2016年04月18日

シューマッハーの人生論B〜内なる自分を探ることが大切なわけ

人間関係がまずければ人生は傷つく

 ジョン・ダン(John Danne, 1571〜1631年)は、「誰もがそれ自体で自足した島ではない」と語った(p125)。私たちの人生は、他人との関係性によって育まれもすれば、傷つけられもする。他人との人間関係がうまくゆかなければ、どれだけ健康で、財産があって、権勢に恵まれていたとしても幸せとは言えない。誰もが忘れたがっているとはいえ、そのことをよく承知している(p121)

良好な人間関係は他人をどれだけ理解できるかにかかっている

 それでは、この人間関係は何によって作られるのであろうか。それは、私たちの他人を理解する能力、そして、他人が私たちを理解する能力に依存している。

 ここには次の4ステップがある。

@ 話し手は自分が伝えたいと望んでいる考えの内容を知らなければならない

A 話し手は自分の内なる考えを正確に「表現」しなければならない。これを第一の翻訳と呼ぶ(p121)

B 聞き手は話し手のシンボルを正しく受け取れなければならない(言語が理解できる)

C 聴き手は受け取ったシンボルを統合して、自分の考えにまとめあげなければならない。これを第二の翻訳と呼ぼう(p122)


 問題は、この二つの翻訳で多くの間違いが起きることである(p122)。例えば、知識には四つの分野がある。

第一分野:内なる自己:私は何を感じているのか

第二分野:内なる他者:あなたは何を感じているのか

第三分野:外なる自己:私は他人からどのように見えているのか

第四分野:外なる他者(外なる世界):あなたはどのように見えているのか(p91)

 このうち、我々が直接ふれることができるのは、第一分野と第四分野の知識だけである(p94)。すなわち、他者が何を感じているのかを直接知る手立てはできない(p123,p172)。おまけにたいていの人は、自分の内側のことを他人に知られたくないと思っている(p120)。それでは、人生を共にしている人々の心の中のことをよく理解できるようになるためにはどうしたらよいのだろうか(p123)。 

古代の教えによれば自己を深めるほど他人を理解できる

 注目すべきことに、すべての古来の教えは、この問いかけに対して同じ答えを出している。すなわち、自分について知る度合いが深いほど、他人のこともよく理解できるということだ(p123)

 例えば、肉体の痛みをはっきりと経験したことがない人には、他人の痛みはわからない。要するに「知識の第一分野」自分が何を感じているのかを深めれば深めるほど、第二分野の知識、自分以外の存在、他者の内的な体験に対する洞察力も身に付けられるのである(p124)

 自分自身を理解しない限り隣人も理解しえない。自己認識という基盤を欠いていれば、相手のことも知り得ない。他人の内的生命を尊重するためには、まず自分自身の内面生活を大切にする必要があるのである(p125)。逆に言えば、自己認識をひきあげ、自分をコントロールする努力を怠れば、必要な時に他人を助けるための他人への理解能力も失われてしまうことになる(p127)

内に引きこもる人が社会性がないと非難されるのは伝統的な知が失われた証

 にもかかわらず、こうした基本的な真理を宗教の専門家ですら忘れてしまっている(p125)。世界で危機が広がる中、誰もが「賢者」や私心なき指導者、信頼のおける助言者がいないことが嘆かれる一方で、念処、ヨーガ、イエスの祈り等を通じて内面の旅路を辿って、内的修行を積んでいる人たちは、利己的で社会的な義務に反していると批難されている。そして、人間の行動やその動機を説明するために、安っぽい心理学や経済学が流行しているのは、近代化によって、知識の第一分野、自己認識が無視されたために、知識の第二分野の能力が失われてしまっているという恐るべき証左なのである(p126)。すなわち、他者を知るための唯一の道は自己認識であり、その道を求める人を「社会に背を向けている」との理由で批判することは大きな誤りなのである(p172)。逆に自己認識の追及を怠る人は、他人の言動をすべて誤解し、自分自身がしていることもお幸せなことにほとんど知らないままに終わる傾向があるため、こうした人こそ社会にとって危険なのである(p173)

他人の目に自分がどのように映っているのかがわからなければ人間関係はうまくゆかない

 自分は他人に対してどのような印象を与えているのだろうか。誰もが興味は持つ(p142)。そして、自分が他人に対して与える影響がわからない限り「己の欲せざるところは人に施すなかれ」という戒めも意味をもたないし、他人と調和が取れた関係を構築することも望めない(p140)。健全な自己認識を持つためには、自分の内的世界を知る(第一分野)と同時に、他者が私をどのように見ているのか(第三分野)の知識を持たなければならない(p139)

 けれども、これも大変に難しい(p140,p142)。なぜならば、自分が間違いだらけな存在であることを思い知らされるのは苦痛だし、そうした不快感から身を守るために人間は数多くの防御機能を備えている。とかく、人は自分の欠点には目をつぶり、他人の欠陥をほじくり出すことになりがちだからである。それでは、どうすればこの課題を遂行できるのだろうか(p142)

客観的に評価せずに自分を観察する

 20160418Maurice Nicoll.jpgイギリスの心理学者モーリス・ニコル(Maurice Nicoll,1884〜1953年)博士によれば、それは意識を自覚のレベルまで拡大することである(p143)。すなわち、いま、起こりつつあることに善悪の色づけをすることなく、感情を一切排除して評価せずに客観的に自己観察することである(p140,p144)。他人が私を眺めるように、自分自身を眺めることである(p140)

 我々は社会的な存在である。誰もがただ一人で生きているわけではなく、他者とともに生きている。そして、他者とはあるがままの自分を映し出す一種の鏡である(p145)。自分の矛盾は他人には気づけても自分にはわからない。これは、逆に言えば、第三分野の知識を身に付けられれば、他人の眼で自分自身を眺めることができ、自分の矛盾も発見できることになる(p143)

慈悲と利他主義という特性によって身に付けられる知識

 第二分野の知識も第三分野の知識も、自分の観察によって直接的にふれることはできない。そこで、知識の第二分野は「同情」、第三分野は「利他主義」という最高の徳性によって初めてその分野に分け入ることができる(p146)。第一分野を探求していくと自分を重視する思いが高まるが、第三分野を探求していくと、虚栄心が少なくなり、自分の卑小さに気づく(p145)。自己認識は最も価値あるように思われがちだが、内的経験を深めることだけを追求すれば無益であるどころか有害である。第一分野の知識と第三分野の知識は混同されがちだが、自己認識を第三分野の深い探究によってバランスを保つことで、他人が知るように自分自身を知ることができるのである(p172)

ニコル博士の画像はこのサイトから

【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社
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2016年04月17日

シューマッハーの人生論A〜人間は身体・心・魂から形成されている

世界は鉱物・植物・動物・人間の四分野から構成されている

 それでは、階層的な世界の構造を研究してみよう。つい最近、100年前までは、鉱物、植物、動物、人間の四分野に世界をわけるというのが最も一般的な世界の見方であった(p32)

 生物学者によれば「生命力」のようなものは存在しない。けれども、最も次元が低く死んだ存在、すなわち、無生物の鉱物と生きた植物との間には明確な違いが存在する(p33)。無生物や鉱物はまったく受動的で何も利用することができない。けれども、植物は光に向かって成長したり、水分や養分を求めて土壌中に根を伸ばすように環境に対する適応力がある(p46)。そこで、この生命力を「x」と呼ぼう(p33)

 次に植物と動物との間にもある種の飛躍が見られる(p34)。概して植物が受動的であるのに対して、動物は食料を獲得したり危険を避けたり敏速な動作を行なうことができる(p47)。動物には植物には及びもつかないことを成し遂げる力が備わっている。そこで、植物に付け加わる要素を「y」と呼ぼう。「y」は意識とも呼べよう(p34)。期待と不安、幸せと不幸といった意識によって動物の行動はより自律的となり、資源を利用する力は格段に高まる(p47)

 さらに、人間には動物と異なり、神秘的な力、自分を意識する「自覚(Self-awareness)」がある。これを「z」と呼ぼう(p35)

すると、四次元は次のように整理できる。

 鉱物=「m」

 植物=「m+x」

 動物=「m+x+y」

 人間=「m+x+y+z」(p33〜35)

 「x」に相当するものを「生命体」、「y」に相当するものを「精霊体(アストラル体)」、「z」に相当するものを「自我(精神)」とすれば、よりわかりやすくなる。物質としての身体(m)と生命「x」をセットとして生命としてみれば、人間は身体(m+x)、魂(y)、精神(z)から構成される三重の存在であることになる(p60)

近代科学は鉱物・無生物だけを対象に研究している

 物理学や化学は最低の次元である鉱物だけを取り扱う。したがって、そこには生命、意識、自覚は存在していない(p37)。近代の生命科学が異常なことは、生命そのものの要素「x」をほとんど考慮せず、生命の容器にすぎない物理的・化学的な肉体の研究と分析にだけ関心を払っていることである(p38)。すなわち、近代の唯物的科学主義では、生命や意識、自覚は、分子の複雑な配列による化学現象でしかない(p70)

 また、自然科学とは異なり、人文科学はなんらかの形で要素「y」を扱う(p38)。けれども、近代的な考え方では動物の意識である「y」と人間の自覚である「z」との間に区別があるとはされていない。このため、物理学を研究することで生命を明らかにしようと試みるのと同じように、動物を研究することで人間を明らかにしようと試みられている(p39)

世界はレベルに応じてしか認識できない

 これには理由がある。生きているものと生きていないものとの違い、生命が存在するかどうかを識別することはさして困難ではない。けれども、生命と意識との違いを識別することは難しい。そして、意識と自覚との違いを識別して認識することはさらに難しい。次元が高いものほど包括的で、より高い水準がなければ、高い水準は認識できないからである。そこで、自覚「z」の力が十分に開発されていないと、それを意識「y」の延長として受け取る傾向がある。そこで、人間は知的な動物だとかの解釈が生まれる(p40)

 それでは、人間はどのようにして周囲の世界を知ることができるのだろうか。世界が「大宇宙」であるとすれば、人間は「小宇宙」であり、自分を知ることで世界を理解することもできる。非常に古くからこう考えられてきた(p64)

 ネオプラトニズム(新プラトン主義)の創始者といわれるプロティノス(205年? 〜270年)は「知るためには対象に適した器官を必要とする。知る者の理解は知られる事柄に相応するものでなければならい」と述べた(p73)

 聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354〜430年)は「この人生における我々の一切の仕事は、神を見ることができる心の目の健康を取り戻すことである」と主張した。

 スコットランドの神学者、聖ビクターのリチャード(Richard of Saint Victor, 1173年)は「外部の感覚のみが見えるものを知覚し、心の目のみが見えざるものを見る」と語った(p73)

 ペルシアのスーフィ教の詩人ジャラール・ウッディーン・ルーミー(Mevlânâ Celaleddin-i Rumi, 1207〜1273年)は「心の目は70の層をなしており、うち二つの層である肉体の視覚は断片的な知識を集めるだけに過ぎない」と述べた(p73)

 17世紀のイギリスの哲学者、ジョン・スミス(John Smith, 1616〜1652年)は「神に関する事柄を我々に正しく知らせ、理解させるものは、我々の内部に生きている神聖さの原理に違いない。我々は資格としての眼を閉じ、哲学者が知的能力と呼ぶ魂の目を開かなければならない。それは誰もが持っているのだが、活用する人は少ない」と語った(p63)

 すなわち、世界が「低次元のもの」や「高次元のもの」で階層構造をなしているように、人間が世界を認知する感覚器官や能力も階層構造をなしている(p68)。外に向かうものは「より低次元のもの」に対応し、感覚は最も外側の器官である(p70)。そこで、五感は、最低の存在の次元、無生物に対応する(p64)。感覚的な情報だけではいかなる洞察も理解も生まれない(p75)。五感はより高い次元の情報をもたらさない(p76)。これは普段は眠っている認識器官を充分に陶冶して完成させれば、これまで手がとどかなかった新しい世界、新しい意味や豊かさを発見できるが、認識器官が充分に使われなかったり、故意に無視されると、世界は、実際に持っている豊かさを減殺したカタチでしか認識できない(p91〜92)。近代科学は客観性や精緻さを求めながら、人間の認識手段を働かせることを限定してきたが、それは、黒白の非立体的なレンズで量的な観察しか行なってこなかった。こうした方法で得られる世界像は、最も下位の無生物の現象に限られてしまうのである(p92)

生命・意識・自覚の各要素は壊れやすく自覚は最も希である

 こうした上向きの分類よりも、実際の経験を元にした下向きの分類の方が理解しやすい。三要素、「x」「y」「z」は弱められて消え去るし、意図的に破壊することもできる(p36)。鉱物はどこにでもあるが、生命は地表上に薄い膜としてしか存在せず、意識は稀で、自覚はさらに稀少である(p68)。すなわち、生命、意識、自覚と上に進むにつれて稀少で脆弱なものとなる(p42)。物質「m」は破壊できないが、生命は稀少で不安定で、「x」を取り去れば地に帰り、生命のない物質「m」、すなわち、遺体だけが残る。同じように、生命はいたるところに存在するが、意識は非常に稀少で、かつ、壊れやすい。さらに、自覚となると最高に不安定である(p42)

鉱物・植物・動物・人間と統合度と自由度が高まっていく

 鉱物、植物、動物、人間と進むにつれて、統合に向けた変化が見られる。無生物は統合されていないため簡単に分割できる。植物も内的統一が非常に弱いため、一部を切り離しても別個の存在としていき続けることができる。けれども、動物は高度に統合された存在であるためバラバラに切り離されては存在できない(p51)。とはいえ、精神面の統合はほとんど見られず、記憶力も弱く知性もぼんやりしている(p52)

 そして、統合は自由を創造することも意味する(p52)。無生物や鉱物はあるがままであり、それ以外のものに発達していくことはできない(p50)。けれども、鉱物、植物、動物、人間と進むにつれて、受動的な行動から能動的行動への変化が見られる。これは、自由とも密接に関係している(p49)。統合が高まるにつれて、存在は外的力によって動かされる単なる「客体」であることから、自ら外側の世界に働きかける「主体」となっていく(p52)

自覚していない人間は機械であって自由ではない

 とはいえ、もっとも自主的で自律的な人間であっても多くの場面で環境条件に左右され、受動性が強く残っている(p47)。人間の行動を綿密に観察すれば(p50)、人生のほとんどが何らかの形の隷属状態下におかれ(p102)、人間特有の「自覚」という力が眠っていて(p50)、動物と同じように外からの影響に対応して機械的なプログラムどおりにふるまっているだけであることがわかる(p50,p102)。人間はプログラムに従って働いているという自覚はない(p112)。けれども、どれだけ自分が洗練され、法をよく守る良き市民だと考えていたとしても、普段はただ決められたプログラムを実行しているだけである(p126)

 古代の教えをコンピュータを用いて現代流の言葉で表現すれば、人間の行動は二つの要素、コンピュータのプログラマーとコンピュータからなっている。プログラマーがいなくてもコンピュータが機械としては円滑に作動するのと同じように意識の要素「y」も、自覚の要素「z」がなくても完全に働くからである(p112)

20160417P.D.Ouspensky.jpg ロシアの神秘思想家、ピョートル・デミアノヴィッチ・ウスペンスキー(Pyotr Demianovich Ouspenskii,1878〜1947年)は著作『人間に可能な進化の心理学』で、人間は三つの異なる状態のいずれかにあると考えた。

@注意力を失っていたり注意が散漫な状態になっていれば、機械的な状態となっている

A注意力が観察する対象に集中してふらつかない状態になっていれば、情緒の状態にある

B注意力が意志によって制御されて対象に没入している状態になっていれば、理知の状態にある(p102)

 人間がその力を奪われ惨めな状態となって、人間的存在以下のものになるのは、その注意力が集中せず、たえずさまよっているからなのである(p103)。つまり、常に自覚していなければ、人間は自分が自由な意志を持ち、自分が意図したことを実行できると思っていても、それは空想にすぎず、実際には(p104)過去から蓄積されてきた習慣の影響によってその行動は規定されている(p50)

 そして、ウスペンスキーは、こう述べている。

「我々が知っている人間は完結した存在ではない。人間は一定のところまでは自然に成長するが、そこで放り出されてしまう。そこからは、人間自身の努力と知恵でさらに成長していくか。生まれたままの状態で生き、そして、死んでしまうか、あるいは、堕落し成長の能力を失ってしまうかのいずれかである。人の進化とは、普段は開発されないままでひとりでには伸びることができない内的な性質を伸ばすことなのである」(p98)。それでは、どうすれば、この人間の能力は開発させることができるのであろうか(p100)

人間は注意して自覚している瞬間だけ自由である

 内に向かうことは「より高次元のもの」に対応し、より自覚的な努力が求められる(p70)。人間に追加された「z」は自覚と深くつながっている。そして、自覚は「注意」をどこに向けるのかと深く関係してくる(p100)。たいがい「注意」は外的な音や色に捉われているか、自分自身の内部にある期待や関心、恐れや悩みのとりこになっている。こうした状態でいるとき、人間は非常に機械に類似している(p100)

 逆に言えば、人間は「自覚」の力を働かせ、「注意」を自分に向けているときに初めて、「生かされている」のではなく自ら「生きている」のであり、自由の次元に達することができると言える(p50,p100)。自覚のある瞬間にだけ、人間には自由が訪れると言える(p104)

 これは古代の様々な教えの中でも最も重要視されてきた問題である。同時に、近代世界でほとんど無視され歪曲されている問題である(p100)。実は、古代の各宗教は、どうすれば、この自覚を継続させ、かつ、制御できるかの様々な方法を発展させてきた(p104)

普段のシンキング・マインドを除外したときに真我は出現する

20160417walter stace.jpg その方法を真剣に考察した近代哲学者はほとんどいない。そのごく稀な例外がプリンストン大学のW.T,スティス(Walter Terence Stace, 1886〜1967年)教授であろう。教授は『神秘主義と哲学』で、世界各国の文化、宗教、地域、時代とまったくかかわりなく内的な体験が共通していることを指摘する(p115)。教授はこう問いかける。

「一切の感覚、次には抽象的な想念、思惟、意思、概念を排除していったら意識には何が残るであろうか。一切が失われただ空、虚のみとなるであろう。ア・プリオリには意識がまったくなくなり、眠りに陥るか無意識状態になるは、と思われよう。ところが、世界中に何千人といる内的神秘家たちが異口同音に語るところによれば、空の境地に達した後に起きるのは無意識状態とはおよそ異なり、まったく反対の純粋意識状態が生まれてくるのである」(p116)

「我々の日常意識はつねに対象やイメージを持っている(p117)。そのすべての心理的な対象が排除され、自己が対象を捉えていないときには、自己は自己自身を意識するようになる。すなわち、自己が示現してくるのである。普段は隠れていた純粋な自己が前面に出てくるのである」(p118)。要素「z」は、意識という要素「y」が舞台の中央から去ったときに初めて姿を現すと言える(p117)

内なる自己を探求する心理学

 心理学はおそらく最も古い学問分野である(p98)。そして、古来の心理学は、「正常」に戻さなければならない病人を対象とするのではなく、普通の人間を対象としてきた。そして、人間を「救い」「悟り」「解脱」という山の頂にたどり着くためのこの世の「巡礼」であると見てきた。キリストは「われは道なり」と語ったが、中国の道教にも「タオ(道)」とい考えがあり、仏教の教えは「中道」と言われてきた。すなわち、多くの宗教の教えの中心には「道」という考え方がある(p99)

 この人生を生きていくために、ブッダの最後の言葉は「怠らず努めよ」であった。そして、チベットの祖師たちはこう教える。十分に幅広い哲学が必要であり、精神を集中させる瞑想が不可欠であり、生活の技術が不可欠である(p23)。

身体を安定させることが心の内側を探す第一歩

 米国の心理学者ウィリアム・ジェームズ(William James, 1842〜1910年)は、情緒が身体感覚以外の何ものでもないとしてこう述べている。

「私たちは悲しいから泣き、怒るから打ち、恐れるから震えるのではなく、泣くから悲しく、打つから怒り、震えるから恐ろしいのである」(p127)

 身体が制御されずにふらついていると心も落ち着かない。自己認識を得るために、古代のどのメソッドも姿勢や身振りに多くの注意を払っているのはこのためである。一方、内的な落ち着きと静けさが達成されれば「コンピュータ」は姿を消して、プログラマーが真価を発揮し出す。身体を制御することが思椎の働きを制御するための第一歩なのである(p128)

シンキング・マインドを落ち着かせるためのヴィッパサナー

 環境は常に直面する現実だけにとどまらない。自分の心の内側からわきあがってくる想念も統御しなければならない。あらゆる宗教が説く、最も大切な教えによれば、「明視」、観(ビッパサーナ)を手に入れるためには「シンキング・マインド」を落ち着かせなければならない(p108)

20160417Nyanaponika Thera.jpg ドイツ出身でスリランカのテーラワーダ仏教の僧侶となったニヤナポニカ・テーラ(Nyanaponika Thera, 1901〜1994年)は、仏教の核心は「サティ」にあるとしてこう述べている。

 「ブッダが念処経(Satipatthana)の中で説いた正しい精神集中を体系だてて涵養することが最も効果のある方法である(p104)。そして、正しい精神集中を身に付ける要諦は、とらわれない注意力にある。とらわれない注意力とは、内側から起こってくるものを認めた瞬間にはっきりと意識することである。そして、観察される事実に対して、行動や言葉で反応せず、好悪の感情や判断、反省といった心の中での反応も一切加えないことである。この捉われない注意を実践しているときに、何らかの反応が心の中で起こってきたとしても、その反応そのものが注意力の対象として拒否も追求もされず、しばしの間、心にとどめられた後に、捨てられるだけなのである」(p105)

シンキング・マインドを脱落させるための内なる祈り

 西洋科学の方法はそれを学んだ誰もが使えるが、ヨーガの科学的方法を駆使できるのは、規律と系統的な内面作業によって自分を整えた人だけである(p132)。そして、インドの手法がヨーガであるとすれば、キリスト教の手法は「祈り」である(p108)。内なる祈りの要諦は、精神を没入して神の前に立つことだが、ギリシアとロシア正教によって完成される(p109)。キリスト教の伝統において発達したこの方法は仏教とは違う言葉や表現となっているが、帰するところはまったく同じである(p106)。仏教ではヴィッパサナー(止観)、明視を呼ぶものをキリスト教では高い次元の存在との邂逅と呼ぶ(p128)。そして、自己本位の自己中心的な「我」が立ちふさがっている限りは、何ごとも達成されず何ごとも成就しない。そして、我から離れるためには「飾りなき心」で神に注目しなければならない(p106)

 ハーモンズワース『不可知の雲』(1951)現代思想社はこう語る。

 「想念の干渉が敵である(p106)。良い想念か悪しき想念かは問題ではない。なぜならば、シンキング・マインドは意識の存在の次元に属し、自覚を持った存在という一段と高い次元のものではないである。仏教ではその種の想念を「戯論」と呼んでいる。シンキング・マインドから「観想」へのシフトが受容なのである(p107)

20160417theophan recluse.jpg 正教会の主教、聖人、隠遁者フェオファン(Theophan the Recluse, 1815〜1895年)はこう述べる(p110)

「祈りによって精神を集中するには、注意力を心の中に注ぎ込まなければならない。頭の中では絶えず様々な想念がひしめいているので、ひとつのことに集中する暇がない。ところが、注意力が心に降りて来ると、魂と身体の一切の力が心の中の一点に集中してくる(p110)。直ちにある感動が心の中に現れてくる。最初はほんのりとではあるけれども、まもなく暖かい感情となってゆき、注意力はそれにひきつけられて行く。やがては注意力そのものによって心の中に暖かみが生まれてくるようになる(p111)

オカルト体験とスピリチュアルなものとの区別が必要

 最近では、別の意識状態への関心が高まっている。けれども、人類の英知の偉大な伝統、宗教に対する深い畏敬からではなく、「水瓶座のフロンティア」や「意識の進化」のように人生の倦怠感を逃れるための目新しい刺激を求めるものになってしまっている。すなわち、オカルトとスピリチュアルなものとの区別がまったくされていない(p129)

20160417mahasi.jpg 仏教のアナパナ・サティ(念処的瞑想)の優れた教師、マハシ・サヤドー(Mahasi Sayadaw,1904〜1955年)師は、内面に集中する努力を行えば、ほとんど例外なしにありとあらゆるオカルト的な異常体験が起きるが、それを求めてはならないと警告している(p129)

「明るい光が訪れる。ある人にはランプの光に見え、他の人には稲妻の閃光や月や太陽の輝き等に見える。ある人の場合はそれは一瞬のうちに消え去るが、他の人の場合はもっと長時間続き、恍惚状態が訪れる。そうした輝かしい光を伴った恍惚や幸福を感得するや『我こそはまさに現世を超えた成道に到達したに違いない』と信じる。これは、道ではないものを道とあやまり見たものであり、洞察力の堕落なのである」(p130)

 16世紀のスペインのカトリック司祭、十字架のヨハネ(Juan de la Cruz, 1542〜1591年)もこう述べている。

「こうしたことは神の道を求める過程で肉体的感覚として起こるものであるが、それに頼ったり、それを受け入れたりしてはならず、常にその善悪を判断しようとせずにそれから逃れるべきである(p130)

人はプログラマーとプログラムで動いている機械の二要素からなっている

 20160417Wilder Penfield.jpg世界的に著名な神経生理学者、ワイルダー・ペンフィールド(Wilder Penfield, 1891〜1976年)マギル大学教授は、死の直前にその所見を『脳と心の正体』としてまとめた。そして、教授は「心は脳から独立して働きを営むと考えられる。コンピューターのプログラマーが特定の目的のためにどれほどコンピュータに依存していても、それから独立して働くのとおなじである」と述べ、脳の神経作用で心は説明できないと述べている(p113)。ペンフィールド博士の考えは、スティス教授の考えは同じである(p118)

プログラマーとして目覚めるためにはヨーガ・念処・祈りが欠かせない

 目覚めたならばもうその人はプログラムで動かすことはできない。自分自身がプログラムを組むからである(p112)。世界の宗教の教えは、純粋な自己に目覚めることなのである(p118)。プログラマーがコンピュータよりも高い次元であるように、自覚と呼ばれるものも意識よりも高い次元である。そして、プログラマーに必要なのは、洞察力である。けれども多くの人は知識と洞察力の違いがわからない(p114)。目に見えないものの方が見えるものよりも大きな力と意義を持っていることを教えることが古来の宗教の役割であったが、西洋文明が宗教を捨て去ったためにこの教えは忘れられてしまっているた(p112)。ヨーガや念処や絶えざる祈りといった訓練方法が迷信に近い無意味なことに思えてしまうのはそのためなのである(p114)。

ウスペンスキーの画像はこのサイトから
スティス教授の画像はこのサイトから
テーラ師の画像はこのサイトから
フェオファン師の画像はこのサイトより
サヤドー師の画像はこのサイトから
ペンフィールド教授の画像はこのサイトから

【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社

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2016年04月16日

シューマッハーの人生論@〜近代科学と哲学では幸せにはなれない

はじめに

Schumacher.jpg 『スモール・イズ・ビューティフル』で知られるエルンスト・フリードリヒ・シューマッハー(Ernst Friedrich Schumacher, 1911〜1977年)は、『仏教経済学』を提唱したが、シューマッハーの理論や実践の背景にある哲学的・宗教的な側面はあまり注目されてこなかった。シューマッハーは「宗教なき近代の人生の実験は失敗である」と警告しているが、その透徹した文明批判の背景には、人間を精神面から見た深い反省がある。

  デカルト以来、過去300年にわたる西洋文明は、人間の最も大切な精神的営為を片隅においやってしまったとし、迷える人々に対して人生の案内書を提示することが哲学の義務だと主張する(p6)

 シューマッハーの死後2週間目の1977年に発刊された本書は、1980年に小島慶三・斉藤士郎氏のコンビで翻訳出版された。いまから36年前に出版されたこの本を私は1988年の7月に購入し、一度読んだ。けれども、ほとんどその内容を咀嚼できなかった。「スモール」のような他のシューマッハーの著作が知的に頭で理解できるのに対して、本書はまさに「叡智」について書かれた著作であり、心が充実しなければ理解できない内容となっていたからである。

 けれども、いま、改めて本書を読み直し、その要旨をまとめておく必要性を感じた。例えば、驚くなかれ。本書の最後で、シューマッハーは、解決されていないのは「欲望」という「心の問題」だけであって「経済」の問題はすでに解決されていると述べている。それでは、心の問題と社会問題(他者との問題)を解決するためにはどうすればよいのだろうか。

 シューマッハーは内なる感覚に敏感になるほど他者の心もわかるようになると提案する。これは最新の神経生理学の見解と合致する。そして、内なる感覚に敏感になるためにシューマッハーが推奨するのがテーラーワーダ仏教による四念処(サティパッターナー)なのである。いまから39年も前にマインドフルネスに着目していたとは。シューマッハー恐るべし。ということで、はじめよう。

近代哲学はどのように人生を生きるべきかに答えてくれない

13viktor.jpg 人生とはなにか。私はこの人生で何をすべきなのだろうか。そのことを知るにはマップがいる(p21,p22)。けれども、西洋哲学はまさにこれが決定的に欠落している(p22)。人間は何のために存在しているのか、何が善で何が悪なのか。人間の絶対的な権利と義務とは何なのかという問いかけが欠落しているため(p84)、「人生をどのように生きるべきなのか」という問いかけに対して「再大多数の最大幸福」という功利主義的な回答しか提示できていない(p28)。そして、どれだけ生活水準が高まろうと、どれだけ寿命を延ばす医療サービスが充実しようとも、ますます健康と幸せを失い、文明は苦悩と絶望と自由喪失へと陥らざるをえない。なぜならば、これは「人間はパンのみによって生きるものにあらず」という問題だからである(p84)。
 ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl, 1905〜1997年)博士は、現在の危機についてこう述べている。
「300年にわたる科学帝国主義の経験が、若者たちに大変なまごつきと困惑をもたらしている。今日の真のニヒリズムとは還元主義である」(p19)

伝統的な叡智は「神を見ること」が究極の幸せだと考えてきた

 けれども、伝統的な叡智は、人生はどう生きるべきかについて納得ができる明確な回答を持っていた(p29)。古代の科学、叡智は、至高の善、すなわち、真・善・美を探究することを目指し、それを知ることが幸せと救いをもたらすものとされてきた(p82)。例えば、聖トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225年頃〜1274年)はこう論じている。「神の摂理によって、かよわき人間は、現在の人生で達成できるものよりも、一層、高次元の善なるものに導かれる」(p29)

 動物と同じように人間には快楽を享受したいという欲望がある。そして、官能的な生活を送ることによって快楽を追求しようとする。そして、節度を失うことによって自制を失っていく(p30)。すなわち、人間が、より低いところに堕ちて、動物と同じような低い能力しか開発できないまま終われば、それは不幸であって絶望に陥る。けれども、より高いものを目指して、最高の能力と最高の知識を得られれば幸せになれる(p29)。感覚的な喜びよりもさらに完璧な喜びとは『神を見る』という知性的な喜びでありそれが幸せなのである(p29,p30)

「低い存在」「高い存在」の次元を考えなければ功利主義以上の幸せ論はでてこない


29kant.jpg すなわち、西洋も非西洋世界と同じく伝統的な叡智を豊かにもってきた。けれども、過去300年、それを故意に無視されてきた(p86)。伝統的な叡智は、世界が「低い存在の次元」と「高い存在の次元」があるとしてきたが、これをルネ・デカルト(René Descartes, 1596〜1650年)は、数学的な量的要素だけを重視して平板化した(p26,p81)。これはあまりにもやりすぎであった。そこで、イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724〜1804年)は、これをやり直そうとしたた(p26)。けれども、このカントにしても不十分であった、とフランスの哲学者、エティエンヌ・アンリ・ジルソン(Étienne Henri Gilson,1884〜1978年)は言う。

「カントは数学から哲学へではなく、数学から物理学への方向転換を行なっていたのである。『形而上学の真実の方法とはニュートンが自然科学に導入しその分野において実り多き成果をもたらした方法と基礎においてまったく同一である』とカント自身が結論付けている」

 数学と同じく物理学にも「低い次元」「高い次元」という「質的な概念」を欠いている(p27)。高い存在の次元へとレベルをあがるにつれて、量の重要性が減って質の重要性が高まるが、数学物理モデルでは質的な要素は失われてしまう(p81)。そして、「低い次元」「高い次元」という「質的な概念」なくしては、個人的な功利主義、集団的な功利主義、利己心を超えた人生の指針を考えることは不可能である。現代人が完璧な幸せを得られるとは信じられなくなったのはそのためなのである(p31)

手段はあっても目的を欠落した西洋科学はカタワである

20160417Etienne Gilson.jpg デカルトの数学モデルをして、オランダの数学者、物理学者、天文学者、クリスティアーン・ホイヘンス(Christiaan Huygens, 1629〜1695)は「この世の中にはそれよりも望ましく有用な知識はなにもない」と語ったが、西洋人は質的知識から量的知識へと関心が変化した。この結果、人間の啓蒙と解放を目指す「理解のための科学」、すなわち『叡智』から、力を得るための「操作のための科学」への変化も起きる(p81)。ティエンヌ・アンリ・ジルソンはこう警告する。

「叡智が対象とするものは、理解であって悪用はできない。けれども、科学が対象とするものは物質である。したがって、強欲の手中に陥る危険性が常にある。科学は、至高の善を目指す叡智に従属するのか、それとも、欲望に従属するのかによって二つの名前を与えてよいであろう」(p82)

 これは決定的に重要なポイントである。「操作のための科学」が叡智、すなわち、「理解のための科学」に従属するのであれば、なんら害がなく極めて価値の高いツールとなる。けれども、人々が叡智の追求への関心を示さなくなり、叡智が消え去ると、「操作のための科学」は物質的な力だけを目指すことになる(p82)。そこで、フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561〜1626年)は「知識はそれ自身、力である」と語った(p81)

 従来の理解のための科学は、自然を神の創造物であり、人間の母であると見なしてきた(p82)。そして、伝統的な叡智では、人間は神のイメージによって作られた最高のものであるとしてきたため、高貴なる人間には義務、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)があり、世界を「預かっている」とみてきた(p83)。けれども、操作のための科学では、人間は進化による偶然の産物にすぎないため、客観的に研究される対象物とみなされる(p83)。このため、自然も征服されるべき対象物とみなす(p82)。事実、デカルトは「人間は自然界の主人にして所有者の如き者となる」と述べた(p81)。その結果、西洋文明は手段においては豊かであっても目的においては貧しいという方輪的な発展をしてきた(p87)。これがデカルト以降の西洋思想の歴史なのである(p82)

力としての科学の危険性は信仰が否定されること

 核融合が開発できればエネルギー問題は解決される。石油タンパクが完成すれば食料問題が解決される。新たな薬が開発されればどのような健康の危機も回避できる。こうした科学技術の万能感への信念は薄れつつある。人々は宗教なしに生きるという「現代の実験」が失敗に終わったことを知り始めている。

 人間は巨大なエネルギーで自分を地上に閉じ込めようと試みた。けれども、もはや地球は持続可能性がない状態になっている。人は宗教なしに生きることはどうやら不可能なのである(p198)

 けれども、科学の努力を物質的なものに限定することは、結果として世界を空虚で意味がないものとしてみることにつながる(p70)。知性をより高い次元への理解に導く案内役が信仰であるとは見ないため、信仰そのものが否定され、伝統再生へのすべての道が閉ざされてしまうのである(p84)

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カントの画像はこのサイトから
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【引用文献】
シューマッハー『混迷の時代を超えて』(1980)佑学社
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2016年04月14日

慈悲の経済学@

20160128tania.jpg利己的な近代経済学から利他的なケアの経済へ

 いま、主流となっている経済モデル、「新古典派」の経済理論は、基本的に二つの想定に基づく。まず、人間は本質的に利己的な存在で、自らの効用を最大化して欲望を満たすために合理的に行動する『ホモ・エコノミクス』だと想定する。次に、アダム・スミスの『見えざる手』に象徴されるように、自由にゆだねればよりよき世界が実現されると考える(5,6)

「けれども、この想定はいずれも明らかに間違っています(5)。それは、人間性のごく一部を記述したものにすぎません。心理学や神経科学分野の研究からは、この想定を越えるものが示されているのです」(6)

 マックス・プランク認知神経科学研究所(Max Planck Institute for Human Cognitive and Brain Sciences)のタニヤ・シンガー(Tania Singer, 1969年〜)教授はそう語る(5,6)

 人間が消費欲や権力欲に動機づけられることは確かだ。けれども、気候変動や格差の広がりといったグローバルな問題に対処するには、古典的な『ホモ・エコノミクス』の概念に基づく現在優位な経済モデルを見直し、ケア経済を構築する必要がある(5,6)。そして、エコノミストたちの議論とは裏腹に(2)、神経科学の研究からは人間が他者をケアすることに対して深く動機づけられることがわかっている(5,6)

ダーウィンは慈悲的種族が最も繁栄すると論じていた

「適者適存(survival of the fittest)」という言葉がある(2)。ダーウィニズムは以下の三つの原理に基づく。

 @ 世代毎に生物が変化することで進化は起こる
 A 遺伝物質は突然変異等によって多様化する
 B 変化した個体は自然選択にさらされ、環境に適応するものが生き延びていく。

 この進化によって最適な適応がもたらされるというダーウィニズムの概念は、ネオリベラリズムのベースにもなっている(7p236)。けれども、「適者適存」という言葉を作ったのは、チャールズ・ダーウィン(Charles Darwin, 1809〜1882年)ではなく、進化論によって階級や人種的な優越性を正当化することを望んでいたハーバート・スペンサー(Herbert Spencer, 1820〜1903年)や社会進化論者たちだった(2)

 意外なことに、ダーウィン本人は、著作『人間の由来:性淘汰(1871年: The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex)』において「それ以外のどの本能や動機よりも同情(sympathy)こそが最も強力な本能で、時には自分の利益よりも強力である」と論じ、自然淘汰によって「最も同情的な種族こそが最も繁栄し最も多くの子孫を育める」と主張していた(1,2)

 ダーウィンには10人の子どもがいたが、病弱だった長女アニーは1851年に病に臥せったまま10歳で病死する(8)。この娘の死が人生における苦や慈悲についての深く洞察させる契機となった(1)。すなわち、ダーウィンの進化論は「最も親切なものが生きのびる(survival of the kindest)」というフレーズで最もよく説明できる(2)。昨今の進化論がすっかり無視しているのはこのポイントなのである(1,2)

慈悲があることが最もモテる条件だった

 進化論的にいえば、私たちは『遺伝子の乗り物』である。親の遺伝子が組合せられることで誕生し、しばらくの時間この地球上に滞在し、新たな『乗り物』、再生産された遺伝子を残して、それから、死んでいく存在である(3p127)。そこで、生物は、遺伝子を次世代に手渡すためにパートナーを選ぶ。進化論の言葉では、これを「連れ合い(mate)」と呼ぶ(1)

 David buss.jpgテキサス大学オースティン校のデイビッド・バス(David Buss,1953年〜)教授は、37カ国からの10,000人の適齢期の男女を対象に、パートナーを選ぶ際に最も重視されるファクターが何であるかという研究を実施した。その結果、女性は男性以上に相手の所得に関心があり、男性は女性以上に見かけに興味があることがわかった。けれども、この研究からは、同時に誰もさほど論じてはいないが、調査対象国すべてで唯一共通していた普遍的な要件も見出されている(1)。それは、男女ともに、連れ合いを選ぶ最も重要な魅力として「親切さ」をあげていたことである(1,2)。このことは、人類が生き残り戦略として親切さを求めており(1)、「慈悲」が適応進化の産物であることに他ならない(2)

慈悲は生得的な本能である

 Jean Decety.jpg人間だけではない。動物もその核心には慈悲心があるとの証拠が見出されている。例えば、社会神経科学を専門とするシカゴ大学のジーン・ディセティ(Jean Decety,1960年〜)教授の研究によれば、ネズミでさえも、苦しむ別のネズミに感情移入して支援するという。

Michael tomasello.jpg また、マックス・プランク研究所のマイケル・トマセロ(Michael Tomasello,1950年〜)進化人類学研究所長は、チンパンジーや社会ルールを学んでいない幼児も自発的に支援行動に携わっていくことを見出している。しかも、それは報酬を期待してではなく、ただ本能的な動機づけからそうしているように思える(2)

「性善説:有意義な人生の科学(Born to Be Good: The Science of a Meaningful Life)」の著者でもある、カリフォルニア大学バークレー校のダッチャー・ケルトナー(Dacher Keltner) 社会・相互作用研究所長は(1)、これを「慈悲的本能(compassionate instinct)」と呼ぶ(2)。慈悲のような反応は、闘争・逃避反応と同じように、本能的な行動として脳内に埋め込まれた要素だと主張する(4p329)。言い換えれば、慈悲は、生得的で自動的な反応なのである(2)

人間の子どもが脆弱になったため慈悲が産まれた

 けれども、人類は互いに戦いあう存在ではなかったのだろうか。なぜ、同情や慈悲が最大の本能だと言えるのであろうか(1)。その答えは、子どもが脆弱であって親に依存する存在であることにある。

「子どもが脆弱であることが、人間関係を変えたのです。生きのびるために慈悲を欠かせないものにしたのです」

 Dacher Keltner.jpgケルトナー所長は、慈悲の進化的なルーツと生物学的な根拠を論じる。博士によれば、チンパンジーの赤ちゃんは自分自身で食べることができるし、自分で起き上がることができる。けれども、人間の赤ちゃんは自分では食べられないし、起きあげることもできない。頭が大きいからである。人はアフリカのサバンナで直立歩行を始め、産道を抜けられないほど頭が大きくなっていく。この大きな頭に適合するため、人間の赤ちゃんは未成熟なまま産まれる。すなわち、人間の赤ちゃんは地球上で最も脆弱な存在である。産まれてからは他者のケアに依存する。このシンプルな事実がすべてを変えた。それが我々の神経系を組み替え、育児(caretaking)のために協力的なネットワークが構築され、それが社会構造を組み替えた。人類はケア(caregiving)的な生物種になったのである。すなわち、人類は互いにケアしあうように誕生している(1)

 すなわち、慈悲なくしては、人類の生き残りや繁栄があり得なかったし、慈悲が人の生き残びるために欠かせない自然な傾向であることは驚くべきことではない(2)。生き残り、つながり、人生において連れ合いを発見するという個としての最大のニーズに寄与するものとして、生物種としての人類がどのような存在であるのかを規定しているのは「慈悲」という特性なのである(1)

シンガー教授の画像はこのサイトから
バス教授の画像はこのサイトから
ディセティ教授の画像はこのサイトから
トマセロ所長の画像はこのサイトから
ケルトナー所長の画像はこのサイトから

【引用文献】
(3) Paul Gilbert, “Chapter 7 The Flow of Life An Evolutionary Model of Compassion” , Compassion, Bridging Practice and Science, Max Planck Society, 2013.
(4) Jocelyn Sze, Margaret Kemeny, “Chapter 18 The Art of Emotional Balance”,Compassion, Bridging Practice and Science, Max Planck Society, 2013.
(7) 永沢哲『瞑想する脳科学』(2011)講談社選書メチエ
(8) ウィキペディア
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2016年03月18日

慈悲の瞑想の神経科学18〜慈悲心は感情がバランスして発動される

Jocelyn Sze.jpgジョスリン・セー(Jocelyn Sze)博士は、スタンフォード大学で心理学で学士を、カリフォルニア大学バークレー校で臨床科学で学位を得ている。バークレーでは、臨床心理学でディーボルド・フェローシップ(Diebold Fellowship)、グレーター・グッド・サイエンス・センター・ホーナデー・フェローシップ(Greater Good Science Center Hornaday Fellowship)、そして、シェルドンJ.コーチン学術論文賞(Sheldon J. Korchin Dissertation Prize)を受賞している。サンフランシスコVAメディカル・センター(San Francisco VA Medical Center)で臨床インターンシップとポスドク・フェローシップを終えている。感情、心理、老化のジャーナルで論文を執筆している。現在は、サンフランシスコで臨床サービスを行なっており、気分、不安、行動の健康、成人やカップルの人間関係の問題でエヴィデンス・ベースの精神療法を専門としている。個人的な実践に加え、博士は、スタンフォード大学、UCSF、SFVAMCで研究やプログラムの開発事業に携わっている。博士の関心は、感情と老化、テクノロジー支援の精神療法(technology-assisted psychotherapy interventions)、感情の調節や幸せに対してマインドフルネスが及ぼすメカニズムである(p507)

Margaret Kemeny.jpgマーガレット・ケメニー(Margaret Kemeny)博士は、カリフォルニア大学サンフランシスコ校で健康心理学で学位を得て、臨床心理学でのトレーニングも受けている。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で臨床免疫学でのポスドクのフェローシップを終えている。健康心理学や精神神経免疫学(psychoneuroimmunology)の分野の専門家として、この分野で多くの出版もしている。UCLAの心理学と精神医学の教授で、ノーマン・カズンズ精神神経免疫学センター(Norman Cousins Center in Psychoneuroimmunology)の所長だった。現在は、カリフォルニア大学、サンフランシスコ校の精神医学部の教授で、健康心理学プログラムの所長である。彼女の学際的な研究プログラムは、神経内分泌系、免疫系、健康と病気への心理学的な要因に重点がおかれている。効果を中心に行う。とりわけ、生理学的なシステムの中心や周辺、そして、健康と認識や感情がどれだけ結び付いているのか、そして、心理学的な介入が、感情的、生理学的、そして、健康にどれだけ恩恵をもたらせるのかに関心を抱いている。博士は、心理学的・生物学なプロセスで、慈悲を含めた瞑想と感情の調節カリキュラムの効果を評価する「感情バランス育成プロジェクト(Cultivating Emotional Balance project)」の代表調査者だった。彼女は慈悲の定義の科学的な会議を組織しリードもしている(p512)

慈悲は感情のひとつとして位置づけられがちだ

 感情は動機づけの強力な要因となり、ある行動へと人々を動かす。例えば、恐怖心があれば脅威から逃げ、怒りは、相手を攻撃することで自分を守り、喜びは対象にアプローチさせる。このため、動機づけのベースには感情があり、感情が強ければ強いほどより強く動機づけられると想定する文献も数多い。

「慈悲(compassion)」に関しては、一致した定義がない。このため、情(sympathy)、共感(empathy)、おもいやり(empathic concern)、哀れみ(pity)といった感情がその代用品として用いられることが多い。英語、イタリア語、中国語等、多くの言語の語彙を研究すれば、こうした感情用語のグループに慈悲も入ることがわかる(p327)

慈悲は感情であるよりも動機づけのメカニズムだ

 けれども、慈悲は感情とは違う。慈悲のユニークさは、感情の状態であるというよりも、苦しみの中にある他者を意識し、それを救いたいという動機を持つことにある。

 英語の辞書では、この動機づけの面に重点をおく。アメリカン・ヘリテッジ・ディクショナリー(American Heritage Dictionary)では「他者を救う望みと結び付いた他者の苦しみへの深い自覚」、メリアム・ウェブスター(Merriam-Webster)では、「他者の苦しみを理解し、それに対して何かをしたいと思う人間の質」と定義している。同様に、ダライ・ラマ(Dalai Lama)も慈悲について「自己や他者を救うことに深くコミットメントする苦しみへの敏感さ」と定義している。

 この定義のように、慈悲は、感情というよりも、ある特定の感情状態を強化したり抑制したりし、動機づけをもたらすものとして概念化したほうがよい(p327)

慈悲は対象がなくても発動される

 感情であれば、例えば、別の主体や対象に対して、どれだけ効率的なシグナルを発することができるかという面で評価できる(p327,p328)。一方、慈悲を動機づけとして概念化すると、これは重要な意味を持つ。

(a)行動を開始するための望み

(b)障害に直面してもその目標に向かう粘り強さや続けられる努力

(c)目標を追い求めるために必要とされるエネルギーが集中力

 ふつうは動機づけを与えるためにはこれらが関係している。けれども、これでは慈悲は定義できない(p327)

 他者に対する暖かさ、同情(sympathy)、悲しさといった感情によって規定されるものに慈悲は依存しない。様々な感情の条件下において慈悲は柔軟に生じ、感情が不在であってさえ生じる。すなわち、慈悲は、ターゲットに対する感情的な執着が存在しなくても慈悲は発動できる。したがって、感情ではなく、動機づけとして慈悲を概念化すると、慈悲は、「他者」あるいは、ターゲットが、「無資格(unqualified)」であっても存在でき、「評価」を伴わない望みとしても概念化できる(p328)

恐怖と怒りで他者に向かう感情は慈悲心を妨げる

 感情とは別のものとして慈悲を見る別の鍵は、私たちがどれだけ互いの関係性を理解しているかが関係してくる。すなわち、理論的に言えば、感情と動機づけは密接にリンクする。そして、感情は動機づけの先駆的な駆動力として働く。そして、環境内の対象に注意を向け、特定のやり方で行動するように知らせる働きを持つ(p328)

 慈悲心を持つためには、他者、とりわけ、苦しむ他者に思いをよせなければならない。この慈悲心を達成するうえでは、感情はネックとなる。慈悲の目標とは違う方向へと注意をそらせてしまうからだ(p329)

 慈悲の障害となる一つ目の感情は、闘争・逃避反応である。闘争・逃避反応は、自分自身や拡張された自己、すなわち、自分の子孫の幸せや生き残りにつながるが、他者をケアするという動機づけとは対立する[7章](p329)。

 カリフォルニア大学バークレー校社会・相互作用研究所のダチャー・ケルトナー(Dacher Keltner)所長は、著作「善として誕生:有意義な人生の科学(Born to Be Good: The Science of a Meaningful Life)」で、闘争・逃避反応と同じく、慈悲のような他者指向の反応も、本能的な行動として脳内に埋め込まれた要素だと主張している(p329)。闘争・逃避反応では、脅威に対処するため、交感神経系(SNS= sympathetic nervous system)が活性化し、ノルエピネフリン(norepinephrine)等のホルモンが放出され、血管系や呼吸器系が活性化する(p332)。要するに、闘争・逃避反応と関連する感情、すなわち、恐怖や怒りは、慈悲を妨げる(p329)

安心して他者に対峙するときには副交換神経が活性化する

 慈悲は他者の苦に重きをおく「向社会的反応(prosocial behavior)」である。脅威ベースの感情が血圧をあげるのと対象的に、「他者指向」の「向社会的反応」では、交感神経系ではなく、迷走神経(vagus nerve)や副交感神経系(PNS= parasympathetic nervous system)が活性化する[17章]。とりわけ、副交感神経系の活性化は、外に対する気づき(outward attention)と連動して起きていることがわかっている。例えば、スティーブン・ポージス(Stephen Porges)らは「社会的なかかわり(social engagement)」があるときには、副交感神経系が活性化し、それは、交感神経系を含めてストレス系を静める反応が関連してくると主張する。確かに、馴染んだ顔しかなく、「安全」だと安心できる状況では、闘争・逃避活動は減り、呼吸性洞性不整脈(RSA= respiratory sinus arrhythmia)が高まる。呼吸性洞性不整脈が高いことは、副交感神経系が優位である指標だ。ダチャー・ケルトナー所長は、こうした変化によって、相手にアプローチし、相手を安心させるための身体の準備がなされていると述べる。脅威に基づく感情システムとは異なる精神生物学的な関係性があることも、慈悲が、感情とは異なる性質を持つことを潜在的に支持する(p332)

自分に向かう恥とプライドの感情も慈悲心を妨げる

 慈悲の障害となる二つ目の感情は、恥辱(shame)、当惑、プライドといった自意識的の感情(selfconscious emotions)である。

 恥辱とは、自分は理解力が乏しいと感じるように自分に対するネガティブ評価が中心となる。当惑(embarrassment)は、自分に対するネガティブ評価に加えて、他者を意識した行動に向けられる。例えば、大勢の前でけつまづけば当惑を感じる(p329)。要するに、自分が劣っているのではないかという自己評価や他者が自分をどのように見ているのかという評価。自分の自尊心やステータスを維持することに対する脅威として恥辱や当惑は生じる(p329)

 一方、プライドは自分に対する「ポジティブ」な評価である。とはいえ、こうした感情の注意は「社会的な自己」の維持に向けられている。このため、他者の苦に対して使えるエネルギーや関心を減らす(P332)。要するに、ネガティブな恥辱や当惑であれ、ポジティブなプライドであれ、こうした感情は、いずれも「自己」に注意を向けるため、慈悲の能力を減らしてしまうのである(p329)

 要するに、闘争・逃避感情(怒りや恐怖)と自意識過剰感情(恥辱、当惑、プライド)といったネガティブな感情は、慈悲が発動するうえでのネックとなる(p328,p332,p333)

豊かすぎる感情と乏しすぎる感情も慈悲心を妨げる

 第三に、感情が豊かすぎても乏しすぎても慈悲の駆動は妨げられる(p332)。まず、主観的な感情、とりわけ、ネガティブな感情が強いと慈悲は妨げられる。と同時に、過剰な感情も慈悲を抑制する。これまでの数多くの研究から、侵略をしたり、喜びの対象を探すといった動機づけの場合とは異なり、感情がバランスして、感情・覚醒度が低い(low arousal emotional states)ときに、最も慈悲がうまく作動することが示されている。同時に、感情に対して無神経であっても慈悲は妨げられる(p328)。他者の感情に共鳴する「感情的共感(affective empathy)」と慈悲とにはつながりがあることが研究からはわかっている(p333)鬱病(depression)、統合失調症(schizophrenia)、精神病(psychopathy)を含め、数多くの精神障害において情動鈍麻(blunted affect)が共感や向社会的行動の減少と関係することが知られている(p333)

 また、感情が非常に乏しい別の事例に、他者をケアすることによる感情的なバーンアウトで生じる「同情疲労(compassion fatigue)」として知られる現象がある。「身代わりのトラウマ(vicarious traumatization)」と評されることもあるが、感情麻痺(emotional numbness)や離人感(detachment from others)を伴う。この「同情疲労」は、他で論じられるように(15章)、「共感の悩み疲労(empathic distress fatigue)」と新たに名前すべきであろう。ナンシー・アイゼンバーグ(Nancy Eisenberg)とダニエル・ベートソン(Daniel Batson)は、高い感情的な感染(high emotional contagion)、すなわち、他者の悩みを目にして悩んでしまうことが、他者指向の動機づけを抑制してしまうというパイオニア的な研究を進めている[15章も参照](p333)

 感情的な共感、あるいは、まだ他者と自己とが区別されているとはいえ、適度なレベルでの「感情のわかちあい」があることが、他者の感情を理解して、他者指向の慈悲を発動させるには必要である。向社会的行動と前部島皮質(anterior insula)における脳の感情反応が関係することもこのことを生物学的に支持する(p333)。

感情のバランスが大切〜最先端科学が見出したのはシャカの「中道」だった

 すなわち、感情のタイプや感情ヴェイレンス(valence)を問わず、感情的な強度は、慈悲を妨げる(p332)。要するに、感じすぎる、あるいは、ほとんど何も感じないのではなく(p328)、感情が多すぎるのでも少なすぎるのでもなく、熱すぎるのでも冷たすぎるのでもなく(p327)、適度なバランスが取れていることで慈悲心は発揮される(p327)。要するに、感情が豊かすぎても、乏しすぎても慈悲は働かない(p333)

 こうした社会心理学や社会神経科学(social neuroscience)の研究結果からは、慈悲を含めた「向社会的反応」を育むためには、感情調節と認識のコントロール力が大切であることが見えてくる。これは、仏教の「中道」の概念と一致する(p333)。すなわち、自己中心的な感情を減らし、とりわけ、潜在的に破壊的な感情をいかにうまく管理するかが、慈悲を育む鍵であって、感情のバランスを保つことが決定的なのである(p328,p333)。さらに、感情のバランスが慈悲の瞑想の効果を説明する鍵であることを示唆する証拠もある(p337)

感情のバランスを保つための第一ステップ〜マインドフルネス

 それでは、どうすれば、感情のバランスは保てるのであろうか。そのための最初のステップは、自分への気づき(self-awareness)を促進するテクニック、マインドフルネスである。マインドフルネスは、自分のマインドへの気づきを高めることに重点をおいていることから、この目標を果たすうえで中心的となろう(p333)。破壊的な感情を管理するには、ただそれを避けるのではなく、それに圧倒されたり、流されることなく、それを認め、マインドフルでいることが大切である(p328)。いくつかの研究は、慈悲が、認識のコントロール能力と関係することを示唆している(p332)。そして、マインドフルネス他の瞑想法は、慈悲を促進する認識力を強化できるのである(p337)

感情のバランスを保つための第二ステップ〜慈悲の瞑想

 慈悲を育むための二番目のステップは、他者の苦を減らす動機を直接高める仏教の瞑想技術、「慈悲の瞑想(loving-kindness meditation and compassion meditation)」である。これは、他者の苦を減らすことへの望みを高め、ポジティブで向社会的なマインドの状態を促進する意図をもって教えられる(p336)

 慈悲を育む三番目のステップは、困難な状況下においても、「破壊的」な感情を減らし、現実に向社会的な行動を増やすことである(p336)

 そして、瞑想は、この三つの目標を大いに助ける。すなわち、自分への「気づき」で、苦を減らすことへの動機づけが高まり、より向社会的な方向へと行動を変える(p336)

慈悲の瞑想によって優しい社会は創れる

 闘争・逃避と関連した感情は、生理的に「向社会的反応」を妨げるが、その一方で、精神生物学的な研究からは、他者に向けられた慈悲等の「向社会的な反応」によって、逆に闘争・逃避反応が減らせることもわかってきている。例えば、ナンシー・アイゼンバーグ(Nancy Eisenberg)らは、恐怖心をあおるフィルムに比べ、同情心をそそるフィルムを見た場合では、子どもも成人も心臓の鼓動率が低下することを明らかにしている。そして、「向社会的な行動」に従事した方が、ストレスが減り、より幸せになることがますます明らかになってきている(p332)。

 ある研究では、8週間の瞑想を行なった後、参加者は、プライドやコントロールといった高ポジティブ状態(high arousal positive states)を評価するよりも、静けさや満足等といった感情・各制度が低い状態(valuing low arousal emotional states)を評価するようにシフトした。すなわち、瞑想によって、感情のバランスへの評価は変えられる。

「感情バランス育成プロジェクト(Cultivating Emotional Balance Project)」の結果からは、ストレスによる感情的・生理的な反応が減り、相手の表情から感情を読み取る力が高まり、向社会的反応が強化された(図)(p336)。さらに、重要なことは、自己報告された行動だけでなく、苦を救うことに対して大きな動機をもったことが実際の行動にも影響したように見えることだ(p337)

 瞑想が「向社会的反応」に有益に働くことは多くの文献から示唆されている(p337)。すなわち、社会的な団結を支援する方向へと人の意識を転換できるのである(p332)


18-1.jpg(A) 事後テスト・瞑想時間(分)とスピーチのタスクでの拡張期血圧(DBP=diastolic blood pressure;mmHg)

r(31)=‐51、p < 0.01

(B) 事後テスト・瞑想時間(分)とスピーチのタスクでの収縮期血圧(SBP= systolic blood pressure,mmHg) r(31)=‐43、p < 0.05

(C) 5ヶ月のフォローアップ・瞑想時間(分)と数学のタスクでの呼吸性洞不整脈(RSA= respiratory sinus arrhythmia;ログパワー)

r(34) = -58、p <0.01

(D) 5ヶ月のフォローアップ・瞑想時間(分)と数学のタスクでの拡張期血圧(DBP= diastolic blood pressure;mmHg)

r(30) = -36、p <0.05 (p336)

【引用文献】
Jocelyn Sze, Margaret Kemeny, “Chapter 18 The Art of Emotional Balance”

posted by la semilla de la fortuna at 07:00| Comment(0) | 脳と神経科学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする