要とし、全体を見据えた上での総合的判断が必要となる。そこで、右脳の全体把握能力が必要となる(8)。シャーマンがトランス状態に入ってその能力を発揮している時には右脳が活性化しているが、その時、シャーマンは、右脳の危機察知回路を発揮させ、その未来予知・予言能力を得ているのであろう(6,7,8)。すなわち、シャーマンは、表層意識ではなく、無意識領域に蓄積された集団的記憶から、情報を意識的に収集することで、直感的に物事の方向性を決定し、危機に直面した際に生存の可能性を高めてきたが、この能力は、人類が生き残るうえで欠かせなかった(9,11)

 人類はその歴史の大半を、狩猟採集民として生きてきたが、そのごく初期の時代から人類は徹夜で踊ってきたが、それは、ダンスのトランスが、脳のなかに潜在している回路を開き、通常とは違う意識状態、光に満ちた体験をもたらしたからなのである(3p23)。

ウィリアムス教授の画像はこのサイトから
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ウィンケルマン教授の画像はこのサイトから
ストラスマン教授の画像はこのサイトから

【引用文献】
(1) 蛭川立『彼岸の時間〜意識の人類学』(2002)春秋社
(2) グラハム・ハンコック『異次元の刻印(上)-人類史の裂け目あるいは宗教の起源』(2008)バジリコ
(3) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(4) 2012年8月2日「君もシャーマンになれるシリーズ12―シャーマン(予知・予言能力)の脳回路」生物史から自然の摂理を読み解く
(5) 2012年8月22日「君もシャーマンになれるシリーズ13〜脳は「生命維持」「運動」「情動」「思考」の4層から成る」生物史から自然の摂理を読み解く
(6) 2012年9月22日「君もシャーマンになれるシリーズ14〜【シャーマン脳仮説】脳構造と右脳・左脳分化」生物史から自然の摂理を読み解く
(7) 2012年9月29日「君もシャーマンになれるシリーズ15〜脳はなぜ左右で分業したのか【日常行動の左脳】」生物史から自然の摂理を読み解く
(8) 2012年10月4日「君もシャーマンになれるシリーズ16〜脳はなぜ左右で分業したのか【危機察知の右脳】」生物史から自然の摂理を読み解く
(9) 2012年11月1日「君もシャーマンになれるシリーズ17〜【シャーマン脳仮説】シャーマンは無意識領域から情報を引き出している」生物史から自然の摂理を読み解く
(10) 2012年12月30日「君もシャーマンになれるシリーズ18―危機察知⇒予測思考を可能にする第一歩は、外圧の変化(自然、種間、同類)に適応すること」生物史から自然の摂理を読み解く
(11) 2013年5月2日「君もシャーマンになれるシリーズ22〜松果体がシャーマン能力を開花させる「鍵」か?」生物史から自然の摂理を読み解く
(12) 2013年12月30日「右脳・左脳―機能分化の真実を探るその1」生物史から自然の摂理を読み解く
(13) 2014年3月11日「核サミットで世界の指導者が身に付けた邪悪なピラミッド形」カレイドスコープ
(14) 2013年5月2日「君もシャーマンになれるシリーズ22〜松果体がシャーマン能力を開花させる「鍵」か?」生物史から自然の摂理を読み解く
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2016年06月18日

彼岸の生物学A 太鼓とクスリ

セロトニンは脳の安定化装置のネジを外す

 シャーマンたちは踊りや歌で、トランス状態に入っていくが、なぜ、踊りによって変性意識に入れるのであろうか(8)

 人類の脳は、それ以外の動物に比較して大脳新皮質が極端に肥大化し「不安定化」している。このため、脳に外部から流入する情報を取捨選択することで脳の安定化が図られている。したがって、幻覚トランス状態に入るための鍵を握るのが「脳の安定化装置」を緩めて外すことにある(7)。そして、セロトニンやその受容体であるセロトニン・レセプターと呼ばれる脳神経伝達物質の働きが強まると脳の安定化装置の「ネジ」が緩んで外界情報が次々と流入してくる(7,9)。このため、普段はゲットされない自然界の微細な動きや人の肉体の微細な変化、心の変化と言った膨大な外部情報が脳内に流れ込む(7)。シャーマンは、こうした通常では掴み取れない微細な外界情報をゲットする(8)。この外部情報と潜在意識に記憶されている情報とが組み合わされたときに、人は「幻覚」を見るとされている(10)

 20160618-Williams2.jpg南アフリカのウィットウォータースランドの大学のデヴィッド・ルイス=ウィリアムス(James David Lewis-Williams,1934年〜)教授は、踊りが幻覚トランス状態に入りやすい脱水状態や過呼吸を引き起こすことに気づいた(3p108)。そして、歩行や呼吸、咀嚼といった反復したリズム運動を行うと、脳内のセロトニン神経が活性化することが実験から確かめられている(9)

太鼓のリズムもセロトニンを活性化させる

 踊りや歌等による単純なリズム運動もセロトニン神経を活性化させることがわかっている(7)。あらゆる自然現象にはリズムがある。呼吸や心臓の鼓動、脳や生殖もリズムを持つ。私たちがリズムに心地よさを見出すのは、進化の過程で身に付けて来た生命のリズムが自然と共鳴するからだ。リズムをあわせることとは、太古の昔から生命が継承してきた「振動する身体」を確かめている瞬間だともいえる(9)

 また、太鼓も、おそらく人類最古の楽器で、シャーマンがトランス状態に入るためには、なくてはならない道具だった(2p235,8)。太鼓のリズムは心拍数に近い100〜120BPMでリズムを刻む。現代でもトランス音楽等で100〜120BPMのリズムを長時間聞き続けるとトランス状態に近い意識になれることがわかっている(8)。太鼓からはじき出される単調なリズムは、日常的な時間の流れを停止させ、永遠の「今」を刻み続ける(2p235)。シャーマンが叩く太鼓のリズムは、身体に内包されている自然のリズムの記憶を呼び覚まし、増幅させるアンプのような役割を持つ(9)

 シャーマンにとって、太鼓は重要な意味を持つ。太鼓を「魂」の乗り物と位置づけている地域すらある(8)。そして、中世ヨーロッパやモンゴルにおいては太鼓を所持することそのものが「麻薬」を所持するかのように禁止されていた(2p235)

中南米のシャーマンは幻覚植物を利用する

 アジアのシャーマンたちが踊りや祈り歌を通じて変性意識に入っていくのに対して、南米、とりわけ、中南米の原住民たちは、1万年以上も前から幻覚植物を利用してきた(6,7)。幻覚物質はアマゾン流域では何千年も先住民たちの重要な文化の一部となっている(3p61)

幻覚植物ペヨーテとメスカリン

 1901年に哲学者、心理学者、ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842〜1910年)は、亜酸化窒素ガスを吸引することでトランス状態に入り、意識と現実との関わりについて形而上学的な洞察を得た(3p149)

20160618–aldous-leonard-huxley.jpg それ以降、先進国におけるサイケデリック・ハーブの時代は、大きく三つに分けられる。まず、着目されたのがサボテンに含まれるアルカイド、ペヨーテである(2p268)。メキシコのインディアンは、幻覚性物質を含む幻覚サボテンを利用してきたが(7)、19世紀末に学名が付けられ、有効成分のメスカリンが分離された。1953年に作家、オルダス・ハクスリー(Aldous Huxley, 1894〜1963年)の『知覚の扉』はメスカリンを摂取した体験で産みだされたものだが(2p268,3p150)、その後もハクスリーは、メスカリン、シロシビン、LSD等を体験し「脳や神経系、感覚器官の主な機能は、情報を産み出すのではなく、捨てる減量バルブとして働くことで私たちを守ることが目的である」との仮説を立てる(3p150)。メスカリンはヨーロッパの知識人たちの間で流行し、サルトルの『嘔吐』もメスカリンの産物と言えるかもしれない(2p268)。なお、最初にLSDを合成した化学者、アルバート・ホフマン(Albert Hofmann, 1906〜2008年4月29日)も1983年にハクスリーと同じく「LSDの影響で脳が生化学的に変化することで、受信機がふだんの日常生活とは異なる波長にあうことで、別の現実が出現してくる」と述べている(3p151)

LSDはセロトニンの抑制を外し超越体験を引き起こす

 1950〜1960年代にかけては、LSDの臨床実験や研究がなされたが、LSDで経験される「変性意識状態」が、宗教で言われてきた神秘体験と極めて類似していることが明らかになって来た(5p53)

 そのメカニズムの中核には、やはりセロトニンを神経伝達物質とする神経回路がある(5p53)。アーノルド・マンデル(Arnold J Mandell)博士によれば、セロトニンが生産される「縫線核」は原始的な脳の部位や脳幹にまたがっているが、LSDをはじめとする幻覚物質は、セロトニンと拮抗的に働く。このため、海馬のCA3細胞へのセロトニンの抑制が失われる。このため、CA3細胞の活動は活発化し、海馬−中隔において、ゆっくりとしたアルファー波やシーター波の脳波が発生する。さらに、海馬−中隔で同期化が起こり、前頭葉においても同期化が起きていく。結果として、LSDは左脳と右脳の融合を通じて超越体験がもたらされる(5p54)

マジック・マッシュルーム(シロシビン)もセロトニンの抑制を外す

 1960〜1970年代のサイケデリックの黄金時代にLSDと並んで着目されたのが(2p268)、マジック・マッシュルームとそこからアルバート・ホフマンが分離したシロシビンである(2p268,5p54)。シロシビンも、セロトニンとよく似た分子構造を持つ。このため、セロトニン・レセプターの働きを強める(7)。そこで、セロトニンの抑制作用が抑えられ、海馬に影響し、側頭葉が刺激される。その結果、情動や視覚中枢のブロックが解放され、抑圧されていた無意識の情動が浮上して幻覚体験が生れる(5p56)

 20160618–Sabina.jpgシロシビンも後期旧石器時代にヨーロッパで洞窟壁画を描く触媒になった可能性があるとされているが(3p155)、現在、このキノコを用いる伝統を持っているのは、中米の先住民だけで(2p268)、マヤやアステカ等のメキシコ文明においてもシロシビンやシロシンを含む100種類以上の幻覚きのこ「マジック・マッシュルーム」が儀式や治療に用いられてきた(7)。菌類学者G・ワッソンとLSDの生みの親アルバート・ホフマンよって見出されたマサテコ族の女性シャーマン(クランデラ)、マリア・サビーナ(María Sabina, 1894〜1985年)はヒロインとなり(2p268,2p287)、彼女の住むメキシコ・オアハカ州の山村、ワウトラ・デ・ヒメーネスはヒッピーたちの巡礼地となっていた(2p268)

セロトニンと類似したジメチルトリプタミンで幻覚を起こすアヤワスカ

 そして、第三の波がアヤワスカ(Ayawaska)である。アヤワスカは1960年代に最強のサイケデリックスを探し求めていた作家、W・バロウズがすでに記述しているが、熱帯雨林からやってきた神秘的なハーブというイメージが、エコロジーやアーバン・シャーマニズムと重なって人々の心を捉え、流行し始めたのは1990年代に入ってからである(2p269)

 幻覚植物アヤワスカとは、インカのケチュア語で『魂の蔦』あるいは「死者のツタ」を意味する(3p60,4p80)

 アマゾン川流域に自生するキントラノオ科のつる植物バニステリオプシス・カーピ(アワヤスカ)に、ジメチルトリプタミン(DMT)を含む植物、プシコトリア・ウィリディス(チャクルーナ)の葉を加えて煮出して作られた飲料である(3p62〜63,2p156,6,7)

 アヤスワカの有効成分DMTは、脳内の神経伝達物質セロトニンと類似した構造を持つ。このため、脳に作用して意識を変容させる(4p46)。DMTは、ある種のヒキガエルやヒトの血球等にも存在する物質で(10)、DMTは幻覚を引き起こすが、普通は、胃の中に存在する酵素、モノアミン・オキシダーゼがこれを分解し、不活性化している。けれども、ツタには、この酵素の阻害化学物質が含まれているため、DMTをうまく作用させるのである(3p62〜63,3p156)。人類学者、ジェレミー・ナービーはこう述べる。
「アマゾンには8万種もの植物がある。うち、幻覚をもたらす低木の葉を選び取り、幻覚作用を妨げる酵素を不活性化する物質を含むツタと組み合わせている。どうして、こういうことを知っていたのかと尋ねると『幻覚性植物から直接この知識をもらった』と彼らは言うのである(3p62〜63)

 民族植物学者、リチャード・エバンス・シュルツも驚いている。

「化学や生理学の知識がない原始社会の人々がなぜ、モノアミン・オキシターゼ阻害成分でアルカイドを活性化する解決策に出会ったのか不思議と言わざるを得ない。実験の繰り返し。おそらく違うだろう。組み合わせの数があまりにも多すぎる」(3p64)

アヤワスカでUFOによる拉致体験ができる

 1991年に全米で実施された世論調査から、成人の約2%がUFOによる拉致体験をしていることが判明したが(3p162)が、拉致されたと信じる人々が最も頻繁に報告している事例が、エイリアンから異物を体内に挿入されたという体験である。1961年に車で走行中に宇宙人に誘拐されたことで知られるベティとバーニー・ヒル夫妻の事例でも、長い針をヘソから挿入されたと述べている(3p165)。奇妙なことに、狩猟採集社会の民族史や人類学の研究からは、頭部や身体に水晶を挿入されたり、四肢を切断されたり、脳や目を摘出されるといった体験が記述されている(3p158)。オーストラリアでは、精霊がやってきて内蔵を入れ替える手術を施した後、呪力を持つ石や蛇を体内に埋め込んでシャーマンに変身させる伝説が各地の先住民社会に見られる(2p101)

 UFO拉致体験では、空に引き上げられる体験が多いが(3p190)、シャーマンの入門儀礼でも、神々や精霊の領域は空にあるために空の旅の体験事例が多い(3p186)。オーストラリアの北西部のシャーマンは「空気のロープを使って空にいく」と語り、クン・サン族も「紐やロープを用いて空の旅を行う」と主張し、クリン族やクルナイ族のシャーマンは「身体からクモの巣のように細い糸が出て、それを伝って天界に昇る」と述べている(3p190)

 明治大学の蛭川立准教授は、ペルー・アマゾンのシピボ族のシャーマン、マテオ・アレバロ氏から、アヤワスカの儀式の中で、緑色をした小人の異星人に誘致された経験を聞いているが(2p100)、アメリカのグレート・ベーズンの先住民のシャーマンは「小さな緑色の人」を守護霊として持つ(2p101)。そして、ハート型の頭を持つ小柄な宇宙人グレーとそっくりのイメージは、後期旧石器時代のヨーロッパの洞窟壁画やクン・サン族も描いている(3p199)

 同時に、エイリアンは、動物やエイリアンと動物の両方の特徴を持つ姿で出現することが多い(3p200)。ブラジルのイピフマ族のシャーマン、ベルナルド・ペイホト博士は人類学の研究者でもあるが、UFOに拉致された体験も持ち、グレイは、イブヒマ族がフクロウの姿をした「イクヤ」と呼ぶ精霊だと明言している(3p204)

33Rick Strassman.jpg ニューメキシコ大学の精神医学者リック・ストラスマン(Rick Strassman, 1952年〜)教授は、計60人以上のボランティアの被験者に対して400回以上に渡ってDMTを静脈注射で投与する実験を続けて来た(3p153,11)。その結果、被験者の半数近くが地球外生物のエイリアンに遭遇したという(11)。ストラスマン教授は、このことから、ハクスレーと同じく、幻覚剤が受信機としての脳の波長を変え、目に見えない存在をかいまみせると述べている(3p153)

33Mckenna.jpg 米国の幻覚剤の研究家であるテレンス・マッケナ(Terence McKenna, 1946〜2000年)氏もDMTはエイリアンがいる異次元に誘う作用があると主張している(11)。このことから、UFOの目撃やエイリアンから誘拐されたといった体験は、変性意識状態から生じる体験だと考えることが最も理解しやすい(3p163)

幻覚物質を用いて手術を行っていた古代人

20160126William Laughlin.jpg 先住民の医療技術には驚くべき高さの水準のものがある。例えば、アリューシャン列島に住む先住民アリュート族をコネチカット大学のウィリアム・ラフリン(William S. Laughlin, 1919〜2001年)教授が調査したところ、涙腺、虫垂、脾臓等、360もの身体部位の単語を持っていた。アリュート族は、狩猟民で、多くの動物を解体しては衣服や容器を作っている。人間と身体構造が似ているラッコも盛んに解剖し、死因が不明な場合は検屍解剖もしている(1p171)

 けれども、アリュート族はただ外科手術を行うだけでなく、中国とよく似た「気」の概念を持ち、鍼で多くの病気が治療できることを知っていた。また、マッサージも行い、格闘技も発達させている。鍼、気、そして、武術にまで共通するとなるとただ事ではない(1p176〜177)。このため、ラフリン教授は、伝統医療は、アリュート族が独自に発達させたのではなく、北東アジアのモンゴロイドをルーツとする先史時代にあるのではないか、と考えている(1p178)

 世界の各地の先住民社会では、儀式としての人体の変形がごくあたりまえのように行われている。顔面や頭部の変形も各地でなされ、コロンブス自然のチリには顔面を変形させるための器具さえあった。古代ペルーでは、頭蓋骨に穴をあける穿頭術も発達していた(1p173)。T・D・スチュアートが214の頭蓋骨を調べた結果、完全に治癒したものが55.6%、治癒の初期段階にあるのが16.4%で、治癒痕跡が見られないものは28%だった。別の400の頭蓋骨の同様の調査でも62.5%が治癒している。

 実はこれは、驚くべき治癒率である。ヨーロッパで近代的な麻酔法や消毒法が導入され、死亡率が43%から14%に下がったのは19世紀半ば以降のことで、それ以前の18世紀には致死率が100%に近い難手術だった。このことから、穿頭術にかけては、古代ペルーは、ヨーロッパよりも優れていた(1p192)

 これも、精神活性物質が関係している。例えば、チョウセンアサガオには強力な薬効や精神作用があるが、ニューメキシコ州の先住民、ズーニー族は、様々な外科処理の前にこの薬草を用い麻酔に使っているのである(1p180)

農業は幻覚物質を得るために始まった?

 人類は石器時代にすでに酒を発明しているが、それよりもさらに古くから使われていた植物がある。近東の新石器時代のイェリコ遺跡では、ベラドンナ(ナス科の有毒植物)、マンドレーク、ヒヨス等、麻酔作用のある植物が最初に栽培されている(1p201,1p205)

 ケシも地中海西部では8000年前から栽培されている。また、中央アジア原産のカンナビスも5000年前に、ケシを用いた儀式がなされており、ルーマニアのクルガン文化の墓地からは焦げた大麻の種子が残っている。前5世紀にギリシアの歴史家ヘロトドスは、黒海北部の遊牧民スキュタイがカンビタスを使っていることを記録しているが、ソビエトの考古学者がアルタイ山脈にあるスキタイの古墳からカンビタスの種子を発見している。カンビタスは、中国にも及んだ。古代中国にはカンビタスを使う道士(シャーマン)の話が頻繁に登場する(1p202〜203)

 東南アジアでは精神活性物質として、コショウ属のキンマが知られるが、やはり9000〜7500前のタイ北西部のスピリット洞窟遺跡からはキンマの実が見つかっている(1p204)

 オーストラリアの先住民たちは農業をしていないにも関わらず、草の実を挽く食品加工は少なくとも3万年前から行っていた(1p239)。そして、ニコチンを含む植物ピチュリを用い、ピチュリからニコチンを引き出すため、アルカリ成分が非常に多いブロートン・アカシアを使っていた。彼らも食用植物よりも、精神作用のある植物の方を重視していた(1p205)

 北米の先住民、ブラックフット族は、農業を軽蔑して行わないが、唯一の例外がタバコである。タバコの原産地は、パタゴニア低地、パンパス、グランチャコ等、南米南部で、アメリカ大陸からヨーロッパに伝えられたものだが、8000年前に彼らが農業を始めたのは、「食料」ではなく「タバコ」を確保するためであった(1p205)

20160618–andrew-sherratt.jpg シェフィールド大学の考古学者、アンドルー・シェラット(Andrew Sherratt、1946〜2006年)教授は、農業は食料生産のために始まったという通説に疑問を投げかける。農業のルーツは食料生産ではなく、精神活性物質、精神に何らかの薬理作用を持つ物質を含むタバコ等を安定供給するためだったとの説を唱えている(1p205)

 どうも、農業も腹を満たすためよりは、心を満たす、すなわち、精神活性物質を確保するために始まったらしい。けれども、だとすれば、なぜ、古代人たちはこれほど、トリップすることにこだわっていたのだろうか。

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【引用文献】
(1) リチャード・ラジリー『石器時代文明の驚異』(1999)河出書房新社
(2) 蛭川立『彼岸の時間〜意識の人類学』(2002)春秋社
(3) グラハム・ハンコック『異次元の刻印(上)-人類史の裂け目あるいは宗教の起源』(2008)バジリコ
(4) 蛭川立『精神の星座』(2011)サンガ
(5) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(6) 2011年12月15日「君もシャーマンになれるシリーズ5〜南米のシャーマンは何を見ているのか?」生物史から自然の摂理を読み解く
(7) 2012年1月5日「君もシャーマンになれるシリーズ6〜シャーマニズムと幻覚回路」生物史から自然の摂理を読み解く
(8) 2012年2月23日「君もシャーマンになれるシリーズ8―リズムを合わせるとは?その1」生物史から自然の摂理を読み解く
(9) 2012年3月15日「君もシャーマンになれるシリーズ8―リズムを合わせるとは?その2」生物史から自然の摂理を読み解く
(10) 2012年8月2日「君もシャーマンになれるシリーズ12―シャーマン(予知・予言能力)の脳回路」生物史から自然の摂理を読み解く
(11) 2013年5月2日「君もシャーマンになれるシリーズ22〜松果体がシャーマン能力を開花させる「鍵」か?」生物史から自然の摂理を読み解く
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2016年06月17日

彼岸の生物学@ ダンスと変性意識

環境や他者とつながっていた先住民は見事に死を迎えられた

 フォレスト・カーターの『リトル・トリー』(2001)めるくまーるには、こんなシーンが出ている。

「祖父の顔に笑みが広がった。今生も悪くはなかったよ。次にうまれてくるときは、もっといいじゃろ。また会おうな。そして、祖父は吸い込まれるように急速に遠くにいった」

20160617-Ishi.jpg シオドーラ・クローバーの『イシ−北米最後の野生インディアン』(2003) 岩波現代文庫によれば、北米先住民ヤヒ族の最後の生き残りとされるイシが残した告別の言葉は「あなたはいなさい。ぼくはいく」であった。

 現在では、このような見事な死を迎えることがきわめて難しくなっている。現代人は死に対してきわめて未熟である(10p111)

 ふつう、死後の世界の観念は、誰にとっても避けられない「死」という不条理を回避するために産まれたと考えられている。身体が死んでも「自分」が残って生き続けると考えれば、この不条理を避けられるからだ。けれども、かけがえのない「自分」という発想や、刻々と迫りくる死という不安は、過去・現在・未来という直線的な時間に捉われた近代人特有のものであって、太古の人々はそうした不安はあまり感じていなかった(1p20)

20160617-Peter Berger.jpg 米国の社会学者・神学者、ピーター・ラドウィグ・バーガー(Peter Ludwig Berger, 1929年〜)ボストン大学名誉教授は、人類の宗教史をたどっていくと世界のどの地域にも類似した経験や考え方があるとし、これを「神話的基盤」と呼んだ。例えば、リアリティ全体をひとつの溶け合ったものとして認識することは、どの文化圏にも共通して見られる。そこでは、自然や人間、霊界、動物と人間との境界線は流動的であり、相互に行き来できた。人は「自己」を宇宙の一部として経験・理解していた(10p98)

 個人が明確な輪郭を持った「自我」として経験されず、部族や氏族の仲間や人間以外の環境とつながったものとして経験される神話的なリアリティの中では、死は意味をもたない。個人の輪郭がはっきりしていなければ、死の輪郭もはっきりしない(10p99)

 すなわち、自然や他者と切り離されていなかったことによって、太古の人々はまっとうに死ぬことができたのではあるまいか。そこで、まず、狩猟採集民たちの世界観を見ていこう。

太古から人類はシャーマニズムを持っていた

 ネアンデルタール人の埋葬跡やクロマニヨン人の残した壁画等、人類の精神文化史をたどっていくと「シャーマニズム」が見られる。その初源的な姿のヒントとなるのが、先住民社会等に残される「シャーマニズム」の伝統だ(3p11)

 シャーマンは世界各地域に事例が見られ、その歴史は長い(7)。「シャーマン」という言葉は、東シベリアのアルタイ系先住民、ツングース族の「エヴェンキ語」の「シャマン」に由来し、「暗がりの中で見える人」「知識と知恵のある人」(1p161,6)。したがって、シャーマニズムは、アルタイ語系諸民族の宗教的伝統と言える(1p161)

 アリゾナ州立大学の人類学者、マイケル・ウィンケルマン(Michael Winkelman)教授は、ランダムにサンプリングした47民族社会に存在する115もの呪術的・宗教的な職能者を統計的に分析してみた。すると、シャーマン、霊媒、呪医(ヒーラー)、祭司の4種類に分類できることがわかった(1p26)

 20160617-CharlesT.Tart.jpg宗教的な実践がない社会はなく、3分の2の社会に広い意味でのシャーマンが存在し、9割に相当する43社会には、変性意識状態に入る職能者が存在していた(1p27)。変性意識状態とは、米国の心理学者、カリフォルニア大学デービス校のチャールズ・タート(Charles T. Tart,1937年〜)教授の造語で、通常の覚醒時とは異なる意識状態のことを言う(5p57)。したがって、意識状態を変化させ、超自然的存在とコンタクトする文化とは、人間社会にとって普遍的な現象といえる(1p27)

エクスタシーの語源は体外離脱体験

 そもそも、シャーマンとは、自ら変性意識に入って聖なる源にコンタクトする者をいう(3p13)。シャーマンたちの他界への旅を人類学では「脱魂」「呪的飛翔」「エクスタシー」と呼ぶ。宗教学者のミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade,1907〜1986年)は、シャーマニズムを「エクスタシーの技術」と定義する。なお、エクスタシーという言葉は、気持ちいいというニュアンスで使われているが、もともとのギリシア語「エクスタス」は「外側に立つ」という意味で体外離脱体験を示唆している。体外離脱体験は、深遠な法悦感を伴うことからそういう感覚がエクスタシーと称されるようになったのであろう(1p24〜25)

脱魂型シャーマン文化が最も基礎

 シャーマンの変性意識は、「脱魂型」と「憑霊型・憑依型」とにわけられるが(1p27,1p69,3p14)、体外離脱体験によって、自我への執着を瓦解させる狭義の「脱魂型」のシャーマンは、全世界の4分の1の社会にしか存在しない。その大半は、カラハリ砂漠や極東シベリアやアメリカ先住民で、狩猟採集生活をおくってきた人々の社会だ(1p27,3p14)。そして、脱魂型のシャーマニズムには、魂の解放そのものをもたらす深さがあり、旧大陸でキリスト教や仏教が果たしていた世界観を与える役割も果たしている(3p16)。このことから、脱魂型シャーマンが最も普遍的な宗教実践の基本形であることをうかがわせる(1p27)

最古の人類クン・サン族にも微細な身体の概念がある

bushwoman.jpg 最近のDNA 人類学の発達から、人類の誕生や分化、移動についてのかなりわかってきた。アフリカ南西部のカラハリ砂漠で生きるサン人、いわゆるブッシュマンが、最も古い原型を保っている民族とされる(7p23)。とりわけ、ボツワナのドーベ地区に暮らす先住民、クン・サン族は、人類社会の原型のモデルとして注目されている。農耕も牧畜も行わず、半砂漠地帯に適応したサン族の暮らしぶりを見れば、太古の人々の生活の様子をかいま見れると考えられて来たからだ(1p221)

 もちろん、レヴィ・ストロース(Lévi-Strauss, 1908〜2009年)に言わせれば、現在存在している部族社会は、「退行現象」を起こした社会であって、そのまま歴史上の原始社会と同一ではない。現在の部族社会に見られるシャーマニズムを太古のシャーマニズムとすることには無理がある。とはいえ、史実と異なるとしても、それを参考としていくしかない(3p12)

20160206Richard Katz.jpg クン・サン族のシャーマンは、トランス・ダンスという踊りを通じて意識状態を変容させて、彼岸の世界に入っていく(1p25, 4p108)。シャーマンたちは、『ンム』と呼ばれる大変な高温と活力を発生させる能力を持つ。人類学者リチャード・カッツ(Richard Katz)博士に対して「踊って踊って踊る。すると、ンムがお腹の中に入り込んで背中を持ちあげる。すると身体が震え始めて熱くなる。ンムが身体のあらゆる部分、足の先から髪の毛の中にまで入り込む。それは神から与えられる」と語っている(2p118〜119)

『ンム』には病を癒す霊力があると考えられているが、この力は特別な人が手にしているだけではない。このため、男性の大半と女性の3人に1人は霊力を持つことを試みる。けれども、成功するのは男性の半数、女性では10人に一人にすぎない。体内の『ンム』が活性化すると身体中が沸騰したような恐ろしい体験『キア』が起こり、それをコントロールすることが難しいためだ(1p25)

 鍵となるのは、踊りであり、長時間踊っていると、臍の下にある生命エネルギーが熱くなり、脳天を突きぬけて上昇する。中国では、人間を「気」や生命エネルギーの場としての「微細な身体」として捉えてきた。けれども、興味深いことに、これを見れば、「気」やインドのプラーナに相当する概念が、最古の狩猟採集民、クン・サン族にもあり、クンダリニーの覚醒とほぼ同一の体験をダンスを通じてしていることがわかる(9p23)

シャーマニズムでは動物の精霊が重要な地位を占める

 太古のシャーマニズムでは、動物の精霊が聖なる象徴で、熊や鷲は特別重要な存在とされていた(3p22〜25)。旧石器時代の壁画が、現在の狩猟採集部族が、共通して動物霊を聖なる存在として重視していることからも、そのことがわかる(3p26)

 動物霊と交信する宗教は、アニミズムと呼ばれ、原始的とされがちである(3p26)。けれども、アニミズムが多神教に発展し、多神教が一神教へと発展していくとする図式はかなり怪しい。現存する部族社会においても至高神信仰が多くあり、狩猟採集社会の最初の神の観念も至高神であったとの主張もある(3p28)

 とはいえ、部族社会の至高神の観念には、地球生態系への深い感謝や祈りが付随する。動物の精霊が重要な地位を占めていて、上から人格神が支配するといった観念は見出せない(3p30)

外から見る人類学から自ら体験する人類学へ

 1960年代後半から1970年代にかけて、宗教人類学では大変な変化が起きた(8p52)。それまで人類学者たちは、「儀礼」を外から観察して、神話の構造分析や社会・政治組織とつなげて論じて来た。けれども、この時期から人類学者たちはシャーマンや呪術師に直接弟子入りして、自分の体験をベースに内側から儀礼の内容を語るようになったのである。この変化の背景には環境問題や戦争等、近代技術や合理主義がもたらした限界が明らかになったことがある(8p53)

20160617-Michael Harner.jpg『シャーマンへの道』平河出版社の著者、米国の人類学者、マイケル・ハーナー(Michael Harner,1929年〜)博士は、エクアドル・アマゾンのヒバロ社会において聖なる植物アヤワスカを用いたシャーマニズムの伝統と出会って衝撃を受ける。その後、北米で太古の連打という技法を学んで、独自の「ネオ・シャーマニズム」と呼ばれるメソッドを開発し(1p234,3p31)、カリフォルニアにあるエサレン研究所等でワークショップを開催している(3p31)

ネオ・シャーマニズムの変性意識では動物と出会える

 明治大学の蛭川立准教授は、カリフォルニア大学バークリー校において、ハーナー博士等が行ったワークショップに参加したところ、沖縄のガマのビジョンが見え、その中でミュウミュウと鳴く茶色い毛むくじゃらのアザラシのような動物に出会ったという(1p234)

 長澤靖浩氏も、1999年にエサレン研究所で指導を受けた濱田秀樹氏の指導するワークショップに参加した。イメージの中で洞窟をくぐり抜けてバンビと出会い(3p32)、その後、年老いたカモシカと出会う。そして、そのカモシカの胸に飛び込んだ(3p33)。また、竜宮場のような場所に案内され、援助霊であるカモシカから、大地が巨大な亀であることを教えられているという(3p34)

ホモ・サピエンスはなぜ15万年、文化を持たなかったのか

 現在、最古されるホモ・サピエンスは、エチオピアで発見された19万6000年前のものである(4p49)。彼らは、解剖学的には現代人とまったく同じ肉体に進化し、現代人と同じ高度な脳も手にしていた。にもかかわらず、象徴化の能力が示され始めるのは10万年前からであり、かつ、アフリカでしか起きていない(4p42〜4p43,4p49)

 「シンボル化」の最古の事例は約11〜9万年前に南アフリカに出現した骨で作られた道具である(4p45)。また、約7万7000年前には、南アフリカのケープ州のブロンボス洞窟で、幾何学模様が付いた赤色のオーカーや小さな貝殻に穴を開けたビーズのセットが発見されている(4p45〜46)

 オーストラリアにも古くから人類が移住している。その年代は6万年前とされるが、大洋を航海するためには高度な抽象化の能力が必要であろう。そこで、ブロンボスのオーカーの年代に近い7万5000万年前にまで遡るとする意見もある(4p47)

4〜5万年前に意識革命が起きた

 フランスのラスコーやスペインのアルタミラ等の洞窟には世界最古の芸術が残されているが、これまで発見されているヨーロッパ最古の洞窟壁画は3万5000年前のものだ(4p42)。すなわち、4〜3万年以降に突如として洞窟芸術の爆発が怒り、約1万2000年前まで続いている(4p14)

 すなわち、洞窟芸術の爆発が起こり、人類の意識革命が起きたのは4〜5万年前のことでしかない(8p57)。約25万年前に出現したネアンデルタール人は、象徴化の能力を欠いており(4p45)、ホモ・サピエンスも15万年は文化を持たなかった。すなわち、原生人類の脳の肉体構造と精神との間にギャップがあることを意味している(4p50)

変性意識状態から洞窟壁画と宗教は産まれた

 古代サン族が描いた格子、網目、梯子、ジグザグ模様の幾何学パターンは、現在のボランティアの被験者たちが幻覚物質で体験した「内視現象」やヨーロッパの洞窟壁画と似ている。そのことに南アフリカのウィットウォータースランド大学のデヴィッド・ルイス=ウィリアムス(James David Lewis-Williams,1934年〜)教授は気づき(4p105,4p108)、1988年に「現代人類学」で、洞窟壁画と宗教の起源に関して神経心理モデルを提唱している(4p57)

洞窟壁画に登場する動物は変性意識で出会った

 20160203Michael Winkelman.jpgマイケル・ウィンケルマン教授は、ペンシルバニア大学のユージーン・ダギリ(Eugene G. d'Aquili,1940年〜)博士や人類学者ウィリアム・ラフリン(William S. Laughlin, 1919〜2001年)博士が、提唱する「神経現象学」をさらに深め、脳科学とシャーマニズムの研究をつなげようと試みている(8p53)

 後期旧石器時代に起きたこの精神革命は宗教につながるが、洞窟や岩絵に描かれたモチーフは、現代人が変性意識で体験する光のビジョンと共通する。すなわち、その背景にシャーマニズム的な呪術的実践で生れた変性意識状態があったことは間違いない(8p58)

 壁画のほとんどは馬、野牛、マンモス等を描いている。このため、狩猟の対象となる動物を支配するための魔術のためだと考えられた(4p101)。けれども、洞窟に残された骨から祖先が食べていたものを知ることができるが、それは壁画に描かれたものとは一致しない(4p102)

d-ijigen07.jpg また、壁画には人間と動物とをあわせた想像上の怪物が描かれている。ギリシア語の野獣を意味する「テリオン」と人間を意味する「アントロポス」を合わせ、「テリアントロプス」と呼ばれる。例えば、約1万7000年前のフランスのトロワ・フレール洞窟には、フクロウ、狼、鹿、馬、ライオンが混ざった「呪い師」と呼ばれる絵が有名である。イタリア北部の約3万5000年前のフマネ洞窟にも人間と野牛があわさった野牛人間がある。これはフランスの約3万2000年前のショーベ洞窟のものと一致し、スペイン北部の約1万5000年前のエル・カスティーヨ洞窟のものにも酷似している(4p102)

 アフリカのナミビアの洞窟でも約2万7000年前の下半身が人間でライオンの頭部をもつ絵が発見されている。南アフリカには下半身が人間で上半身がカマキリである絵もある(P103)。南アフリカのサン族は、カマキリのイメージを含めて、自分たちの祖先が残した洞窟壁画について説明しているが、彼らによれば、壁画は部族のための情報を得るために霊界を旅したシャーマンによって書かれたという(4p107)。ヨーロッパ南西部にある300程の洞窟壁画はビジョン芸術だったのである(4p57)

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【引用文献】
(1) 蛭川立『彼岸の時間〜意識の人類学』(2002)春秋社
(2) ジェームズ・レッドフィード『進化する魂』(2004)角川書店
(3) 長澤靖浩『魂の螺旋ダンス』(2004)第三書館
(4) グラハム・ハンコック『異次元の刻印(上)-人類史の裂け目あるいは宗教の起源』(2008)バジリコ
(5) 蛭川立『精神の星座』(2011)サンガ
(6) 2011年10月27日「君もシャーマンになれるシリーズ2―シャーマンとは?予言者とは?」生物史から自然の摂理を読み解く
(7) 2011年11月17日「君もシャーマンになれるシリーズ3〜シャーマンとは?予言者とは?」生物史から自然の摂理を読み解く
(8) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(9) 永沢哲『日本トランスパーソナル心理学/精神医学会第12回学術大会基調講演:惑星的思考へ』トランスパーソナル心理学/ 精神医学vol.12, No.1, Sept, 2012 p.10-p.29
(10) 片山恭一『死を見つめ、生をひらく』(2013)NHK出版新書
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2016年04月19日

シューマッハーの人生論C〜記述する科学と指示する科学

死んだ自然に依存する指示的科学

 科学は大きく2グループにわけられる。物理化学のように、一定の成果を出すためには何をすべきかを答えて指示する「指示的科学」(p152)と、植物学のように現実に見えるものや経験されるものを記述する「記述的科学」である(p151)。指示的科学はプラグマティズムで(p155)、それを発展させる手段は数学である(p153)

20160419Northrop.jpg 科学のほとんどは「指示的科学」に関わることから、この二つの違いに気づいている人は少ない(p152)。例えば、米国の哲学者、フィルマー・ノースロップ(Filmer Stuart Cuckow Northrop, 1893 〜1992年)はこう述べている。

「どのような科学も正常かつ健全に発展しているときには、帰納的な研究方法から出発し、形式論理と数学が最も主要な役割を演じる演繹的に定式化された理論をもって成熟に達する」(p152)

 確かに、ノースロップの指摘は指示的科学については正しい(p152)。そこで、物理学や化学は最も成功した学問であるのに対して、生命科学は社会科学や人文科学と並んで不確実性に満ちた未成熟な学問だと考えられている(p151)。記述的科学をいまだに未熟な段階にある指示的科学だと見なす傾向はデカルト以降、ますます強まっている(p171)。けれども、記述的科学と指示的科学との違いは成熟や発展にあるのではない(p152)

事実を記載する記述的科学

 記述的科学のミッションは、自分が自然界の主人であり所有者であるというデカルト的な態度ではなく、謙虚な態度で自然を記述することにある(p159)

 オッカムの剃刀(Ockham's razor)とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする指針である。14世紀の哲学者・神学者のオッカムが多用したことから有名になったが、オッカムの剃刀のような限定は、真実を貴ぶ記述とは両立しえない(p158)。指示的科学の方法論は、動植物学や地理学のような記述的な科学的の方法論には適応できない(p152,p157)

死んだ対象だけを扱うときに実験は有効となる

 例えば、実験が有効な研究方法でありえるのは、研究対象がそれによって破壊されない場合に限られる。無生物は破壊されないから、実験を行うことが可能である。けれども、生命、意識、自覚は簡単に破壊されてしまう。そこで、実験が不可能となる(p150)

 すなわち、指示的科学は自然の死んだ側面にだけ依拠している。数学には、ある種の荘厳なまでの美や魅惑的な真理の表徴ともとれる魅惑的な優美さがあるが、生や死の猥雑さ、希望や絶望、歓喜や苦悩がない。それは、数学や物理学を始めとする指示的科学は、その研究対象を生命がない面に限定しているからである(p154)

死んだ対象を扱う物理科学の世界観は荒涼としたものとなる

「生となんぞや」という疑問に指針を与えるのが哲学であるとすれば(p154)、そうした哲学はこうした指示的な科学からは生れてこないし、生き方の指針も与えない(p154,p155)。そこから導き出される技術を生活に生かすことはできるが、それが善に帰結するのか悪に帰結するのかは科学が関知するところではない。したがって、指示的科学が倫理的に中立であるというのは正しい(p155)。西洋文明はより低い次元での能力は圧倒的に協力だが、人間の問題を扱うことになれば、無知で無能なのである(p112)

記述的科学には意味を認めるものと偶然しか認めないものがある

 記述的科学も事実が際限なく積み上げられていくと理解・把握できなくなるため、どうしてもこれを分類し、一般化し、事実に筋道をつける必要性が生じてくる。この場合に記述的科学の包括的な理論は2グループにわけられる。

@ 記述された対象の中には理性や意味が働いている

A 記述された対象の中に偶然しか認めない(p160)

 この区別は、進化論を考察する際に重要となってくる(p161)。進化論においてチャールズ・ダーウィンは以下の二つのことをしたといわれる。

@創造についての聖書の伝説を否定した

A進化の原因、自然淘汰は神の導きや創造ではない自動的なものであることを明らかにした

 20160419Karl Stern.jpg動植物を育ててみれば、自然淘汰を含めて「淘汰」が変化を産むことは明らかである。したがって、淘汰が進化という変化の要因であることが証明されたということは科学的に正しい。けれども、進化が神とは無関係の自動作用であることは証明されない(p162)。精神科医カール・スターン(Karl Stern, 1906〜1975年)はこう述べている。

「歴史のある時点で生命の発生にきわめて適切な構造を持つ分子群が生れ、その時点から膨大な時間が流れ、自然淘汰のプロセスが進み、憎しみを抑えて愛が、不正を排して正義が選びとられ、ダンテのような誌を書き、モーツアルトのような音楽を作曲し、ダ・ヴィンチのような絵を描ける人間がついに生れた。このような宇宙生成論は狂気の沙汰である。まったくこのような考え方は精神分裂病患者の考え方とある面で良く似ているのである」(p164)

進化論は人類が偶然の産物だと考える宗教である

 「創造主」「宇宙の設計者」といった直接的に観察できない原因を想定せず、観察できる事実から現象をどこまで説明できるのか試みることは、方法論としてははなはだ実りが多い(p165)。けれども、進化論は、逆に人類を含めたすべての自然が適応と生存のための自然淘汰による功利主義的なメカニズムによる偶然の所産であるとする。これは、19世紀の唯物論的な功利主義の最も極端な産物である。すなわち、進化論は、人類を向上させる高次の意義を排除して、人類を堕落させる科学的根拠がない宗教と言える(p165,166)

 イギリスの作家、マーチン・リングス(Martin Lings, 1909〜2005年)はこう警告している。

「近代世界で宗教的信仰心が失われた原因を探っていくと、進化論がなににもまして直接的な原因であることがわかる。驚くべきことと思われるかもしれない。けれども、論理的に考えれば、進化論と宗教のいずれか、つまり、人間の堕落の教義をとるか、人間向上の教義をとるかしか道はない。そして、何百万人という現代人が「科学的に証明された真理」だとの理由で進化論を選んでいる。その理由は現代人の多くが進化論を学校で教えられたからである」(p167)

人は宗教なしには生きられない存在である

 19世紀の物理学から見出されたのも、生命とは宇宙の偶然であり、意味も目的もないことであった(p154)。すなわち、こうした科学的な世界像は荒廃したものとなり、文明も同様に死滅するであろう(p171)。そして、この偽りの思想を脱却しえなければ、それは文明の崩壊すら来しかねない。なぜならば、いかなる文明といえども、安楽と生存のための功利主義を超えた意味や価値への信仰、すなわち、宗教的信仰心がなければ生き延びられないからである(p166)。宗教なしに生きるという現代の実験は失敗に終わった。人は宗教なしに生きることは不可能なのである(p198)

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【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社


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2016年04月18日

シューマッハーの人生論B〜内なる自分を探ることが大切なわけ

人間関係がまずければ人生は傷つく

 ジョン・ダン(John Danne, 1571〜1631年)は、「誰もがそれ自体で自足した島ではない」と語った(p125)。私たちの人生は、他人との関係性によって育まれもすれば、傷つけられもする。他人との人間関係がうまくゆかなければ、どれだけ健康で、財産があって、権勢に恵まれていたとしても幸せとは言えない。誰もが忘れたがっているとはいえ、そのことをよく承知している(p121)

良好な人間関係は他人をどれだけ理解できるかにかかっている

 それでは、この人間関係は何によって作られるのであろうか。それは、私たちの他人を理解する能力、そして、他人が私たちを理解する能力に依存している。

 ここには次の4ステップがある。

@ 話し手は自分が伝えたいと望んでいる考えの内容を知らなければならない

A 話し手は自分の内なる考えを正確に「表現」しなければならない。これを第一の翻訳と呼ぶ(p121)

B 聞き手は話し手のシンボルを正しく受け取れなければならない(言語が理解できる)

C 聴き手は受け取ったシンボルを統合して、自分の考えにまとめあげなければならない。これを第二の翻訳と呼ぼう(p122)


 問題は、この二つの翻訳で多くの間違いが起きることである(p122)。例えば、知識には四つの分野がある。

第一分野:内なる自己:私は何を感じているのか

第二分野:内なる他者:あなたは何を感じているのか

第三分野:外なる自己:私は他人からどのように見えているのか

第四分野:外なる他者(外なる世界):あなたはどのように見えているのか(p91)

 このうち、我々が直接ふれることができるのは、第一分野と第四分野の知識だけである(p94)。すなわち、他者が何を感じているのかを直接知る手立てはできない(p123,p172)。おまけにたいていの人は、自分の内側のことを他人に知られたくないと思っている(p120)。それでは、人生を共にしている人々の心の中のことをよく理解できるようになるためにはどうしたらよいのだろうか(p123)。 

古代の教えによれば自己を深めるほど他人を理解できる

 注目すべきことに、すべての古来の教えは、この問いかけに対して同じ答えを出している。すなわち、自分について知る度合いが深いほど、他人のこともよく理解できるということだ(p123)

 例えば、肉体の痛みをはっきりと経験したことがない人には、他人の痛みはわからない。要するに「知識の第一分野」自分が何を感じているのかを深めれば深めるほど、第二分野の知識、自分以外の存在、他者の内的な体験に対する洞察力も身に付けられるのである(p124)

 自分自身を理解しない限り隣人も理解しえない。自己認識という基盤を欠いていれば、相手のことも知り得ない。他人の内的生命を尊重するためには、まず自分自身の内面生活を大切にする必要があるのである(p125)。逆に言えば、自己認識をひきあげ、自分をコントロールする努力を怠れば、必要な時に他人を助けるための他人への理解能力も失われてしまうことになる(p127)

内に引きこもる人が社会性がないと非難されるのは伝統的な知が失われた証

 にもかかわらず、こうした基本的な真理を宗教の専門家ですら忘れてしまっている(p125)。世界で危機が広がる中、誰もが「賢者」や私心なき指導者、信頼のおける助言者がいないことが嘆かれる一方で、念処、ヨーガ、イエスの祈り等を通じて内面の旅路を辿って、内的修行を積んでいる人たちは、利己的で社会的な義務に反していると批難されている。そして、人間の行動やその動機を説明するために、安っぽい心理学や経済学が流行しているのは、近代化によって、知識の第一分野、自己認識が無視されたために、知識の第二分野の能力が失われてしまっているという恐るべき証左なのである(p126)。すなわち、他者を知るための唯一の道は自己認識であり、その道を求める人を「社会に背を向けている」との理由で批判することは大きな誤りなのである(p172)。逆に自己認識の追及を怠る人は、他人の言動をすべて誤解し、自分自身がしていることもお幸せなことにほとんど知らないままに終わる傾向があるため、こうした人こそ社会にとって危険なのである(p173)

他人の目に自分がどのように映っているのかがわからなければ人間関係はうまくゆかない

 自分は他人に対してどのような印象を与えているのだろうか。誰もが興味は持つ(p142)。そして、自分が他人に対して与える影響がわからない限り「己の欲せざるところは人に施すなかれ」という戒めも意味をもたないし、他人と調和が取れた関係を構築することも望めない(p140)。健全な自己認識を持つためには、自分の内的世界を知る(第一分野)と同時に、他者が私をどのように見ているのか(第三分野)の知識を持たなければならない(p139)

 けれども、これも大変に難しい(p140,p142)。なぜならば、自分が間違いだらけな存在であることを思い知らされるのは苦痛だし、そうした不快感から身を守るために人間は数多くの防御機能を備えている。とかく、人は自分の欠点には目をつぶり、他人の欠陥をほじくり出すことになりがちだからである。それでは、どうすればこの課題を遂行できるのだろうか(p142)

客観的に評価せずに自分を観察する

 20160418Maurice Nicoll.jpgイギリスの心理学者モーリス・ニコル(Maurice Nicoll,1884〜1953年)博士によれば、それは意識を自覚のレベルまで拡大することである(p143)。すなわち、いま、起こりつつあることに善悪の色づけをすることなく、感情を一切排除して評価せずに客観的に自己観察することである(p140,p144)。他人が私を眺めるように、自分自身を眺めることである(p140)

 我々は社会的な存在である。誰もがただ一人で生きているわけではなく、他者とともに生きている。そして、他者とはあるがままの自分を映し出す一種の鏡である(p145)。自分の矛盾は他人には気づけても自分にはわからない。これは、逆に言えば、第三分野の知識を身に付けられれば、他人の眼で自分自身を眺めることができ、自分の矛盾も発見できることになる(p143)

慈悲と利他主義という特性によって身に付けられる知識

 第二分野の知識も第三分野の知識も、自分の観察によって直接的にふれることはできない。そこで、知識の第二分野は「同情」、第三分野は「利他主義」という最高の徳性によって初めてその分野に分け入ることができる(p146)。第一分野を探求していくと自分を重視する思いが高まるが、第三分野を探求していくと、虚栄心が少なくなり、自分の卑小さに気づく(p145)。自己認識は最も価値あるように思われがちだが、内的経験を深めることだけを追求すれば無益であるどころか有害である。第一分野の知識と第三分野の知識は混同されがちだが、自己認識を第三分野の深い探究によってバランスを保つことで、他人が知るように自分自身を知ることができるのである(p172)

ニコル博士の画像はこのサイトから

【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社
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2016年04月17日

シューマッハーの人生論A〜人間は身体・心・魂から形成されている

世界は鉱物・植物・動物・人間の四分野から構成されている

 それでは、階層的な世界の構造を研究してみよう。つい最近、100年前までは、鉱物、植物、動物、人間の四分野に世界をわけるというのが最も一般的な世界の見方であった(p32)

 生物学者によれば「生命力」のようなものは存在しない。けれども、最も次元が低く死んだ存在、すなわち、無生物の鉱物と生きた植物との間には明確な違いが存在する(p33)。無生物や鉱物はまったく受動的で何も利用することができない。けれども、植物は光に向かって成長したり、水分や養分を求めて土壌中に根を伸ばすように環境に対する適応力がある(p46)。そこで、この生命力を「x」と呼ぼう(p33)

 次に植物と動物との間にもある種の飛躍が見られる(p34)。概して植物が受動的であるのに対して、動物は食料を獲得したり危険を避けたり敏速な動作を行なうことができる(p47)。動物には植物には及びもつかないことを成し遂げる力が備わっている。そこで、植物に付け加わる要素を「y」と呼ぼう。「y」は意識とも呼べよう(p34)。期待と不安、幸せと不幸といった意識によって動物の行動はより自律的となり、資源を利用する力は格段に高まる(p47)

 さらに、人間には動物と異なり、神秘的な力、自分を意識する「自覚(Self-awareness)」がある。これを「z」と呼ぼう(p35)

すると、四次元は次のように整理できる。

 鉱物=「m」

 植物=「m+x」

 動物=「m+x+y」

 人間=「m+x+y+z」(p33〜35)

 「x」に相当するものを「生命体」、「y」に相当するものを「精霊体(アストラル体)」、「z」に相当するものを「自我(精神)」とすれば、よりわかりやすくなる。物質としての身体(m)と生命「x」をセットとして生命としてみれば、人間は身体(m+x)、魂(y)、精神(z)から構成される三重の存在であることになる(p60)

近代科学は鉱物・無生物だけを対象に研究している

 物理学や化学は最低の次元である鉱物だけを取り扱う。したがって、そこには生命、意識、自覚は存在していない(p37)。近代の生命科学が異常なことは、生命そのものの要素「x」をほとんど考慮せず、生命の容器にすぎない物理的・化学的な肉体の研究と分析にだけ関心を払っていることである(p38)。すなわち、近代の唯物的科学主義では、生命や意識、自覚は、分子の複雑な配列による化学現象でしかない(p70)

 また、自然科学とは異なり、人文科学はなんらかの形で要素「y」を扱う(p38)。けれども、近代的な考え方では動物の意識である「y」と人間の自覚である「z」との間に区別があるとはされていない。このため、物理学を研究することで生命を明らかにしようと試みるのと同じように、動物を研究することで人間を明らかにしようと試みられている(p39)

世界はレベルに応じてしか認識できない

 これには理由がある。生きているものと生きていないものとの違い、生命が存在するかどうかを識別することはさして困難ではない。けれども、生命と意識との違いを識別することは難しい。そして、意識と自覚との違いを識別して認識することはさらに難しい。次元が高いものほど包括的で、より高い水準がなければ、高い水準は認識できないからである。そこで、自覚「z」の力が十分に開発されていないと、それを意識「y」の延長として受け取る傾向がある。そこで、人間は知的な動物だとかの解釈が生まれる(p40)

 それでは、人間はどのようにして周囲の世界を知ることができるのだろうか。世界が「大宇宙」であるとすれば、人間は「小宇宙」であり、自分を知ることで世界を理解することもできる。非常に古くからこう考えられてきた(p64)

 ネオプラトニズム(新プラトン主義)の創始者といわれるプロティノス(205年? 〜270年)は「知るためには対象に適した器官を必要とする。知る者の理解は知られる事柄に相応するものでなければならい」と述べた(p73)

 聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354〜430年)は「この人生における我々の一切の仕事は、神を見ることができる心の目の健康を取り戻すことである」と主張した。

 スコットランドの神学者、聖ビクターのリチャード(Richard of Saint Victor, 1173年)は「外部の感覚のみが見えるものを知覚し、心の目のみが見えざるものを見る」と語った(p73)

 ペルシアのスーフィ教の詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミー(Mevlânâ Celaleddin-i Rumi, 1207〜1273年)は「心の目は70の層をなしており、うち二つの層である肉体の視覚は断片的な知識を集めるだけに過ぎない」と述べた(p73)

 17世紀のイギリスの哲学者、ジョン・スミス(John Smith, 1616〜1652年)は「神に関する事柄を我々に正しく知らせ、理解させるものは、我々の内部に生きている神聖さの原理に違いない。我々は資格としての眼を閉じ、哲学者が知的能力と呼ぶ魂の目を開かなければならない。それは誰もが持っているのだが、活用する人は少ない」と語った(p63)

 すなわち、世界が「低次元のもの」や「高次元のもの」で階層構造をなしているように、人間が世界を認知する感覚器官や能力も階層構造をなしている(p68)。外に向かうものは「より低次元のもの」に対応し、感覚は最も外側の器官である(p70)。そこで、五感は、最低の存在の次元、無生物に対応する(p64)。感覚的な情報だけではいかなる洞察も理解も生まれない(p75)。五感はより高い次元の情報をもたらさない(p76)。これは普段は眠っている認識器官を充分に陶冶して完成させれば、これまで手がとどかなかった新しい世界、新しい意味や豊かさを発見できるが、認識器官が充分に使われなかったり、故意に無視されると、世界は、実際に持っている豊かさを減殺したカタチでしか認識できない(p91〜92)。近代科学は客観性や精緻さを求めながら、人間の認識手段を働かせることを限定してきたが、それは、黒白の非立体的なレンズで量的な観察しか行なってこなかった。こうした方法で得られる世界像は、最も下位の無生物の現象に限られてしまうのである(p92)

生命・意識・自覚の各要素は壊れやすく自覚は最も希である

 こうした上向きの分類よりも、実際の経験を元にした下向きの分類の方が理解しやすい。三要素、「x」「y」「z」は弱められて消え去るし、意図的に破壊することもできる(p36)。鉱物はどこにでもあるが、生命は地表上に薄い膜としてしか存在せず、意識は稀で、自覚はさらに稀少である(p68)。すなわち、生命、意識、自覚と上に進むにつれて稀少で脆弱なものとなる(p42)。物質「m」は破壊できないが、生命は稀少で不安定で、「x」を取り去れば地に帰り、生命のない物質「m」、すなわち、遺体だけが残る。同じように、生命はいたるところに存在するが、意識は非常に稀少で、かつ、壊れやすい。さらに、自覚となると最高に不安定である(p42)

鉱物・植物・動物・人間と統合度と自由度が高まっていく

 鉱物、植物、動物、人間と進むにつれて、統合に向けた変化が見られる。無生物は統合されていないため簡単に分割できる。植物も内的統一が非常に弱いため、一部を切り離しても別個の存在としていき続けることができる。けれども、動物は高度に統合された存在であるためバラバラに切り離されては存在できない(p51)。とはいえ、精神面の統合はほとんど見られず、記憶力も弱く知性もぼんやりしている(p52)

 そして、統合は自由を創造することも意味する(p52)。無生物や鉱物はあるがままであり、それ以外のものに発達していくことはできない(p50)。けれども、鉱物、植物、動物、人間と進むにつれて、受動的な行動から能動的行動への変化が見られる。これは、自由とも密接に関係している(p49)。統合が高まるにつれて、存在は外的力によって動かされる単なる「客体」であることから、自ら外側の世界に働きかける「主体」となっていく(p52)

自覚していない人間は機械であって自由ではない

 とはいえ、もっとも自主的で自律的な人間であっても多くの場面で環境条件に左右され、受動性が強く残っている(p47)。人間の行動を綿密に観察すれば(p50)、人生のほとんどが何らかの形の隷属状態下におかれ(p102)、人間特有の「自覚」という力が眠っていて(p50)、動物と同じように外からの影響に対応して機械的なプログラムどおりにふるまっているだけであることがわかる(p50,p102)。人間はプログラムに従って働いているという自覚はない(p112)。けれども、どれだけ自分が洗練され、法をよく守る良き市民だと考えていたとしても、普段はただ決められたプログラムを実行しているだけである(p126)

 古代の教えをコンピュータを用いて現代流の言葉で表現すれば、人間の行動は二つの要素、コンピュータのプログラマーとコンピュータからなっている。プログラマーがいなくてもコンピュータが機械としては円滑に作動するのと同じように意識の要素「y」も、自覚の要素「z」がなくても完全に働くからである(p112)

20160417P.D.Ouspensky.jpg ロシアの神秘思想家、ピョートル・デミアノヴィッチ・ウスペンスキー(Pyotr Demianovich Ouspenskii,1878〜1947年)は著作『人間に可能な進化の心理学』で、人間は三つの異なる状態のいずれかにあると考えた。

@注意力を失っていたり注意が散漫な状態になっていれば、機械的な状態となっている

A注意力が観察する対象に集中してふらつかない状態になっていれば、情緒の状態にある

B注意力が意志によって制御されて対象に没入している状態になっていれば、理知の状態にある(p102)

 人間がその力を奪われ惨めな状態となって、人間的存在以下のものになるのは、その注意力が集中せず、たえずさまよっているからなのである(p103)。つまり、常に自覚していなければ、人間は自分が自由な意志を持ち、自分が意図したことを実行できると思っていても、それは空想にすぎず、実際には(p104)過去から蓄積されてきた習慣の影響によってその行動は規定されている(p50)

 そして、ウスペンスキーは、こう述べている。

「我々が知っている人間は完結した存在ではない。人間は一定のところまでは自然に成長するが、そこで放り出されてしまう。そこからは、人間自身の努力と知恵でさらに成長していくか。生まれたままの状態で生き、そして、死んでしまうか、あるいは、堕落し成長の能力を失ってしまうかのいずれかである。人の進化とは、普段は開発されないままでひとりでには伸びることができない内的な性質を伸ばすことなのである」(p98)。それでは、どうすれば、この人間の能力は開発させることができるのであろうか(p100)

人間は注意して自覚している瞬間だけ自由である

 内に向かうことは「より高次元のもの」に対応し、より自覚的な努力が求められる(p70)。人間に追加された「z」は自覚と深くつながっている。そして、自覚は「注意」をどこに向けるのかと深く関係してくる(p100)。たいがい「注意」は外的な音や色に捉われているか、自分自身の内部にある期待や関心、恐れや悩みのとりこになっている。こうした状態でいるとき、人間は非常に機械に類似している(p100)

 逆に言えば、人間は「自覚」の力を働かせ、「注意」を自分に向けているときに初めて、「生かされている」のではなく自ら「生きている」のであり、自由の次元に達することができると言える(p50,p100)。自覚のある瞬間にだけ、人間には自由が訪れると言える(p104)

 これは古代の様々な教えの中でも最も重要視されてきた問題である。同時に、近代世界でほとんど無視され歪曲されている問題である(p100)。実は、古代の各宗教は、どうすれば、この自覚を継続させ、かつ、制御できるかの様々な方法を発展させてきた(p104)

普段のシンキング・マインドを除外したときに真我は出現する

20160417walter stace.jpg その方法を真剣に考察した近代哲学者はほとんどいない。そのごく稀な例外がプリンストン大学のW.T,スティス(Walter Terence Stace, 1886〜1967年)教授であろう。教授は『神秘主義と哲学』で、世界各国の文化、宗教、地域、時代とまったくかかわりなく内的な体験が共通していることを指摘する(p115)。教授はこう問いかける。

「一切の感覚、次には抽象的な想念、思惟、意思、概念を排除していったら意識には何が残るであろうか。一切が失われただ空、虚のみとなるであろう。ア・プリオリには意識がまったくなくなり、眠りに陥るか無意識状態になるは、と思われよう。ところが、世界中に何千人といる内的神秘家たちが異口同音に語るところによれば、空の境地に達した後に起きるのは無意識状態とはおよそ異なり、まったく反対の純粋意識状態が生まれてくるのである」(p116)

「我々の日常意識はつねに対象やイメージを持っている(p117)。そのすべての心理的な対象が排除され、自己が対象を捉えていないときには、自己は自己自身を意識するようになる。すなわち、自己が示現してくるのである。普段は隠れていた純粋な自己が前面に出てくるのである」(p118)。要素「z」は、意識という要素「y」が舞台の中央から去ったときに初めて姿を現すと言える(p117)

内なる自己を探求する心理学

 心理学はおそらく最も古い学問分野である(p98)。そして、古来の心理学は、「正常」に戻さなければならない病人を対象とするのではなく、普通の人間を対象としてきた。そして、人間を「救い」「悟り」「解脱」という山の頂にたどり着くためのこの世の「巡礼」であると見てきた。キリストは「われは道なり」と語ったが、中国の道教にも「タオ(道)」とい考えがあり、仏教の教えは「中道」と言われてきた。すなわち、多くの宗教の教えの中心には「道」という考え方がある(p99)

 この人生を生きていくために、ブッダの最後の言葉は「怠らず努めよ」であった。そして、チベットの祖師たちはこう教える。十分に幅広い哲学が必要であり、精神を集中させる瞑想が不可欠であり、生活の技術が不可欠である(p23)。

身体を安定させることが心の内側を探す第一歩

 米国の心理学者ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842〜1910年)は、情緒が身体感覚以外の何ものでもないとしてこう述べている。

「私たちは悲しいから泣き、怒るから打ち、恐れるから震えるのではなく、泣くから悲しく、打つから怒り、震えるから恐ろしいのである」(p127)

 身体が制御されずにふらついていると心も落ち着かない。自己認識を得るために、古代のどのメソッドも姿勢や身振りに多くの注意を払っているのはこのためである。一方、内的な落ち着きと静けさが達成されれば「コンピュータ」は姿を消して、プログラマーが真価を発揮し出す。身体を制御することが思椎の働きを制御するための第一歩なのである(p128)

シンキング・マインドを落ち着かせるためのヴィッパサナー

 環境は常に直面する現実だけにとどまらない。自分の心の内側からわきあがってくる想念も統御しなければならない。あらゆる宗教が説く、最も大切な教えによれば、「明視」、観(ビッパサーナ)を手に入れるためには「シンキング・マインド」を落ち着かせなければならない(p108)

20160417Nyanaponika Thera.jpg ドイツ出身でスリランカのテーラワーダ仏教の僧侶となったニヤナポニカ・テーラ(Nyanaponika Thera, 1901〜1994年)は、仏教の核心は「サティ」にあるとしてこう述べている。

 「ブッダが念処経(Satipatthana)の中で説いた正しい精神集中を体系だてて涵養することが最も効果のある方法である(p104)。そして、正しい精神集中を身に付ける要諦は、とらわれない注意力にある。とらわれない注意力とは、内側から起こってくるものを認めた瞬間にはっきりと意識することである。そして、観察される事実に対して、行動や言葉で反応せず、好悪の感情や判断、反省といった心の中での反応も一切加えないことである。この捉われない注意を実践しているときに、何らかの反応が心の中で起こってきたとしても、その反応そのものが注意力の対象として拒否も追求もされず、しばしの間、心にとどめられた後に、捨てられるだけなのである」(p105)

シンキング・マインドを脱落させるための内なる祈り

 西洋科学の方法はそれを学んだ誰もが使えるが、ヨーガの科学的方法を駆使できるのは、規律と系統的な内面作業によって自分を整えた人だけである(p132)。そして、インドの手法がヨーガであるとすれば、キリスト教の手法は「祈り」である(p108)。内なる祈りの要諦は、精神を没入して神の前に立つことだが、ギリシアとロシア正教によって完成される(p109)。キリスト教の伝統において発達したこの方法は仏教とは違う言葉や表現となっているが、帰するところはまったく同じである(p106)。仏教ではヴィッパサナー(止観)、明視を呼ぶものをキリスト教では高い次元の存在との邂逅と呼ぶ(p128)。そして、自己本位の自己中心的な「我」が立ちふさがっている限りは、何ごとも達成されず何ごとも成就しない。そして、我から離れるためには「飾りなき心」で神に注目しなければならない(p106)

 ハーモンズワース『不可知の雲』(1951)現代思想社はこう語る。

 「想念の干渉が敵である(p106)。良い想念か悪しき想念かは問題ではない。なぜならば、シンキング・マインドは意識の存在の次元に属し、自覚を持った存在という一段と高い次元のものではないである。仏教ではその種の想念を「戯論」と呼んでいる。シンキング・マインドから「観想」へのシフトが受容なのである(p107)

20160417theophan recluse.jpg 正教会の主教、聖人、隠遁者フェオファン(Theophan the Recluse, 1815〜1895年)はこう述べる(p110)

「祈りによって精神を集中するには、注意力を心の中に注ぎ込まなければならない。頭の中では絶えず様々な想念がひしめいているので、ひとつのことに集中する暇がない。ところが、注意力が心に降りて来ると、魂と身体の一切の力が心の中の一点に集中してくる(p110)。直ちにある感動が心の中に現れてくる。最初はほんのりとではあるけれども、まもなく暖かい感情となってゆき、注意力はそれにひきつけられて行く。やがては注意力そのものによって心の中に暖かみが生まれてくるようになる(p111)

オカルト体験とスピリチュアルなものとの区別が必要

 最近では、別の意識状態への関心が高まっている。けれども、人類の英知の偉大な伝統、宗教に対する深い畏敬からではなく、「水瓶座のフロンティア」や「意識の進化」のように人生の倦怠感を逃れるための目新しい刺激を求めるものになってしまっている。すなわち、オカルトとスピリチュアルなものとの区別がまったくされていない(p129)

20160417mahasi.jpg 仏教のアナパナ・サティ(念処的瞑想)の優れた教師、マハシ・サヤドー(Mahasi Sayadaw,1904〜1955年)師は、内面に集中する努力を行えば、ほとんど例外なしにありとあらゆるオカルト的な異常体験が起きるが、それを求めてはならないと警告している(p129)

「明るい光が訪れる。ある人にはランプの光に見え、他の人には稲妻の閃光や月や太陽の輝き等に見える。ある人の場合はそれは一瞬のうちに消え去るが、他の人の場合はもっと長時間続き、恍惚状態が訪れる。そうした輝かしい光を伴った恍惚や幸福を感得するや『我こそはまさに現世を超えた成道に到達したに違いない』と信じる。これは、道ではないものを道とあやまり見たものであり、洞察力の堕落なのである」(p130)

 16世紀のスペインのカトリック司祭、十字架のヨハネ(Juan de la Cruz, 1542〜1591年)もこう述べている。

「こうしたことは神の道を求める過程で肉体的感覚として起こるものであるが、それに頼ったり、それを受け入れたりしてはならず、常にその善悪を判断しようとせずにそれから逃れるべきである(p130)

人はプログラマーとプログラムで動いている機械の二要素からなっている

 20160417Wilder Penfield.jpg世界的に著名な神経生理学者、ワイルダー・ペンフィールド(Wilder Penfield, 1891〜1976年)マギル大学教授は、死の直前にその所見を『脳と心の正体』としてまとめた。そして、教授は「心は脳から独立して働きを営むと考えられる。コンピューターのプログラマーが特定の目的のためにどれほどコンピュータに依存していても、それから独立して働くのとおなじである」と述べ、脳の神経作用で心は説明できないと述べている(p113)。ペンフィールド博士の考えは、スティス教授の考えは同じである(p118)

プログラマーとして目覚めるためにはヨーガ・念処・祈りが欠かせない

 目覚めたならばもうその人はプログラムで動かすことはできない。自分自身がプログラムを組むからである(p112)。世界の宗教の教えは、純粋な自己に目覚めることなのである(p118)。プログラマーがコンピュータよりも高い次元であるように、自覚と呼ばれるものも意識よりも高い次元である。そして、プログラマーに必要なのは、洞察力である。けれども多くの人は知識と洞察力の違いがわからない(p114)。目に見えないものの方が見えるものよりも大きな力と意義を持っていることを教えることが古来の宗教の役割であったが、西洋文明が宗教を捨て去ったためにこの教えは忘れられてしまっているた(p112)。ヨーガや念処や絶えざる祈りといった訓練方法が迷信に近い無意味なことに思えてしまうのはそのためなのである(p114)。

ウスペンスキーの画像はこのサイトから
スティス教授の画像はこのサイトから
テーラ師の画像はこのサイトから
フェオファン師の画像はこのサイトより
サヤドー師の画像はこのサイトから
ペンフィールド教授の画像はこのサイトから

【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社

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2016年04月16日

シューマッハーの人生論@〜近代科学と哲学では幸せにはなれない

はじめに

Schumacher.jpg 『スモール・イズ・ビューティフル』で知られるエルンスト・フリードリヒ・シューマッハー(Ernst Friedrich Schumacher, 1911〜1977年)は、『仏教経済学』を提唱したが、シューマッハーの理論や実践の背景にある哲学的・宗教的な側面はあまり注目されてこなかった。シューマッハーは「宗教なき近代の人生の実験は失敗である」と警告しているが、その透徹した文明批判の背景には、人間を精神面から見た深い反省がある。

  デカルト以来、過去300年にわたる西洋文明は、人間の最も大切な精神的営為を片隅においやってしまったとし、迷える人々に対して人生の案内書を提示することが哲学の義務だと主張する(p6)

 シューマッハーの死後2週間目の1977年に発刊された本書は、1980年に小島慶三・斉藤士郎氏のコンビで翻訳出版された。いまから36年前に出版されたこの本を私は1988年の7月に購入し、一度読んだ。けれども、ほとんどその内容を咀嚼できなかった。「スモール」のような他のシューマッハーの著作が知的に頭で理解できるのに対して、本書はまさに「叡智」について書かれた著作であり、心が充実しなければ理解できない内容となっていたからである。

 けれども、いま、改めて本書を読み直し、その要旨をまとめておく必要性を感じた。例えば、驚くなかれ。本書の最後で、シューマッハーは、解決されていないのは「欲望」という「心の問題」だけであって「経済」の問題はすでに解決されていると述べている。それでは、心の問題と社会問題(他者との問題)を解決するためにはどうすればよいのだろうか。

 シューマッハーは内なる感覚に敏感になるほど他者の心もわかるようになると提案する。これは最新の神経生理学の見解と合致する。そして、内なる感覚に敏感になるためにシューマッハーが推奨するのがテーラーワーダ仏教による四念処(サティパッターナー)なのである。いまから39年も前にマインドフルネスに着目していたとは。シューマッハー恐るべし。ということで、はじめよう。

近代哲学はどのように人生を生きるべきかに答えてくれない

13viktor.jpg 人生とはなにか。私はこの人生で何をすべきなのだろうか。そのことを知るにはマップがいる(p21,p22)。けれども、西洋哲学はまさにこれが決定的に欠落している(p22)。人間は何のために存在しているのか、何が善で何が悪なのか。人間の絶対的な権利と義務とは何なのかという問いかけが欠落しているため(p84)、「人生をどのように生きるべきなのか」という問いかけに対して「再大多数の最大幸福」という功利主義的な回答しか提示できていない(p28)。そして、どれだけ生活水準が高まろうと、どれだけ寿命を延ばす医療サービスが充実しようとも、ますます健康と幸せを失い、文明は苦悩と絶望と自由喪失へと陥らざるをえない。なぜならば、これは「人間はパンのみによって生きるものにあらず」という問題だからである(p84)。
 ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl, 1905〜1997年)博士は、現在の危機についてこう述べている。
「300年にわたる科学帝国主義の経験が、若者たちに大変なまごつきと困惑をもたらしている。今日の真のニヒリズムとは還元主義である」(p19)

伝統的な叡智は「神を見ること」が究極の幸せだと考えてきた

 けれども、伝統的な叡智は、人生はどう生きるべきかについて納得ができる明確な回答を持っていた(p29)。古代の科学、叡智は、至高の善、すなわち、真・善・美を探究することを目指し、それを知ることが幸せと救いをもたらすものとされてきた(p82)。例えば、聖トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225年頃〜1274年)はこう論じている。「神の摂理によって、かよわき人間は、現在の人生で達成できるものよりも、一層、高次元の善なるものに導かれる」(p29)

 動物と同じように人間には快楽を享受したいという欲望がある。そして、官能的な生活を送ることによって快楽を追求しようとする。そして、節度を失うことによって自制を失っていく(p30)。すなわち、人間が、より低いところに堕ちて、動物と同じような低い能力しか開発できないまま終われば、それは不幸であって絶望に陥る。けれども、より高いものを目指して、最高の能力と最高の知識を得られれば幸せになれる(p29)。感覚的な喜びよりもさらに完璧な喜びとは『神を見る』という知性的な喜びでありそれが幸せなのである(p29,p30)

「低い存在」「高い存在」の次元を考えなければ功利主義以上の幸せ論はでてこない


29kant.jpg すなわち、西洋も非西洋世界と同じく伝統的な叡智を豊かにもってきた。けれども、過去300年、それを故意に無視されてきた(p86)。伝統的な叡智は、世界が「低い存在の次元」と「高い存在の次元」があるとしてきたが、これをルネ・デカルト(René Descartes, 1596〜1650年)は、数学的な量的要素だけを重視して平板化した(p26,p81)。これはあまりにもやりすぎであった。そこで、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724〜1804年)は、これをやり直そうとしたた(p26)。けれども、このカントにしても不十分であった、とフランスの哲学者、エティエンヌ・アンリ・ジルソン(Étienne Henri Gilson,1884〜1978年)は言う。

「カントは数学から哲学へではなく、数学から物理学への方向転換を行なっていたのである。『形而上学の真実の方法とはニュートンが自然科学に導入しその分野において実り多き成果をもたらした方法と基礎においてまったく同一である』とカント自身が結論付けている」

 数学と同じく物理学にも「低い次元」「高い次元」という「質的な概念」を欠いている(p27)。高い存在の次元へとレベルをあがるにつれて、量の重要性が減って質の重要性が高まるが、数学物理モデルでは質的な要素は失われてしまう(p81)。そして、「低い次元」「高い次元」という「質的な概念」なくしては、個人的な功利主義、集団的な功利主義、利己心を超えた人生の指針を考えることは不可能である。現代人が完璧な幸せを得られるとは信じられなくなったのはそのためなのである(p31)

手段はあっても目的を欠落した西洋科学はカタワである

20160417Etienne Gilson.jpg デカルトの数学モデルをして、オランダの数学者、物理学者、天文学者、クリスティアーン・ホイヘンス(Christiaan Huygens, 1629〜1695)は「この世の中にはそれよりも望ましく有用な知識はなにもない」と語ったが、西洋人は質的知識から量的知識へと関心が変化した。この結果、人間の啓蒙と解放を目指す「理解のための科学」、すなわち『叡智』から、力を得るための「操作のための科学」への変化も起きる(p81)。ティエンヌ・アンリ・ジルソンはこう警告する。

「叡智が対象とするものは、理解であって悪用はできない。けれども、科学が対象とするものは物質である。したがって、強欲の手中に陥る危険性が常にある。科学は、至高の善を目指す叡智に従属するのか、それとも、欲望に従属するのかによって二つの名前を与えてよいであろう」(p82)

 これは決定的に重要なポイントである。「操作のための科学」が叡智、すなわち、「理解のための科学」に従属するのであれば、なんら害がなく極めて価値の高いツールとなる。けれども、人々が叡智の追求への関心を示さなくなり、叡智が消え去ると、「操作のための科学」は物質的な力だけを目指すことになる(p82)。そこで、フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561〜1626年)は「知識はそれ自身、力である」と語った(p81)

 従来の理解のための科学は、自然を神の創造物であり、人間の母であると見なしてきた(p82)。そして、伝統的な叡智では、人間は神のイメージによって作られた最高のものであるとしてきたため、高貴なる人間には義務、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)があり、世界を「預かっている」とみてきた(p83)。けれども、操作のための科学では、人間は進化による偶然の産物にすぎないため、客観的に研究される対象物とみなされる(p83)。このため、自然も征服されるべき対象物とみなす(p82)。事実、デカルトは「人間は自然界の主人にして所有者の如き者となる」と述べた(p81)。その結果、西洋文明は手段においては豊かであっても目的においては貧しいという方輪的な発展をしてきた(p87)。これがデカルト以降の西洋思想の歴史なのである(p82)

力としての科学の危険性は信仰が否定されること

 核融合が開発できればエネルギー問題は解決される。石油タンパクが完成すれば食料問題が解決される。新たな薬が開発されればどのような健康の危機も回避できる。こうした科学技術の万能感への信念は薄れつつある。人々は宗教なしに生きるという「現代の実験」が失敗に終わったことを知り始めている。

 人間は巨大なエネルギーで自分を地上に閉じ込めようと試みた。けれども、もはや地球は持続可能性がない状態になっている。人は宗教なしに生きることはどうやら不可能なのである(p198)

 けれども、科学の努力を物質的なものに限定することは、結果として世界を空虚で意味がないものとしてみることにつながる(p70)。知性をより高い次元への理解に導く案内役が信仰であるとは見ないため、信仰そのものが否定され、伝統再生へのすべての道が閉ざされてしまうのである(p84)

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【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社
posted by la semilla de la fortuna at 11:17| Comment(0) | 魂の人生論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする