2016年06月17日

彼岸の生物学@ ダンスと変性意識

環境や他者とつながっていた先住民は見事に死を迎えられた

 フォレスト・カーターの『リトル・トリー』(2001)めるくまーるには、こんなシーンが出ている。

「祖父の顔に笑みが広がった。今生も悪くはなかったよ。次にうまれてくるときは、もっといいじゃろ。また会おうな。そして、祖父は吸い込まれるように急速に遠くにいった」

20160617-Ishi.jpg シオドーラ・クローバーの『イシ−北米最後の野生インディアン』(2003) 岩波現代文庫によれば、北米先住民ヤヒ族の最後の生き残りとされるイシが残した告別の言葉は「あなたはいなさい。ぼくはいく」であった。

 現在では、このような見事な死を迎えることがきわめて難しくなっている。現代人は死に対してきわめて未熟である(10p111)

 ふつう、死後の世界の観念は、誰にとっても避けられない「死」という不条理を回避するために産まれたと考えられている。身体が死んでも「自分」が残って生き続けると考えれば、この不条理を避けられるからだ。けれども、かけがえのない「自分」という発想や、刻々と迫りくる死という不安は、過去・現在・未来という直線的な時間に捉われた近代人特有のものであって、太古の人々はそうした不安はあまり感じていなかった(1p20)

20160617-Peter Berger.jpg 米国の社会学者・神学者、ピーター・ラドウィグ・バーガー(Peter Ludwig Berger, 1929年〜)ボストン大学名誉教授は、人類の宗教史をたどっていくと世界のどの地域にも類似した経験や考え方があるとし、これを「神話的基盤」と呼んだ。例えば、リアリティ全体をひとつの溶け合ったものとして認識することは、どの文化圏にも共通して見られる。そこでは、自然や人間、霊界、動物と人間との境界線は流動的であり、相互に行き来できた。人は「自己」を宇宙の一部として経験・理解していた(10p98)

 個人が明確な輪郭を持った「自我」として経験されず、部族や氏族の仲間や人間以外の環境とつながったものとして経験される神話的なリアリティの中では、死は意味をもたない。個人の輪郭がはっきりしていなければ、死の輪郭もはっきりしない(10p99)

 すなわち、自然や他者と切り離されていなかったことによって、太古の人々はまっとうに死ぬことができたのではあるまいか。そこで、まず、狩猟採集民たちの世界観を見ていこう。

太古から人類はシャーマニズムを持っていた

 ネアンデルタール人の埋葬跡やクロマニヨン人の残した壁画等、人類の精神文化史をたどっていくと「シャーマニズム」が見られる。その初源的な姿のヒントとなるのが、先住民社会等に残される「シャーマニズム」の伝統だ(3p11)

 シャーマンは世界各地域に事例が見られ、その歴史は長い(7)。「シャーマン」という言葉は、東シベリアのアルタイ系先住民、ツングース族の「エヴェンキ語」の「シャマン」に由来し、「暗がりの中で見える人」「知識と知恵のある人」(1p161,6)。したがって、シャーマニズムは、アルタイ語系諸民族の宗教的伝統と言える(1p161)

 アリゾナ州立大学の人類学者、マイケル・ウィンケルマン(Michael Winkelman)教授は、ランダムにサンプリングした47民族社会に存在する115もの呪術的・宗教的な職能者を統計的に分析してみた。すると、シャーマン、霊媒、呪医(ヒーラー)、祭司の4種類に分類できることがわかった(1p26)

 20160617-CharlesT.Tart.jpg宗教的な実践がない社会はなく、3分の2の社会に広い意味でのシャーマンが存在し、9割に相当する43社会には、変性意識状態に入る職能者が存在していた(1p27)。変性意識状態とは、米国の心理学者、カリフォルニア大学デービス校のチャールズ・タート(Charles T. Tart,1937年〜)教授の造語で、通常の覚醒時とは異なる意識状態のことを言う(5p57)。したがって、意識状態を変化させ、超自然的存在とコンタクトする文化とは、人間社会にとって普遍的な現象といえる(1p27)

エクスタシーの語源は体外離脱体験

 そもそも、シャーマンとは、自ら変性意識に入って聖なる源にコンタクトする者をいう(3p13)。シャーマンたちの他界への旅を人類学では「脱魂」「呪的飛翔」「エクスタシー」と呼ぶ。宗教学者のミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade,1907〜1986年)は、シャーマニズムを「エクスタシーの技術」と定義する。なお、エクスタシーという言葉は、気持ちいいというニュアンスで使われているが、もともとのギリシア語「エクスタス」は「外側に立つ」という意味で体外離脱体験を示唆している。体外離脱体験は、深遠な法悦感を伴うことからそういう感覚がエクスタシーと称されるようになったのであろう(1p24〜25)

脱魂型シャーマン文化が最も基礎

 シャーマンの変性意識は、「脱魂型」と「憑霊型・憑依型」とにわけられるが(1p27,1p69,3p14)、体外離脱体験によって、自我への執着を瓦解させる狭義の「脱魂型」のシャーマンは、全世界の4分の1の社会にしか存在しない。その大半は、カラハリ砂漠や極東シベリアやアメリカ先住民で、狩猟採集生活をおくってきた人々の社会だ(1p27,3p14)。そして、脱魂型のシャーマニズムには、魂の解放そのものをもたらす深さがあり、旧大陸でキリスト教や仏教が果たしていた世界観を与える役割も果たしている(3p16)。このことから、脱魂型シャーマンが最も普遍的な宗教実践の基本形であることをうかがわせる(1p27)

最古の人類クン・サン族にも微細な身体の概念がある

bushwoman.jpg 最近のDNA 人類学の発達から、人類の誕生や分化、移動についてのかなりわかってきた。アフリカ南西部のカラハリ砂漠で生きるサン人、いわゆるブッシュマンが、最も古い原型を保っている民族とされる(7p23)。とりわけ、ボツワナのドーベ地区に暮らす先住民、クン・サン族は、人類社会の原型のモデルとして注目されている。農耕も牧畜も行わず、半砂漠地帯に適応したサン族の暮らしぶりを見れば、太古の人々の生活の様子をかいま見れると考えられて来たからだ(1p221)

 もちろん、レヴィ・ストロース(Lévi-Strauss, 1908〜2009年)に言わせれば、現在存在している部族社会は、「退行現象」を起こした社会であって、そのまま歴史上の原始社会と同一ではない。現在の部族社会に見られるシャーマニズムを太古のシャーマニズムとすることには無理がある。とはいえ、史実と異なるとしても、それを参考としていくしかない(3p12)

20160206Richard Katz.jpg クン・サン族のシャーマンは、トランス・ダンスという踊りを通じて意識状態を変容させて、彼岸の世界に入っていく(1p25, 4p108)。シャーマンたちは、『ンム』と呼ばれる大変な高温と活力を発生させる能力を持つ。人類学者リチャード・カッツ(Richard Katz)博士に対して「踊って踊って踊る。すると、ンムがお腹の中に入り込んで背中を持ちあげる。すると身体が震え始めて熱くなる。ンムが身体のあらゆる部分、足の先から髪の毛の中にまで入り込む。それは神から与えられる」と語っている(2p118〜119)

『ンム』には病を癒す霊力があると考えられているが、この力は特別な人が手にしているだけではない。このため、男性の大半と女性の3人に1人は霊力を持つことを試みる。けれども、成功するのは男性の半数、女性では10人に一人にすぎない。体内の『ンム』が活性化すると身体中が沸騰したような恐ろしい体験『キア』が起こり、それをコントロールすることが難しいためだ(1p25)

 鍵となるのは、踊りであり、長時間踊っていると、臍の下にある生命エネルギーが熱くなり、脳天を突きぬけて上昇する。中国では、人間を「気」や生命エネルギーの場としての「微細な身体」として捉えてきた。けれども、興味深いことに、これを見れば、「気」やインドのプラーナに相当する概念が、最古の狩猟採集民、クン・サン族にもあり、クンダリニーの覚醒とほぼ同一の体験をダンスを通じてしていることがわかる(9p23)

シャーマニズムでは動物の精霊が重要な地位を占める

 太古のシャーマニズムでは、動物の精霊が聖なる象徴で、熊や鷲は特別重要な存在とされていた(3p22〜25)。旧石器時代の壁画が、現在の狩猟採集部族が、共通して動物霊を聖なる存在として重視していることからも、そのことがわかる(3p26)

 動物霊と交信する宗教は、アニミズムと呼ばれ、原始的とされがちである(3p26)。けれども、アニミズムが多神教に発展し、多神教が一神教へと発展していくとする図式はかなり怪しい。現存する部族社会においても至高神信仰が多くあり、狩猟採集社会の最初の神の観念も至高神であったとの主張もある(3p28)

 とはいえ、部族社会の至高神の観念には、地球生態系への深い感謝や祈りが付随する。動物の精霊が重要な地位を占めていて、上から人格神が支配するといった観念は見出せない(3p30)

外から見る人類学から自ら体験する人類学へ

 1960年代後半から1970年代にかけて、宗教人類学では大変な変化が起きた(8p52)。それまで人類学者たちは、「儀礼」を外から観察して、神話の構造分析や社会・政治組織とつなげて論じて来た。けれども、この時期から人類学者たちはシャーマンや呪術師に直接弟子入りして、自分の体験をベースに内側から儀礼の内容を語るようになったのである。この変化の背景には環境問題や戦争等、近代技術や合理主義がもたらした限界が明らかになったことがある(8p53)

20160617-Michael Harner.jpg『シャーマンへの道』平河出版社の著者、米国の人類学者、マイケル・ハーナー(Michael Harner,1929年〜)博士は、エクアドル・アマゾンのヒバロ社会において聖なる植物アヤワスカを用いたシャーマニズムの伝統と出会って衝撃を受ける。その後、北米で太古の連打という技法を学んで、独自の「ネオ・シャーマニズム」と呼ばれるメソッドを開発し(1p234,3p31)、カリフォルニアにあるエサレン研究所等でワークショップを開催している(3p31)

ネオ・シャーマニズムの変性意識では動物と出会える

 明治大学の蛭川立准教授は、カリフォルニア大学バークリー校において、ハーナー博士等が行ったワークショップに参加したところ、沖縄のガマのビジョンが見え、その中でミュウミュウと鳴く茶色い毛むくじゃらのアザラシのような動物に出会ったという(1p234)

 長澤靖浩氏も、1999年にエサレン研究所で指導を受けた濱田秀樹氏の指導するワークショップに参加した。イメージの中で洞窟をくぐり抜けてバンビと出会い(3p32)、その後、年老いたカモシカと出会う。そして、そのカモシカの胸に飛び込んだ(3p33)。また、竜宮場のような場所に案内され、援助霊であるカモシカから、大地が巨大な亀であることを教えられているという(3p34)

ホモ・サピエンスはなぜ15万年、文化を持たなかったのか

 現在、最古されるホモ・サピエンスは、エチオピアで発見された19万6000年前のものである(4p49)。彼らは、解剖学的には現代人とまったく同じ肉体に進化し、現代人と同じ高度な脳も手にしていた。にもかかわらず、象徴化の能力が示され始めるのは10万年前からであり、かつ、アフリカでしか起きていない(4p42〜4p43,4p49)

 「シンボル化」の最古の事例は約11〜9万年前に南アフリカに出現した骨で作られた道具である(4p45)。また、約7万7000年前には、南アフリカのケープ州のブロンボス洞窟で、幾何学模様が付いた赤色のオーカーや小さな貝殻に穴を開けたビーズのセットが発見されている(4p45〜46)

 オーストラリアにも古くから人類が移住している。その年代は6万年前とされるが、大洋を航海するためには高度な抽象化の能力が必要であろう。そこで、ブロンボスのオーカーの年代に近い7万5000万年前にまで遡るとする意見もある(4p47)

4〜5万年前に意識革命が起きた

 フランスのラスコーやスペインのアルタミラ等の洞窟には世界最古の芸術が残されているが、これまで発見されているヨーロッパ最古の洞窟壁画は3万5000年前のものだ(4p42)。すなわち、4〜3万年以降に突如として洞窟芸術の爆発が怒り、約1万2000年前まで続いている(4p14)

 すなわち、洞窟芸術の爆発が起こり、人類の意識革命が起きたのは4〜5万年前のことでしかない(8p57)。約25万年前に出現したネアンデルタール人は、象徴化の能力を欠いており(4p45)、ホモ・サピエンスも15万年は文化を持たなかった。すなわち、原生人類の脳の肉体構造と精神との間にギャップがあることを意味している(4p50)

変性意識状態から洞窟壁画と宗教は産まれた

 古代サン族が描いた格子、網目、梯子、ジグザグ模様の幾何学パターンは、現在のボランティアの被験者たちが幻覚物質で体験した「内視現象」やヨーロッパの洞窟壁画と似ている。そのことに南アフリカのウィットウォータースランド大学のデヴィッド・ルイス=ウィリアムス(James David Lewis-Williams,1934年〜)教授は気づき(4p105,4p108)、1988年に「現代人類学」で、洞窟壁画と宗教の起源に関して神経心理モデルを提唱している(4p57)

洞窟壁画に登場する動物は変性意識で出会った

 20160203Michael Winkelman.jpgマイケル・ウィンケルマン教授は、ペンシルバニア大学のユージーン・ダギリ(Eugene G. d'Aquili,1940年〜)博士や人類学者ウィリアム・ラフリン(William S. Laughlin, 1919〜2001年)博士が、提唱する「神経現象学」をさらに深め、脳科学とシャーマニズムの研究をつなげようと試みている(8p53)

 後期旧石器時代に起きたこの精神革命は宗教につながるが、洞窟や岩絵に描かれたモチーフは、現代人が変性意識で体験する光のビジョンと共通する。すなわち、その背景にシャーマニズム的な呪術的実践で生れた変性意識状態があったことは間違いない(8p58)

 壁画のほとんどは馬、野牛、マンモス等を描いている。このため、狩猟の対象となる動物を支配するための魔術のためだと考えられた(4p101)。けれども、洞窟に残された骨から祖先が食べていたものを知ることができるが、それは壁画に描かれたものとは一致しない(4p102)

d-ijigen07.jpg また、壁画には人間と動物とをあわせた想像上の怪物が描かれている。ギリシア語の野獣を意味する「テリオン」と人間を意味する「アントロポス」を合わせ、「テリアントロプス」と呼ばれる。例えば、約1万7000年前のフランスのトロワ・フレール洞窟には、フクロウ、狼、鹿、馬、ライオンが混ざった「呪い師」と呼ばれる絵が有名である。イタリア北部の約3万5000年前のフマネ洞窟にも人間と野牛があわさった野牛人間がある。これはフランスの約3万2000年前のショーベ洞窟のものと一致し、スペイン北部の約1万5000年前のエル・カスティーヨ洞窟のものにも酷似している(4p102)

 アフリカのナミビアの洞窟でも約2万7000年前の下半身が人間でライオンの頭部をもつ絵が発見されている。南アフリカには下半身が人間で上半身がカマキリである絵もある(P103)。南アフリカのサン族は、カマキリのイメージを含めて、自分たちの祖先が残した洞窟壁画について説明しているが、彼らによれば、壁画は部族のための情報を得るために霊界を旅したシャーマンによって書かれたという(4p107)。ヨーロッパ南西部にある300程の洞窟壁画はビジョン芸術だったのである(4p57)

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タート教授の画像はこのサイトから
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【引用文献】
(1) 蛭川立『彼岸の時間〜意識の人類学』(2002)春秋社
(2) ジェームズ・レッドフィード『進化する魂』(2004)角川書店
(3) 長澤靖浩『魂の螺旋ダンス』(2004)第三書館
(4) グラハム・ハンコック『異次元の刻印(上)-人類史の裂け目あるいは宗教の起源』(2008)バジリコ
(5) 蛭川立『精神の星座』(2011)サンガ
(6) 2011年10月27日「君もシャーマンになれるシリーズ2―シャーマンとは?予言者とは?」生物史から自然の摂理を読み解く
(7) 2011年11月17日「君もシャーマンになれるシリーズ3〜シャーマンとは?予言者とは?」生物史から自然の摂理を読み解く
(8) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(9) 永沢哲『日本トランスパーソナル心理学/精神医学会第12回学術大会基調講演:惑星的思考へ』トランスパーソナル心理学/ 精神医学vol.12, No.1, Sept, 2012 p.10-p.29
(10) 片山恭一『死を見つめ、生をひらく』(2013)NHK出版新書
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2016年04月19日

シューマッハーの人生論C〜記述する科学と指示する科学

死んだ自然に依存する指示的科学

 科学は大きく2グループにわけられる。物理化学のように、一定の成果を出すためには何をすべきかを答えて指示する「指示的科学」(p152)と、植物学のように現実に見えるものや経験されるものを記述する「記述的科学」である(p151)。指示的科学はプラグマティズムで(p155)、それを発展させる手段は数学である(p153)

20160419Northrop.jpg 科学のほとんどは「指示的科学」に関わることから、この二つの違いに気づいている人は少ない(p152)。例えば、米国の哲学者、フィルマー・ノースロップ(Filmer Stuart Cuckow Northrop, 1893 〜1992年)はこう述べている。

「どのような科学も正常かつ健全に発展しているときには、帰納的な研究方法から出発し、形式論理と数学が最も主要な役割を演じる演繹的に定式化された理論をもって成熟に達する」(p152)

 確かに、ノースロップの指摘は指示的科学については正しい(p152)。そこで、物理学や化学は最も成功した学問であるのに対して、生命科学は社会科学や人文科学と並んで不確実性に満ちた未成熟な学問だと考えられている(p151)。記述的科学をいまだに未熟な段階にある指示的科学だと見なす傾向はデカルト以降、ますます強まっている(p171)。けれども、記述的科学と指示的科学との違いは成熟や発展にあるのではない(p152)

事実を記載する記述的科学

 記述的科学のミッションは、自分が自然界の主人であり所有者であるというデカルト的な態度ではなく、謙虚な態度で自然を記述することにある(p159)

 オッカムの剃刀(Ockham's razor)とは、「ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきでない」とする指針である。14世紀の哲学者・神学者のオッカムが多用したことから有名になったが、オッカムの剃刀のような限定は、真実を貴ぶ記述とは両立しえない(p158)。指示的科学の方法論は、動植物学や地理学のような記述的な科学的の方法論には適応できない(p152,p157)

死んだ対象だけを扱うときに実験は有効となる

 例えば、実験が有効な研究方法でありえるのは、研究対象がそれによって破壊されない場合に限られる。無生物は破壊されないから、実験を行うことが可能である。けれども、生命、意識、自覚は簡単に破壊されてしまう。そこで、実験が不可能となる(p150)

 すなわち、指示的科学は自然の死んだ側面にだけ依拠している。数学には、ある種の荘厳なまでの美や魅惑的な真理の表徴ともとれる魅惑的な優美さがあるが、生や死の猥雑さ、希望や絶望、歓喜や苦悩がない。それは、数学や物理学を始めとする指示的科学は、その研究対象を生命がない面に限定しているからである(p154)

死んだ対象を扱う物理科学の世界観は荒涼としたものとなる

「生となんぞや」という疑問に指針を与えるのが哲学であるとすれば(p154)、そうした哲学はこうした指示的な科学からは生れてこないし、生き方の指針も与えない(p154,p155)。そこから導き出される技術を生活に生かすことはできるが、それが善に帰結するのか悪に帰結するのかは科学が関知するところではない。したがって、指示的科学が倫理的に中立であるというのは正しい(p155)。西洋文明はより低い次元での能力は圧倒的に協力だが、人間の問題を扱うことになれば、無知で無能なのである(p112)

記述的科学には意味を認めるものと偶然しか認めないものがある

 記述的科学も事実が際限なく積み上げられていくと理解・把握できなくなるため、どうしてもこれを分類し、一般化し、事実に筋道をつける必要性が生じてくる。この場合に記述的科学の包括的な理論は2グループにわけられる。

@ 記述された対象の中には理性や意味が働いている

A 記述された対象の中に偶然しか認めない(p160)

 この区別は、進化論を考察する際に重要となってくる(p161)。進化論においてチャールズ・ダーウィンは以下の二つのことをしたといわれる。

@創造についての聖書の伝説を否定した

A進化の原因、自然淘汰は神の導きや創造ではない自動的なものであることを明らかにした

 20160419Karl Stern.jpg動植物を育ててみれば、自然淘汰を含めて「淘汰」が変化を産むことは明らかである。したがって、淘汰が進化という変化の要因であることが証明されたということは科学的に正しい。けれども、進化が神とは無関係の自動作用であることは証明されない(p162)。精神科医カール・スターン(Karl Stern, 1906〜1975年)はこう述べている。

「歴史のある時点で生命の発生にきわめて適切な構造を持つ分子群が生れ、その時点から膨大な時間が流れ、自然淘汰のプロセスが進み、憎しみを抑えて愛が、不正を排して正義が選びとられ、ダンテのような誌を書き、モーツアルトのような音楽を作曲し、ダ・ヴィンチのような絵を描ける人間がついに生れた。このような宇宙生成論は狂気の沙汰である。まったくこのような考え方は精神分裂病患者の考え方とある面で良く似ているのである」(p164)

進化論は人類が偶然の産物だと考える宗教である

 「創造主」「宇宙の設計者」といった直接的に観察できない原因を想定せず、観察できる事実から現象をどこまで説明できるのか試みることは、方法論としてははなはだ実りが多い(p165)。けれども、進化論は、逆に人類を含めたすべての自然が適応と生存のための自然淘汰による功利主義的なメカニズムによる偶然の所産であるとする。これは、19世紀の唯物論的な功利主義の最も極端な産物である。すなわち、進化論は、人類を向上させる高次の意義を排除して、人類を堕落させる科学的根拠がない宗教と言える(p165,166)

 イギリスの作家、マーチン・リングス(Martin Lings, 1909〜2005年)はこう警告している。

「近代世界で宗教的信仰心が失われた原因を探っていくと、進化論がなににもまして直接的な原因であることがわかる。驚くべきことと思われるかもしれない。けれども、論理的に考えれば、進化論と宗教のいずれか、つまり、人間の堕落の教義をとるか、人間向上の教義をとるかしか道はない。そして、何百万人という現代人が「科学的に証明された真理」だとの理由で進化論を選んでいる。その理由は現代人の多くが進化論を学校で教えられたからである」(p167)

人は宗教なしには生きられない存在である

 19世紀の物理学から見出されたのも、生命とは宇宙の偶然であり、意味も目的もないことであった(p154)。すなわち、こうした科学的な世界像は荒廃したものとなり、文明も同様に死滅するであろう(p171)。そして、この偽りの思想を脱却しえなければ、それは文明の崩壊すら来しかねない。なぜならば、いかなる文明といえども、安楽と生存のための功利主義を超えた意味や価値への信仰、すなわち、宗教的信仰心がなければ生き延びられないからである(p166)。宗教なしに生きるという現代の実験は失敗に終わった。人は宗教なしに生きることは不可能なのである(p198)

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スターン博士の画像はこのサイトから
リングスの画像はこのサイトから
【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社


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2016年04月18日

シューマッハーの人生論B〜内なる自分を探ることが大切なわけ

人間関係がまずければ人生は傷つく

 ジョン・ダン(John Danne, 1571〜1631年)は、「誰もがそれ自体で自足した島ではない」と語った(p125)。私たちの人生は、他人との関係性によって育まれもすれば、傷つけられもする。他人との人間関係がうまくゆかなければ、どれだけ健康で、財産があって、権勢に恵まれていたとしても幸せとは言えない。誰もが忘れたがっているとはいえ、そのことをよく承知している(p121)

良好な人間関係は他人をどれだけ理解できるかにかかっている

 それでは、この人間関係は何によって作られるのであろうか。それは、私たちの他人を理解する能力、そして、他人が私たちを理解する能力に依存している。

 ここには次の4ステップがある。

@ 話し手は自分が伝えたいと望んでいる考えの内容を知らなければならない

A 話し手は自分の内なる考えを正確に「表現」しなければならない。これを第一の翻訳と呼ぶ(p121)

B 聞き手は話し手のシンボルを正しく受け取れなければならない(言語が理解できる)

C 聴き手は受け取ったシンボルを統合して、自分の考えにまとめあげなければならない。これを第二の翻訳と呼ぼう(p122)


 問題は、この二つの翻訳で多くの間違いが起きることである(p122)。例えば、知識には四つの分野がある。

第一分野:内なる自己:私は何を感じているのか

第二分野:内なる他者:あなたは何を感じているのか

第三分野:外なる自己:私は他人からどのように見えているのか

第四分野:外なる他者(外なる世界):あなたはどのように見えているのか(p91)

 このうち、我々が直接ふれることができるのは、第一分野と第四分野の知識だけである(p94)。すなわち、他者が何を感じているのかを直接知る手立てはできない(p123,p172)。おまけにたいていの人は、自分の内側のことを他人に知られたくないと思っている(p120)。それでは、人生を共にしている人々の心の中のことをよく理解できるようになるためにはどうしたらよいのだろうか(p123)。 

古代の教えによれば自己を深めるほど他人を理解できる

 注目すべきことに、すべての古来の教えは、この問いかけに対して同じ答えを出している。すなわち、自分について知る度合いが深いほど、他人のこともよく理解できるということだ(p123)

 例えば、肉体の痛みをはっきりと経験したことがない人には、他人の痛みはわからない。要するに「知識の第一分野」自分が何を感じているのかを深めれば深めるほど、第二分野の知識、自分以外の存在、他者の内的な体験に対する洞察力も身に付けられるのである(p124)

 自分自身を理解しない限り隣人も理解しえない。自己認識という基盤を欠いていれば、相手のことも知り得ない。他人の内的生命を尊重するためには、まず自分自身の内面生活を大切にする必要があるのである(p125)。逆に言えば、自己認識をひきあげ、自分をコントロールする努力を怠れば、必要な時に他人を助けるための他人への理解能力も失われてしまうことになる(p127)

内に引きこもる人が社会性がないと非難されるのは伝統的な知が失われた証

 にもかかわらず、こうした基本的な真理を宗教の専門家ですら忘れてしまっている(p125)。世界で危機が広がる中、誰もが「賢者」や私心なき指導者、信頼のおける助言者がいないことが嘆かれる一方で、念処、ヨーガ、イエスの祈り等を通じて内面の旅路を辿って、内的修行を積んでいる人たちは、利己的で社会的な義務に反していると批難されている。そして、人間の行動やその動機を説明するために、安っぽい心理学や経済学が流行しているのは、近代化によって、知識の第一分野、自己認識が無視されたために、知識の第二分野の能力が失われてしまっているという恐るべき証左なのである(p126)。すなわち、他者を知るための唯一の道は自己認識であり、その道を求める人を「社会に背を向けている」との理由で批判することは大きな誤りなのである(p172)。逆に自己認識の追及を怠る人は、他人の言動をすべて誤解し、自分自身がしていることもお幸せなことにほとんど知らないままに終わる傾向があるため、こうした人こそ社会にとって危険なのである(p173)

他人の目に自分がどのように映っているのかがわからなければ人間関係はうまくゆかない

 自分は他人に対してどのような印象を与えているのだろうか。誰もが興味は持つ(p142)。そして、自分が他人に対して与える影響がわからない限り「己の欲せざるところは人に施すなかれ」という戒めも意味をもたないし、他人と調和が取れた関係を構築することも望めない(p140)。健全な自己認識を持つためには、自分の内的世界を知る(第一分野)と同時に、他者が私をどのように見ているのか(第三分野)の知識を持たなければならない(p139)

 けれども、これも大変に難しい(p140,p142)。なぜならば、自分が間違いだらけな存在であることを思い知らされるのは苦痛だし、そうした不快感から身を守るために人間は数多くの防御機能を備えている。とかく、人は自分の欠点には目をつぶり、他人の欠陥をほじくり出すことになりがちだからである。それでは、どうすればこの課題を遂行できるのだろうか(p142)

客観的に評価せずに自分を観察する

 20160418Maurice Nicoll.jpgイギリスの心理学者モーリス・ニコル(Maurice Nicoll,1884〜1953年)博士によれば、それは意識を自覚のレベルまで拡大することである(p143)。すなわち、いま、起こりつつあることに善悪の色づけをすることなく、感情を一切排除して評価せずに客観的に自己観察することである(p140,p144)。他人が私を眺めるように、自分自身を眺めることである(p140)

 我々は社会的な存在である。誰もがただ一人で生きているわけではなく、他者とともに生きている。そして、他者とはあるがままの自分を映し出す一種の鏡である(p145)。自分の矛盾は他人には気づけても自分にはわからない。これは、逆に言えば、第三分野の知識を身に付けられれば、他人の眼で自分自身を眺めることができ、自分の矛盾も発見できることになる(p143)

慈悲と利他主義という特性によって身に付けられる知識

 第二分野の知識も第三分野の知識も、自分の観察によって直接的にふれることはできない。そこで、知識の第二分野は「同情」、第三分野は「利他主義」という最高の徳性によって初めてその分野に分け入ることができる(p146)。第一分野を探求していくと自分を重視する思いが高まるが、第三分野を探求していくと、虚栄心が少なくなり、自分の卑小さに気づく(p145)。自己認識は最も価値あるように思われがちだが、内的経験を深めることだけを追求すれば無益であるどころか有害である。第一分野の知識と第三分野の知識は混同されがちだが、自己認識を第三分野の深い探究によってバランスを保つことで、他人が知るように自分自身を知ることができるのである(p172)

ニコル博士の画像はこのサイトから

【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社
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2016年04月17日

シューマッハーの人生論A〜人間は身体・心・魂から形成されている

世界は鉱物・植物・動物・人間の四分野から構成されている

 それでは、階層的な世界の構造を研究してみよう。つい最近、100年前までは、鉱物、植物、動物、人間の四分野に世界をわけるというのが最も一般的な世界の見方であった(p32)

 生物学者によれば「生命力」のようなものは存在しない。けれども、最も次元が低く死んだ存在、すなわち、無生物の鉱物と生きた植物との間には明確な違いが存在する(p33)。無生物や鉱物はまったく受動的で何も利用することができない。けれども、植物は光に向かって成長したり、水分や養分を求めて土壌中に根を伸ばすように環境に対する適応力がある(p46)。そこで、この生命力を「x」と呼ぼう(p33)

 次に植物と動物との間にもある種の飛躍が見られる(p34)。概して植物が受動的であるのに対して、動物は食料を獲得したり危険を避けたり敏速な動作を行なうことができる(p47)。動物には植物には及びもつかないことを成し遂げる力が備わっている。そこで、植物に付け加わる要素を「y」と呼ぼう。「y」は意識とも呼べよう(p34)。期待と不安、幸せと不幸といった意識によって動物の行動はより自律的となり、資源を利用する力は格段に高まる(p47)

 さらに、人間には動物と異なり、神秘的な力、自分を意識する「自覚(Self-awareness)」がある。これを「z」と呼ぼう(p35)

すると、四次元は次のように整理できる。

 鉱物=「m」

 植物=「m+x」

 動物=「m+x+y」

 人間=「m+x+y+z」(p33〜35)

 「x」に相当するものを「生命体」、「y」に相当するものを「精霊体(アストラル体)」、「z」に相当するものを「自我(精神)」とすれば、よりわかりやすくなる。物質としての身体(m)と生命「x」をセットとして生命としてみれば、人間は身体(m+x)、魂(y)、精神(z)から構成される三重の存在であることになる(p60)

近代科学は鉱物・無生物だけを対象に研究している

 物理学や化学は最低の次元である鉱物だけを取り扱う。したがって、そこには生命、意識、自覚は存在していない(p37)。近代の生命科学が異常なことは、生命そのものの要素「x」をほとんど考慮せず、生命の容器にすぎない物理的・化学的な肉体の研究と分析にだけ関心を払っていることである(p38)。すなわち、近代の唯物的科学主義では、生命や意識、自覚は、分子の複雑な配列による化学現象でしかない(p70)

 また、自然科学とは異なり、人文科学はなんらかの形で要素「y」を扱う(p38)。けれども、近代的な考え方では動物の意識である「y」と人間の自覚である「z」との間に区別があるとはされていない。このため、物理学を研究することで生命を明らかにしようと試みるのと同じように、動物を研究することで人間を明らかにしようと試みられている(p39)

世界はレベルに応じてしか認識できない

 これには理由がある。生きているものと生きていないものとの違い、生命が存在するかどうかを識別することはさして困難ではない。けれども、生命と意識との違いを識別することは難しい。そして、意識と自覚との違いを識別して認識することはさらに難しい。次元が高いものほど包括的で、より高い水準がなければ、高い水準は認識できないからである。そこで、自覚「z」の力が十分に開発されていないと、それを意識「y」の延長として受け取る傾向がある。そこで、人間は知的な動物だとかの解釈が生まれる(p40)

 それでは、人間はどのようにして周囲の世界を知ることができるのだろうか。世界が「大宇宙」であるとすれば、人間は「小宇宙」であり、自分を知ることで世界を理解することもできる。非常に古くからこう考えられてきた(p64)

 ネオプラトニズム(新プラトン主義)の創始者といわれるプロティノス(205年? 〜270年)は「知るためには対象に適した器官を必要とする。知る者の理解は知られる事柄に相応するものでなければならい」と述べた(p73)

 聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354〜430年)は「この人生における我々の一切の仕事は、神を見ることができる心の目の健康を取り戻すことである」と主張した。

 スコットランドの神学者、聖ビクターのリチャード(Richard of Saint Victor, 1173年)は「外部の感覚のみが見えるものを知覚し、心の目のみが見えざるものを見る」と語った(p73)

 ペルシアのスーフィ教の詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミー(Mevlânâ Celaleddin-i Rumi, 1207〜1273年)は「心の目は70の層をなしており、うち二つの層である肉体の視覚は断片的な知識を集めるだけに過ぎない」と述べた(p73)

 17世紀のイギリスの哲学者、ジョン・スミス(John Smith, 1616〜1652年)は「神に関する事柄を我々に正しく知らせ、理解させるものは、我々の内部に生きている神聖さの原理に違いない。我々は資格としての眼を閉じ、哲学者が知的能力と呼ぶ魂の目を開かなければならない。それは誰もが持っているのだが、活用する人は少ない」と語った(p63)

 すなわち、世界が「低次元のもの」や「高次元のもの」で階層構造をなしているように、人間が世界を認知する感覚器官や能力も階層構造をなしている(p68)。外に向かうものは「より低次元のもの」に対応し、感覚は最も外側の器官である(p70)。そこで、五感は、最低の存在の次元、無生物に対応する(p64)。感覚的な情報だけではいかなる洞察も理解も生まれない(p75)。五感はより高い次元の情報をもたらさない(p76)。これは普段は眠っている認識器官を充分に陶冶して完成させれば、これまで手がとどかなかった新しい世界、新しい意味や豊かさを発見できるが、認識器官が充分に使われなかったり、故意に無視されると、世界は、実際に持っている豊かさを減殺したカタチでしか認識できない(p91〜92)。近代科学は客観性や精緻さを求めながら、人間の認識手段を働かせることを限定してきたが、それは、黒白の非立体的なレンズで量的な観察しか行なってこなかった。こうした方法で得られる世界像は、最も下位の無生物の現象に限られてしまうのである(p92)

生命・意識・自覚の各要素は壊れやすく自覚は最も希である

 こうした上向きの分類よりも、実際の経験を元にした下向きの分類の方が理解しやすい。三要素、「x」「y」「z」は弱められて消え去るし、意図的に破壊することもできる(p36)。鉱物はどこにでもあるが、生命は地表上に薄い膜としてしか存在せず、意識は稀で、自覚はさらに稀少である(p68)。すなわち、生命、意識、自覚と上に進むにつれて稀少で脆弱なものとなる(p42)。物質「m」は破壊できないが、生命は稀少で不安定で、「x」を取り去れば地に帰り、生命のない物質「m」、すなわち、遺体だけが残る。同じように、生命はいたるところに存在するが、意識は非常に稀少で、かつ、壊れやすい。さらに、自覚となると最高に不安定である(p42)

鉱物・植物・動物・人間と統合度と自由度が高まっていく

 鉱物、植物、動物、人間と進むにつれて、統合に向けた変化が見られる。無生物は統合されていないため簡単に分割できる。植物も内的統一が非常に弱いため、一部を切り離しても別個の存在としていき続けることができる。けれども、動物は高度に統合された存在であるためバラバラに切り離されては存在できない(p51)。とはいえ、精神面の統合はほとんど見られず、記憶力も弱く知性もぼんやりしている(p52)

 そして、統合は自由を創造することも意味する(p52)。無生物や鉱物はあるがままであり、それ以外のものに発達していくことはできない(p50)。けれども、鉱物、植物、動物、人間と進むにつれて、受動的な行動から能動的行動への変化が見られる。これは、自由とも密接に関係している(p49)。統合が高まるにつれて、存在は外的力によって動かされる単なる「客体」であることから、自ら外側の世界に働きかける「主体」となっていく(p52)

自覚していない人間は機械であって自由ではない

 とはいえ、もっとも自主的で自律的な人間であっても多くの場面で環境条件に左右され、受動性が強く残っている(p47)。人間の行動を綿密に観察すれば(p50)、人生のほとんどが何らかの形の隷属状態下におかれ(p102)、人間特有の「自覚」という力が眠っていて(p50)、動物と同じように外からの影響に対応して機械的なプログラムどおりにふるまっているだけであることがわかる(p50,p102)。人間はプログラムに従って働いているという自覚はない(p112)。けれども、どれだけ自分が洗練され、法をよく守る良き市民だと考えていたとしても、普段はただ決められたプログラムを実行しているだけである(p126)

 古代の教えをコンピュータを用いて現代流の言葉で表現すれば、人間の行動は二つの要素、コンピュータのプログラマーとコンピュータからなっている。プログラマーがいなくてもコンピュータが機械としては円滑に作動するのと同じように意識の要素「y」も、自覚の要素「z」がなくても完全に働くからである(p112)

20160417P.D.Ouspensky.jpg ロシアの神秘思想家、ピョートル・デミアノヴィッチ・ウスペンスキー(Pyotr Demianovich Ouspenskii,1878〜1947年)は著作『人間に可能な進化の心理学』で、人間は三つの異なる状態のいずれかにあると考えた。

@注意力を失っていたり注意が散漫な状態になっていれば、機械的な状態となっている

A注意力が観察する対象に集中してふらつかない状態になっていれば、情緒の状態にある

B注意力が意志によって制御されて対象に没入している状態になっていれば、理知の状態にある(p102)

 人間がその力を奪われ惨めな状態となって、人間的存在以下のものになるのは、その注意力が集中せず、たえずさまよっているからなのである(p103)。つまり、常に自覚していなければ、人間は自分が自由な意志を持ち、自分が意図したことを実行できると思っていても、それは空想にすぎず、実際には(p104)過去から蓄積されてきた習慣の影響によってその行動は規定されている(p50)

 そして、ウスペンスキーは、こう述べている。

「我々が知っている人間は完結した存在ではない。人間は一定のところまでは自然に成長するが、そこで放り出されてしまう。そこからは、人間自身の努力と知恵でさらに成長していくか。生まれたままの状態で生き、そして、死んでしまうか、あるいは、堕落し成長の能力を失ってしまうかのいずれかである。人の進化とは、普段は開発されないままでひとりでには伸びることができない内的な性質を伸ばすことなのである」(p98)。それでは、どうすれば、この人間の能力は開発させることができるのであろうか(p100)

人間は注意して自覚している瞬間だけ自由である

 内に向かうことは「より高次元のもの」に対応し、より自覚的な努力が求められる(p70)。人間に追加された「z」は自覚と深くつながっている。そして、自覚は「注意」をどこに向けるのかと深く関係してくる(p100)。たいがい「注意」は外的な音や色に捉われているか、自分自身の内部にある期待や関心、恐れや悩みのとりこになっている。こうした状態でいるとき、人間は非常に機械に類似している(p100)

 逆に言えば、人間は「自覚」の力を働かせ、「注意」を自分に向けているときに初めて、「生かされている」のではなく自ら「生きている」のであり、自由の次元に達することができると言える(p50,p100)。自覚のある瞬間にだけ、人間には自由が訪れると言える(p104)

 これは古代の様々な教えの中でも最も重要視されてきた問題である。同時に、近代世界でほとんど無視され歪曲されている問題である(p100)。実は、古代の各宗教は、どうすれば、この自覚を継続させ、かつ、制御できるかの様々な方法を発展させてきた(p104)

普段のシンキング・マインドを除外したときに真我は出現する

20160417walter stace.jpg その方法を真剣に考察した近代哲学者はほとんどいない。そのごく稀な例外がプリンストン大学のW.T,スティス(Walter Terence Stace, 1886〜1967年)教授であろう。教授は『神秘主義と哲学』で、世界各国の文化、宗教、地域、時代とまったくかかわりなく内的な体験が共通していることを指摘する(p115)。教授はこう問いかける。

「一切の感覚、次には抽象的な想念、思惟、意思、概念を排除していったら意識には何が残るであろうか。一切が失われただ空、虚のみとなるであろう。ア・プリオリには意識がまったくなくなり、眠りに陥るか無意識状態になるは、と思われよう。ところが、世界中に何千人といる内的神秘家たちが異口同音に語るところによれば、空の境地に達した後に起きるのは無意識状態とはおよそ異なり、まったく反対の純粋意識状態が生まれてくるのである」(p116)

「我々の日常意識はつねに対象やイメージを持っている(p117)。そのすべての心理的な対象が排除され、自己が対象を捉えていないときには、自己は自己自身を意識するようになる。すなわち、自己が示現してくるのである。普段は隠れていた純粋な自己が前面に出てくるのである」(p118)。要素「z」は、意識という要素「y」が舞台の中央から去ったときに初めて姿を現すと言える(p117)

内なる自己を探求する心理学

 心理学はおそらく最も古い学問分野である(p98)。そして、古来の心理学は、「正常」に戻さなければならない病人を対象とするのではなく、普通の人間を対象としてきた。そして、人間を「救い」「悟り」「解脱」という山の頂にたどり着くためのこの世の「巡礼」であると見てきた。キリストは「われは道なり」と語ったが、中国の道教にも「タオ(道)」とい考えがあり、仏教の教えは「中道」と言われてきた。すなわち、多くの宗教の教えの中心には「道」という考え方がある(p99)

 この人生を生きていくために、ブッダの最後の言葉は「怠らず努めよ」であった。そして、チベットの祖師たちはこう教える。十分に幅広い哲学が必要であり、精神を集中させる瞑想が不可欠であり、生活の技術が不可欠である(p23)。

身体を安定させることが心の内側を探す第一歩

 米国の心理学者ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842〜1910年)は、情緒が身体感覚以外の何ものでもないとしてこう述べている。

「私たちは悲しいから泣き、怒るから打ち、恐れるから震えるのではなく、泣くから悲しく、打つから怒り、震えるから恐ろしいのである」(p127)

 身体が制御されずにふらついていると心も落ち着かない。自己認識を得るために、古代のどのメソッドも姿勢や身振りに多くの注意を払っているのはこのためである。一方、内的な落ち着きと静けさが達成されれば「コンピュータ」は姿を消して、プログラマーが真価を発揮し出す。身体を制御することが思椎の働きを制御するための第一歩なのである(p128)

シンキング・マインドを落ち着かせるためのヴィッパサナー

 環境は常に直面する現実だけにとどまらない。自分の心の内側からわきあがってくる想念も統御しなければならない。あらゆる宗教が説く、最も大切な教えによれば、「明視」、観(ビッパサーナ)を手に入れるためには「シンキング・マインド」を落ち着かせなければならない(p108)

20160417Nyanaponika Thera.jpg ドイツ出身でスリランカのテーラワーダ仏教の僧侶となったニヤナポニカ・テーラ(Nyanaponika Thera, 1901〜1994年)は、仏教の核心は「サティ」にあるとしてこう述べている。

 「ブッダが念処経(Satipatthana)の中で説いた正しい精神集中を体系だてて涵養することが最も効果のある方法である(p104)。そして、正しい精神集中を身に付ける要諦は、とらわれない注意力にある。とらわれない注意力とは、内側から起こってくるものを認めた瞬間にはっきりと意識することである。そして、観察される事実に対して、行動や言葉で反応せず、好悪の感情や判断、反省といった心の中での反応も一切加えないことである。この捉われない注意を実践しているときに、何らかの反応が心の中で起こってきたとしても、その反応そのものが注意力の対象として拒否も追求もされず、しばしの間、心にとどめられた後に、捨てられるだけなのである」(p105)

シンキング・マインドを脱落させるための内なる祈り

 西洋科学の方法はそれを学んだ誰もが使えるが、ヨーガの科学的方法を駆使できるのは、規律と系統的な内面作業によって自分を整えた人だけである(p132)。そして、インドの手法がヨーガであるとすれば、キリスト教の手法は「祈り」である(p108)。内なる祈りの要諦は、精神を没入して神の前に立つことだが、ギリシアとロシア正教によって完成される(p109)。キリスト教の伝統において発達したこの方法は仏教とは違う言葉や表現となっているが、帰するところはまったく同じである(p106)。仏教ではヴィッパサナー(止観)、明視を呼ぶものをキリスト教では高い次元の存在との邂逅と呼ぶ(p128)。そして、自己本位の自己中心的な「我」が立ちふさがっている限りは、何ごとも達成されず何ごとも成就しない。そして、我から離れるためには「飾りなき心」で神に注目しなければならない(p106)

 ハーモンズワース『不可知の雲』(1951)現代思想社はこう語る。

 「想念の干渉が敵である(p106)。良い想念か悪しき想念かは問題ではない。なぜならば、シンキング・マインドは意識の存在の次元に属し、自覚を持った存在という一段と高い次元のものではないである。仏教ではその種の想念を「戯論」と呼んでいる。シンキング・マインドから「観想」へのシフトが受容なのである(p107)

20160417theophan recluse.jpg 正教会の主教、聖人、隠遁者フェオファン(Theophan the Recluse, 1815〜1895年)はこう述べる(p110)

「祈りによって精神を集中するには、注意力を心の中に注ぎ込まなければならない。頭の中では絶えず様々な想念がひしめいているので、ひとつのことに集中する暇がない。ところが、注意力が心に降りて来ると、魂と身体の一切の力が心の中の一点に集中してくる(p110)。直ちにある感動が心の中に現れてくる。最初はほんのりとではあるけれども、まもなく暖かい感情となってゆき、注意力はそれにひきつけられて行く。やがては注意力そのものによって心の中に暖かみが生まれてくるようになる(p111)

オカルト体験とスピリチュアルなものとの区別が必要

 最近では、別の意識状態への関心が高まっている。けれども、人類の英知の偉大な伝統、宗教に対する深い畏敬からではなく、「水瓶座のフロンティア」や「意識の進化」のように人生の倦怠感を逃れるための目新しい刺激を求めるものになってしまっている。すなわち、オカルトとスピリチュアルなものとの区別がまったくされていない(p129)

20160417mahasi.jpg 仏教のアナパナ・サティ(念処的瞑想)の優れた教師、マハシ・サヤドー(Mahasi Sayadaw,1904〜1955年)師は、内面に集中する努力を行えば、ほとんど例外なしにありとあらゆるオカルト的な異常体験が起きるが、それを求めてはならないと警告している(p129)

「明るい光が訪れる。ある人にはランプの光に見え、他の人には稲妻の閃光や月や太陽の輝き等に見える。ある人の場合はそれは一瞬のうちに消え去るが、他の人の場合はもっと長時間続き、恍惚状態が訪れる。そうした輝かしい光を伴った恍惚や幸福を感得するや『我こそはまさに現世を超えた成道に到達したに違いない』と信じる。これは、道ではないものを道とあやまり見たものであり、洞察力の堕落なのである」(p130)

 16世紀のスペインのカトリック司祭、十字架のヨハネ(Juan de la Cruz, 1542〜1591年)もこう述べている。

「こうしたことは神の道を求める過程で肉体的感覚として起こるものであるが、それに頼ったり、それを受け入れたりしてはならず、常にその善悪を判断しようとせずにそれから逃れるべきである(p130)

人はプログラマーとプログラムで動いている機械の二要素からなっている

 20160417Wilder Penfield.jpg世界的に著名な神経生理学者、ワイルダー・ペンフィールド(Wilder Penfield, 1891〜1976年)マギル大学教授は、死の直前にその所見を『脳と心の正体』としてまとめた。そして、教授は「心は脳から独立して働きを営むと考えられる。コンピューターのプログラマーが特定の目的のためにどれほどコンピュータに依存していても、それから独立して働くのとおなじである」と述べ、脳の神経作用で心は説明できないと述べている(p113)。ペンフィールド博士の考えは、スティス教授の考えは同じである(p118)

プログラマーとして目覚めるためにはヨーガ・念処・祈りが欠かせない

 目覚めたならばもうその人はプログラムで動かすことはできない。自分自身がプログラムを組むからである(p112)。世界の宗教の教えは、純粋な自己に目覚めることなのである(p118)。プログラマーがコンピュータよりも高い次元であるように、自覚と呼ばれるものも意識よりも高い次元である。そして、プログラマーに必要なのは、洞察力である。けれども多くの人は知識と洞察力の違いがわからない(p114)。目に見えないものの方が見えるものよりも大きな力と意義を持っていることを教えることが古来の宗教の役割であったが、西洋文明が宗教を捨て去ったためにこの教えは忘れられてしまっているた(p112)。ヨーガや念処や絶えざる祈りといった訓練方法が迷信に近い無意味なことに思えてしまうのはそのためなのである(p114)。

ウスペンスキーの画像はこのサイトから
スティス教授の画像はこのサイトから
テーラ師の画像はこのサイトから
フェオファン師の画像はこのサイトより
サヤドー師の画像はこのサイトから
ペンフィールド教授の画像はこのサイトから

【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社

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2016年04月16日

シューマッハーの人生論@〜近代科学と哲学では幸せにはなれない

はじめに

Schumacher.jpg 『スモール・イズ・ビューティフル』で知られるエルンスト・フリードリヒ・シューマッハー(Ernst Friedrich Schumacher, 1911〜1977年)は、『仏教経済学』を提唱したが、シューマッハーの理論や実践の背景にある哲学的・宗教的な側面はあまり注目されてこなかった。シューマッハーは「宗教なき近代の人生の実験は失敗である」と警告しているが、その透徹した文明批判の背景には、人間を精神面から見た深い反省がある。

  デカルト以来、過去300年にわたる西洋文明は、人間の最も大切な精神的営為を片隅においやってしまったとし、迷える人々に対して人生の案内書を提示することが哲学の義務だと主張する(p6)

 シューマッハーの死後2週間目の1977年に発刊された本書は、1980年に小島慶三・斉藤士郎氏のコンビで翻訳出版された。いまから36年前に出版されたこの本を私は1988年の7月に購入し、一度読んだ。けれども、ほとんどその内容を咀嚼できなかった。「スモール」のような他のシューマッハーの著作が知的に頭で理解できるのに対して、本書はまさに「叡智」について書かれた著作であり、心が充実しなければ理解できない内容となっていたからである。

 けれども、いま、改めて本書を読み直し、その要旨をまとめておく必要性を感じた。例えば、驚くなかれ。本書の最後で、シューマッハーは、解決されていないのは「欲望」という「心の問題」だけであって「経済」の問題はすでに解決されていると述べている。それでは、心の問題と社会問題(他者との問題)を解決するためにはどうすればよいのだろうか。

 シューマッハーは内なる感覚に敏感になるほど他者の心もわかるようになると提案する。これは最新の神経生理学の見解と合致する。そして、内なる感覚に敏感になるためにシューマッハーが推奨するのがテーラーワーダ仏教による四念処(サティパッターナー)なのである。いまから39年も前にマインドフルネスに着目していたとは。シューマッハー恐るべし。ということで、はじめよう。

近代哲学はどのように人生を生きるべきかに答えてくれない

13viktor.jpg 人生とはなにか。私はこの人生で何をすべきなのだろうか。そのことを知るにはマップがいる(p21,p22)。けれども、西洋哲学はまさにこれが決定的に欠落している(p22)。人間は何のために存在しているのか、何が善で何が悪なのか。人間の絶対的な権利と義務とは何なのかという問いかけが欠落しているため(p84)、「人生をどのように生きるべきなのか」という問いかけに対して「再大多数の最大幸福」という功利主義的な回答しか提示できていない(p28)。そして、どれだけ生活水準が高まろうと、どれだけ寿命を延ばす医療サービスが充実しようとも、ますます健康と幸せを失い、文明は苦悩と絶望と自由喪失へと陥らざるをえない。なぜならば、これは「人間はパンのみによって生きるものにあらず」という問題だからである(p84)。
 ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl, 1905〜1997年)博士は、現在の危機についてこう述べている。
「300年にわたる科学帝国主義の経験が、若者たちに大変なまごつきと困惑をもたらしている。今日の真のニヒリズムとは還元主義である」(p19)

伝統的な叡智は「神を見ること」が究極の幸せだと考えてきた

 けれども、伝統的な叡智は、人生はどう生きるべきかについて納得ができる明確な回答を持っていた(p29)。古代の科学、叡智は、至高の善、すなわち、真・善・美を探究することを目指し、それを知ることが幸せと救いをもたらすものとされてきた(p82)。例えば、聖トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225年頃〜1274年)はこう論じている。「神の摂理によって、かよわき人間は、現在の人生で達成できるものよりも、一層、高次元の善なるものに導かれる」(p29)

 動物と同じように人間には快楽を享受したいという欲望がある。そして、官能的な生活を送ることによって快楽を追求しようとする。そして、節度を失うことによって自制を失っていく(p30)。すなわち、人間が、より低いところに堕ちて、動物と同じような低い能力しか開発できないまま終われば、それは不幸であって絶望に陥る。けれども、より高いものを目指して、最高の能力と最高の知識を得られれば幸せになれる(p29)。感覚的な喜びよりもさらに完璧な喜びとは『神を見る』という知性的な喜びでありそれが幸せなのである(p29,p30)

「低い存在」「高い存在」の次元を考えなければ功利主義以上の幸せ論はでてこない


29kant.jpg すなわち、西洋も非西洋世界と同じく伝統的な叡智を豊かにもってきた。けれども、過去300年、それを故意に無視されてきた(p86)。伝統的な叡智は、世界が「低い存在の次元」と「高い存在の次元」があるとしてきたが、これをルネ・デカルト(René Descartes, 1596〜1650年)は、数学的な量的要素だけを重視して平板化した(p26,p81)。これはあまりにもやりすぎであった。そこで、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724〜1804年)は、これをやり直そうとしたた(p26)。けれども、このカントにしても不十分であった、とフランスの哲学者、エティエンヌ・アンリ・ジルソン(Étienne Henri Gilson,1884〜1978年)は言う。

「カントは数学から哲学へではなく、数学から物理学への方向転換を行なっていたのである。『形而上学の真実の方法とはニュートンが自然科学に導入しその分野において実り多き成果をもたらした方法と基礎においてまったく同一である』とカント自身が結論付けている」

 数学と同じく物理学にも「低い次元」「高い次元」という「質的な概念」を欠いている(p27)。高い存在の次元へとレベルをあがるにつれて、量の重要性が減って質の重要性が高まるが、数学物理モデルでは質的な要素は失われてしまう(p81)。そして、「低い次元」「高い次元」という「質的な概念」なくしては、個人的な功利主義、集団的な功利主義、利己心を超えた人生の指針を考えることは不可能である。現代人が完璧な幸せを得られるとは信じられなくなったのはそのためなのである(p31)

手段はあっても目的を欠落した西洋科学はカタワである

20160417Etienne Gilson.jpg デカルトの数学モデルをして、オランダの数学者、物理学者、天文学者、クリスティアーン・ホイヘンス(Christiaan Huygens, 1629〜1695)は「この世の中にはそれよりも望ましく有用な知識はなにもない」と語ったが、西洋人は質的知識から量的知識へと関心が変化した。この結果、人間の啓蒙と解放を目指す「理解のための科学」、すなわち『叡智』から、力を得るための「操作のための科学」への変化も起きる(p81)。ティエンヌ・アンリ・ジルソンはこう警告する。

「叡智が対象とするものは、理解であって悪用はできない。けれども、科学が対象とするものは物質である。したがって、強欲の手中に陥る危険性が常にある。科学は、至高の善を目指す叡智に従属するのか、それとも、欲望に従属するのかによって二つの名前を与えてよいであろう」(p82)

 これは決定的に重要なポイントである。「操作のための科学」が叡智、すなわち、「理解のための科学」に従属するのであれば、なんら害がなく極めて価値の高いツールとなる。けれども、人々が叡智の追求への関心を示さなくなり、叡智が消え去ると、「操作のための科学」は物質的な力だけを目指すことになる(p82)。そこで、フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561〜1626年)は「知識はそれ自身、力である」と語った(p81)

 従来の理解のための科学は、自然を神の創造物であり、人間の母であると見なしてきた(p82)。そして、伝統的な叡智では、人間は神のイメージによって作られた最高のものであるとしてきたため、高貴なる人間には義務、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)があり、世界を「預かっている」とみてきた(p83)。けれども、操作のための科学では、人間は進化による偶然の産物にすぎないため、客観的に研究される対象物とみなされる(p83)。このため、自然も征服されるべき対象物とみなす(p82)。事実、デカルトは「人間は自然界の主人にして所有者の如き者となる」と述べた(p81)。その結果、西洋文明は手段においては豊かであっても目的においては貧しいという方輪的な発展をしてきた(p87)。これがデカルト以降の西洋思想の歴史なのである(p82)

力としての科学の危険性は信仰が否定されること

 核融合が開発できればエネルギー問題は解決される。石油タンパクが完成すれば食料問題が解決される。新たな薬が開発されればどのような健康の危機も回避できる。こうした科学技術の万能感への信念は薄れつつある。人々は宗教なしに生きるという「現代の実験」が失敗に終わったことを知り始めている。

 人間は巨大なエネルギーで自分を地上に閉じ込めようと試みた。けれども、もはや地球は持続可能性がない状態になっている。人は宗教なしに生きることはどうやら不可能なのである(p198)

 けれども、科学の努力を物質的なものに限定することは、結果として世界を空虚で意味がないものとしてみることにつながる(p70)。知性をより高い次元への理解に導く案内役が信仰であるとは見ないため、信仰そのものが否定され、伝統再生へのすべての道が閉ざされてしまうのである(p84)

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【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社
posted by la semilla de la fortuna at 11:17| Comment(0) | 魂の人生論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする